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【WESTERN DIGITAL WD400JD 40GB SATA】-【楽オク】
2012.04.12
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自転車操業中!ここで小話を一つ・・・。 玄さん、お前さん車なんて持ってないのに「俺は車をもってる」って言いふらしているそうだが、それはいったいどういう料簡なんだい?」 「へい、旦那。確かに自家用車なんて高級なものは持っていませんが、『火の車』なら持ってますんでね(笑)」 「そういうのは車とは言わないんだがなァ」
2011.02.05
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ここ連日の暑さで救急搬送される人が多数に上っております。特に体温調節機能が弱い乳幼児や高齢者の方は要注意です。 病態の相違により以下の4つに分類されており、それぞれの症状により対処が異なります。・熱失神・熱痙攣・熱疲労・熱射病(日射病とも呼ばれますが、必ずしも直射日光を浴びなくても条件によって発症します。)「熱失神」は直射日光の下での長時間行動や高温多湿の室内でおきるものであり、発汗による脱水と末端血管の拡張によって、体全体の血液の循環量が減少した時に発生します。 症状としては突然意識を消失するもので、体温は正常であることが多く、発汗が見られ、脈拍は徐脈(不整脈の一種であり、拍動が遅く、弱い状態)を呈します。 発見時には直ちに救急搬送を要請し、医師による診療を受ける必要がありますが、発見者による緊急処置として、衣服を緩め、頭部を心臓よりも低くし、冷却療法(頚動脈部、わきの下、股間など動脈が体表面に近い部分を冷水などに浸したタオルを使って冷却する。)を行います。冷却する際に注意すべきこととして冷水を一気にかけるなどをするとショックを起こすことがあるので注意しなければなりません。「熱痙攣」は大量の発汗後に水分だけを補給し、塩分やミネラルなどが不足することでおきます。 症状としては突然不随意性有痛性痙攣(こむら返りなど)と硬直が見られ、体温は正常であることが多く、発汗もあります。塩分など摂取することで治まることが多いので、食塩水を飲ませるなどをします。味噌汁などを与えるのが一般家庭では有効です。重篤な痙攣や硬直などで処置が出来ない場合には緊急搬送が必要になることがありますが、通常はそこまでになることは少ないです。熱痙攣など電解質欠乏症状を予防するためには発汗する際に失われる電解質(ナトリウムやカリウム、カルシウムなど)を水分摂取の際に積極的に摂取することが必要です。そのため、スポーツドリンクなどを利用するのが良いですが、スポーツドリンクには糖類が多いので、水1リットルに食塩を1つかみ入れたものを常飲すると良いでしょう。「熱疲労」は多量の発汗によって水分や塩分の補給が追いつかず、脱水症状になることです。 症状は様々ですが、体温(直腸温)は39℃程度まで上昇しますが、皮膚温(体表面温度)は低く、発汗が見られます。熱失神と同じように発見時には直ちに救急搬送を要請し、医師による診療を受ける必要がありますが、発見者による緊急処置として、衣服を緩め、頭部を心臓よりも低くし、冷却療法(頚動脈部、わきの下、股間など動脈が体表面に近い部分を冷水などに浸したタオルを使って冷却する。)を行います。冷却する際に注意すべきこととして、冷水を一気にかけるなどをするとショックを起こすことがあるので注意しなければなりません。「熱射病」は脳の温熱中枢(体温調節機能をつかさどる部位)を障害されることでおき、体温調節機能を喪失することでおきます。 症状としては高度の意識障害を生じ、体温も40度以上まで上昇し、発汗は見られず、体表面は乾燥しています。発見時には直ちに救急搬送を要請し、緊急入院を要請しなければなりません。発見者による緊急処置として、衣服を緩め、頭部を心臓よりも低くし、冷却療法(頚動脈部、わきの下、股間など動脈が体表面に近い部分を冷水などに浸したタオルを使って冷却する。)を行います。冷却する際に注意すべきこととして冷水を一気にかけるなどをするとショックを起こすことがあるので注意しなければなりません。熱中症になりやすい環境や素因について「環境」・前日より急に温度が上がった日。・温度が低くても湿度が高い場合。・室内作業をしている人が急に外に出て作業した場合。・作業日程の初日から数日間は体が慣れていないために発症しやすい。・統計的に罹患しやすい時間帯は午前中は10時ごろ、午後は13時から14時ごろが多いが、深夜帯に発症することもある。「素因」・5歳以下の幼児。・65歳以上の高齢者。・肥満者・その他の症状(下痢など)で脱水傾向にあるもの。・発熱のあるもの。・睡眠不足のもの。熱中症の予防について・運動や就労前に内臓(胃など)の負担にならない程度に出来るだけ多くの水分を摂取する。・発汗により失った水分と塩分をこまめに補給する。スポーツ飲料なども可。・塩分補給は味噌汁やスープなどの塩気を感じられるものが最適。水分のみを補給することは電解質欠乏症などを引き起こすばかりでなく、場合によっては「水中毒」状態に陥るので注意しなければならない。また、水分補給をしていても倦怠感等を感じる場合には重篤な状態であるため、早めに対処しなければならない。・睡眠を充分にとる。・休憩を十分にとりながら作業する。(体温を充分に下げる。)・体感温度を下げる方法として、日射を防ぐ、通風を確保する。扇風機を利用したり、スポット冷却をするなどがあります。・発見が遅れるので作業は一人で行わない。 最近は自宅で発症し、そのまま死亡するという事故が起きています。その多くは窓などを締め切り、冷房を掛けずにいるなどが共通して見られます。最近の家屋は密閉度が高く、熱気がこもる傾向にありますので、出来るだけ冷房を作動させるなどして就寝する必要性があります。ただ、夜間に冷房を長時間にわたって作動させるのは身体に良く無いとお考えの方は就寝後1時間ほどで停止するようにタイマーセットし、扇風機などで室内の空気を循環させると良いでしょう。
2010.07.27
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「天災は忘れた頃にやってくる」は有名な言葉です。災害に遭遇することは避けられませんが、被害を抑えることは誰にでも出来ることです。災害の被害を抑えることは先ず第一に「備えること」です。災害をなくすことは出来ないのですから、その被害を以下に低くするかを災害のパターンごとに対策を考えましょう。「起きない災害は無い」または「自分だけは災害に遭遇しない」ことはありえないの精神でいかなければなりません。1.地震災害の場合。科学的に見て時日を特定することは出来ない地震災害の場合、ある程度の地震動による被害を防げる強度を持つ家屋を安定した地盤の土地に建設することが必要条件です。そのため、新たに土地を取得する際は国や地方自治体の公表する「防災ハザードマップ」でその土地の地震被害予測をし、より安全であると考える土地を購入します。家屋を建設する際には建築基準法の規定に従い、強度を充分に確保し、かつ、建設途中に第三者機関による審査を受けることが大事です。また、自分の目で建築現場を見ることも必要です。建築が終わり、引き渡された家屋に居住した後も、その強度を減ずるような改造は厳に慎まなければなりません。また、現に居住する家屋あるいは賃貸などで新たに居住しようとする場合も同じように考えて対処します。地震発生時の避難について。災害が発生したときにはどこに避難するかをその予想される時間帯ごとにあらかじめ決めておき、家族との連絡が出来ない場合の連絡方法や落ち合う場所なども決めておくことが必要です。また、居住する場所などによっては家屋等に被害が少ない場合であっても避難を要することがあるので、その場合には「避難をする」決断をしましょう。また、避難をする際には必ず屋内配電盤のブレーカーを落とし、ガスの元栓を締めます。ガスはマイコンメーターが自動的に作動しますが、誤作動や誤操作の可能性があります。2.津波災害の場合。地震災害を伴うものと伴わないものがありますが、対処方針は同じです。まず、自分のいる場所が国や地方自治体の公表している「防災ハザードマップ」で洪水や津波予測といった被害想定を確認します。こちらも土地の購入や家屋の建設あるいは賃貸についても同じです。また、地震災害を伴う場合は警報が発令される前に津波が襲来することがありますので、地震を感じたら海岸線に近い場所にいる場合には出来るだけ高いところに避難するようにしましょう。また、地震災害を伴わない場合などにあっては警報または注意報が発令された場合、海岸線に近い地区の場合には直ちに、予想される潮位が高い場合には海岸や河口の近くではなくても被害が予想されることがありますので、市町村の発する避難の呼びかけ、避難の指示、避難の命令などに従って行動します。勝手に自己判断をすることは厳に慎まなければなりません。なお、津波警報や注意報の発令とともに例示される潮位の変化の数値は主要港湾に所在する検潮所で観測される潮位の変化を表すものであり、実際の津波の高さを表すものではありません。海底の地形や海岸線の形等によっては公表された数値の数倍から数十倍以上になることがあります。過去に津波の被害にあった場所などでは津波の最高地点を表示しているところがありますので、それを参考にする必要性があります。3.洪水などの水害の場合。国や地方自治体の作成している「防災ハザードマップ」を確認しておきましょう。最近の傾向としては一時に降る雨などの量が非常に多くなっているので河川の溢水(あふれること)が多発しています。また、自分のいる場所付近で雨が降っていない場合でも上流域で大量の雨が降っていることがありますので河川の増水には特に注意が必要です。また、地方自治体の発する避難の呼びかけ、避難の指示、避難の命令には必ず従うようにします。こちらも安易な自己判断は厳に慎まなければなりません。災害の種別ごとに対処方針を例示いたしましたが、全てにわたっていえることとして、まとめると1)国や地方自治体の示している「防災ハザードマップ」を確認。2)地方自治体の発する避難命令等には従うこと。3)時宜を失する恐れのある場合には「自主避難」をすること。4)安易な「避難回避」は慎むべきこと。以上の4点が重要です。災害に備えることの重要な点として「最悪の状況を想定」して「最善の行動」を執り「最小の被害」に止めるために行動をすることです。災害の被害を如何に低くするかということの一助となれば幸甚です。
2010.05.30
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5月30日 ひばり&スカイ 指揮チャーリイ脇野さんと保坂俊雄さん(いるかさんの父上)が当時の譜面を使って演奏したり加藤和也氏やゆかりの方がひばりさんの思い出などお話ししたりするライブをします。演奏に合わせて皆さんでひばりさんの曲を大合唱しましょう。場所:〒107-0052 東京都港区赤坂3-16-7 赤坂KTビル5F 赤坂バードランド 7:00 開演予定 9:30終了予定料金:¥8000 アルコール類飲み放題 お食事バイキング形式お申し込みバードランドTEL:03-3583-3456 FAX:03-3584-5888http://www.birdland-tokyo.jp/yoyaku.html ...................................................................... 第9回 お嬢クラブオフ会2010年5月30日 19:00_21:30★特別ゲスト 保坂俊雄すがはらやすのり加藤和也☆指揮:チャーリィ脇野◎ひばり&スカイ トランペット:阿部千之 ピアノ:久保政巳 トランペット:菊池宏 ベース:小山謹治 ドラム:枝川純一 トロンボーン:福士明文 ギター:湯籐温夫 トロンボーン:森安亮 マンドリン:村山雄三アルトサックス:糸永雅友 パーカッション:藤田昌弘 テナーサックス:黒田一義 キーボード:小野孝司スタッフ:西村ひろみ 二見あかね 鹿野敬史 (東京ドームのコンサート舞台監督 金子享司) 司会:引地朋彦第1部19:00 引地自己紹介(お待たせしました。ひばり&スカイです。最初から皆さんで唄って下さい)の様なコメント19:01 メドレーopening10秒 1東京キッド 1コーラス 63秒 2あの丘越えて1コーラス 60秒 3港町13番地 1コーラス 50秒 19:05 ゲスト・バンドメンバー紹介19:10 1悲しき口笛 2コーラス 2分10秒 2大川流し 2コーラス 2分20秒 3人恋酒 2コーラス 2分40秒19:20 MC チャーリィさんお話(パート1)19:30 MC (合唱コーナー) 「みんなで歌いましょう」 4どっこい俺がいる D 5人生吹きだまり2コーラス2分45秒MC お嬢クラブ掲示板で募集したリクエストからメドレーで.....19:37 6会う 1コーラス 1分40秒 7ああ恋人よ 1コーラス 1分 8お祭りマンボフルコーラス3分36秒MC19:43 保坂さんのお話し19:55 9りんご追分けフルコーラス3分45秒 (未定だがもし参加できたら唄はりんご追分けコンクールで優勝した田口貴之さん) 10ひばりの佐渡情話 3分10秒 (湯籐さんのイベントでメンバーとは親しい) 唄は藤このみさんメンバー休憩20:00 MC 談笑第2部20:10 MC 和也さんのお話(パート3)20:20 チャーリーさん保坂さん和也さんおよびメンバー質問コーナー 20:30 MC すがはらさんの紹介 1 津軽のふるさと すがはらさんの挨拶 2 愛燦々20:40 MC (合唱コーナー) 「みんなで歌いましょう」 3 柔 4 お前に惚れた20:50 MC (未定)21:00 質問コーナー 5 演奏 真っ赤な太陽21:15 MC 6 ひとすじの道 7 人生一路21:25 アンコール川の流れのように21:30 MC 閉会の挨拶(チャーリィさん)交流・歓談・写真撮影22:00 全員退出
2010.05.11
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先日、小学校の卒業式に参列しました。地方によって大きく変わるのは判っていましたが、先ず気が付いたのは「国旗」の存在ですか。壇上中央に日章旗、演壇の脇に校旗がありました。屋外の国旗掲揚塔には国旗が掲揚されていませんでしたが(^_^;その次に気が付いたのは来賓を案内しつつ入場する校長先生。モーニングコート姿なんですよね。コレには驚きました。うちの奥方は私が指摘するまで全く気にしていませんでしたが(^_^;私のように南関東や甲信地方出身者からすれば壇上に国旗が存在することさえ驚きなのに校長がモーニングコートを着用していることは驚嘆に値するのです。小学校の入学、そして卒業、中学校への入学、卒業というのは人生における大きなマイルストーン、ピリオドの一つなのですから、校長先生が一般男性の礼服であるモーニングコートを着用するという意義は大いにあるという考えなのだろうと思います。その昔なら紋付羽織袴姿のようなものですよね。その小学校の入学式は見ていませんが、おそらく校長先生はモーニングコートを着用しているのでしょうね。
2010.03.27
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2010.03.24
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二十数年前、加藤登紀子が歌ってヒットさせた百万本のバラを皆さんはよくご存知だと思います。この歌は貧乏な絵描きが片思いをしている女優に百万本の(たくさんの)バラを贈って立去ってゆく、ある意味失恋の歌なのですが、この元になった歌はロシアでも同じような歌詞(正しくはロシア語の歌詞に忠実に訳されたものです)なのです。 しかし、その更に元を辿るとバルト三国の一つであるラトビアのリガで行われる歌謡祭で1981年の優勝曲である「Davaja Marina(マーラは与えた)」という歌でした。 この歌の作詞者はレオンス・ブリアディス(Leons Briedis)、作曲者は独立後にラトビアの文化大臣を務めたライモンズ・パウルス(Raimonds Pauls)で、発表当時の歌い手はアイヤ・クレレ(Aija Kulele)とリーガ・クレイツベルガ(Liga Kreicberga)の二人でした。 歌詞の内容はロシア語版や日本版とは異なり、それはラトビアという小国が辿った苦難の歴史を暗示させるものです。 この歌の中で言及される「マーラ」とはラトビア地方に伝わる聖母のことで、ラトビアという娘を産んだけれど、幸せを与えられなかった。これはお前の定め(運命)なのだというラトビアの人々の諦めにも似た感情が籠められています。 マーラが与えた人生 子供のころ泣かされると 母に寄り添って なぐさめてもらった そんなとき母は笑みを浮かべてささやいた 「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」 時が経って、もう母はいない 今は一人で生きなくてはならない 母を思いだして寂しさに駆られると 同じ事を一人つぶやく私がいる 「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」 そんなことすっかり忘れていたけど ある日突然驚いた 今度は私の娘が 笑みを浮かべて口ずさんでいる 「マーラは娘に生を与えたけど幸せはあげ忘れた」 日本語訳 黒沢歩YouTube:http://www.youtube.com/watch?v=bxcfMuzlCBcmp3:http://byeryoza.com/topic/music/davaja_marina.mp3参照サイト:http://byeryoza.com/topic/log2006/mara.htm日本語歌唱(小田陽子):日本で最初に「百万本のバラ」を歌った歌手であり、このたび「マーラが与えた人生」を日本語で歌唱したものを出しました。 http://www9.big.or.jp/~odayoko/index.html
2009.10.05
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http://www.youtube.com/watch?v=S-zEA-3c_Sc初めて聞いたのに懐かしい!団塊の世代だけでなく、若い人にも聞いてほしい、歌ってほしい名曲です。
2009.05.22
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対処法その他(Youtube 厚生労働省チャンネル)新型インフルエンザの発生に備える新型インフルエンザから身を守る知っておきたい感染予防策
2009.04.30
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メキシコ及びアメリカ合衆国のカリフォルニアからテキサスにかけての地域において豚インフルエンザが人から人への感染が確認されました。現時点ではパンデミック(大流行)とは看做されていませんが、警戒をすべきことには変わりません。 インフルエンザウイルスには遺伝子パターンによって幾つかに分類されており、鳥類インフルエンザ(祖形)から哺乳類インフルエンザへと進化しています。哺乳類型の中でも犬猫や牛馬のインフルエンザはヒト型と違っているために人間への直接的な感染は無いといわれていますが、豚インフルエンザはヒト型に類似しているためにヒトへの感染が懸念されています。 今回の豚インフルエンザの人間への感染確認がなされるまでは鳥インフルエンザの脅威が説かれていました。そのため、今回の豚インフルエンザに対する対処についてはワクチン生産の遅れなどが懸念されます。個人レベルにおける対処法について まず第一に大流行が来る前の場合は、外出時にはマスクを着用し、できればゴーグルで目の粘膜を露出しないようにすること。帰宅したらマスクを内部に持ち込まない(使い捨てにすること)流水で充分に洗顔及び手洗い等をすること。その際には必ず石鹸を使い、充分にあわ立て、手洗いの場合は肘先から指の先までを洗浄しなければなりません。うがいは先ず少量の水を口に含み、口中を洗い流すようにした後にノドの奥まで洗浄すると良いでしょう。 大流行になる前に食料品を始め、生活必需品を少なくとも2週間分程度備蓄しておくようにしましょう。 大流行期が政府から宣言されるようになったら可能な限り外出を控え、感染しないように心がけます。 また、感染が疑われるような事態になったら、勝手に診療機関(病院や診療所等)に受診するのではなく、必ず最寄の保健所に連絡を取り、その症状などの必要事項を伝え、受診すべき診療機関を確認してから速やかに診察を受けるようにしてください。その際には必ずマスクなどの防護措置は行はなければなりません。 大流行が終息したという宣言が発表になっても少なくとも1週間程度は大流行直前の警戒レベルをとっておくと良いでしょう。 うがいや手洗い、洗顔についてはインフルエンザの大流行期などにかかわらず、通常の場合にあっても常に心がけておくのが良いです。
2009.04.27
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最近になって自宅近くで見たもののことを話題にします。 その昔、先の戦争中のこと、戦意高揚のための標語に「贅沢は敵だ!」と言うものがありまして、それを誰かが「贅沢は素敵だ!」と一文字「素」を加えただけで印象が180度異なるものを作り出していました。 翻って、先日、自宅近くに掲出してあった政党のポスターで「政権交代でしかできないことがある」というものが、風で千切れたのか「政権交代できないことがある」となっていました。まぁ、確かになぁ・・・と妙に納得してしまう文章です(笑) さすがに1週間以上もその状態では拙いでしょうから、新しいポスターに貼りかえられていましたが・・・。
2009.02.12
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2009.02.11
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2009.02.11
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この恐慌に当時の資本主義先進国は例外なくダメージを蒙ることとなったが、植民地を持つ国(アメリカ・イギリス・フランス)は様々な政策を採り、そのダメージの軽減に努めたが、持たざる国(日本・ドイツ・イタリア)はそれが出来ず、国によっては全体主義の台頭を招くこととなった。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた国際協調路線は潰え、第二次世界大戦へと大きな一歩を踏み出すこととなった。 この中で経済政策で対応し、かつ、満州を経済圏に持つ日本のGDPは1934年には恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策をも採用したアメリカは1941年まで恐慌前の水準に回復することが出来なかった。 アメリカの大統領フーヴァー(共和党)は古典的経済学の信奉者であり、国内においては「自由放任主義」を採用したが、その一方で1930年スムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年のクレジットアシュタルト銀行の倒産により、ヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されるにいたり、フーヴァーモラトリアム(支払猶予)を実施したが、とき既に遅く、恐慌は拡大の一途を辿る事になった。 1932年後半から1933年春が恐慌のピークであった。株価は恐慌発生直前の80%以上下落、工業生産は平均で1/3。失業率は25%に達し、閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月には全銀行の業務が停止、社会主義革命の現出が懸念されるほどであった。 このような中、次期大統領のF.D.ルーズベルト(民主党)は修正資本主義に基づき、ニューディール政策を採用した。 ただし、彼の採用したニューディール政策は1930年代後半の景気回復期を前にして後退したことにより再び危機的状況に陥った。そのため、アメリカ経済の本格的回復は、その後の第二次世界大戦による戦時経済需要の増大まで待たなければならなかった。 イギリスのマクドナルド内閣(労働党)は失業保険の削減等緊縮財政を取り、労働党を除名され、保守党と自由党から援助を受け、挙国一致内閣を組織し、1931年9月21日に金の兌換停止(金本位制の放棄)を実施した。また、経済的見地から広大な植民地の維持を放棄しつつ、自国の経済圏に止めるためにイギリス連邦を組織し、ブロック経済を推進して行く事となった。 フランスはイギリスと対抗するためにフランブロックを形成し、ファシズムとも対抗するためにソビエトと相互援助条約を締結、コミンテルンの指導を受けた人民戦線内閣を組織するにいたる。なお、1937年6月に金本位制を放棄し、歴史的意味でも金本位制は過去のものとなった。 ドイツは第一次世界大戦の敗戦により各国から巨額の賠償金を請求され、さらにフランスによるルール占領などにより極度に弱体化した経済は世界恐慌により深刻な状態へ陥った。そのために大量の失業者が溢れ、国内経済は破綻状態に陥った。 その中、共産主義とナチズム(国家社会主義)が台頭。失望した人々の期待を集め、1933年、ヒトラー内閣が成立し、共産党を弾圧、独裁体制を構築して行く事となる。 ヒトラー内閣はソ連の計画経済の成功を受け、4ヵ年計画を策定、軍拡と公共投資の拡大を実施した。また、民間の重工業化を支援することにより失業者は劇的に減少し、経済的な回復は達成された。 日本は第一次世界大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌等により弱体化していた経済は世界恐慌とほぼ同時に行われた金解禁と当時の主要産業である軽工業などの輸出の落ち込みにより危機的状況に陥った。株の暴落により都市部では会社の倒産が相次ぎ、就職難民や失業者が溢れた。農村部では農作物の売れ行きが低下し、価格が下落。冷害や不作等により疲弊した農村では娘の身売りや欠食児童が急増し社会問題化した。 国民の困窮する中、労働者や小作農の立場に立つ政党が台頭。治安の悪化を恐れた政府は治安維持法の強化などに努めることとなった。 高橋是清蔵相による積極財政(一時的軍拡を含む)、円の切下げ、アジア貿易への依存、重工業化への経済体制転換、軽工業産品の輸出拡大などにより、1930年代後半には世界に先駆け大恐慌前の水準に回復したが、欧米諸国のブロック経済政策との間の貿易摩擦が顕在化、軍官僚の暴走を止めることが出来ず、第二次世界大戦へと向かうこととなってしまう。 ソ連は共産主義国家だったために主要国の中で唯一世界恐慌の影響を受けず、高い経済成長率を保つことが出来た。また、資本主義国家が大恐慌で苦しむ中、経済発展を続けるソ連とスターリンの美化が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に未来を夢見た。次に続く
2009.02.03
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昭和4年(1929)10月24日、ニューヨーク証券取引所において発生した株価暴落に端を発した金融危機が当時の拙劣な対応などにより起きたものが世に言う「世界恐慌」です。 この背景として第一次世界大戦後のアメリカは戦争によって拡大した重工業への投資、帰還兵による消費の拡大、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の勃興と躍進、欧州の戦争による経済の疲弊と輸出入の増大などによる米欧の相対的地位の逆転が空前の好況をアメリカにもたらしていた。 1920年代前半には農作物を中心に余剰が生まれ、機械化による過剰生産と欧州の復興、異常気象などによって「農業恐慌」とも言うべき状況もおき、また社会主義化したソ連(ロシア)の世界市場からの撤退などもあり、米国内のその他の生産も過剰になっていったことから。1924年の中頃からアメリカの株式市場は当局による適切な規制が無いまま投機が煽られ、長期上昇のトレンドに入り、1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した後、調整局面に入ったがそれでも投機熱は収まらず、乱高下を繰り返していた。 1929年10月24日10時25分、GMの株価が「80セント」下落したことがきっかけで、同日の11時頃までに売り一色になり、かぶかがだいぼうらくしてしまった。翌25日に大手株仲買人と銀行家が協議し、買い支えを表明したことで一旦は平静を取り戻したかに見えた市場も週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたことから、28日に13%、さらに29日には24日以上の大暴落を記録してしまった。 投資家はパニックを起こし、株の損失を埋めるため様々な資金を引き上げたためにアメリカ経済に依存する度合いを深めていた経済基盤の脆弱な各国経済も連鎖的に破綻していくこととなった。 アメリカ経済は過剰生産による設備投資縮小が始まったことが大きな要因であり、世界恐慌がさらに投資縮小をもたらしたため、激烈な景気後退に見舞われたものといえる。 当時の経済システムにおいては米国経済の圧倒的な存在はあったが、株式市場システムそのものは未だ発展途上にあり、株価暴落そのものが世界恐慌を引き起こしたとはいえない。直接的にはオーストリアの大銀行であるクレジットアンシュタルトの破綻が端緒であると言われている。 クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖されたものである。その理由としては東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の独オーストリア関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済が弱体化したことが致命的だった。 これを契機に、ドイツのダナート銀行が5月に倒産、7月13日に閉鎖されるとドイツ国内の銀行に8月5日までの銀行閉鎖令が発令されたことによりドイツ国内に金融危機が起こり、結果として多くの企業が倒産することになり、その影響はドイツ国内に止まらず、東欧諸国のみならず、世界に波及することとなった。 金本位制の元で、経済危機はそのまま正貨(金)の流出につながる。英国は1931年9月11日に金本位制を停止、第一次世界大戦の復興により金本位体制に復帰したばかりの各国経済に壊滅的打撃を与え、それによりポンドの価値は$4.86から$3.49に下落した。そのため、英国は「ブロック経済」を始めることとなり、これが世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。次回に続く
2009.02.02
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2月には何があったのか覚えていますか? 昭和11年(1936)2月26日から29日までにかけて起きたクーデター(未遂)事件がありました。 この一件は陸軍の一部青年将校が起こしたものと言う評価が定まった感があります。 事件の背景として考えられていることとしては世界大恐慌の影響が挙げられます。特に、社会資本の整備の遅れなどもあり、農村部などの疲弊は目を被いたくなるほどの惨状を呈していたといわれています。 その他にも、大正時代のいわゆる「大正デモクラシー」等に代表される時代の雰囲気として軍人や軍隊に対する一般大衆の漠然とした嫌悪感情など、また、大正11年から14年にかけての山梨軍縮や宇垣軍縮が少なからず影響を与えたのではないかと考えられています。 私が、何故今、この時期に226事件を取り上げているのかですが、基本的に私は欠陥が少なからず存在したと言えども、充分に機能していた大日本帝国憲法体制に対する明確に反する行為であるクーデターについて、それを是認しません。 翻って、現今の日本を巡る政治や経済の状況を省みると果して昭和11年当時の青年将校を非難できるのだろうかと言わざるを得ません。 昔から私は冗談で、他人が「不景気で困る」などと言うのを聞くと「そうですか?どこかの新聞などに『ムスメウリマス』などの広告が出ていましたか?」と言ったものです。まぁ、そこまで落ち込むことは今まではありませんでしたが。これからは冗談では済まないかも知れません。 特に現在の政治状況や経済状況、報道の有様などを見ていると現実を見ていないのではないかと危惧してしまいます。 とはいえ、私の信念として「法秩序の破壊行為(クーデター等)」については是認することは出来ないと革めて表明しておく次第です。 次回は「世界大恐慌とその対策について」を採り上げる予定です。
2009.02.01
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1) 思想信条の自由とは 日本国憲法によって思想信条の自由は基本的人権のひとつとして侵すべからざるものとされていることは論を俟たない。2) 思想信条の公表についての自由はあるのか 国家公務員法や自衛隊法などに規定するところによれば、自らの所信を表明することは、その職責に必要である場合を除き、制限を受けることがあることを規定している。 また、国家公務員や自衛隊員などは、その採用時において政府に対して職務宣誓を行っており、その中において「政治的行動の制限」を受諾する旨の項目がある。3) 田母神氏の論文の問題点は如何 職務遂行上、必要不可欠なものとは言えず、あるのは自らの信ずるところの一般大衆に対する公表であり、自らの政治的立場の明示であるといえる。 政治的所信の表明である限り、上級機関に対して、その公表について許可を受ける必要性があり、実際には公表することについての許可を得ていないことは明白である以上、職務宣誓に反すると断ぜざるを得ない。4) 結論として 田母神氏の論文公表について防衛省が航空幕僚長として不適切として、その職を解くとしたことは当然至極なことであると判断できる。 なお、村山談話(村山内閣当時の閣議決定事項)が誤っているか否かは政治的文書である以上、未来永劫に亘って続くか否かは判らない。若しかすると180度異なる政治的判断が行われ、明日否定されることがあるかもしれないことは留保する必要性がある。付け足し 昭和初期、軍官僚のみならず、文官僚も含めて、政治的発言を繰り返し、国の進路を誤らせたことを反省すべきではないか。これは当時の新聞人も含めての問題でもある。
2008.11.13
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先日の鹿沼市で起きました冠水した道路に取残された主婦がたびたびの通報にもかかわらず、救助されずに死亡した事故に関連しますが、増水した河川の近くや冠水した道路などを通行する際の参考にしていただけると幸いです。 まずは自動車の場合、水位が排気管の高さを超えた時点での通行は危険です。アクセルを一定に保ちながら脱出することは可能ですが、排気が止まるとエンジンが停止してしまい、再起動は困難です。また、この時点では車内には水が浸入する事は無いので、できる限り速やかに高いところに引き返すか、車を捨てて避難することを勧めます。 水位が吸気管(エンジンブロック)のところに来た時点でエンジンは停止してしまうので、それまでに脱出しなければなりません。 基本的に自動車のような構造物は凡そ1トン未満の小型車や軽自動車の場合、水深で30cm~50cmで車体の浮力で地面とタイヤが離れてしまいますので、冠水してしまった道路に入っても一気に走り抜けられそうにも無いと感じられた場合には通行を諦め、引き返すべきです。なお、水中や水面に漂流物がある場合には非常に危険ですので、走り抜ける事は諦めたほうが良いでしょう。 最近の車は気密性や水密性が良いので、少々の道路冠水などでは走破できると考えがちですが、ドアの半分程度の高さまで水位が上がってしまうと水圧によってドアが開けられなくなってしまいます。また、水密性能が上がったからといっても、漏水を完全に防げるわけでもありませんし、ドアウィンドウのコントロールボックスやモーターなどに水がかかりますとショートしてしまい、窓ガラスを破らないと脱出することができなくなってしまいます。 市販のレスキューツール(窓破壊用ハンマーやシートベルトカッターなど)を備えることはいまや常識化している。と、言いたいのですが、実際に備えていてもとっさに取り出すことができないことが多いのが実情です。こういったツールは運転席側のドアポケットやセンターコンソールなどに置くと使い易い。特に同乗者がいる場合のことを考えるとセンターコンソールに備えるのがベストでしょう。 自転車、二輪車、歩行者の場合も先に書いたことが参考になると思います。濁流が洗うように流れているような場合、自動車よりも危険ですから、絶対に入水することは止めなければなりません。 徒歩の場合には水位が30cm未満であれば流れが無い場合には足を取られることはありませんが、膝上までの浸水時であれば正常に歩行することができなくなりますので、渡渉することは諦めるべきです。 以上のことを考慮して河川の氾濫や異常増水時に自分の身を守る一助にしていただければと思います。
2008.08.28
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毎年、夏になると、あちらこちらで水難事故が発生します。行楽であるはずが事故に遭ってしまっては何にもなりません。 水難事故の原因にはいろいろありますが、それぞれの原因態様を概観した上で対策をしていただく一助にして頂ければ幸甚です。 まず、海水浴や河川、プールなどで遊んでいるときに多いのが心臓麻痺などによる突然死が挙げられます。 この場合、そのほとんどが睡眠不足や過労といった体調の不良か、あるいは飲酒などが原因であると言われますので、「せっかく来たのだから」などと思わずに水に入るのは控えるべきでしょう。また、体調が良いので水に入ろうとするのであれば、必ず念入りに準備運動をし、手足などの体幹部から遠い部位から水を掛け、体を水に慣らしてからにすべき。 河川での遊泳時に気をつけなければいけないのは「急な増水」と「流速が遅く見える場所」です。 急流であれば見た目でも危険に思うので、慎重になるのですが、瀞(とろ)や淀み(よどみ)というものは気を緩めてしまいがちです。このような場所は川床などの状態によってさまざまな乱流が起きており、深みに引きずり込まれることになります。こういうのを昔の人は「河童に引かれる」などといったものです。最近では怪談話として水中の幽霊に足を引っ張られたとか言っているようですけれど。 急な増水についてですが、この場合、一番厄介なのは現場周辺では雨が降っていなかったり、時として雲一つ無かったりすることです。とはいっても、その多くの場合、水に濁りやゴミなどが増水する遅くとも数分前には見られますので、そういった現象が見られたら直ちに川岸から離れる必要があります。また、川岸などを良く見ると草の生え方が異なる等洪水線が発見できますので、それを目安にしておくのも必要です。 海水浴場の場合や磯釣りなどでの事故を見てみましょう。 磯釣りの場合は満潮時の事前確認と、その際の退避経路を確認すること等が必要です。大きな獲物によって落水した場合でも落ち着いて行動すれば大事故になることは少ないです。ただ、着衣落水は行動の制限を受けますから、慌てずに脱衣することと、クーラーボックスなどがあれば、必ずそれらの浮遊物に身を預けると良いです。中身が入ったクーラーボックスでも人間が掴まっても沈むことはありません。また、救命胴衣などの救命具を着用しておけば不時落水などによる事故死を防ぐことができます。 木綿製のズボンは足先を縛ってベルト部分を持って頭上から振り被って水面に叩き付けるようにするとV字形の浮輪になります。空気が抜けてきたら、先の動作を繰り返すことで浮上していることができます。 海水浴場などで遊泳する際に注意することとしては、赤旗(遊泳禁止区域表示)の外側には出ないのが鉄則です。まぁ確かに詰まりませんが、安全という観点からは仕方がありません。 遊泳可能区域内であっても、潮の流れによって沖に流されてしまうこともあります。こういった場合、慌てて岸に向かおうとしても岸からドンドン離されてしまったりしますので、岸に対して「平行」に泳ぐと離岸流から簡単に逃れることができます。 最近の学校では水泳を教科としている場合でもプール等の平水(静水)における泳法(はっきり言えば競技水泳等)を教えるのみで「抜き手」や「立ち泳ぎ」などはおろか遠泳や浮身を教えることがありません。少なくとも競技水泳としてのものではない「平泳ぎ」を教える必要があります。その他にも着衣水泳および水中脱衣といった実践水泳術を身に付けることが必要ですね。 最後に、どの局面でも言えることは「冷静沈着な行動」が必要であることです。そして周囲の環境に細心の注意を払うことが水難事故を減らすことにつながるのです。
2008.08.09
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月刊情報誌「FACTA」に防衛利権の捜査線上に安倍前首相の名前が取りざたされているという記事が出ているとか。 この情報源がどこなのか、今のところ解りかねますが、以前にも私のブログの中で取り上げていますが絵図を引く者の意図がどこにあるのかによって探ることができるのかもしれません。----------ここからは憶測です---------------------- 小泉前首相による既得権益の破壊政策に対する反撃という側面で考えるならば最大の被害者である自民党の旧経世会系の政治家等やそれにつながる官僚とそのOB等がこれを機会に反撃しているとも考えられますね。ただ、その場合、主役は政治家であれば引退したはずの京都出身の某氏が絵図を引いたのかな?それとも分割された誇り高き大蔵官僚出身者の某氏か?もしかすると現役の財務官僚辺りが糸を引いていたりするのでは無いだろうか? 年金未納問題が騒がれた頃にも感じた不気味さが以上の憶測を私に書かせているといっても過言ではありません。----------ここで憶測は終り------------------------ 小泉氏と違って安倍氏は攻撃し易いと見られているのかもしれません。この先も注視していく必要はあります。
2007.12.24
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ただの鞘当かもしれませんが 小池大臣と守屋次官のバトルは安倍首相の裁定で第三の人物登用ということで決着がついたようですね。 しかし、確かに独立省庁としての予算獲得に守屋氏の力が必要と言われています。しかし、そうであればなおのこと、他の官僚連中を無能としていることにならないのだろうか?私自身は守屋氏が他の人より秀でた存在だとはとても思えません。 とにかく、今回は早期に決着がついて良かったと思います。ただし、小池氏が推す人物ではなく、また守屋氏が推す人物でもないと言う「足して二で割る」玉虫色の人事になったことは少々がっかりしました。とはいっても、3段跳びどころか6段跳びですから、防衛本省の風通しもだいぶ良くなるのではないでしょうか? あとは兎角噂になる政官財の癒着(汚職)構造が一掃されることを願うだけです。今回の小池氏による人事案も検察内偵情報が引き金と言う情報があるくらいですから関係者も注目しているようです。 それにしても、この件について朝曰新聞の社説(Web版)には驚きました。大筋では守屋氏側に立つのは理解できますが、それに対する理由付けがあまりにもお粗末です。これでは戦前に「統帥権干犯」を政争の具に使った政治家以下ではありませんか。
2007.08.18
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今般の小池防衛大臣と守屋防衛事務次官の騒動。はっきり言って守屋氏の負けです。守屋氏は小池氏のやろうとすることは事務方人事に対する政治の介入と捉えているようですが、基本的に防衛事務次官の立場は自衛隊員ですので、政治による統制を受けるのが当然なのです。それでなくても事務次官の任期は1~2年で勇退するのが慣例であるところを2倍以上の4年にわたり在任してきたことさえ異例なのです。普通の感覚であれば遅くとも省昇格の直後に自ら退任すべきところを恋々とし、その椅子にしがみ付いていることは呆れ返りますし、最近はことに省内も風通しが悪くなっているとも聞いております。 しかしまぁ、この話が出た段階で官房長官も「防衛大臣が言うことが正しい」として事務次官会議の開催を仄めかせば良かったのです。どうも、政治家の皆さんは文民統制というものを理解していないのかあるいは誤解しているのではないのでしょうか? 自衛官を政治から遠ざけておくことが文民統制ではなく、ましてや自衛官を統制するものではありません。内局などの事務方すべてを含めて自衛隊員を政治家が統制することが本来の姿です。
2007.08.16
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本日、8月15日は第二次世界大戦の最終局面である大東亜戦争(太平洋戦争)が事実上終結した日です。 ちなみに、大東亜戦争とは当時の日本国政府が中国大陸で起きていた「事変(小規模戦闘あるいは非国家間戦争の意)」をも含め、対米英戦争開始に伴って呼称を閣議決定した正式名称で、連合国による占領時に当該呼称を禁止され、替りに使用を命じられたものであり、対日平和条約発効に伴い、元の大東亜戦争の呼称が復活されているのですが、マスコミを始め、各所で太平洋戦争の呼称が使われ続けているので現状では大東亜戦争という言葉は「死語」とみなされています。 一般に「終戦の日」あるいは「終戦記念日」といわれている8月15日ですが、当時のことを時系列で眺めて見ますとなかなか興味深いものがあります。 まず、連合国による「ポツダム宣言(無条件降伏勧告)」の受け入れを日本国政府が表明し、その旨を海外向け短波放送されたのは8月10日のことであり、正式にスイス政府及びスウェーデン政府を通じてポツダム宣言受諾通告がなされ、終戦の詔書「大東亜戦争終結ノ詔書(正式名称)」が渙発(公布)されたのが8月14日でした。当日午後に録音された昭和天皇による「玉音」が放送されたのが8月15日であり、帝国陸海軍に対して正式に干戈を擱くよう停戦を命じたのは8月16日であり、連合国との間で停戦が正式に発効するのは9月2日に東京湾内で米戦艦「Missouri」において降伏文書に署名されたことを以てします。 また、ソビエト連邦との間では8月16日以降も千島列島や南樺太における住民保護などのために戦闘が継続しており、最終的に停戦が確定したのは9月4日でした。 戦時国際法では戦争の期間とは当該国間における戦闘行為の開始から停戦までではなく、捕虜及び難民の帰還を含み、平和条約の締結及び発効を以て戦争が終結することを規定していますので、基本的には昭和27年4月28日に発効した「日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)」を以て大半の国との間で戦争状態が解消され、それ以外のソ連邦や中華民国など個別に同等の二国間協定の締結まで戦争状態は継続しました。 こうしてみますと、8月15日という日付には何らの法的根拠もありませんでしたが、昭和32年に制定された「引揚者給付金等支給法」において8月15日を終戦(支給)の基準とし、昭和42年制定の「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」において8月15日を「終戦日」と規定しました。その後、昭和38年5月14日には8月15日に「全国戦没者追悼式」を実施する旨の閣議決定を行い、さらに昭和57年4月13日には8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定され、現在も続いています。 8月15日は民間習俗の「お盆(月遅れ)」にあたることから、両者が混交して死者の魂を追憶し供養すべき日として、言わず語らずのうちに日本人の意識のなかに根付いているのではないかと考えられています。 なお、この戦争において地上戦が行われた沖縄では日本軍の組織的抵抗が終った6月23日を「終戦の日」とみなすことが多く、沖縄県においては6月23日を「慰霊の日」として休日としています。 ただし、米国では沖縄戦勝利の日付を6月30日、終結を7月2日としています。
2007.08.15
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今般の参議院議員選挙に自由民主党(以下自民党)が敗北を期して以降、安倍首相の政権維持についていろいろと喧しい。特に大量の落選者を出した津島派(旧田中派系)などの恨み節は中でも激しいものになっている。 そんな中、小池百合子防衛大臣が訪米した際のアメリカ政府での取り扱いには大いに注目をすべきことなのかも知れない。これは安倍首相が官房長官時代に訪米したときよりも重い扱いです。もしかするとアメリカは次の次か、あるいは次の首相候補と看做しているのかも知れませんね。日本では特に自民党の防衛族や防衛庁の私服組辺りからは受けの良くない小池氏ですがこのまま行くと瓢箪から駒が出るかも。 今、安倍首相が8月末に予定している自民党3役人事及び内閣改造に向けて人事構想を練っている最中ですが、ここで誰を重要ポストに置くのか、特に自民党幹事長、外務大臣、財務大臣、防衛大臣に誰を配するのかが問われています。 麻生外務大臣を幹事長にする案が急浮上しているのですが、麻生氏は20人未満の小派閥を率いているだけですので、これに対する抵抗も激しく、麻生氏を幹事長にするなら谷垣前財務大臣か福田康夫前内閣官房長官を外務大臣またはその他の重要閣僚にするよう、でしゃばりオヨネこと森喜朗元首相などが事ある毎に喋っています。 私は基本的に小泉前首相がそうしたように森元首相の発言は雑音として聞き流し、無視することが指導力の回復ひいては政策遂行の上で必要なのではないかと考えています。 それと、対米関係などを考慮するのであれば、小池氏の防衛大臣続投あるいは外務大臣への横滑りが必要なのではないかと考えています。 改革を続行しようと言うのであれば特に森元首相の発言は無視しなければならないでしょう。今回の参議院選挙敗北の一因を作ったのは森元首相などから出た郵政改革反対派議員の復党問題などが絡んでいるのですから。
2007.08.13
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時間が経ってある程度余裕が出てきたせいでしょうか?いろいろな不具合が報告されてきましたね。 たとえば柏崎市の備蓄医療品などはそのほとんどが期限切れのために使えない状態で、期限切れが判明して本年度予算に盛り込まれた補充の予算も地震が発生する直前に見積もりがでて、さぁ、これから購入しましょうという段階だったとか。おそらく、地震発生が無ければ予算執行は早くても3四半期半ば、場合によっては年度末頃になっていたのではないかな? 先の中越地震の後、期限切れの医薬品類があることに気がつき、能登半島地震が起きるまで「大きな地震なんて来ない」と思っていたんでしょうね。地震のような自然災害は「人間の都合」には従ってはくれません。耐用命数や保管期限が決まっている物品は一時に調達すると調達予算額が大きくなってしまうので、年度ごとに継続して調達をするのが常道なのですが、どうもその辺が守られていない。 消防による活動についても同じことが言えるのではないか? どうも聞くところによると大規模震災についての想定が甘く、同時多発災害の発生についての訓練ができていないようで、そこにまた消防指揮車両の目的外使用による指揮機能不全で無駄な動きをしてしまい、消火活動だけでなく救急救命活動を阻害している。 日本の組織は通常の時は中央集権型でありながら、非常の事態に際しては地方分権型になるという危機管理にとっては有り得べからざる組織体系にあります。これは国や地方自治体だけでなく、一般的な企業にあっても同じことが言えます。本来、危機管理を行う上で必要なことは権限と責任を一点に集中させ、迅速に対応することが必要であり、そのために過大な被害を想定し、それに対処する訓練を常日頃から行い、準備をすることで「例外」を少なくし、指揮者の判断を狂わせないために必要な情報を迅速かつ大量に集めるようにしなければなりません。ところが実際にはその逆が行われている。 なぜそうなるのでしょうか? なぜならば、この国の組織という組織は「責任をとらない」ことが一番よいという無責任体制が根底にあるからなのです。 提言として 1.組織における権限と責任の明確化。これには通常時と非常時の別をつけなければなりません。 2.情報の収集と伝達及び分析と報告経路の明確化。 3.損害や被害に根拠なき希望的観測を入れない。 4.実戦に即した訓練の実施。特に指揮所演習、図上演習は実働演習よりも重要です。 付言すれば、通信や交通の途絶などで中央指揮所との連携が取れない場合にあっても個々の単位で対処ができるようにする必要性もあります。ただし、その場合の責任と権限は、その所在する地区に限定されますが、中央の指揮者の責任は回避されません。そのため、必要があれば中央の指揮者が直接現場に赴き、直接指揮を執ることは妨げられません。ただし、そのように直接指揮を執ったことによって全般に悪影響を及ぼすことは許されないことであることは論を俟ちません。
2007.08.01
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今般の中越沖地震が発生した時に東京電力柏崎原子力発電所で想定外の場所から火災が発生して消火に手間取ったり、核廃棄物貯蔵プールの水が溢れるという事故が起きたり、果ては地震計データが回線輻輳のためにロスト(喪失)してしまったりと散々な目に遭ってしまいました。 これらを単に「東京電力の体勢がなっていない」と批難することは簡単ですが、本当にそうなのでしょうか? 今回の地震災害は休日の日中に発生しましたが夜間でしたらどうでしょうか?また平日の日中ですとか、平日の夜間だったら? 特に今回の場合は数少ない当直員が自治体への連絡に追われて自衛消防隊員の招集にまで手が回らなかったことに主な要因があります。 これらは制定してあるマニュアルを分析しなければ何とも言えませんが、基本的に地震発生と同時に被害の有無を確認し、被害があれば自衛消防隊員の招集をし、それから関係自治体等への通報というように段階を踏むべきです。 ただ、通常の火災などでは有効に機能するマニュアルも地震災害の場合は自宅待機中の職員も被災者であることなどを考慮しなければなりません。一番良いのは地震災害などが発生した場合には自宅及び家族の安全を確保した後、直ちに職場に参集できるようにしておくことが必要ではないでしょうか?ただし、そのためには家族の協力が必要不可欠ですが。 自衛隊員や警察官、消防吏員といった職業人の場合、知らない人は「頼もしい」と思われているようですが、彼らの家族にとっては「イザという時には家族と一緒にいてくれない」のです。 そういう点では自治体の職員も同じだと思います。ですから、原子力発電所や石油化学コンビナート等の関係者などもある程度の家族の犠牲を必要ではないでしょうか? 災害というものは戦争などと違って「いつ襲ってくるか」予測を立てることが難しく、また「被害がどれだけになる」という点でも予測することが難しいものです。そのために、これに予め対処をするための準備をする場合には「最悪の状態」を想定し、その対処にかけられる「最大の予算」を処置し、事が起きた場合には「何が不足しているのか」を適宜サーベイしなければなりません。 今までの各種事例を見ると「最小の被害予測」あるいは「自分たちは被災しない」という前提があったり、予算の充当も優先順位が低かったりするために「楽観的見通し」と「悲観的な現実」に悩まされることになります。 危機管理の上では「悲観的な見通し」をたて「楽観的な措置」をとることが重要なのです。そのためには「自分たちは被災しない」などの過った見通しは直ちに捨てなければなりません。また、予算の優先順位も「目立つもの」や「一時的なもの」よりも「目立たないもの」や「長期間かかるもの」などに重点を置く必要性があるのです。
2007.07.20
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一般に言われている避難所というものは以下のように分類できます。1.一時避難場所2.広域避難場所3.収容避難場所 このうち、一時避難場所は「災害時の危険を回避するために一時的に避難する場所」であり、また、帰宅困難者が公共交通機関の回復まで待機する場所のこと。公園などの空所が行政機関などから指定されていることが多い。 また、広域避難場所は「地震等による火災が延焼拡大し、地域全体が危険になった場合に避難する場所」であり、火災の輻射熱からの保護の観点から、広さも10ヘクタール以上を要するために、大規模な広場(オープンスペース)として大規模公園や団地、大学等が指定されています。 以上の2種は収容避難所(いわゆる「避難所」)とは性格を異にしており、被災者の生活をする場所としての位置づけはありません。 その他、前2者の避難場所は、その地域で発生が予測される災害等の内容により、自治体によって異なる場所が指定されていることが多い。 収容避難場所は「災害により短期間の避難生活を余儀なくされた場合に一定期間の生活を行う施設」を言い、一般的に学校や公民館等が指定されることが多い。 収容避難場所は災害の規模及びその地区の人口などの要素により避難して来る人々の数や期間が長くなります。 収容避難所の開設は地域防災計画上、当該自治体の職員が行うことになっていますが、実際には避難者(被災者)自身が行うことになりますし、さらには運営自体も避難者が行うことになります。 その他、指定された収容避難所以外に避難施設を開設することも可能であり、そういった場所を開設する場合には施設の安全性を確認し、自治体等の防災機関に場所及び避難人員の数、避難所運営責任者の氏名等を通報することが必要です。(法的根拠は無いけれど行政機関からの支援を受けるために必要です。) 収容避難所開設に当っての手順を以下に述べます。1.運営の中心人物の選定(責任者の明確化)2.避難所施設の点検(安全の確保)3.避難者の受け入れ及び用途別の部屋割り4.避難者名簿の作成5.仮設トイレの設置6.運営体制の組織化及び生活ルール作り 各自治体における地域防災計画で災害の種類や規模、地域住民数、被害復旧に要する日時をどの様に見積もるかで避難者の不満を吸収することが出来るか変ります。 しかし、予算に対する支出比率や優先順位は低くなりがちであるため、思うようにならないのが現実です。
2007.07.18
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先日の「原爆投下は仕方ない」発言を巡っていろいろと言われて来ましたが参議院議員選挙の直前であることなどが関係して野党から攻められるのは当然ですが、与党側からも辞任を暗に求められ、文字通り「四面楚歌」に陥ったことから急遽辞任することになってしまったようですね。 基本的には当時を知る人々の間にある「時代の気分」を表現したものと受取ることは出来ますが、政治家なかんずく国防を与る大臣としては不適当(不穏当という意味には非ず)だと言うことです。 実際に、海外メディアは「日本国の国防大臣が核兵器を容認する発言を行った」と報じています。 う~ん、しかし、久間さんはこのところ「失言」が多くないですか?どうしたのかな? それにしても後任は誰なのかな?と思っていたら内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の小池百合子さんですか・・・。ビックリですね。我国の政治史上初の女性防衛大臣誕生ですから。 後任者の名前が出る前は「現場レベル」に人気の中谷さんや石破さん「内局」に受けの良い額賀さんといった辺りかと思っていたのですが、番狂わせでした。 小池さんというアラビストを安倍総理が内閣補佐官としたのは対アラブ政策の面で最大の成果ですが、そのまま防衛大臣に引き据えた事が吉と出るか凶と出るか、現時点では何とも言えません。
2007.07.03
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既存のマスコミが流していることを見ていると「徒に国民を不安がらせている」と思わざるを得ません。 基本的に年金制度そのものに対する信頼が損なわれてしまったというのは正しいのですが、不安を煽り立てるのではなく、個々人がどの様に対処(対応)すれば良いのかを合わせて報道すべきではないでしょうか? 対応すべき点について 厚生年金の場合、就職してから現在まで同一の会社あるいは事業所に在籍している場合は正しく納入されているのか、手元の「年金手帳」の記録を確認するようになります。 最初の就職から途中退職などで会社や事業所を転々としているのであれば納入記録が複数になっていますので、正しく名寄せが出来ているのか確認をしなければなりません。その際に重要なのは出来るだけ正確に自分の職歴(事業所等の正式名称、就退職期日)を時系列に沿ってリストアップします。 国民年金は20歳以上で企業等に所属していない場合に加入するものですので、厚生年金から脱退した時に正しく手続きを行っているのかも確認しなければなりません。 共済組合に加入していた場合も厚生年金と同じに考えて対処します。 女性の場合は特に結婚で姓が変ることが多いので、厚生年金や共済組合の加入記録を調査する際には充分に留意する必要性があります。また、結婚と同時期に離職して「3号保険者」になった場合も夫の厚生年金あるいは共済組合記録が正しいか確認する必要性があります。 現在受給中の人の場合で要注意なのは戦時中に軍需工場などに勤務した経験がある場合には正しく名寄せされていない可能性がありますので社会保険事務所に確認することをお勧めします。なお、その際には勤務したことを確認できる資料(当時の写真などや同僚などの証言などでも不可能ではありません)を揃えて提出しますが、できるだけ社会保険労務士などに相談されると良いでしょう。
2007.06.21
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遅ればせながら最近になって当サイトもブログ以外のページにアクセス解析を入れてみました。 結果は?チョッと気が早いかもしれませんが、チョッとだけ公開してみます。 一番アクセス数が多かったのは「戦時歌謡」を取上げたページで、その次が「日本語入り口」のページ、3番目にして「入り口(Top)」がきます。あとはソコソコですね。 大きく分けると「音楽(流行歌)」関係が7割ほどで、あとは「(戦時)国際法」関係がほとんどでした。 隠しページにも解析用のソースを入れてありますので、こちらを見つける人がどれだけいるのか興味があります。
2007.06.17
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30年以上前のこと、そう、就職した当初でした。その時、ある同僚が「俺たちが子供の頃は子供の数が4~5人居るのは当たり前だったけれど、今は1~2人居れば良いくらいになっている。このまま行けば税収不足や年金納付不足で退職金は国債や社債、年金なんて貰えなくなるかも知れないな」と言っていたのを思い出します。 その時は「まさか、そこまではならないのでは?」と言って笑いあっていましたが、なんだか今の状況をある程度言い当てていたのかも知れません。退職金云々は今のところ成就していませんが、年金制度の破綻は直ぐそこにある危機と言ってもいいかも知れませんね。 現在問題とされている部分ですが、それは500万件余りとも言われる「誰のものか不明の年金記録」と「納入したはずの年金が未納とされている」ことが大きな問題となっています。 約10年前に手書きの年金収納記録を電算機へ入力する際に入力漏れ、入力ミスを起していたことが理由であるとされています。その他にも少ないですが、徴収事務手続きを行っていたものによる横領などがありました。 今回のことで取敢えずしなければならないこととして、第一に現在の統一された年金番号、職歴(勤務した企業の名前、本社名、本社所在地、勤務した事業所名、勤務先事業所所在地等出来るだけ詳しく)の他に収納の事実が判る資料(領収書、銀行の口座取引明細か通帳、家計簿等)を用意して管轄する社会保険事務所の窓口で相談をするか、 あるいは社会保険庁の「年金個人情報提供サービス(https://www3.idpass-net.sia.go.jp/neko/action/z0401)」で確認をします。確認をしまして、間違いがあると思われた場合には先に掲げた資料を持参して窓口で交渉することになります。 現時点で、社会保険事務所の相談窓口は今回の事件発覚以降、非常に混雑しておりますので、出来るだけインターネットでの下調べをしておくことをお勧めいたします。
2007.06.06
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17日午後、愛知県の長久手で発生した発砲立て籠もり事件、18日の夜になって漸く解決を見ました。 しかし、それにしても愛知県警の手際の悪さは(不手際を通り越している)特筆すべきものでしょう。まず第一に事件発生を知らせる第一報を受けて(押取り刀で)駆けつけた所轄交番勤務の巡査部長はある面仕方が無いけれど、その後の現場方位陣形などを見ていると前方(前線)に一般機動隊や捜査一課などの犯罪捜査員、その後方に特殊部隊(SAT)員や一般署員という不思議な状況が看て取れました。 通常はSATを前面に押し立て、周囲を警戒するのは機動隊員で、周辺住民への聞き込みなどを犯罪捜査員に当てるのが常道です。これでは事態を楽観視し、各部に手柄を分配しようとしたと見られてもおかしくは無い。しかも、周辺警戒中!のSAT隊員が流れ弾に中ってしまうという結果に慌てふためき、次の一手が打てなくなるという「危機管理の王道」を逆に歩むことになってしまいました。 それだけでも驚きなのにも関わらず、被弾した所轄交番勤務の巡査部長を5時間近く現場に放置してしまったり、18日の午後3時ごろに脱出した人質を確保した段階で発音発煙手榴弾などを使って制圧することができたにも拘らず夜になって犯人が投降するまで漫然と「説得」を続けるというおよそ信じられない指揮能力の低さを露呈している。こういう事件が発生した場合にはSATに現場の指揮について全権を委任すべきで、突入などの最終決定を県警本部長がSATの指揮官と協議して決定しなければ「船頭多くして、船、山に上る」の言葉の再現になってしまいます。 その他にも、現場の非常警戒線内を見ていると確かに防弾チョッキを着用していましたが、中楯(ジュラルミン製)を構えているけれど全てが全て「投石防禦体勢」であり、銃弾防禦の体勢になっていない。楯を構える際は垂直ではなく、下端を前方に押し出し、約40度程度の傾斜を与えなければケブラーなどで補強してあっても簡単に銃弾は貫通してしまいます。
2007.05.19
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「安全第一」という言葉は皆さんよくご存知だと思いますが、このスローガンは二十世紀初頭の米国、USスチール社の社長であるエルバート・ヘンリー・ゲーリーが多発する労働災害(労災)に心を痛め、それまでの経営方針である「生産第一・品質第二・安全第三」を改め、「安全第一・品質第二・生産第三」としたことに始まります。 この方針が実行されると、労働災害はたちまち減少し、生産性も大きく向上することとなりました。 この「安全第一」は、安全に対するコストと労働災害や事故などに伴うコストを天秤に掛けてバランスをとることに他なりません。また、安全に関わるコストというものは何も無い時には過大に思われがちでありますが、一たび災害などに見舞われると復旧に掛かるコストのみならず、シェアの減少なども誘発することになります。 企業の経営においてロングターム(長期間)の経営戦略及び株主などの出資者に対する説明をする際には特にこのコストバランスを重視しなければなりません。 この「安全第一」というものは重厚長大産業などだけでなく、いまや第三次産業などにおいてもリスクマネジメントの一環として必要不可欠なものです。 リスクマネジメントを実行する上で必要なことは「最悪の事態を常に考慮すること」であり「最小のコストで最大の果実」を得るための手段を講ずることにあります。また、目先のコストにとらわれてしまうと時として大きなコストを支払わなければならないことになってしまいます。
2007.05.07
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キリスト教の文化的影響建築への影響 中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は今も見る者を圧倒する。 それらは現在も教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。美術への影響 中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、聖人の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期ににはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より古典古代への関心が復活するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえばボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。対して東方教会では、聖像の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、印象派風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。音楽への影響 キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが今日の五線譜を用いた記譜法、和声法や対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。 教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる。 作曲家で言えば、バッハやヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲は作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。文学への影響 中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネ『黄金伝説』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている。 また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、旧約聖書の創世記、ノアの箱舟、モーセの出エジプト、師士たちの年代記、そして教義の根幹を支える福音書の受難物語などは、現代に至るまで文学者たちへインスピレーションを与え続けてきた。ジョン・ミルトンの『失楽園』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば現代日本のライトノベルに至るまで多くの分野に影響は及んでいる。 キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済されるゲーテの『ファウスト』、キリストと異端審問官とを対決させたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(「大審問官」の章)などが有名である。 また、アウグスチヌスやイグナティウス・ロヨラなどの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式の成立に大きな影響を与えた。哲学への影響 ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教側からは「哲学は神学の婢(はしため)」と位置づけられていた。 11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内で発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトーマス・アクィナスの業績は特に、壮大なものである。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論が行われている。 15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。科学への影響 自説を公表しなかったコペルニクスや、宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイの事例などから、キリスト教は科学に対して抑圧的であったと考えられてきた。特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっているために、多くの科学史家はカトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきたとしてきた。 しかし、村上陽一郎のようにヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったとする説を唱える科学史家もいる。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもある。それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという説である。from Wikipedia Japan
2007.05.01
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日本とキリスト教歴史 日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃秦河勝等によって日本に伝えられたとする説があり、聖徳太子の幼名は厩戸皇子であるが馬小屋の前で生まれた事からイエス・キリストを連想させたからという説もあるが、想像の域を出ない。 史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀のカトリック教会の司祭、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「切支丹」(キリシタン)、キリスト教宣教師は「伴天連」(バテレン)と呼ばれた。しかし豊臣秀吉は一部のキリシタン大名によって、入信の強制や神社仏閣の破壊、僧侶の弾圧や日本人奴隷貿易などが行われているとし、伴天連追放令を布告した。秀吉の政策は部分的・限定的なものだったが、徳川幕府は国をあげての徹底的なキリシタン弾圧を実施、多くの信徒や聖職者が逮捕・殺害された。長崎の一部等でわずかに残った信徒は隠れキリシタンとして地下に潜り、近代に至った。 禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼歴を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。 隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、水責め・火責めなどの拷問、3400名に及ぶ流刑などが行われた([1]浦上小教区変革史)。また他の地方でも東北で東方正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。欧米諸国からの猛烈な抗議を受けて、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは1873年のことである。 キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリック、東方正教会、プロテスタントとも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。 カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッション・スクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現在のコープこうべの前身)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。 戦前を通じ、キリスト教に対して社会の環境は、しかし総体に厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも厳しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。プロテスタント諸教派は政府の指導下に合同教会を設立した。聖職者や信徒のなかには、官憲の追及を受け、逮捕・投獄されるものもおり、厳しい取り扱いの結果、死没するものも出た。現代日本のキリスト教 2004年現在日本の総人口の約1%弱がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約50万人、プロテスタント諸派が計約30万人、プロテスタントで最も信徒数の多い日本基督教団が約10万人である。東方正教会(日本ハリストス正教会)は約1万人。尚、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人(ものみの塔)が公称約22万人とされている。通常この二派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含まれない。カトリック 太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争に協力した。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力、日本社会の民主化への逆行という点での批判がそれぞれある。 中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。 1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。 政治・社会的には、社会的正義の実現が大きく唱えられ、信教の自由と政教分離の原則をうたう日本国憲法の内容の実現を求める立場が日本司教団の公式の見解とされる。カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。 天皇制については、カトリックが反皇室的立場をとっているという批判がある。これに対し、現憲法の「国民の総意」に基づいた象徴天皇制の徹底化と捉える見方がある。天皇制の廃止を求める運動を司教団が起こしたことはない。また靖国神社問題をはじめとする政教分離については教会はその厳格な執行を求める立場にたつ。一方、信徒レベルでは批判もあり、教会組織としての意見の徹底的な統一が図られているわけではない。プロテスタント プロテスタント(当時はその殆どが日本基督教団に合同)もカトリックと同様の立場を取っていたが、殆ど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれ、時として牧師連行などの弾圧を受けた。 殊に、四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)という信仰のスローガンで知られるホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の三派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、七名の牧師が殉教した。 救世軍はイギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また、「皇軍以外に『軍』を名乗る組織があるのはけしからん」という理由で敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制された。セブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。 戦後は合同教会としての日本基督教団とともに、各教派の教団も再建。救世軍など活動を禁止されていた教派も活動を再開した。連絡組織として日本キリスト教協議会、日本福音同盟など、またカトリックなども包含する日本キリスト教連合会が結成されている。東方正教会 日本の正教会は19世紀半ば以来の歴史を持つ。 発足間もない時代、日本の正教会はニコライ・カサートキンらの伝道師を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれていた。19世紀半ばに函館から始まった日本ハリストス正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂も建設された。しかし1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、日本の正教会は苦しい立場におかれた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルゲイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた。 また、関東大震災で東京市内のほとんどの教会が破壊された。これらは再建されず、東京市内の教区は神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)に再編された。 第二次世界大戦後日ソの外交関係が途絶しアメリカを中心とする連合軍が日本に入ると、日本の正教会はアメリカ合衆国に所在する正教会の管轄下に一時的におかれた。アメリカから高位聖職者が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジミール神学校に多数の若い神学生が留学した。日本教会の管轄はその後モスクワに戻り、1970年代には日本教会は聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄を継続すべきとするグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」を設立している。日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好。 西方教会に由来する日本の他教会と異なり、正教会は教団として政治運動とはかかわりをもっていない。但し、「天皇及び皇族のための祈り」「為政者への祈り」があるなど、基本的に体制従属的と言われている(しかし、これを「敵のための祈り」と捉える動きもある)。超教派 日本における超教派の動きとしては、聖職者や学者の間での交流と、信徒を中心とした交流が指摘される。 元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、現在は超教派の教団として現在でも残っている。 60年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては共同訳による新共同訳聖書の翻訳事業が特筆される。この新共同約聖書においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として聖書から除外したもの(集会の書、マナセの祈り等)を「旧約聖書続編」としてまとめている。このことは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。 また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。from Wikipedia Japan
2007.05.01
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近現代におけるキリスト教の展開 宗教改革後の啓蒙時代に入ると、神による啓示を基礎に置いた従来のキリスト教のあり方に疑問が出されるようになる。人格神を否定する理神論から始まり、啓蒙期以降は神を論じることの無意味さを説いた不可知論、汎神論、あるいは無神論など、それまでのキリスト教神学に収まりきらない思想が展開される。そして、フランス革命などの市民革命によって西ヨーロッパ社会が大きく脱教会化され、民衆のキリスト教離れが進行し、共産主義のようにはっきりとキリスト教を敵視する社会運動も現れる。キリスト教が社会に対してその影響力を大きく減じていくことになる中で、各宗派がいかに展開してきたかを以下に概観する。カトリック教会の展開 カトリックでは宗教改革に対抗する形で組織強化が行われ(対抗改革)、イエズス会やフランシスコ会などが尖兵となって海外宣教などを積極的に展開した。しかし、世俗社会への影響力は近代を通じて確実に減じて行ったのが実情である。ローマ教皇領はナポレオン1世によって没収され、ウィーン会議で復活するものの普仏戦争で縮小し、1861年のイタリア王国の成立で消滅に至る。1929年のラテラノ条約でバチカン市国が成立しているが、これは象徴的な独立国家でしかない。 こうした傾向に危機感を抱き、ローマ教皇への権力集中を唱えるウルトラモンタニズムが勢いを増し、カトリックは反近代指向を強めていった。1846年には啓蒙主義、自由主義、共産主義を排斥するための「誤謬表」(sillabo、シッラボ)を公布し、教皇首位説と教皇不可謬説を公式教義とし、他宗派に対して不寛容な態度を取り続けた。 しかし第二次世界大戦後、カトリック教会内部から大規模な改革の必要が叫ばれ、1960年代に至ってヨハネ23世の元で開会した第2バチカン公会議にで現代に生きるカトリック教会の方向性が定められた。その中ではプロテスタントや東方諸教会との対話であるエキュメニズムに加え、他宗教との対話の必要性も唱えられた。また科学と聖書学の尊重、各国語による典礼実施の推進、現代社会との連帯という方向性を確認した。この改革が規模と内容において16世紀の宗教改革にも匹敵することから、「第二の宗教改革」と呼ばれることもある。ガリレオ・ガリレイの宗教裁判の見直しと撤回(1992)などに、こうしたカトリック教会の過去の過ちを認めて自ら正すという姿勢が見られる。 現在もカトリック教会は避妊や妊娠中絶を認めず、時代錯誤だと批判されることも多い。また、司祭の独身制の堅持についても批判されている。特に近年の米国において、カトリック聖職者による性的幼児虐待が多数明るみに出たことで、その歪が批判されている。 中南米は、スペイン・ポルトガルの植民地であった関係上、カトリック宣教がもっとも成功した地域であり、現在でも信者の比率が大変に高い。この地域では20世紀になって解放の神学と呼ばれる思想が起こった。これはキリスト教社会主義運動の一形態とみられており、民衆の中での社会運動の実践こそが福音そのものであるという立場を取る。その左翼的側面から中傷されることも多く、カトリック内でも拒否反応を示す聖職者も少なくない。 アジア地域でのカトリック宣教が成功したのは、やはりスペインやポルトガルの植民地であったフィリピンと東チモールであり、その他の地域のカトリック人口はマイナーなものに留まった。例外は大韓民国であり、第2次世界大戦後プロテスタントと共に信徒数が急増している。中国においては1949年に共産党政権が成立すると外国人司教は全て国外に退去し、1951年中国とバチカンは断交した。その後、中国はローマ教皇の任命する司教や司祭を一切認めず、政府公認の中国天主教愛国会のみをカトリック教会として扱うようになり、カトリック信徒を政府のコントロール下においた。だが政府に従わない地下教会が組織化されているとも見られており、この問題については今も中国とローマ教皇庁との間で政治交渉が続いている。プロテスタントの展開 プロテスタントではルター派がドイツ北部や北欧に広がり、それとは別にカルヴァンの影響を受けて展開した諸宗派(改革・長老教会)がイギリスやアメリカで広がった。また、イギリスではイングランド国教会(聖公会)が1534年にカトリックから分離しておりプロテスタントに分類されている。 またアメリカ合衆国では建国以来、信教の自由を保障したことと移民を広く受け入れてきたことからプロテスタント系諸教派が競い合って、多様なキリスト教信仰が展開している。教派を跨る形で大覚醒(Great Awakening)を代表とする信仰復興運動、再臨運動、異言を伴うペンテコステ運動などが起こり、これが新たな教派を形成し、ヨーロッパなどにも波及した。 さらにマックス・ウェーバーの有名な学説(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)が指摘したように、ピューリタン(主に長老派信徒)の影響が強いイギリスとアメリカで資本主義が驚異的に発展する。そして、それらの富める国力とアメリカで勃興した信仰復興運動を背景にプロテスタントも19世紀頃から海外宣教に積極的に乗り出していくことになる。 20世紀初頭、アメリカ合衆国ではドイツに発した自由主義神学の是非を巡ってプロテスタント教派間で教義論争(ex.メイチェン論争)が行われ、自由主義神学(リベラリズム)を採用する主流各教派(メインライン)と、聖書の無誤無謬を主張した福音派(ファンダメンタリズム=根本主義など)とに教派が二分された。しばらくの間メインライン(長老派、ルター派、メソジスト、聖公会)は多数派として政治的主導権を有していたがベトナム戦争が膠着化した1970年代頃のカウンターカルチャー(対抗文化運動)の興勢の中で影響を減じて世俗化し、信者は現在減少傾向にある。 その一方で福音派は、ビリー・グラハムに代表される大衆伝道者などがテレビなどのメディアや大規模なイヴェントで多くの改宗者を獲得し、1980年代以降は政治的な影響力を誇るようになった。彼らの多くは創造論を奉じて進化論を聖書と矛盾するものとして退け、妊娠中絶などには先鋭的に反対して社会問題を引き起こすこともある。福音派は豊富な資金力を生かし、海外布教とりわけ東欧圏・アジア・アフリカなどでの活動にも熱心である。 このように福音派は勢力を拡大しているが、アメリカのプロテスタント総体は衰退傾向にある。また、1960年代の公民権運動の頃から、マルコムXなどアフリカ系市民がイスラームへ改宗する運動も少数派ながらも続いている。東方諸教会の展開 エフェソスおよびカルケドン公会議が異端として排斥したいわゆる東方諸教会の信徒数は必ずしも多くない。しかし、いくつかの地域ではその地域での最も信徒数の多いキリスト教教派でありつづけている。地域宗教の色彩が濃い東方諸教会ではあるが、19世紀以降、アメリカ合衆国やオーストラリアといった移民の多い国では、移民によって教会が立てられ、信徒の分布は広がりをみせている。from Wikipedia Japan
2007.04.30
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キリスト教に基づくとされている習俗 キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い、また信者の生活をそれによって規制するが、一方で各地の習俗と融合して教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説するが、この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在しており、クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭、謝肉祭(カーニバル)、枝の主日/聖枝祭、灰の水曜日、ペンテコステ、各種の行列、大勢の特定聖人の祝日などの祭日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。典礼暦の項目なども参照されたい。クリスマス クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、イエスの誕生日は知られていない。ローマ帝国時代、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。神現祭の項も参照せよ。 また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係である。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀にドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロースは聖ニコラスの伝説や、イギリスのFather Christmassの伝承などを使ってニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである。イースター イースター(復活祭、復活大祭)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつもっとも古く成立した祭のひとつであるが、現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。結婚式 宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘蹟(機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。カトリックでは、結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、この典礼は略式化される。東方教会では、典礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。 キリスト教式の婚姻では、キスが必須であると思われることがときにあるが、主要教派の典礼の上では必須ではない。 現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっており、結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された牧師の下に司式されることが多い。そういった牧師の資格やそうやって行われた結婚式の有効性についての議論も存在する。バレンタインデー 西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へ主にチョコレートを贈る習慣が定着した。これもキリスト教の教義には根拠が無く、ローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であろうと言われている。ハロウィーン ハロウィーンはイングランド・アイルランドおよびその移民の間で行われた民間の祭りであり、直接はキリスト教と関係がない。元々はケルト人のドルイド教の祭だっただろうと言われている。しかし西方キリスト教の祭りである、カトリックの諸聖人の日(万聖節)と日付の上で結びついており、その前晩である10月31日に行われる。イングランドでは中世以降廃れたが、アイルランドに残っていた習俗が移民を通じてアメリカ合衆国で広まった。近年はヨーロッパや日本でもカボチャのランタンを飾るなど、一部の習俗が入ってきている。近世までのキリスト教の歴史 紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。 ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウスによりローマ帝国の国教とされ、異教を圧倒するに到った。 キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。最初の分裂は4世紀半ばのアリウス派の離脱である。キリストの人性を主張したアリウス派は、最初のローマ皇帝の改宗や、ゲルマン人に大きな信仰を得るなど歴史的な意義は大きかった。しかし、アタナシウス派のキリストの両性(神性・人性)が正統教義とされたため、西暦325年の第1ニカイア公会議でアリウス派は異端とされた。アリウス派は北アフリカに渡り新天地を求めたが、今日では消滅している。 2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。キリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされたため、431年のエフェソス公会議でネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで大きな信徒数を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国にも伝来した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア正教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。 3回目の分裂は東方教会におけるエジプトやシリアの教会のいわゆる単性論教会としての離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され、一つの神性を持つとして451年のカルケドン公会議で異端とされた。単性論の教義はネストリウス派と正反対ともとれる。だが、これらの教会は「単性論」である事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明しした為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。ほかにエチオピア、アルメニアの教会もこれに続いた。 4回目の分裂は、東西教会の分裂(「大シスマ」ともいう)である。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンティンポリス世界総主教が互いに破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。しかし、その実態は政治的・文化的な問題であり、西ローマ帝国崩壊後に、神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に独立・挑戦した事件とみなせる。 5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。 これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる東方正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア正教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、キリスト単性論に属するエジプトのコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)や、コーカサス地方(元は小アジア)のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。キリスト教が発展した理由 ユダヤ教内の一宗派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度うまく適応していった。 まず、使徒言行録の中にも描かれているようにキリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部に居る異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた(キリスト教の歴史)。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。 当時のヘレニズム-ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、フリジア起源のアッティス教、ペルシャ起源のミトラ教、あるいはギリシャ起源のディオニソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている。(M.エリアーデ『世界宗教史』第205節)。 キリスト教は皇帝崇拝を拒否したことでローマ帝国内で迫害されたが、こうした競合宗教から抜きん出た発展を遂げて国教化される。これについては護教論的説明かもしれないが、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることにキリスト教が成功したからだと説明されている(たとえばM.エリアーデ『世界宗教史』第239節)。いったん公認されていたキリスト教の特権を破棄したことで有名な「背教者」ユリアノス帝ですらキリスト教徒が、救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている(田川建三『キリスト教思想への招待』第2章)。 西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)を管理し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。 さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。東方においては、キリスト教は中東・アフリカでは衰退したものの、東ローマ帝国の統治イデオロギーとして機能し、また西方と同じく、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。 近代になると、西欧諸国は世界各地で植民地侵略を行うが、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事力と経済力とを背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が抱き合わせで図られていったのである。from Wikipedia Japan
2007.04.30
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ユダヤ教・イスラム教との関係 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はアブラハムの宗教という言い方で、類縁関係を強調されることがある。三者とも始祖アブラハム以来の伝統を意識しており、聖典を一部共有しているからである。ユダヤ教は 旧約聖書を聖典とし、キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典とし、イスラム教は旧約聖書の一部、新約聖書の一部およびクルアーン(コーラン)を聖典とする。ユダヤ教では当然旧約とは呼ばず、単に聖書、或いはタナハ等と呼ばれる。 3宗教の違いは「どれを重視するかという違いにすぎず、3宗教がエルサレムを共通の聖地とするのは偶然でなく必然である」とする見方もある(クルアーン(コーラン)は、大天使ガブリエル(ジブリール)によってムハンマドに告げられた)。 キリスト教とユダヤ教の最高神ヤハウェとイスラム教の最高神アッラーフ(アラー)は同一の神とする説もある。ヤハウェの名をみだりに唱えることはおそれ多いため、アッラーフという別名を設けたのがイスラム教の主張である。尚、アラビア語圏ではアッラーフは特定の神の名ではなく、神(英語:The God)を指す意味でも用いられ、現地のキリスト教徒はキリスト教の神を指してアッラーフと呼ぶ。 歴史的には、キリスト教はユダヤ教の内部から起こった。ナザレのイエス自身の宣教活動は主にユダヤ人を対象としたものであり、その弟子もみなユダヤ人であった。また初期のキリスト教徒はエルサレム神殿での礼拝を行っていた。その一方で異邦人キリスト教徒も、西暦40年代から50年代頃に出現してきた。ユダヤ教とキリスト教の関係は、おそらく神殿崩壊後、とりわけ緊張をもたらすものとなった。史料の研究からは、1世紀の終わりごろまでに、エビオン派のようなキリスト教内のユダヤ教的な信者は排除され、また伝統的ユダヤ教のほうからもキリスト教徒が排除されて、キリスト教が新しい独自の宗教として確立するに到ったと現代では考えられている。組織 信者は、古代教会に直接連なる教会では、平信徒と聖職者に分かれる。聖職者は、輔祭(助祭)・司祭・主教(司教)の三階級に大別される。大司教、枢機卿、教皇等の区別は、教会の組織的発展の結果、教会行政的必要性から、主教職が細分されたものである。一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、聖職者を設けず、信徒のなかから教職として牧師をおくものが多い。教職の他に教会政治(管理)に長老、監督といった役職を置く事もある。これらは運営上の役職であり、信仰上とは別とされる。 伝統的な教会においては、女性は聖職者になることができない(東方正教会には女輔祭の制度がギリシャ等に行われるが、これは上記の輔祭とは区別される)。プロテスタント教派では女性教職は珍しくない。教派によらず、聖職・教職につくには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが現代では一般的である。 一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会籍という。洗礼などの秘蹟授与の記録が記録され、必要に応じて信者であることの証明を受けることが出来る。多く、居住地よりもっとも近隣の教会に所属するが、必ずしも義務ではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では10人前後の信者もある。 複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。教区の中心となるのは、主教(司教)座聖堂である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。このような複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけからなる教派を単立教会という。単立教会のほとんどはプロテスタントである。単立教会のなかには、教義の近いものが連合して組織を作るものもある。 同じ教派の教会であれば、籍のない教会の礼拝に参加することはまったく問題がない。また同一教派の教会から他の教会に移籍することも必要に応じて行われる。これに対して、所属教派自体を変えることを、改宗ないし転会といい、場合によっては宗教を変えるのと同じようなインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多く転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものをも有効と認めるが、他の秘蹟については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。 一部の教派では修道者といい、神に生涯を捧げる信者がいる。修道者は必ずしも聖職者ではなく、平信徒であることも多い。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリックにおいては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリックでは、修道士はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道士となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来たもののみが修道生活に入る。準備段階、またまれに修道士となった後で、世俗の生活に戻るものもある。キリスト教徒の生活 キリスト教の信者をキリスト教徒またはクリスチャン(ハリスティアニン)という。『使徒行伝』によると、この呼称は1世紀半ばにアンティオキアで初めて用いられた。原義はキリスト支持者というほどの意味である。日本ではかつてキリシタンと呼ばれた。 多様化する現代のキリスト教世界において、キリスト教信者の一般的な生活を描くことは、それが細部に及べば及ぶほど、困難である。以下の記述は最大公約数を述べたものであって、これに当てはまらないキリスト教徒も一定数いることを、読者は銘記されたい。 クリスチャンの範囲については、伝統的には洗礼を受けたもののみを信者とみなしているが、最近では特に自由主義神学といわれるキリスト教徒のなかに、少数ではあるが、キリストを信じているものは洗礼の有無によらずクリスチャンであると主張するものもいる。またプロテスタントのなかには洗礼を行わない教派もある。 洗礼を受けることを前提に、教会と交わる者を求道者、啓蒙者などという。洗礼を受けるための条件やその式次第などは、教派によって異なる。詳しくは、洗礼の項を参照。 信者が行う祈祷行為のうち、司祭や牧師らにより執行される公のものを公祈祷・典礼・奉神礼等という。信者でないものも列席することができるが、聖餐には与ることが出来ないのが一般的である。ほとんどの教派では定期的な公の礼拝を行う。公の礼拝は形式があらかじめ定められていることが一般的である。典型的な形を示すと、祈祷・聖書の朗読・聖体ないし聖餐にかかわる儀式がなされ、また司祭や牧師らによる説教が行われる。ここでの祈祷はしばしば歌唱を伴った聖歌や賛美歌のかたちで行われる。席上、信者からの献金が集められることが普通であるが、献金は義務ではない。聖餐のあと、短い祈りがあり、終了が告げられて礼拝が終わる。礼拝全体の時間は、教派によって異なるが、1時間から2時間ほどである。ほとんどの教派は日曜日を重視し、これを主日と読んで共同の礼拝を行うが、少数ながら土曜日を公の礼拝の日とする教派も存在する。詳しくは、祈祷・典礼・奉神礼の項を参照。 信者となったものは、それぞれの教派の聖餐に与ることができる。パンとぶどう酒がキリストのまことの肉と血になるという聖体の教義をもつ教派では、これを、ミサ、聖体礼儀と呼ぶ。他教派の類似の儀式に参加を許されるかどうか、また自教派が特定他教派の類似の儀式に参加を許すかどうかは、それぞれの教派によって考え方を異にする。またプロテスタントの教会のなかには、洗礼を受けていないものにも聖餐への参加を許すものがある。 最初期の教会では、ミサ(聖体礼儀)などの礼拝行為への参加、定期的な断食などの義務があった。これと歴史的に連なる伝統的な諸教派では、信者に、年に決まった数以上の聖体拝領・断食・告悔(痛悔)の義務などの信仰実践が教会法によって義務付けられている。その一方で、現代は各教派とも、あまりこうしたことを強調しない傾向がある。それぞれの教派ごとに課せられる信仰実践の義務と恩沢については、秘蹟および各教派ごとの記事を参照されたい。 公の礼拝行為のほかに、ほとんどの教派では、私的な祈りを共同で行う会や勉強会などを開いている。こうした会合はあまり大々的に宣伝されることがないが、たいていの場合、信者以外でも参加することが出来る。宿泊を伴うものもある。修道院をもつ教派では、教会のほか、修道院でも修道会に所属しない一般信者を対象にそうした集まりを主宰することがある。 信者は所属する教会を中心に、年齢別・性別の任意団体に加わることができる。児童たちは一般の礼拝と別に開かれる日曜学校に参加して簡単な教義を教えられ、青年会、婦人会や壮年会が分担して施設の清掃・維持・修繕、典礼の補助、教会の運営、他教会との交流行事などを行っている。多くの教会では、こうした団体への参加は義務ではない。 また、教義上の義務ではないが、キリスト教は、隣人や貧者への善行を伝統的に奨励しており、このため病人や旅行者あるいは貧者を対象とするキリスト教関係者の慈善活動は古来より盛んに行われた。現在慈善の意でもっぱら使われる「チャリティー」はラテン語で愛(ギ・アガペー)を意味するカリタスが英語化したものである。このような流れは、現代における社会福祉活動にも少なからず繋がっている。from Wikipedia Japan
2007.04.29
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キリスト教とは キリスト教(基督教、きりすときょう)は、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従う伝統的宗教。 世界における信者数は20億人を超えており、全ての宗教の中で最も多い。教派と信徒数 キリスト教は、おおむね次のように分類される。 1.原始キリスト教(最初期のみ、下記の諸教会の前身) 2.西方教会:西ローマ帝国で発展した教会。 1)カトリック教会 2)プロテスタント:16世紀の宗教改革運動によりカトリックから分離した諸教派。主な教派として次のようなものがある。 a.聖公会(イギリス国教会) b.ルーテル教会(ルター派) c.改革長老教会(カルヴァン派) 3.東方正教会(オーソドクス):東ローマ帝国で発展した教会。 4.東方諸教会:単性論の諸教会(アルメニア使徒教会、コプト正教会など)、ネストリウス派など 世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、1993年の集計で約21億人(うち、カトリック10億人、プロテスタント諸派計5億人、東方正教会2.4億人、その他教派2.75億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人をはるかに超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。例えばフランスでは9割以上が信者であるが、積極的に信仰実践しているもの(教えを守る、教会に行く)は7割であるといわれる。 日本国内に限ればキリスト教の信徒数は約200万人程度と言われ、" 神道約10,600万人 " あるいは " 仏教約9,600万人 " という数字に比すと少数派に留まる。 また教派とはいえないが、信仰形態に着目した分類として、とくに次の区分を用いることがある。 1.民衆キリスト教(スペイン、フランス、イタリア、中南米などの田舎で信仰される、カトリックとローマ帝国以前の多神教信仰の習合形) 2.土着キリスト教(上記「民衆キリスト教」と似ているが、中南米の非白人から信仰されている擬似キリスト教。例:ブードゥー教) 教典 紀元後1世紀から遅くとも2世紀末までに成立したとされる「新約聖書」(神の「新しい契約」の意。ギリシャ語聖書とも言う)だけでなく、(新約聖書の基礎として)ユダヤ教の聖典でもあるヘブライ語聖書も旧約聖書(神の「旧い契約」の意。)として教典とする。 キリスト教でいう旧約聖書の範囲は、教派によって異なる。 また、新約聖書の諸文書の位置付けも、わずかではあるが他と異なる教団もある。これらの分類(正典化)は古代末期に成立した。伝承では新約聖書は1世紀末までにイエスの直弟子(使徒)とその追随者たちによって書かれたとされているが、近代以降の研究の結果、現在ではいくつかの文書は彼らに仮託され、2世紀末までに成立したと考えられている。教義 キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。所謂正統教義では、神には、同一の本質をもちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格(父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とする。なお、上記と異なる神の概念を有する教派もある。たとえば三位一体を否定する教派(エホバの証人やユニテリアンなど)がある。こうした教派を「キリスト教」とみなすかどうかは多く議論の的となっている。アダムとイヴの背信行為以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪を背負っている存在であるが(原罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。 キリスト教の根本教義をまとめたものを信条(信経)という。もっとも重要なものとして、現在のキリスト教のほとんどの教派が共有するニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。信条は教会内に存在した異端を否定するために成立し、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。以下、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の構成に沿って、キリスト教の基本教義を示す。 1.神は三位一体である。 2.父は天地の創造主である。 3.子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。 4.キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。 のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。 5.キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。 6.キリストは自らの死によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。 7.キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。 8.聖霊も神(=人格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。 なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と東方正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。 9.教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。 なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。 10.洗礼(バプテスマ)による罪の赦し。 神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦す。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。 11.死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。 伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。 またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体と血(聖体)に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、東方正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。 教義には教派ごとに若干の変異がみられる。たとえばアルメニア使徒教会などの単性論教会は、キリストの人性は神性に融合されたとする。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。 上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認するものを異端という。多数派は、神概念の多神論的解釈、キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない、聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とする、キリストを被造物とする、キリストの十字架(=贖罪死)と復活を認めない、などを異端として排除する。ただしカトリックの聖人崇敬、及び天使崇敬に多神教の性格を指摘する見解もある。なお現代では共存している各教派も歴史的には互いを異端といい、また教義の上では他派の見解を異端として、自派にもちこむことを多く拒否している。異端と正統の違いは、視点の違いが含まれている点にも留意されたい。from Wikipedia Japan
2007.04.28
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シーア派は、イスラム教の二大宗派のひとつ。イスラム教の開祖ムハンマドの従兄弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。 シーアは、アラビア語で「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーア派の人々が、「アリーの派」(シーア・アリー)と呼ばれたことに由来している。のちには、シーアに単に定冠詞を付したアル=シーアという語で「アリーの派」を意味するようになり、派の名称として定着した。シーアに属する人のことをシーイーといい、スンナ派信徒を意味する「スンナに属する人」(スンニー)に対応する。従って、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは厳密に言えば同一語の二重の繰り返しである。 信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし(レバノン内戦参照)だが、人口の半数以上を超えているといわれる)では特にシーア派住民が多い。またパキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーンにも比較的大きな信徒集団が存在する。 シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派などがある。十二イマーム派はイランやイラク、レバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。 イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームの死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインド・パキスタンのホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。 ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。 シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義をもつにいたった分派も存在し、系統不明のアラウィー派やイスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。From Wikipedia Japan
2007.04.21
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スンナ派はイスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた「慣行」(スンナ)を守る宗派という意味で、アラビア語で「スンナに従う人」を意味する「スンニー(Sunni)」の語からスンニー派、スンニ派とも呼ばれる。イスラームの宗派の中で最大の勢力となる、多数派となっている。多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などといわれたりもするが、正統であるかどうかはあくまでスンナ派の内側から見た理解である。 イスラームという宗教が生まれて間もない初期のころ(正統カリフ時代)に、預言者の後継者(ハリーファ(カリフ))を誰にするかという問題において、ムハンマドの従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみがイマームとして後継者の権利を持つと主張したシーア・アリー(「アリーの党派」の意。後に略されて「シーア」、すなわちシーア派となる)に対し、アブー=バクル・ウマル・ウスマーンのアリーに先立つ三人のカリフをも正統カリフとして認めた大多数のムスリム(イスラーム教徒)がスンナ派の起源である。 スンナ派は、イマームの指導を重視するシーア派に対して、預言者の言行(ハディース)を通じてスンナの解釈を行うことで預言者の意思を体現しようとする。さらにイスラーム法学者の議論を通じて、コーラン(クルアーン)、慣行(スンナ)、合意(イジュマー)、類推(キヤース)の四つの方法を四法源として重視するに至った。イスラム共同体(ウンマ)の間の「合意」を重視する点がシーア派と比較した場合のスンナ派の大きな特徴である。四法源から導き出されたスンナ派のイスラム法学は法源の扱い方の違い、解釈の違いによってさらに四つのイスラム法学派(ハナフィー学派・シャーフィイー学派・マーリク学派・ハンバル学派)に分かれている。スンナ派の信徒はいずれかの法学派に属し、それによって生活を律する。また、神学的にはアシュアリー派とマートゥリーディー派で述べられる信仰箇条をイスラームの正統的信条とする(ただし、ワッハーブ派ではこの二派は異端とされる)。 歴史的に見て、イスラム世界の中心部に興亡した王朝はウマイヤ朝・アッバース朝を始めとして多くがスンナ派に属する。ファーティマ朝やサファヴィー朝のようなシーア派を奉ずる強大な王朝が興ると対抗してセルジューク朝・オスマン朝の中でスンナ派擁護の動きが強くなることもあった。 スンナ派イスラームの拡大においては、イスラーム神秘主義者(スーフィー)の力が大きいと言われる。北アフリカ(マグリブ)では聖者崇拝が盛んであるし、トルコや中央アジアでは革命により公的に禁止されたものの歴史的には神秘主義教団(タリーカ)が大いに栄えた。エジプトやインド・パキスタンでは現在もタリーカが社会的に強い影響力を持つ。 このようにして広範な地域に広がったスンナ派は、スンナ派と一口に言っても、例えば東南アジアの国インドネシア・ジャワ島のスンナ派と中央アジアの国ウズベキスタンのスンナ派と、西アフリカの国マリ共和国のスンナ派の間で実体に違いが見られる。ジャワにはジャワ神秘主義があるし、ドゥクンと呼ばれる一種の黒魔術師すら認められる。このような多様性がスンナ派のいまひとつの特徴であると言えよう。 しかし、歴史的にスンナ派内部では、自らの多様性に対し、預言者の時代を見習い(見直し)、退廃した社会をただそう、より正しい社会になろう、という復古改革運動がしばしば見られる。特に近代に至ってサウジアラビアでワッハーブ派の改革運動が生まれ、その影響を受けてコーラン・スンナの規定を厳格に適用することで多様性・土俗性を廃そうとするイスラム原理主義と通称される初期イスラーム復古運動へとスンナ派ムスリムの一部は現在も進みつつある。特に近代のスンナ派の復古運動は時に反帝国主義・反共産主義・反イスラエル・反米などの意識と結びつき、無視できない潮流となっている。from Wikipedia Japan
2007.04.20
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「ジハード」概念の問題 クルアーンの記述には、異教徒に対する暴力を奨励するような記述が多数見られるが、これは当時、啓典の民(キリスト教徒、ユダヤ教徒)に裏切られ、イスラム教徒が多数殺されたことに対する記述であり、クルアーンには、啓典の民に対して、礼儀正しく、敬意を払わなければならないと訴えている箇所も多数見られる。ムスリムが”神のために苦しむこと、自分の欲望を断ち切って努力する事”をジハードというが、この意味は信者の間で誤解されることが近年増え、ジハードの名のもとに多くの破壊が行われている。 もともと伝統的な多神教が信仰されていたアラブ人の社会の中で生まれ、さらにユダヤ教やキリスト教などの異教を乗り越える中で拡大していったイスラム教は、自らが純粋で真正な一神教であるという確信に基づく自意識を強く持ち、イスラーム共同体の開祖であるムハンマドの時代からムハンマド自ら多神教の神像を打ち壊し、敵対するユダヤ教徒を屈服させることによって急速な拡大を実現した宗教であるとされているが、その一方で、ムハンマドは和平を強く象徴しており、偶像破壊は、幾度と行われた外交的な交渉で勝ち取ったメッカへの巡礼許可のもとに行われたものである。イスラームを奉ずる国家や民族が、他の宗教を奉ずる文化に対して圧迫を加えた例は少なからず見受けられるが、宗教の強制はイスラムでは堅く禁じられている。(ただし、これは異教徒に対するものであり、イスラーム信徒の棄教者は死刑とされる)シリアや小アジア、イベリア、インドなどでは、ムスリムによってモスクへと改築されたり、破壊されてしまったキリスト教会、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院が数多く見られる。但し歴史上の其れに関しては、ムガール帝国期のインドにおいて非ムスリムとムスリムの宥和政策がとられたことやクリスチャンの十字軍などを挙げイスラムの排他性のみをことさらに強調するのは誤りだとする意見もある。イスラームによる他宗教への弾圧に関しては近年でも、タリバーン政権によってバーミヤーンの大仏が破壊されてしまったことは記憶に新しい。 近年、自爆テロなどで活動の過激さを増しているイスラーム主義の先鋭的勢力も、異教徒に対するジハードを旗印として活動を行っていることは紛れもない事実である。 パレスチナ問題に対する抗議として行われるハマースの自爆テロなどはその典型であるが、こうした過激なジハードが繰り返されてきた結果、過激派はムスリムの間に少なからぬ支持者を集める一方で、国際世論をイスラーム社会に対する同情から、イスラーム社会の排他性に対する非難へと傾かせることになった。 特に、アメリカ同時多発テロ以降、その傾向は強まりつつある。同時多発テロの実行犯たちは、これを「ジハード」であると認識し、善行と信じて犯行を実施したとされている。イスラーム社会の宗教指導者たちの少なからぬ者は、「暴力はイスラームの本質ではない」として直接的・間接的にテロを批判したが、複数の宗教指導者が、テロの実行犯たちをジハードによる「殉教者」として称えるファトワーを発したことも事実であり、逆に非難するファトワーは皆無である。しかし、イスラム教では、無実の者を殺害する事は一切禁じられており、クルアーンにも厳しく書かれている。もともと、テロリストとは、”テロを実行する者”であり、ムスリム ”神に服従する者”ではない。従って、イスラム教を名乗り、テロを行うことは、最大の矛盾ということになる。from Wikipedia Japan
2007.04.19
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現代のイスラム教を巡る諸問題政治的問題 イスラームの項目でもあるように、イスラム教は宗教的理念のみならず、民間の慣習や政治に深く関わっている。そのため、政教分離を特徴とする欧米的なシステムとイスラーム的なシステムは相矛盾することとなり、どの程度折り合いをつけるかが、20世紀以来のイスラーム社会の大きな問題となってきた。 多くの国は、イスラームの伝統と、欧米的なシステムの間で融和を図ろうとしているが、こうした姿勢自体に対する反発も根強い。いわゆる「イスラム原理主義」、あるいは政治的運動としてのイスラーム主義は、こうしたイスラーム的価値観の折衷に反対し、可能な限りイスラームの伝統、クルアーンの教えにのっとらねばならないと主張する。しかし、世界経済の進展や、国際社会に対する欧米諸国の国力の圧倒的な優位のもとではイスラーム主義的な主張は多くの困難を抱えており、武力を行使してまで理想の実現をはかる人々も少なからずあらわれる。ホメイニーが指導するイラン革命やアフガニスタンのターリバーンがそれである。 また、中東戦争など、ムスリムが大多数を占める国々に対する欧米諸国の介入を目にして、欧米のキリスト教社会がイスラーム社会を圧迫し、蹂躙していると構図でとらえるムスリムは多い。にもかかわらず、イスラーム諸国は国際的な発言力が大きいとはいえないし、イスラーム諸国の中に強い影響力を持つエジプトやサウジアラビアなどが親米・欧米協調路線をとっているため、イスラーム諸国はしばしばイスラーム社会が「被害者」となる情勢に対して無力である。これらのことが、イスラーム社会の多くの民衆に反欧米感情とともに、自国政府の「同胞の危機に対する無力」に対する失望・不満を鬱積させることになっていて、暴力によって欧米社会の圧力を排除しようとする過激派(アルカーイダ、ジェマ・イスラミアなど)の誕生のひとつの要因になっている、との見方もある。現代国際社会の普遍的価値観との価値観の相克の問題 イスラム教を奉ずる社会においては、現在の国際社会で信奉されている普遍的な価値観、すなわち人権などの近代思想から逸脱する価値観が、イスラームの名のもとにしばしば正当化される傾向が普遍的な価値観を奉ずる側から批判的に指摘されている。また、アッバース朝の時代にほぼ固まったイスラーム法を遵守する結果、その後の社会情勢の変化に対する柔軟な対応を欠くようになったという主張も根強い。 一方で、イスラーム社会の内部では、イスラームの伝統の名の下に行われてきた慣習や法を、イスラームの教えの解釈の適用変更によって改善すべきだという主張や、イスラームと人権などの価値観は共存可能である、あるいはイスラームは本来人権を尊重する教えである、といった言説も見られる。 現実の社会では、多くの国では、イスラーム法に厳格に基づく刑罰は既にあまり行われなくなっているが、サウジアラビアやイラン革命後のイラン、ターリバーン時代のアフガニスタンなどでは、イスラーム法を厳格に適用した結果、国際社会から人権侵害として憂慮された事例が報告されている。イランでは、道徳裁判所の判決が人権を無視していると伝えられることが頻繁に起こっている。サウジアラビアでは、窃盗の罪で手を切り落とす刑罰が実施されていると伝えられている。また、アラブ民族主義に基づく世俗国家を志向していたサッダーム・フセイン政権下のイラクでも、代表サッカー選手が負けた場合、鞭打ち刑が実施されたためにFIFAが刑の執行中止を勧告した例がある。 全体的な趨勢としては、社会の都市化・近代化が進んだ地域では、イスラームの教えを根拠とする価値観が薄らぎやすい傾向があるとされる一方、都市化・近代化で伝統的な共同体が破壊された結果、人々がアイデンティティの拠りどころをイスラーム的な価値観に求め、生活を再び保守化する傾向があるとされている。「女性差別」問題 一般にイスラーム社会は男尊女卑の世界と言われているが、実際に男尊女卑はイスラム教の教えに反するものである。法的に女性の固有の権利も認められており、これを根拠にイスラーム社会の法慣習に擁護的な論者はイスラームは男女同権であり、男尊女卑という非難は不当であると主張している。しかし、クルアーン及びイスラーム法が、男女がそれぞれ独立した社会活動をしている上、結婚・出産等に関しては男女ともに大幅に制限が設けられるのは当然であるという思想を根本に有している。このため、男性と女性の権利の差異が厳然として存在するという事実は否定の余地が無く、こうした事情を踏まえた上で、「イスラーム社会では男女は共存することはできず、男女間には完全な平等は存在できない」という解釈も唱えられ、浸透しつつある。 クルアーンには、当時低い立場にあった女性の立場を守るために下された法令が書かれており、法的に女性の遺産相続や離婚、学習の権利も認められており、男女同権であることを主張している。なお、イスラーム法では男性は4人まで妻を有する権利を有する一夫多妻制であるが(これは元々は男尊女卑的な思想に基づくものではなく、当時、預言者ムハンマド率いる2回の戦争で夫を亡くした女性の地位を守り、母子の生活手段を確保するために神が下した啓示であり、弱者救済策を目的としている)、現代社会では、一部の裕福な層とかなり貧困な層を除き、イスラーム社会の夫婦の大部分が一夫一妻である。複数の妻を有する場合は夫は妻らを平等に愛し、扱うことが義務とされる。また、イスラム教は、妻の数を4人までと定めている唯一の宗教で、同じ一神教であるキリスト教やユダヤ教には、そのような法律は定められていなく、当時は4人以上の相手を妻に迎える事が主流であった。 また、法慣習の建前から離れた現実においても、今日、イスラーム社会での女性の人権に対する問題は深刻である。さらに、イスラーム法に直接には基づかない慣習が非常に多くの国に残されているのも深刻な問題とされている。国ごとの違いや、あるいは一国の中でも社会階層や地域による差は大きいが、「女子の就学制限」、「名誉の殺人」、「女子割礼」などが現在も横行しており、イスラームの伝統的な価値観に照らして正しいと少なからぬ人々が信じている。 特に、強姦罪において、イスラーム法によれば容疑者を有罪とするためには証人が4人必要であるとされることから被害者にとって不利が大きく、国際的な非難の的である。さらに、貞操や名誉などの伝統的な社会通念を重んじる地域では、強姦の被害を受けた女性は被害者であるとみられるよりもむしろ「恥」とみられるような感覚をもたれることになり、イランでは、道徳裁判所の判決により、強姦の被害者が姦通罪により死刑になるような事例も伝えられている。 服装の規定を厳格に守れば、女性は自ずと家庭外での活動を制限されることになる。これは、イスラームの教えのひとつに、女性は家庭の外では夫以外の男性の視線から自身を守るために女性的な部分を包み隠すべきであるとする教義が存在するためである。これがイスラーム以外の宗教の信徒でも見られる西アジア社会の伝統的な女性の服装習慣と結びついて、女性は外出時には体全身を覆う外出用の衣装を身に付けることがイスラーム的に好ましいと多くの社会では考えられており、サウジアラビアやターリバーン時代のアフガニスタンにように、政府による女性の外出時の服装制限が行われた地域も存在する。また、服装は西欧化が進んだ地域でも、イスラーム的な女性の外出時の習慣としてスカーフを着用し、髪を隠すムスリムの女性は多い。一方、エジプトやトルコなどでは、学生など特に若い層を中心に、日常生活のほとんどを西洋人と同じジーンズなど軽装で過ごす女性が多い地域も増えてきている。 女性のスポーツの問題に於いても、服装が制限される結果、それによって競技ができない場合も少なくないため、多くの国で女性のスポーツ浸透が大幅に遅れている。中には、イスラーム教の棄教及び他宗教への改宗によってスポーツ社会に進出した女子選手も存在する。女子バレーボールでは、エジプトの代表チームが近年登場するようになっているが、このユニフォームは、クルアーンに抵触しないようにデザインされている。また、スカーフ着用で試合に出場する選手も多い。 スカーフ着用に関しては、イスラーム社会の内外で現在、賛否両論が相次いでいる。慣習に厳格な国では女性が外出する際にスカーフを着用することが強要されている。一方で、世俗主義を標榜するトルコなどでは、政教分離の原則に基づいて公的な場でスカーフを着用することが忌避される。加えて、脱イスラームを標榜する人々や、イスラーム社会外部の人々の中には、スカーフ着用を女性の人権抑圧の象徴として着用を禁じるべきと主張するものも少なくない。トルコや、あるいはフランスなどのヨーロッパにおける政教分離原則の国々においては、法律によるスカーフの着用禁止を巡って、自発的にスカーフを着用するムスリムの女性から逆に人権上の問題ととらえられているような事例もしばしば発生しており、政治問題に波及している。from Wikipedia Japan
2007.04.19
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イスラム教の歴史始原 西暦610年頃のラマダーン月に、ムハンマドはマッカ(メッカ)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。最初、彼が人々に伝えた啓示の教えはマッカ(メッカ。以後の表記は「マッカ」)で迫害されたため、621年、ムハンマドはヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に逃れる(ヒジュラ)。 ヤスリブにムスリムのウンマ(イスラーム共同体)を建設したムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにマッカを占領した。その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、後を継ぐイスラーム共同体の指導者として預言者の代理人(カリフ)が定められた。スンナ派とシーア派の分離 ムハンマド死後もイスラーム共同体の勢力拡大は留まることは無く、4代の正統カリフの指導のもとイスラーム帝国と呼びうる大帝国へと成長していった。結果、ムハンマドの後継者のリーダーシップの下、イスラム教は急速に拡大し、現在に至るイスラーム勢力範囲の確立にも繋がった。イスラム教勢力が改宗の他にも、軍事的征服で拡大していった事が最も大きな要因とされる。 しかし、拡大とともに内紛も生じ、3代カリフの死後、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。結局、イスラーム帝国はウマイヤ家のムアウィーアがカリフ位を世襲して支配する。これに対して、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。イスラーム帝国の時代 8世紀半ば、ウマイヤ家のカリフ統は、よりムハンマドの家系に近いアッバース家に倒され、アッバース朝が成立する。アッバース朝はアラブ人以外でイスラームの教えを受け入れた者をムスリムとしてアラブ人と同等に扱う政策をとったため、ここにイスラーム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラーム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、それまで征服者のアラブ人の間だけにほとんど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人などの他民族に広まっていった。 また、国家としてのイスラーム帝国も、アッバース朝の下で空前の繁栄を迎えた。この時代、ムスリムの商人は広域貿易を盛んに行い、西アフリカ、東アフリカ、インド、東南アジア、中央アジア、中国などへ旅立っていったので、次第にイスラム教の布教範囲は広がっていった。 また、神学をはじめとする多くの学問が栄え、イスラーム法(シャリーア)が整備されていった。一方で、素朴な信仰から離れ始めた神学への反発からスーフィズム(イスラム神秘主義)が生まれ、イスラーム以前の多神教の痕跡を残す聖者崇拝と結びついて広まっていった。 しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。こうしてイスラーム共同体の政治的分裂は決定的になる。近代 近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興と総称される潮流へと発展しており、現在も多くのムスリムの心を掴んでいる。
2007.04.17
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宗教への理解の一助に・・・。 イスラム教とは唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ、またはアッラー)を信じ、神が最後の預言者たるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフを通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ従う一神教である。アッラーは、99あるとされる神の呼称の一つであり、”唯一の”という意味を含む。 ユダヤ教やキリスト教(世界三大宗教の一つ)と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なるとされる唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。イスラム教はアラビア語を母語とするアラブ人の間で生まれ、神がアラビア語をもって人類に下したとされるクルアーンを啓典とする宗教であり、教えの名称を含め、宗教上のほとんどの用語はアラビア語を起源とする語である。 イスラム教に帰依する者(イスラム教徒)は、アラビア語起源の言葉でムスリム(muslim)といい、ムスリムは、自らの教えの名を、アラビア語で「身を委ねること」「神に帰依すること」を意味するイスラーム (al-Islam) の名で呼ぶ。「イスラーム」は「神への帰依」を意味すると解されており、「ムスリム」(イスラム教徒)は「神に帰依する者」を意味する。 なお、日本を含む東アジアの漢字文化圏では、古くは「回教」と呼ばれることが多かったが、現在はどの国でもイスラームの名に基づく呼称が一般的であり、あまり用いられていない。 イスラム教の教典(聖典)は、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)である。クルアーン自身の語るところによれば、唯一なる神が、人類に遣わした最後にして最高の預言者であるムハンマドを通じて、ムスリムの共同体(アラビア語でウンマ)に遣わした啓典(キターブ)であり、ムスリムにとっては、神の言葉そのものとして社会生活のすべてを律する最も重要な行動の指針となる。 イスラム教では、神(アッラーフ)が、預言者を通じて人類に下した啓典が、人類にとって正しい信仰の拠りどころになると考えている。 ムハンマド以前から、神は様々な共同体に預言者を遣わして、啓典を下してきた。しかしそれらのうちでもクルアーンは、神が人類に啓典を伝えるために選んだ最後にして最高の預言者であるムハンマドに対し、最も明瞭な言語であるアラビア語を用いて人々に与えた啓典であり、アラビア語で書かれたクルアーンの言葉は神の言葉そのもので、最も真正な啓典であるとされている。 このような性格のために、イスラム教は、アラビア語を解するアラブ人のための民族宗教であるかのようにとらえられたこともあるが、クルアーンは全人類のために下された啓典といわれている。 イスラム教の信仰の根幹は、六信と五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。 六信は、次の6つである。1.神(アッラーフ) 2.天使(マラーイカ) 3.啓典(クトゥブ) 4.使徒(ルスル) 5.来世(アーヒラ) 6.定命(カダル) このうち、特にイスラム教の根本的な教義に関わるものが神(アッラーフ)と、使徒(ルスル)である。 ムスリムは、アッラーフが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信ずる。イスラム教に入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「神のほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。 また、ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。1.信仰告白(シャハーダ) 2.礼拝(サラー) 3.喜捨(ザカート) 4.断食(サウム) 5.巡礼(ハッジ) これに、聖戦(ジハード)を6つめの柱として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。 これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が巡礼(ハッジ)であり、1年のうちの決まった日に、イスラム教の聖地であるサウジアラビアのマッカ(メッカ)ですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。 ムスリムは、クルアーンのほかに、預言者ムハンマドの膨大な言行をまとめたハディース(伝承)に、クルアーンに次ぐ指針としての役割を与えている。その理由は、ムハンマドは神に選ばれた最高の預言者であるから、彼の言行のすべては当然に神の意志にかなっていると考えられるからである。また、ムスリムの実生活上の宗教や日常に関するさまざまな事柄を規定するために、クルアーンやハディースを集成してシャリーア(イスラーム法)がまとめられている。 これらは教典ではないが、教典を補ってムスリムの社会生活を律するものとされており、その範囲は個人の信条や日常生活のみならず、政治のあり方にまで及んでいる。信仰の共同体と政治的な国家が同一であったムハンマドの存命中の時代を理想として構築されたイスラム社会の国家は政教一元論に立っているのであり、ヨーロッパのキリスト教社会の経験から導き出された「政教分離」という概念はそもそもイスラムに適合しないとすら言われるのはこのためである。 ムスリムはクルアーンやシャリーアの定めるところにより、日常生活においてイスラムの教えにとって望ましいとされる行為を課され、イスラムの教えにのっとった規制を遵守する。教義の根幹として掲げられる五行はその代表的なものであるが、これらは社会に公正を実現し、ムスリム同士が相互に扶助し、生活において品行を保ち、欲望を抑制して、イスラムの教えにのっとってあるべき社会の秩序を実現させようとするものである。 公正の実現と不正の否定は、イスラムの社会生活において特に重要視されている。伝統的社会においては、個々人がシャリーアを遵守し、イスラム的価値観にのっとった公正を実現すべきものとされた。公正は商取引の規制にまで及んでおり、シャリーアに適合しない商取引は不正とみなされる。また、ザカート、サダカなどの喜捨の制度によって弱者を救済することは、現世の罪を浄化し、最後の審判の後によりよい来世を迎えるために望ましい行為とされ、イスラム社会を支える相互扶助のシステムとなっている。社会的弱者に対する救済はイスラムの教えにおいて広く見られ、一夫多妻制のシステムも、元々は母子家庭の救済策であったとされている。 品行を保ち、人間の堕落を防ぐために、欲望を抑制する教えもみられる。女性が家族以外の男性に対して髪や顔を隠すよう求められていることはよく知られているが、これは性欲から女性を保護する目的が本旨であると考えられている。酒は固く禁じられるが、それは飲酒が理性を失わせる悪行であると考えられているからである。しかし、コーヒーやタバコのように、イスラム教の教義が確立後にイスラム社会にもたらされた常習性や興奮作用のある嗜好品については、酒と類似のものとして規制する説も歴史的には見られたものの、今日では酒と異なって合法的なものとみなされることがほとんどであり、いずれもムスリムの愛好家は非常に多い。 「清浄」に対する強い意識も特色であり、動物の死肉や血など不浄なものが体に付着したまま宗教的行為を行ってもそれは無効とみなされる。また、礼拝の際には、体の外気に触れている部分(手足、顔など)は必ず水か日光で消毒された砂で清めなければならないとされている。 イスラム教における信徒の共同体(ウンマ)は、すべてのムスリムが平等に参加する水平で単一の組織からなっていると観念されている。 従って、キリスト教におけるように、宗教的に俗人から聖別され、教義や信仰をもっぱらにして生活し、共同体を教え導く権能を有する「聖職者」は否定されており、これが他宗教に見られない特徴とされている。しかし、六信や五行に代表されるような信仰箇条や信仰行為の実践にあたって、ムスリムを教え導く職能をもった人々としてウラマー(イスラーム知識人)が存在する。 ウラマーは、クルアーン学、ハディース学、イスラーム法学、神学など、イスラームの教えに関する様々な学問を修めた知識人を指すが、彼らは社会的な職業としてはイスラーム法学に基づく法廷の裁判官(カーディー)、モスク(礼拝堂)で集団礼拝を指導する導師(イマーム)、宗教的な意見(ファトワー)を発して人々にイスラームの教えに基づく社会生活の指針を示すムフティー、イスラームの諸知識を講ずる学校の教師などに就き、ムスリムの信仰を導くを果たしている。ウラマーは信仰においてはあくまで他のムスリムと同列に置かれており、聖職者ではないとされているが、こうした特徴のためにしばしば聖職者と混同されるし、実際に、他の宗教における聖職者に近い役割を果たしてきた。このため、非イスラーム教社会のマスコミなどではしばしばウラマーは「イスラム教の聖職者 (cleric)」と報道されている。 from Wikipedia Japan
2007.04.17
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報道によれば今般の捏造問題に関して総務大臣は関西テレビ放送に対して放送法第3条の2の第1項の3(事実を曲げて報道をしてはならない)の規定に反するものとして「警告」を発し、1箇月以内の「充分な再発防止策」の策定及びその提出を求め、3箇月以内の「実施」及び、その報告を求める今までに無い「行政指導」を行いました。また、これらが不十分と認められる場合にあっては電波法第76条の規定に従い、その電波の停止を命じ、または免許の取消も有り得る事を示唆しました。 先だっての日本放送協会(NHK)に対する国際放送についての命令放送(放送法第33条の規定)といった所謂「伝家の宝刀」をちらつかせる等、政府による放送への介入について昔に比べると垣根が低くなっているように感じられます。 ここで「報道の自由に対する政府の不当な干渉」と断じる事も可能ですが、どちらかというと「干渉」を許すほどマスコミ側が油断していたのではないかと考えざるを得ない。 マスコミのうち、新聞や雑誌を含む出版については現行憲法の施行に伴い廃止された出版法や新聞紙法等による統制から解放されているのに対して、テレビやラジオは国家の管理する公有財産であるところの「電波」を使用することから、国家から「免許」されているということを忘却していたのではないだろうか?特にNHK国際放送に対する命令放送の一件についてのNHK側の反応や、それに対する民間放送事業者の反応を見るとその感を強くする。 関西テレビ放送が如何なる対策を採り、実行するのか判りませんが、その対策について総務省がどの様に判断するか全く以て予断を許しません。 場合によっては「停波」あるいは「免許取消」といった処分が下されるか否かも判りませんが、そういった処分が下された場合は関西テレビ放送という放送局は経営が成り立たなくなり、解散せざるを得なくなることは火を見るよりも明らかだと思います。 今般のことは、単に関西テレビ放送による不祥事に止まらず、日本に於けるマスコミ(放送)のあり方に与える影響が大きいということを強く感じる事件だと思います。
2007.03.30
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刺激的な題です(笑) 男というものは強いと言われていますがなかなかどうしてどうして(笑) 男が短距離ランナーだとすれば女はマラソンランナーですね。 男は瞬発力にすぐれているけれど持続力に劣る。逆に女には優れた持続力がある。 男はストレスに曝されると実に弱いが、女は「出産」という大きなストレスに打克つ力を持っている。もし、男が出産をしたらその苦痛に耐えられるのだろうか? 以前から良く私は冗談に「男は女の成れの果て。Y染色体だってX染色体の出来損ない。」などと言っていました。まぁ、本気にしないでくださいね。飽くまでも冗談なのですから(苦笑) とは言っても、この染色体については幾分冗談ともいえないところがありまして、Y染色体はX染色体が幾多の組み換えを経て生成されたものであると言われています。 私は男女同権論者ではありますが同質論者ではありません。異質であるのが当然であって、その質に優劣はないのです。男女がそのもてる特質を相互に補完すべきであると考えます。
2007.03.27
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なんだかんだといろいろやっているうちに2月も過ぎ去り、いつの間にか3月も4日を迎えてしまいました。 更新もせずに1ヶ月以上経過してしまっているのにそれでも1日平均で4~5名の皆さんが閲覧してくださっており、誠に恭久に堪えません。有難うございます。 しかし、内緒の話、いろいろと書きたいことがあるのですが、なかなか書き込みをする時間が取れないのですね。その上、メモを取っていないので暫くすると何を書こうとしていたのかまで忘れてしまうことがあって困ってしまいます。う~ん、痴呆症かなぁ・・・。
2007.03.04
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先日、千島列島沖で地震が起きた際、津波警報と津波注意報(脚注)が発令されました。 今回の場合、予想波高が数十センチという数値だったためでしょうか、関係する市町村が発令した避難勧告や避難指示あるいは海岸への接近または海水中から上る様に勧告ないしは指示があっても、それを守らない人が数多く居たと言うことです。 この予想波高というものは港湾などに設置された験潮儀で観測される海面の高さに対するものであって、実際に津波が来た場合には、それぞれの地形や潮汐あるいは気象条件などによって大きく異なってきます。このため予想波高が50cmであっても、実際の波高は1m以上になることがあります。そのため、たかが30cmくらいの津波だからと侮ることは非常に危険です。 地震は「何日の何時何分に襲来する。」と予測されることは現状では有得ません。ですが、その被害を最小限に抑えることはできます。それは「日頃の準備」です。「来ない。来ない。」と思っていたばかりに、イザ来てしまったら手も足も出ない状態で、ただ呆然と立尽したと言うのでは困るわけです。 地震であれば、建物の強度ですとか、避難用品の準備、避難経路や避難場所の確認。家族が一緒に居ない場合の集合予定場所(これは複数の候補地が必要になります)津波の場合には、自分の居る場所は危険地域にあるのか(広報車などが巡回、防災放送が流れるようなら該当)通常の避難場所ではなく、高台や比較的強固なビルなど高い場所に避難しなければなりませんので、そういった場所の確認も行います。脚注: 津波に関わる警報注意報について 予想される津波の規模に応じて津波注意報、津波警報、 大津波警報がそれぞれ発令される。 津波注意報は予想波高1m未満 津波警報は予想波高1m以上3m未満(2m程度) 大津波警報は予想波高3m以上 予想波高は験潮場における標準海面高の偏差をいう。あんしんの殿堂防災館(下のQRコードでも飛べます)
2007.01.21
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