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著者・編者 | 廣瀬匠=著 |
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出版情報 | 集英社インターナショナル |
出版年月 | 2017年12月発行 |
著者は天文学史家の廣瀬匠さん。「古代インドの宇宙観」として「丸い大地が象に支えられ、それが亀に支えられ、それがさらに蛇に支えられている」という図版があるが、インドの文献にこのような宇宙観の描写は存在しないということ。曜日の概念は、古代メソポタミア、古代エジプト、古代ギリシアの天文学や北欧神話が混ざってできたものであることなど、西洋を中心とした天文学史とは異なった視点から世界史を紐解いてゆく。21 世紀の今日、天体観測だけでなく、各方面で国際共同プロジェクトが勧められている。未来へ向けて一丸となって進むには、歴史の多様性を理解し合うことも大切だと感じる。
まず、暦の歴史から見てゆく――古代の中国、インド、ヨーロッパでは、日時計の影が一番短くなる「冬至」が重要だった。クリスマス(キリストの誕生)の起源も冬至だったと考えられている。
農業暦や、日食・月食の予報のために、国家は暦を管理した。カエサルが定めた太陽暦ユリウス暦は、1600 年もの間、ヨーロッパで使われ続けた。だが、累積する誤差から祝日のズレが問題となっていた。そこで、ローマ教皇グレゴリウス 13 世が改暦を命じ、1582 年からグレゴリオ暦へ移行した。ただし、プロテスタント派はこれに抵抗を示し、イギリスがグレゴリオ暦を導入したのは、1 世紀以上経った 1752 年のことである。
わが国は、奈良時代から江戸時代まで中国から輸入した暦法を利用していた。1685 年になってはじめて、グレゴリオ暦を参考とした太陰太陽暦である貞享暦(旧暦)が作成される。明治維新後、西洋にならって月給制にしたところ、明治 6 年には閏月が挿入されるため給料を 13 回払わなければならず、財政難の中、大隈重信がグレゴリオ暦へ移行することで給料の支払いを減らした。
イスラム教圏のヒジュラ暦は太陰暦で、コーランの教えに基づき閏月を入れない。イスラム教徒にとっては古代と同じように月の満ち欠けが重要で、多くが国旗に三日月を描いている。
曜日の並びは、古代メソポタミア、古代エジプト、古代ギリシアの天文学(占星術)が合わさって、中世ヨーロッパで定まった。かつて、1週間は土曜日から始まり、金曜日で終わっていた。その後、太陽信仰が加わり、1週間の始まりが日曜日にシフトした。
曜日は、真言密教とともに『宿曜経』(すくようきょう)として空海が日本へ持ち帰った。平安時代は陰陽師とともに使われていたが、鎌倉時代以降は衰退し、ふたたび使われるようになるのは明治維新後である。
古代メソポタミア人は、黄道に 12 個の星座を設け、惑星の位置などを記録する目印としました。12 個なのは、おそらく 1 年が 12 ヵ月であることと対応させたのだと考えられている。
紀元前 500 年ごろ、「黄道12 宮」という概念が発明された。黄道を機械的に 12等分したものだが、これにより、春分点が黄道の中を徐々に移動する「歳差」と呼ばれる現象が発見された。プロレマイオスは『アルマゲスト』に 48 個の星座と 1022 個の恒星を一覧として掲げている。これがイスラム文化圏に入ると、星座に絵が描かれるようになる。ペルシアの天文学者アッ=スーフィー(903~986)は『アルマゲスト』の表をさらに詳しくした『星座の書』を著した。
星座の境界線が決まったのは 20 世紀に入ってからで、1928 年の国際天文学連合(IAU)総会の場であった。このとき、88 個の星座が定められた。
彗星の研究で知られるエドモンド・ハレーは、いくつかの恒星が、歳差とは別に「固有運動」をしていることを発見した。恒星の名前は、つい最近まで定められていなかった。2015 年、IAU が系外惑星と恒星の名前を募集したところ、シリウスのようによく知られた名前が非公認だというのは変な話ということになり、翌年、代表的な恒星の固有名が定められた。
西洋では、天空における予報可能な現象が天体現象であるとして、彗星や流星などの突発的な天文現象は気象現象だと、長い間考えられていた。
1577 年、ティコ・ブラーエは、自ら発見した彗星の観測を続け、それが月より遠いところにあること、惑星の軌道を横切っていることを突き止めた。その後、彗星の研究は進み、それが天体であることが認められた。
1910 年にハレー彗星が回帰したときは、尾の中を地球が通過するほどまでに接近した。フランスの天文普及家カミーユ・フラマリオンは、「尾に含まれる有毒ガスによって地上の生物が死滅する」という説を発表し、世の中はパニックに陥る。いわゆる“有識者”が世間の関心を呼ぼうとメディアを通じてセンセーショナルな発表を行うのは、いまも昔も変わらない。
古代エジプトでは、天の川を牛乳と見なし、牛の女神と関連づけて崇拝していた。アリストテレスは、天の川は天体でなく、月より下にある大気の一部だと考えた。
イギリス人のトーマス・ライトは、恒星はどこまでも同じように散らばっているのではなく、全体としては円盤のように集まっているのではないかと主張した。ウィリアム・ハーシェルは、「明るい星ほど地球に近く、暗い星ほど遠い所にある」と仮定して観測を続け、1785 年、恒星の分布を立体的にとらえた「宇宙の地図」を描いた。こうして天の川銀河の姿が明らかになってきた。1912 年、リーヴィットはケフェイド型変光星には変光周期が長い星ほど明るいという関係があることを突き止め、遠くの恒星までの距離を算出できるようになった。
1932 年、銀河系内の恒星を丹念に調べていたオールトは、その動きを説明するには見えている恒星およびガスや塵からの重力だけでは足りないことに気づき、これが暗黒物質(ダークマター)と呼ばれるようになる。
世界創造神話の典型的なパターンは、巨大な人間そのものが世界を形作るというものだ。古代中国の盤古や、古代インドのプルシャ、古代エジプトのヌートやゲブという神々がそれだ。
古代ギリシアのタレスは、神話を使わずに世界の成り立ちと形を説明しようとしたが、アリストテレスは宇宙の始まりというものを想定しなかった。
9 世紀ごろから『アルマゲスト』を受容したイスラム文化圏では、宇宙の構造を解明しようとする姿勢が目立つようになってきた。
一方、『アルマゲスト』とは別に古代ギリシアの影響を受けたインドでは、惑星までの距離や世界が創造されたときについて具体的な数値を記述したり、計算に使ったりしていた。それでいながら、「究極の真実」は天文学では知覚しようがないとして、ヒンドゥー教との間に対立が起きないようにしてきた。
17 世紀に入ると、アイルランドのアッシャー大司教が天地創造は紀元前 4004 年だと計算した。ビュフォンの計算では、地球の年齢は約 7 万 5OO0 歳となった。さらに 20 世紀にはハッブル定数が計算され、宇宙の年齢が 140 億年前後という気の遠くなるような過去であることが分かってきている。
さて、「古代インドの宇宙観」として「丸い大地が象に支えられ、それが亀に支えられ、それがさらに蛇に支えられている」という図版があるが、じつはインドの文献にこのような宇宙観の描写は存在しない。西洋科学文明主義に感化された我々は、他の文明を不当に低く評価しているかもしれない。21 世紀の今日、国際連携による観測プロジェクトが増えてきている。未来へ向けて一丸となって進むには、そうした過去の多様性を理解し合うことも大切になることだろう。
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