デニムデザインの虜です!

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2012.06.22
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なぜハイになっているのかと言うと、我家先祖の疑問が晴れたからなのだ。
我家の祖先と言うか家系は「清和源氏」一族であり、由緒書きやら鎌倉時代の骨董品からも推察ができたから解かった事なのだが、実を言うと父も母もまた祖父も知らなかったのである。
たまたま父が2年前に無くなって「戒名」を書き記す仏壇に納める「過去帳」を見た時に起きた疑問が発端なのだ。
ボロボロの過去帳をお寺さんで書き写す作業を頼んだのだが、一番最初の記載は3代将軍の「徳川家光」の前、徳川秀忠の頃にまで遡る。
つまり江戸初期から現代までの家系図が簡単に読み取れる貴重な物だったのである。
一応記載内容は名前の下に「誰誰の子」「誰の妻」「誰の子」が書かれて、その人物が死んだ日付けが記載されている。
・・・で、なぜこれより前の時代の記載が無いのか?
我家の先祖からの口伝が4つ。
1、先祖は甲斐武田家一族である
2、江戸幕府成立と同時に加賀に移り前田家の家臣であった
3、加賀のお姫様が江戸に上る際に同道して江戸に移り住んだ
4、加賀の前田候から「輪島塗金蒔絵」の賜ったと伝わる印籠がある

そこで先週家内と二人で加賀の国、つまり金沢に行って来たのである。
宿泊は移動に便利な金沢駅前のANAホテル。金沢まで行ったら温泉でも行けたら良かったのだが今回は学術調査と言う意味合いもあったので、分単位の移動で廻って来たのである。
金沢と言う街は戦災の被害が無くまた100万石の城下町として頑固に生き残って来たので「古文書」などの歴史的資料がそのまま現存するのである。
しかもすべてがコピーされており誰でも閲覧できるようになっている。
その場所は金沢市玉川にある玉川図書館に併設された「近世史料館」と言い、我家の名字を伝えれば学芸員の方が史料を用意してくれるのである。
・・・で、我家の名前を伝えて「名前検索」してもらうと一系譜(一家系)だけが記載されていたのである。10cm近い厚さの「加賀藩名簿」の中に一家族しかいない。つまり口伝が事実ならばその家族が祖先の系譜となる訳である。
次に名前が判明したので「加賀藩士族」の名簿を見せて貰ったのだが、昔の仮名遣いであり漢字も崩されているので素人では読めない。
はたして我家が持参した「過去帳」と同一人物が記載されているか?
なんとあったのである!
それも5人も!
ただし当方の過去帳と死亡時の年号は同じだか「月」が少し異なる・・・。
例えば同一名で其の人物の死亡日時が「正保3年(1647年)8月没」と書かれていたが、金沢市の資料では(10月没)となっていた。
他の人物でも「明暦3年(1657年)5月没」が6月没になっていたのである。
金沢市の学芸員は「違う人なのかなあ?」と言うが、同じ名前で記載年が同じならば間違いないと思うのが普通なのだが、学芸員ともなると100%一致しないと「正しい歴史」としてみなさないのか?

実は「寺」も何件か訪ねて来ている。
どこの寺もご住職が丁寧に教えてくれて、この資料館の事もアドバイスしてくれたのだが改めてこの記載内容の違いを尋ねると・・・。
「江戸時代は死んだ日付けと藩に死亡を届けた日付けは違いますよ」と言うのだ。
上級家臣ならばいざ知らず下級武士の死亡届などは「受付が後回しになるのはよくある事だ」と言う事だ。なる程、藩の資料では無く寺の日付けの方が正しいに違い無い。

さて、今日の本題は当初の4つの疑問の答えがあったのだ。
記載では(1605年)甲斐の国より移り住む・・松平家の家臣となり・・・本多家に仕えて加賀へ」
つまり徳川家康が征夷大将軍になったのが1603年だからその二年後にあたる。
・・・なので疑問の1と2は正しかったのである。

さらに3と4は面白い仮説が立ったのである。
先ず事実として判明したのが『13代となる我家の当主長男が他家に養子に行き、当家は「閉門」されていたのである。そして後年、養子に行った14代目が出家して僧侶になっているのである。
ところがその僧侶の長男が15代目として「お家を復興」させて江戸に居住・・・』ともある。
江戸での仕事は加賀藩江戸藩邸でお姫様やら家臣が着る呉服の調達係つまりスタイリスト?的な仕事だったと言うのだ。考えようによっては呉服問屋の袖の下(賄賂)も入る美味しい仕事だったに違いない。以上は推定では無く明確に金沢の歴史資料に記載されていた事実である。

そこで私が推察したのが、我家の家宝の印籠の箱書「天保3年箱改め」つまりこの年「に箱が壊れたから直した」とある。その時代は天保3年より10年前後前の頃と時代が一致する。
仮定だが我家の先祖が「何らかの罪を被ってお家は断絶」結果、その子供は出家・・・。
そんな境遇の家に前田家藩公のお殿様が「家宝」を与えるだろうか?
しかも出家させた先祖の子供は数年後にお家を再興し江戸で呑気に暮らす事が許されている。

お家騒動か?何かの事件があったに違いないが、それを今回は身代わりだけど許してね」的な事があったのではないか?と思うのだ。
まだまだ話は沢山あるのだが今日はこれまで・・・。

おまけ。
仏壇にある「過去帳」(死亡者名簿)は江戸初期からしか記載が無い。その理由は?
『徳川秀忠による「キリシタン弾圧」の中で、キリシタンでは無い事を証明する為に、すべての国民の宗派を認定する為「過去帳」ができた』と言うのだ。
「宗門人別帳」と言う物だったらしい。だから徳川初期の頃からしか記載無いのである。
(金沢の某ご住職のお話)






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Last updated  2012.06.23 03:09:28
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