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2「武田 信玄の出自」
(たけだ しんげん)
Ø 出生から甲斐守護継承まで
大永元年11月3日、甲斐国守護・ 武田信虎 の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人 大井氏 の娘・ 大井夫人 。
Ø 信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる 要害山城 である(または 積翠寺 )。
要害山城 (ようがいやまじょう)は、 山梨県 甲府市 上積翠寺町(かみせきすいじまち)にあった 日本の城 。 躑躅ヶ崎館 (武田氏館跡)の 詰城 として築かれた 山城 である。 1991 年 ( 平成 3年)に国の 史跡 に指定された。要害城、積翠山城とも呼ばれる。
所在する甲府市上積翠寺町は 甲府盆地 周縁の中央北部、相川 扇状地 の扇頂部に位置する。標高770メートルの丸山と呼ばれる要害山中腹の傾斜地を中心に築かれている。
沿革
『 高白斎記 』に拠れば、築城は 武田信虎 時代の 永正 17年( 1520 年 )6月であるという。武田氏は前年に居館を石和の 川田館 ( 甲府市 川田町)から 躑躅ヶ崎館 (甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山が城として取り立てられ、館の詰城として 砦 や 狼煙 台が築かれたという。
同年には駿河の 今川氏 勢の武将 福島正成 が 駿州往還 (河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は 正室 の 大井夫人 を避難させ福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で嫡男(後の 武田晴信 )を出産したという。
勝頼 期の 天正 4年( 1576 年 )6月1日付武田家朱印状に拠れば、武田氏は要害城から西方に位置する帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)に対して要害城の普請への召し出しを命じており、帯那郷への河除(堤防普請)と他の諸普請の一切を免除している。
『 甲陽軍鑑 』『 甲斐国志 』によれば、武田氏時代の城番は駒井次郎左衛門・武藤山城・ 駒井昌直 (右京亮)が務めたという。
武田氏滅亡後、 徳川氏 の支配期を経て 豊臣 系大名が入城し、 加藤光泰 により修築が行われた。文禄年間の修築を示す遺構として穴太積みの 石垣 が見られる。
『甲斐国志』によれば、 慶長 5年( 1600 年 )の 関ヶ原の戦い の後に甲斐は再び徳川氏が領し、廃城となったという。
2017 年 ( 平成 29年)4月6日、「 続日本 100 名城 」(128番)に選定された。
熊城
要害城の支城として 熊城 (くまじょう)があり、要害山城の東側をガードするように築かれている。
熊城は標高730メートル付近に立地し、一直線上の小規模な郭と 堀切 ・ 竪堀 、 石垣 が遺構として残されているが、その中には 連続竪堀 や 登り石垣状の遺構 もある。熊城に至る案内板は一切無い為、訪城には注意が必要である。
史跡指定
主郭 に至る 通路 や 枡形 、 曲輪 、 堀切 、見張台等の遺構のほか、要所をかためる 石垣 もほぼ完全に遺存しており、 戦国大名 武田氏の築いた城郭として、また、中世豪族の居住形態を示すものとして極めて重要であるとして、 1991 年 (平成 3 年)3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の 史跡 に指定されたが、主郭以外の整備は行き届いておらず、郭は藪化している所も多い。
登上口に説明板が有るが、それ以外、主郭などには解説、説明板等は無い。 ( 土塁、門跡、等のサインは有る。)城に至るまでの案内板は無い、また観光案内所にも要害山城としてのパンフレットは無い。
アクセス
甲府駅 からバスで 積翠寺下バス停まで約20分弱、そこから要害温泉と要害山城登山口まで、徒歩約15分、登山口から主郭まで約30~40分。 ( バスの本数は 1 日3本と極めて少ないので、要注意 )
もしくは甲府駅周辺でレンタサイクルで登山口まで約30~40分程度。
その他、 熊 の出没地域であり、冬場を除き注意が必要である。
Ø 信虎は 駿河国 今川氏 を後ろ盾とした 甲府盆地 西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣 福島正成 率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという [ 注釈 2] 。
幼名は太郎 [ 注釈 3] 。 傅役 は不明だが、『 甲陽軍鑑 』では譜代家臣 板垣信方 が傅役であった可能性を示している。
大永 3年( 1523 年 )、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。
大永 5年( 1525 年 )、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎( 武田信繁 )が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う
(たけだ しんげん) / 武田 晴信 (たけだ はるのぶ)は、戦国時代の 武将 、 甲斐 の 守護大名 ・ 戦国大名 。 甲斐源氏 の 嫡流 にあたる 甲斐武田家 第19代当主。 諱 は 晴信 、 通称 は 太郎 (たろう)。
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