氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期が
ありました。ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。
中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減り
それを補うために農業技術が進歩したと考えられています。
最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部の
ナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。
さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見し
その銅を加工する高温技術を発明したと思われます。
アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと
北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。
ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと
考えられます。 やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し、
一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まり
それは、めざましい成長を遂げるのです。
アナトリアのチャタルフュイックのフュイックとは、テペあるいはテラ、丘をいいます。
数千年に及んで、何世代もの人間が住居をつくり、それが壊れた後、後から
やってきた人たちがその上に新しい住居をつくって住み着く。昔の家は
粘土でつくったから、その営みが繰り返される度に、だんだん高さを増していく。
そして、ついには丘にまで成長したのです。
チャタルフュイックの周辺は、もとは大きな湖だったらしい。
しかしBC1万年頃から、湖は徐々に干上がり、昔湖の底だった土地が
肥沃な農業の適地となりました。チャタルフュイックに、最も早い時期の
人間の住居跡が現れるのは、BC7000年頃です。
BC7000年頃といえば、アナトリアからパキスタンにかけての地域で、
小麦や大麦が初めて栽培されるようになった時代です。
また山羊や豚が家畜化された時代でもあります。
チャタルフュイックより早い文明の主要な根跡はエリコだけです。
チャタルフュイックの人々は小麦や大麦、リンゴ、ピスタッシェ
ナッツ、アーモンドなどを食べていました。
主食は家畜化された牛ですが、野性の動物を狩る状況が壁画に
描かれているところから、狩猟も重要な食料補給手段だったようです。
チャタルフュイックの近くには、黒曜石の産地があり、
チャタルフュイックに1000年以上先行するエリコの遺跡で黒曜石が出土しています。
そのエリコの黒曜石はアナトリアから運んできたものと考えられています。
エリコの住人は、黒曜石の採掘のためにチャタルフュイックに住み始めたようです。
集落は非常に特徴的な姿をして、家々はすべてコンパクトに密集し、
間に道路がありませんでした。外側の壁には入口がなく、人々は
木製の梯子を使ってまず屋根に昇り、屋根を伝わって再び梯子で
所々に設けられている中庭に降り、そこから家に入りました。
窓は、壁の高い部分にのみ設けられたことから、チャタルフュイックの
人々が、ある程度は外敵に備えていたことは推察できます。
チャタルフュイックでは、住居の床下に死者を葬りました。
死体は、外に放置され、はげわし、あるいは小動物、などの
清掃人によって、きれいにされた後、室内の床下に葬られました。
後世の鳥葬の原型です。チャタルフュイックからは、火で焼いた粘土製のスタンプ
や石臼が、出土しています。
小麦・豆にしても顔料・火薬にしても、すべては、粉から始まるところに気づいた
人間は、すばらしいと思います。そこから無限の可能性が広がりました。
スタンプの用途については、たぶん衣類や袋布の所有権を示すためと推定できます。
家はすべて密集して建てられており、その間には道路もなく
人々は顔を突き合わせて住んでいました。
まだ私有財産など生まれていなかった頃ですが、身の回り品や当座の食料に
ついては、家族別の所有関係をはっきりさせておく必要があったのではないか。
無用な争いを避け、多数の人たちが平和的に暮らすためには、
所有権をはっきりさせる必要があります。
しかし、まだ文字が発明されるより3000年も昔のこと、自分の所有権を表わす
唯一の手段が、粘土で特別の文様のスタンプをつくり、顔料をつけて、
自分の衣類や穀物を入れたと思われる布の袋に押すことだったのでしょう。
印章の起源は、メソポタミアではなく、それより遥かに古いチャタルフュイックだったのです。
メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのは
ナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。
長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成し
インダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。
アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れて
スーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラム
などがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。
したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と
高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成され
スーサでは最古のスメリア文明でした。
アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。
エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、
ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。
フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドから
アナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。
フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。
エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を
頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。
そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。
フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、
ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。
紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、
フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を
創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。
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