セレンディピティ

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2007/12/23
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カテゴリ: 歴史

BC213年、秦始皇帝による『焚書坑儒』(東洋史の捏造)事件が起きます。

『焚書令』が出され、秦の記録以外の史書をすべて焼き、この世から消し去ったのでした。

『六国年表』などの諸侯の記録、民間にある詩・書・百家の語(録)などもすべて回収して

秦以外の史書、詩経、書経をことごとく焼き捨てさせたのでした。それだけでなく、『焚書令』

の翌年に、坑儒事件が起こり、この法に触れたという罪で、儒学博士や史学者たち460人余り

が首都で生き埋めにされました。

なぜ?こうまでして秦始皇帝は、中国の古代からの歴史を 抹殺する必要があったのでしょう。

『秦本紀』には 「秦の先祖は黄帝より出で・・・・・」 と、なっていて、秦という国が、古くから

この地(中国)に存在したように記してあるといいます。

中国随一の歴史の古典とされる『史記』によれば、中国古代ではBC1600年から殷が始まり

次に周が起こり、やがて長い春秋戦国時代に入ります。孔子、孟子が活躍し、後に儒教の基

となった数々の古典を残したのも、この時代になっています。そして始皇帝によって秦が統一

を果たしたのが、BC221年とされています。しかし秦の台頭は、あまりにも目覚しく、圧倒的な

強さを誇った軍事力も謎に包まれ、また統一後の政策や事業のやり方も画期的で、それまでの

中国に例を見ないような革命的なものでした。

1974年、洛陽郊外で陶馬と武人俑が埋めてある始皇帝陵が発見されました。

この兵馬俑の兵士が、実はペルシアのダリウス三世の「桂甲」とまったく同じものを着用し

その乗馬はペルシア軍の乗馬と同じく耳の付け根を結んでいて、秦とペルシアの同一性

を示すものだといいます。現地の兵馬俑の実寸大の人形は漢民族より長身で顔も西域人

を思わせるものだといいます。

中国史上、最大の英雄の一人である始皇帝が異国人で あったら?

そして、秦帝国がバクトリアの植民地であり、秦以前の歴史がことごとく

オリエント史の翻訳でしかなかったとすれば?

中国が世界の中心であるという中華思想、  「中国四千年の歴史」と、よく言われます。

しかし、ほんとうの中国史は、漢王国から始まった2千年足らずなものでしかないと

考えられます。秦以前の、この大陸には、漢民族なるものは存在していませんでした。

『史記』を書いた司馬遷自体が中国人ではなく、ユダヤ人であり

その師である、孔子もまたユダヤ人のラビ族でした。

「殷」がシュメールの本国『イシン王国』、周は『アッシリア』、秦は『ペルシア』の歴史を

モデルに司馬遷が『史記』に創作したものだったようです。彼は宮刑に遭いながら

『史記』を書いたといいます。李陵を庇ったために武帝により刑罰に遭ってしまった

とされますが、それだけでは、過酷過ぎるので、中国史改竄を強要され、それを知る者

として宮刑にされた可能性も考えられます。司馬遷は父の司馬談と同じく太史公という

職にありましたが、この職業は歴史の記録だけでなく、もうひとつ、天文観測

実は星占いがありました。古代の天文は暦を作ることと星占いでした。

古代では歴史と星占い(予言)は同一人が兼ねるほどに不可分であり、ここに星占い

の専門科としての司馬遷が、オリエント史をもって中国史とした必然性がありました。

星占いは、別名『カルデアの知識』といわれたように古代バビロンで開発され、カルデア人の

天文学は有名でした。バビロンの星占いたちは、王さまの跡継ぎを誰にすべきか、いつ戦争

をすれば勝てるか、この将軍はダメだから取り換えた方がいいとか、国政に口をはさんでは

生活費を得ていました。司馬遷の時代にあって星占いは先端技術であり、そのベースに歴史

があり、歴史の中にある因果律を見出して、それを神意として想定することによって初めて

予言が成立したと考えられます。その時、司馬遷が用いた星占いはオリエントの技術であり

その素材となるべき歴史は、すべてオリエント史であったと思われます。






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最終更新日  2007/12/24 08:47:23 AM


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