
現在【奈良盆地】といっている場所は、縄文人がやって来た時は盆地ではなく
琵琶湖ほどの大きな湖沼だったそうです。その中に半島的にわずかに見えていたのが
三輪山とか大和三山( 畝傍山・ 天香具山 ( 人工的につくった聖地 )・耳成山 )のような島的に存在して
いた小山地帯で、この湖沼の畔に竪穴住居をたて定住してコロニーをつくったのが港川人でした。
湖中の島であった三輪山周辺に、縄文時代の遺跡やピラミッド・巨石文化の遺跡が
現在も多くあるのは港川人たちが三輪山を御神体(アニミズム)として崇拝していたからです。
大和三山が二等辺三角形を形作り、三輪山と畝傍山を結んだ線は冬至の【日の入り】に当たる線に
なっているのも彼らの太陽信仰だと考えられます。彼ら縄文人の三輪山アミニズム信仰は
後に渡来してきて秦王国をつくったユダヤ・シメオン族の大国主命グループによって守られ
国つ神とされています。ユダヤ・ガド族を破り、その仕返しに天つ神の神武・公孫氏によって
大国主命が敗戦、日本に渡来してきた豪族たちは、どのようにクニ造りをしていったのでしょう。
第一回目天孫降臨 ユダヤ南朝系ガド族+イッサカル族+ゼブルン族
BC213年、秦始皇帝による焚書坑儒により、孔子・孟子の子孫、ガド族は、
イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身して
燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合してBC90年頃から移動再開。
BC86年、ガド族猿田彦の下にイッサカル族、ゼブルン族が結集し、一行は朝鮮半島を南下して
対馬 に至り【高天原】と称し、天照神社を祀り、対馬高天原から船出して
糸島半島へ移動して 吉武高木 に【旧伊勢国】を建てます。
初代猿田彦命が肺結核で病死すると
イッサカル族出身の王妃が女王となって王権を継ぎ、かなり長く君臨しました。
二代目猿田彦(ガド族)は平原に王宮を移し、【記紀】に出てくる"前の君"と呼ばれました。
猿田彦二世はイスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を
平原 王墓(遺跡)に築き、八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。
彼は、この最新式な青銅器文化を持って九州一円に進出し、
先住のシュメール人・苗族・港川人らを支配下に置いてきました。
第二回目の(天孫降臨)【秦始皇帝子孫イスラエル北朝系シメオン族】
BC74年頃、朝鮮の秦韓(慶洲)にいた秦の遺民ユダヤ人亡命集団6部族が移動を始め
対馬高天原経由で九州有明海の鳥栖に上陸し、博多に委奴国を建て、その勢力を
吉野ヶ里の地まで拡大しました。そのことをフェニキア人(海人族)から伝え聞いた
秦王率いる苗族らも合流して、秦韓シメオン族々長・大国主命を推戴して委奴国としました。
この時、別働隊として日本海側の福井県敦賀に上陸し、滋賀県を経て奈良に入った大国主命
の弟のグループがありました。
また、大国主命の父親は、佐賀県に上陸した後、別の先遺隊を率いて再び乗船し
いち早く先駆けとして奈良盆地に到着しています。
こうして奈良盆地の大和にユダヤ人亡命者のコロニーが初めて作られました。
第三回目の【天孫降臨】ユダヤ人ガド族3百人
ユダヤ人亡命集団ガド族三百人が対馬高天原から船出して、
利根川下流域の霞ヶ浦=衣河流海(茨城県)に渡来しました。彼らは鹿島灘にある明石海岸の
大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田(猿田彦命の兄弟に因んだ地名)
などにコロニーを作りました。そしてこの地を聖地として【常陸の高天原】と称するようになりました。
BC30年頃、続いてゼブルン族4百人が薩摩半島から渡来し、鹿島灘周辺に上陸しました。
この時、天津甕星(あまつみかほし)らは常陸の大甕などにも移住しています。
紀元一年、高句麗にいた北扶余の穢王一族が、穢族の一部を率いて亡命し
日本海沿いに南下して対馬経由で北九州博多に上陸しました。
彼らは既存勢力の旧伊勢国や大国主命の倭奴国に遠慮して一旦、阿蘇山系にコロニー
を作りましたが、族長の陝父らはさらに下って熊本に多婆羅国を建てました。
この多婆羅国は、この後、朝鮮半島南部に逆上陸して分国の多羅国を建てますが
その建国を担ったのは扶余族のウラルトゥ人(ウガヤ王朝系の人々)で、この多羅国が
成長して百済国となり後に百済国初代王神武の系譜が現在の天皇につながっていきます。
147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が倭奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人)
を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの
文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、倭奴国は、その同盟国でした。
その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり
東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。
163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して
高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、その首都吉武高木・平原遺跡
および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。
この時、秦始皇帝の末裔・大国主命が率いるシメオン族の兵士ら30名の攻撃部隊は
あらかじめ用意した20丁の鉄斧ですべての神鏡を徹底的に割ってしまいました。
大国主命に神聖な神殿を壊され、旧伊勢国(筑紫国)を奪われた猿田彦5世らは
二手に分かれて亡命移動しましたが、その一隊(約600人)は、日本海沿いに北上して
山陰地方の島根県に至り、同族ガド族の先遺隊であった鉄鐸・銅鐸文化の蘇民将来のクニ
牛頭天王(スサノオノ命)のユダヤ系ガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー【出雲王朝】
へ参入しました。
次に、別働隊の遺民は瀬戸内海を東遷し、中国・四国・近畿にやって来て
各地に彼らのコロニーを作りました。彼らのうち、紀州・熊野に約300人が移動して伊国を建て
志摩半島に約300人が移動して新伊勢国(伊雑宮・伊勢神宮の元宮)を建てました。
さらに、奈良大和に約1300人が移動して鮭文化圏を整え、東テイ国(纏向遺跡が中心)を
建てています。なお、旧伊勢国の日代宮(太陽神殿)を建てたのは猿田彦2世であり
高句麗と同盟して大国主命や東表国と戦って敗れ、出雲に亡命したのは5代目でした。
また、志摩半島に新しい伊勢国を建てたのは6代目でした。
この時、猿田彦の別働隊(ガド族・イッサカル族・ゼブルン族等)は、瀬戸内海を東遷した途中
周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーを作りました。さらに、一行は楊井水道の
大畠瀬戸に至り、旧伊勢の日代宮(御神体は八咫鏡)を遷社して大畠・大久保の地、柳井市に
【天照神社】を建てました。また、瀬戸の浜辺に【磯の神】を祀る石上神社を建て、その元宮
として旧い周芳神社(柳井市日積の諏訪神社)が再建されましたが、この天照大神(内宮)の
神霊は、のちに志摩半島の伊雑宮(伊佐和宮)に遷社されています。さらに、旧伊勢国グループ
は、東遷の途中、瀬戸内海沿いの各地に、旧伊勢国遺民の一部ずつ割いてコロニーを作り
香川県の森広遺跡・奈良県三輪山の日代宮遺跡・大阪府の利倉遺跡と池上遺跡に
鉄鐸・銅鐸遺跡を残しています。
PR
カレンダー