セレンディピティ

セレンディピティ

2012/01/24
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 BC6000年頃に始まった金属文化は、初めにヒマラヤ山麓をルーツとして 
 小アジア(トルコ)のチャタルフユィックやタイのバンチェンに拡がり、これがモヘンジョ・ダロを経て 
 BC2500年頃までにはアンドロノヴォ(エニセイ川流域付近の村の名)に伝わったと考えられます。 
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 エニセイ川上流にいた民族が西へ向かってキルギス人となり東へ向かって日本人となったという 
 説があります。天山山脈の麓に【ヤマトゥ】と呼ばれる国があり、その版図に【弓月王国】という王国 
 があり弓月君とは【日本書紀】に記述された秦氏の先祖とされます。ここから【弓月君】に率いられ 
 秦氏は朝鮮半島から日本に移動したという説です。                                 
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 BC1800年~BC1300年に至るまでのバイカル地方に栄えたグラスコヴォ文化は、 
 奴隷制・シャーマニズムをもち、銅器をトーテムとしますが、これが殷文化以前の文化です。 
 殷の青銅社会は、実は中国に於けるイシン(バビロン)の植民地でした。 
 殷は商ともいいましたが賤名で【夷】とも云われたのは【銕人てつ人】製鉄族を表すとともに 
 黒人を表し、【エビス神】【インダナ神】を意味し、カナンのエブス族のことで、後の海の国 
 ヒクソス、エブス人、フェニキアは同一です。またウルのカルデア人は、後のサカ族のことです。 
 サカ族はドーソンでモン族と合体した後、BC4世紀末、海陸両路で北上するのですが、弥生文化は 
 この人々がもたらしたものです。 
  
 中国【史書】がオリエント史を漢訳して中国史に仕立てた理由は 
 当時の支配層が、すべてオリエントの移民(秦人・ペルシアとユダヤの混血)だったからですが 
 夏がウルク、殷がイシン、周がアッシリア、秦がペルシアの当て字であり、漢王家の指示により 
 【史書】を著した司馬遷が宮刑に処せられた真相も李陵を庇っただけではなかったようです。 
 実際の中国史は、オッフル人、マガン人、メルッハ人などのヒクソス系の海人がバンチェンを経て 
 チュルク人がいた中国に到達して殷文化が始まり後にアレクサンドロス大王がバクトリアに侵入し 
 バクトリア王ディオドトスが洛陽に侵入して秦という統一国家を建てたという歴史です。 
  
 アラム族の人々はセム族系の民族で、BC14世紀頃から北シリアを中心として 
 オリエントに拡散したとされます。また彼らはシリアを中心として幾つかの小国を建てましたが、 
 ミタンニの故地であるハブール河流域と北シリア地方に住んでいたので、 
 この地域をアラムあるいはナハライムというそうです。 
 このアラム人とシメオン・フルリ両族が混血し、商業に長じていて、南西アジアの商権を支配し、 
 陸上のフェニキア人とも呼ばれていたといいます。 
 BC8世紀にはアラム語がアッシリアの公用語となり、やがてシリア、パレスチナでも用いられ 
 イエスはアラム語によって語ったとされています。 
  
 バビロンのイシン国滅亡時に王族のアラム人が二分してカナンでユダ王家になり 
 東方で箕子国を建てたといいます。 
 アッシリアによってイシンが滅亡した時、アラム族は抗戦を唱えてならず、 
 ラガッシュ人は征して勝たず、アーリア族は勇敢に防戦しましたが、エラム人が 
 賄賂に毒されて裏切ったためにイシンはついに滅んだといいます。 
 イシンのアラム人と海の国のカルデア人とは留まってバビロンの地を支えようとしましたが 
 カルデア人は捕らえられていたイシンの王族箕子を奪い、ユーフラテス河西方のラケーに築城し、 
 国を辰法殷(ビト・アディン=ウラルトゥ)と名付けました。このアラム人が【史記】の犬戎、 
 ウラルトゥ=ウガヤ王朝のことで、カルデア人が後の月氏系サカ族、ニギハヤヒ族、辰王ですが 
 この時、共に戦っていたのです。 
 さらにバジ王家の軍とエラム人に攻撃されて箕子一族はシルクロードを移動し、 
 金鉱のあるイッシク・クルに築城し、これがイッシク古墳で金の上下を纏った被葬者【黄金人間】は 
 サカ族(月氏系)の族長とシャーマンを兼ねた存在だといわれます。 
 この古墳の遺物は様式的にみて、アルタイのバズィリク古墳のそれに近く現地で作られたという説と 
 アムダリア流域の古代バクトリアから移入されたとの説があります。 
 イッシク古墳は、イリ川のある箕子国のあったところであり、被葬者は箕子国の王族であり 
 新羅三姓の金姓はアルタイの金山を表します。この金氏が後の金官加羅、そして分家して 
 新羅の金氏のヒッタイト蘇我氏になったと考えられます。 
  
 殷の時代には崑崙北麓、特にホータンの【玉】が殷の貴族たちに珍重されたのですが 
 これを運んだのは当時、甘粛から西域を支配した月氏族でした。 
 またスキタイ・サカ系の民族は、北狄と書かれ、殷末には殷(イシン国)の亡命者が建国した 
 箕子朝鮮の北方を支配しました。 スキタイ・サカ系の民族は、前800年頃から二分して 
 箕子朝鮮と同盟する扶余族と朝鮮半島を南下して辰国を建てた人々とに分裂することになります。 
 インドでは前12世紀に、アーリア族の侵入が終了し、中国大陸では、この頃に周が建国しています。 
 周の建国にアーリア族の移動が影響を与え、殷族が周に亡ぼされた前11世紀に、 
 殷族の一部が朝鮮半島南部に辰国を建国し、さらにその一部が九州北部の国東半島に逃れて、 
 前8世紀頃以降に国東に製鉄遺跡を残したと考えられます。 
 遺跡が国東に限定されているのは、この地域が朝鮮半島を本国とする人々の兵たん基地 
 であったからであり、この人々はミタンニ族であると考えます。 
 殷末までの時代には鉄器文化を持っていなかったのであり、鉄器文化はヒッタイトが衰退したため、 
 前千年以降、辰国の王朝が【天の王朝】といわれますが、ヒッタイトの王族だったミタンニ族を 
 中心としながら(人民はハッティ)朝鮮半島の南部では黒潮に乗って北上したマラ族と接触したらしく、 
 次第に混合文化を形成していったと考えられます。 
 【辰国】即ち【天の王朝】を構成した倭人のうち、王朝の本流であるサカ族系は後にサンカとなり 
 傍流の秦族は源氏、マラ族は平家をそれぞれ名乗るのです。 
 この【天の王朝】の時、既にカースト・ゲット-制が存在し、農民がある一方 
 農業を行わない民族があって、農業地帯と山岳民族の区域を斑状に分離し神社を建てて 
 結界を引きました。これはイラン文化の特徴であって、牧畜文化と農業文化の混在状態に於ける 
 農業を差別するスキタイ民族が作り出し、インドのカラー差別にもつながります。 
 【別所・別府】などと云われ、サンカ・木地匠・杜人・タタラなど山岳の人々が農業民と分離して 
 生活したのです。辰韓の農民は鳥葬を行っていますが、鳥葬のルーツは殷民族といわれる 
 チベット苗族であり、日本でもクメール族はストーン・サークルに屍体をおいて鳥葬を行った 
 といわれます。【蘇民】はスキタイを意味すると共に【けがれ、よごれ】の意があり 
 農民サイドからの蔑視です。後、律令制に於いても、荘園内部にはゲットーとして 
 【院地・散所】が作られ、非農地域として発展し、商業基地になってゆくのです。 





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最終更新日  2012/03/15 05:10:39 PM


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