セレンディピティ

セレンディピティ

2007/12/28
XML
カテゴリ: 歴史

BC213年、秦始皇帝による『焚書坑儒』事件以来、ユダヤ北朝系(イスラエル10部族系)から

南朝系(エルサレムのユダ王朝2部族系)となったガド族(孔子・孟子の子孫たち/河南省南陽

宛の製鉄族)の山東半島から渡海して遼東へ逃れていましたが、やがて燕王 公孫氏(南朝系

イッサカル族)の一部勢力と連合して移動を開始しました。

BC210年、始皇帝ディオドトス1世死す。BC209年、ディオドトス2世(胡亥)即位。

BC208年、エウチデムス(項羽)、シリア王アンティオコスを破り、バクトリア王国を承認させる。

BC207年、エウチデムス(項羽)がバクトリアから追撃してきて、ディオドトス2世(胡亥)を討つ。

余談ですが『馬鹿』という言葉について。

秦始皇帝の子、胡亥に趙高が馬を鹿と教えたという説話が『唐書元しん伝』に記されて

いますが、本来は騎馬民族である秦(アケメネス・ペルシア)の歴史を扶余史と取り換えたことを

意味し、この場合『鹿』によって、インザク神をトーテムとする扶余系を示すのです。

すると説話の意義は、西域から中国大陸を支配した扶余(および、箕子国と辰国)史を中国大陸

の歴史として書くべきであるのに、ペルシア史を中国史として書いたことを、この言葉に秘して

伝えたことにあるそうです。

BC206年、ディオドトス3世(子嬰)もエウチデムス(項羽)に殺され宮廷も焼かれて秦国、滅亡。

秦の王族たちは遼東へ逃れ、箕子朝鮮を頼って亡命しました。

このあと、エウチデムスも、ひどい 蛮地であり、法と秩序を守らない人々の治め難さを知って

中国大陸を見捨てて インドへ転進しました。

従って、項羽と劉邦の戦いという史実はなく 『史記』は、歴史捏造であったようです。

それを証明するかのように始皇帝の地下宮殿も 20世紀の発掘によって焼けてないことが

判明しました。

BC202年、劉邦らが『前漢』を建国して、棚ぼた式に秦の遺産を引き継ぎました。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007/12/29 04:44:11 PM


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: