BC213年、秦始皇帝による『焚書坑儒』事件以来、ユダヤ北朝系(イスラエル10部族系)から
南朝系(エルサレムのユダ王朝2部族系)となったガド族(孔子・孟子の子孫たち/河南省南陽
宛の製鉄族)の山東半島から渡海して遼東へ逃れていましたが、やがて燕王 公孫氏(南朝系
イッサカル族)の一部勢力と連合して移動を開始しました。
BC210年、始皇帝ディオドトス1世死す。BC209年、ディオドトス2世(胡亥)即位。
BC208年、エウチデムス(項羽)、シリア王アンティオコスを破り、バクトリア王国を承認させる。
BC207年、エウチデムス(項羽)がバクトリアから追撃してきて、ディオドトス2世(胡亥)を討つ。
余談ですが『馬鹿』という言葉について。
秦始皇帝の子、胡亥に趙高が馬を鹿と教えたという説話が『唐書元しん伝』に記されて
いますが、本来は騎馬民族である秦(アケメネス・ペルシア)の歴史を扶余史と取り換えたことを
意味し、この場合『鹿』によって、インザク神をトーテムとする扶余系を示すのです。
すると説話の意義は、西域から中国大陸を支配した扶余(および、箕子国と辰国)史を中国大陸
の歴史として書くべきであるのに、ペルシア史を中国史として書いたことを、この言葉に秘して
伝えたことにあるそうです。
BC206年、ディオドトス3世(子嬰)もエウチデムス(項羽)に殺され宮廷も焼かれて秦国、滅亡。
秦の王族たちは遼東へ逃れ、箕子朝鮮を頼って亡命しました。
このあと、エウチデムスも、ひどい 蛮地であり、法と秩序を守らない人々の治め難さを知って
中国大陸を見捨てて インドへ転進しました。
従って、項羽と劉邦の戦いという史実はなく 『史記』は、歴史捏造であったようです。
それを証明するかのように始皇帝の地下宮殿も 20世紀の発掘によって焼けてないことが
判明しました。
BC202年、劉邦らが『前漢』を建国して、棚ぼた式に秦の遺産を引き継ぎました。
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