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各タイの運転免許が期限切れになったので、今回の滞在中に更新することにした。4月に来た時にプーケットの運転免許センター(名称は違うと思うけど)に問い合わせると、ツーリストビザが必要だということだった。まずは日本でシングルのツーリストビザを取得。4500円なり。申請も受け取りも郵送でできるけど、ビザに関しては人任せでうまくいった試しが無いので、申請は領事部へ行き、受け取りは宅急便で送ってもらうことにした。ビザを取るのにいろいろ証明書が必要なのだけど、ワシの場合フリーランスなので、自分の預金残高証明書と、プーケットにいる妹のワークパーミットのコピーで申請。ちなみに以前預金残高証明を埼玉りそな銀行でとったら2000円かかったんだけど、ゆうちょ銀行は500円でした。ビザ申請に必要な書類は以下のアドレスで。タイの観光ビザ取得プーケットに到着後、妹の家の大家さんに頼んでタビヤンバーンのコピーをもらう。それにパスポートを持ってイミグレーションに行き、必要な書類を作ってもらいます。その際写真とパスポートのコピーが必要ですが、イミグレーションの下にあるので便利。160バーツなり。イミグレーションの書類は1通300バーツ。今回ワシの場合バイクと自動車を申請するってことで2通作ってくれたけど、結局は1通で済んだみたいです。いよいよ運転免許センターへ。パスポートとビザのコピーが各2枚、イミグレの書類オリジナルとコピー1枚、それとDoctor's Report (健康診断書)が必要です。以前プーケットタウンに80バーツですぐに発行してくれる保健所みたいなとこがあったんだけど、今はもう無いので、インターナショナルホスピタルへ。高いかなぁと思ったら、100バーツなり。洋服を着たまま測った体重をそのまま記入されてちょっとむかつく。・パスポート・パスポートの写真面とビザのコピー(免許証1につき各1枚づつ)・イミグレーションの書類1通とコピー1枚・健康診断書1通・古い運転免許証以前は写真が必要でしたが、今はセンターで撮影、デジタル加工するので必要有りません。朝9時までに以上の書類を持って運転免許センターへ。タイ語のビデオで、色盲検査とブレーキの反応チェックの説明を受けます。ブレーキチェックはアクセルとブレーキ部分の前に座り、アクセルを踏み、前にあるライトが緑から赤に変わったらブレーキを踏むというもの。若いのに鈍い人もいるんだよね、割と。2、3回やって合格すると色盲検査へ。色盲検査が合格すると、2階へ行くように言われます。外国人用の部屋は英語のビデオで教習を受けます。免許が失効前ならこれで終了。ワシは失効していたのでペーパーというかPCテスト。いや~すごいです、マルチリンガルでタイ語、英語はもちろん、日本語、中国語、ロシア語もあるみたい。きっと韓国語とかフランス語もあるのでしょう。5年前とはエライ違いです。すべて4択問題で、1時間以内に終了させればいいみたい。ワシは30分くらいで終了、すぐに結果が表示されて無事合格。合格者は1階に行ってお金を払います。写真代が270バーツ、免許の更新料はツーリストだから1年有効のみで2通で160バーツ。ノンイミグラントB持ってれば5年がとれるんだけどね。写真撮影をするとすぐにデジタル加工して無事運転免許が発行されます。手間とお金を考えると国際免許のほうが楽かも。ただワシの場合は国際免許を取るのに時間も電車賃もかかるのでトントンといったとこでしょうか。でもまぁ、タイランド発行のIDがあるって、なんか嬉しい気持ちであります。
Oct 21, 2011
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9月29日からプーケットに来ているが、2、3日前にどこだったか猫のおしっこの匂いがした。猫がいるような場所ではないし、猫の姿も見かけないような所。クリリンのおしっこの匂いと同じだった。クリリンが会いに来たのかもしれない。犬のゴンスケの時もそうだったみたいに。ゴンスケが虹の橋へ行く3日くらい前に、山手線を降りた池袋駅のホームや会社を出た所ででゴンスケのにおいがした。普段鼻が悪いのにそういう時は敏感になるらしい。今日クリリンは虹の橋へ行ってしまった。生まれつき尿の排出機能に問題があり、母猫も見捨てた2年前の11月9日、朝から家の前の駐車場で泣き続けていた。手のひらに乗るような大きさだったけど、とても無視できない大きな声だったので、写真は保護した直後。栄養に問題はないようだけど、目やにがすごく、すぐに動物病院に連れて行ったら問題はないということだった。自慢の美猫のクリリンだけど、おしっこが大変だった。この育ち盛りの頃は走りながらおしっこをばらまくので、私は1日何度拭き掃除したことだろう。冬に向かう頃だったので、拭き掃除と洗濯で、生まれて初めてなくらい全部の指があかぎれになった。クリリンの兄猫のドラゴンと。ドラちゃんは半年くらい野良猫だったが、いつも家にご飯を食べに来ていて、台風の夜からうちの猫になった。血の繋がりがわかるのだろうか、クリリンの面倒をよく見てくれた。でも、クリリンと同じ時に生まれたダイちゃんがご飯を食べに来るようになると、2010年の1月15日以来、姿を消してしまった。ダイちゃんとクリリンは同じ時に生まれた兄妹だ。シャム猫のようなタコポンという姉猫もいたが、いつの間にか来なくなってしまった。そしてダイちゃんも、次に生まれたピーちゃんたちをうちに引き取ると、やはり帰ってこなくなってしまった。命をつなぐために、野良猫の厳しい掟があるのかもしれない。クリリンとメグは同じ父猫なのだろう、よく似ている。だから仲もいい。ピー、キキ、クー、メグの4匹は同じ時に生まれ、生後2ヶ月くらいでうちの猫になったが、自分たちを猫だと思っている猫だ。クリリンは自分のことを猫とわかっていたのだろうか。私のことを実の母と思っていたことは確かだ。来たばかりの頃からよく抱いていたので、私の肩にしがみつくと安心していた。クリリンのまぁるい体と毛の質感、私の耳とクリリンの耳をスリスリするのが私もクリリンも好きだった。最近はPCゲームにハマっている私をたしなめるように、デスクに上がってよく邪魔をしていた。あんまり夢中になってゲームをしているから、ゲームに嫉妬していたのかもしれない。この10月で2歳、相変わらずおしっこをばらまくけれど、1日の回数も減り、この夏には朝ケージから出すと、よく私のベッドで寝ていた。クリリンと一緒に寝られるようになったことが嬉しかったなぁ。このまま大人になればもっと落ち着くと思っていたのだけど。だめな子ほど可愛いというけれど、クリリンは特別な存在だった。それはいつも思っていた。私に何かメッセージを持ってきたエンジェル、そんな気がしていた。それがなにかわからないままにクリリンは逝ってしまった。ただひとつ思うのは、「癒す」という言葉。どのように関わっていくのか、具体的にはわからないけれど、それが必要なのだとクリリンが教えてくれている気がする。
Oct 9, 2011
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『NEWS23』に出演した立花隆さんがレポートしていたのを見たんだけど、兵庫県にあるX線自由電子レーザー施設SACLAっていうのはすごいらしい。簡単に言うと、月から地球にいるアリンコを見られる精度の顕微鏡であり、化学反応の瞬時の動きも見られるものらしい。すでに商品を作る過程で利用されていて、番組の中では"夢の光"と名付けていた。見えなかったものが見えるようになって、新薬の開発なんかに威力を発揮するらしい。放射性物質の無毒化は理論的には可能だというのをどこかで読んだ。日本の先端技術で、311前の日本に、福島に戻れたらどんなにステキだろう。避難していた人たちが家に戻れて、子どもたちも安心して外で遊べてプールに入れて、買い物の時に福島産のきゅうりを真っ先に買えて、東北の和牛に舌づつみを打って、貝も海藻もどんどん食べられるようになって、そんな日本に戻れたら、どんなに幸せだろう。原発のような、後世の人に有毒なゴミを押し付けるようなものはさっさと捨てて、自然も人もハッピーになれる技術、日本人として胸を張れるような科学に期待したい。
Aug 16, 2011
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7月30日、いわき市久之浜町へがれき撤去のボランティアに行ってきた。福島原発行動隊経由で民主党主催のこのボランティアツアーを知り、参加費無料というのに後押しされて参加した(すいません、不順な動機で)。親友を誘ったけど「民主党というのがどうも」と今回はパス。全くそういうのを考えてなかったのだけど、バスにでかく『民主党ボランティアツアー』なんて書いてあったらどうしようと思っていたのだが、普通のチャーターバスだった。バス2台約70名が衆議院議員会館前を7時半に出発し、11時前には現地に到着した。「ずっと穏やかな風景が続きますが、急に被災地に変わるので驚かないでください」と言われていた。常磐自動車道は緑豊かに天気こそよくなかったけれど、夏の田舎の雰囲気いっぱいだ。しかし、高速いわき四倉インターチェンジを降りると、田んぼに雑草が背高く伸びているのにハッとした。見た感じ30%くらいしか田植えがされていない。民家に津波も地震の影響も見られないということは・・・。いわき市北端に位置する久之浜町は福島第一原発から30キロにある。今回参加が決まった時、やっぱりどうしてもそれが気になって仕方なかった。雑草の田んぼに混じってスッと育っている稲を見ると、怒りとやり切れなさで胸が詰まる。この日の作業は、2班に分かれて2軒の民家のがれき撤去をするというもの。家電、木製家具がすでに庭に山積みされていた。私たちはさらに細かなゴミを出して分別し、大きなゴミ袋にまとめるという仕事だ。津波を被った日用品はどれもうちにあるものと変わらない。被災者は私たちと同じ日常の中にいたのだ・・・。道一つ隔てて被害の状況が大きく違っている。一見無事のようにみえる家もとり壊しが決まっていて、気休めにとボランティアが外壁一面に描いた花が色鮮やかに咲いていた。70人の人が4時間ちょっと力を合わせただけで、分別された大きなゴミ袋(7人は人を詰められそうな大きさ)が10個近く並んだ。業者に頼むと2週間かかるところ、こうしたボランティアなら2日でできるそうだ。海は波の音さえ立てずに静かにきらめいている。本来なら夏休みを過ごす子どもたちで溢れているだろうに。この30キロ先の福島第一原発から放射能物質が未だに撒き散らされているのだと思うと、ここに住んでいる方たちにどんな気持ちなのか聞くことも憚れた。買い物に行くたびに「産地」をチェックするようになった自分がいる。東北3県の肉牛の出荷が停止され、今は今年の新米が心配されている。放射能は文化までもジワジワと壊していくのだ。日本だけでなく世界中で今後も原発は増え続けるとIAEAの天野事務局長が語る。フクシマ第一原発事故の恐ろしさを、私たちは世界に伝えられていないのだろうか?それとも「自分のところだけは大丈夫」と思っている?仮にそうだとしても、使用済み燃料を未来の人たちに押し付けるしかないことはどうするの?わかっていて原発を動かし、作り続けるなら、人間はなんてバカで自分勝手で無責任な動物なんだろう。放射能汚染の恐ろしさと絶望感を世界に知らせていくことが、事故を起こしてしまった私たちのせめてものおとしまえだと思う。
Jul 30, 2011
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ワシは子どももいないし、継ぐべき財産も貯めた貯金もない。好きか嫌いか、面白いかつまんないか、判断基準はそのくらいという、至ってフリーというか単細胞なヒトである。以下はそんなワシから見た本日28日の福島原発行動隊の院内集会の感想です。前回の院内集会は、5人の代表が実際に福島第一原発に行った時の報告会だったが、期待が大きかっただけに、正直言って拍子抜けだった。ワシ的に簡単に言ってしまえば、「入る好きはない」「あえてやるとしたら汚染水処理施設に人手がいる」、それだけが2時間の院内集会の後にワシの中に残ったことだった。 5月に立ち上がったこの行動隊だが、その存在が広まっていくけれど、まだ具体的な阻止行動をしていない。具体的なプランが聞けると思っていただけに、膝カックンを食らった感じだった。そして今日、7回目の院内集会。昨日のうちに行動隊から「東電・政府への提案書案」がメールで送られてきて、気持ちを持ち直した。その内容を簡単に言うと・・・1) 原発と20キロ圏内のモニタリングと瓦礫の撤去。国家プロジェクトにこだわらず、東電の下請けとしてでも行う。2)行動隊を含め、原発で働く人たちの健康管理の体制づくり3) 中長期に渡る収束作業の国家プロジェクト化ということだろうか。「国家プロジェクトによる福島原発の暴発阻止」を謳い文句に始まったこのプロジェクトが、実際に現場を見てそれに見合った方向転換をしてくれたと思う。モニタリングは今、東電と九電力会社が5人一組くらいのチームで定期的に行っているらしい。これを行動隊がやろうというのだ。「とにかく閉ざされた門をこじ開けて、風穴を開けてそれを大きくしていく」。こういうのは、ワシのように大きな組織であまり働いたことのないヒトだけが思うことかと思ったが、参加者から大きな拍手が湧いていた。事故後4ヶ月がたち、5ヶ月になろうとしているのに、依然一企業に任せていていいはずがない。政治が混迷し、今の国会議員を当てにできない。だから健康管理や中長期プロジェクトの基礎をここで作れば、それがやがて国家プロジェクトに引き継がれるはずだと、ワシなどは思ってしまう。行動あるのみ!いくら素晴らしいアイデアを出しても実行できないのなら意味が無い。そのあたり、山田代表にブレはなく、頼りになるボスといった感じだ。長く生きてきて技術・経験のある人たちの一つ一つの言葉は重く、それをまとめて引っ張っていくのは大変なことだ。でもリーダーが向かおうとしていることが納得のいくものであったら、ワシら一般ピープルは喜んで協力できる。まだまだ壁はあるだろうけど、「諦めない強さ」をワシらはなでしこジャパンに証明してもらった。福島原発行動隊は一歩づつ前進しています。今回の院内集会で、「やっぱり行動隊はやってくれる!」そう思いました。でもまだまだマンパワーも資金も必要です。これはと思った方は是非行動隊、あるいは賛助会員に参加しませんか?なんのコネクションもなく、一人でポンと院内集会に出かけていったワシですが、そのオープンさに、今では毎回参加しています。院内集会はどなたでも参加自由です。予約も何も入りません。次回は8月11日11時から、参議院議員会館で開催されます。こちらにも是非足を運んでみてください。福島原発行動隊
Jul 28, 2011
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もういうことないですね。完全な勝利です。PK戦とはいえ、それまでの延長線を含めた120分間の戦いは奇跡のように思えました。後半で先取点をとられた時、「やっぱりダメか。。」と思った人も多かったんではないでしょうか。ワシもその一人です。プーケットの妹とスカイプしながら見ていたのですが、そのネガティブシンキングを振り払うように「まだまだ!」と入力しました。なでしこジャパンはそれにきっちり応えてくれたではありませんか!宮間のあの反射神経、スゴすぎ!!延長線でアメリカのワンバックがヘディングを決めて再度「ああぁぁ・・・」と思ったワシですが、またまた妹に「まだまだっ!」とスカイプ。そして延長戦後半11分、宮間のコーナーキックに澤があわせてゴーーーーーーーーーーーーーール!ワシはもう涙でました。なんか、もう奇跡を見たって感じでした。心の底からふるえるような感動を覚えました。そしてPK戦。海堀が一人目を決めた時、勝ちが信じられました。諦めずに自分の力を100%出しきるってほんとすごい。彼女たちがくれたパワーは計り知れないものがあります。あぁもうワシが何を言ってもショーもない。YouTubeで得点シーンを見られます。女子W杯 なでしこジャパン 優勝 (ハイライト) 2chの「なでしこジャパン澤穂希がナウシカ状態」というスレッドもおもろい、写真もいいです。
Jul 18, 2011
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4年前の今日、猫のピッピが虹の橋へ逝ってしまった。今年はやけに、前の日からそのことを思い出し、ピッピの最後の時間をカウントダウンでもするかのように思い出していた。虫の知らせだったのかもしれない。犬のウシ子が、やはりこの日の早い午後に逝ってしまった。ウシ子は捨て犬だったシロとガンコの一匹娘で、野良犬として生まれた。3ヶ月くらいまでの可愛い時期まではあまり姿を見せることもなく、人前に出てくるとまるきりの野良犬で、なつくことはなかった。そのウシ子が、ワシがプーケットに住み始めた年の12月に交通事故で背骨を折り歩けなくなった。ワシらが住んでいたアパートの床下(当時は沼の上に建っていて、乾季になるとほとんど泥水が残る程度になった)で、朝早くから泣き続けていた。ワシと妹でドロドロになりながらやっと引きずりだして、かかりつけのマッタヤ先生に連れていった。先生の見立ては命は助かるけど歩けるようになるかは五分五分ということだった。安楽死を思ったが、敬虔な仏教徒の先生に断られた。世話をすれば生きられると。それからちょうど10年。妹は本当に献身的にウシ子の面倒をみた。雨に濡れるのを嫌がって泣き叫ぶウシ子(オーバーでなく本当に大きな声。前足だけで動くため胸筋が発達して共鳴するようだ)を朝に夜に2階まで抱き上げた。自分もリウマチの痛みがありながら。ワシは何をやっていたんだということになるが、ワシは・・・あまりの大変さにネを上げて安楽死を考えていた。もちろん妹だって何度も考えた。あと3ヶ月待って、あと1年たって変わらなかったら・・・とその日を延ばしながらとうとう天寿を全うさせた。その間、ジステンパにかかって「これでやっと」と思ったら、キャットフードの缶詰で持ち直したこともあった、脳への後遺症を残して。体が震えてごはんを食べるのも大変だったが、ウシ子は元気になった。うるさいという苦情からその頃のアパートを移ることになり、犬3匹と猫2匹を住まわせてくれる家はなかなか見つからず、やっとみつけた家は環境に問題があり、猫のピッピとミルを病気で、犬のシロを毒魚を放り込まれて失った。人にも犬にも優しい環境を求めて今の家に引っ越した。大家さんはカナダ人とタイ人のご夫婦で、とてもいい人たちに巡り会えた。歩けないウシ子のために庭が広くて屋根もあって、雨季でもマイペンライな家だ。去年からダニの毒にやられることがあり、今年もそれをのり超えた。家から逃げ出して傷を作ったのも完治したはずなのに、ご飯もしっかり食べていたのに、突然逝ってしまった。妹とワシにとって一番の高価な買い物だったウシ子の車椅子はアメリカの特注品で、妹がネットで調べてオーダーしたものだ。ウシ子は障害があることなどこれっぽっちも感じさせずに、他の犬達を追い回す勢いでビーチを走りまわった。それも今はあちこちのパーツが壊れ、それを直しては使ってボロボロだ。ウシ子はそれ以上にすごい生命力で生きてきた。ウシ子を飼い始めた時に住んでいたパトンのアパートの近くでガードマンをしていた男の子が、妹はウシ子を通してタンブンをしているのだといった。「情けは人のためならず」的なタイの仏教の考え方だ。この10年間、ウシ子は生命の強さを教えてくれた。妹は年をとった両親の世話をするつもりでウシ子の面倒をみるといっていた。本当によくやった。7月12日、ピッピの命日、4年前ワシが6年半のプーケットの生活を終えて日本に帰る前日。ピッピも本当に十分にギリギリまでかわいい猫であり続けてくれた。そのピッピがウシ子を連れに来た。そんな気がして仕方がない。次のステップへどうぞ、ピッピとウシ子がそういっている気がして仕方がない。
Jul 12, 2011
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福島第一原発は今、一体どういう状況なのだろう。東電や原子力保安院、政府から出てくる情報は「実は・・・」とか訂正とかが多く、さすがに全く信じられなくなった。311の震災直後、車の中で聞いたFM で「メルトダウンまで行く」ときいた時、見慣れた道がスーっと見知らぬ場所に変わるのを感じた。絶望的な気持ちになった。次々にテレビに出てくる“先生”たちはみな安全を口にしていたが、それを聞いてホッとしていた自分がいたことを否めない。現在メルトスルーまでいっているとなると、冷やし続ける必要はあるが、安定的に冷やすことはできないらしい。空気、海、地下水が汚染されていき、それがどうなっていくのか誰も説明できず、小さな島国の私たちに逃げ場はない。そんなフクシマを何とか止めよう、若い人よりも放射能に鈍感と言われる60歳以上の人たちで、というのが福島原発行動隊だ。そのリーダーである山田さんは、事故後すぐに立ち上がり、いろんな国会議員に会ったが、ただ一人話を聞いてくれたのが牧山ひろえ議員だったという。その後牧山議員を通じて、細野大臣や海江田大臣にもあったが、現時点で進展はないらしい。山田さんの話では、いろいろ手続きがあり、時間がかかるらしい。20キロ圏内にはボランティアは入れないとか、放射線手帳がないと入れない、そのためにはこのプロジェクトを法人化しなければならない・・・。「老人は気が短いんだ、早くしないとさめちまう」という集会参加者の言葉は本音だろう。牧山議員の主催、参議院議員会館で開かれている中で、「国会議員は全く動いてくれない」といらだちを隠せない人も多かった。それに対して牧山議員は、「政治家の前に、世論を動かすことが必要。だからまず院内集会を開いて多くの方に知ってもらう」と言った。結局は一般市民に行き着くか。でもこれはこれで発奮材料になった。世論を高めることはフツーの人にもできるではないか。法律だ、手続きだと手まどうのを飛び越せるのは、人々の声だと思うのはナイーブすぎるだろうか?とにかく、今は一刻も早くフクシマを何とかすることが第一だ。配管のトラブルに、水道工事のプロは地団駄踏んで悔しがっているのだ。「オレにやらせろ!」と。私のこのブログを見てくださった方がそれぞれに発信してくださったら、大きな力になっていくと思うのです。行動隊は原発・反原発というテーマには触れないといっています。とにかくフクシマを止めて、子どもたちに安全な社会を作ることを目的にしています。そのためには、より多くの行動隊、賛同者が必要です。この大事故を東電だけに任せておくのは無理でしょう。7月11日、12日に5人の代表が福島第一原発を訪れます。7月14日には院内集会が開かれます。このころには具体的に何が出来るのか明確になっていくでしょう。フクシマを収束させたい、そう思われた方は、どうぞ福島原発行動隊への参加・呼びかけをお願いします。福島原発暴発阻止プロジェクトSkilled Veterans Cops at the Fukushima-Daiichi Nuclear Power同WEBサイトは日本語、英語の他、全14ヶ国語で訳されています。
Jul 4, 2011
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原発反対の人たちはこんなにいるのだ!午後2時の新宿公園は、雨上がりの緑が眩しく爽やかだ。以前なら大きな深呼吸をしてそのオゾンを胸いっぱいに吸い込んだろうけど、今は躊躇し、そしてできない。こんな東京になるなんて、こんな日本になるなんて誰が想像しただろう。一見何も変わらない木々たちも汚染されている。午前中の雨が心配されたが、行進が始まる頃には雨も上がった。振り向けば広場には沢山の人達が集まっていた。公道に出ると驚くほどの警察官がいる。あんな引きつった顔を見てるとこっちがビビるよ。別にワシらは暴徒じゃないんだから。「原発反対」って訴えるだけなのだ。警察の車に先導されるというのもおかしな気がするが、それによって小さなグループに分けられて進んだ。ワシらのまわりは静かに歩いているだけだったが、甲州街道に出た時、ワシの親友Mが「何か声に出しましょうよ」といって「原発反対!」のシュプレヒコールが始まった。皆初めて会った人たちばかりだけど、声を合わせてくれた。「原発反対」「原発やめろ」「子どもを守れ」「命を守れ」。今日のデモで伝えたい事はこの言葉に尽きるのだ。土曜の午後の新宿はすでに人混みだったが、そこにデモ隊。それも警察の先導で信号を無視してラインを張っての道路横断だったりするからものすごい時間がかかった。もっとさっさと歩かせてくれれば一般車両や歩行者に迷惑をかけることもないだろうに。新宿駅のガード下から靖国通りを直進、伊勢丹の角から明治通りに折れ、南口の方まで行き、新宿アルタ前まで1時間かかった。色々な立場の人達が集まっているけれど、未来のない原発に反対する気持ちは一つだ。ただ原発をやめてくれ、その想いだけだ。原発を擁護する人は、福島を完璧に収束させてから言ってほしい。メルトスルーしたフクイチをどうすることもできない今、どれだけ汚染が進んでいるのか全くわからない。出される資料を信じる事もできない。疑心暗鬼で生きているのだ。この狭い日本に54機の原発、続く地震、報告される作られた安全神話。ワシらはもう仕方ないとしても、未来の子どもたちが世界で肩身の狭い思いをしないように、そして新鮮な空気をおもいっきり吸い込めるように、野菜でも魚でも牛乳でも安心して食べられるように、つないでいくのが今の大人の役目であり責任だと思う。一人の声は小さいけれど、一人でも多いほうがパワーになる。この日のデモが小さな点の一つであっても、やらないよりやったほうがいい。611脱原発100万人アクションに参加した日本中の人の想いがどうかつうじますように。
Jun 11, 2011
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東日本大震災からちょうど3ヶ月の6月11日、日本各地で原発反対のアクションが行われる。6.11 脱原発100万人アクションワシは新宿のデモに参加するつもりだ。福島第一原発は収束どころか悪化の一途、おまけに第2原発の汚染水も海に流すとか!? 今日8日には福島第一の1号機と2号機の中央制御室が停電とか。またまた問題なしと報道されているけど、信じられるわけがない。小出先生はいっている。「今までと違う世界に生きるしかないと思うしかない」と。信じたくないけどそういう日本になってしまったのだ。だからせめて、原発はいらないんだという意思表示をしようではありませんか。このままズルズルと原発の稼働を許すのは後世の人たちに対してあまりに無責任だと思う。フクシマは取り返しが付かないから、次の事故が起こる前に、54機全て廃炉にしようではありませんか!
Jun 8, 2011
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3月12日に福島第一原発の1号機に海水注水を中止したことで、国会で足の引っ張り合いが繰り返されている。そんな中、東電の吉田所長が「注水は中断していなかった」ことを発表した。それについて国会議員や原子力保安院、マスコミはいろんなことを言っているけれど、私は吉田所長に「ありがとう」と心から言いたい。吉田所長はその時一番必要なことがわかっていて、原発ではなく命を守ることを考えてくれたんだと思う。その時に命よりも今後の原発のことを考える人がいたから、注水を中断したことが今まで公表されなかった、私はそう思う。原発は地震に耐えたが津波でやられたと言っているが、当日作業していた人は配管がものすごい音をたててなりひびくのを聞いている。メルトダウンだってすぐに起きていたわけで、「想定外の津波がなければ」なんてことを信じる気にはなれない。東電は、報告が遅れた吉田所長の処分を検討していると報道されているが、どうか吉田所長がひきつづき仕事をつづけられますように。チリの落盤事故で全員が生還した時、リーダーの存在が大きかったことを知った。福島原発もメルトスルーが進めば、もう冷やすことはできなくなると京大の小出先生はおっしゃっている。今は本当に正念場、こんな時に現場の真のリーダーを、東電は守ってほしい。東電のエライ人達、せめてそのくらいしてほしい。吉田所長、あなたは今世界中で一番大変な立場にいると思う。牙をむき出している原発4機だけでなく、会社のトップや政府、原子力保安院、IAIE・・・でも、子どもたちの未来はあなたたちの肩にかかっているんです。あなたの心意気を感じている人はきっとたくさんいると思います。気持ちを届けるすべはないけれど、私はあなたたちの頑張りと健康に祈りを捧げています。
May 26, 2011
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福島原発は1号機、2号機、3号機がメルトダウン、メルトスルーしているという。原子力について何も知らなかったワシでさえ、連日の報道やインターネットで、今の状況を知るにつけ、大気汚染、海洋汚染、土壌汚染、体内汚染・・・と人生観まで変わってしまうような状況が起こっている。福島原発暴発阻止行動プロジェクトは、60歳以上の元技能者・技術者たちが福島第一原発を抑えるためにボランティアを立ち上げようというプロジェクトだ。この“おじさん”たちは特攻隊ではない。専門的な技能・技術を必要とする現場で原発の暴発を阻止するために働くという。60歳以上というのは、放射能に対して若い人達よりも鈍感になっているからという理由だ。山田恭暉さんという方が発起人で、5月23日現在、行動隊165人、賛同・応援者796人、カンパ1,843,200円とHPで報告されている。いまや反原発の希望の星とも言える京大の小出裕章先生もすでに参加されているという。参議院議員の牧山ひろえさんの院内集会も今週から開かれるようになった。自分の欲で今すべきことさえ見失っている国会議員を尻目に、地方自治体や企業、有志たちが着々と「原発なしの世界」に向けて歩き出している。ワシもその中に混じって、小さな一歩だけど踏み出したいと思う。
May 24, 2011
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今まで国会中継など見たことのないワシだが、今日初めて参議院行政監視委員会をネットで観た。今、ワシにとってのヒーロー、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章先生が参考人として出席されたからだ。先生は若いころ「将来は原子力だ」と学び始めたが、それが貧弱な資源であり、いかに危険なものであるかを知り、原子力利用に反対するために研究を続けられているという奇特な人だ。「6人組」と呼ばれ、出世も阻まれているらしいが、それでも「僕はいつも自由だった」と清々しく語るのだ。この日の様子は小出裕章非公式まとめで見られます。小出先生の他、後藤政志氏(芝浦工業大学非常勤講師)、石橋克彦氏(神戸大学名誉教授)、孫正義氏の合計4人が意見を述べ、質疑応答したのだが、ワシはホッとした。参考人、国会議員ともこの場にいた人たちがとても真摯に原発問題に向き合っていたから。どの参考人の話もとてもわかりやすく、建設的で、それをきく議員達も学ぼうという態度に満ちていた(ように思える。少なくともやじは一度も聞かれなかった)。日本が救われる道がちょっと見えたような気がした。原子力は安全でコストが安いという嘘に、もう惑わされることはない。代替えエネルギーのアイデアはどんどん出てきている。それをブロックしていたのは原子力で金儲けをしていた政治家や電力会社なのだ。ワシたちはもう、騙されたうえに、子どもたちの未来を暗くするような原発を野放しにしておいてはいけないのだ。ワシも応援している「福島原発暴発阻止行動プロジェクト」も動き出し、今週から国会議員との院内集会が開かれるという。誰でも出席できるらしい。何も考えずに電力を享受してきたワシだって、偉そうなことは言えない。でも、今から変わろう。ワシ自身がかわり、そういう人が一人づつ増えることで、社会全体が変わっていくのだと思うから。
May 23, 2011
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菅首相ってそんなにダメなのだろうか。今の日本に必要なのは、東日本大震災被災地の復興と福島第一原発の収束だろう。リーダーシップがないと言われているが、じゃぁ今の政治家で誰だったらリーダーシップとれるのか?ここ数年の自民党・民主党の首相交代劇はなんなのさ。誰かがテレビで「田中角栄だったらどうしていたか、と思う時がある」なんて言ってたけど、だいたい今の原発政策をはじめたのが田中角栄だろう、「原発を守れ」って言ったんじゃないのか?だって、今の自民党、まだ原発を守ろうとしているものね。菅さんだからこそ「浜岡を止める」「日本の電力政策を見直す」っていえるんじゃないのか。産業界とつながってる議員が怒っているけど、だいたい原発は一部の人達の利益のために作られたとしか、今のワシには思えない。いろんなことを知れば知る程、その思いは強くなるのだ。この期に及んで菅おろしをさけぶ小沢の政治的センス、終わったなと思う(期待したことは一度もないけど)。「今首相であることは運命だと思う」そういった菅さん、ワシは支持するよ。復興の道は厳しいけど、まずはお金だから、それは国会で早く決めてね。そして原発政策の転換は菅さんにしかできない。西岡のいうことなんか気にするな!頑張れ!!
May 19, 2011
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プーケット在住の有志の皆さんが、東日本大震災の被災者支援に立ち上げた「頑張れニッポンプロフェクト」。今日はホームワークスでのTシャツの販売と、今開催されているモーターショーへの出演があり、ワシも微微力ながら参加してまいりました。出し物は「365歩のマーチ」と「清流登りうち」。「365歩」はTさんが花道で歌い、5人のメンバーがバックで踊るというもの。あとから出演するキッズダンサーの舞台裏での気合の入った様子を見ているだけに、ううむと思ったけれど、♪ワンツーワンツー♪♪と自分自信を叱咤激励。清流登りうちは、2004年のインド洋大津波でプーケットが被災したときに、日本人有志の方から贈られた日本太鼓が大切に使われている。Tさんの指導のもと、R子さん、Yさん、Mちゃん、Hさん、それにワシの6人で、この1週間で3回、今朝も含めて4回真剣に練習した。ワシはみんなの後ろで小太鼓を叩いているので、みんなの様子がよくわかる。今日の演奏は今までの練習の中で一番のできでありました。(あまり)間違わずに、そろっていたというのもそうだけど、こう、腹の底から沸き上がってくるエネルギーを感じた。振り下ろす腕の一打一打に思いを込め、被災地の皆さんに届け!と願ったのはワシだけではなかっただろう。まだ厳しい日は続くし、時が経つと経済的な被災がボディーブローのように効いてくるのをワシらは経験した。その時に日本から、世界から送られた支援の手の暖かさもワシらは知っている。だから、せめて、被災地の皆さんが少しでもホッとできることをなんでもしたいと思う。被災地の皆さん、辛いときは辛い!と叫んでください。そして、それを受け止める人たちが世界中に沢山いることをどうぞ信じてください。
Apr 2, 2011
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ワシが毎週楽しみにしている、占星術師ジョナサン・ケイナーのサイトのトップページを読んで、胸がふるえる思いがした。以下、引用です。 私は長らく日本の著名な科学者・江本勝さんを尊敬しています。彼はこんな説を唱えています。「水には記憶や感受性がある。それだけでなく水は『意識』をも備えている」と。一部の人に言わせれば、これは現実離れした概念です。でも、占星術師である私にとって、これは大変よく道理が通っている説なのです。江本さんは次のように述べています。 「20年にわたり水の結晶の写真を研究してきた結果、純粋な波動を受けた水がポジティブに変化することがわかりました。その波動はどんなに遠くから送ったものであっても変わりなく作用します」。 3月31日の午後8時(日本時間)に江本博士は、福島第一原子力発電所の原子炉を冷やすために使われている水に祈りをささげることにしており、参加者を募っています。彼は祈りがこの問題に違いをもたらすと信じています。同感です。 江本博士のこのプロジェクトのサイトからの引用私は、福島原発の中の水たちが、どんなに奮闘してくれているのか。どんなに悪戦苦闘しているのか。大変に辛い思いをしているのだな。 (中略)『福島原発の水たちよ、辛い思いをさせてごめんなさい。我々を許してください。そして有難う、愛しています。』 今ワシは、花粉対策でこの時期恒例のプーケットにいるけれど、タイの各地で大雨による洪水が起こっているという。ワシがプーケットへ着いてからの1週間、雨が降り通し、この時期とは思えない涼しさだ。というより寒い。「大津波も水、放射能を防ぐのも水、広まってしまうのも水」。 そしてワシら人間の体の60%も水。だからワシはこの記事に心を揺さぶられたのだろう。 ワシは日本時間の8時に間に合わなかったけれど、でもこの祈りを捧げたいと思います。
Mar 31, 2011
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福島第一原発への自衛隊と機動隊による放水が始まった。2011年の日本に、国のため、国民のために命を賭して働いてくれる人がいるということに深く感動している。その一人ひとりの方たちにそれぞれの家族、人生があるわけで、出発するときの気持ちを考えると泣けてくる。でも、あなた達が私に与えてくれたのは、原発云々よりも、今の日本にこんなすばらしい人達がいるんだという希望だった。陳腐な表現と思われても仕方ないけど、本当に心底それが本心なのだ。悪化する一方の情報にただオロオロと落ち込んでばかりいた私たち、眩いばかりの行動力に勇気づけられたのは私ばかりではないだろう。ツイッターのリツイートで回ってきた松山千春の言葉。『知恵のあるやつは知恵出せ。力のあるやつは力出せ。金のあるやつは金出せ。何もないって言うやつは元気出せ。』
Mar 17, 2011
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9月23日から1ヶ月間、プーケットです。この日は雨季をまったく忘れるような晴天、毎年恒例のサーフィン大会の最終日。ちょうどロングボート部門のファイナルをみることができました。4人のファイナリストには台湾からの女性サーファーやカタビーチ出身のロコも。この日はかなりの大潮で、写真を撮るのに夢中になっていたらズボンびしょ濡れ。でも気分爽快!やっぱ海はいいねぇ。水が怖いけど、ちょっとサーフィンやってみたいかも。
Sep 26, 2010
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7月12日はピッピの命日。ワシがプーケットから帰る前日だったから、もう丸々3年経ってしまったのだ。当時住んでいたカトゥーの家は、ワシにとってジャングルのキャンプみたいな感じで、サバイサバイではなかったけれど、ピッピやミルとの思い出のある家に違いはない。昨年(09年)3月、妹もその家から引越しをした。その時ワシも花粉から逃れるために1ヶ月プーケットに行っていて、その時下書きしたままの日記がある。命日の今日、ピッピちゃんへ向けてアップしよう。明日は引っ越し。プーケットでの生活の最後の1年を過ごした家から引っ越す。1年8か月前にこの家から日本へ帰ったものの、妹がいて、年に2回1か月、2か月と過ごしていたし、それなりの思い出がある。あまり好きな家ではないけれど、一番去りがたい理由は、ミルやピッピと過ごした家を離れるということ。ミルもピッピも、シロやミケちゃん、ドタバタおばちゃんさんちのコウちゃん、向かいの家にいた3匹の犬たちもここの庭に眠っている。妹が飼うことになった小春ちゃんは基本的には白黒猫。体の両側がキジで、尻尾はまっすぐ長いタイプ。そのそれぞれがピッピやミル、ラックを思い出させる。その小春ちゃんがその日、夕暮れの庭にただずんでいた。と、1匹のホタルが現れ、ピッピやミルのお墓の上あたりを飛んだ。もう1匹あらわれたホタルもまた、同じような場所を飛んでいた。もっと近くで見ようとキッチンへ行ってみると、1匹のホタルはなんと近づいてくるではないか。キッチンのドア付近をくるりと大きく回り、茂みの中へ消えて行った。虫にことかかないこの家だけどホタルを見たのは初めてだ。2匹ともとても力強い光を放っていて、なんだかミルとピッピが戻って来たような気持ちになった。ミルもピッピも、置き去りにされると思ったわけではないだろう。一緒に引越しにはしゃいでいるような、そんな気がした。
Jul 12, 2010
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GoogleのソフトでPicasa3という画像ソフトがありますが、最近知った機能ですばらしいのがある。人の顔をスキャンして、アルバムをつくるというもの。ワシの場合、今まではフォルダで管理をしてたわけです。今年であれば「2010年」というフォルダを作り、その中に場所と日付を入れたフォルダを作るとか・・・。それでも誰が写っているとかまではわからないわけで、古くなるほどに忘れていく。。グループで映ってたりするともうほとんどお手上げ状態でありました。最近はタグをつけられるようになったのでちょっと改善されましたね。たとえばビーチの写真が欲しいという場合、ビーチで検索すればズラ~っと出てくるという。それでもタグを付ける作業が結構面倒だったりするわけですが。で、ある人がブログで紹介していたのを見て知ったのが、冒頭の機能。どんな小さな顔でも見逃さない。ワシのプーケット時代の写真は会社のスタッフパーティーのものが大量にあって、もうどうしようもない状態だったんだけど、名前を知らないスタッフまでちゃ~んとスキャンしてくれるんですね。で、同じ人物をグループ化してくれる。だからタグ付けも簡単です。人物を仕分けするのに重要なのは歯かもしれません。タイ人がそうなのか、一緒に働いていた同僚たちがそうなのか、大口を開けて笑ってる写真が多い!みんな歯を見せて笑っているので仕分けしやすそうです。歯が見えてない写真は間違って仕分けされたりするから、歯は大きなキーポイントなのでありましょう。タグを付けるように名前をつけていくのですが、(歳のせいか)仲良くしてたのにふっと名前が出てこない。何かの拍子に思い出したりするんだけど、3日たっても思い出せない人がいる。。それはともかく、みんなホントいい顔で笑ってるんですよね。会社も若くて元気な頃だったし、働くことが楽しかったし。いい時代でありました。大勢の同僚たちの笑顔や、スタッフパーティーの仮装など笑える写真を見ていると、ホノボノ幸せな気持ちになります。無料ソフトなのでぜひお試しを。 ところで、この機能は「人物」というカテゴリーの中に各人のアルバムが形成されるんだけど、どういうわけか1枚だけ、猫のクリリンがはいっていた。猫や犬の写真も同じくらいたくさんあるのに、何故かクリリンが1枚だけ。クリリンはちょっと障害があって、母猫も見捨てた猫なんだけど、去年の10月からうちの猫になってます。クリリンについては次回ということにして、「人物」にまぎれこんだクリリン、どういうことなのでしょうね? ↓ どうみても猫だけど・・・
May 19, 2010
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今年も花粉を逃れ+ソンクラン水掛参戦のため、3月25日から1ヶ月プーケットにいた。で、今年の1月にヨガと太極拳の先生に誘われて始めた魂合気(たまあいき)は、意外なほどにプーケット滞在を楽なものにしてくれたんですね。魂合気とは・・・を簡単に説明できるほどわかってはいません。(興味のある人は魂合気研究会のサイトを見てみてください)。ただ、練習ごとに先生に言われる「力に任せない」「つながっていると意識する」ことが、敵を作らず、モノや動物そして人との関係をスムーズにしてくれることが実感できた!例えば、猫の小春ちゃんに薬を飲ませるのが簡単だった。言うことを聞かない犬のガンコがとても素直で頼りになる存在だった。無駄吠えするウシコをすぐに静めることができた。重い鉄の門を簡単に開け閉めすることができた。車のスペアタイヤを止めているネジを回しとることができた(弟分のHがかなり頑張ったとはいえ、音を上げ始めてからワシに替わってとった)。混雑する駐車場で、スーッと前にスペースが空くことが2度あった。行けないと思っていたプロンテップ岬のサンセット、ちょうどいい時間に間に合った。タイ人の友達に少々面倒なことを頼まれたが、力になってあげようと思えた。リウマチで力仕事が難しい妹に魂合気を教えたところ、大きな庭バサミを使えるようになった。そして、車の運転中に罵詈雑言を吐くことが(少)なかった。「そんなの普通じゃね?」ってツッコまないように。 どうやるかというと、ワシの場合、肩の力を抜いて、左脳のフタをパカっと開ける感じ。左脳を働かせない、考えないことが大切らしい。それだけで今までと全く違った関わり方をすることができる。とはいえ、行動するのに考えない、力を使わないというのはかなり難しいんであります。普通は、行動するときには考え、力を使うわけですからね。力任せにしないということは押し付けないということ。とりあえず相手を受け入れる。つながっているという意識は自分と他を区別しないこと。受け入れて、区別しなければ、摩擦もなくなる。必要ないものや嫌なものは受け流せばいいらしい。ずいぶん気が楽になりました。人の意識は不思議なもの。左脳パカッで、凝り固まっていたワシの中の「何か」がさらさらと流れるようになった気がします。まだ変われるかもしれない、その先にはまだ知らない可能性がワシを待っているかもしれない、そんな気分になれたのであります。
Apr 23, 2010
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ただいまプーケット滞在中。天気が良かったので、夕方急いでプロンテップ岬へ。明日からソンクランのせいか、すごい混雑でありました。水平線に沈む太陽は見られなかったけど、雄大なサンセットはさすがプロンテップです。
Apr 13, 2010
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2010年からはまじめに書こうと思っていたのに、もう1月も終りという体たらくとりあえず、今年の年頭の誓いだけでも書いておこっと。「メンドクサイと言わない、思わない」ブログに限らず、「メンドクサイ」からは何も生まれません。身軽に気軽に行動していこうと思います。初登場のドラゴンことドラちゃん。ホントは活発で気のいいお兄ちゃん猫です。
Jan 31, 2010
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ブログの更新を怠っているうちに、私のブログは訃報ばかりになってしまった。もう少しで二十歳を迎えるはずだった猫のキョンコが1週間前に旅立ってしまった。去年の暮にご飯を食べなくなり、その時はステロイドが効いたのか、あるいはもともとの生命力の強さが幸いして回復した。2月ごろ、今度は急に左目が飛び出してきてしまった。レントゲンをとってもよくわからず、もしかしたら歯周病の腫れが目を圧迫しているのかもしれないと、主治医の先生の勧めで抜歯をした。5日くらいで飛び出していた目がスーっと引っ込み、乾いてしまった角膜もすっかり元通りになって、「キョンコはすごい猫だ!」と何度もほめてあげた。3月から4月にかけて私がプーケットへ行っている間にまた目の具合が悪くなり再入院した。私は成田から家へ着くなり病院へ迎えに行った。具合が悪いと一人でジッと耐えている猫だったが、やっぱり病院は嫌いで、定期検診に行くたびに、ケージから引き剥がすように引っ張り出し、帰るときにはさっさと自分からケージに入っていた。だから少しでも早く家に連れて帰ってあげたかったのだ。その時は、目が飛び出すことはなかったけれど左目に白い膜がかかり、腫瘍かもしれないと言われた。それでも、食欲が安定してきて、私がいる2階に何度も来るようになった。ラックがいるときは遠慮していたのかもしれない。後ろ足が悪くなっていたので、もう2階に来るのがつらいのかと思っていたけれど、そうではなかったのだ。いつもは1階のリビングで寝ていることが多かったが、夜になると私のところに来て、おなかがすくと脚をひっかいて知らせた。腎臓サポートのウエットタイプをよく食べるようになり、少しづつ何度も何度も食べさせて、キョンコもどんどん元気になっていった。この8月、妹がプーケットから一時帰国するので私がプーケットへ行っている間も、「ご飯もよく食べるし、目もよくなってるし、すごく元気だよ」と報告を受けて安心していたのだが、帰るその日になって母から入院したという電話がはいった。「昨日まで元気だったのに、朝方急に大きな声をあげて、後ろ足が動かなくなっちゃって。それでも這ってお父さんのベッドの下まできたんだよ」。その日すぐに母はキョンコを病院に連れて行って、とにかく私が戻るまでは生かしてくれと頼んだらしい。今回も成田から家に着いて、荷物を置くとすぐに病院に行った。酸素室に入っていたキョンコは、私に気付くと起き上がり、ものすごく大きな音で喉を鳴らした。どこか悪いんじゃないかって思うくらい、大きく元気にゴロゴロと喜んだ。先生の話では、静脈瘤であることは確かだという。後ろ足にはもうほとんど血が通っていなくて、冷たくなっていた。普通なら手術をするところだけれど、高齢でもあり、手術をしたからといって確実に治るともいえないということだった。家に連れて帰る気持ちは決まっていた。酸素ケージをレンタルしようと思っていた。とにかく、一人で入院させておくことだけはしたくなかった。家について、腎臓サポートのフードを口元に持っていくとペロッとなめたが、ポトッと吐き出してしまう。またご飯を食べるようになるんじゃないかと期待したが、これが精一杯だったのだろう。両親が寝てしまった11時過ぎ、私は居間でキョンコに添い寝するようにずっと一緒にいた。ここで一緒にいてあげなかったら後悔すると思った。「怖くないよ、大丈夫だよ」。いつもはキョンコの体をマッサージするように、でもこの日は手をかざすようにして「キョンコの悪いもの出ていけぇ」と続けていると、すこし落ち着いたようにみえた。ただ、最期が近いことを感じていた。病院から連れて帰ったことでキョンコの死期を早めたかもしれないけれど、たとえ3日、1週間と病院にいて長らえるよりも、キョンコは家にいるのがいいのだという気持ちに迷いはなかった。私がトイレから戻るとキョンコは痙攣を起こしていた。そして最後に後ろ足がスーっと伸びると、キョンコは逝ってしまった。8月30日午前2時半。20年間、良く生きた。キョンコも素晴らしい猫だった。頭がよくて、生命力にあふれていて、すごい食いしん坊で、プライドが高くて、でも実は甘えん坊で。私のお気に入りのクッションの上でよく眠っていた。プーケットに住んでいた6年半の間も、家に帰ってくるとすぐに甘えてくれた。私の脚の間に挟まって、脚をつかんで、ゴロゴロゴロゴロ言っていた。本当に良く生きた、すばらしい猫だった。だからもうキョンコはすっかり虹の橋へ行ってしまった気がする。弟のチビニャンや、ラック、ミル、ピッピとも仲良くやっていることだろう。ミルとは毛の色も似ているし、性格も頭の良さも似ているから、意気投合するに違いない。2日前まで元気でいたキョンコ、そして私を待っていてくれたキョンコ。キョンコは生命力が何であるかを教えてくれた。死の2日前まで元気に生きられるのだということも教えてくれた。そして、十分に良く生きた可愛い素敵な猫だった。キョンコ、私たちは人間の言葉ではない何かで理解し合っていたよね。だから、いつかまた、きっと会えるよ。その時には目で合図しあおうね。
Sep 5, 2009
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12時10分前に乃木坂駅に到着したけれど「ファン順路」はすでに長蛇の列で、青山1丁目の方までその列は続いていた。ワシらの前にいたのは米沢からきたというファミリー。二男の名前は清志郎君だった。その後ろにいる人たちは大阪から。ワシらの後ろには赤ちゃん連れのファミリー。赤ちゃんはほんの数秒ぐずっただけで、ずっといい子にしていた。文字通り雲ひとつない晴天で、暑くも寒くもなく、心地よい風がずっと吹いていて。清志郎が空から「♪よく来てくれた、サンキュー♪」と歌ってくれている、そんな気がした。 3時間半待ってやっと葬儀所へ入った。さらに列が作られていて、業界の人たちもファンの列にかなり多くみられる。「♪ようこそ~♪」という清志郎の声にこらえきれなくなった人が多かった。外で待っているときは清志郎の死を信じられず「コンサートに来てるみたい」と笑っていたけれど、葬儀所に入るとやっぱり本当なんだと感じさせられる。それでも、ハッピーそうに笑っている清志郎の遺影をみると、「ジョークだろう、早く出てきてよ」って気にもなったりして・・・。年をとった清志郎の声や言葉を聞けないことが、悔しく悲しい。
May 10, 2009
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清志郎さん、信じられないです。 崇高なあなたのソウルをちっぽけなワシの心に埋め込んでおきます。矢野顕子 & 忌野清志郎 - ひとつだけ Fuji Rock '02 from YouTube
May 4, 2009
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友人のアンドレがコタオでゲストハウスを始めた。フランス語でセミを意味するLa Cigale(ラ・シガール)というのがその名前で、丘の林の中にあってセミがうるさいのと、お母さんが賑やかでセミみたいにいつもしゃべっていたからそう名付けたのだそうだ。アンドレはワシがプーケットで働いた会社のサムイオフィスのマネージャだった人で、プーケットとサムイと離れていたけれど、会えばとても懐かしい気がして、いつもハッピーな笑顔が愛すべきラスタマンなのだ。半年前に「4月頃にはオープンしている予定」といっていたので、「ソンクラン前に行くよ!」ってことになった。妹と二人、我が家のMVでパンガー、クラビからフェリーでサムイへ行き、サムイからカタマランでコタオという長旅だ。象のぬいぐるみのラックも連れていく。今は虹の橋に行ってしまった愛猫ラックに生まれ故郷のタイランドを見せてあげたくて、生前つけていた首輪をぬいぐるみのラックにつけての出発だ。車でプーケットからサムイへは2度ほど行ったことがある。「それほど難しい道ではない」「パンガーで4号線を離れてクラビへ行くこと」「途中、スラターニ方面の標識があるがそこを曲がらず、越えて行くこと」「44号線をどん突きまで行けばあとは標識に沿ってドンサックまですぐ!」。2回目に行ったときにちょっと間違ったが、今度は3回目、運転するのは始めただけどスイスイヨと、高を括っているとガツンとやられるのがワシのいつものパターンね。ということで、次回いつになるか分からないけど、プーケットから車でサムイ経由コタオへ行く時のために、道順を書き留めておくことにします。まずはプーケットからパンガー方面へひた走る。だいぶ道路が整備されてきて、パンガーに入っても快調に飛ばせます。パンガーを抜けて4号線から右に曲がるのだが(415線だとおもう。。大きなドライブインがあるところ(写真上))。そこを曲がらずに4号線を行くと山道になって遠回りになるので注意です。とにかくクラビのアオナンビーチの方へ向ってひた走ります。途中、「スラターニ」の標識があって415号線の入り口がありますが、これを曲がってはいけません。行けるんだろうけど、広くてまっすぐな44号線を行くためにはここで曲がってはダメね。大きなガソリンスタンドがあって、いかにもこの道みたいな感じだけど、違います(写真下)。クラビのアオナンビーチへの標識が見えたりして「まだかいな」と思う頃、再び4号線にぶつかるので右折、これに乗り20分くらい走ると、44号の入り口があります。緑の大きな標識に「スラターニ左折矢印」が見えてきたら注意深く走りましょう。44号の標識は小さいので見落としちゃうことも。ここまで来たら走るべし、走るべし、走るべし!道は片側通行の複車線、真っ直ぐです。クラビ独特の石灰岩の岩山からヤシの木林に変わり、スラターニに近づくと180度見渡せるような平野になります。この道、何度走っても爽快!好きだぁ~1時間ほど走ると「スラターニセンター左折」みたいな標識が出てくるけど、これも無視。とにかく44号線のドン突きまで走ります(入口のクラビから出口のスラターニまで時速120キロで走って1時間半くらいの感じ)。 スラターニのT字路まできたら、右方向のナコンシータマラート方面へ行くのだけど、右折できないので、左折してからUターン。ここから実はまっすぐまた30分近くひた走るはずが、迷ってしまったんですね。。このT字路から15分くらいのイメージだったのだけど、実は30分くらい401号線を走って、Y字路を左折して4142号線を15分ほど走ればドンサック。それを4177号線に入ってしまったのが運のつきでしたね。GoogleマップでもDon Sakでちゃんと出てくるのだけど、イメージ的に簡単だと思っていたワシは肝心なところをプリントしないで出てしまった。4177号線はどんどん深みにはまるって感じで、時々「ドンサックは?」ときいても「あっちだよ」と指さしてくれるばかりで。トイレには行きたくなるし、「もうダメだぁ、我慢できないっっ」っていうときに着いたのがこのお寺。人気のないお寺だったけど、仏様が付いていてくれたと思うと安心した。トイレを借りて、ちょうどすれ違った家族連れのお父さんに聞くと、「この道をまっすぐ行けば大きなタノン・アジアにぶつかる。それを左に行けばある」と教えてくれた。道と同じくらい心細い思いをしながら30分くらい走っただろうか、なんとなく見覚えのある大きな道に出て、そこから10分くらいでドンサック船着き場の入り口にたどりついた。毎回のことながら、予約をしないと2時間待ちというのが普通のパターンのようだ。フェリー予約は電話でできるが、指定銀行に振り込めとか指定銀行のATMカードの会員でないとだめとかいろいろ面倒なのでやめといた。切符売り場で指定された列に並ぶのだけど、これは全くの未確認情報ですが、乗車して待っていると一つ前の船に乗れるのかもしれない。前回は間際になって一つ前に乗れたし、今回高級車に乗った家族がずっと車のなかで待っているのを見て「なんで?」と思った。そしたら彼らは係員に誘導されて一つ前のフェリーに乗って行った。まぁ、何台乗れるかなんてその時によってまちまちだから、スペースがあって準備OKならばきっと乗れるのであろうというのが結論です(あくまで未確認情報です)。フェリーは1時間ちょっとでサムイへ。シャム湾はいつも鏡のように静かです(3回ともそうだったから)。「やっぱサムイはいいなぁ!」と妹と二人ワクワクしていたのでありますが、なかなか一筋縄ではいかない旅の始まりでした。
Apr 7, 2009
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花粉からの避難と、ソンクランの水かけに参加するために3月19日から1ヶ月間プーケットです。今回妹の引っ越しと仕事で、ほとんど遊んでない!で、今朝「わあ~カロンビーチにもカタビーチにも行かなかった!」って、なぜかハワイのビーチで叫んでる夢で目が覚めました。プーケットに来ると何かしら間の抜けたことをするワシですが、今回は銀行のキャッシュカードを失くした!と必死こいて銀行に行き、300バーツ払って再発行してもらってそれを財布に入れようとしたら、いつも使わない財布のポケットから今までのキャッシュカードが出てきたという…明後日からコサムイ~コタオツアーに出かけるので、気を引き締めよ、しっかり遊べ(!?)ってことなのでしょう。300バーツを無駄にしないようにしっかりのんびりしてきます
Apr 5, 2009
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今場所の優勝決定戦で朝青龍が勝利した時、会場に大きな喝采が沸いた。少なくともワシには「よく頑張ったゾ!」という温かい拍手に聞こえた。ガッツポーズにしたって「そうだよ、いろんなプレッシャーをはねのけてつかんだ優勝だ、うれしいよな!」とほほえましかった。確かに「この人は格闘家なんだな」と思ったけれど、相撲だって格闘技には違いないだろう。相撲協会もマスコミも、ワシにはいじめに見えるよ。伝統だ文化だと言ったって、それを支えているのはファンだろう。時代の移り変わりによってそれが変わっていくのは当然だ。品格だなんだって、場所前の悪評をはねのけて全勝優勝した朝青龍にケチをつけているとしか思えない。マスコミ(特にテレビ)も偏った報道の仕方しかしないし。優勝後の記者会見の質問に至っては「あと何年続けますか?3年?」って、アホか。そんなこと考えながら仕事するやつにロクなやつはいない。「あなたとは違うんです」って朝青龍に代わっていってやりたかったよ。世知辛い世の中で、いいニュースが少ないんだからさ、せめて頑張った人にまず「よくやった!」って言ってあげようよ。
Jan 29, 2009
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オバマ大統領の就任演説の肉声を聞きたいと思ったのはやはりワシだけではなかったのだろう。NHKが字幕入りで再放送したのには「よくやった」と初めて褒めてあげたい。あれだけ具体的に問題点を指摘し、それを乗り越えていこうと語りかけられると元気も勇気も出てくるというものだ。カリスマ性のあるリーダー、久々にアメリカを羨ましく思った。そして、問題山積みの大国アメリカを救おうとしている彼の姿を見ながら、ヘナチョコのワシでも自分ひとりを救うことはできるのだと確信した。がんばれワシ!God-given promise that all are equal, all are free, and all deserve a chance to pursue their full measure of happiness.www.whitehouse.gov/blog/inaugural-address
Jan 24, 2009
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たった2週間で、元気だったラックがいなくなってしまったという現実が受け入れられず、忘れようとする気持ちが働いてか他人事のようであり、そして急にものすごい寂しさが襲ってきて涙ぐんだりする。すぐにでも保健所に飛んで行き、子猫をもらってこよう、そんなことばかり考えるようになっていた。1月12日の夜、エアコンを止めてベッドサイドのスタンドも消して、さぁ寝ようとしたら「パタッ」と何かが落ちる音がした。また仕事用の椅子が跳ね上がってデスクにあたったのだろうと思った。落ちる音ではないけれど、他に物音の出どころが考え付かなかったから。翌朝起きてみると、椅子はデスクから離れていて何にもぶつかった形跡はない。なんだろうと思って部屋を見回すと、ミッキーマウスのぬいぐるみが落ちてまるくうつぶせになっていた。大学の卒業旅行の時に買ったもので、座っているタイプのミッキー。カラーボックスの上、深くに座らせてあるので、一度も落ちたことなどないのだが…。その日の午後、仕事をしていると、バスタオルをかけておいたハンガーが急にハンガーラックから落ちた。ハンガーが落ちるほどの風が部屋の中で吹いていたわけでもないのに。。ラックだと思った。たった2週間で変わってしまった状況に、ラックだって戸惑っているのだ。ピッピとミルの待つ虹の橋にすぐに駆けていけなかったのかもしれないね。それなのにワシは自分の寂しさを紛らわせるために次の猫のことばかり考えていて。ラックは「私はここにいるよ」と言いたかったんだ、そうだよね。いつもラックを抱いていたように、ミッキーを肩の上に乗せてみた。ラックと同じ大きさと丸さ。そして何気にミッキーの右手を触ってみると、先の曲がり角の硬さが、ラックの尻尾の曲がりの硬さとそっくり同じだった。ワシは何日ぶりかにラックの尻尾を触った感触を取り戻した。悲しみすぎてはいけないというけれど、自分の寂しさしか考えないワシの身勝手さはあんまりだったね。「ナーラックナー、ラック」。可愛いねぇラック。ワシとラックの合言葉のように、タイ語でいつもそう言ってたんだよね。悲しむことと愛を伝えることは違うってことに今、気づいた。
Jan 13, 2009
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ワシは島田紳助と同い年である。今日「行列のできる行列のできる法律相談所」で100キロ以上の投球を50球つづけるという挑戦をしていた。パーフェクトにこなした彼の姿勢に感動し、そして自分のふがいなさに泣けた。だらだらと毎日を過ごし、本当に向き合うべきことから逃げてしまっている、それが今の自分だ。「我が敵は我にあり」、羞恥心がうたったこの歌も紳助の作詞だそうだ。彼はいろいろな芸能人を番組で引き上げているが、徹底的に自分自身を追い込ませてできる限りの力をださせている。ワシがそれを今やっているかといえば・・・ウダウダ言ってないで、目標を明確にして働くのみだ。ヘナチョコキリギリスがどこまでサバイバルできるのか、それがワシのテーマ。
Jan 11, 2009
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1月2日にラックまでも虹の橋へ行ってしまった。ラックはミルの娘でピッピの妹。生後2か月で兄猫のタイちゃんと一緒にプーケットから秩父へやってきた。兄のタイちゃんはすごく頭のいい猫で、閉じ込められていた2階の部屋から脱出するためにあらゆる方法を編み出し、ラックは一回りちっちゃいながらタイちゃんに遅れまいと必死でついていくようなお転婆な子猫だった。5か月になった時に避妊手術をしたが、おなかに大きなテープを張りながら、タイちゃんと一緒に木登りしたりして、ハラハラさせられたものだ。タイちゃんは冬のある日から家に戻らなくなった。たぶん、遊びから帰ってきて家に入れなくなってしまったのがきっかけで、どこかサバイサバイな家に行ってしまった、私はそう思っている。ラックは先住猫のキョンコと喧嘩しながらも、呼べば大きな声で返事をして寄ってくる愛想のよさで、近所の人たちからも愛されていた。私にとってはプーケットを感じさせてくれる存在であり、そして実家に帰ってきてからは誰よりも一緒にいる時間が長いのがラックだった。朝10時にやってきて、天気のいい日にはベランダで日向ぼっこをした。昼間はどこかに遊びに行き、夜になるとやってきて、ひときり猫じゃらしで遊び、そして私の仕事用の椅子で眠る。私は椅子のかわりにバランスボールに座って仕事をした。ひと眠りすると私の膝の上に乗ってきて、私の左腕に両前足をちょこっとのせて眠る。その感触がたまらなく可愛かった。12月20日、前日の朝に猫用のムースを少し食べたきり何も食べなくなってしまったため病院へ連れて行くと、腎不全であることを告げられ、即入院となった。BUNが98、Creが10.1、その数字の高さに驚いた。ピッピの最初の時ほどには悪くなかったけれど、腎臓が10%くらいしか働いていないことになる。まだ尿毒症は起こしていないというので、また長い闘病生活が始まる、今度こそ1年でも2年でも生きられるように頑張る、そう決心した。治療が効いて、BUNが60、Cre7.3まで下がったため、24日は退院できることになった。家に帰ったラックはすこぶる元気で、腎臓病食のドライフードもよく食べた。投薬も母と二人で「1・2・3!」と手短に飲ませることで、ラックにもストレスはなかったと思う。薬を喉の奥へ落とし、口を閉めて鼻をフッと吹いてあげるといいとネットで知った。皮下輸液をするため27日に病院へ。この時には元気で、「k/dをよく食べるし、薬も飲んでいます」と誇らしい気持ちで先生に伝えた。でも・・・元気ながら皮下輸液が夜になってもなかなか吸収されないのが気になった。そして、また食欲を失った。29日再入院。31日から1月4日まで正月休みに入るが、午前中であれば面会できるということだった。ラックの好きな私の毛足の長いクッションを持って行った。看護婦さんたちは汚れると洗濯してくれていた。ラックはいつもその上で眠っていた。私が面会にいくといつも家でしているように、抱っこしたり、膝の上にのったりしたがった。1月1日朝10時過ぎに病院へ。「膝の上で寝るのが好きなんです」というと、看護婦さんがスツールを貸してくれた。面会の終わる12時まで、ラックは私の膝の上でいつものように気持ちよさそうに眠った。夜には先生が診てくれるということで、電話をまって病院へ行った。その日ほとんどおしっこが出ていない。それでも私や母の顔を見るとしきりに家に帰りたがった。先生も「この子は家にいたほうがいいのかもしれないね」といって、通院することを勧めてくれた。ラックは元旦の夜を家で過ごせたのだ。帰るなり炬燵の中にはいり、横になって安心しきって眠っていた。ただ、あまり元気がないので心配になり、深夜3時半頃に炬燵をのぞくとラックは起きていた。水を飲むかと思い、指の先に水をつけて鼻元へもっていくと、それだけで吐いてしまった。そのあとおなかで息をするようになりすごく不安になった。ラックに刺激を与えてしまったことをすごく後悔した。2日の午前中に点滴のためまた病院へ。そのまま夜まで点滴をし、先生の都合のいい時に電話をくれることになっている。先生が電話をくれたのは午後9時ごろ。ラックは生きているだろうか、不安な気持ちを抑えながら飛ぶようにして病院に行った。ラックは生きていた。元気がなかったけど、私と母の顔を見て鳴いた。先生が注射をして送り出してくれた。寒い夜だった。静かな運転を心掛けながら急いで家に帰った。ホットカーペットにいつものバスタオルを敷いてラックを寝かせた。父と母がラックを呼んでいた。私がその輪に加わっていったい何分たったのだろう。2、3分だった気がする。大きな息を一つつくと、ラックは逝ってしまった。あまりにあっけなかった。ただ、家に着いてみんなに見守れながら息を引き取ったことだけが慰めになった。今でもラックがいなくなってしまったことを受け入れられずにいる。2週間、2週間で死んでしまった。ピッピもミルもつらい思いをしたけれど、それでも3か月、4か月と頑張ったのに、なんでラックはこんなに早くに逝ってしまったんだろう。先生にもわからないようだった。なにか違う病気が潜んでいたのかもしれない。でも、声がかすれた、涙が出るといっては、小さなことにこだわって病院に行っていたのに、3週間前はなにごともなく遊んでいたのに。。肩の上に乗るのが好きで、私の左耳にラックは頭を押し付けてくる。私の首のカーブとラックの頭のカーブがすっぽり収まって、すごく暖かくて可愛くて気持ちが良かった。「ラックぽん、ハ~グ!」といっては1日に何度もそうんなスキンシップを取っていた。朝や夜寝る前にはそのままベッドにもぐりこんでしばらく私の胸の上でゴロゴロいっていた。ちょっと日向っくさかったけど、それがラックの元気な証拠だった。ラックがいなくなってしまったことがなにか他人事のように感じられるのに、なぜか涙がわいてくる・・・1月4日の朝、キョンコが2階にきたらしい。朝7時ころと早かったから私は全く気がつかなかったのだけど、母が言うには「キョンコが珍しく朝2階に行って、しばらくいたんだよ」ということだった。それはきっとラックだったと思う。ピッピはミルの体を借りておかずの魚を食べようとしたし、ミルはラックの体を借りて私のベッドにきてしばらく眠っていった。ラックはキョンコに乗って朝私をおこしに来たのだ。気づいてあげられなくてごめんね。でも今は、虹の橋のたもとでミルやピッピと一緒に野原を駆け回っていることだろう。ラックは今すごく幸せなんだ、そう思う。ラックありがとう。プーケットから帰ってきてこの1年半、ラックがどんなに気持ちを和ませてくれたことか。そしてこの数カ月は特に長く一緒にいることが多かったよね。あれは準備だったのだろうか。ラックは「Luk」、タイ語で「愛」。みんなに愛されたラックをずっと忘れないよ。
Jan 9, 2009
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テレビのニュースで紹介されたんだけど、あまりに衝撃的だったので。テレビのナレーションによれば、チリ(だったと思う)の動物保護施設(保健所?)から脱走した2匹の犬で、高速道路を渡ろうとして1匹は轢かれてしまったのですね。それを相棒の犬が必死で道の脇へ引っ張っていく様子です。傷ついた相棒を助けようとする犬の心情を思うと、泣けてくる。。http://jp.youtube.com/watch?v=LRj_NZrPO_8&NR=1
Dec 9, 2008
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ミルが虹の橋へいってしまった。9月28日午後10時35分、やっと解放されたんだね。もう輸液をしたり、目薬さしたり、薬を塗ったりしなくていいんだよ。エリザベスカラーなんか用なし。妹に、食べられなかったお刺身をあげてもらった。きっと今は大きく伸びをして、お刺身を堪能し、食後の身だしなみを整えて、ちょっと高い衣装ケースの上でくつろいでるとこだろう。またたびの匂いのする爪とぎで体中をスリスリして、リビングのソファで大股開きで寝転んで、電話代にかけてある鼠のおもちゃをちょっと冷やかし、久々にベッドでワシの枕で寝て・・・。この数ヶ月できなかったこと、みんなやっていいんだ。ミルチンは頭のいいきれいな猫だった。家に来る前は多分捨てられてしまったのだろう。可愛い、きれいだと飼い始めるが、帰国する時に置いていってしまう外国人はごまんといる。妹とミルチンの付き合いは10年以上になるが、お産の時妹を呼びに行ったのだそうだ。その後妹が子猫の面倒を見始めるとミルチンはどこからか袋に入った魚を子猫たちのところへ運んできたという。そんなことからなんとなく居つき、大きくなった子猫たち、アロムやピッピを引き連れて、ナナイの裏山で狩りを教えていた。ミルは生きるための知恵と力を持っている猫だった。最初ミルは恐くて触ることさえできないような猫だった。ワシがプーケットで働くようになり、根が猫かわいがりのワシは、ミルチンを抱っこしようと、少しづつ慣らしていった。1年ほどたってから、恐々ながら抱いてみると、意外やミルチンは抱かれ慣れている様子だった。やっぱり根っからの野良猫ではなかったのだ。ピッピがいる頃は母としての威厳があるのか、あまり甘えることはなかったけれど、ピッピがいなくなってからはずいぶん甘えん坊になった。寝るのはベッドで、腕枕が好きだった。フッと目が覚めると同じ枕をシェアしたりしていて。ベルベットみたいに柔らかい毛、頭を腕に乗せ、前足をワシのからだのどこかしらに当てて。ミルがすごいのはワシや妹に決して手を上げないこと。目薬をさそうが目の周りに薬を塗ろうが、すごく嫌なんだけど猫パンチは絶対にしない。どんなに顔を近づけてもそれだけはしなかった。100%信頼してくれていたのだろう。ミルチン、本当によく頑張った。今日も妹の気配がすると頭を上げていたという。最後までピシッと生きた猫だった。8月にプーケットでミルチンと留守番していた時、おなかをすかせたミルチンは寝ているワシの上に乗り、顔をくっつけてきて鼻をちょっとかじった。それでもワシが寝ていたら次は思い切りかじった。ワシの左側の鼻に縦線が今も残っている。スッゴク痛かったけど、今はこの傷が消えないでほしいと思う。ミルチンはワシのプーケットでの生活をとても豊かなものにしてくれた。ミルチンがいてくれたから一人の時も全然寂しくなかった。可愛い子ども達を生んでくれて、今もその娘ラックに癒されている。ミルチン、また会おうね。きっと会おうね。それまで虹の橋のたもとでピッピやアロムと一緒に楽しく遊んでいてね。
Sep 28, 2008
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須崎動物病院・須崎先生の電話相談を受けた。投薬や手術を行わず、食餌療法で治療をするというユニークな先生だ。1週間前にミルチンの写真とともに申し込みをしたのだ。それから毎日ずっとメールチェックをしていたが、返信がなくて、電話をした。もう一刻の猶予もない、そんな状態だから。。留守電に3回メッセージを残した。後でわかったのだが、土曜日は休診日だった。でも察していただけたのか、すぐに係の方から電話が来て、今日の夜に電話相談ということになった。先生は出張先で夜の11時に相談にのってくれるのだ。ミルチンはドタバタおばちゃんさんのササミ以降、すでに3日なにも食べていない。その前にも食べない日があったからこの1週間、ササミ以外何も食べていないことになる。それが意味することは明白だ。「私はまだ死なない」そんなメッセージのあと、ミルチンはなにも伝えなくなった。ワシが鈍っているんだろうか。かなり衰弱していると妹がいう。それでも目や瞳はしっかりしているという。生きる力の強い猫なのだ。妹とワシが知りたかったのは、ホスピス的な意味で、今ミルにとって一番楽でいられる方法、そしてミルの目は何が原因だったのか、その2点。先生にこの1週間のことを説明すると、安楽死を薦める獣医さんもいる状態だと言い、そして治療の話ではなく、ワシらの疑問に答えてくれた。猫はどの動物よりも痛みに強い動物であること、ミルチンが寝ている様子から、ワシらが思うほどミルチンは痛みを感じていないかもしれないということ。変な行動をするわけでもなく、横になって眠れるというのはまだましなほうなのではとワシも思う。ピッピの時はうずくまるような姿勢で眠らなくなってしまったから。。毎日している皮下輸液はしてあげたほうがいいという。脱水症状が進むと口の中がアンモニア臭くなりとても気持ちが悪いらしい。それを取り除いてあげるのに皮下輸液が有効だという。このまま皮下輸液だけを続行する、それが今のミルチンにとって一番楽なベストの方法だと答えてくださった。目はガンでもアレルギーでもなく、ピロリ菌の大量感染だという。あまりにその量が多くて、体が衰弱し、傷が直らずに広がっていったということだ。その原因で一番に考えられるのは水。やっぱりかという感じ。カトゥーに越してきて一番嫌だったのは水が猛烈に汚いこと。共同のタンクを使っているのだが、フィルターがあっという間に鉄さびで真っ赤になってしまう。浄水器もピロリ菌の温床になるということだ。この菌の多さでは、もう動物は飼わないほうがいいとまでいわれた。ミルチンが常に激しい痛みさらされているわけではないと思えたことは、ワシと妹にすごい救いになった。輸液を続けながら静かに暖かく見守ってあげよう。エリザベスカラーももうはずしたもんね。清潔にした部屋で、安心して眠るんだよ。ワシはいつもミルチンのことを思ってるから。 <<ミルチンは腕枕で眠るのが好きだ。その毛はベルベットのように柔らかい。ワシが日本へ帰る8月31日、朝までずっと一緒にいてくれた。眠りにくいらしく、ずっと寝返りを打っていたが、ワシのお腹の上にずっといた。その暖かさ、柔らかさをワシはすぐに思い出せる。>>
Sep 27, 2008
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毎週欠かさず見ているジョナサン・ケイナーのサイトに「祈りのパワー」という文章があった。「人はどうしようもない状況になると祈ります。でも祈りには効果があるのでしょうか?」今まさにワシは毎日ミルチンのために祈っている。ミルチン、目の周りの皮膚が崩れて、肉が露出してしまっている。生きているものの皮膚がこんなになるのかというくらい酷い状態だ。決して放っておいたわけではないけれど、それでも涙目を甘く見ていた気もして、後悔もある。そして3日前の夜からとうとうご飯を食べなくなってしまった。。日本にいるワシがミルチンにしてあげられるのは、誰か---妹であったり、ドタバタおばちゃんさんだったり、獣医さんだったりに委ねること、そして祈ることしかない。昨日の夜、ワシと妹は「ミルチン、もう頑張らなくてもいい」といった話をした。腎臓病もガンも抱えた高齢のミルチンが回復すると心の底から信じられないから(こんなこと書いて、ゴメンね、ミルチン・・・)。だからせめて、ワシはみんなが寝静まってからミルチンに交信を試みる。妹の部屋で寝ているミルチン。窓からもれ入ってくる月明かりの中で眠っているミルチンが見える。ワシはいつもやっていたように、両腕でミルチンの体を包み込み、頭に頬をあてる。そして「ミルチン、愛しているよ」とささやく。キモイと思われるかもしれないけれど、不思議と暖かいものを感じるのだ。この暖かいものが、せめて夢の中でもミルチンを包み込み、ミルチンが楽でいられればいいと思う・・・。と、ミルチンはお腹がすいていると伝えてきた。私の中にそんなイメージが浮かんだというのが正しいかもしれない。そして今日、ドタバタおばちゃんさんがササミをクリーム状にしてもってきてくれ、ミルチンは小さなスプーンで5杯くらい食べたという。ドタバタおばちゃんさんはピッピの時も日本の猫缶を持ってきてくれた。ほんといつもお世話になっていて、心から感謝している。彼女のポジティブなエネルギーがミルやピッピに伝わるんだろう。今夜中の3時半近く。まだ交信はしていないけれど、ミルチンから「私はまだ死なない」そんなメッセージがずっと送られてきている。ワシがミルチンにしてあげられることは何でもしてあげる。でもそれは、ワシが今プーケットへ行くことではないのだという気がしてきた。妹一人でミルの看病、犬のウシコとガンコの世話、家事、仕事と相当な重荷になっている。だから妹のためにもプーケットへ明日にでも行こうと思っていたのだけど、ミルチンのことを考えると、今ワシは日本にいたほうがいい、そんな気がしてきた。日本にいるからできることがあるのでは、そんな気がする。ミルチンが「生きる」なら、ワシは何でもしてあげる。祈りのパワー/マーク・ウィンター人はどうすることもできなくなると祈りたくなります。 でも祈りは状況を変える力を持っているのでしょうか?最近、科学者が面白い発見をしました。彼らはそれを「否局地的」なフォース(力)と呼びます。この発見によると、意識的な考えは時空間を越えて伝達されるといいます。宇宙において、意識はエネルギーや物質と同じくらい基本的なもののようです。サンフランシスコの病院で心臓発作患者を対象におこなわれた有名な実験が祈りのパワーを証明しています。この実験によると、「祈りを受けた」患者のグループは、受けなかったグループよりも、著しく早い回復を示したそうです。『癒しのことば』と『祈る心は、治る力』の著者であるラリー・ドッシー博士もその点を確認しています。同博士によると、私たちの心や祈りは遠隔治療という形で時空間を越えたところで作用するといいます。国連の関連機関である「世界平和祈り協会」のキャロライン・ウチマ氏もこの件について建設的です。「祈りとは心を使って何かを起こすことです。建設的なアファメーション(確言)には効き目があります。なぜならすべてはつながっているからです」。 (ジョナサン・ケイナーの「自己ヒーリング」のコーナーより) <<仕事中のワシの横で眠るミルチン>>
Sep 25, 2008
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いつも帰る直前になんかしら起こるワシであるが、今回は取り立てて何事もなかったなぁなどと思っていたら、知らぬはワシばかりであった。。ワシは29日21時30分発のタイ航空を予約していたが、いろんな友人から「プーケット空港が閉鎖されているらしい」「道路は大渋滞で空港に車は入れず、ツーリストが荷物をもって歩いているらしい」との情報が。そんなことってアリ!? とにかく支度をして出かけてみると、バイパスを左折して空港に通じるT字路あたりから駐車している車が多いことに気づく。空港方向へ進むに連れてその数はどんどん増えていく。ツーリストの姿はチラホラしかなく、空港入り口の50メートルくらい前で車は進めなくなった。仕方ないので、とにかくカウンターへ歩きで向かう。妹にはそのまま車でまっていていもらった。カウンターはすべてクローズしていて、その前に荷物をもってチェックイン待ちをしている人もかなりいた。タイ航空スタッフにきくと、29日は夕方の時点で全便キャンセル。デューティーマネージャーに聞くと、すべてエアポート・オーソリティが決めるので、明日の朝電話で聞けということだった。ホテルに戻りたければ戻っていい、そのかわり自腹と他のツーリストには説明していた。もちろんワシは家に帰った。「また絶対会おうね」といっていったミルチンに本当に会えた訳だ。いろいろな友だちが心配してくれて、わかる限りの情報を教えてくれた。心からコープクンマックマーだ。30日朝、エアポート・オーソリティに電話してみると、18時までは封鎖、その後はその時に再度電話をしろということだった。ワシはタイ航空のオフィスへ行き、とりあえず31日の便に変更してもらった。30日間fixのチケットだけどもちろん無料で変えてくれた。ただ、ちゃんと飛ぶかどうかはノバディノーズ。あとは既にオーバーステイになってるけど、それがどうなるか、だ。 タイの現政権に反対する人々がデモっていうことだが、なんだかみんな楽しそうに盛り上がっちゃって、そのときはめちゃくちゃ頭きたけど、友だちのオンの姪が、タクシンの時に受けていた奨学金が、現政権になったら廃止されたとか聞くと、陽気に騒いでいるタイの人たちにはこれまでする意味も必要もあるのだと思ったら、2日長くプーケットにいられことに感謝の気持ちがわいた。それに、29日空港から帰ってきたら玄関前に手荷物用の荷物が!? 家の前に住むゴップが「忘れて行ったよ!」と。ウヘェ~ワシとしたことが。やっぱパニクっていたんだよね。現時点で明日ちゃんと飛行機が飛ぶかどうかわかんないけど、万事塞翁が馬ということで。今朝のミルチンは調子がよかったみたいで、ご飯を食べてから外でしばらく日向ぼっこをしていた。こんなミルミルを見られるだけでOK!
Aug 30, 2008
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妹の一時帰国のため、その留守番をしに7月31日にプーケットに来て1ヶ月。もう明後日には帰らなければならない。去年7月、6年半住んだプーケットを離れる直前に猫のピッピを腎臓病で失い、前回4月に花粉を逃れてプーケットにきたときにはガンと闘っていた犬のシロキチを毒で失い、そして今回ピッピの母猫のミルも腎臓病、原因不明の目の周りの皮膚病、そしてガンに冒されている。誰が悪いのでなく、加齢によるものが一番の原因・・・へこむ。。ワシはミルミルにもうお金を出すことしかできなくて、消炎作用のある熊笹エキスを買ったり、浮き輪上のアメリカ製エリザベスカラーを買ったり。11歳以上の猫用のキャットフードを大量に持ってきたり。妹は輸液と目の周りの清浄と薬の塗布を毎日続けることになる。今は食欲のあるミルチンの体力に頼むばかり。次回ワシはいつプーケットへ来れるのだろう。花粉の3月には来たいけれど、老いた両親二人だけにして大丈夫なのか、これもまた心配なのだ。ミルチンに会えるのは今回が最後か・・・月曜日に帰ってきた妹と、輸液と猫砂(トイレの砂)を大量に買いにいったスーパーチープで「どのくらい買うか」考えた時、あと何か月分必要なのかと思うとまた暗くなった・・・なくなったら買いにくればいいだけのことなのだが、スーパーチープのカートはボロッちくて、妹一人ではかなり辛い。猫砂10キロの袋が210バーツ、BigCで255バーツ、カルフールでは269バーツ。1ヶ月持つのだからBigCで買えばいいんだ。そんなことでミルチンの命を計るなんてバカらしい。ゴメンな。今もワシの横で眠っているミルチンは、不安など少しも感じていない。ワシらが悲観的になってどうする!少しでも快適に過ごさせてあげるだけだろう。右手をピクピク動かして、夢の中で何かを追っているみたい。今ミルミルと一緒にいるこの時に感謝し、その幸せをかみしめよう。<<ワシのお気に入りのGUESSのバッグの上で眠るミルチン>>
Aug 27, 2008
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Aug 25, 2008
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寒くて天気の悪い5月だったが、久々にちょっといいニュースを聞いた。Bさんがゴルフのレッスンプロになったというのだ。数百人中4人合格の一人として立派にプロ試験にうかったらしい。Bさんはパトンで10年続いた日本食レストランを去年閉め、プーケットタウン郊外でタイ料理屋をやるとは聞いていたけれど、あのカツカレーにずいぶん励まされたワシとしては寂しかったし、急に老け込んで見えたBさんが心配でもあった。60代になって新しく仕事を始めなければならないっていうのは、やっぱりたいへんだ。親分肌のBさんが気弱になっても仕方ないといえば仕方ない。そのBさんが、プロ資格をとってレッスンプロになったというのだ。お店をやっている頃からゴルフコースにいるほうが長いんじゃないかというくらいゴルフ好きだったし、優勝トロフィなんかもいくつも並べる腕前だったから「芸は身を助く」を実践したことになる。その気になればいつからでも遅くないんだってお手本がそばにいるだけでパワーがわいてくるじゃありませんか。たとえ遊びだったとしても情熱を向けることって一芸になるのだ。次回プーケットに行ったら、Bさんにおめでとうと言いに行こう
Jun 4, 2008
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まさにタイム・イズ・フライング。3月4日に花粉症を逃れてプーケットにやってきて、もう明日は日本へ帰る日。インターネット環境だけあればどこでもできる仕事ってのはホントありがたく、この2ヶ月間も無収入の不安から逃れられた。それにしても早い。プーケットにいる間にはマジメに更新しようと思っていたのにこのテイタラクだ。To Doリストは全然減らなくて気ばかりあせって。でもその気になれば「こなせる」ってことが今日わかった。打ち合わせ一つとスパのインスペクション2ヶ所、妹の麺取材同行、買い物して友達に会って、洗濯するってのができたのであった。って、こんなの普通か。。どうもワシはプレッシャーに弱く、「あ~ダメだ、時間がない、もうできない~」とただ手足をばたつかせる時間が長いというか、早いというか。いかんね、これは。落ち着いて粛々とこなせばよいのだ。今回の滞在中残念なことが一つ。10日前に犬のシロが毒殺された。誰かが家の門の中へ毒入りの魚を投げ込んだのだ。気づいたのが遅かったのと、夜で病院にすぐに連れて行けなかったこと、ガンができて衰えていたせいか、妹とワシのできるだけの応急処置(生卵を飲ませて吐かせる)の甲斐もなく、シロキチは旅立ってしまった。夜中の2時から明け方5時までの出来事で、シロがいなくなったという実感が今でもない。庭の盛り土だけがシロキチの死を証明している。あの晩ずっと付き添っていた妹の足元で、静かに静かにシロは息を引き取った。それだけがせめてもの慰めだった。バイバイ シロキチ・・・
Apr 30, 2008
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ワシには気になるホクロがある。胸のちょうど真ん中に子どもの時からあったやつだ。ワシが小学校3年生の時だったか、夏休みで3泊くらい親戚の家に遊びに行って帰ってきたら、興奮した妹が噛み付いたホクロである。妹はへんにワイルドなところがあるやつなのだ。本筋からそれたが、そのホクロが、プーケットへいく少し前、つまり7年くらい前からだんだん大きくなってきた。今では直径1センチくらいになって、なんだか心配なんである。ネットで調べると似たようなメラノーマの写真が出てくる。結束型っていうのがかなり似ていて恐いのだ。脂漏性皮膚炎でクリニックにいったときに先生に聞けばよかったのだが、恐くて聞けなかった。メラノーマとは黒色肉腫、『巨人の星』の美奈さんが冒された病気。美奈さんは星飛雄馬の初恋の人で、星飛雄馬はワシの初恋の人()。どうもわき道にそれるな。とにかく、手遅れにならないうちに、7年も放っておいて大丈夫だったからきっと問題ないから、見てもらったほうがいいという友の助言で、今日クリニックへ行ってきた。 結果は、ホクロだった 実はここ数日、ホント恐かった。だれしも一度は死ぬのだけれど、今こんな中途半端な状態では死んでも死に切れない。ワシは一番好きな寿司ネタを最後に食べるヒトである。いつ何が起こるのかわからないのだから、一瞬一瞬を精一杯に生きる、そう頭ではわかっていても、他人に厳しく自分に甘いワシはついダラダラと過ごしてしまう。先生はワシより1歳年下の幼なじみで、幼稚園も一緒に行ってた人だ。鼻たらして一緒に写真に写っていたが、今ではインターネットを使ってインフォームドコンセプトしてくれる気さくないい先生になった。で、「聞きたくないことをいいます」といって、このホクロは「老人性」のものであることを教えてくれた。タハッまたもや老人性かい 気持ちは25歳の時から全然変わってないのに、体はかくも正直なんである。でもまぁ、悪性のものでなくて本当によかった。以前は「それでは取ってしまいましょう」と手術(15分くらいで済むらしい)をしたものだけど、別に放置しても問題ないんだそうだ。ただ、もっと大きくなって取ったときに、胸の場合ケロイドが残るらしい。ワシはもう7年以上つきあってきた老人性ホクロなので、付き合って行くことに決めた。とにもかくにも今回は安心した。でも、いつかはそんな時が来る。その時に「シマッタ」と後悔しない毎日を送りたい、マジでそう思うのだ。 <心の中にはいつも光と風を感じていたいよね>
Jan 18, 2008
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弟分のHが年明け早々Daughtryを教えてくれた。ハマッタ!んだそうだ。「アメリカン・アイドル」という番組から出たシンガーで、スティーヴィー・ワンダーとかロッド・スチュワートに番組内で会って絶賛されてた。日本に帰ってきて、というか初めてまともにYouTubeを見たんだけど、今更ながら便利だ。プーケット、特にカトゥーの家の近くはADSLとは名ばかりの惨憺たるコネクションだったから、動画を楽しむってのは他の理由もあってアクセスしなかった。王様を中傷した動画が出て政府がブロックしたとか、yahoo動画は日本国内でしか見られないとか、そしてコネクションが悪くて動画にならないとか。で、Daughertyかなりグーだけど、コメント欄にあったNickelback's song!!!ってのが気になってNickelbackをググったら、Nickelbackはカナダ出身のメジャーなバンドだった。これまた何を今更ではありましょうが、音楽からもなぜか遠ざかってたワシ。30代までは音楽漬けだったのにのぉ。で、Nickelbackだけど、YouTubeで聴いててゾクゾクきた、きた、きた~~~。久しぶりの興奮!!!! Jamiroquai以来!(って、一体何年たつんだ)ヒップホップとかラップがまったく肌に合わないので、それが中心の音楽シーンはワシにはもう遠い世界になってしまったと思い込んでいた。だからNickelbackの図太いロックを聴いた時は「会いたかったよ!!!!」と走っていて飛びついた感じ。早速元旦からTSUTAYAへ行き、3枚のアルバムを借りてきた。Wカードを持っているから半額になる。新譜じゃないから3枚7泊8日で450円!ただいまニートなワシとしては嬉しい限りである。新年早々100%グレイトなバンドに引き合わせてくれたHに感謝。今年はいい年になる・・・かも。
Jan 1, 2008
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プーケットにいた2007年が終わる。住んでいる時は、バカ暑くて、蒸し暑くて、アリやムカデや毛虫がいっぱいで、庭に蛇が出て、道路がいつも工事中でちっとも終わらなくて、ちょっと照れば埃っぽくてと、文句ばっかり言ってたプーケットだけど。日本に帰ってきた今思い出されるのは、山越えすると見えてくるパトンの海と町並み、カロンへ行く途中の1本の椰子の木、ロータスやセントラルの食品売り場、買い物帰りの夕暮れのオレンジの空・・・。大晦日にはいつもメオタイさんの家に呼ばれて美味しい年越し蕎麦をいただいた。思えばメオタイさんにはずいぶんたくさん美味しい和食を食べさせてもらったな。パトンを一望するNヴィラの3階でみる花火はホントきれいだった。あちこちのホテルが派手に打ち上げる花火をみていると、新年はきっといい年になる、そんな気がした。火の粉が降りかかってきそうなソイバングラで見る花火も、周り中みんな笑顔で、見知らぬ人と新年になった途端に「Happy New Year !」と声を掛け合った。きっとハッピーな年になる、そう思えた。。後ろをふりかえってばかりいても仕方ないね。これからは日本とプーケットを行ったり来たりできるように自分の生活をつくり上げていくだけだ。「前進あるのみ!」ちょっと早いがこれは2008年のmy new year's resolutionプーケットにいる皆さん、日本にいる友だち、2008年もよろしく!<<写真はソンクランの日、マイカオで放流される海亀。みんなの願いを背負って海へ向かっていく。>>
Dec 31, 2007
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12月26日。インド洋大津波の日から3年がたった。あの時ワシはパトンビーチから2キロほど離れたナナイに住んでいて、次第に効いてくるボディブローのように被災を感じたけれど、物理的な被害は受けずに済んだ。朝7時半、本当にいい天気の日曜日で、「どこかへ行かなくちゃもったいない」と寝ぼけた頭で思っていた。なぜ寝ぼけていたかというと、近所がざわついていていつもの日なら眠っている時間に起こされてしまったから。きっと事故か何かあって、また野次馬が出たのだろうと思っていた。その後すぐに津波のことを知ったのは隣に住む大家さんからだった。あまりに騒がしいので妹が聞きにいったのだ。大家さんがいつもの通り、ビーチまで朝ごはんを買いにいったときに津波に出くわしたという。首のところまで水が上がってきてまさに命カラガラ逃げてきたのだと。ワシと妹と隣に住んでいたFさんは、とりあえずの着替えとパスポートと水をバックパックに入れて避難の準備をした。猫のミルと元気だったピッピは連れて行かなかった。結果的には大丈夫だったけど、1回目の避難の時にピッピとミルを置き去りにしたのだと思うと、今でもとても心が痛む。裏山に逃げられるようにワシら3人は隣りのアパートのベランダにいたが、携帯電話は通じなくなるし、何の情報もなく、1時間がとてつもなく長く感じた。この先一体どうなるのか。皆目見当もつかず、こんなのイヤだ、こんなとこ逃げ出したい、そんな気持ちでいっぱいだった。ナナイは大丈夫そうなので、家に戻ってテレビの情報を見ることにした。NHKはまったく役に立たず、対応の早いBBCやCNNが頼りだった。いつも見慣れた通りがめちゃめちゃになっている映像がテレビに映し出される。怖くてとても外に出られる気分ではなかったが、その日ダイビングに行っていたお客さんのことが心配だった。午後4時ごろ、とりあえずダイビングショップへ行ってみようとでかけると、ビーチのほうから青いトラックが走ってきて何かドライバーが叫んでいる。と、ビーチ方向に向かっていたバイクや車が一斉にUターンして大パニックになった。「津波が来るぞ!」と叫んだらしい。「落ち着くんだ!落ち着くんだ!!」と自分に言い聞かせたことを覚えている。1週間後、ワシと妹はやっとビーチへ行く気になった。メチャメチャになった現実を見るのが恐くて、それまでいけなかったのだ。いつものパトンビーチとまったく違う光景がそこにあった。ビーチには打ち上げられた船が一艘あるだけで、ほかには何もなかった。すでに多くのボランティアがビーチを掃除していたからゴミもほとんどなく、ただただ何もないパトンビーチが広がっていた。ビーチ沿いの土産物店は消え、レストランやホテルは建物だけの残骸と化していた。あんなに賑やかだった通りなのに、砂まみれの道路とゴミの山が続くばかり。あまりの変わりように、猥雑な夜のパトンビーチの光景ばかりが思い出され、もう2度とあの風景を見ることができないのかと思うと、やり場のない喪失感にとらわれた。実際には、ビーチ沿いの土産物屋の回復力はすさまじく、3月には90%が再オープンしていた。ビーチから20メートルだったか離れなくてはいけないとか、電線を地下に埋め込むとかいわれていたけれど、「マイペンライ」なんだろう、元通りに戻った。「back to normal」、このときほどノーマルという言葉が嬉しかったことはない。ワシがいた会社は観光業であるが、プーケット以外のエリアも扱っていたし、バンコクやサムイ、クアラルンプールにも支社があったので、給料カットされることもなかった。家族も友だちも怪我もせずいたし、思えば、津波はワシにとって奪われるより与えられることの方が多かった。不謹慎な言い方ではあるけれど、敢えてそう言わざるを得ない。プーケット復興委員会を一緒に立ち上げた仲間たち。あの時、一緒にプーケットにいたということは、きっと深い縁があるのだろう。それまでコンペティター同士だった人たちがそれぞれの得意分野を生かし、力を合わせてWEBサイトを立ち上げ、活動した。それに直接的・間接的に本当にいろいろな人たちが協力してくださり、口幅ったい言い方だが、ワシは大きな愛を感じた。それは今まで経験したことのないものだった。復興委員会は1年で活動を停止し、今ワシは日本にいてこうして思い出すにとどまっているけれど、あの時の強力サポーターであったマイケル東山さんは今も活動を続けていらっしゃる。マイケルさんの行動力と持続力を身近に教え伝えられることもまた、ワシにとって津波からの贈り物なのだ。
Dec 26, 2007
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実はこの2年ばかり皮膚炎に悩まされている。ちょうど2年前、自分でヘアダイをした時のこと。注意書きには「刺激を感じたら使用を中止」するよう書かれているが、ワシのヒフは強い!と思っていたのでちょっとピリピリ感じたのだがマイペンライと続けてしまった、それが悪かった。それから2年間、市販のシャンプーやコンディショナーを使えなくなってしまった。もちろん病院にも行った。プーケットのB病院では抗生物質とジュリークの保険のきかない高いシャンプーを買わされた。I病院はもう少しましで、保険でカバーするシャンプーとかゆみ止めを処方してくれた。アレルギーだろうという先生もいれば、髪がぬれたままヘルメットをかぶり続けたのが悪いのではというワシの推測にうなづく先生もいた。妹は「頭にカビが生えた」という話をどこからか聞いてきた。そして2年、プーケットから帰ってきて寒さと乾燥にさらされマジヤバイ状況になり、地元の病院へ行った。診断の結果は脂漏性皮膚炎。ワシの場合、脂っこいものや糖分のとり過ぎが一番の原因らしい。先生が言うにはそれはアイスクリームだのケーキだのがよくなく、生クリーム入りのシュークリームは言語道断だという。はぁ~日本にいてよかったと思うのはスイーツ類が美味いってことなのに。。妹が聞いた「カビが生えた」ってのもあながち間違っているわけではなく、誰でも皮脂腺から分泌される皮脂を栄養として生きる真菌てのがいて、ソイツと過剰な皮脂分があいまって皮膚炎を引き起こすらしい。真菌はジメジメしたところを好むので、ムレムレのメットも悪かったろうし、シャワーのあと生乾きで寝ちゃうのもいけなかった。毎晩アイスクリームを食べ続けた時もあったしな。太るのでやめたけどこんなとこにも出ていたのね。睡眠不足もストレスも加齢も関係あるらしい、ワシの場合コレステロール値も高くなっていた。どこかのサイトには唐辛子なんかもよくないって書いてあったしな。う~むトロピカルアイランドはこんなとこでもキビシイ状況であったわけだ。ビタミンBと塗り薬、それに油、糖分を控えて、運動毎日20分、これが先生の処方であった。(写真はワシの家の前の大イチョウ。黄色くなった葉っぱを北風がいっせいに吹き飛ばしていた)
Nov 23, 2007
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浦和レッズ、AFCチャンピオンおめでとう!久々にドキドキワクワクさせていただきました。6年半プーケットにいて、Jリーグは随分ご無沙汰してて。。去年レッズが優勝したことは知っていたけど、ここまで来るとはね。イヤ、ホント、優勝が決まった時涙出ました。選手も監督もスタッフもエライ!でももっとすごいのはサポーター!!。マジで。最初からレッズサポーターは熱かったけど、どんな時も、たとえJ1に落ちても、見放さずに「続けてきた」、本当にすごいことだと思う。継続は力なりを身を持って教えてくれました。これはね、なかなかできることじゃない。強い時や盛り上がってる時に応援するのは簡単だけど、弱かったりパワーのないときに応援し続けるのは愛がないとできない。見捨てないってスゴイことだとワシは思う。イランに行っても「We are REDS」の文字を客席に出現させ、今日も寒いであろうに赤いTシャツで応援していた。ホント、頭が下がります。改めて、レッズとレッズサポーターに心からおめでとう!
Nov 14, 2007
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帰国があと2日と迫ってきたので、ピッピのジャックフルーツを食べることにした。ジャックフルーツ、食べたことはあるがすでに皮をむかれた、大きなとうもろこしの粒みたいになったものしか知らないので、果たして家の包丁で切り取れるものかどうか心配だった。タイ人の友だちによれば「匂いがしてくると食べ頃」なんだそうだ。木の下へ行くとなんとなく匂いがするような・・・。時間もないので本日決行!となった。虫関係に超弱いワシ、帽子をかぶって長袖を着て厚手の葉っぱがギッシリ生い茂った木の下へ立ち、包丁で実のついているところにガシッと包丁を入れた。と、そこから白い樹液がワーっと出てきた。意外と柔らかい。これなら我が家の菜切り包丁で十分いける。妹が虫除けの袋を3個にかけておいたので、3個全部刈り取った。縦50センチ幅30センチくらいの袋がピンピンに張り詰めるくらい大きくなったジャックフルーツ。ピッピの栄養を吸ったかと思うとホント愛おしいのである。アリの入る隙間もないほどピンピンに張り詰めたジャックフルーツだが、アリはやっぱり入っているのであった。こいつらホントどこにでもいて、ゴキブリよりシブトイ。白いもの(卵?)をなんだか一生懸命運んでいてギモヂワルイ いつもならここで諦めるところだが、ピッピの生まれ変わりのジャックフルーツだからね、水でアリを洗い流し、包丁を入れた。といっても2度や3度ではピクともしない。何度も何度も慎重に包丁を入れた。う~ん、まだ早かったみたい。サクッと包丁が入る感じがいかにもまだ「若い」って感じ。真っ二つにしてみると、一つ一つがまだ実の形になりきっていなかった。でもこれを逃すとピッピちゃんのジャックフルーツが食べられないので、本のちょっとだけ妹と食べたのであった。アリがいたところは一番熟れていてほんの少しジャックフルーツの香りがした。それから種を二つ取って、あとは庭に置いておく。鳥やら虫やらが食べるだろう、みんなにおすそ分けしてあげようと、なぜかちょっと優しい気持ちになった。ところで、これからジャックフルーツを取って食べようという方に注意を一つ。切り取る時には手袋の用意を。樹液がものスゴ~~~~く粘つきます。いっくら洗っても取れません。物理的にそぎ落とそうとしても絶対ダメ。かといって、手のひら中ハエトリ紙みたいになっていて放っておくわけにもいかない。かなりデスパレイトな状態になりましたが、そこで天の声が聞こえてきたのですね。プーケットへ来たばかりの頃、友人のダンナが「家の庭にラフレシアが咲いたから見に来い」と誘ってくれたことがある。ラフレシアとは世界最大の花ですが、彼が見せてくれたのは白菜が腐って土にささってるみたいな奇怪な植物でありました。彼のお母さんが言うには、そいつをカレーに入れて食べると美味しいとか。でもすっごくネバネバするから気をつけて、と。「このネバネバは○○のオイルでしか落ちない」。確かにそういったと思うんだな。多分ココナッツオイルではないかと思うけれど、ココナッツオイルは家にないので食用油で試してみた。まぁこの状態ではなんでも思いつくことをやってみるしかない。そしたらなんと、落ちたのだ!!ジャックフルーツの樹液がオイルとくっついて固まるみたいで、石鹸で洗ったらあ~ら不思議、あんなにネバネバだった手が何事もなかったかのようにツルッときれいになったのでありました。包丁についていたネバネバも同様に油をかけたらステンレススポンジで取れて、無事使えるようになった濃厚なジャックフルーツの味を楽しむことはできなかったけれど、刈り取りと油の効能はいい思い出になった。約1ヶ月のロングステイ(ショートステイ?)を終えて、2日後に寒い日本へ帰る。あ~今からI miss Phuket...
Nov 3, 2007
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プーケットにちょっと長くいると、楽しみは何か。それは食べるということである。友達と話していても「どこの何が美味い!」という食べ物の話題が非常に多い。特にワシの場合、住んでいる埼玉の田舎はプーケットよりも今や何十倍も田舎なので、プーケットにきたら食べたいものっていっぱいあるわけだ。(ちょっと横道にそれるが、6年前は埼玉の田舎のほうが数段便利だった。それがここ数年の開発で数十倍プーケットが便利になってしまった感がある)。タイ料理はよほどのことがないと「食べに行こう」ってことにはならないから、話は洋食になる。お昼なんかを簡単に済ませるのはタイ料理だからかもしれないけど、大枚をはたいて、車で1時間かけてでも食べに行こうというのは洋食ですね。特にイタリアンが多いんだけど、本日は肉!高い料金を払えばあるんだろうけど、手ごろでしかも近い!っていうのが今回ヒットだったモンテス(MONTES)です。場所はっていうと、プーケットタウン方面から山を降りきった寺のところを左へ行く。サイナムエン手前のバーンモンというエリアで、ナナイに添って連なる丘の上り口にこのモンテスはある。2、3年前だったか、ここがオープンした頃、ワシの通勤路でもあったから「あんなとこにレストラン作っちゃって、大丈夫かいな」と余計な心配をしたものだ。でも、今回、妹・ごぶ魂の取材にくっついていって、ちょっと目からウロコだったので紹介したいと思う。オーダーしたのはラムチョップとパンケーキのアイスクリーム添え、それとベルギービール。オーナーのWernerさんはベルギー人で、ごぶ魂いわく「小国の人は感じがいい」そうだ。ヨーロッパの国の中でもベルギーとかスイスとか、大メジャーでない国の人は穏やかで優しいんだそうである。なるほどガタイはデカイけど結構ハンサムなWernerさんもナイスガイなのであった。ラムチョップはクリームソースにペッパーを入れたもの。追加オーダーでグリーンペッパーのソースを頼んだらこれまたヒット!ラムはやわらかく風合いがあり、それにフレッシュなグリーンペッパーがマッチして、スッゴクうまかった。サラダまたは温野菜とポテト(ベイクドやフレンチフライから選べます)で395バーツはかなりお得だと思う。パンケーキもホットケーキみたいのではなくクレープ状のもの。デザートとして美味しくいただきました。そしてそしてベルギービール!Stella Artoisというのが一番ポピュラーなんだそうだが、ワシが飲んだのはラズベリーのビール。フルーティーだけどのど越しスッキリで、その軽い感じがラムチョップとマッチしてどちらもさらに美味しくなった。生活道路添いとはいうものの、植物をうまく使っていて、道路側から見るのとは大違いもいい雰囲気を出している。道ッ端で肉食ってるっていう感じはまったくない。ちなみに最初の紹介者は昔からのプーケットのリピーター(日本人)。「ラザニアはちょっとこの辺では食べられない」と二日と空けずに通っているそうだ。タイ料理もあるし、水曜日はビュッフェ(199バーツ)、土・日はBBQ(250バーツ)とさらにお得。こんなレストランが我がホームタウンにもあったなら・・・もうちょっと楽しくなると思うんだけど。
Nov 1, 2007
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