BC627年に即位したアッシリアはカルデア人の王、ナボポラッサルの反乱に破れ
BC612年、メディアのキアクサレスによって滅びます。その後、メディア(楚)はスキタイ(越)
と同盟し てソグディアナ、後のソグド付近に移動しました。
『史記』は、越(スキタイ)を夏王、禹(ウトヘトガル)はグート人とウルク人の混血なので
スキタイ族はグート・ウルク族です。
その後、エラム族グループの なかの アケメネス・ペルシアがオリエントを支配しました。
エラム族はシュメール人やグート族と同系です。ペルシア人はアーリアンの一派ですが
同じくイランを根拠地にしてエラム諸族と同盟していました。ペルシア王国の姉妹婚は
エラム族の習俗であり、エラム語はペルシア帝国の公用語でした。
ペルシア王キルスはカルデア人のバビロン王朝を滅ぼしてオリエントの覇者になりました。
ペルシア史にBC519年、カスピ海の東方で尖冒サカ族が反乱し、ペルシア王ダリウス1世は
自らカスピ海 を渡って遠征したとあります。尖冒サカ族とはアッシリアの遺民を表わし王子を
擁立してダリウスを攻撃したと考えられます。この後、ペルシア帝国は『ソグディアナのかなた
のサカからエチオピアまで、インダスからサルディスまで』におよんだとありますから、
ソグディアナの東方にあたる黄河上流の流域はペルシアの支配に服したことになり、
従来のアッシリア系亡命者の支配地を奪ったことになります。
アッシリア史はアッシュールウバッリトの敗走後を生死いずれも記録しないが、ウラルトゥ
に逃れた後、さらにサマルカンドまで逃亡したのです。
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