全422件 (422件中 1-50件目)
10「戦後の高松城戦いの子孫」この落城の後、備中高松城には宇喜多氏の家老花房正成が入城。関ヶ原の戦いで正成は主君に反し東軍に付いたため江戸時代には旗本に取り立てられた。 花房 正成(はなぶさ まさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。当初は備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣で、宇喜多氏が改易された後は江戸幕府の旗本(寄合)となる。備中猿掛領の初代領主。 弘治元年(1555年)、宇喜多氏の家臣・花房正幸の子として生まれる。幼少の頃から宇喜多直家に仕える。永禄12年(1569年)、直家が主君の浦上宗景に対して謀反を起こすと父と共に宗景を攻める。天正6年(1578年)、小西行長と共に中国地方の先鋒であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の下に赴いて織田氏と和議を結ぶ。天正9年(1581年)、父と共に鳥取城の戦いに出陣する。 天正10年(1582年)、宇喜多氏の名代として備中高松城の戦いに出陣、なお、この戦いで水攻めを提案したのは正成といわれている。 この戦いの後に家督を継ぎ、また秀吉から軍功を賞されて備中国高松において3万1,000石を与えられ、さらに宇喜多氏の家老に加えられた。正成は毛利氏の攻撃に備えて高松城の大規模な拡張工事を行ったという。直家の跡を継いだ宇喜多秀家に従って、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐に出陣する。天正16年(1588年)、秀吉の聚楽第での行幸の時に、従五位下・志摩守に叙任される。天正18年(1590年)、小田原征伐に出陣する。 文禄元年(1592年)に文禄の役に出陣するが、文禄3年(1594年)、同じ家老衆の一人で執政の地位にあった戸川達安が突然解任され、長船綱直が実権を握るようになると、他の同僚たちと共にしだいに秀家から遠ざけられるようになる。 慶長2年(1597年)に慶長の役に出陣するも、慶長4年(1599年)、宇喜多騒動を起こして宇喜多氏の下を退去。徳川家康、大谷吉継、榊原康政などの取り成しによって増田長盛に預けられて高野山に閑居した。 関ヶ原の戦いの後、宇喜多氏の改易に連座して浪人となると、宇喜多氏再興に力を尽くすこととなる。 秀家を匿った島津忠恒と秀家の正室の豪姫の兄である前田利長に協力を依頼する。特に、利長は正成を召抱えようとするが、正成は秀家の安否を優先してこれを固辞したという。慶長7年(1602年)、家康に召出されて備中国猿掛において5,000石を与えられ、江戸幕府が開かれるとのちにそのまま旗本となる。その一方で秀家が八丈島に流罪されてから前田利常などと共に家康の許可を得て、秀家に助成米を送ったりもしている。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では達安と共に備中勢として池田忠継に属して出陣する。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、安藤重信に属して出陣し、後に井伊直孝に属している。 元和2年(1616年)、宇喜多秀家の刑が解かれ、前田氏は秀家に10万石を分け与えて大名への復帰を勧めるが、秀家はこれを断って八丈島に留まることを選ぶ。このことを聞いた正成は、宇喜多家の復興の道が絶たれたと衝撃を受け、しばらくの間寝込んでしまったという。元和5年(1619年)、安芸広島藩主である福島正則の改易の際に上使を勤め、牧野忠成などと共に正則の屋敷に赴いている。 元和9年(1623年)2月8日、69歳で死去。臨終の間際まで秀家の安否を心配していたらしく、花房氏の家名が続く限り宇喜多氏を援助することを遺言したという。 数年はここに陣屋を構えたが備中国阿曽(現:総社市阿曽)に移ったため備中高松城は廃城となった。また、秀吉が天下を取った後に清水宗治の子を直臣にし、知行一万石を与えようと述べたが、宗治の嫡男である景治は毛利家に残ることを選んだと言う。 清水 景治(しみず かげはる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。清水宗治の次男。初めの主君・小早川隆景より偏諱を賜い景治と名乗る。 備中国の武将・清水宗治の次男として誕生した。 兄に清水宗之がいる。 天正10年(1582年)、毛利氏に与した父・宗治が備中高松城の戦いにて切腹すると小早川隆景に仕えた。隆景は宗治の忠死を惜しんで、景治に自身の「景」の一字と備中河辺に屋敷を与えて厚遇した。また毛利輝元も太刀ひと振りを与えて父の名誉を賞した。 さらに父と戦い、その忠死を賞賛した豊臣秀吉から大名として取り立て、直臣になるように勧誘されたが、これを拒否して小早川家臣でいることを選んだ。文禄・慶長の役でも小早川軍の一員として朝鮮に渡って活動した。 慶長2年(1597年)の主君・隆景死後は養子の小早川秀秋に仕えたとも、毛利氏に復帰したともいわれているが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には大津城の戦いに参加しており、どちらにしても1600年代初めには毛利氏へ復帰していたようである。 萩に移った後に、父以来の功績によって一門家老に次ぐ寄組士の席に列する。知行地として野原村・浅江村・島田村・立野村(いずれも現在の光市)において計2500石余りを領した。 景治は野原村に下屋敷を構え、浅江村の吉祥寺を高松山清鏡寺と改名し父の菩提寺とした。また、元和9年(1623年)から益田元祥の副役として毛利秀元と共に財政再建に協力して能吏として毛利氏を支えた。寛永9年(1632年)には益田元祥の後釜となり、長州藩の財政を支え続けた。翌年には家督を譲って隠居した。 慶安2年(1649年)に萩で病死した。享年は79。墓所は萩の毛利氏の菩提寺である洞春寺にあったとされる。 子孫に幕末期に活躍し、男爵となった清水親春や清水親知がいる。『毛利家文書』に景治自身その旨を書き残した書状がある。その後、清水家は萩藩寄組として明治維新まで存続し、維新後は倒幕に功績があったことから、男爵に叙されている。現在、高松城二ノ丸址に玄妙寺という寺が建立されており、その境内内部が宗治自刃の場所とされており、石碑が立っている。了
2024年10月31日
コメント(0)
山崎の戦い詳細は「山崎の戦い」を参照秀吉が富田に着陣した頃から、既に光秀軍との前哨戦が始まっていた。光秀が駐留していた勝竜寺城付近で既に鉄砲を打ち合っていることが確認されていることより、秀吉には遊撃軍のような部隊があって、偵察も兼ねて背後より光秀を攻撃しようとしていたことが覗われる。勝竜寺城はかつて細川氏の居城であったが、丹後移封後は村井貞勝の与力矢部善七郎、矢部猪子兵助が守備にあたっていた。光秀はその矢部氏より勝竜寺城を奪ったのである。6月12日夜、富田で一夜を過ごした秀吉は、6月13日(ユリウス暦では1582年7月2日、グレゴリオ暦換算では7月12日)朝には同地を出発し、決戦の地山崎へと向かった。光秀もようやく本陣を下鳥羽から御坊塚(京都府大山崎町)へ移して戦線を円明寺川一帯へとひろげた。山崎は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流して淀川となって大坂湾に流れ込む結節点となっており、現在でも、新幹線をふくむ鉄道や高速道路をふくむ幹線道路が何本も集中する土地柄である。また、中世を通じて灯明油の販売で発展し、「大山崎惣中」なる自治組織と特権を認められてきた町でもあった。本能寺の変の翌日、山崎では光秀より禁制を得て、軍勢の狼藉や陣取り・放火の禁止、兵糧米賦課免除に成功した。光秀から禁制を得たことは、とりあえずは光秀を信長の後継者たる為政者とみなしたこととなる。無論、禁制の対価として光秀に対しては金銀が支払われた。しかし、ここに秀吉軍が侵入するという段になって、富裕な町であった山崎も混乱をきわめた。もう一方の総大将である信孝からも禁制を得て掠奪や狼藉から免れようとしたが、山崎が激戦の舞台となることは、もはや避けられなかったのである。秀吉が山崎に着陣したのは13日の昼頃であり、宝積寺(京都府大山崎町)に本陣を置いた。梅雨の季節ということもあって雨も降りしきっていたという。この戦いに先立って、勝敗の行方を決すると見なされていた天王山は、既に先遣隊の中川清秀らによって占拠されていて、高山右近隊も山崎の町に入って西国街道の通る関門を手中におさめた。この時、秀吉本隊は池田恒興らと共に右翼の川手方面を進んでいる。申の刻(午後4時ころ)、光秀軍の先鋒並河易家・松田政近隊ら丹波衆による中川清秀、黒田孝高・神子田正治隊への攻撃がはじまり、秀吉軍は反撃を開始した(『兼見卿記』)。近くに居城を構える清秀・右近らは山崎周辺の地理にも明るく、兵力差もあって秀吉軍優位のうちに戦いは推移した。戦闘は光秀軍の丹波衆と天王山の山腹をしめる中川隊との間から、やがて東の淀川沿いへと波及していった。秀吉はこの状況をみてすかさず全軍に総攻撃を発令した。秀吉本隊の大軍が山崎の隘路より殺到したため、兵力、士気ともに勝る秀吉軍が光秀軍を圧倒し、光秀軍は副将斎藤利三らの奮戦にもかかわらず、たちまち総崩れとなった。ただしフロイスの観察によれば、高山・中川・池田の摂津衆に比べて、秀吉が中国地方より引き連れてきた兵はいずれも疲れていたという。このとき、光秀の軍勢は、光秀直属の家臣のほかに近江衆と丹波衆、そして京都近郊を本拠地とする旧幕府衆より構成されていた。このうち近江衆が、変後の近江平定の際に光秀に従った者が多く、総じて士気が低かったのに対し、伊勢貞興、諏訪盛直、御牧兼顕などからなる旧幕府衆は奮戦し、多くが討ち死にしている。光秀は、山崎周辺に伏せておいた兵を早々に撤収させ、光秀本陣も解いて勝竜寺城に籠もらせたが、そこもまもなく秀吉軍に包囲された。勝竜寺城は堅城ではあったが、数万の軍勢による攻撃を支えることは無理であったため、光秀は近臣を従えて勝竜寺城を脱出して京方面に逃亡した。このため、京都市中は一時混乱をきわめ、主を失った勝竜寺城内の将兵もまた相次いで逃亡した。日本史学者小和田哲男は、この時の敗走が丹波へ向かう亀山組と近江へ向かう坂本組の二手に分かれてしまったことを指摘し、敗走先を一地点に集中できなかったことが「光秀にとって最大の誤算」と評している。翌朝、兵員僅かとなった勝竜寺城は秀吉軍に降伏を申し入れた。光秀自身は、近江での再起をはかるべく、居城坂本城を目指して逃亡した。そして、現代の時法では日付の替わる翌未明、小栗栖(京都市伏見区)の間道へと差しかかったところを土民に襲われて死亡した。光秀の介錯をしたのは溝尾茂朝であったといわれる。秀吉は13日夜は勝竜寺城包囲を配下に任せ、淀城に宿営している。翌14日、まだ光秀が死去したことを知らない秀吉は近江に進軍して三井寺(滋賀県大津市)に本陣を構えた。『豊鑑』などによれば、秀吉が光秀の死を確認したのは、この三井寺滞陣中のことであったとされている。小栗栖の里人が布で包まれた首級を発見し、近江方面をも見回るうちに秀吉進駐の事実を知って申し出たものだという。秀吉は首が光秀のものであることを確認し、首級は京都の粟田口にさらされた。これには、洛中洛外より多くの見物人が集まったといわれている。6月15日、安土城は原因不明の出火によって焼け落ちた。秀吉はその翌日に安土に入り、山本山城の城主阿閉貞大(貞征の子)に占領されていた長浜城を奪回し、丹羽長秀も佐和山城を回復した。秀吉は貞征・貞大父子を殺し、6月22日からは信孝と共に美濃・尾張へと進軍し、山城・近江とあわせて信長・信忠父子の本拠だった地域をあらかた掌握した。秀吉の母なかと妻ねねは貞大の占領中は伊吹山の山麓にひそんでいたという。なお、東国にあった滝川一益は、6月16日から6月19日にかけて、神流川の戦いで北条氏直の軍に大敗し西方への撤退を余儀なくされている。一方、甲斐にあった河尻秀隆に対しては、徳川家康がこれを奪おうとして6月10日頃家臣本多信俊を甲斐へ送り込んで退去を促した(武田旧臣を煽り一揆を起こさせたともいう)。退去を拒否した秀隆は信俊を殺害するも、6月18日、一揆勢に襲撃されて落命した[60]。信濃も森長可ら織田家の部将が撤退したため甲斐・信濃は空白地帯となり、両国を巡り家康と氏直が争うことになる(天正壬午の乱)。歴史的意義本能寺の変は、上述したように、畿内中央において一種の戦力の空白状態となっているところへ、光秀には中国攻めへの加勢という大軍を動かす名分と理由があり、一方で主君信長は70人ほどの小姓衆とともに本能寺に投宿するという状況のなかで起こった。光秀からしてみれば、信長を弑逆するのに、これ以上はないという好条件のそろったなか、絶妙なタイミングでの謀反であった。そしてここには、仮に遠征中の諸将が本能寺の変を知ったとしても、戦線を撤収して光秀を討つべく反転し、京都に攻めのぼってくるのには時間がかかるであろうとの読みがあったと思われる。また、諸将が対戦している当の敵(毛利氏、上杉氏など)と光秀自身とが同盟し、織田方の諸将を挟撃する体勢にもっていければ、さらに時間を稼ぐことができるものと判断したであろうことは、光秀が毛利氏などに変報を伝えようと伝令を発していることからもうかがわれる。もし、そのように時間的な余裕をつくりだすことに成功すれば、その間、朝廷を味方につけたうえでみずからの後ろ盾とし、軍事的には、畿内中央ほか近江や美濃など信長の領国の核心部を制圧して、仮に遠征中の諸将が合同して光秀に立ち向かったとしても、ある程度の余裕をもって対抗できる勢力をそこに培うことが可能であるという見通しがあったものと思われる。そのことは、上述した光秀の細川幽斎あての6月9日付書状にも、50日、100日のうちには近国を固め、その後を忠興らに託したいとの文章があることからもうかがえる。秀吉の迅速果敢な中国大返しの大行軍は、このような光秀の読みや見通しを覆す効果を有していた。光秀・秀吉はともに「時間が勝負」であるという認識をもっていたと思われるが、結果からみれば、光秀はそれに失敗し、わずか10日以内に中国地方から京に駆けつけた秀吉は大成功をおさめたことになる。たまたま大返しの通路が自軍側の土地で、中継基地として軍事物資の集積されていた姫路城を利用できたという幸運を割り引いても、その行動は見事であり、大返しの成功は、謀略ではなく幸運の産物である。光秀は、羽柴軍の予想を上回る速い進撃に対応が遅れたといえる。このことについて、ルイス・フロイスは光秀の失敗は、彼が摂津の諸城を占領して、諸大名から人質をとらなかったことに起因するとしている。藤田達生もまた、光秀にとって最も深刻たるべき誤算は、従前彼の組下であった清秀・右近・恒興ら摂津諸将の離反とみなしている。これに対し、高柳光寿は結果からすればまさしくその通りではあるものの、当時の光秀の立場に即して考えれば、それまで光秀と深い関係にあった大名や組下の大名の本拠としていた摂津・大和・丹後方面よりも、まずは明らかに対立勢力の基盤となる怖れのある近江・美濃方面の鎮定を優先したのは、決して間違っていなかったとみる。そして、秀吉の上洛がいま少し遅れていたならば、摂津・大和・丹後方面の経略も成功していたのではないかと推測する。秀吉からみれば、山崎の戦いは亡き主君信長の弔い合戦であった。この合戦に先だって、秀吉は積極的に情報戦を繰り広げ、多数派工作と大義名分の獲得に成功した。そして、亡君の弔い合戦をほぼ独力で成し遂げ、あるいは終始これを主導したという実績は、戦後の織田家中にあって大きな意味をもっていた。秀吉の政治的地位の向上は、もはや自然の成り行きであり、その戦勝の成果は6月27日に尾張清洲城(愛知県清須市)で開催された清洲会議でも発揮され、宿老柴田勝家の発言力を上まわって会議を席巻した。天正10年6月の、この迅速な行軍とそれにつづく山崎での勝利は、「秀吉の天下」が現実性を帯びることとなる契機となったのである。
2024年10月31日
コメント(0)
9「秀吉の大返し」中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年 )、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230 ㎞ を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。文中の( )内の年は西暦、ユリウス暦(1582年10月15日以降はグレゴリオ暦)、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。高松城攻めと本能寺の変備中高松城攻め詳細は「中国攻め」および「備中高松城の戦い」を参照主君織田信長より中国路平定を目的とした中国方面軍の軍団長に任じられていた羽柴秀吉は天正10年(1582年)3月、播磨姫路城(兵庫県姫路市)より備前に入り、3月17日に常山城(岡山市南区)を攻め、4月中旬には備前岡山城(当時は石山城)の宇喜多秀家の軍勢と合流、総勢3万の兵力となって、備中日畑城(日幡城、岡山県倉敷市)、備中冠山城(岡山市北区)、備中庭瀬城(岡山市北区)、備中加茂城(岡山市北区)など、備前・備中における毛利方の諸城を陥落させていった。一方で秀吉は動揺する毛利水軍への調略もおこない、4月14日には毛利水軍に帰属していた伊予の来島氏と村上(能島)氏を帰順させている。備中高松城(岡山市北区)の城主清水宗治は、織田・毛利両陣営双方から引き抜きを受けたが、織田氏からの誘いを断り毛利氏に留まった。秀吉は、僅か3,000の兵員しか持たない高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅する作戦を採った。しかし、秀吉は苦戦を余儀なくされた。そこで、秀吉は主君信長に援軍を要請し、信長もまた家臣明智光秀を派遣することを伝えたが、同時に高松城攻略に専心するよう秀吉に命じた。勇将・清水宗治の守る高松城を攻めあぐねた秀吉は、5月7日、水攻めにすることを決した。高松城は、三方が深い沼、一方が広い水堀となっており、要害であった。このとき水攻めを発案したのは、一説には軍師黒田孝高(如水)ではないかともいわれている。城の周囲に築かれた堤防は、5月8日に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、19日に終えた。作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川の流れを引き込もうというものであった。高松城の水攻めは「空前」の「奇策」であり、秀吉の特異な戦法として世に知られる。秀吉は無益な人的損耗を避けるため、綿密な地勢研究の結果に基づいてこの策に決定、兵や人民に高額な経済的報酬を与えることによって、全長4㎞弱におよぶ堤防をわずか12日間で築造したのである。こうして秀吉は、宗治救援に駆けつけた吉川元春・小早川隆景ら毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの梅雨で城の周囲は浸水し、高松城は「陸の孤島」となって毛利軍は手が出せない状況となった。本能寺の変詳細は「本能寺の変」を参照明智光秀は甲州征伐から帰還した後、5月15日に信長の命により長年武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役を拝命した。しかし、同日に秀吉から信長にあてた中国攻めの援軍要請の書状が届き、備中猿掛城(岡山県倉敷市・矢掛町)に本陣を置く毛利輝元が高松城親征に乗り出すことも報じたため、17日、光秀は接待役を中途解任され、すぐに安土城(滋賀県近江八幡市安土町)から居城の近江坂本城(滋賀県大津市)へ立ち帰って秀吉援護の出陣準備に取りかかるよう命ぜられた。光秀は安土から坂本へ、さらに丹波亀山城(京都府亀岡市)に移って出陣の準備を進め、5月27日、丹波・山城国境の愛宕山威徳山(京都市右京区)に参籠して戦勝祈願の連歌の会(愛宕百韻)を催した。光秀はその時「時は今 天が下知る 五月哉」の発句を詠んだことで知られている。一方の信長は5月29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓など70名ないし80名のわずかな供回りをしたがえ、留守を蒲生賢秀に託して安土城を発ち、同日、京の西洞院四条坊門の本能寺(京都市中京区)に入って、ここで軍勢の集結を待った。信長の嫡男で美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)の城主織田信忠は同時に京都室町薬師寺町の妙覚寺(京都市上京区)に入った。翌6月1日、信長は本能寺で博多の豪商島井宗室らをまねいて茶会を開いた。1日夕刻、光秀は1万3,000人の手勢を率いて亀山城を出発し京に向かった。一般には翌未明に老ノ坂(京都市西京区)を通り、桂川を渡ったところで、光秀が周囲に敵が本能寺にあることを伝えたとされる[注 4]。従軍した本城惣右衛門が江戸時代になってから著した『本城惣右衛門覚書』では、本城らは京に家康が来ているので、家康を討つのだと思っており、信長を討った時ですら相手が信長と思っていなかったと回想されている。天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、グレゴリオ暦で換算すると7月1日)の早朝、本能寺は光秀軍によって包囲された。馬の嘶きや物音に目覚めた信長が森成利(蘭丸)にたずねて様子をうかがわせた。小姓衆は当初使用人たちの喧嘩と思っていたという。成利(蘭丸)は見聞の結果、「本能寺はすでに敵勢に包囲されており、多くの旗が見えた。旗に描かれているのは桔梗の紋である」と報告、信長は謀反の首謀者が明智光秀であったことを悟った。信長は「是非に及ばず」と語り、弓を手に持って応戦したが、弦が切れたため、次には槍を手に取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵により肘に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念し、女たちに逃亡するよう指示して殿中の奥にこもり、成利(蘭丸)に火を放たせ、切腹して自らの命を絶った。京都所司代として京の行政を担当していた村井貞勝の屋敷は本能寺門外にあった。貞勝より光秀謀反の報を受けた妙覚寺の信忠は父の救援のため本能寺に向かおうとしたが、既に大勢は決したとして周囲に制止された。明智軍の包囲は十分でなく、信忠と共にあった叔父の織田長益(有楽斎)と前田玄以は逃亡に成功している。しかし信忠は、明智軍による検問があるだろうと判断して逃亡を諦め、貞勝らと共に兵500を率いて守備に向かない妙覚寺から東隣の二条御所(二条新造御所)へ移って防戦した。信忠は、二条御所にいた誠仁親王(正親町天皇第五皇子)を連歌師里村紹巴が町屋から用意した荷輿に乗せて内裏へ避難させ、明智軍相手に奮戦し、自ら何箇所もの傷を負いながら兵2名を斬り倒し、少人数ながらも抵抗して明智軍を3度退却させている。時間の経過と共に、京に別泊していた馬廻たちも少しずつ駆けつけてきたため、明智軍は最終手段として隣接する近衛前久邸の屋根から内側の見える二条御所を銃や矢で狙い打った。これにより信忠の近臣は倒れ、信忠もそれ以上の抗戦を断念して自刃した(『信長公記』および『當代記』による記述)。討死したのは村井貞勝、菅屋長頼、猪子高就ら多数にのぼった。戦死者の遺体は、京都阿弥陀寺(京都市上京区)の開基清玉が集め葬送したと伝えられる。光秀は、変後は信長残党の捜索追捕と京の治安維持に当たったが、山岡景隆・景佐の兄弟が守っていた瀬田城(大津市)では、2日、山岡兄弟が光秀の誘いを拒絶し、瀬田城と瀬田の唐橋を焼き落として抵抗の構えを見せた後、甲賀方面に避難した。2日夕刻、光秀軍は橋詰めに足がかりの塁を築いて坂本城に帰り、諸方に協力要請の書状を送った。この時、信長の部下であった美濃野口城(岐阜県各務原市)の城主西尾光教に対して、味方となって美濃大垣城(岐阜県大垣市)を攻め取るよう指令しているが、同様の書状は各所に送られたものと推定される。光秀は3日・4日と坂本城にいて、近江や美濃の国衆の誘降についやした。3日には武田元明・京極高次らを近江に派兵して、4日のうちには近江の大半を制圧した。ただし、山岡兄弟の件もそうであるが、安土城留守居役であった蒲生賢秀・賦秀(氏郷)父子もまた、城内にいた信長の妻妾をみずからの居城日野城(滋賀県蒲生郡日野町)に避難させ、光秀に対して不服従の態度を明らかにするなど、当初から必ずしも光秀の思惑通りには進まなかった。このとき、信長の妻妾は安土城に火をかけ、城内の金銀財宝を移すよう主張したが、賢秀はその申し出の両方を断ったという。一方、大和の筒井順慶は、信長から中国攻めを命じられたので2日に郡山城(奈良県大和郡山市)を発し京都へ向かったが、途中本能寺の変報を聞き一旦郡山に帰り、翌3日には兵を出して大安寺・辰市・東九条・法華寺(いずれも奈良市)の周辺を警備して治安維持につとめた。この時、摂津にあった信長の三男・神戸信孝と丹羽長秀が兵員不足に窮したため与力を求められたが、これには応じず、4日に山城槇島城(京都府宇治市)の城主井戸良弘と順慶配下の一部の兵は山城を経て5日には光秀軍と合流して近江に入った。光秀は、5日には瀬田橋を復旧させて安土城を攻撃してこれを奪取し、信長の残した金銀財宝を家臣や新しく従属した将兵に分与した[15]。さらに秀吉の本拠長浜城(滋賀県長浜市)や丹羽長秀の本拠だった佐和山城(滋賀県彦根市)、山本山城(長浜市)なども占領させた。なお、長浜城は京極高次・阿閉貞征により開城されて、光秀はここに斎藤利三を入れた。佐和山城には山崎片家が入った。光秀は7日まで安土城にいた。中国大返し信長の死は、各地に伝えられた。丹羽長秀は神戸信孝と共に四国平定の任を負い、副将三好康長・蜂屋頼隆・津田信澄と共に大坂及び堺で渡海作戦にとりかかっていた。5月29日、信孝軍は摂津住吉に着陣し、また津田・丹羽勢は大坂、蜂屋勢は和泉岸和田に集結して、当初6月2日予定の渡海に備えていた。変報は6月2日午前に伝わったとみられる。津田信澄は信長の弟織田信行の子で、近江高島郡大溝城(滋賀県高島市)の城主であったが、光秀の婿であったため内通を疑われ、6月5日、信孝と長秀の軍勢に襲撃されて野田城(大阪市福島区)で信孝家臣峰竹右衛門・山路段左衛門・上田重安によって殺害された。京に近い大坂・堺にあった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にあったが、逆に緘口令が徹底できなかったため兵の多くが逃亡し、やむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つかたちとなった。 〇「柴田勝家」は、北陸戦線にあって上杉景勝の支配する越中魚津城(富山県魚津市)を攻略中であり、6月3日の午前6時頃魚津城を陥落させ、その直後、余勢を駆って越後へむかおうとしていた矢先に変報が届いた。勝家は後事を前田利家・佐々成政らに託し、直ちに魚津から船に乗って越中富山を経て居城の越前北庄城(福井県福井市)に帰り、光秀討伐の準備を開始した。光秀征討の先鋒として養子であった甥の柴田勝豊や従兄弟の柴田勝政を出陣させ、6月18日には近江長浜(滋賀県長浜市)まで進出させたが、その時すでに光秀は秀吉によって討滅させられた後であった。徳川家康は、甲州征伐の際に駿河を拝領した礼を述べるため武田旧臣の穴山信君(梅雪)を伴って5月29日に安土城に上って信長に面会し、信長の勧めにより京都や和泉堺を遊覧中であった。堺では代官松井友閑や豪商達の饗応を受けていたが、6月2日の午前のうちに本能寺の変報を聞くと、上洛と称してすぐさま堺を出奔し、その日は近江信楽(滋賀県甲賀市)に宿泊した(家康と別行動を取った穴山梅雪は山城で土民に殺された)。3日朝、伊賀越えの道より伊賀に入り、領国三河への最短距離となる間道を抜けて伊勢加太(三重県亀山市)を通過して伊勢の白子(三重県鈴鹿市)から船に乗り、6月4日には三河の大浜(愛知県碧南市)に到着して本拠の岡崎城(愛知県岡崎市)にたどりついた。家康もまた光秀攻めをめざして熱田神宮(名古屋市熱田区)まで進んだが間に合わず、一転して甲斐・信濃攻めに着手し、短期間で領国を拡大させた(天正壬午の乱)。 〇「滝川一益」は上野厩橋城(群馬県前橋市)を本拠として北条氏と対峙しながら東国の新領土の経営に奮闘しており、変の報せが到着したのも大幅に遅れた。また、河尻秀隆は甲斐に、森長可は信濃にあって、やはり新しく織田領となった地域の経営に努めていた。織田信雄(信長の次男)は、本領の伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)にいた。しかし、その兵の大部分は信孝の四国征討軍に従軍していたので、信雄の周囲には僅かな兵しかなく、伊勢より動くことはできなかった。以上のように、本能寺の変の起こった当時、信長軍団の師団長ともいうべき諸将は光秀を除いて殆どが遠方に出払い、あるいは、戦争準備の最中であり、同盟者であった家康も僅かな供回りを連れての上方遊覧の途上にあって、畿内中心部は一種の戦力空白に近い状況であった。加えて、光秀の組下として行動をともにすることの多かった丹後の細川藤孝・忠興父子や大和の筒井順慶、摂津の池田恒興・中川清秀・高山右近らは国元で中国攻めの軍を準備中であった。本能寺の変報が各地に伝えられると共に、光秀に与同する者も現れたが、日和見的な態度をとる者も多かった。こうした情勢は、しばしば織田方諸将の行動を牽制させることともなっていた。秀吉と高松城陥落羽柴秀吉が、「信長斃れる」の変報を聞いたのは6月3日夜から4日未明にかけてのことであった。『太閤記』では、光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したことを説明している。『常山紀談』では、秀吉が所々に忍びを配置しており、備中庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい飛脚を生け捕りにしたところ「信長を打ち取らば、秀吉必ず敗北すべし。秀吉を追い撃たれよ」と毛利側へ送る密書を持っていたとしている。また、京の動向を知らせるよう依頼していた信長の側近で茶人の長谷川宗仁の使者から知りえたともいわれている。なお、光秀の密使としては明智氏家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田には「藤田伝八郎の塚」が現在も残っている。秀吉は変報が伝わると情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、自陣に対しても緘口令を敷いて毛利側に信長の死を秘して講和を結び、一刻も早く上洛しようとした。また、変報が伝わった際、黒田孝高は傍らで主君信長の仇を討つよう進言したという逸話がある。秀吉は情報を遮断した状況下で直ちに6月3日の夜のうちに毛利側から外交僧安国寺恵瓊を自陣に招き、黒田孝高と交渉させた。毛利側も、清水宗治の救援が困難だとの結論に達しつつあり秀吉との和睦に傾いていており、変報を知ったのは秀吉が撤退した翌日だった。この、本能寺の変を知りえるまでの情報入手における微かな時間差がその後の両者の命運を大きく分けたことになる。3日深夜から4日にかけての会談で、当初要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲の5か国割譲に代えて備後・出雲を除く備中・美作・伯耆の3か国の割譲と宗治の切腹が和睦条件として提示された。秀吉側は毛利氏に宛てて内藤広俊を講和の使者に立てている。忠義を尽くした宗治の切腹という条件について毛利家は難色を示したが、恵瓊は、高松城の城兵の助命を条件に宗治に開城を説き、ついに宗治も決断した。秀吉は宗治に酒肴を贈った。小舟で高松城を漕ぎ出した宗治は、水上で曲舞を舞い納めた後自刃した。「浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して」が辞世であったといわれる。秀吉は宗治の切腹を見届け、「古今武士の明鑑」と賞したという。宗治とその兄僧月清らの自刃は6月4日の午前10時頃と推定される。この後、秀吉は高松城に妻北政所(ねね)の叔父にあたる腹心の杉原家次を置いた後、兵を東方へ引き返した。毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認できる。この時、吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟・小早川隆景はこれを制し、誓紙を交換している上は和睦を遵守すべきと主張したため、交戦には至らなかった。輝元もこれを了承し人質として秀吉側から毛利重政・高政兄弟、毛利側から小早川秀包と桂広繁が送られる(『日向記』)。4月下旬に制海権を失い、持久戦の準備をしている織田軍に対して力攻めをする兵力がなく、持久戦に耐える物資輸送手段に窮した毛利氏には講和をするしかなかったのである。また、毛利勢は備中松山城(岡山県高梁市)に本陣を置き、領国防衛を第一とする基本的な構えで秀吉軍に対峙していることから、守備態勢を追撃態勢に切り換えることは事実上不可能であったとする見解もある。事実、秀吉は万一毛利勢から追撃される場合を措定して備前に宇喜多秀家の軍を留め置いている。仮に宇喜多軍が突破されても、伯耆の南条元続が毛利領に侵攻して毛利軍の背後を突く手筈となっていたことも考えられる。光秀の立場からすれば、毛利の勢力が秀吉の背後を突き、東西から挟撃する態勢となることを期待したが、毛利氏はそれに呼応しなかったし、呼応しても秀吉に挟撃できない状況を作られていたことになる。姫路への撤退「中国大返し」における姫路までの行軍の実態はよくわかっていない部分も多いが、経路は山陽道の野殿(岡山市北区)を経由するルートがとられたものと考えられる。このルートについて湯浅常山の著書『常山紀談』巻の五によると、宇喜多が明智光秀に通じており、長臣老将の面々が「秀吉の帰路を塞ぐべきや、如何せん」「さらば城中にて討取るべし。願う処の幸なり」と相議して秀吉を討取ろうとしていたが、秀吉は、6月7日の明け方に備中高松から岡山に行くと嘘の情報を流して宇喜多を欺き、「奥州驪(おうしゅうぐろ)という名馬に乗り、雑卒に交じり吉井川を渡り片上(備前市)を過ぎ、宇根(兵庫県赤穂市有年)に馳せ著けたれば馬疲れたり」としており、野殿や沼城に立寄ったとは書かれておらず、逆に討取られるのを恐れたのか、宇喜多の勢力圏内から逃げ帰るように播磨まで駆け抜けたとしている。『梅林寺文書』では五日には野殿に在陣していたとある。
2024年10月31日
コメント(0)
「明智光秀の謀反」 四国・長宗我部問題 これより前、土佐統一を目指していた長宗我部元親は、信長に砂糖などを献上して所領を安堵された。信長は元親の嫡男弥三郎の烏帽子親になって信の字の偏諱を与えるなど友誼を厚くし、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書かれた朱印状を出していた。 信長も当時は阿波・讃岐・河内に勢力を張る三好一党や伊予の河野氏と結ぶ毛利氏と対峙しており、敵の背後を脅かす目的で長宗我部氏の伸長を促したのである。その際に取次役となったのが明智光秀であり、明智家重臣の斎藤利三の兄頼辰は、奉公衆石谷光政(空然)の婿養子で、光政のもう1人の娘が元親の正室(信親生母)であるという関係性]にあった。 ところが、その後三好勢は凋落し、信長の脅威ではなくなった。天正3年(1575年)、河内高屋城で籠城していた三好康長(笑岩)は、投降するとすぐに松井友閑を介して名器「三日月」を献上して信長に大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになる。 同じ頃に土佐を統一した長宗我部氏は、天正8年6月には砂糖三千斤を献じるなど信長に誼を通じる意思を示していた一方で、阿波・讃岐にまで大きく勢力を伸ばして、笑岩の子康俊を降誘し、甥十河存保を攻撃していて、信長の陪臣が攻められる状態ともなっていた。笑岩は羽柴秀吉[注釈 に接近して、その姉の子三好信吉を養嗣子に貰い受けて連携しており、笑岩は本領である阿波美馬・三好の2郡を奪われると、天正9年、信長に旧領回復を訴えて織田家の方針が撤回されるように働きかけた。 信長は三好勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波の占領地半分を返還するように通告したが、元親はこれを不服とした。天正10年正月、信長は光秀を介して長宗我部は土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよという内容の新たな朱印状を出して従うように命じ、斎藤利三も石谷空然を通して説得を試みていたが、いずれも不調で、ついには信長三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐が行われることになった。信長の四国政策の変更は、取次役としての明智光秀の面目を潰した。 早くも前年秋の段階で阿波・淡路での軍事活動を開始していた節のある笑岩は、2月9日に信長より四国出陣を命じられ、5月には織田勢の先鋒に任命されて勝瑞城に入った。三好勢が一宮城・夷山城を落すと、岩倉城に拠る康俊は再び寝返って織田側に呼応した。変の直前、三好勢は阿波半国の奪還に成功した状態で目前に迫った信孝の出陣を待っていた。元親は利三との5月21日付けの書状で、一宮城・夷山城・畑山城からの撤退を了承するも土佐国の入口にあたる海部城・大西城については確保したいという意向を示し、阿波・讃岐から全面撤退せよと態度を硬化させた信長との間で瀬戸際外交が続けられていた。 「近畿管領」 全国平定の戦略が各地で着実に実を結びつつあったこの時期に、織田家の重臣に率いられた軍団は西国・四国・北陸・関東に出払っており、畿内に残って遊撃軍のような役割を果たしていた明智光秀の立場は、特殊なものとなっていたと現代の史家は考えている。 近畿地方の一円に政治的・軍事的基盤を持っていた光秀は、近江・丹波・山城に直属の家臣を抱え、さらに与力大名(組下大名)として、丹後宮津城の長岡藤孝・忠興親子、大和郡山城の筒井順慶、摂津有岡城の池田恒興、茨木城の中川清秀、高槻城の高山右近を従えていた。 高柳光寿は著書『明智光秀』の中で「光秀は師団長格になり、近畿軍の司令官、近畿の管領になったのである。近畿管領などという言葉はないが、上野厩橋へ入った滝川一益を関東管領というのを認めれば、この光秀を近畿管領といっても少しも差支えないであろう」と述べて、初めてそれを「近畿管領」と表現した。桑田忠親も(同時期の光秀を)「近畿管領とも称すべき地位に就くことになった」として同意している。津本陽は光秀の立場を「織田軍団の近畿軍管区司令官兼近衛師団長であり、CIA長官を兼務していた」と書いている。 光秀は、領国である北近江・丹波、さらには与力として丹後、若狭、大和、摂津衆を従えて出陣するだけでなく、甲州征伐では信長の身辺警護を行い、すでに京都奉行の地位からは離れていたとしても公家を介して依然として朝廷とも交流を持っており、(諜報機関を兼ねる)京都所司代の村井春長軒(貞勝)と共に都の行政に関わり、二条御新造の建築でも奉行をするなど、多岐に渡る仕事をこなしていた。 天正9年の馬揃えで光秀が総括責任者を務めたのはこうした職務から必然であり、(この時、羽柴秀吉は不在であったが)織田軍団の中で信長に次ぐ「ナンバーツーのポスト」に就いたという自負も目覚めていたと、野望説論者の永井路子は考えている。 しかも、特定の管轄を持たなかった重臣、滝川一益と丹羽長秀が、相次いで関東に派遣されたり、四国征伐の準備や家康の接待に忙殺されている状況においては、機動的に活動が可能だったのは「近畿管領」たる光秀ただ1人であった。後述するように動機については諸説あって判然とはしないが、僅かな供廻りで京に滞在する信長と信忠を襲う手段と機会が、光秀だけにあったのである。 信長と光秀 天正10年(1582年)5月14日、織田信長は(『兼見卿記』によれば)安土城に下向した長岡藤孝に命じ、明智光秀を在荘として軍務を解くから翌日に安土を訪れる予定の徳川家康の饗応役を務めるようにと指示した。 そこで光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、金2,000枚を献じて所領安堵された穴山梅雪らの一行をもてなした。 ところが、17日、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請するという旨の手紙が届いたため、信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。 自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」決心して、堀秀政を使者として備中に派遣し、光秀とその与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)には援軍の先陣を務めるように命じた。ただし『川角太閤記』では、単なる秀吉への援軍ではなく、光秀の出陣の目的は毛利領国である伯耆・出雲に乱入して後方を撹乱することにあったとしている。ともかく、光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた。 「#饗応役の解任」および「#旧領丹波・近江の召上」も参照 19日、信長は摠見寺で幸若太夫に舞をまわせ、家康、近衛前久、梅雪、楠長譜、長雲、松井友閑に披露させた。信長は大変に上機嫌で、舞が早く終わったので翌日の出し物だった能を今日やるようにと丹波田楽の梅若太夫に命じたが、見る見るうちに機嫌が悪くなり、不出来で見苦しいといって梅若太夫を厳しく叱責した。 その後、幸若太夫に舞を再びまわせ、ようやく信長は機嫌を直したと云う。20日、家康の饗応役を新たに、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼の4名に命じた。信長は家康に京・大坂・奈良・堺をゆるりと見物するように勧めたので、21日、家康と梅雪は京に出立し長谷川秀一が案内役として同行した。長秀と津田信澄は大坂に先に行って家康をもてなす準備をするよう命じられた。 同日、信長の嫡男信忠も上洛して、一門衆、母衣衆などを引き連れて妙覚寺に入った。信忠がこの時期に上洛した理由はよくわかっていないが、家康が大坂・堺へ向かうのに同行するためとも、弟神戸信孝の四国征伐軍の陣中見舞いをする予定で信長と一緒に淡路に行くつもりだったとも言う。いずれにしても、信忠はこの日から変の日まで妙覚寺に長逗留した。 26日、坂本城を発した光秀は、別の居城である丹波亀山城に移った。27日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、その日は参籠(宿泊)した。(『信長公記』によると)光秀は思うところあってか太郎坊の前で二度、三度とおみくじを引いたそうである。 28日(異説では24日)、光秀は威徳院西坊で連歌の会(愛宕百韻)を催し、28日中に亀山に帰城した。(『川角太閤記』によると)山崎長門守と林亀之助が伝えたところによれば、光秀は翌29日に弓鉄砲の矢玉の入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊を西国へ先発させていたと云う。 29日、信長は安土城を留守居衆と御番衆に託すと、「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、同日、京での定宿であった本能寺に入った。信長の上洛の理由もよくわかっていないが、勧修寺晴豊の『日々記』や信孝朱印状によると、実現はしなかったものの6月4日に堺から淡路へ訪れる予定であったと云い、このことから毛利攻めの中国出陣は早くとも5日以降であったと推測され、安土より38点の名器をわざわざ京に運ばせていたことから道具開きの茶会を開いて披露するのが直接的な目的だったと考えられる。 博多の豪商島井宗室が所持する楢柴肩衝が目当てで、信長は何とかこれを譲らせようと思っていたとも言われるが、別の説によればそれはついでで、作暦大権(尾張暦採用問題)など朝廷と交渉するための上洛だったとも云う。 6月1日、信長は、前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で茶会を開いた。名物びらきの茶事が終わると酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪して信長・信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わした。深夜になって信忠が帰った後も、信長は本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見て、しばらく後に就寝した。 当時の本能寺 本能寺は現在とは場所が異なり、東は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた4町々(1町)の区画内にあって、東西約120メートル南北約120メートルという敷地に存在した。本能寺は天正8年(1580年)2月に本堂や周辺の改築が施された。 堀の幅が約2m~4メートルで深さが約1メートルの堀、0.8メートルの石垣とその上の土居が周囲にあって、防御面にも配慮された城塞のような城構えを持っていたことが、平成19年(2007年)の本能寺跡の発掘調査でも確認されている。 当時、敷地の東には(後年は暗渠となる)西洞院川があり、西洞院大路の路地とは接せずに土居が川まで迫り出していて、西洞院川は堀川のような役割を果たしていたようである。調査では本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦、土器、護岸の石垣を施した堀の遺構などが見つかっている。河内将芳は「信長が本能寺に、信忠が妙覚寺に、それぞれいることが判明しなければ、光秀は襲撃を決行しなかっただろう」という見解を述べているが、同じ京都二条には明智屋敷もあり、動静は把握されていたと考えられる。 詳細は「本能寺」を参照 本能寺討入 6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した。(『川角太閤記』によれば)「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容や家中の馬などを信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時頃(申の刻)より準備ができ次第、逐次出発した。亀山の東の柴野に到着して、斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは、午後6時頃(酉の刻)のことであった。 光秀はそこから1町半ほど離れた場所で軍議を開くと、明智秀満(弥平次)に重臣達を集めるように指示した。明智滝朗の『光秀行状記』によると、この場所は篠村八幡宮であったという伝承があるそうである。 秀満、明智光忠(次右衛門)、利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝が集まったところで、ここで初めて謀反のことが告げられ、光秀と重臣達は「信長を討果し天下の主となるべき調儀」を練った。また(『当代記』によれば)この5名には起請文を書かせ、人質を取ったということである。 「#諏訪で御折檻」、「#饗応役の解任」、および「#変の要因」も参照 亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが、光秀は「老の山(老ノ坂)を上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせた。駒を早めて老ノ坂峠を越えると、沓掛で休息を許し、夜中に兵糧を使い、馬を休ませた。 沓掛は京への道と西国への道の分岐点であった[138]が(『川角太閤記』によれば)信長に注進する者が現れて密事が漏れないように、光秀は家臣天野源右衛門(安田国継)を呼び出し、先行して疑わしい者は斬れと命じた。 夏で早朝から畑に瓜を作る農民がいたが、殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、天野はこれを追い回して20、30人斬り殺した。なお、大軍であるため別隊が京へ続くもう一つの山道、唐櫃越から四条街道を用いたという「明智越え」の伝承もある。 6月2日未明、桂川に到達すると、光秀は触をだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ、火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した。これは戦闘準備を意味した。明智軍に従軍した武士による『本城惣右衛門覚書』によれば、家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていたとされ、ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。 一方で『川角太閤記』では触で「今日よりして天下様に御成りなされ候」と狙いが信長であることを婉曲的に告げたとし、兵は「出世は手柄次第」と聞いて喜んだとしている。他方、光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言したという話が有名であるが、これは『明智軍記』にあるもので俗説である。 桂川を越えた辺りで夜が明けた。 先鋒の斎藤利三は、市中に入ると、町々の境にあった木戸を押し開け、潜り戸を過ぎるまでは幟や旗指物を付けないこと、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した。 6月2日曙(午前4時頃)、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。寄手の人数に言及する史料は少ないが、『祖父物語』ではこれを3,000余騎としている。 『信長公記』によれば、信長や小姓衆はこの喧噪は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は鬨の声を上げて、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか(こは謀反か。如何なる者の企てぞ)」と蘭丸に尋ねて物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます(明智が者と見え申し候)」と報告するので、信長は「やむおえぬ(是非に及ばず)」と一言いったと云う。 通説では、この言葉は、光秀の謀叛であると聞いた信長が、彼の性格や能力から脱出は不可能であろうと悟ったものと解釈されている。また異説であるが、『三河物語』では信長が「城之介がべつしんか」と尋ねてまず息子である信忠(秋田城介)の謀叛(別心)を疑ったということになって、蘭丸によって「あけちがべつしんと見へ申」と訂正されたことになっている。 明智勢が四方より攻め込んできたので、御堂に詰めていた御番衆も御殿の小姓衆と合流して一団となって応戦した。 矢代勝介(屋代勝助)ら4名は厩から敵勢に斬り込んだが討死し、厩では中間衆など24人が討死した。御殿では台所口で高橋虎松が奮戦してしばらく敵を食い止めたが、結局、24人が尽く討死した。湯浅直宗と小倉松寿は町内の宿舎から本能寺に駆け込み、両名とも斬り込んで討死にした。 信長は初め弓を持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れたので、次に槍を取って敵を突き伏せて戦うも(右の)肘に槍傷を受けて内に退いた。信長はそれまで付き従っていた女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と逃げるよう指示した。『当代記』によれば三度警告し、避難を促したと云う。 すでに御殿には火がかけられていて、近くまで火の手が及んでいたが、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて切腹した。『信長公記』ではこの討ち入りが終わったのが午前8時(辰の刻)前とする。 宣教師の話 一方、本能寺南側から僅か1街(約254メートル)離れた場所に南蛮寺(教会)があったので、イエズス会宣教師達がこれの一部始終を遠巻きに見ていた。彼らの証言を書き記したものが、天正11年の『イエズス会日本年報』にある。 この日、フランシスコ・カリオン司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、危ないから中止するように勧めた。 その後、銃声がして、火の手が上がった。また別の者が駆け込んで来て、これは喧嘩などではなく明智が信長に叛いて包囲したものだという報せが届いた。 本能寺では謀叛を予期していなかったので、明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入した。信長は起床して顔や手を清めていたところであったが、明智の兵は背後から弓矢を放って背中に命中させた。信長は矢を引き抜くと、薙刀という鎌のような武器を振り回して腕に銃弾が当たるまで奮戦したが、奥の部屋に入り、戸を閉じた。 或人は、日本の大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」としめている。 信長の首と遺体 戦後、明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからなかった。光秀も不審に思って捕虜に色々と尋ねてみたが、結局、行方は分からずじまいだった。(『祖父物語』によれば)光秀が信長は脱出したのではないかと不安になって焦燥しているところ、これを見かねた斎藤利三が(光秀を安心させるために)合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ましたと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった。 後世、光秀が信長と信忠の首を手に出来ずに生存説を否定できなかったために、本能寺の変以後、信長配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったのであるという説がある。後の中国大返しの際に羽柴秀吉は多くの武将に対して「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」との虚報を伝え広めたが、数日間は近江近在でも信長生存の情報が錯綜し、光秀が山岡景隆のような小身の与力武将にすら協力を拒まれたところを見ると、それが明智勢に不利に働いたことは否めない。 日本の木造の大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中からは、当時の調査能力では特定の人物の遺骸は見つけられなかったであろうと、未発見の原因を説明する指摘もある。『祖父物語』によれば、蘭丸は信長の遺骸の上に畳を5、6帖を覆いかぶせたと云い、前述の宣教師の話のように遺体が灰燼に帰してしまうことはあり得ることである。
2024年10月31日
コメント(0)
6「和睦成立と秀吉の撤退」秀吉は包囲を継続する一方、毛利氏との講和の交渉にも入った。毛利方もまた、軍僧の安国寺恵瓊を黒田孝高のもとに派遣し、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示した。 〇「安国寺 恵瓊」(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。 毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。 出自が安芸武田氏の一族であることは確定しているが、生年・父親には諸説があり、前者は天文6年(1537年)とも天文8年(1539年)ともいわれる。また後者については武田信重(光広)を父とする説と、信重の父である伴繁清を父とする説とが存在する。 東福寺時代 天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。 恵心は毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなった。僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。このほか方丈寺、霊仙寺といった寺院を再興し、大内義隆が建立した凌雲寺仏殿を安国寺に移築するなどした。 毛利家臣時代 一方、毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となる。大友宗麟との多伏口の合戦において博多の町衆に堀70日分の工事を命じるなどの活動が散見される。永禄11年(1568年)の大友家との合戦では恵瓊も従軍し、諸豪族を毛利側の味方とするために渉外を行い貢献した。 元亀2年(1571年)6月には毛利元就の書状を携えて上京し、室町幕府将軍・足利義昭に対して大友家・浦上家・三好家との和議の斡旋を依頼したが、義昭が三好との調停に難色を示し不調に終わった。 しかし、翌元亀3年(1572年)には三好を除いた大友・浦上との講和については義昭が了承し、再度上京して10月には大友・浦上両家との和議の斡旋に成功した(『萩藩閥閲録』)。 天正元年(1573年)、織田信長によって京都を追放された義昭はいったん枇杷庄(現京都府城陽市)に退いたが、本願寺顕如らの仲介もあり、三好義継の拠る若江城へ移り、11月5日には和泉国の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この会談には毛利氏使者として恵瓊も参加した[3]。しかし、義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂、このとき、恵瓊は義昭が西国に来ないよう要望している。 天正4年(1576年)に足利義昭が備後国鞆に移ってきたあとも、宇喜多直家と断交し織田信長と結ぶべきと主張していたが受け入れられなかった(『巻子本厳島文書』)。 天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめた。 天正11年(1583年)8月22日、毛利輝元の家臣に送った手紙で老母の罹病を理由に恵瓊が境目についての会合に不参加を表明している。公務を投げ出しても母を看取り、その危機を救うのが一般的な当代の母子の実像であった。 また、本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ている。結局、両名を人質として出すことと引き換えに、毛利氏の領国は認められた[注釈 4]。恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得た。 秀吉近臣時代 天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となった。恵瓊本人の禄ではないが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられている。 また、恵瓊は秀吉の側近も兼ねることとなり、天正13年12月7日には九州征伐に先立ち黒田孝高・宮木宗賦とともに大友氏・毛利氏の和睦締結、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されるなどしたほか、秀吉の命令で行なわれた検地、厳島神社の千畳閣など作事の奉行を務めている。 武将としても小田原征伐に兵を率いて参陣し、天正18年(1590年)3月には脇坂安治、長宗我部元親と共に清水康英が守る下田城を攻め、1ヶ月の籠城戦の後これを陥落させている。このとき内陸の横川に対して制札を出し、水軍将兵の同地での乱暴狼藉を禁じている。 肥後国人一揆 肥後国人一揆が起こった際には芸州衆からなる第二陣の将として・粟屋・古志・伊勢・小田・日野ら毛利家臣の兵を率いて小早川秀包・立花宗茂・鍋島直茂・筑紫広門らの第一陣に続いた。第一陣諸将と共に辺春親行、和仁親実の籠る田中城を攻めた際には辺春氏を内応させて落城に導いたほか、一揆の盟主・隈部親永を降伏させる。 天草五人衆のひとり志岐麟泉の人質を受け取るなど有力国人たちを調略。 大田黒城の大津山家稜を講和と偽り誘い出し、吉地浄満院での宴の最中に佐々成政の家臣に家稜を刺殺させ大津山氏を滅ぼす。 降伏した内空閑鎮房を柳川城での桃の節句の宴に呼び寄せて謀殺。 近隣諸氏に牧野城に拠った内空閑鎮照を討伐させる。 など参謀・謀将として活躍した(「肥後古城物語」ほか)。戦後は佐々成政、和仁親実らの助命を嘆願するが、果たせなかった。 文禄・慶長の役 朝鮮出兵においては小早川隆景率いる六番隊として渡海し、全羅道の攻略を担当。占領地の支配も行った。この間、「夏に酒を冷やす蔵まである」と朝鮮の兵糧の豊かさに驚嘆する文書を送ったり、現地の子供を集めいろはを教え、髪型を日本風に変えさせ召し使うなどの活動が散見する。戦闘にも参加しており、忠清道で決起した趙憲・霊圭らの私軍を立花宗茂とともに錦山に撃破し、両名を討ち取っている。関ヶ原 恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、文禄年間に秀吉が病臥した際にはその回復を小早川家重臣・山田某に伝え、同じ書状で隆景の隠居に関しても連絡するなど秀吉と隆景との間を連絡する活動を行っており、隆景が死去すると毛利が軽視されかねないと将来を危ぶんだ。 恵瓊の危惧は的中し、自身も小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功した。 9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に騎馬700、足軽3,000という部隊で陣取った(『古今武家盛衰記』)。馬印は天蓋、旗は白地に一文字を使用した。が、前に布陣する広家が家康に密かに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、家臣・椎野道季を派遣して問い質すも広家に言い抜けられ、結局戦闘に参加することなく、西軍は敗北した。 敗北後、恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭され逃亡し鞍馬寺、下間頼廉の婿である端坊明勝が住持である本願寺と匿われ京都の六条辺に潜んでいたが、奥平信昌隊の鳥居信商(長篠城攻防戦で使者として高名の鳥居強右衛門の子)に捕縛され、大津にいた家康の陣所に送られた。 10月1日、西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首され、石田三成・小西行長と共に梟首に処せられた。享年62または64。 墓所は建仁寺本坊内の庭に首塚があり、広島の不動院にも墓がある。 安国寺恵瓊は大名になったのか? 安国寺恵瓊については2つの像が語られている。1つは毛利氏に外交僧として仕え、その権力中枢の一員となっていたとする見方である。もう1つは豊臣秀吉から知行を与えられ、豊臣政権において6万石(異説あり)の大名になったとする説である。 恵瓊を大名とする見方は、『廃絶録』に恵瓊に関する記述が存在し、明治以降の歴史学でも当然のように恵瓊は大名としてみなされてきた。 その一方で、1970年代から進んだ織豊期の毛利氏の権力構造の研究の中で恵瓊は天正13年(1585年)以後も穂井田元清・福原広俊ら他の毛利氏年寄(重臣)とともに毛利氏発給の文書に署名している事実が指摘されてはいたが、この2つの恵瓊像の食い違いについては関心が払われていなかった。 これに関して、津野倫明は恵瓊が大名に取り立てられたとする従来の考えに疑問を呈した。 まず、『陰徳記』に記された四国国分寺に与えられたとされる伊予国2万3千石や『廃絶録』に記された6万石は裏付けとなる史料が存在しないこと、実在する「天正一九年三月一三日付安国寺宛秀吉朱印目録知行」の宛先も「安国寺」宛となっており、恵瓊本人の所領(大名領)か、寺院としての安国寺の所領(寺院領)か不明であることから恵瓊を大名とみなす証拠にはならないとした。 更に文禄の役において恵瓊が朝鮮に渡った事実を確認できるにも関わらず、同役の陣立書には恵瓊の名前が見られないことなどを挙げて恵瓊が大名であることを否定し、反対に恵瓊が他の重臣とともに発給に関わった毛利氏家中の文書が文禄年間にも存在すること、恵瓊自身が秀吉に雇われた関係であると述べた書状が存在することから、恵瓊は秀吉との間には一種の雇用関係が存在したが、その身分は毛利輝元と主従関係を結んだ毛利氏家臣(年寄)であり、時代が下るにつれて毛利家中における彼の立場が強化されていったとした。 この津野説に対して、藤田達生は毛利家中には小早川隆景の事例があり、恵瓊も同様の事例であるとして恵瓊大名説を妥当とする立場からの批判を行ったが、これに対して津野は文禄の役の陣立書に小早川の名前はあるが恵瓊の名前は無く同列には扱えないとした上で、更に『義演准后日記』慶長5年8月5日条に「毛利内安国寺、尾州出陣千人斗云々、当郷罷通了」とあり、義演が恵瓊を独立した大名とみなしていなかったこと、関ヶ原の戦いにおいて恵瓊の兵力とされる兵が実際には毛利軍の兵力であったとする反論を行っている。 しかし、秀吉はこれを拒否して「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん物別れに終わった。毛利方は清水宗治に対して救援の不可能なことと、秀吉に降伏するべきという旨を伝えたが、宗治は自分の命を城とともにしたいとしてこれを拒否する。毛利方は安国寺恵瓊を高松城に送り込んで説得を試みたが、宗治は主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら自分の首はいとも安いと述べ、自らと兄である月清と弟の難波宗忠(田兵衛。「伝兵衛」は誤伝)、小早川氏からの援将である末近信賀の4人の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託した。
2024年10月31日
コメント(0)
5「水攻めの開始」秀吉は毛利輝元と直接対決に備えて、甲斐武田氏を滅亡させたばかりの主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせた。信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事を得たものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい命が下っている状況において、秀吉は水攻めを行うことを決定した。低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った奇策であったといえる。秀吉は即座に堤防工事に着手した。この堤防は門前村(現: 吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであった。堤防の高さについては、堤防の調査に先立って行われた高松城の調査から、標高5㎡ほどであったと推測されている。築堤奉行には蜂須賀正勝が任命され、宇喜多忠家が黒田孝高の指導のもと難所の門前村から下出田村までを担当(この場所の工事奉行は宇喜多氏家臣の千原勝則とも言われる)。原古才村を蜂須賀氏が、松井から本小山までを堀尾吉晴、生駒親正、木下備中、桑山重晴、戸田正治らが、蛙ヶ鼻より先を但馬衆が担当することとなり、浅野長政は船や船頭を集めて備中高松城が湖に浮かぶ島になった際の城攻めの準備にあたった。 〇「蜂須賀 正勝」(はちすか まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の家祖。 初名は利政。通称は小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名している。官位は従四位下、修理大夫。 蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷を拠点とした国衆で、正勝は大永6年(1526年)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれた。生母は不明であるが、その生母は彼が6歳の時、享禄4年11月7日(1531年12月15日)に亡くなったという。 『武功夜話』では、川並衆という木曽川の水運業を行うことで利益を得ていた集団の1つであったとされているが、信憑性には疑問が呈されている。稲田大炊助(貞祐)、青山新七(昌起)らと土豪勢力をなしていたようであるが、詳しいことはわかっていない。しかし少なくとも父・正利の代より美濃斎藤氏に仕えていたようであり、それが理由で織田信秀方に付いた一族とは敵味方に分かれていた。 天文22年(1553年)2月25日の父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。濃尾の争いで道三にしばしば用いられ、初名の利政も道三より偏諱を受けたものらしい。弘治2年(1556年)、道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三側について首級を上げた。 道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕え、翌年、岩倉城で反乱があった際に鎮圧に貢献して賜衣を授けられた。しかし信賢は織田信長と犬山城主・織田信清の連合に攻められ、敗れて降伏。このため正勝は信清に一時的に仕えるが、信清も信長と不和となって永禄7年(1564年)に甲斐国へ亡命したので、信長に仕えるようになって、この頃、蜂須賀郷に戻った。 一説では、秀吉は織田氏に仕える以前に正勝に仕えていたとも云われ、秀吉による推薦があって(敵側だった)正勝は信長の家臣となったという話もある。 (『武功夜話』を信じるならば)秀吉の父・弥右衛門は蜂須賀正利の配下であったことがあり、小和田哲男は秀吉はその縁で正勝と信長とを橋渡したのだろうと推測する。 なお、信長の側室・生駒吉乃の父である生駒家宗とは同郷であり、『織田家雑録』では、秀吉が織田氏に仕えたのは正勝と縁のあった吉乃の推薦によるとしている。他方で別書によれば、正利の室・安井御前は秀吉の義弟に当たる浅野長政とは母方の従兄弟になるので、その縁で秀吉の与力となった可能性もあるとされる。 矢矧川の野盗 講談や『太閤記』『絵本太閤記』『真書太閤記』では、蜂須賀小六は野盗の親分であったとされているが、「墨俣一夜城」のために集められた夜討強盗の野武士集団の番頭の1人というのは、寛永3年(1626年)以後に刊行された小瀬甫庵の『太閤記』が秀吉の生い立ちを面白くするために作った話であり[8]、蜂須賀家の子孫は長くその負のイメージに苦しんできた。 羽柴秀吉との出会いについても、浪人時代の秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で出会ったという逸話が特に有名で、浮世絵などにも描かれるなど広く信じられてきたが、渡辺世祐が侯爵蜂須賀家の依頼により『蜂須賀小六正勝』を執筆した際に、室町期のどの紀行文を見ても矢矧川には橋がなかったこと、渡し船が用いられていたこと、この逸話が虚伝であることを指摘し、その後、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代中期の元禄年間(1688年-1704年)であり、天正年間(1573年-1593年)には渡し船で渡河していたことが立証された。 桑田忠親は「矢作橋の上で、盗賊の頭領の蜂須賀小六と出会う話は『絵本太閤記』の作り話」とし、小和田はさらに具体的に(橋での出会いは)寛政9年(1797年)に刊行され始めた同作由来の話であるとして、その著者の「竹内確斎の創作」であると言っている。 秀吉の与力から直参衆へ 永禄9年(1566年)、美濃国において秀吉の手で果たされた墨俣城の築城[注釈 に前野長康らと協力した土豪衆(稲田大炊助、青山秀昌、長江景親、梶田景儀など)の1人として、正勝は弟・又十郎と共にこれに加わった。 秀吉が城の守将とされた後も与力として付けられて、斎藤方を調略する案内役として活動した。正勝はこれらの功で、信長により50余村と500貫を褒美として与えられた。 永禄11年(1568年)、近江六角攻めでも秀吉与力として箕作城の攻撃に参加。同年、信長に従って上洛した。 永禄12年(1569年)、秀吉の代官として京に留まって警備にあたり、5月、二条城が火災に見舞われた際には速やかに鎮火したので、足利義昭は正勝に桐の紋の入った羽織を褒美として与え、家紋としての使用を許した。以後、正勝は桐紋を衣類を用いるようになったが、後年、秀吉も桐の紋(太閤桐)を用いることが許されるので、これを憚って(正勝の死後の)蜂須賀家では柏紋(抱き柏紋)に改めている。 また、信長も正勝の手柄を伝え聞き、尾張春日井郡三淵郷に5,000石を褒賞として与えた。 元亀元年(1570年)、越前天筒山城・金ヶ崎城攻め、金ヶ崎の退き口で活躍。姉川の戦い、近江横山城の攻略で秀吉と従軍して功をあげた。横山城が秀吉に任せられると正勝は城代となった。 元亀2年(1571年)5月、堀秀村がいた箕浦城が浅井・一向一揆勢に攻められると、秀吉は正勝らを派遣してこれを救援させて撃退したが、その際に一番槍の手柄を上げている。また長島一向一揆との戦いにも従軍したが、この戦いでは弟・正元を失った。 天正元年(1573年)、浅井氏の滅亡後に秀吉が近江長浜城主(当初は小谷城で後に移転)となると、正勝には秀吉の直臣として長浜領内にも食邑が与えられた。『松平記』によると、翌年、信長は家中の殊勲・功臣を選抜したが、秀吉の配下では伊藤輿三左衛門尉と正勝の二人だけが選ばれた。 天正4年(1576年)の天王寺合戦に参加。秀吉勢の先鋒を務めて、「楼岸(ろうのきし)一番の槍」の手柄を挙げ、中村重友と共に一揆勢の首も多数上げて、秀吉より感状と100石の加増を与えられ、さらに信長からも褒美として定紋の軍衣を直に手渡されるという栄誉を受けた。 中国戦役 天正5年(1577年)から始まった中国攻めには、秀吉の譜代衆となった息子・家政と共に従軍した。天正7年(1579年)の播磨三木城攻め(三木の干殺し)では、別所長治、小早川隆景の挟撃をうけた平田城で谷衛好が敗死すると、これの反撃となった大村合戦では小早川勢を撃退して200の首級を挙げて兵糧強奪も果たし、糧米輸送を阻止した。 天正8年(1580年)4月24日、広瀬城(長水城)を正勝と家政で攻略して城主・宇野重清を討ち取った(または捕らえた)。この功により、家政には月毛の名馬を、正勝には長水城が与えられて、初めて城主となった。その後、播磨を平定すると、秀吉は黒田官兵衛(孝高)の助言に従って姫路城を本拠として改修し、正勝にも播磨龍野城5万3,000石を与えた。 同年、秀吉は、正勝の娘(後の宝珠院)と黒田孝高の長男・松千代(松寿)丸(後の黒田長政)との婚約を成立させ、左右の重臣の結束を固めた。 天正9年(1581年)、因幡鳥取城攻め(鳥取の渇殺し)にも従軍し、城を包囲する寄せ手に入った。吉川経家は当初しばしば兵を出して挑発してきていたので、秀吉の命令で加藤清正と正勝で搦め手より強襲したが、これは待ち伏せに遭って撃退された。 5ヶ月続いた籠城期間中、正勝は吉岡城、大崎城、鹿野城の降誘を進言してこれを降した。 吉川元春が伯耆国に侵攻して、南条元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城を攻めて、経家の雪辱を果たそうと馬山に背水の陣を布いた際には、秀吉は正勝と荒木重堅を派遣して羽衣石城への糧道を確保させたが、正勝は死兵と戦う不利を説き、結局、秀吉は軍を退いて決戦を回避し、両城には応戦せずに堅守に徹するように指示した]。 同年11月、秀吉は信長の許可を得て淡路遠征を行った。摂津国尼崎の池田之助が岩屋城を包囲したので、由良城(由良古城)の安宅清康は、秀吉の陣の正勝と伊木忠次(当時は池田恒興家臣)とに投降を申し出て、秀吉および信長に取り次がれて許可されたので、淡路勢は降伏して諸城が開城した。 正勝は名代として岩屋城を引き取ったが、この城は池田領となり、羽柴領となった洲本城は仙石秀久に与えられた。 天正10年(1582年)3月、正勝と黒田孝高は、小早川隆景の水軍の将であった乃美宗勝・元信を調略したが、失敗した。4月より備中高松城の戦い(高松の水殺し)が始まるが、この時も2人が清水宗治の陣中へ使者として訪れて降誘させようとしたが、拒否された]。 しかし長期包囲・水攻めに窮した毛利勢は最終的に清水宗治、月清、難波宗忠[注釈 19]、末近信賀の切腹と開城で和睦を図ることになって、6月3日、それ以外の城兵の助命を秀吉に取りなしてもらうための書状が正勝と杉原家次のもとに届いた[22]。秀吉がこれを許して、翌日に4名が切腹した。 ところが、この2日前に本能寺の変ですでに信長は非業の死を遂げており、通説では3日夜に秀吉はこの事実を知って情報が漏れぬように正勝に伝令の使者を監禁するように命じ、続いて各方面から来る伝令は陣中に入れずに途中で迎えて追い返させ、機密の保持を厳命したという。秀吉は正勝と孝高に安国寺恵瓊と協議させて、毛利氏と誓紙を取り交わして和睦を成立させると、5日には陣を引き払って、中国大返しが始まった。 姫路城に帰還した秀吉は、正勝に命じて、すべての金銀米穀を家臣それぞれの知行に応じて分配させた上で、山崎の合戦に臨んだ。合戦において正勝は秀吉本隊の一員として戦い、稲田植元と共に戦功を上げた。 戦後、正勝と黒田孝高は毛利氏との取次役も務めた。本能寺の変の直後に締結された毛利氏と織田氏との和睦に5カ国割譲という条件が含まれていたため、秀吉と毛利氏との関係の再構築は難航した。両名は安国寺恵瓊、林就長らと折衝を重ねて、(織田家の内紛における中断期間を含めて)約3年かけて境を確定させたが、この間、正勝は三度中国に下向して、この大任を全うした。 詳細は「中国国分」を参照 秀吉の宿老 清洲会議の後、織田家宿老・柴田勝家との争いが勃発した。天正11年(1583年)3月、勝家出陣の知らせによって伊勢国の滝川一益の攻撃から長浜城に戻った秀吉の軍、13隊中の9番隊が蜂須賀隊であったが、正勝本人は前述の毛利氏との折衝があって部署を離れることが多く、与力・赤松広秀に隊を任せていた。4月の賤ヶ岳の戦いの当日は正勝も秀吉本陣に控え、直接活躍する場面はなかったが、追撃で北陸に進んで尾山城の城兵を説得して降伏させた。その後、長島城で籠城を続けていた一益のもとに派遣され、名代として彼の投降を受け入れて、滝川領の織田信雄への受け渡しを統括した。 また秀吉が本拠を大阪に定めて、同年9月に大坂城の築城を始めるとその普請にも加わった。 天正12年(1584年)、前年より病であった杉原家次はこの年の秋に死去するため、正勝が家中における筆頭格の老臣となった。正勝は大坂城のすぐ側である楼岸]に新しい邸宅を与えられ、側近として毎日登城したので参勤料として丹波・河内の内に5千石の領地をあてがわれた。他方で大坂常勤となる前から所領の龍野の経営は家政が取り仕切っており、前年夏以前にはすでに家督を譲っていて、蜂須賀家当主は隠退した。 同年の徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いの際には、正勝・家政親子は大坂城留守居となった。戦後、秀吉は修復された桑部城に正勝を、縄生城に蒲生氏郷を守将として入れ、長島城から桑名城に移った信雄を圧迫して、講和を受け入れるように仕向けた。 天正13年(1585年)3月、秀吉が内大臣宣下を受けたのを機に、正勝も朝廷より従四位下の官位を賜り、修理大夫に叙任された。 同じ頃の紀州征伐において家政は大きな手柄を立てた。他方、太田城に籠城した太田左近(宗正)は、水攻めにされて兵糧も尽きたので島田新三郎(直正)を使いとして正勝と前野長康のもとに送り、首謀者36名の命と引き替えに一揆勢と婦女子の助命を嘆願して、秀吉に許された。自害した者達を葬り、首塚で弔ったのは正勝とされる。 次は四国征伐という段の前に、秀吉は前田玄以を遣わして戦勝の暁には正勝に阿波一国を与えるとの内意を示したが、すでに齢六十にして隠居の身であり、大坂にあって秀吉の側近として仕えることを望んでこれを辞退し、代わりに所領は子の家政に与えられることを希望した。 5月、四国攻めでは、正勝は目付として出征した。家政・黒田孝高ら播磨勢は、宇喜多秀家を将とする備前勢と合流して讃岐屋島に渡り、讃岐を制圧。次いで阿波国に進んで木津城を攻囲し、正勝が東条紀伊守を説得して城主・東条関之兵衛を降伏させた。 さらに総大将・羽柴秀長と共に一宮城を包囲した。小早川隆景・吉川元長らと連絡を付けるために正勝が伊予国に行っていた7月に、秀長は守将・谷忠澄に白地城に赴いて長宗我部元親を説得するように勧め、それによって和議(降伏)が成立した。 論功行賞によって、阿波一国(17万3千石)は家政に与えられ、阿波の内の1万石は赤松則房に与えられた。龍野城は福島正則へ与えられた。11月頃、家政は蜂須賀氏の郎党家臣をつれて阿波に入国し、秀吉の指示により渭山城を破却して徳島城を築城した。
2024年10月31日
コメント(0)
4「秀吉の出陣と高松城の包囲」宇喜多秀家が領していた備前岡山から先は毛利の勢力範囲であったため、織田軍と毛利軍は備前・備中国境地帯で攻防を繰り広げることとなった。天正10年(1582年)3月15日、秀吉はついに姫路城から備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣。途中、宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名:沼城、ぬまじょう)(現:岡山市東区)で宇喜多氏の動向を探り、宇喜多氏が織田軍に味方することを確認、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ入った。備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城、ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かった。 〇「平城」(ひらじろ、ひらじょう)は、平地に築かれた城をいう。江戸時代の軍学者により分類された地勢による城郭分類法の一つである。 平城は、山城に対する語として使用されることが多い。後世に作られた概念であり、どの城が平城であるかないかは、意見が分かれる。 主に日本の戦国時代末期から江戸時代にかけて建設された平地の要塞を指す。日本独自の語であり、海外の要塞や宮殿を平城と呼ぶことはない。本来、城は、環濠や城壁で囲まれた町を指す語として中国で成立した。しかし国土の8割が山岳部を占める日本において防衛施設は、より堅牢な山城に拠ることが多かった。平城京や平安京も堀や塀、門を備えていたが中国の都を真似たのみで運用上、外敵の侵入をほとんど想定していなかった。例えば承久の乱において幕府軍は、易々と京域に侵入し、朝廷軍を破っている。そのため平地に建設された大規模な官営施設でも、これらを平城と呼ぶことはない。 平城は、平地に土塁と堀で囲った鎌倉時代初期から南北朝時代にかけての武士の住まいである「方形館(ほうけいやかた)」、後の室町・戦国時代にかけての守護の居館である守護所などの「館・舘(たて)」が起源となった。守護所は、室町幕府の御所を模して建てられ、また山城を「詰の城(つめのしろ)」としていることが多く街道や水運の要所などの付近に築いた。 また地方の在地領主にも普及し、同様の形状で築城が行われた。戦国時代では、織田信長が築城した室町第(足利義昭の御所)や豊臣秀吉の聚楽第、徳川家康の二条城などが後の近世平城に影響したと考えられている。 戦国時代以前は、山城が中心であり地形的に適当な山がない場合に平地に防衛施設を築く場合もあったものの、平城はほとんど築かれなかった。城が軍事的な役割にのみ利用され、平時は山麓の居館で生活し、有事に城に籠もって戦っていたからである。しかし戦国後期になると軍事拠点としての役割に加え、政治・経済の拠点としての役割も重視されるようになったため、交通や商業の要衝である平地に城を築くようになった。 なお、海岸・河川・湖沼に隣接して築城され、その水を防御に利用する城を水城(みずじろ、みずき)と分類するが、築城場所が平地(低地)になるものは平城に分類される場合もある[注 2]。ただし、海や川に接する山に築城された場合も水城になるため、全ての水城(海城)が平城となるわけでは無い。 代表的な近世の平城の例では、名古屋城・駿府城・二条城・広島城などがある。平城として見られることがある江戸城や大坂城の分類は、平山城とすることがある。また水城の中でも高松城・今治城・中津城(以上、日本三大水城)・高島城・膳所城などは、平城でもある。 近世織豊期以降は、平城が中心になった。これには、様々な理由が挙げられている。その一つに山城が持つ高所から敵の動きを監視する視界を確保する役割を代替するため石垣で土地が盛り立てられ、本丸に天守が建てられた。徳川家康は、平城を好んでいたとされるが巨大な平城の中枢部に高層の天守を建てることで戦略的価値を生み出していたとされる(名古屋城など)。 しかし江戸時代には、武家諸法度発布により、天守をはじめ城郭の無許可造営、修理が禁止され、幕府による政治的な判断による中止措置、災害による亡失、藩の財政難という経済的な理由により次第に建築されなくなった。 城を守るのは清水長左衛門尉宗治で、3,000〜5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではなかった。そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲した。そして2回にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退した。毛利氏は織田軍の進攻に対して4月上旬までは楽観視していた。羽柴軍のみで、織田の水軍が下向していないため、水軍力で優位に立っていたからである。
2024年10月31日
コメント(0)
秀吉はまず播磨に進出、黒田孝高の居城であった姫路城を拠点に小寺氏・置塩赤松氏・龍野赤松氏を服従させ、反抗する佐用赤松氏を滅ぼし、支配を固めた。しかし、石山本願寺・毛利氏に呼応して、信長に同盟したはずの摂津荒木村重が反乱を起こし(有岡城の戦い)、播磨においても小寺氏、別所氏が反旗を翻すなど、秀吉の中国攻めは当初から困難が多かった。 〇「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。 開戦の経緯 天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、織田信長に謀反を起こし戦線を離脱し居城であった有岡城(伊丹城)に帰城した。 田中義成によると、謀反の原因は信長の部下に対する苛酷な態度にあったのではないかとされている。村重は波多野氏の氏族と言われており、37万石の所領で信長より摂津守護を拝命している。 『陰徳記』によると石山合戦で信長と交戦中の石山本願寺へ毛利勢と通じた村重が兵糧を密かに搬入したとの噂が流れたり、信長の命により石山本願寺に和睦の交渉役として出向いた時に、城内の困窮ぶりを目のあたりにし、交渉を有利にすすめるために単独で米100石を提供したという説や、『武功夜話』では神吉城の攻城戦で城内の内通者であった神吉貞光(藤太夫)は村重と旧知の間であったため、落城後羽柴秀吉は貞光の助命を許した。 しかし、貞光は直後に別所長治のもとに走って羽柴軍と対することになる。ためらいもなく別所のもとに走ったことから、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったという説を記している。天野忠幸は摂津国内の状況に着目し、織田政権の下での支配強化の動きに反発する摂津の国人や百姓の間で信長への反抗の動きが急激に高まり、彼らによる下からの突き上げを受けた村重は彼らに排除されるよりも先に彼らに呼応する形で信長との決別を選択したとする説を唱えている。 また天野はこれまで石山本願寺の地元でありながら石山戦争に対して中立の態度を取っていた摂津西部の一向門徒が村重の謀反を機に立ち上がり、終盤(花隈城の戦い段階)では本願寺と信長の停戦に反対する教如(顕如の長男)を支持する彼らが信長との戦いの主力になっていったとしている。 このように、様々な説があり何が原因で謀反に及んだのか、真相はよく解っていない。 荒木村重の謀反に驚いた信長は、糾明の使者として明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣した。光秀の娘は村重の嫡男・荒木村次の妻となっていたため、親戚の縁で選ばれたと考えられている。 これを聞いた高槻城の高山右近も有岡城へ説得に向かい、村重が信長から受けた恩義や、信長に勝つのは不可能なこと、敗北した際には厳罰が下るであろうことを説いた。右近はまた、彼らの疑念を解くために、すでに村重に2名の人質を差し出していたにもかかわらず、さらに長男まで人質として預けた。 村重は一旦はこれらの説得を聞き入れ、母親を人質に釈明すべく、息子と共に安土城へ向かった。しかし道中の茨木城に立ち寄った際、家臣から通達を受ける。『立入左京亮入道隆佐記』によると「安土城に出向くのはもってのほか、安土城に行って切腹させられるより、摂津国で一戦に及ぶべき」と中川清秀に引き止められたとしている。 フロイスの「日本史」によると、村重の家臣らは「自分たちは信長につく気はなく、ただちに引き返してこない場合、他の者を領主とする」と言ってきたという。これを受け、村重は不本意ながらも有岡城へ戻り、信長への逆意を明らかにした。 織田軍の中には村重の出世を快く思っていない者もいた。細川藤孝は信長に対して「村重に反意あり」と謀反三か条なるものを信長に差し出していた。 信長と対決するにあたり、村重は足利義昭、毛利輝元、顕如のもとに人質と誓書を差し出し同盟を誓った。 『本願寺文章』によると顕如への誓書として、本願寺と一味の上は善悪については相談、入魂にすること。本願寺の要求には承諾すること。織田信長を倒し、天下の形勢がどのようになろうとも、本願寺は荒木を見捨てないこと知行については本願寺は口出ししない。また本願寺の知行分については異存はない。百姓門徒については荒木が支配すること。本願寺は干渉しない 摂津国の事は申すに及ばず、所望の国々の知行の件についても本願寺は手出ししない。公儀及び毛利にたいして忠節をつくすので、望みを任せるように本願寺は最善をつくす。 また荒木と戦っている牢人門徒は本願寺がやめさせる とした。また村次の妻となっていた光秀の娘は離別させ光秀の元に帰らせた。この報に接した信長は福富直勝、佐久間信盛を派遣し、更に同年11月3日に二条城に移り、光秀、松井友閑、羽柴秀吉を有岡城に向かわせた。 村重はこれに対して野心はないと答えたが、人質に母親を差し出せとの信長の命に従わず、交渉は決裂した。この後小寺孝隆(黒田孝高)が単身有岡城に来城したが、そのまま村重によって幽閉された。同盟関係にあった小寺政職の手前、捕えて牢獄に閉じ込めてしまったのではないかと思われている。 戦いの状況 両者の争いは決定的になり、村重は織田軍に備えるため、 これは石山合戦の包囲網を備えるために信長が村重に命じて築城、修築させたりした城である。一方信長は石山本願寺と村重の両軍を敵に回すのは得策でないと考えたのか、村井貞勝を使者とし石山本願寺に和議を申し入れた。石山本願寺は毛利氏の承諾が必要とし、すぐには快諾とはならなかった。 そのような時、11月6日の第二次木津川口の戦いで織田水軍の鉄甲船が出撃し毛利水軍を大敗させた。 補給路が途絶えた石山本願寺の戦力は幾分和らいだとみたのか、11月9日に信長は山城と摂津の国境にある山崎に5万の兵力で進軍、翌10日に滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就らが茨木城を攻囲する一方、荒木軍の切り崩しにかかった。 高山親子の帰順 高槻城の高山友照・右近父子らの動向は、ルイス・フロイスの『日本史』に詳細に記録されている。 熱心なキリシタン大名である2人が荒木方についたことで、京都のキリスト教宣教師たちは震撼した。彼らは日本では「キリシタンたる者は、何ぴともその主君に背くべからず」と教えていたからである。また、高槻の町にいる多数のキリシタンたちが戦乱の犠牲になることも恐れた。 宣教師のグネッキ・ソルディ・オルガンティノは、右近に「いかなる事があっても信長に敵対してはならない。熟考するように」と通告し、右近は「人質さえ取り返せるならそうするが、どうすればこの難事を切り抜けられるか分からない」と返答した。単に彼らの命が危ないというだけでなく、当時、人質を処刑されることは非常に不名誉だったためである。この返答に、オルガンティノは信長がキリシタンを害するのではないかと心配した。 信長はオルガンティノに使者を遣わし、右近が荒木方につくことはキリシタンの教えにおいて許されぬことであり、荒木方につかないなら望み通りの金子と領地を与えると伝えた。 オルガンティノは、右近が人質の処刑を恐れて動向を決めかねていること、彼の性格からして説得のために金や領地は必要ないこと、自分が彼を説得できるかどうか努力してみることを返答した。だが、事態は進展しなかった。 信長はオルガンティノを呼び出し、人質の奪回方法を協議した。ここで信長は、村重の差し出している人質と右近の人質を交換することを提案し、同時に、もし右近の人質が処刑された場合、それが右近の逆心や野心によるものではない旨を京都と堺に掲示させて右近が名誉を失墜しないように取り計らうことや、宣教師の望みを聞き入れて彼らの布教を助ける、などの条件を提示した。 これを聞いた高山父子は「人質さえ取り返せばただちに信長につくので、摂津への進撃は4、5日待ってくれ」と答えた(時系列から、信長が高槻の安満に布陣する前と思われる)。信長は、事を急がすためには宣教師たちを捕らえ、それを高山父子に知らせるのが得策だと考え、ジョアン・フランシスコ、ロレンソ了斎ほか2名を近江へ連行するよう命じた。 オルガンティノもこれに合わせ、ロレンソに「もはや現世では会えないと信じているかのように別れを告げた、深い憂慮と苦悩に満ちた」書状をしたためさせ、自身も説得の書状を送った。 これらを受けた高槻城では荒木と荒木の家臣達への説得が続けられ、ついに「最初の領地以外は何も求めない」という条件で、信長に下る話がまとまる。しかし信長はこの条件を許さなかった。 オルガンティノの「人質の件が解決するまでは高槻の地を焼き払わないでほしい」という約束は受け入れたものの、11月9日、信長はついに自ら摂津へと出陣した。 翌10日、信長は、オルガンティノを含めた京都の教会の人間全てを召還し、全力を尽くして右近を投降させるよう命じた。「そうするなら教会をどこにでも建ててよいが、やらないなら宗門を断絶する」と言ったという(『信長公記』)。オルガンティノはまたもや高槻城に使者を送ったが、すでに城の周囲には荒木の手の者がうろついており、疑心暗鬼になっていた高山友照は聞き入れず、城に入ろうとする使者を全て殺すよう命じた。佐久間信盛が高槻のキリシタン武士達に1万6000石の成功報酬を約束したりもしたが、何の成果もなかった。 オルガンティノは「最大の憂慮と不安」に陥った。彼はこのままだと信長が五畿内のキリシタンを滅ぼすだろうと思っていたし、実際に京都の教会は村井貞勝の家臣によって監視されており、信長の命令ひとつで襲撃できる状態にあった。 とうとうオルガンティノは、自ら高槻城へ赴いて説得を行うことを決めた。たとえ失敗しても、これでできる限りの義務は果たしたことになると考えたのである。 先の通り、高槻城の兵が彼を殺すことが予想されたので、オルガンティノはロレンソと2人で信長の元から逃亡してきたように偽装し、高槻城に保護されることに成功した。城に入ってすぐ高山友照に会えたので、オルガンティノは偽装のことは隠しつつ彼に投降する意志があるかどうかを探ろうとしたが、何も得られず、右近には会うことすらできなかった。 この状況を信長に報告しようにも、監視を4人もつけられてしまい、もはやどうすることもできなかった。 万事休すかに見えたところへ、右近が家臣に説得されたとの知らせが入る。右近が見出した解決法は、人質とキリシタンの両方を救うため、剃髪して領地・俸禄・家臣全てを返上するというものであった。兵や城をもって信長に加勢するわけではないから人質は処刑されないだろうというわけである。 午後10時頃、右近は父への書状を残すと、この策については伏せたまま「オルガンティノとロレンソを逃がしてやる」という名目を装って家臣と共に城外へ出た。その場で右近は決心を語り、脇差で髪を切ってしまった。 家臣は驚愕して止めたが、右近は二刀・肩衣・頭髪を彼らに渡すと、服を脱いで下に着ていた紙の衣だけになり、オルガンティノ・ロレンソと共に信長のもとへ向かった。 残された家臣達は城へ戻り、友照も信長に投降させるにはどうすればいいかを話し合い、城の各所を占拠することにした。この間、友照はずっと眠っていたが、右近の残した書状を見せられると呆然とし、右近がいるはずの天守閣やその他各所が閉鎖されているのを見ると激怒した。 友照はひとしきり暴れた後、有岡城へ行き、人質の身代わりになることを申し出、許された。 11月16日、右近は信長の元に赴き礼を述べた。信長は喜び、右近に着ていた小袖と馬、および摂津・芥川郡を所領として与えた。 こうして高槻城は信長の軍門に降った。結局、友照と人質が処刑されることはなかった。 神呪寺城、鷲林寺城 有岡城の戦いは、有岡城とその周辺で行われた戦いだけではなく、六甲山脈でも行われていた。 毛利の援軍は来援しなかったが兵糧は補給し続けていて、当初は尼崎城に陸揚げされ有岡城に届けられていたが、次第に織田軍の砦が築かれると、尼崎ルートの補給路は使えなくなり、花隈城に一旦陸揚げした物資を神呪寺城、鷲林寺城や宝塚の洞窟に一旦保管し、その後夜間に昆陽野を横切り有岡城に運ぶルートを使っていた。 神呪寺城、鷲林寺城は三好長慶の時代越水城の支城となっており、この戦いの時は越水城が廃城となり有岡城の支城となっていたと考えられている。 当時の神呪寺(寺院が城のようになっていた)は現在より広範囲に寺院があったと思われ、池田市、豊中市、尼崎市まで眺望がきき、『郷土の城ものがたり』によると神呪寺城、鷲林寺城は烽火城(烽火のための砦)で織田軍の動きを烽火で知らしていたとも記している。補給路を断つためか、烽火城を潰すためかは不明だが、「御断わりも申し上げず曲事」(『信長公記』)と信長は激怒し兵を六甲山中や神呪寺城、鷲林寺城に向けた。この時の様子は「山々をさがし、あるいは斬りすて、あるいは兵糧その外、思い思いに取り来ること、際限なし」(『信長公記』)と記されている。略奪を繰り返し、神呪寺城、鷲林寺城以外の補給基地となっていた六甲山系の寺院も発見され焼かれていった。
2024年10月31日
コメント(0)
鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年 天正9年(1581年)、秀吉は、3月に上洛して清水寺(京都市東山区)で京都所司代の村井貞勝や堺奉行の松井友閑らと能楽を楽しむ酒宴を催し、その後中国戦線にもどって因幡に転戦し、6月より因幡守護山名豊国の居城であった久松山の鳥取城(鳥取市)を攻略した。 鳥取城は前年、東からは秀長と宮部継潤の軍、南からは秀吉の軍が攻め入って包囲され、豊国は因幡一国の安堵を条件に開城をせまられたが、降伏に激しく反対する森下道誉や中村春続らの家臣団と対立し、単独で秀吉に投降した。家臣団は豊国を見限り、毛利家に対して、山陰地方での声望高く城兵をまとめる求心力をもつ存在として吉川氏の派遣を希望した。当主吉川元春は石見福光城(島根県大田市)の城主で一族の吉川経家の派遣を決定した。 天正9年7月には、宮部継潤が塩冶高清のまもる雁金城(鳥取市)を攻撃し、塩冶は丸山城(鳥取市)に逃亡した(雁金城の戦い)。包囲された鳥取城は、山陰地方における毛利方の難攻不落の要塞であったため、秀吉は後世「鳥取の渇殺し」と呼ばれる兵糧攻めを採用した。先述した穀物買い占めにともなう価格上昇により、鳥取城中の貯穀さえ売り出す者がいたといわれている。 秀吉は、鳥取城の周囲に深さ8メートルの空堀を全長12キロメートルにわたって築き、塀や柵を幾重にも設けて櫓を建て、夜間も入念に監視させたうえで河川での通交も遮断した。 そのうえで、昼夜の別なく鐘や太鼓、鬨(とき)の声をあげさせ、不意に鉄砲や火矢を放つなどして城内の不安を煽り、また、多数の商人を集めて城外で市を開かせて衣食にかかわるものを売買させ、芸人を呼び集めて盛大に歌舞音曲をおこなうなどして城内の厭戦気分の醸成に努めた。 9月16日、鳥取への兵糧補給における水上交通の要地、因幡千代川(湊川)河口の海戦において、細川藤孝の家臣松井康之が毛利水軍を破り、敵将鹿足元忠を斬った(湊川口の戦い)。 これにより、鳥取城は完全に食糧を絶たれ、水、草木、城内の犬・猫・鼠まで食い尽くし、死者の肉まで奪い合う修羅場となった。10月24日、毛利氏は秀吉方に丸山城を開城、翌25日は鳥取城も開城した。開城交渉では、自らの生命に代えて城兵の助命を主張する経家と、経家を生かして森下・中村の切腹で充分と考える秀吉との意見がかみあわず、結局、経家と城内の有力な将士がそろって自害した(鳥取城の戦い)。切腹に際し、経家は「日本二ツの御弓箭の境(日本をふたつに分けるような重大な合戦の節目)において切腹に及び候事、末代の名誉たるべしと存じ候」と記した遺言状を故郷の石見に書き送っている。 秀吉はその後すぐさま伯耆に出兵し、羽衣石城の南条元続を救援しようとしたが、吉川元春は馬ノ山(鳥取県湯梨浜町)に布陣し、全面対決も辞さない構えを示したため、秀吉はいたずらに激戦して多数の将兵を損耗する事態を避け、羽衣石へ兵糧・弾薬などの補給をおこなったうえで、10月28日に全軍に早期撤兵を命じた(馬ノ山の戦い)。 この年、秀吉は毛利氏の前線基地としての機能を担っていた淡路の平定にも乗り出している。11月中旬、秀吉は自ら池田元助と共に淡路に渡って、安宅清康を由良城の戦い(兵庫県洲本市)で破り、つづいて11月15日の岩屋城の戦い(兵庫県淡路市)に勝利して、最終的に淡路の制圧に成功し、播磨灘の制海権をにぎった。岩屋城を生駒親正にあたえ、淡路国全体の支配は仙石秀久に委ねた。なお、安宅清康の服属により、安宅氏の勢力圏内であった小豆島も信長政権に帰属することとなった。 この年はまた、但馬で国人一揆がおこっているが、秀吉は配下の藤堂高虎を派遣して但馬一揆を平定している。領国経営の面では、秀吉は播磨国内に城割命令を発して、かつての守護家の居城であった置塩城を廃城とした。破却された置塩城の建物や部材、石垣は自身の本拠地である姫路城に運び込まれた。 なお、前年からこの年にかけて、毛利氏と宇喜多氏の戦いが備前・備中・美作の各地で繰り広げられていた。 そのうち最大の戦いとなったのは8月の八浜合戦(岡山県玉野市)である。この年(天正9年)2月に直家が病死し、1年間死が伏せられた中での戦闘であったが、毛利主力は備前児島に兵を進め、麦医山(玉野市大崎)に拠る穂井田元清(輝元の叔父)に援軍を送って激しい戦いとなったが、村上水軍を動員した毛利氏によって宇喜多勢は総崩れとなって退却した。 毛利氏の服属と中国国分 講和後の秀吉は6月13日の山崎の戦いで光秀を撃破、翌天正11年(1583年)3月にはかつての同僚柴田勝家と対立して賤ヶ岳の戦いで闘うこととなった。その際、輝元は秀吉・勝家の双方から同盟を申し込まれたが、中立を保っている。 賤ヶ岳戦勝後の5月、秀吉は、東海・北陸地方での戦果と旧武田氏領をのぞき信長の旧版図が秀吉の支配下にはいったことを小早川隆景に書面で報じ、輝元が自分に従う覚悟をするなら、「日本の治、頼朝以来これにはいかでか増すべく候や」と述べ、信長から自立した独自の政権づくりによって天下一統を推し進めていく抱負を示した。 秀吉は、領国割譲に関する毛利氏側の要請をいれて西伯耆・備中高梁川以西を毛利領として画定した。天正11年8月、毛利氏もこれを受諾して人質を秀吉に送ったことで境相論は解決し、中国国分がなされた(その直後、秀吉は大坂城築城を開始している)。 毛利氏はこれにより中国地方9か国を有する大大名となった一方、秀吉政権に服属することとなった。しかし、天正12年(1584年)3月、秀吉は宇喜多秀家に対し毛利氏への備えを命令しており、必ずしもすべての警戒を解いたものではなかった。 天正12年12月末には、秀吉は、輝元の娘を養子の羽柴秀勝に娶せ、毛利氏とのあいだに縁戚関係を結んだ。天正13年(1585年)正月、秀吉は毛利氏との境界画定交渉により領土について大幅に譲歩し、南海道方面での協力を要請した。 同2月には、小早川隆景にみずからの3月の紀伊攻めの意向を報じ、分国中のすべての警固船を和泉岸和田に集結している。この後、毛利氏は、羽柴秀長を総大将とする紀州攻め、四国攻めに協力した。同時に秀吉政権に深く組み込まれることとなり、秀吉は天正14年(1586年)、輝元に毛利領内の城割(城の破却)を命じている。 歴史的意義 本能寺の変によって、中国攻めは中断され、中国地方の平定は賤ヶ岳の戦いののちの羽柴・毛利間の同盟成立にまで持ち越されることとなった。この同盟は、毛利輝元が羽柴秀吉に服属するかたちをとり、以後、毛利氏は秀吉政権下における西国屈指の大名として秀吉政権を支える存在となった。 中国攻めにおいて秀吉は、「三木の旱(ひ)殺し」、「鳥取城の渇(かつえ)殺し」、「高松城の水攻め」など、攻城戦の名手として、その才覚をいかんなく発揮した。主君信長も「侍ほどの者は筑前にあやかりたく存ずべし」と評するほどであった。 鳥取城攻囲戦において秀吉は、若狭の商人らに命じて若狭や山陰地方の米を時価の倍近い高価格で買い占め、やがて鳥取城内に備蓄された米さえ買い上げている。 こうした大規模な経済的措置を講じたうえで、鳥取城には兵のみならず邑美郡・法美郡一帯の男女も立てこもるよう仕向けた。ここには一種の近代的な経済戦の要素さえみてとれる。 高松城の水攻めは、「空前絶後」の「奇策」であり、秀吉の特異な戦法として世に知られる。秀吉は無益な人的損耗を避けるため、綿密な地勢研究の結果にもとづいてこれを決意し、人民に経済的報酬をあたえることによって、全長4㎞弱におよぶ堤防をわずか12日間で築成し、かけつけた毛利勢の主力からの援助を不可能にしている。 こののち、秀吉は小牧・長久手の戦いにおける竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)や紀州攻めの際の太田城(和歌山市)でも水攻めに成功しているが、他に成功例は少なく、小田原征伐における石田三成の武蔵国忍城(埼玉県行田市)攻めは、むしろ失敗している。 安井久善によれば、元来、水攻めは、「天・地・人のあらゆる条件」が整ってかろうじて成功の可能性が生まれるのであって、それを決行して成功させたのは秀吉の卓越した戦略・戦術および統率力によるものであろう、としている。 それに先だつ三木城攻めは、落城に2年の歳月を要する長期戦となった。石山戦争の主将であった佐久間信盛は石山本願寺への緩慢な攻めを咎められ、のちに信長によって高野山に放逐されている。 秀吉は、そうした主君の性格をわきまえ、常に安土城との連絡を緊密にし、必要な場合は信長に会見して指示を仰ぎ、あるいはみずからの所説も述べている。また、摂津有岡城の荒木村重の一族に対する過酷な処遇に対し、播磨三木城落城後の別所一族やその家臣に対する秀吉の処遇はきわめて寛大なものであった。秀吉に内通するという申し出があったため、秀吉が兵1,000名を遣わすと突然裏切ってその兵すべてを殺したという別所長治の家臣中村忠滋さえ許し、戦後はみずからの家臣に取り立てている。 このような、戦後処理の巧みさ、人心収攬の巧みさもまた秀吉の声望を高めた。宇喜多・南条の両氏が毛利方から離反したのも、三木城攻囲戦下の秀吉の調略によっている。 織田政権全体からみた中国攻めは当初、石山本願寺との戦争と並行して進められた。その際、重要な役割をもったのは和泉の貿易港堺であった。堺港を独占的に掌握した信長は、南蛮貿易によって利益を得るとともに、いわゆる「大鉄砲」と呼ばれる新式火砲の導入・国産化を進め、両戦争に大きな影響をあたえた。それにともなって新しい攻城術も採用された。 石山合戦において織田勢は陸路においては本願寺を完全に封鎖したものの、強大な動員力・戦闘力をもつ毛利水軍の力に兵糧・兵員の輸送を遮断することができなかった。信長による九鬼水軍の創設によって本願寺の抗戦を終息させることに成功したことは、秀吉をふくむ信長配下の諸将の戦略や戦術にも大きな影響をあたえ]、鳥取城包囲戦の際にも、細川藤孝が丹後から船で兵糧を運び、あわせて毛利氏からの糧道を断つ作戦が採られて、鳥取城を孤立に追いこんだ。水軍の重要性を認識した秀吉は、毛利に属していた村上水軍の切り崩しに尽力し、戦略上重要な淡路島の制圧を急いだ。毛利との講和成立後は、毛利水軍は紀州攻めや四国攻めに動員されたほか、秀吉の組織した上方水軍が九州征伐や小田原征伐において果たした役割もまた大きかった。 中国平定ののち、秀吉は宇喜多・毛利の両氏を重視して西国政権としての基盤を固め、関白への任官や惣無事令の発布など朝廷を利用することによって西国を本拠とする全国政権として天下統一を達成した。 秀長が山陽方面に出動しなければならない事態にあっては、かれの代理として全体の指揮を執ったのは宮部継潤であった。継潤は近江出身で延暦寺の山法師であった経歴をもち、天正8年の山名氏討伐後は但馬豊岡城主として2万石を領した。鳥取城攻めでは最前線にあって吉川元春軍とも戦った。 継潤にしたがったのは、荒木村重離反の際に村重の小姓から秀吉に転仕した荒木重堅(のちの木下重堅)、但馬平定を通じて羽柴方にしたがった垣屋光成・豊続、出雲国出身で、かつて山中鹿介と行動をともにしてきた亀井茲矩などであり、山陰方面での毛利勢との戦闘に参加したものと考えられる[56]。継潤は、天正10年、山陰での戦功が認められて鳥取城城代となった。また、本能寺の変時、鳥取城は毛利氏に攻撃される可能性もあったが、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと秀吉勢の主力が中国路を離れている間も、城代に任じられ続けたことから秀吉の信頼の厚さがうかがえる。谷口克広は、「この仕事は地味だけれど、秀吉をして心置きなく畿内で活躍させるための大きな力となったはずである」と述べ、そのはたらきを評価している。
2024年10月31日
コメント(0)
別所長治・荒木村重の離反 /天正6年 天正6年(1578年)1月、毛利輝元は大軍を上月城に派遣した。毛利方では、先述のように3ルートからの上洛作戦を策定していたが、上月城奪還から播磨進攻が得策であると小早川隆景が提案し、山陰道担当の吉川元春も合意して合流した。4月15日には輝元自身が軍を率いて備中松山城(岡山県高梁市)に陣をかまえ、吉川元春・小早川隆景の両将は、18日に6万余の兵を率いて上月城を攻め、堀や柵を設けて何重にも城を取り囲んだ。 秀吉からの急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、ついで滝川一益、明智光秀を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止され、ついで子息信忠・信雄・信孝を派遣した。先発隊として村重が到着すると、秀吉は村重と共に上月城の東方・高倉山に陣をしいたが、地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、毛利の大軍に歯が立たなかった。 この間、秀吉も信忠らも別所長治離反(後述)のため撤退せざるをえなくなり、7月5日、半年にわたる毛利氏の攻略によって上月城が陥落した。これにより、信長と同盟を結んでいた尼子勝久・尼子氏久が自害、山中幸盛も捕らえられ、輝元の本営である備中松山城への護送中に処刑された(第二次上月城の戦い)。こうして、一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願いむなしく滅んだ。 天正6年2月、三木城主別所長治が本願寺・毛利の側に寝返り、同年10月には荒木村重も本願寺法主顕如と盟約を結んで信長に離反した。調略手腕で短期間のうちに制した播磨であったが、長治の離反におよんで同調者が続出し、秀吉は敵国のなかに身を置く様相を呈するに至った。 長治は秀吉が黒田孝高と共に中国進攻戦の先導役として最も期待した武将の1人であった。だが『別所長治記』によれば、長治離反の理由を、加古川城(兵庫県加古川市)での軍議に参席した長治の名代の意見が容れられなかったために、不満をもった家臣が長治に謀反をすすめたからであると説明している。 これらの動きに呼応して毛利水軍の600余艘が本願寺への大量の兵糧米を積載して木津川の河口へ向かった。信長は先の大敗の経験に学んで急遽志摩の九鬼嘉隆に6艘、伊勢の滝川一益に1艘の装甲をほどこした大型の安宅船(鉄甲船)を建造させ、7月に和泉の堺に廻航させて海上封鎖にあたらせていた。 鉄甲船には、大砲3門が搭載されていたという。11月には、織田水軍と毛利水軍のあいだで海戦があり、九鬼嘉隆が敵船を引きつけて大将の船を大砲で撃破する戦法で毛利水軍を敗走させ、毛利・本願寺間の糧道の遮断に成功した(第二次木津川口の戦い)。なお、これに先だつ3月13日には信長包囲網の一画を占めていた越後の上杉謙信が春日山城(新潟県上越市)で死去している。 いっぽう陸上では、3月末に別所長治とのあいだで三木合戦がはじまり、長治に呼応する播磨国内の諸勢力とのあいだで戦闘に入った。秀吉は播磨屈指の名刹として知られていた書写山圓教寺(姫路市)を陣所と定め、先に派遣されていた信忠らの援軍を得てただちに三木城を包囲、4月には野口城の戦い(加古川市)で長井政重を、6月末には神吉城の戦い(加古川市)で神吉頼定を討った。 5月には尼子救援のため兵をいったん上月城に差し向けて熊見川(千種川)では毛利勢と戦ったが、信長は6月の中国方面での戦況報告を受けて上月城救援を諦め、三木城攻めを優先すべきことを秀吉に厳命した。 この間、4月には、小寺政職が小寺氏と別所氏は元来ともに赤松氏の流れを汲む同族であると称して美嚢郡・飾東郡・印南郡などの一族を呼集して御着城に立てこもった。小寺家の家老であった黒田孝高は家臣の多くを味方につけて秀吉にしたがい、7月、政職はこれに敗れて逃走した。 上月落城後、秀吉は8月の櫛橋伊定とのあいだの志方城の戦い(加古川市)、10月の梶原景行とのあいだで高砂城の戦い(兵庫県高砂市)によって三木城の孤立化をめざし、播磨の再平定に努めた。この過程で、別所方についた姫路の鶏足寺(現在は廃寺)は秀吉によって焼き討ちにあっている。 また、上月落城後の毛利氏では、小早川隆景がその勢いで山陽道を東上する作戦を主張し、鞆の義昭も本願寺支援のため三木城救援を求めた。 しかし、吉川元春は但馬国人衆の入国要請を理由に但馬へ去ったため毛利勢の東進は中止、山陽方面からの進攻計画は頓挫したが、播磨沖の制海権をにぎっており、海上からの三木城への兵糧補給は継続された。 こうした中の10月に荒木村重も離反するが、義昭が摂津花隈城(神戸市中央区)に重臣を派遣して説得に努めた結果であったという。摂津有数の大名であった村重は、明智光秀などと共に石山本願寺攻めの際には先鋒にあたったが、大坂方面軍司令官の地位を佐久間信盛に奪われ、中国方面軍の司令官の地位もまた秀吉に奪われ、さらに信長の側近長谷川秀一の傲慢無礼な態度に耐えかねて将来に望みを失っていたのではないかと推定される。秀吉は、村重とは旧知の間である黒田孝高を有岡城に派遣して村重の翻意を促したが、逆に孝高が村重に捕らえられ幽閉された。 また、それまで秀吉に加勢して三木城攻略にあたっていた信忠は、急遽村重への対応に迫られて摂津へ出向いたため、秀吉はこの後僅か8,000の手勢でほぼ互角の7,000人が守る三木城を包囲しなければならなくなった。この年の6月13日には陣中で竹中重治を失っていたので、秀吉にとっては軍監2人を欠いての攻囲戦となった。秀吉は城の周囲に柵や塀を幾重にも構築して城兵の動きを封じた上で、30以上もあるという三木城の支城を各個撃破する戦略を採用した。 村重は毛利氏・本願寺と組んで謀反を起こしたものの、毛利水軍の木津川口での敗走と、それに続く11月16日の高槻城(大阪府高槻市)主高山右近、11月24日の茨木城(大阪府茨木市)主中川清秀の2人の配下の降伏によって孤立の度合いを深め、有岡城に籠城して織田軍に抗した(有岡城の戦い)。 宇喜多・南条の帰順と有岡落城 /天正7年 詳細は「有岡城の戦い」を参照 この年前半、秀吉は、2月の播磨平井山の戦い(三木市)で長治の叔父別所吉親と、5月の摂津丹生山・淡河の戦い(神戸市北区)では明要寺の衆徒、および淡河定範と闘った。 前年の別所長治・荒木村重の寝返りは、毛利軍の東上を期待してのものであった。それまでも毛利は両氏に援軍を送っていたが、天正7年(1579年)正月にも救援軍の派遣を決定し、甲斐の武田勝頼と同時に信長を挟撃する予定を立てていた。しかし、信長は豊後の大友義鎮(宗麟)と親交を結んで毛利の背後を脅かすことに成功し、正月、毛利氏の重臣で豊前松山城(福岡県京都郡苅田町)の城主であった杉重良が大友側に通じて北九州で挙兵し、これにより毛利勢の東上は阻まれた。 また、美作川上郡の高山城(岡山県高梁市)の城主草刈景継も信長方への寝返りが露見して吉川元春によって成敗された。なお、信長は11月、宗麟の子大友義統に対し、毛利氏支配下の周防・長門をあたえるとの朱印状を出している。 同年、織田・毛利間にあって帰趨の定まらなかった伯耆東部羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町)城主南条元続が9月に、毛利氏と同盟関係にあった備前の宇喜多直家が10月に信長に服属した。南条と宇喜多は連携して毛利に対することを盟約したのである。この調略の過程で、同年9月に秀吉は直家の帰順によって信長に朱印状をあたえるよう要請したが、信長は許可せず、かえって秀吉の専断を叱責して、播磨に帰らせるという事態も生じている。 また、堺の豪商の家に生まれた小西行長は当時直家に仕えていたが、織田方への内通には行長のはたらきかけがあったともいわれている。直家の寝返りによって備中・美作両国はそれまでとは一転、宇喜多・毛利両氏の抗争の場となった。この年、直家は毛利氏と結んでいた三星城(岡山県美作市)の後藤勝基を攻め滅ぼしている。 こうして、敵対勢力を近くにかかえることとなった毛利氏は援軍を派遣することが困難となり、長治・村重はともに孤立の度を深めていった。 9月2日、村重は現状打開のため有岡城を出て嫡子荒木村次のまもる尼崎城(兵庫県尼崎市)に移った。 有岡城攻めの総大将をつとめた信忠は、軍を対有岡城・対尼崎城の2つに分け、滝川一益が双方に調略して織田方への離反を誘った。信長はこのとき、次男信雄にも伊勢の兵を率いて出陣するよう命じたが、信雄は武士や百姓にとって負担であると考え、かわりに隣国伊賀に攻め込むことで取り繕おうとして敗戦し、信長からきびしい叱責を受けている。 10月15日、織田軍は有岡城総攻撃を開始し、守将荒木久左衛門に対し尼崎城・花隈城(神戸市中央区)を明け渡すならば本丸の一門・家臣の命を助けると呼びかけ、久左衛門は10月19日、有岡城を開城した。開城に際しては、村重翻意のために秀吉によって派遣され、そのために有岡城内に抑留されていた黒田孝高が1年ぶりに救出された。しかし村重自身は毛利輝元のもとへ逃れ、久左衛門も失踪したため有岡城の人質助命は反故にされた。 信長は、戦後の12月、有岡城の人質全員の処刑を断行した。村重の一門は京都六条河原で斬首、重臣の妻子は尼崎近郊で磔刑に処せられ、その他510名余は枯れ草を積んだ家屋に閉じ込めて焼き殺すという残酷な報復であった。 いっぽう別所長治との三木城攻囲戦は、秀吉によって兵糧攻めが採用され、これは後世「三木の旱殺し」とよばれた。 村重方の花隈城から丹生山の砦(神戸市北区)と淡河城(神戸市北区)を経て三木城へと達する補給路は、5月、両城砦が秀吉によって落とされたため、機能しなくなった。また、この年の9月10日には毛利方の生石中務少輔とのあいだで兵糧の補給路をめぐる平田砦の戦い(三木市)が起こっており、これは、三木合戦のなかでは最大の激戦となった。 山陰方面では、前年より明智光秀が丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻略しており、この年の6月、敗れた波多野秀治・秀尚の波多野兄弟は磔刑に処せられた。 7月初旬から8月上旬にかけては細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長・明智秀満らの諸将を加えた光秀軍が第二次黒井城の戦いで勝利して赤井忠家を破り(荻野直正は前年に死去)、10月、丹波・丹後両国の平定をほぼ成し遂げた。これにより丹波は明智氏、丹後は細川氏の領国となり、山陰道からの毛利勢の東上路はふさがれることになった。 三木落城と播磨・但馬の平定 /天正8年 前年の平田砦の戦い以降、孤立無援となった別所方では兵糧が欠乏して三木城内からは餓死者が出はじめた。天正8年(1580年)1月、正月であるにもかかわらず城内から煙がたたないのを見た秀吉は、1月6日早朝、三木城の背後の八幡山への攻撃を開始した(鷹の尾砦の戦い)。八幡山には、三木城を南から見下ろす鷹の尾砦があり、長治の弟別所友之(彦進)が詰めていた。 秀吉の攻撃に対し300余名が抗戦したが、充分な食糧のない兵は充分な武具も付けずに戦わざるをえなかったため、多くは討死に、老将36名は自害して砦は失われた。 1月17日、丸裸になった三木城は陥落し、別所長治、弟友之、叔父吉親が城兵助命を条件に自害して、2年におよぶ三木合戦が終わった。なお、それに前後して、別所氏に与力していた魚住城(明石市)・高砂城(高砂市)・御着城(姫路市)も陥落している。 なお、秀吉は天正13年(1585年)、長治の叔父別所重宗に但馬城崎城(兵庫県豊岡市)1万2000石をあたえている。 いっぽう、大坂では閏3月5日に信長と顕如とが正親町天皇の勅命によって和睦し石山合戦が終了して、中国戦線にも転機がおとずれた。戦後、顕如は紀伊雑賀(和歌山市)に去り、信長は摂津・和泉の両国で国内諸城の破棄(城割)を命じている。しかし講和に反対した顕如の子教如は、大坂に残って諸国に檄を発して一向宗門徒の再挙をはかった。 教如の蜂起に対しては、足利義昭は毛利輝元、小早川隆景に対して「新門跡」(教如)を支援するよう命じており、教如も義昭に謝意を表明していることから、両者が提携していたことはほぼ確実視される。しかし、その教如も形勢不利とみて7月に信長と和睦した後、本願寺に火を放って雑賀に退去した。 東播磨およびその東方が安全となった秀吉は、閏3月29日から4月24日まで、播磨一向一揆の拠点であった英賀城(姫路市)を攻略してここを占拠、引き続いて赤松氏の一族宇野政頼・宇野祐清父子の立てこもる長水山城(宍粟市)も落城させて一揆を解体、播磨を再び平定して、その支配を強化した。 4月からは信長の命によって播磨の検地をおこない、手狭になった姫路山の近くに新城を築いて居城(姫路城)とし、浄土真宗の寺内町だった英賀から町人・百姓を呼び寄せて、城下町を整備した。以後、秀吉は播州姫路を拠点に毛利氏との直接対決を迎えることとなった。 6月には、宇喜多直家と連合して美作攻略を開始し、枡形城の城主で毛利方の福田盛雅が守る祝山城(医王山城とも。岡山県津山市)を攻めた(祝山城の戦い)。かつては浦上宗景の被官で、当初は毛利氏と結ぶことによって備前国内での勢力を伸張させた宇喜多直家は、今や織田方の先鋒となって山陽地方における毛利氏の前線を切り崩していった。 山陰方面では、朝来郡の竹田城を根拠として秀長部隊を主力とする羽柴勢によって但馬攻略が本格的に再開され、5月16日、山名堯熙の守る有子山城(兵庫県豊岡市)が落城した。その父で但馬守護山名祐豊はその中で死去、5月21日には山名氏の本城出石城(豊岡市)も落城した。 これにより但馬は再び平定され、秀長には出石城があたえられた。同月、因幡にも侵攻し、第一次鳥取城攻めがおこなわれたが、その際、鳥取西方の鹿野城(鳥取県鳥取市)も攻略された。戦後、秀吉は因幡進攻計画を練り直して若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせた。これにより、穀物価格は急騰したという。 なお、この年の8月、信長は本願寺攻撃の責任者であった佐久間信盛を砦にこもって無為に過ごしたとして、「武篇道ふがいなし」と断じ、高野山に追放した。いっぽうで、明智光秀・羽柴秀吉・池田恒興のはたらきについては「天下の覚え」「天下の面目」と激賞した。また、戦国時代史の研究者谷口克広は、羽柴軍が「中国方面軍」へと昇格したのは、播磨・但馬を統一した天正8年とみるのが妥当ではないかとしている。
2024年10月31日
コメント(0)
信長包囲網の形成と毛利の播磨進攻 中国攻め以前の織田・毛利関係 織田信長と毛利氏の当主・毛利輝元は阿波を本拠とする三好氏に対する牽制の意味もあって、但馬や播磨・備前のあたりを互いの緩衝地帯として、たがいに友好関係を保持してきた 。 信長は、上洛以来瀬戸内海東部の制海権の掌握をめざし、それを阻む三好三人衆や石山本願寺とはしばしば戦ってきた(野田城・福島城の戦い)が、他方で瀬戸内海の西部海域を掌握していた毛利氏・小早川氏を敵にまわさないよう気を配ってきたのであった。しかし、一方で信長は天正3年(1575年)、大友氏・島津氏ら九州地方の諸大名を講和させて毛利氏の背後に圧力を加えようと企図し、関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に下向させている。 天正3年8月、信長は明智光秀・羽柴秀吉を先鋒に、自らも出陣して越前府中(福井県武生市)を攻めて越前一向一揆を壊滅させ、加賀能美郡・江沼郡も制圧して、9月に越前北庄(福井県福井市)に北庄城を築き、後事を柴田勝家に託した。 これは、石山本願寺にとっては大きな痛手となった。そして、天正元年(1573年)に室町幕府最後の将軍足利義昭を京より追放し、越前を平定した後の信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的にも、経済的にも西国の平定となったのである。 越前制圧の直後、信長方の摂津有岡城(兵庫県伊丹市)主荒木村重は西播磨の豪族から人質をとり、謀反を起こした宇喜多直家と交戦中であった備前の浦上宗景を援助して宗景の居城天神山城(岡山県和気郡和気町)に兵糧を入れ援助したが、天正3年9月に宗景は直家に敗れて備前を追われた(天神山城の戦い)。 浦上宗景の敗退によって毛利氏に与する宇喜多直家が備前の支配権を奪取し、これにより毛利勢力の東進による織田氏との直接の衝突が現実味を帯びた。信長は天正3年10月、播磨の旧守護家赤松氏の配下であった御着城(兵庫県姫路市)の小寺政職や、三木城(兵庫県三木市)の別所長治、龍野城(兵庫県たつの市)の赤松広英、直家によって失領した宗景らが上洛して信長に出仕した。 一方、山陰地方では信長が毛利方との約束に反して、それ以前から尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らの挙兵をひそかに支援していたことから事態は転変を繰り返した。 天正2年(1574年)に尼子勢が因幡で挙兵して、私都城(鳥取県八頭郡八頭町)、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)を攻めて鳥取城(鳥取市)の城主山名豊国に危険がせまったため、豊国の伯父で信長に取り立てられていた但馬の有子山城(兵庫県豊岡市)城主山名祐豊が豊国救援のため毛利方に走った。しかし、丹波の黒井城(兵庫県丹波市)城主の赤井直正(荻野直正)が但馬国内へ侵入したため、祐豊は再び信長方に転じた 天正4年(1576年)2月、義昭は紀伊興国寺(和歌山県日高郡由良町)から毛利氏の支配する備後国鞆の浦(広島県福山市)に移った。これは、必ずしも毛利氏の歓迎するところではなかったが、義昭はさかんに輝元らに対し信長に敵対するよう働きかけた。義昭はそれ以前から征夷大将軍として御内書を出して各地の大名の糾合を呼びかけ、信長包囲網(第3次)の形成に努めた。その結果、長らく信長と対立していた本願寺や武田氏のみならず、備前国の宇喜多直家などがこれに参加した。 こうした動きは、信長傘下の諸勢力にも少なからざる動揺を与えた。信長は天正3年秋より光秀に命じて丹波攻めを本格的に開始し、光秀は丹波の国人のほとんどを味方につけて赤井忠家とその叔父である直正の立てこもる黒井城を包囲して兵糧攻めにして落城寸前にまで追いこんでいたが、天正4年初頭、突如として丹波国人の1人で八上城(兵庫県丹波篠山市)主波多野秀治が裏切り、光秀は総退却を余儀なくされた(第一次黒井城の戦い)。前後して、いったんは織田氏に与力した但馬の山名祐豊が天正3年末、またも信長に叛旗をひるがえした。 信長包囲網と織田・毛利の激突 天正4年4月、信長が村重、藤孝、光秀、直政に命じ、一向一揆の拠点である摂津の石山本願寺(大阪府大阪市)攻めを開始して石山合戦(第4次)がはじまるに至って織田氏の強大化に危機感をいだいた毛利氏は、淡路北端の岩屋城(兵庫県淡路市)を占拠し、本願寺に兵糧や弾薬を搬送するなどの救援に乗り出し、信長包囲網の一画に加わった。『毛利家文書』には、石山本願寺を支援するにあたっての毛利家内の軍議の内容を伝える史料がのこっており、それによれば、織田氏との関係を和戦両様で検討したことがうかがい知れる。ここでは、信長と合戦にならなかった場合、 宇喜多直家が信長に吸引され、毛利方の者まで手なずけられ、信長が強勢となって当方を攻めてきたとき、どうするのか。 鞆にいる足利義昭をどうするのか。 毛利氏に同盟する諸勢力の結束をどうするのか。 が衆議にかけられ、また、信長と合戦になった場合、合戦の間じゅう、上下の結束が維持できるのか。 旧尼子勢力圏の出雲・伯耆・因幡を制圧しうるかどうか。 宇喜多直家の心をつなぎとめうるかどうか。 だが、検討された。毛利方は、評定をひらいたうえで慎重に審議した結果、義昭の懇請に応じて本願寺支援の決断を下したのであった。 この輝元の決断は島津氏はじめ九州地方の諸大名、伊予の河野氏、越後を本拠とする上杉謙信、甲斐の武田勝頼などにも伝えられた[9]。義昭はそのあいだも政治工作を進め、謙信・勝頼に対して、輝元と協力して信長を討つことを命じている。 5月には謙信が本願寺法主顕如(本願寺光佐)との間に加賀一向一揆との和睦を成立させて反信長に転じ、6月には謙信は輝元からの口添えもあり、武田氏・北条氏との和睦を受諾した。なおこの頃、輝元と直家の和議が成立したがこれを仲介したのは鞆にいた義昭であった。 毛利氏は紀伊の雑賀衆と連携し、天正4年7月の第一次木津川口の戦いで織田氏に対し最初の戦闘をしかけた。児玉就英ら毛利氏警固衆、乃美宗勝ら小早川水軍に因島・能島・来島の各村上氏を加えて淡路の岩屋に集結し、宇喜多氏の加勢も得た毛利水軍の兵糧船600艘と警固船300艘は、和泉貝塚(大阪府貝塚市)に回航して雑賀衆の新手と合流して北上した。 また、木津川の河口で焙烙玉を用いた攻撃などによって織田水軍の安宅船10艘、警固船300艘を破り、数百人を討ち取るという大勝利を収め、織田氏の海上封鎖を破って石山本願寺に兵糧米をとどけることに成功した。この時、摂津・和泉の門徒も毛利方に加勢している。 かくして義昭の働きかけは結果としては大成功を収め、本願寺・毛利・上杉を主とする信長包囲網が成立した。しかし、これは、三者がそれぞれ信長の勢力拡大に直面して危機感をおぼえ、自ら生き残る道を求めたためであって、かならずしも義昭の期待する幕府再興をめざしたわけではなかった。 たとえば、越中を掌握しつつあった謙信が天正4年に信長包囲網に加わったのは、前年に信長軍が越前・加賀を侵攻したからであり、輝元にしても、信長が山陰で尼子氏再興の動きを援助し、備前・播磨の浦上・別所・小寺の各氏を取り込んだことに危機感を募らせたからだったのである。 ただ、本来動機の異なるかれらが大同団結するためには大義名分が必要だったことも確かであり、輝元は将軍の命令に服して義昭公入洛のために馳走するという起請文を発して謙信・勝頼の出馬を要請したのである。 謙信はいちはやくそれに呼応して上洛の軍を発する旨を返答したが、天正3年の長篠の戦いで壊滅的な敗北を喫した勝頼にはすでに大軍を動かす余力はなかった。ただし、小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏とは講和して背後を固めた。8月、北条氏もまた、真意は別として義昭の呼びかけに応える構えをみせた。 毛利勢の東進 信長と断交した後の毛利氏は、山陽道から東進して上洛するルート、山陰道から京都の背後にせまっていくルート、そして、海上から和泉あるいは摂津に上陸するルートの三方面からの進攻作戦を考えていた。山陰道・山陽道のルートはそれぞれ輝元の2人の叔父吉川元春・小早川隆景が担当になった。 天正3年の時点で毛利と同盟を結んでいた直家が浦上宗景の所領をほぼ掌握し備前より東への東征が可能になると、天正4年に毛利氏は播磨に侵入して上月城(兵庫県佐用郡佐用町)に兵を進めた。こうして、毛利勢の播磨侵攻の機が熟した。同月、信長の紀州攻めに播磨三木城の別所長治が従軍したことで播磨方面での軍事的均衡が崩れ、これが毛利勢東進の直接のきっかけとなった。3月、宇喜多直家はじめ備前・美作の兵が国境を越えて播磨に進入し、龍野城主赤松広英を毛利方に寝返らせている。 4月から5月にかけては、毛利氏は上月城を前線にして姫路(兵庫県姫路市)へ兵を進めた。4月、海上からも室津(兵庫県たつの市)に上陸し、英賀(兵庫県姫路市)から姫路をめざした。英賀は播磨の一向宗門徒の中心地で、毛利勢はここにも軍事拠点を設けていた。 この間、小早川隆景は備中笠岡(岡山県笠岡市)に進出して本陣をおき、当主輝元は安芸三原(広島県三原市)に本営を構えた。毛利勢は、姫路で御着城主小寺政職によって撃退され、いったん上月に退却した(英賀合戦)。 この時、政織の家臣小寺官兵衛(黒田孝高)のめざましい活躍は自家の家運をひらく端緒となった。なお、黒田孝高の居城姫路山城(兵庫県姫路市)は後に秀吉に献上され、孝高自身も中国攻略戦のなかで秀吉に重用されることとなる]。 備後の鞆にいた義昭は毛利勢を励まし、謙信に越前進攻を命じ薩摩の島津氏に援助をもとめた。義昭は7月7日付で村上左衛門大夫に、幕府奉行人奉書の形式を用いて摂津尼崎(兵庫県尼崎市)の土地を給与している。奉行人奉書は、管領奉書の替わりとなった将軍の公的な命令書(奉書)であり、この命令が最後の奉行人奉書となった。 天正5年7月、毛利勢は四国地方の讃岐・阿波へ侵入し、信長に服属した三好氏の勢力を攻撃した。戦後毛利氏と三好氏の間で交渉がなされたが、鞆にいた義昭の裁定により、三好勢が人質を差し出すことで講和が成立した。 中国攻め - 戦局の推移 羽柴秀吉の着陣 /天正5年 天正5年(1577年)、前年に能登に進攻した上杉謙信は、この年の閏7月に能登七尾城(石川県七尾市)を包囲した。信長は柴田勝家を大将にして、越前に所領をもつ前田利家・佐々成政などに加えて滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉らの精鋭を北陸地方へ派遣した。 この時、大和の松永久秀が謙信や輝元、本願寺などの反信長勢力と呼応して、石山戦争から離脱して大和信貴山城(奈良県生駒郡平群町)にたて籠もり、再び信長への対決姿勢を打ち出した。 『信長公記』によれば、信長は松井友閑を派遣して理由を問い質そうとしたが、久秀は使者に会おうともしなかったという。信長は嫡子織田信忠を総大将に筒井順慶の兵を主力とした大軍を送り込み、10月に信貴山城を包囲させて久秀を自害させた。一方、秀吉は勝家と意見が合わず、手兵をまとめて戦線を離脱し、居城の長浜城(滋賀県長浜市)に籠もったため、信長の逆鱗にふれたといわれる。 中国戦線においては毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は北陸戦線から離脱して謹慎していた秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始した。 秀吉は、天正4年7月の時点で信長より中国攻略を命じられていたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、ようやく播磨に入ったのである。秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家の家老黒田孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。 但馬では岩洲城(兵庫県朝来市)、ついで竹田城(朝来市)を攻略し、竹田城に弟の羽柴秀長を城代として入れた後播磨に引きあげた。もっとも、『信長公記』によれば、信長が秀吉に命じたのは播磨攻略で、但馬攻略については秀吉の独断であったとされている。 播磨では、秀吉は国中を巡って信長の旗下に入るよう促し、置塩城の城主で旧守護家当主の赤松則房ほか国人衆の多くを調略によって降伏させて人質をとり、1か月ほどで西播磨全域をほぼ支配下においた。 秀吉は播磨佐用郡を中国地方への前進基地として重要視し、竹中重治・孝高らを派遣して毛利方の福原助就を城主とする福原城(兵庫県佐用町)を攻略して陥落させた。 西播磨の豪族のなかでも、備前・美作国境に近い上月城の赤松政範は、容易に秀吉になびかず、毛利氏と結んでいた備前の宇喜多直家との連携を強化した。そこで11月27日、 秀吉は上月城に兵を進めて城の周囲に3重の垣を設け、攻守に備えた。これにより、赤松政範救援のために派遣された宇喜多勢を撃退し、12月3日に上月城を陥落させた(第一次上月城の戦い)。「西播磨殿」と呼ばれた政範はこの戦いで自害し、家老の高島正澄も殉死した。秀吉は城兵の降伏を許さず、ことごとく首をはね、城内の子供も処刑した。 その後、秀吉は山中幸盛に命じて上月城を守らせた。幸盛は勝久を奉じ、出雲・伯耆・因幡・美作などの牢人を率いて籠城した。この後、勝久と幸盛は宇喜多勢に攻められていったん撤退し、直家はこれを上月十郎景貞という人物に守らせたが再び秀吉軍によって落城し、景貞は敗走中に自刃したと伝わっている。 こうして秀吉は、織田方と毛利・宇喜多方の緩衝地帯の要素の濃かった播磨一国をわずか2か月で手中に収めた。この年の年末に近江国に帰った秀吉は、播磨・但馬平定の褒賞として、主君信長より自慢の茶器「乙御前の釜」を賜っている。
2024年10月31日
コメント(0)
3「戦いに至るまでの情勢」戦国時代の備中は守護の細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にあったが、なかでも台頭していたのは三村氏であった。三村家親は、出雲尼子氏に代わって西国の覇者となった安芸毛利氏に接近し勢力を西備前、西美作に広げたものの、備前浦上氏の傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、つづく備前の明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えた。のち直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ったが、その一人が清水宗治である。 備中兵乱(びっちゅうひょうらん)は、備中国内(現在の岡山県高梁市周辺)で起こった、備中の戦国大名・三村元親と毛利氏・宇喜多氏による戦いである(ただし、宇喜多氏の出兵はごく一部に限られ、事実上、三村氏対毛利氏の戦いであった)。この戦いの経緯を記した軍記物としては、成立年代不詳で三村旧臣が記したと考えられる『備中兵乱記』などがある。 兵乱以前の状況 戦国時代前期の備中国は小領主が入り乱れ、大内氏や尼子氏などの有力大名が地元の小領主を抱き込んで覇権を争っていた。 天文2年(1533年)、猿掛城主の庄為資は尼子氏と結び、備中松山城周辺を領有していた上野頼氏を破りここを拠点とした。その後、星田(現在の岡山県井原市美星町)から成羽(現在の同県高梁市成羽町)周辺を領していた鶴首城主の三村氏も備中の覇権を手にしようと、尼子氏と対立する毛利氏と結び、三村家親の代には庄氏を事実上追放して拠点を備中松山城へ移し、備中のほぼ全域と備前国の一部を手中に収めるにいたった、 ところが永禄9年(1566年)、三村家親が備前国の浦上宗景の被官・宇喜多直家によって暗殺された。永禄10年(1567年)、跡を継いだ子・元親は父の弔い合戦と称し約2万の軍をもって備前に進攻し明善寺合戦が行われたが、直家は元親を巧みに誘い出す戦術を採り、三村軍は5千の宇喜多軍に大敗した。 永禄11年(1568年)、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などはこの時に宇喜多側に寝返った。 更に機に乗じて宇喜多勢は猿掛城などを攻め落とし、これに危機感を覚えた安芸国の毛利元就は四男の毛利元清を遣わして猿掛城を奪還し、更に備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。この戦いで備中松山城をようやく奪還した元親は、同城に大幅に手を加えて要塞化した。 戦いの経過 天正2年(1574年)、毛利氏は山陽地方を担当する元就の三男・小早川隆景を介して、宇喜多直家と事実上の同盟を結んだ。これは、「宇喜多などは表裏の者であり到底信用できる相手ではない」「歴代忠孝を働いてきた三村家を蔑ろにするものであり、義から外れる行いである」と主張する山陰地方担当の元就二男・吉川元春らの反対を押し切ってのことであった。 この結果により、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏から離反し、織田信長と内通した。この判断に反対していた叔父・三村親成とその子・親宣は元親を見限って出奔した。 この年の冬、三村氏の離反に危機を感じた毛利輝元は隆景を総大将として備中に8万の大軍を派兵し、備中兵乱の口火が切られた。なお、その際も元春は三村討伐の回避を主張し、自ら元親に会って説得すると具申したが容れられず、「義を通さぬ毛利家の将来は暗い」などと嘆いたといわれる。元春の危惧は備中兵乱の数年後に直家が織田方に寝返ったことにより現実化する。 三村軍の本城である備中松山城は砦二十一丸と呼ばれた出丸が築かれて要塞化していた。このため毛利軍はまず、猿掛城・斉田城・国吉城・鶴首城など周辺の城を次々に陥落させた。裸城となった残る備中松山城を力攻めはせず、持久戦に持ち込み離反など内部からの崩壊を待った。城が包囲されて1ヶ月近く経過して三村軍の士気が衰え、内応により天神の丸が陥落すると次々に内応者が続出した。天正3年(1575年)5月、備中松山城は陥落。当初、元親は家臣の説得により妻子・家臣とともに落ち延びを図るが、覚悟を決めて小早川隆景に切腹を願い出た。隆景は願い出を認め、元親は阿波三好氏出身の老母や親交のあった細川藤孝らに宛てた辞世数首を残し、松連寺で自刃した。 松山城落城後、毛利氏は備中平定のため三村氏ゆかりの諸城掃討を行った。元親の妹(鶴姫)の婿・上野隆徳が拠る三村一族最後の城である常山城も、鶴姫ほか城の女性共々奮戦したが多勢に無勢で落城し、備中兵乱は幕を閉じた。 また、これらに先立つこと天正3年(1575年)1月8日、毛利軍は杠城(新見市)、城主の三村元範を攻撃して落城させた。1月17日、荒平山城(総社市秦)城主、川西三郎左右衛門之秀、城兵の助命と引き替えに四国讃岐(一説では備前児島)へと流された。 この備中兵乱によって戦国大名としての三村氏は滅亡した。なお、元親の叔父・親成は元親を諫止できなかった咎を受けて減封されたものの所領は安堵され、引き続き成羽鶴首城主の地位をも許された。その後、親成は姪に当たる元親の妹など三村本家の縁者を庇護したという。子孫の系統は、江戸時代に入り、備後福山藩水野氏の家老職(1,500石)を務めた。 以後、備中の大半は毛利氏の領土となり、南方の一部が宇喜多氏に与えられた。 一方で畿内においては織田信長が上洛を果たし、反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼし、将軍足利義昭を追放し(室町幕府の滅亡)、天下統一事業をおしすすめていた。 〇「信長包囲網」(のぶながほういもう)は、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことをいう。 永禄11年(1568年)2月8日、三好三人衆・阿波三好家と、松永久秀・三好家当主三好義継の権力抗争が続く中、戦いを優勢に進める三好三人衆方の推挙により阿波公方・足利義栄が第14代征夷大将軍(将軍)に就任した。 しかし、室町幕府第13代将軍足利義輝の弟義昭は、これに抗い、同年9月、織田信長の軍事力を背景に上洛を果たし、同年10月2日、三好三人衆と阿波三好家の軍勢を阿波に追いやった。一方の松永久秀と三好義継は織田家に降った。10月18日足利義昭は第15代将軍に就任し、これにより、織田信長は将軍の後見人として権勢を振るうことになった。 永禄12年(1569年)1月、三好三人衆と三好笑岩が和泉に上陸、同5日に本圀寺の足利義昭、明智光秀を急襲したが、細川藤孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの援軍に敗れ、再度、阿波に逃亡した(本圀寺の変)。 こうした足利氏 - 織田氏と、阿波三好氏 - 三好三人衆との対立とは別に、同1月、織田信長は義昭の行動を制約する殿中御掟を出している。内容は信長が擁立した義昭を自身のコントロール下に置くことを目的としたものだったが、義昭は各地に密書を出すなど、これを無視して動くことがままあった。そして、形式的には臣下である信長に縛られることを嫌った義昭と、コントロールしようとする信長の間での対立は深刻化していくことになる。 永禄12年2月、播磨の赤松政秀が織田信長に救援を要請。8月から9月にかけて義昭・信長の派遣した池田勝正、別所安治が浦上宗景を攻める。同時に、密かに信長と内通していた宇喜多直家も浦上宗景に対して反旗を翻した。 しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に浦上宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰め、11月には政秀が降伏、宇喜多直家もその年のうちに宗景に謝罪して浦上家の傘下に戻っている。 第一次包囲網 浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗 上洛した信長は、征夷大将軍・足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促したが、朝倉義景はこれを無視し、両者の関係は悪化した。 元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉氏の越前へ遠征を行うが、北近江の浅井長政の裏切りにより撤退する(金ヶ崎の戦い)。 同年6月、信長は野洲河原の戦いにて、甲賀から北上し湖南に進出した六角義賢・義治父子を退けた。 同年6月末、信長は徳川家康と共に姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破り、近江南部の支配権を確立し、近江北部も窺うようになった。また、この姉川の戦いの結果、横山城が陥落したこともあり、浅井・朝倉軍は琵琶湖東岸を南下することは困難となった。 しかし、同年6月19日、三好三人衆の1人三好長逸に通じた摂津の荒木村重が、池田城から主君・池田勝正を追放してしまう。これにより、同年7月21日、三好三人衆が摂津に再上陸、野田城、福島城を拠点に反織田の兵を挙げる。 同年8月、信長は三人衆を討つため摂津へ遠征し、野田城・福島城の戦いが発生した。この戦いの最中の9月13日、石山本願寺法主顕如が三好三人衆につき織田軍を攻撃、更に、浅井・朝倉軍が琵琶湖西岸を南下、信長の重臣森可成と弟信治が討死してしまう。織田信長は浅井・朝倉軍が京都へ侵入することを恐れ、同9月23日、三人衆の討伐を諦め、摂津からの撤退を開始する。 同27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めている。 織田信長と比叡山延暦寺に篭った浅井・朝倉軍との対陣は年末まで続き(志賀の陣)、加えて顕如の命を受けて北伊勢で蜂起した伊勢長島一向一揆衆に、信長の弟信興が討たれるなど、織田家は各地で窮地に陥ってしまう。 同年10月30日、織田信長は本願寺顕如との和睦に成功する。11月には六角義賢・義治父子と和睦。また、篠原長房とも松永久秀の仲介により篠原と松永の間で人質交換が行われ11月21日に和睦が成立、さらに信長は朝廷と足利義昭に調停を依頼して、北陸が深雪に閉ざされる冬の到来を懸念する浅井氏・朝倉氏との講和を12月に成立させ、窮地を脱した。 毛利氏と信長とは、毛利元就の代においては友好的な関係であったが、その後継の毛利輝元は義昭を庇護し(鞆幕府)、さらに最大の反信長勢力である石山本願寺と同盟し、信長への敵対の態度を強めていった。信長にとって石山本願寺を滅ぼすためにはその背後の毛利氏を屈服させる必要があったため、1578年、家臣の羽柴秀吉を総大将とする中国路への侵攻戦(中国攻め)を開始した。 中国攻め(ちゅうごくぜめ)は、天正5年(1577年)以降に織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じて行った毛利輝元の勢力圏である山陽道・山陰道に対する進攻戦。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する。 戦は足かけ6年にも及び、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長が横死したためそのまま未完に終わった。※ 文中の( )の年は西暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
2024年10月31日
コメント(0)
〇「清水 宗治」(しみず むねはる)は、戦国時代の武将。備中高松城主。三村氏、毛利氏に仕えた。三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となった。 天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。幼名は才太郎といった。 備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。 この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。 また、永禄8年(1565年)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。 いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国路の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。 天正10年(1582年)4月、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する(備中高松城の戦い)。秀吉は降伏すれば備中・備後2カ国を与えるという条件を出したが、宗治は応じず、信長からの誓詞をそのまま主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示した。 そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれたが、輝元自らが吉川元春・小早川隆景とともに救援に赴いたため、戦線は膠着状態となった。 この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は信長の死を伏せて、宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。 結局、宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後の6月4日に兄の清水宗知(月清入道)、弟の難波宗忠(伝兵衛)、援将の末近信賀らとともに水上の舟において切腹した。享年46。辞世は「浮世をば 今こそ渡れ 武士()の 名を高松の 苔に残して」。 墓所は山口県光市の清鏡寺にある。 備中高松城の戦いは忍城の戦い、太田城 (紀伊国)の戦い、ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。 〇「忍城の戦い」(おしじょうのたたかい)は、成田氏の本拠である武蔵国の忍城(後の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いである。 この城を巡っては、忍氏との文明年間(1469年から1487年。または延徳元年(1489年))の戦い、古河公方・足利政氏との享禄年間頃(1531年以前)の戦い、関東地方において勢力を拡大しつつあった後北条氏と関東管領・上杉氏との対立抗争に伴い発生した天文22年(1553年)と永禄2年(1559年)の戦い、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いなど、数度にわたって攻城戦が繰り広げられたが、本項目では、天正18年(1590年)6月16日から7月16日にかけて行われた戦いについて詳述する。 忍城の水攻めは備中高松城の戦い、太田城 (紀伊国)の戦いととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。 成田氏代々の居城であった忍城はその周囲に元荒川・星川が流れていて自然の堀をなし、関東七名城の一つに数えられていた。豊臣秀吉は四国征伐や九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けた。 秀吉は徳川家康を介して上洛を促すが北条氏政は拒否し、小田原攻めが決定した。この報を聞いて成田氏当主・成田氏長と成田泰親は小田原城に籠城していたため、忍城には成田泰季と成田長親、甲斐姫らが籠城することになった。 水攻め前 豊臣軍は館林城・忍城を攻略するために、6月5日頃に石田三成・大谷吉継・長束正家を派遣した。6月4日に三成は館林から忍へ移動し、城の大宮口に本営を設け攻撃をしたが、城の守りが固く容易に陥らなかった。 当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢の浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。6月12日に秀吉から石田三成に水攻めをするように指示があり、翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し鉢形城攻めに向かった。石田は浅野長政と木村重茲両名に、忍城攻撃の指図を仰いでいる。 鉢形城は6月14日に降伏開城し、浅野長政と真田昌幸は忍城包囲軍に戻った。 6月17日に三成は丸墓山古墳に陣を構え、大谷吉継・長束正家・直江兼続・佐竹義宣・宇都宮国綱など配下の軍勢により忍城を包囲した 水攻め 豊臣方の石田三成は、城攻めが上手くいかないので、近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いた、と『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて、三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。 これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、終始水攻めを命じ、三成はそれを実行していたに過ぎない。 さらに、6月13日に三成が浅野長政と木村重茲に出した書状を見ると、三成は具体的な戦術については、浅野の指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される。具体的な方策として、三成は城を中心に南方に半円形の堤防を築くことにした。近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4~5日という短期間で堤防を築いた。全長28キロメートルにもなる石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まった。ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから忍の浮き城と呼ばれた。 6月18日、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐ為に下忍口守備の本庄泰展は配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせた。二人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊、これにより大雨で溜まりに溜まった水が溢れ出し、豊臣軍約270人が死亡、これにより水の抜けた忍城周辺は泥沼の様になり、馬の蹄さえ立たない状況になった。 援軍の到着と総攻撃 7月はじめには浅野長政らが、7月6日頃には上杉景勝・前田利家らが攻城軍に加わったが、それでも忍城は落城しなかった。なお攻城戦終盤や戦後処理では石田三成ではなく、浅野長政が主導的な役割を果たしていくことになる。 開城 7月5日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされ、未落城の城は忍城のみとなっていた。成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏をすすめたので、遂に7月16日、忍城は開城した。この戦いは軍記物では三成の築城が強調され、「石田堤」の呼称とともに攻防戦の「歴史像」を形成していったと言えると評価されている。〇水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。 本能寺の変(ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃した。これにより織田政権の中心人物が失われ、6月13日の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が豊臣政権を構築していく契機となった。 天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した]。長年の宿敵を倒し、立派な後継者の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。 天下を展望すると、東北地方においては、伊達氏・最上氏・蘆名氏といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せており、関東では後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて、佐竹氏とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸の上杉氏を残すのみとなった。北条氏政・氏直親子は甲州に共同で出陣する約束をしていたが、戸倉城を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。 しかし、この時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河1国を贈ったが、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待し、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりもその威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた。 西に目を転じると、中国地方では、毛利氏との争いが続き]、四国でも長宗我部氏が信長の指図を拒否したことから交戦状態に入った](詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている。 信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた。 「甲州征伐」、「清洲同盟」、「甲越同盟」、および「中国攻め」も参照 他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣・右近衛大将の官位を辞して]以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止したことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。そこで朝廷は、甲州征伐の戦勝を機に祝賀の勅使として勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)を下し、晴豊は信長が凱旋した2日後の天正10年4月23日に安土に到着した。『晴豊公記』によれば、4月25日に信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙するという、いわゆる「三職推任」を打診し、5月4日には誠仁親王の親書を添えた2度目の勅使が訪問したと云う。 2度の勅使に困惑した信長が、森成利(蘭丸)を晴豊のもとに遣わせて朝廷の意向を伺わせると、「信長を将軍に推任したいという勅使だ」と晴豊は答えた。しかし信長は、6日、7日と勅使を饗応したが、この件について返答をしなかった。そのうちに、5月17日、備中より待ちわびていた羽柴秀吉からの出馬要請が届いた。これを受けて信長は出陣を決意し、三職推任の問題はうやむやのまま、本能寺で受難することになった。(続き) その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。戦いの経緯
2024年10月31日
コメント(0)
2「備中高松城の戦いの起因」(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、日本の戦国時代におきた戦い。天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を攻略した戦いである。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。 〇「豊臣 秀吉」(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされている(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現した。 信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。 天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。 秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない。 秀吉は自身の御伽衆である大村由己に伝記『天正記』を書かせているが、大村由己による秀吉の素性の説明は、本毎に異なっている。 大村は本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いたが、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることがほのめかされている[4]。当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書けと云ったとみられている。 また松永貞徳が著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記録されている。しかし、これらは事実とは考えられていない。一般には下層階級の出身であったと考えられている。 江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。通俗説で父とされる木下弥右衛門や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。 竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。また『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、『平豊小説』では私生児であったとしている。『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとしている[9]。 生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛が天正18年(1590年)に飛騨国の石徹白神社に奉納した願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている。 広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされる。 『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もある。秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説[注釈 8]、また漂泊民の山窩出身説などがあるが、真相は不明である。 織田政権下での台頭 天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。 そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている。 天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。 天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。 播磨・但馬の攻略 - 中国攻め 詳細は「中国攻め」を参照 天正5年(1577年)10月23日、信長に西国の雄毛利輝元ら毛利氏の勢力下にある山陽道・山陰道である中国路攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを従える。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた。 秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。 天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前・美作の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。 同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。 山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。 天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。 同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。 このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。 このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。 信長の死から清洲会議まで 天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、備中から京都に軍を返した(中国大返し)。 6月13日、秀吉は山崎において明智光秀と戦った。この戦いでは、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀は落ち武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。 6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。 勝家はこれに反対したが]、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。 信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢と伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後国、筒井順慶は大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の滋賀郡・高島郡15万石の加増、池田恒興は摂津国尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江国佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国(公式には秀吉の養子で信長の四男の羽柴秀勝に与えられた)や山城国・河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。
2024年10月31日
コメント(0)
「備中高松城の水攻め」1、 「備中高松城の戦いの概略」・・・・・・・・・・・・・・22、 「備中高松城の戦いの起因」・・・・・・・・・・・・・・63、 「戦いに至る情勢」・・・・・・・・・・・・・・・・・・344、 「秀吉の出陣と高松城の包囲」・・・・・・・・・・・・・865、 「水攻め開始」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・936、 「和睦成立と秀吉の撤退」・・・・・・・・・・・・・・・1177、 「秀吉の動揺作戦の功」・・・・・・・・・・・・・・・・1278、 「明智光秀の謀反」・・・・・・・・・・・・・・・・・・1319、 「秀吉の大返し」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15110、「戦いとその後の情勢」・・・・・・・・・・・・・・・・18411、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・189 1「備中高松城の戦いの概略」高松城の水攻めは、三木の干殺し、鳥取の飢え殺しと併せて、秀吉三攻めと称さる事も。備中国高松(現在の岡山県岡山市)にあった備中高松城を巡る、主清水宗治と包囲者羽柴秀吉の戦い。水攻めの最中に本能寺の変で織田信長が明智光秀にたれた為、自体は講和によって終結している。備中国は守護大名・細川氏が衰退した後、複数の国人領主によって支配が争われるという、文字通り麻の如く乱れた状態にあった。 このうち三村家親は毛利氏に接近して勢力を拡大したが、当時備前を支配していた浦上氏傘下にあった宇喜多直家によって暗殺されたのをきっかけに衰退した。三村氏傘下にあった清水宗治は先んじて毛利氏に帰順し、小早川隆景配下となって中国平定に尽力、信任を得ていた。経過天正10年(1582年)、並び立つ政敵のほとんどを排除した織田信長の命により、羽柴秀吉が中国攻めを本格化する。この時秀吉は清水宗治に対し、降伏すれば備中国を安堵すると持ち掛けたが、宗治はきっぱりと断ったとされる。 3000から 5000の兵をもって彼が籠城した備中高松城は湿地に立つ平城で、周囲のドジョウはぬかるんで騎馬や兵卒を踏み込ませず、近づく事も困難だった。過去2度の籠城戦の経験則から周囲の小城を攻め落とし、3万近い大軍で城を包囲した秀吉だったが、城内からの反撃にあって二度敗退を喫する。安芸国(現在の広島県)からは毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあるという報を受け、秀吉は信長に援軍を要請する。信長からは明智光秀を援軍に送ると返事があったが、これを待たず備中高松城をただちに落とすべしとの厳しい命令もついてきた。そこで黒田官兵衛の献策により、秀吉は地の利を逆手に取った水攻めへと方向転換する。蜂須賀正勝が築堤奉行に任命され、城の近くを流れる足守川の東、蛙ヶ鼻(かわずがはな)から全長約 4Km、高さ約8㎡の堅牢な堤防を築いた。この時動員された兵士や農民には、土1俵に対して銭 100文米1升という報酬が払われたが、これは当時でも非常に高額だったという。5月8日に開始した突貫工事によって堤防は僅か12日間で完成し、梅雨によって降り続いた雨によって増水した川の水が低地に流れ込む。備中高松城はにわかに出来た湖の中の「浮き城」となり、周辺から取り残されてしまった。城内は流れ込んだ大量の泥水で水びたしになり、伝令一つにも小舟を使わざるを得ない状況だったという。常識外の事態に加え、孤立無援を確信した城内の兵の士気も下がり、5月21日到着した毛利輝元らもなすすべがなかった。織田の後詰めが来る事を察知した毛利方は、安国寺恵瓊を黒田官兵衛の許に向かわせて和議を提示。備中・備後・美作・伯耆・出雲の五国の割譲をする代わり、城内の兵の助命を行うという内容だった。しかし秀吉はこれを拒み、五国割譲に加えて清水宗治の切腹を要求。毛利に忠義を尽くしてきた宗治の死に応じかねた毛利方により、交渉は一度失敗する。これを聞いた宗治は城内の兵の助命および主家への義理立てを行うべく、自身と兄・月清入道、弟・難波伝兵衛、援将の末近信賀4名の首と引き換えとする旨の嘆願書を安国寺恵瓊に託した。ところが、ここで事態は一気に動く。6月3日の夜、秀吉は明智光秀から毛利氏に送られた密使を捕らえた。そこで主・信長が本能寺で光秀に討たれた「本能寺の変」を知るや、官兵衛との合議を行う。今や事は急を要していた。信長という後ろ盾を失った事を毛利に知られる訳にはいかず、一日も早く毛利との和議を結び、京に取って返して光秀を討たなければならなくなったのだ。翌6月4日、秀吉は安国寺恵瓊を呼び、先の割譲について五国から三国に譲歩、その上で清水宗治の自刃を条件として提示した。信長の死を知らないままの毛利方にとって、これが受諾できる限界だった。嘆願書が受け入れられた事を知った宗治は、城内を清めるよう家臣に命じた。秀吉から送られた酒肴で別れの杯を交わして後、4人は小舟に乗って秀吉の本陣前まで漕ぎつけ、ひとさし舞を舞う。そして浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残してと辞世の句を詠み、見事に自刃を遂げた。次々と切腹した4人の介錯を行った家臣もその場で自刃し、秀吉は宗治を「古今武士の明鑑」と賞賛した。その日の夕刻になり、毛利方はようやく信長の死を知る事となった。知らせを聞いて激怒した吉川元春は秀吉の追撃を主張するが、誓紙によって結ばれた和睦は順守されるべしとした小早川隆景の意見により、戦には至らなかった。これを見極めた秀吉は備中高松城に抑えとして杉原家次(正室・寧々(高台院)の伯父)を置き、全軍を京へ向けて進発。後に「中国大返し」と呼ばれる10日間の大強行軍が行われるのである。補足川の水を引き入れて作られた湖の広さは、現在の単位に換算し約200ヘクタールだったと言われている。単純に長方形で考えると4km~5kmほどの広さになり、地図で見てみると非常に広範囲が水没した事が解る。そんな状況に取り残された備中高松城の将兵はさぞ絶望的だった事だろう。2012年に公開された映画「のぼうの城」では、冒頭で高松城の水攻めが描写されている。女子供の悲鳴、押し寄せる泥水に呑まれる人々はあまりにも真に迫っており、先に起きた東日本大震災を想起させるとして一部がカットされた。
2024年10月31日
コメント(0)
14「日本幽囚記」ゴローニンは帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を執筆し、1816年に官費で出版された。三部構成で、第1部・第2部が日本における捕囚生活の記録、第3部が日本および日本人に関する論評である。幕末にロシア正教会の司祭として来日したニコライ・カサートキンが同書を読んで日本への関心を高めたと伝えられている。 ニコライ(修道誓願前の姓:カサートキン、ロシア語: 1836年8月1日(ロシア暦) - 1912年2月16日(グレゴリオ暦))は日本に正教を伝道した大主教[1](肩書きは永眠当時)。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり(後述)、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していた。ニコライは修道名で、本名はイヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(ロシア語:)。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。初期[編集]スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミートリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ・リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)・修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。函館時代翌1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学んだ。また、仏教については学僧について学んだ。ニコライは慶応4年4月自らの部屋で密かに、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼、南部藩出身浦野大蔵らに洗礼機密を授けた。この頃、木村が函館を去った後の後任として新島襄から日本語を教わる。新島は共に『古事記』を読んで、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った以後、精力的に正教の布教に努めた。明治2年(1869年)日本ロシア正教伝道会社の設立の許可を得るためにロシアに一時帰国した。ニコライの帰国直前に、新井常之進がニコライに会う。ニコライはペテルブルクで聖務会院にあって首席であったサンクトペテルブルク府主教イシドルから、日本ロシア正教伝道会社の許可を得ることができた。1870年(明治3年)には掌院に昇叙されて、日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられた。ニコライの留守中に、日本では沢辺、浦野、酒井の三名が盛んに布教活動を行った。明治4年(1871年)にニコライが函館に帰って来ると、沢辺の下に身を寄せていた人々が9月14日(10月26日)に洗礼機密を受けた。さらにニコライは仙台地方の伝道を強化するために、小野荘五郎ほか2人を派遣した。ニコライは旧仙台藩の真山温治と共に露和辞典の編集をした。東京時代明治4年12月(1872年1月)に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ・チハイが函館に派遣された。明治5年ロシア公使館が東京に開設されることになった。函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、明治5年1月に築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。明治5年(1872年)9月に駿河台の戸田伯爵邸を日本人名義で購入して、ロシア公使館付属地という条件を付け、伝道を行った。明治5年9月24日東京でダニイル影田隆郎ら数十名に極秘に洗礼機密を授けた。明治7年(1874年)には東京市内各地に伝教者を配置し、講義所を設けた。ニコライは、神奈川、伊豆、愛知、などの東海地方で伝道した。さらに京阪地方でも伝教を始めた。明治7年5月には、東京に正教の伝教者を集めて、布教会議を開催した。そこで、全20条の詳細な『伝道規則』が制定された。明治8年(1875年)7月の公会の時、日本人司祭選立が提議され、沢辺琢磨を司祭に、酒井篤礼を輔祭に立てることに決定した。東部シベリアの主教パウェルを招聘して、函館で神品会議を行い、初の日本人司祭が叙任された。このようにニコライを中心に日本人聖職者集団が形成された。さらに、正教の神学校が設立され、ニコライが責任を担った。明治9年(1876年)には修善寺町地域から岩沢丙吉、沼津市地域から児玉菊、山崎兼三郎ら男女14名がニコライから洗礼を受けた。明治11年(1878年)、ロシアから修道司祭のウラジミール・ソコロフスキーが来日して、ニコライの経営する語学学校の教授になり、明治18年までニコライの片腕になった。明治12年(1879年)にニコライは二度目の帰国をし、明治13年に主教に叙聖される。その頃の教勢は、ニコライ主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263だった。同じ年、正教宣教団は出版活動を開始し、『正教新報』が明治13年12月に創刊された。愛々社という編集局を設けた。明治13年(1880年)イコンの日本人画家を育成するために、ニコライは山下りんという女性をペテルブルグ女子修道院に学ばせた。3年後山下は帰国し、生涯聖像画家として活躍した。
2024年10月30日
コメント(0)
13「日露和親条約の締結」1842年、イギリスがアヘン戦争の結果、清との間に南京条約を結んだ事を受け、プチャーチンは、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられた。しかし、トルコ方面への進出が優先され、プチャーチンの極東派遣は実現しなかった。1845年にイギリス海軍高級将校の娘メアリー・ノウルズと結婚し3男3女をもうけた。1849年に侍従武官に任命され、1851年には侍従武官長に任命されている。1852年、海軍中将に昇進し、同時にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが日本との条約締結のため出航したことを知ったコンスタンチン大公から日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられ、皇帝ニコライ1世により平和的に交渉することを命令された。1852年9月、ペテルブルクを出発しイギリスに渡りボストーク号を購入。11月、クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号がイギリスのポーツマス港に到着、修理を行った後、ボストーク号を従えてポーツマスを出港した。喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由、父島でオリバーツァ号、メンシコフ号と合流した。ペリーと違い、シーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため日本の対外国窓口である長崎に向かった(プチャーチンに日本遠征を勧めたのもシーボルトである)。1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日、長崎を離れ一旦上海に向かった。上海で情報を収集するなどした後、1854年1月3日(嘉永6年12月5日)に再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談した。交渉はまとまらなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意した。2月5日(嘉永7年1月8日)、一定の成果を得たプチャーチンはマニラへ向かい、船の修理や補給を行ったが、旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えた。旗艦以外の3隻の船は、イギリス艦隊との戦闘に備えるため沿海州に残る事となり、プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本に向かい、10月21日(嘉永7年8月30日)、箱館に入港したが、同地での交渉を拒否されたため大阪へ向かった。翌月に天保山沖に到着、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12月3日(嘉永7年10月14日)に下田に入港した。報告を受けた幕府では再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣、プチャーチンとの交渉を行わせた。しかし、交渉開始直後の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)、安政東海地震が発生し下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得なかった。津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護している。この事は幕府関係者らにも好印象を与えた。プチャーチンは艦の修理を幕府に要請、交渉の結果、伊豆の戸田村(へだむら、現沼津市)がその修理地と決定し、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かった。しかしその途中、1855年1月15日(安政元年11月27日)、宮島村(現富士市)付近で強い風波により浸水し航行不能となった。乗組員は周囲の村人の救助もあり無事だったが、ディアナ号は漁船数十艘により曳航を試みるも沈没してしまう。プチャーチン一行は戸田に滞在し[1]、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により代船の建造が開始された。1855年1月1日(嘉永7年11月13日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、プチャーチンは遂に日露和親条約の締結に成功する。1855年4月26日(安政2年3月10日)に約3ヶ月の突貫工事で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名した。ヘダ号は60人乗りで、プチャーチン一行が全て乗船することが出来ない大きさであったため、プチャーチンは下田に入港していたアメリカ船を雇い、前月に159名の部下をペトロパブロフスク・カムチャツキーへ先発させていた。ヘダ号完成後の5月8日(安政2年3月22日)、プチャーチンは部下47名と共に戸田号に乗り、ペトロパブロフスクに向けて出港した。5月21日、ペトロパブロフスクに入港したが、既に英仏連合軍は撃退されロシア軍の防衛隊も退却に成功していたため(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦参照)、さらに航海を続け、宗谷海峡を通って、6月20日にニコラエフスクに辿り着いた。同地から陸路を進み、11月にペテルブルクに帰還を果たした。同年7月には残りの乗組員300名ほどがドイツ船でロシア領を目指したが、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となっている。日露修好通商条約・天津条約の締結1856年から1857年にかけてクロンシュタット軍事知事を務めた後、9月21日(安政4年8月4日)に軍艦アメリカ号で再度長崎に来航、水野忠徳らと交渉し、10月27日(安政4年9月10日)に日露追加条約を締結した。12月には太平洋艦隊司令長官に任命され、アムール湾の海岸を調査した。この当時、清ではアロー戦争が勃発しており、英仏連合軍が広州、天津を占領していた。プチャーチンはこの機に乗じて、調停の名目で介入し、1858年6月13日、天津において清との間に天津条約を締結した。その後、再び日本に向かい1858年7月30日(安政5年6月20日)、神奈川に入港。8月12日(安政5年7月4日)、当時外国使節の宿館であった芝愛宕下の真福寺 (東京都港区)に入った。同所において幕府側と交渉を行い、8月19日(安政5年7月11日)、日露修好通商条約を締結した。翌日、江戸城で将軍家世子徳川慶福(家茂)に謁見した後、本国に帰国した。政治家日本と条約を結んだ功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進した。
2024年10月30日
コメント(0)
12「幻の国境画定交渉」リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、日本側の姿勢を判断するに交渉は容易ではなく、箱館での越冬を余儀なくされ、レザノフの二の舞になる懸念があることから、ゴローニンと相談し日本側への打診を中止した。ただし、箱館を去る際、日本側の役人に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年6-7月に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した[68]。幕府は国交樹立は拒否し、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとした。そして、択捉島までを日本領、択捉島(えとろふとう、)は、北海道とカムチャツカ半島の間に位置する島である。太平洋戦争終結直前まで日本が領有し、かつ実効支配していたが、日ソ中立条約に反したソビエト連邦による侵攻とその後の併合により、現在はロシアによる実効支配が続く北方領土の1つである。地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・ヲロ・プ(岬の・ある・所)」から。ロシア名はイトゥルップ島。7択捉島を題材にした著作物・映画・テレビ番組長さは約214㎞に及ぶ細長い島であり、日本では、本土4島を除いて面積最大の島である。国後島の北東にある国後水道(露: エカチェリーナ海峡 )を隔てて位置し、択捉島の北東にある択捉海峡(露: フリーズ海峡 )を隔てて得撫島(露: ウルップ島 )へと連なっている。人口6,739人。中心集落は、紗那(露: クリリスク 「千島の町」の意)、2006年(平成18年)の人口は2,005人)。面積では日本の領土の島のうち本州・北海道本島・九州・四国に次ぐ(四島以下の大きさは、大きな方から順番に、択捉島-国後島-沖縄本島-佐渡島-奄美大島-対馬-淡路島-)。国後島の2.1倍強、沖縄本島のおよそ2.7倍である。したがって「北方領土」の中でも最大の島であり、その面積は全体の63.4パーセントを占める。北海道根室振興局管内に所属する日本最北端の島であり、択捉島最北端のカモイワッカ岬(露: コリツキー岬)は北緯45度33分28秒東経148度45分14秒の位置にあり、日本政府が領有権を主張する領域内で最北端の地である。第二次世界大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍により武力占領され、現在はロシア連邦の実効支配下にある。ロシア側行政区においては、国後島や色丹島とは別の行政単位であるサハリン州クリル管区に位置付けされている。日本政府の見解では、上記は国際法違反であるとし、不法占拠下にあるとしている(北方領土問題)。北東から南西方向に伸びる細長い島であり、幅は約20-30㎞であるの対し、長さは約214㎞となっている。北東端はラッキベツ岬、南西端はベルタルベ岬である。島の北側には散布半島が突き出している。また、中部には単冠湾(ひとかっぷわん、露: カサトカ湾 )、南部には内保湾(ないぼわん)がある。平地は少なく、火山が多い。火口湖の得茂別湖(うるもんべつこ)も島の南部に位置している。 シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て、1814年春、高橋重賢を択捉島に送った。しかし、高橋が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった。このため国境画定は幕末のプチャーチン来航まで持ち越されることとなった。エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(ロシア語: ラテン文字転写:、1803年11月8日(グレゴリオ暦11月20日) - 1883年10月16日(グレゴリオ暦10月28日))は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、教育大臣(在任期間:1861年6月26日 – 1861年12月25日)。1853年に日本の長崎に来航。その後1855年には、日本と日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国の極東における外交で活躍した。海軍軍人サンクトペテルブルク出身。先祖の出自はノヴゴロド貴族の家系である。1822年に海軍士官学校を卒業し、ミハイル・ラザレフ(英語版)の指揮下で3年間世界周航に従事した。ギリシャ独立戦争ではナヴァリノの海戦に従軍して軍功を挙げ、四等聖ウラジーミル勲章(英語版)を授与された。1828年から1832年にかけて地中海・バルト海で軍務に従事し、四等聖ゲオルギー勲章(英語版)を授与された。コーカサス戦争にも従軍して負傷するが、多くの作戦で武功を挙げ大佐に昇進した。戦後の1841年には、黒海艦隊の艦船購入のためにイギリスに交渉に赴いている。1842年にロシア皇帝ニコライ1世から、カスピ海を活用したペルシアとの通商強化の実現のため、ペルシアに派遣される。プチャーチンはアストラハンに拠点を置きトルクメン人海賊を討伐し、ガージャール朝ペルシア第3代シャーのモハンマド・シャーに謁見して交易権・漁業権の獲得やヴォルガ川の航行権などを認めさせた。この功績により、同年に少将に昇進している。
2024年10月30日
コメント(0)
高田屋嘉兵衛の拿捕オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、良左衛門や1810年(文化7年)にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島へ向かった。8月3日に泊に到着、国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑したと偽り拒絶した。リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕。乗船していた嘉兵衛と水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌ出身のシトカの計6名をペトロパブロフスクへ連行した。ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ。嘉兵衛らの行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた[42]。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流している。12月8日(和暦)、嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛はキリスト教の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った。その後、みずからの健康を不安に感じた嘉兵衛は情緒が不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の提言に従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義の謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。 11「事件解決」日露友好の碑(函館市)。1999年にゴローニンとリコルドの子孫が来日し高田屋嘉兵衛の子孫と再会したのを記念して建立された。幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフボォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。この幕府の事件解決方針は、まさに嘉兵衛の予想と合致するものだった。1813年(文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した。ディアナ号国後島到着の知らせを受けた松前奉行は、吟味役・高橋重賢、柑本兵五郎を国後島に送った。高橋 重賢(たかはし しげかた)は、江戸時代後期の旗本。通称・三平。幼名・吉之丞。号・竹里。蝦夷地の前期幕領時代に10年余り箱館(松前)奉行支配吟味役として働き、ゴローニン事件では日本側代表としてピョートル・リコルド(ロシア語版)の交渉相手となった。その後、佐渡奉行、松前奉行、長崎奉行などを歴任。長崎奉行時代にはシーボルトに協力し、鳴滝塾の開設を許可した。1758年(宝暦8年)、普請役・勘定などを務めた高橋方政(のりまさ)の長男として生まれる。1797年(寛政9年)12月28日、部屋住から勘定に取り立てられる。1799年(寛政11年)、東蝦夷地が仮上知されると蝦夷地御用を命じられ、羽州酒田仕入物御用取扱を担当する。この頃、高田屋嘉兵衛と知り合う。同年12月、家督相続。1802年(享和2年)、箱館奉行(1807年(文化4年)に松前奉行へ改称)が設置され、10月18日、奉行に次ぐ役職である吟味役となる。1807年に西蝦夷地が上知され松前藩が転封となり、9月27日、松前藩からの領地引渡しに立ち会う。1813年(文化10年)、ゴローニン事件の処理に携わり解決に導く。長期に亘り吟味役を務めたが、当時の記録には、高橋が短期で交代する奉行を飾り物にし、恣意をほしいままにしていたかのように記述しているものもあった。1814年(文化11年)12月27日、西丸御納戸頭となる。1818年(文政元年)2月8日、佐渡奉行となり、50俵3人扶持から家禄200俵へ加増。1820年(文政3年)3月8日、松前奉行となり、300俵へ加増。同月15日、越前守となる。在任中の1821年(文政4年)12月7日、松前藩が蝦夷地に復領する。1822年(文政5年)6月14日、長崎奉行となる。1826年(文政9年)5月1日、江戸参府したオランダ商館長・ステュルレルが将軍・徳川家斉への謁見直後に、江戸在勤であった重賢に対し日蘭貿易に関する嘆願書を直接提出する事件が起こる。重賢は責任を問われ、同月24日、長崎奉行を罷免され西丸新番頭となる。1833年(天保4年)4月、日光奉行となる。同年8月26日、在職中に死去。享年76。ゴローニン事件事件当時、松前奉行支配吟味役であった重賢は、1813年5月に高田屋嘉兵衛がリコルドとともにカムチャツカから国後島に帰還すると、同役の柑本兵五郎とともに捕虜のシモーノフとアレキセイを連れて国後島に向かい、7月11日に到着。高田屋嘉兵衛に事情を聞いた後、リコルドにゴローニン解放の条件として釈明書を提出することを要求した。その後、リコルドが釈明書を入手して箱館に来航した際に日本側代表として対応し、9月26日にゴローニンを引渡し事件解決に導いた。この褒美として同年12月12日に金2枚を賜っている。ゴローニンは離日する際、日本側に国境画定に関し翌年択捉島で交渉したい旨の文書を渡していた。これを受けて幕府は、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て、1814年春、重賢を択捉島に送った。しかし、重賢が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった。このため国境画定は幕末まで持ち越されることとなった。シーボルトへの協力1823年にシーボルトが来日すると、長崎奉行であった重賢は日本人の学者がシーボルトに学ぶため出島に入ることを許し、さらに鳴滝塾の創設を認めた。しかし、シーボルト事件が発生すると、シーボルトの江戸参府時に江戸在勤の長崎奉行であった重賢は不念により、1830年(文政13年)3月26日、差控を申し渡された。
2024年10月30日
コメント(0)
10「通訳教育、間宮林蔵の来訪」幕府はゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、上原熊次郎、村上貞助(むらかみ・ていすけ)、馬場貞由、足立信頭らがロシア語を学んだ。そのほか学者などが獄中のゴローニンらを訪問しているが、その中に間宮林蔵もいた。間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。生年は安永4年(1775年)とも。樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。 常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の小貝川のほとりに、農民の子として誕生。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔である。当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。文化(1807年)4年4月25日、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)たちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで松田と合流した。林蔵はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測を得てそこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着した。調査の報告書を提出した林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かった。林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。更に林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)から聞いた、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、ギリヤーク人らと共に海峡を渡ってアムール川下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。なお、現在ロシア領となっているアムール川流域の外満州はネルチンスク条約により当時は清領であった。間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している。樺太北部の探索を終えた林蔵は文化6年旧暦9月末(1809年11月)、宗谷に戻り、11月に松前奉行所へ出頭し帰着報告をしている。松前において探索の結果報告の作成に取りかかり、師の村上島之丞の養子である村上貞助に口述を筆記させ、『東韃地方紀行』、『北夷分界余話』としてまとめ、文化8年(1811年)1月、江戸に赴いて地図と共に幕府に提出した。江戸において林蔵は伊能忠敬の邸に出入りして測量技能の向上に努めた。文化8年(1811年)4月、松前奉行支配調役下役格に昇進。同年12月、ゴローニン事件の調査のため松前に派遣される。文政5年(1822年)、普請役となる。文政11年(1828年)には勘定奉行・村垣定行の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査し、石州浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行矢部定謙に報告し検挙に至らせる(竹島事件)などの活動に従事する。探索で培った、蝦夷・樺太方面に対する豊富な知識や海防に対する見識が高く評価され、老中大久保忠真に重用され、川路聖謨や江川英龍らとも親交を持った。また、当時蝦夷地の支配を画策していた水戸藩主徳川斉昭の招きを受け、水戸藩邸等に出入りして斉昭に献策し、藤田東湖らと交流を持った。晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったという。天保15年2月26日(1844年4月13日)、江戸深川蛤町か本所外手町において没した。梅毒を死因とする説もある。実子は無かったが、浅草の札差青柳家から鉄二郎(孝順)が養子に入って家督を相続した。墓所は、東京都江東区の本立院及び、茨城県つくばみらい市上柳の専称寺にある。1904年(明治37年)4月22日、贈正五位。蝦夷地測量伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度があがったという。忠敬がスケジュールの都合上全ての蝦夷地を測量できなかったとき、残りの蝦夷地測量を間宮が代わりに測量して測量図を作った。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図は最終的に忠敬の測量図と間宮の測量図を合体させたものになったという。その他
2024年10月30日
コメント(0)
9「ゴローニンの捕縛」老年のリコルド1811年(文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大尉は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かう計画であったゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。そして5月27日、泊湾に入港した。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り、日本側と接触した。6月3日、海岸で武装した日本側の役人と面会、日本側から陣屋に赴くよう要請される。6月4日、ゴローニン、ムール少尉、フレブニコフ航海士、水夫4名(シーモノフ、マカロフ、シカーエフ、ワシリーエフ)と千島アイヌのアレキセイは陣屋を訪問。食事の接待を受けた後、補給して良いか松前奉行の許可を得るまで人質を残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された。この「騙し討ち」を見て、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになった。ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告しゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ出発した。途中、イルクーツク県知事トレスキン(ロシア語版)を訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは文化露寇の際に捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門を連れてオホーツクへ戻った。中川 五郎治(なかがわ ごろうじ、明和5年(1768年) - 弘化5年9月27日(1848年10月23日)は、日本における種痘法の祖。本名・小針屋佐七、別名・中川良左衛門。陸奥国生まれで蝦夷地に渡り、択捉島の漁場の番人を務めていたが、文化露寇の際にロシア側の捕虜となりシベリアに送られ、そこで種痘法を身に付ける。ゴローニン事件の際に日本に送還され、後に松前奉行・松前藩に仕え、箱館・松前を中心に種痘法を広めた。明和5年(1768年)、廻船問屋・小針屋佐助の子として陸奥国川内村(旧盛岡藩、現青森県むつ市川内町)に生まれる。松前に行き、商家に奉公し、やがて松前の豪商・栖原庄兵衛の世話で、享和元年(1801年)に場所稼方として択捉島に渡る。帳役を経て番人小頭に昇進し、島内の漁場を取り締まる[1]。アイヌの女を妻にしていた。文化4年(1807年)4月24日、ロシアの軍人ニコライ・フヴォストフに番屋を襲撃され(文化露寇)、佐兵衛とともに捉えられてシベリアに連行される。文化6年(1809年)オリヤ河畔に脱走するが捕らえられ、オホーツクに送還される。翌年再び2人で逃亡しトゴロ地方に渡るが、佐兵衛は病死し、彼も再び捕われの身となり、ヤクーツクへ連行される。この頃から松前の商人・中川良左衛門と偽名を使う。さらにイルクーツクに送られ取調べを受けるが、日本に幽閉中のディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン中佐との捕虜交換のために、文化7年(1810年)カムチャツカに漂着した歓喜丸の水夫らとともに、日本へ送還されることとなる。文化9年(1812年)2月にオホーツクで種痘書を入手し、医師の助手となって種痘法を習得する。同年8月4日ディアナ号副長ピョートル・リコルドに伴われ国後島に上陸、捕虜交換の交渉が行われるが、失敗し、五郎治が使者に立てられる。しかし、五郎治と共に上陸した歓喜丸の水夫1人が逃亡し、かえって交渉は難航する。五郎治は、日本の役人の指示によりゴローニンは死んだとリコルドに伝えるが、これを信じなかったリコルドは通りかかった官船・歓世丸を襲い、高田屋嘉兵衛をカムチャツカへ連行した。またこの際五郎治は日本の役人に『五郎治申上荒増』を提出している。松前及び江戸で取調べ[4]を受けた後、文政元年(1818年)、手代として松前奉行配下となり、その後松前藩に仕える。ロシア滞在中から一貫してロシアに悪感情を抱いていたが、その一方で種痘法に注目し、箱館・松前を中心に、その技術を実践している。文政7年(1824年)、田中正右偉門の娘イクに施したのが日本初の種痘術である。この頃蝦夷地では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど他に伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820年)に和訳されている。その後種痘の技術は箱館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達され、さらに福井では笠原良策によって実践される。弘化5年(1848年)9月27日、川に足を滑らせ溺死。享年81。 抑留生活国後島からディアナ号が去ると、ゴローニンらは縄で縛られたまま徒歩で陸路を護送され、7月2日、箱館に到着。そこで箱館詰吟味役・大島栄次郎の予備尋問を受けた後、8月25日に松前に移され監禁された。8月27日から松前奉行・荒尾成章の取り調べが行われた。荒尾は、フボォストフの襲撃がロシア政府の命令に基づくものではなく、ゴローニンもフボォストフとは関係ないという主張を受け入れ、ゴローニンらを釈放するよう11月江戸に上申したが、幕閣は釈放を拒否した。脱走1812年(文化9年)春、監視付の散歩が許されるようになり、また牢獄から城下の武家屋敷への転居が行われたが、このまま解放される見込みがないと懸念したゴローニンらは、脱獄して小舟を奪い、カムチャツカか沿海州方面へ向かうことを密かに企てた。当初はムールやアレクセイも賛同したが、ムールは翻意。3月25日にムールとアレクセイを除く6名が脱走。松前から徒歩で北に向かって山中を逃げたが、4月4日、木ノ子村(現在の上ノ国町)で飢えて疲労困憊となっているところを村人に発見され捕まった。松前に護送され、奉行の尋問を受けた後、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢(現在の松前町字神内)の牢獄に入れられた。徳山大神宮(とくやまだいじんぐう)は、北海道松前郡松前町にある神社である。旧社格は郷社。渡島一宮と称される。祭神天照大御神・豊受大神を主祭神とするが、その他46柱の神々を合祀している(後述)。創建の年代は不詳であるが、かつて、秋田・津軽の漁民は毎年春になると当地に渡って漁をし、秋に帰っていたが、アイヌからの危難を逃れるために伊勢神宮の大麻(お札)を祀る小祠を唐津内町に建て、これを「伊勢堂」と称したのに始まると伝えられる。天正10年(1582年)、領主蛎崎(松前)季広が蔵町(現在の松前町字福山)に遷座して「神明社」と改称し崇敬した。承応元年、松前藩主松前高広が現在地に社殿を造営して遷座し、伊勢神宮から正式に神璽を奉請した。明治4年11月村社に列し、同8年12月に現社名「徳山大神宮」に改称、翌9年10月、郷社に昇格した。大正4年2月、神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和46年3月5日、本殿が北海道有形文化財に指定され、同52年に修理したが、これに併せて拝殿を神明造に改築、翌53年に竣工した。
2024年10月30日
コメント(0)
8「フエートン事件」レザノフは漂流民を引渡して長崎を去ったが、ロシアに帰国した後、武力を用いれば日本は開国すると考え、皇帝に上奏するとともに、部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)らに日本への武力行使を命令した。レザノフはフヴォストフに計画を変更して、亜庭湾の偵察を行いアメリカに向かえ、という命令を残してサンクトペテルブルグへ向かったが、先の命令は撤回されていないと考えたフヴォストフは1806年(文化3年)から1807年(文化4年)にかけて、択捉島や樺太、利尻島で略奪や放火などを行った。幕府は、1806年1月にロシアの漂着船は食糧等を支給して速やかに帰帆させる「ロシア船撫恤令」を出していたが、フヴォストフの襲撃を受けて東北諸藩に出兵を命じ蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、1807年12月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視するという「ロシア船打払令」を出した。また、1808年(文化5年)には長崎でフェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。そうした状況下で発生したのがゴローニン事件であった。フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。1641年以降、欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社の商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた(平戸のイギリス商館については、イギリス(平戸)商館参照のこと)。18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立し、オランダ東インド会社は1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、フランス皇帝ナポレオンは1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス帝国の影響下に置かれることとなった。イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の自国による接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍の船を雇用して長崎と貿易を続けていた。事件の経過文化5年8月15日(1808年10月4日)、ベンガル総督ミントーの政策によりオランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフは長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英はやむなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。 17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。結果結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。フェートン号事件ののち、ドゥーフや長崎奉行曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる。この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。また、この事件以降、知識人の間で英国は侵略性を持つ危険な国「英夷」であると見なされ始め、組織的な研究対象となり、幕府は1809年に本木正栄ら6名の長崎通詞に英学修業を命じ、それに続いてオランダ語通詞全員に英語とロシア語の研修を命じた。本木らはオランダ人商人ヤン・コック・ブロンホフから英語を学び、1811年には日本初の英和辞書『諳厄利亜興学小筌』10巻が完成し、1814年には幕府の命による本格的な辞書『諳厄利亜語林大成』15巻が完成した。一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣し、バタヴィアを攻略、東インド全島を支配下に置いた。イギリス占領下のバタヴィアから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長ドゥーフらはナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置された。ドゥーフたちは本国の支援もないまま、7年もの年月を日本で過ごしていくこととなる。
2024年10月30日
コメント(0)
アラスカとカリフォルニアレザノフは1805年4月に長崎を去り、カムチャツカへ向かった。カムチャツカには彼に対して、極東にとどまり露米会社の営業地である北太平洋やアラスカを視察して混乱を立て直すよう、命令が届いていた。この時期、アラスカ海岸ではトリンギット族と露米会社の戦争が続き、1804年のシトカの戦いでようやく事態が収まったところであった。彼はアリューシャン列島伝いにアラスカの本拠であるノヴォアルハンゲリスク(現在のアラスカ州南部シトカ)に向かい、毛皮の乱獲の防止、会社の規則に違反する社員の処刑、小学校や図書館や栄養学校の開設などを行った。1806年の春、飢餓に苦しむ冬が去ると、レザノフは沿岸に寄航するアメリカ人船長から船を買い、スペイン領カリフォルニア(アルタ・カリフォルニア)へ船出した。この航海には、ヌエバ・エスパーニャとの間に協定を結び、年2回交易を行って食糧難のアラスカにメキシコの食糧を備蓄する狙いもあった。途中で大嵐にあったため、当初の目的であったコロンビア川河口付近(現在のワシントン州およびオレゴン州)のロシア領有宣言を行うことはできなかったが、サンフランシスコ港に到達し投錨することができた。レザノフは現地のスペイン人たちからの敬意を受け、連日連夜の大歓迎の祝宴でもてなされた。しかしスペイン法によりスペイン植民地は外国勢力との交易が禁じられていることをレザノフは知らされ、カリフォルニアの官僚たちも賄賂・買収に応じず、交渉は不調に終わった。この時、サンフランシスコで会ったアルタ・カリフォルニア総督ホセ・ダリオ・アルゲージョの15歳の娘コンセプシオン(コンチータ)と相思相愛となり、ロシア側聖職者の反対も押し切って婚約することになった。スペイン政府とロシアとの条約を前向きに考えるよう現地官僚と約束し、サンフランシスコ到着から6週間後、レザノフ一行はアラスカのノヴォアルハンゲリスクへと食糧を満載して帰った。病死レザノフはアラスカからすぐにカムチャツカへと戻った。彼は長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏したが、のち撤回した。しかし部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が単独で1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃する(フヴォストフ事件、文化露寇)。フヴォストフが日本の北方を襲撃しているころ、レザノフはスペインとの条約を皇帝に諮るため、カムチャツカから出てペテルブルクに向けてシベリアを横断中であった(彼はコンセプシオンとの結婚の許可をローマ教皇およびスペイン王に懇願する手紙も携えていた)。しかし、長年の過酷な航海およびシベリア横断により疲労し健康を害しており、1807年クラスノヤルスクで病死。42歳没。その後フォヴォストフ事件により日露関係は緊張する。土井利厚が豪語していた武士すなわち日本の軍事力がロシアの軍事力の前に太刀打ちできず、その軍事力によって支えられてきた筈の江戸幕府の威信に動揺をもたらしたからである。襲撃直後に江戸をはじめ各地に被害が大袈裟に伝えられたこともあり、やむなく幕府は京都の朝廷(光格天皇)に事件の経緯を報告せざるを得なくなった(『伊光記』文化4年6月29日条)。以後、江戸幕府は自らの威信維持のために内外に対して強硬策を採らざるを得なくなり、やがて1811年にはゴローニン事件が発生する。レザノフのカリフォルニアへの来航は、露米会社の社員や会社の奴隷であった先住民達が飢餓に苦しむことへの同情に基づくものだったが、ヌエバ・エスパーニャではその意図をめぐり混乱が起きた。彼が露米会社を代表して書いた手紙には、北米西海岸を全面的にロシアに併合し、本国から即座に大量の移民を送ろうという意図が現れている。もしレザノフが生きていれば北米植民地化計画は実行に移されたであろうが、彼が病死したためロシア皇帝はスペインとの条約に調印せず、ロシア領アラスカを立て直す彼の改革も挫折し、困窮するアラスカは次第に衰え、アメリカへの売却へと進んでゆく。コンセプシオン・アルゲージョはレザノフの帰りを待ったまま、誰とも結婚せず尼僧となり、1857年に死んだ。
2024年10月30日
コメント(0)
7「ロシア通商を求める」露米会社を設立したニコライ・レザノフは、若宮丸漂流民の津太夫一行を送還するとともに通商を求めるため、皇帝・アレクサンドル1世の親書およびラクスマンが入手した信牌を所持した使節として、1804年(文化元年)9月に長崎へ来航した。ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: , 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。露米会社サンクトペテルブルクに生まれる。14歳のころには既に5か国語をマスターしていたといわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊。1782年には退役して地方裁判所の判事となり、1787年にはサンクトペテルブルク裁判所勤務、のち海軍省次官秘書などを務めた。1791年にはデルジャーヴィン配下の官房長となる。この数年前、レザノフは毛皮商人のグリゴリー・シェリホフと知り合った。シェリホフは「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」を設立し、アラスカ・北太平洋方面への植民や交易活動を行っていた。シェリホフの娘アンナと結婚して会社と事業の拡大を進めた。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の指導者となった。レザノフは女帝エカチェリーナ2世の末期と新皇帝パーヴェル1世の宮廷をうまく立ち回り、1799年に合同アメリカ会社の経営者となり、同社は1800年に国策会社露米会社(露領アメリカ会社)に発展した。露米会社設立の勅許が下りたのはパーヴェル1世が暗殺される直前であった。露米会社は20年間にわたりアメリカ大陸北西部の北緯55度以北の海岸地帯、アラスカからカムチャツカに伸びるアリューシャン列島、およびカムチャツカから南へ伸びる千島列島の統治を許可された。小規模な交易会社や毛皮商人をこの地の毛皮交易から押し出した露米会社の勅許は、総支配人レザノフおよび会社の出資者だった宮廷の成員に多大な収入をもたらしたが、まもなく管理の失敗と食糧不足でアラスカ方面の統治は混乱し、会社は大きな損失を出した。遣日使節日本側が記録したレザノフの船と兵隊レザノフは、露米会社の食糧難打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考えて、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めたアダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたが、レザノフはこの履行を求めた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、正式な国交樹立のために通行許可証である信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長としてペテルブルクから出航し、南米回りで太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の善六から日本語を学び辞書を作った。1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、代わりに老中土井利厚が担当した。土井から意見を求められた林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかないと説いた。だが、土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」)。その結果、レザノフたちは半年間出島近くに留め置かれることになる(当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近に幕府が設営した滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった)。この間、奉行所の検使がレザノフらのもとを訪問しており、その中には長崎奉行所に赴任していた大田南畝もいた。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の余地はない[2]として、装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。
2024年10月30日
コメント(0)
大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。ラクスマン号により、日本に帰ってきて、政府の質問には、キリスト教のことは、一切話さなかったという。光太夫はここでエカチェリーナ2世に謁見し、帰国の許しを乞うた。出生から船頭時代伊勢亀山藩領南若松村(三重県鈴鹿市南若松)の亀屋四郎治家に生まれる。四郎治家は船宿を営み、光太夫(幼名は兵蔵)は次男で兄の次兵衛がいる。母は伊勢藤堂藩領玉垣村(鈴鹿市玉垣)で酒造業・木綿商などを営む清五郎家の娘妙伯(法名)。父の四郎治は兵蔵の幼少期に死去し、四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を相続させる。兄の次兵衛は江戸本船町の米問屋白子屋清右衛門(一味諫右衛門)家に奉公し、兵助も長じると母方の清五郎家の江戸出店で奉公する。1778年(安永7年)に兵蔵は亀屋分家の四郎兵衛家当主の死去に際して養子に迎えられ、伊勢へ戻ると亀屋四郎兵衛と改める。伊勢では次姉いのの嫁ぎ先である白子の廻船問屋一味諫右衛門の沖船頭小平次(沖船頭大黒屋彦太夫)から廻船賄職として雇われ、船頭となる。1780年(安永9年)には沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改める。漂流とロシアへの渡航1783年1月(天明2年12月)、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する。7か月あまりの漂流ののち、一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着。先住民のアレウト人や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。もともとはロシア人に保護されるような立場だったが、そのロシア人たちを帰還させるための船が到着目前で難破し、漂流民が逆に増えた。そのため、光太夫らが逆に指導的立場に立って、難破した船の材料などを活用し、脱出用の船を作った。その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)イルクーツクに至る。道中、カムチャツカでジャン=バティスト・バルテルミー・ド・レセップス フランス人探検家。スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述がある。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会う。1791年(寛政3年)、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見し、帰国を許される。この際、ロシア政府は日本との通商を目的として、光太夫たちを届ける予定でいたため、商人であった光太夫から日本の商業についての情報が聴取されている。日本への帰国と日露交渉日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と3人で根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る2人が江戸へ送られた。光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。帰国後は、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ、多くの写本がのこされた。また甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することになった。光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に関して防衛意識を強めていくようになった。その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらって生涯を暮らした。ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷の伊勢へも一度帰国を許されていることも確認されている。寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていた。光太夫の生涯を描いた小説『おろしや国酔夢譚』(井上靖、1968年)では帰国後の光太夫と磯吉は自宅に軟禁され、不自由な生活を送っていたように描かれているが、実際には以上のように比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われていたわけではなかったようである。それら資料の発見以降に発表された小説『大黒屋光太夫』(吉村昭、2003年)では事実を反映した結末となっている。なお、三重県鈴鹿市若松東には光太夫の行方不明から2年後に死亡したものと思い込んだ荷主が建立した砂岩の供養碑があり、1986年に鈴鹿市の文化財に指定されている。
2024年10月30日
コメント(0)
樺太調査寛政4年(1792年)には樺太調査を命じられ、5度目の蝦夷上陸を果たす。樺太の地理的調査などをおこない、鎖国の国法に接する松前藩のロシア、満州との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知する。10月には松前へ戻るが、この年に、伊勢国出身の船頭である大黒屋光太夫ら日本人漂流民一行の返還のため、ロシア使節のアダム・ラクスマンが根室へ来航し、滞在を延期して越冬した。翌年には江戸へ戻る。寛政5年(1793年)には、河川を通行する川船に対して課税する深川の川船役所への出仕を命じられる。徳内は関東地方の河川を調査して水系地図を作成し、効率化に務める。のちに山林御用に命じられる。寛政10年(1798年)には老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内は7度目の蝦夷上陸となる。幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請。このときに見分隊の総裁・松平忠明と意見が衝突し、免職される。江戸へ戻った徳内は忠明の失策を意見書として提出、忠明に対して辞表を提出するが、忠明はこれを受け取らず公職のままとなる。文化元年(1804年)まで再び山林御用を務め、この間に著述活動も行う。文化2年(1805年)には遠山景晋のもとで8度目の蝦夷上陸を果たす。翌文化3年(1806年)には三陸海岸を調査。文化5年(1808年)2月徳内は樺太詰を命ぜられ、4月に宗谷から渡樺した。白主(シラヌシ 本斗郡好仁村白主)から東の亜庭湾方面に向かい、久春古丹(クシュンコタン 大泊郡大泊町)に上陸する。その後、樺太警固の会津藩兵約800名も渡樺してきた。6月に久春古丹(大泊)を発ち能登呂半島の東海岸沿いに南下し、樺太最南端の西能登呂岬を回って西岸を北上し富内(トンナイ 真岡郡蘭泊村)に上陸した。その後、白主にて山丹舟を目撃した。7月には南に向かう会津藩兵の一行と共に樺太を離れた。文政6年(1823年)に長崎へ来日したドイツ人医師シーボルトは文政9年(1826年)に江戸へ参府する。徳内はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換する。学術や北方事情などを話題に対談し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えたほか、アイヌ語辞典の編纂を始め日本研究に熱心なシーボルトに協力する。シーボルトの『江戸参府紀行』によると、徳内がサガレン(樺太)に滞在した時に105人中53人が寒冷の影響で死亡したが、徳内は大量の昆布を食べることで、すこぶる健康であったとされる。1828年(文政11年)にシーボルトが帰国する際に国禁の日本地図持ち出しが発覚し、シーボルト事件に至るが、徳内は追及を免れている。晩年は江戸の浅草に住み、天保7年(1836年)に死去、享年82、あるいは83。墓所は東京都文京区の蓮光寺である。著作に『蝦夷草紙』、アイヌの生活を記した『渡島筆記』などがある。またアイヌ語の辞典である『蝦夷方言藻汐草』の編纂にもかかわった。1792年(寛政4年)、アダム・ラクスマンが神昌丸漂流民の大黒屋光太夫らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航。ラクスマンは江戸での通商交渉を求めたが謝絶され、代わりに長崎入港を認める「信牌」を渡され帰国した。アダム・キリロヴィチ・ラクスマン( 1766年 – 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。ロシア最初の遣日使節。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラックスマンとも表記される。1789年、アダム・ラクスマンはペテルブルク大学から派遣されてシベリアのイルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命により光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる。寛政4年(1792年)9月24日にエカテリーナ号でオホーツクを出発、10月20日、根室に到着した。藩士が根室に駐在していた松前藩は直ちに幕府に報告。幕府は、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされた。しかし、老中松平定信らは、漂流民を受け取るとともに、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示[1]。そのための宣諭使として目付石川忠房、村上大学を派遣した。併せて幕府は使節を丁寧に処遇せよとの命令を出しており、冬が近づいたため、松前藩士は冬営のための建物建設に協力し、ともに越冬した。石川忠房は翌寛政5年(1793年)3月に松前に到着。幕府はラクスマン一行を陸路で松前に行かせ、そこで交渉する方針であったが、陸路をロシア側が拒否したので、日本側の船が同行して砂原まで船で行くこととした。しかしエカテリーナ号は濃霧で同行の貞祥丸とはぐれ、単独で6月8日、箱館に入港した。ラクスマン一行は箱館から陸路、松前に向かい、6月20日松前到着。石川忠房は長崎以外では国書を受理できないため退去するよう伝えるとともに、光太夫と磯吉の2人を引き取った。ラクスマンらが別れを告げに行った際、宣諭使両名の署名がある「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への入港許可証(信牌)を交付される。6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を出港[3]。長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。帰国後は1794年、女帝に日本に関する様々な書物や名品を献上したことを賞賛されて、大尉に昇進した。1796年のエカチェリーナ2世の死去により失脚したのか、以降の消息は不明であるが、1806年に『ラクスマン日本渡航日記』を完成させていることから、少なくともそれまでは生存していたものと思われる。
2024年10月30日
コメント(0)
6「ロシア進出と松前藩」そして1759年(宝暦9年)に、松前藩士が厚岸で、択捉島および国後島のアイヌから、北千島に赤衣を着た外国人が番所を構えて居住しているという報告を受け、日本側もロシア人の千島列島への進出を認識するようになった。1778年(安永7年)、イルクーツク商人のシャバリンが蝦夷地のノッカマップ(現在の根室市)に上陸し交易を求めた。応対した松前藩士が来年返答すると伝え、翌1779年(安永8年)、厚岸に来航。松前藩は幕府に報告せず独断で、交易は長崎のみであり、蝦夷地に来ても無駄であることを伝え引き取らせた。一方、日本側も老中・田沼意次の時代に幕府が蝦夷地探検隊を派遣、1786年(天明6年)に最上徳内が幕吏として初めて択捉島へ渡り、同島北東端のシャルシャムでロシア人と遭遇する[4]など両国の接触が増えていった。最上 徳内(もがみ とくない)は、江戸時代中期から後期にかけての探検家・江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。元の姓は高宮(たかみや、略して高(こう)とも)。諱は常矩(つねのり)。幼名は元吉。通称は徳内、億内。字は子員。鶯谷、甑山、白虹斎と号した。父は間兵衛で長男。妻はふで(秀子)、子は2男3女。生年は宝暦5年(1755年)とも。実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。家業を手伝い、奥州各地をまわりたばこの行商などをしつつ独学で学ぶ。26歳の時、父が死去し、翌天明元年(1781年)には江戸へ出る。幕府の医官山田図南の家樸となった。奉公しつつ医術や数学を学び、29歳の時、天明4年(1784年)には本多利明の音羽塾に入門し、天文学や測量、海外事情にも明るい利明の経済論などを学ぶ。長崎への算術修行も行っている。幕府ではロシアの北方進出(南下)に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地(北海道)開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年(1785年)には師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として属する。蝦夷地では青島俊蔵らと共に釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されて国後島へも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌天明6年(1786年)には単身で再び国後島へ渡り、択捉島、得撫島へも渡る。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人の択捉島在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒される。同年に江戸城では10代将軍・徳川家治が死去、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥される。松平定信が老中となり寛政の改革を始め、蝦夷地開発は中止となる。徳内と青島は江戸へ帰還。徳内は天明7年(1787年)に再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺に住み込みで入門するが、正体が発覚して蝦夷地を追放される。徳内は陸奥国野辺地で知り合った船頭の新七を頼り再び渡海を試みるが失敗、新七に招かれて野辺地に住み、天明8年(1788年)には酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となる。寛政元年(1789年)、蝦夷地において、商取引や労働環境に不満を持ったアイヌが蜂起する事件であるクナシリ・メナシの戦いが起こり、事態を知った徳内は江戸の青島へ知らせる。真相調査のため派遣された青島は徳内を同行させ、徳内3度目の蝦夷地上陸となる。蝦夷地ではアイヌの騒動は収まっており、徳内らは宗谷など西蝦夷(日本海岸およびオホーツク海岸)方面から東蝦夷(太平洋岸)方面を廻り調査。江戸へ戻った青島は調査書を提出するが、幕府は青島らの蝦夷地における職務を離れた行動やアイヌとの交流を問題視し、青島は背任を疑われ、徳内と共に入牢する。青島は牢内で病死、徳内も病に冒されるが、師の利明らの運動で釈放され、寛政2年(1790年)には無罪となる。同年には普請役となり、幕府が松前藩に命じていたアイヌの待遇改善が行われているか実情を探るため、蝦夷地へ派遣される。4度目の蝦夷上陸では、国後島、択捉島から得撫島北端まで行き、各地を調査した。交易状況を視察し、量秤の統一などを指示、アイヌに対して作物の栽培法などを指導し、厚岸に神明社を奉納して教化も試みる。また、ロシアが日本人漂流民を送還するために渡航するという噂を得る。
2024年10月30日
コメント(0)
檜山奉行と林業延宝46年(1673年)に江差に檜山を開き、檜山奉行を置いた[3]。檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜山とされた。檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し、同年2月に樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また野火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた。また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物として活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩からも山師が訪れるようになり、こうした山師による伐採の運上金は藩の財政の一端を担った。しかし、元禄8年(1695年)4月に檜山で山火事が発生し、過半数の樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけるエゾマツの伐採が許可された。山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。18世紀18世紀前半から、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まった。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となった。請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これにより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹羽などの希少特産物を圧するようになった。生活物資の中心となる米は、対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていたが、1782年から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、大坂からの回送船による米の輸送が行われ、ますます西日本側との結びつきを深めてゆく。漁場の拡大に伴い、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃には蝦夷地全体で商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。東蝦夷では寛政元年(1789年)、請負商人がアイヌ首長を毒殺したとの噂からアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いへと至った。18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。19世紀享和2年(1802年)5月24日に7年間に及ぶ上知の期限を迎えたが、蝦夷地の返還は行われなかった。文化4年(1807年)2月22日に西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。なお、これ以前に前藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた。文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。(ただし藩を挙げての幕閣重鎮に対する表裏に渡る働きかけ、も確認されている。)これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、幕府は再度蝦夷地の直轄化を目論み、松前崇広の代の安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石が込高として預かり地とされた。合計で4万石余に加えて、別途手当金として年1万8千両が支給された。しかしこれらより余程に儲かる、蝦夷地の交易権を失ったために、財政的には以前より厳しいものとなった。元治元年(1864年)に松前崇広が老中に就任すると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻された。しかし、手当金700両が削減された。領地の上知や新興の箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は、藩士も松前城下の民も苦しいものとなった。館藩明治2年(1869年)6月24日、14代藩主松前修広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事に任じられた。同年、北海道11国86郡が置かれている。明治4年7月14日(1871年8月29日) に廃藩置県で館県になるまで、館藩は2年間存続した。藩名の由来は、朝廷から西部厚沢部村の館に新城を建築することを許されたことによる。政庁については、完成前に箱館戦争が始まったため、当初は以前と同じく福山城にあった。松前氏が戊辰戦争の中でも、東北戦争の時点では奥羽越列藩同盟に参加していたが、勤王派の正議隊(正義隊)が藩政を掌握して新政府側に寝返った。新築の館城に移って館藩として、箱館戦争で旧幕府軍と戦った。戦後処理では前述の経緯により、旧幕府軍に協力した者を逮捕及び裁判の上処分した。処分された者の数は町人、武士問わず90余名、町内引廻しのうえ斬首されたものは19名。また、明治2年に口番所(松前・江差)が廃止され、代わりに函館、寿都らに海官所が設置されたため、口番所の口収益に依存していた館藩の財政は深刻な打撃を受けた。明治3年12月には館藩の訴えにより、松前、江差の両海官所とも復したものの、インフレによって財政難は解決されず、さらにオランダ商会、藩内の商人への借金及び藩札の大量発行を行った。政治的にも藩政を掌握した正義隊と反対派が対立し、反対派は開拓使に正義隊への非難を訴えるなど不安定な状態が続き、廃藩に至るまで解消されることはなかった。館県明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により館藩の旧領には館県が置かれた。館県の範囲は、渡島国に属する爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡の4郡であったが、同年9月、館県は道外の弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県と合併、弘前県(後の青森県)の一部となり消滅した。
2024年10月30日
コメント(0)
5「松前藩と交易」一方、日本も松前藩が1754年(宝暦4年)に、国後場所を設置しアイヌとの交易を開始した。松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。17世紀まで松前藩の史書『新羅之記録』によると、始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる)である。信広は安東政季から上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となり蠣崎氏を名乗り、現在の渡島半島の南部に地位を築いたという。蠣崎季広の時には、主家安東舜季の主導のもと東地のチコモタイン及び西地のハシタインのアイヌと和睦し(夷狄の商舶往還の法度)、蝦夷地支配の基礎を固め、その子である松前慶広の時代に豊臣秀吉に直接臣従することで安東氏の支配を離れ、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、5代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、享保4年(1719年)から1万石格の柳間詰めの大名となった。当時の蝦夷地では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、ニシンが不漁になったため蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、繁栄した。藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させた。
2024年10月30日
コメント(0)
4「事件までの経緯」東方へ領土を拡張していたロシア帝国は、18世紀に入るとオホーツクやペトロパブロフスクを拠点に、千島アイヌへのキリスト教布教や毛皮税(ヤサーク)の徴収を行い、得撫島に移民団を送るなど千島列島へ進出するようになった。ロシア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。君主がツァーリを名乗ったそれ以前のロシア・ツァーリ国においても「ロシア帝国」と翻訳されることがあるが、ロシア語では「ツァーリ」(本来は東ローマ皇帝を指したが、やがて一部の国の王、ハーンなどを指す語となった)と「インペラートル」(西欧に倣った皇帝を指す語)は異なる称号であるため、留意を要する[3]。帝政は1721年にツァーリ・ピョートル1世が皇帝(インペラートル)を宣言したことに始まり、第一次世界大戦中の1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によって終焉する。領土は、19世紀末の時点において、のちのソヴィエト連邦の領域にフィンランドとポーランドの一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万km2超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。首都は、1712年まで伝統的にモスクワ国家の首府であったモスクワからサンクトペテルブルクに移され、以降帝国の終末まで帝都となった。政治体制は皇帝による専制政治であったが、帝政末期には国家基本法(憲法)が公布され、国家評議会とドゥーマからなる二院制議会が設けられて立憲君主制に移行した。20世紀はじめの時点で陸軍の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大であった。海軍力は長い間、世界第3位であったが、日露戦争で大損失を出して以降は世界第6位となっている。宗教はキリスト教正教会(ロシア正教会)が国教ではあるが、領土の拡大に伴い大規模なムスリム社会を内包するようになった。そのほかフィンランドやバルト地方のルター派、旧ポーランド・リトアニアのカトリックそしてユダヤ人コミュニティも存在した。ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人・町人・職人、カザークそして農民といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる農奴であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。シベリアの先住民や中央アジアのムスリムそしてユダヤ人は異族人に区分されていた。ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。国土20世紀はじめ時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の1/6にあたる約 22,800,000㎞2 (8,800,000 SQ mi)に及び、イギリス帝国の規模に匹敵した。しかしながら、この当時は人口の大半がヨーロッパロシアに居住していた。100以上の異なる民族がおり、ロシア人は人口の約43%を占めている。現代のロシア連邦のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国はウクライナの大部分(ドニプロ・ウクライナとクリミア)、ベラルーシ、モルドバ(ベッサラビア)、フィンランド(フィンランド大公国)、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア(ミングレリア(英語版)の大部分を含む)、中央アジア諸国のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン(トルキスタン総督府)、リトアニア、エストニアとラトビア(バルト諸州)の大部分だけでなく、ポーランド(ポーランド王国)とアルダハン、アルトヴィン、ウードゥル、カルスの相当の部分、そしてオスマン帝国から併合したエルズルムの北東部を含んでいた。1860年から1905年にかけて、ロシア帝国はトゥヴァ(1944年に併合)、カリーニングラード州(第二次世界大戦後にドイツより併合)そしてクリル列島(第二次世界大戦後に実効支配)を除く現在のロシア連邦の全領土を支配した。サハリン州南部(南樺太、第二次世界大戦後に実効支配)は1905年のポーツマス条約により日本に割譲されている。
2024年10月30日
コメント(0)
事件の解決リコルドは、オホーツクでイルクーツク民生長官とオホーツク港務長官による松前奉行宛の書簡を受け取ると日本に向かい、9月8日、エトモ(現・室蘭)に到着。箱館で待機していた嘉兵衛はディアナ号を途中で出迎え、9月17日に箱館に入港した。その後、嘉兵衛は日露間を往復し、会談の段取りを整えた。9月21日、リコルドと高橋三平、柑本兵五郎が会談、リコルドは両長官の書簡を日本側に提出した。松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、9月26日にゴローニンを釈放。9月29日、嘉兵衛たちが見送る中、ディアナ号が箱館を出港し、ゴローニン事件が終結した。嘉兵衛は外国帰りのため、しばらく罪人扱いされた。松前から箱館に戻った9月15日から称名寺に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されなかったが、体調不良のため自宅療養を願い出て、10月1日からは自宅で謹慎した。そして翌年3月、松前奉行所に呼び出され、出国したのはロシア船に拿捕されたためであり、帰国したことから無罪となった。そして5月にはゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金5両を下賜された。晩年文化11年(1814年)、兵庫の本店に戻る。9月に大坂町奉行所から呼び出され、宗門関係の調べを受けたほか、町奉行から日露交渉について尋ねられる。11月には大坂城代・大久保忠真に召し出されて、ゴローニン事件について質問される。文政元年(1818年)秋、養生のため淡路島に帰る。文政5年(1822年)には妻・ふさの養生の場として、大坂・野田に別荘を建てて、しばらく逗留する。文政7年(1824年)に隠居。淡路島に帰った後も、灌漑用水工事を行ったり、都志港・塩尾港の整備に寄付をするなど地元のために財を投じている。文政9年(1826年)、徳島藩主・蜂須賀治昭は嘉兵衛の功績を賞し、小高取格(300石取りの藩士並)待遇とした。翌文政10年(1827年)早春、御礼のため徳島に行き、藩主に拝謁している。同年、背中にできた腫物が悪化、4月に59歳で死去。戒名は「高譽院至徳功阿唐貫居士」。なお、大正6年(1917年)、高田屋一族の菩提寺である函館・称名寺の住職から戒名を追贈され、「高譽院殿至徳功阿唐貫大居士」となる。明治に入り北方開拓の功績を讃えられ、明治44年(1911年)に正五位を追贈、昭和13年(1938年)には開拓神社の祭神となった。その後の高田屋高田屋は弟・金兵衛が跡を継ぎ、文政4年(1821年)に蝦夷地が松前藩に返された後、松前藩の御用商人となり、文政7年には箱館に本店を移した。しかし、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられる。評定所での審問の結果、密貿易の嫌疑は晴れたものの、ゴローニン事件のときに嘉兵衛がロシア側と取り決めた「旗合わせ」(高田屋の船がロシア船と遭遇した際、高田屋の船を襲撃することを避けるため、高田屋が店印の小旗を出し、それに対しロシア船が赤旗を出し、相手を確認するもの)を隠していたことを咎められ、闕所および所払いの処分となり、高田屋は没落した。
2024年10月30日
コメント(0)
ゴローニン事件嘉兵衛拿捕までの経緯ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)による文化露寇の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化していた。そうした中、文化8年(1811年)5月、軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていたヴァーシリー・ゴローニンは国後島の泊に入港した際、厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に捕えられ、松前で幽囚の身となった。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)は一旦オホーツクに戻り、ゴローニン救出の交渉材料とするため、文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた良左衛門や文化7年(1810年)にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島に向かった。国後島に着いたリコルドは漂流民を陸へ送り、日本側からゴローニンの消息を知ろうとした。松前奉行調役の奈佐瀬左衛門は良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝えたが、リコルドはそれを信じず、文書で証明するようにと良左衛門を陸へ送り返したが、 良左衛門は戻らなかった。リコルドは国後島沖に留まり、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船である。カムチャツカへ連行嘉兵衛は観世丸に乗り、干魚を積んで択捉島から箱館に向かう途中、公文書を届けるため泊に寄港しようとしていたが、文化9年8月13日(1812年9月18日)朝、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕された。嘉兵衛は、リコルドにゴローニンが生きていることと、カムチャツカに行く用意があることを伝えた。そして、弟の嘉蔵・金兵衛に事件解決のため「掛合〔交渉〕も致し候」と手紙を書き送り、食料と衣服をディアナ号に積み替え、水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌのシトカとともに、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに連行された。ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ。12月8日(和暦)、嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛はキリスト教の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った。その後、みずからの健康を不安に感じた嘉兵衛は情緒が不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の提言に従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義の謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。日本への帰還幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフヴォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させた。この幕府の事件解決方針は、まさに嘉兵衛の予想と合致するものだった。1813年(文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した。リコルドが嘉兵衛を介して日本側に提出した謝罪文は、リコルドが嘉兵衛を捕らえた当人であったという理由から幕府が採用するところとならず、リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められた。日本側の要求を承諾したリコルドは、6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発。一方、高橋と嘉兵衛らは6月29日に国後島を出発、7月19日に松前に着いた高橋は松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告。そして8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された。
2024年10月30日
コメント(0)
3「高田屋嘉兵衛」高田屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。丸の入手まで淡路国津名郡都志本村(現:兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男として生まれる。寛政2年(1790年)、嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出てきた。堺屋は兵庫と因幡や伯耆を結ぶ廻船問屋を営んでおり、既に弟の嘉蔵が奉公に出ていた。淡路で瓦船などに乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕(航海長)、沖船頭(雇われ船頭)と昇格した。寛政4年(1792年)に所帯を持ち、兵庫西出町に居を構えた。しかし、その後すぐに船を下りて2年ほど熊野灘でのカツオ漁に従事しており、これは北前船を入手するための資金集めが目的だったと考えられている。寛政7年(1795年)に、兵庫の和泉屋伊兵衛のもとで再び沖船頭として働くようになり、その翌年には、当時としては最大級となる千五百石積み(230トンほど)の「辰悦丸」を手に入れたとされる。辰悦丸は、嘉兵衛が出羽国酒田(現在の山形県酒田市)で新造したとされるが、若い嘉兵衛がどのようにして建造費を捻出したかが謎とされ、中古船を入手したという説があるほか、島根県浜田市に残された客船帳の入港記録(寛政10年正月4日入津)に和泉屋の屋号が記されていることから、嘉兵衛が兵庫の北風家の助けを得て和泉屋と共同出資したという説もある。蝦夷地への進出辰悦丸を入手した翌年の寛政9年(1796年)には、嘉兵衛は兄弟と力を合わせ、初めて蝦夷地まで商売の手を広げた。当時、蝦夷地を支配していたのは松前藩で、その城下にあたる松前では近江商人などが利権を確保しており、新参者が参入する余地はなかったようである。そこで嘉兵衛は、当時松前の三湊といわれた松前、江差、箱館の中でも、まだほとんど開発されていなかった箱館を拠点とし、寛政10年(1798年)に弟の金兵衛を箱館の支配人とした。嘉兵衛は兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという商売を行った。寛政11年(1799年)から12年(1800年)の間には辰悦丸を自己の持船とし、兵庫の西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板を掲げ本店を置き独立している。寛政11年(1799年)、嘉兵衛が厚岸に滞在中、択捉島開拓の任に就いていた近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路を開拓した。翌年の寛政12年(1800年)に嘉兵衛は、兵庫や大坂で大工らを雇い入れるとともに、米、塩、鍋や釜などの物資を調達し、辰悦丸と4艘の船で択捉島に渡った。択捉島では17か所の漁場を開き、アイヌに漁法を教えている。享和元年(1801年)、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許される。文化3年(1806年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。文化6年の大火で箱館市街の半分が焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なった。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施した。文化7年(1807年)には箱館港内を埋め立て造船所を建設、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船(似関船等)はじめ多くの船を建造した。
2024年10月30日
コメント(0)
2「ゴローニン事件の起因」(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記)は、1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン(・日本では一般にはゴローニンと表記するため、以下ゴローニンと記載する。)らが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記』により広く知られる。 ※日付は和暦。箱館奉行・松前奉行・蝦夷奉行その役務は、蝦夷地の行政や警固(防衛)であった。病人に対する薬や老人・子供に対する御救米の支給(介抱)と撫育政策(オムシャ)をおこない、松前藩が禁じた和語の使用や和装などを解禁・推奨(和風化政策)した。また、奉行治世時代に全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳(戸籍)が作成されるようになった(江戸時代の日本の人口統計も参照)。そのほか場所請負制を改め直捌とし幕吏立会いで商取引の不正を防止。山丹交易を幕府直営とし、航路や道路など交通網の整備もすすんだほか、東北諸藩に出兵を命じて各地に陣屋を築き警固した。第1期幕領時代(1802年 – 1821年)前期奉行の治世中には寛永通寳鉄銭が広く流通し、高田屋嘉兵衛による択捉航路の開設(北前船も参照)及び近藤重蔵らによる新道開削等がおこなわれ、間宮林蔵らの樺太調査による間宮海峡の確認や、松田伝十郎の山丹交易改革でアイヌの累積債務の支払えない分を肩代わりした。アダム・ラクスマン来航をはじめとするロシアの南下政策を警戒した幕府は、北辺警固のため松前藩の領地であった東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島列島)を寛政11年(1799年)に仮上知。そして、享和2年(1802年)2月、永久上知の上箱館に蝦夷奉行が設置され、戸川安論・羽太正養の2名が任命され、うち1名が1年交代で箱館に駐在した。同年5月箱館奉行に改称する。文化元年(1804年)宇須岸館(別名・河野館または箱館)跡(現在の元町公園)に奉行所を置き、これに伴い、同地にあった蝦夷地総社・函館八幡宮を会所町(現八幡坂の上)に遷座した。文化2年(1805年)2月に斜里山道(斜里越)を開削した八王子千人隊千人頭原胤敦が箱館奉行支配調役に任ぜられた。原胤敦と配下同心は文化5年(1808年)に八王子に戻る。 文化4年(1807年)、文化露寇を機に、和人地及び西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸および樺太)も上知、箱館奉行を松前奉行と改め、松前に移転した。また、遠山景晋(遠山の金さんの養父)が西蝦夷地検分を行い、最上徳内が8度目の蝦夷地赴任となったのも、第一次幕領期の文化4年ころであった。樺太は、文化6年(1809年)に西蝦夷地から分立し北蝦夷地に改称された。ロシアの脅威が収まった文政4年(1821年)、和人地及び全蝦夷地を松前氏に還付し松前奉行は廃止された。第2期幕領時代(1856年 – 1868年)後期幕領期には箱館通宝の発行が行われ、前期同様道路開削も行われた。また蝦夷地で流行する疱瘡対策として土人への種痘なども行った。ちなみに土人とは、当時「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉で、蝦夷から改称当時の呼称である。幕末の箱館開港を機に、乙部村以北と木古内村以東の和人地と全蝦夷地(北州)が再度上知され、安政3年(1856年)再び箱館に箱館奉行が置かれる。開港地箱館における外国人の応対も担当した。定員は2 ~4名で、内1名は江戸詰となる。役高は2,000石で、役料1,500俵、在勤中の手当金700両が支給された。支配組頭に任ぜられた向山源太夫は樺太の調査を行い、その帰途に病死している。このとき配下の松浦武四郎も同行。奉行所は、最初は前回同様宇須岸館跡に置かれたが、元治元年(1864年)奉行所を五稜郭へ移転した。このころ、アイヌの呼称が「蝦夷」から「土人」に改称された。
2024年10月30日
コメント(0)
「ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「ゴローニン事件の起因」・・・・・・・・・・・・33、 「高田屋嘉兵衛」・・・・・・・・・・・・・・・・64、 「事件までの経緯」・・・・・・・・・・・・・・・165、 「松前藩と交易」・・・・・・・・・・・・・・・・276、 「ロシア進出と松前藩」・・・・・・・・・・・・・367、 「ロシア通商を求める」・・・・・・・・・・・・・508、 「フエートン事件」・・・・・・・・・・・・・・・829、 「ゴローニン捕縛」・・・・・・・・・・・・・・・8910、「通訳教育・間宮林蔵の来訪」・・・・・・・・・・9611、「事件解決へ」・・・・・・・・・・・・・・・・・10512、「幻の国境両定交渉」・・・・・・・・・・・・・・12513、「日露和親条約の締結」・・・・・・・・・・・・・13014、「日本幽囚記」・・・・・・・・・・・・・・・・・13715、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・148 1、「はじめに」「ゴロウニン日本幽囚記」で江戸末期の日本とロシアの領土問題と開港交渉と事件が詳しく記されたものである。約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。1811年(文化8)~1813年箱館、松前でで幽囚生活を送ったロシアのデイアナ郷館長ゴロウニン海軍少佐の著。帰国後の1816年に刊行。蘭学者の馬場佐十郎(1787~1822)足立左内(信顕1769~1822)らにロシア語、数学を伝授したことや日本の諸事情及び日本人論も含む名著。最初の翻訳は、1821年(文政4)幕名により馬場佐十郎訳、高橋景保校、翌年馬場死後は杉田玄白、青地林宗が翻訳に加わった「遭厄日本紀事」に描かれている。
2024年10月30日
コメント(0)
「池田 重寛」(いけだ しげのぶ)は、江戸時代後期の大名。因幡国鳥取藩5代藩主。鳥取藩池田家宗家7代。幼名、勝五郎。初名は仲繆(なかみつ)、重繆(しげみつ)。官位は従四位下、侍従、相模守、左近衛少将。江戸藩邸で生まれる。延享4年(1747年)に父・宗泰が死去した時、勝五郎はわずか2歳であったため、家臣団は若桜藩3代藩主池田定就に相続させ、勝五郎をその養嗣子とすることを幕府に願い出た。しかし、幕府は生母桂香院の実家が紀州徳川家で(当時の将軍家の出身藩でもある)、初代鳥取藩主池田光仲が幼少で家督相続をしていることを理由に勝五郎の相続を認めた(勝五郎はやがて仲繆と名乗るが、「仲」の字は光仲に由来している)。宝暦7年(1757年)、藩校・尚徳舘を開いた。宝暦8年(1758年)、琴姫(紀州藩7代藩主徳川宗将の二女)と婚約する。しかし、琴姫は同年に死去した。宝暦9年(1759年)、9代将軍徳川家重の面前で元服、家重の偏諱を受け重繆(のち重寛)に改名。従四位下を叙任する。幼少で藩主となったため、母・桂香院が後見し藩政を運営した。重寛が長じて後も、桂香院は藩政への影響を保ち続けた。明和3年(1766年)、正室・律姫と婚姻する。律姫は同年、鳥取藩江戸藩邸で死去した。のち、継室に仲姫を迎える。明和8年(1771年)三男・澄時が支藩の鹿奴藩6代藩主を継ぐ。天明元年(1781年)、長男・治恕が早世する。天明3年(1783年)10月12日に死去した。享年38。家督を次男・治道が継いだ。法号は岱岳院殿祥雲洪澤大居士。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。重寛死後の天明5年(1785年)には、四男・澄教が澄時の死去に伴い鹿奴藩7代藩主(仲雅と改名)となった。 「池田 治道」(いけだ はるみち)は、因幡鳥取藩6代藩主。鳥取藩池田家宗家8代。島津斉彬・鍋島直正などが外孫となる。幼名岩五郎、のち秀三郎と改める。官位は従四位下、侍従、相模守、左近衛少将。江戸藩邸で生まれる。安永7年(1778年)、重寛の正室・仲姫(御三卿田安宗武の四女)の預かりとなり仲姫が養育する。継母の仲姫、祖母・桂香院の影響を受けて育つ。天明元年(1781年)、長兄で世嗣の治恕が江戸藩邸で死去し、天明2年(1782年)に藩主世嗣となる。天明3年(1783年)父・重寛が死去し、家督を相続する。翌、天明4年(1784年)、10代将軍徳川家治の面前で元服、家治の偏諱を受け治道と名乗る。従四位下に叙される。寛政2年(1790年)、正室・生姫と婚姻する。寛政4年(1792年)、生姫は初産で一女を産んだ後、体調が回復せず鳥取藩江戸藩邸で死去した。の長女・弥姫は薩摩藩主・島津斉興の正室となり島津斉彬の生母となった。寛政5年(1793年)、継室として丞姫を迎えた。生姫の死去した寛政4年(1792年)、家督の相続をめぐって事件が起きた。治道の男児には、鳥取城で生まれた長男・銀之進(後の昭邦(斉邦))と江戸藩邸で生まれた次男の永之進(後の道稷(斉稷))があった。江戸では永之進を推す声が強く、国許との間に対立が起きた。治道が国許に帰国した際、家臣の佐々木磯右衛門は銀之進を世嗣とするよう諌言した。これに怒った治道は磯右衛門の頭を竹扇で打った。磯右衛門は帰宅するとその晩、2人の息子と切腹した。この事件を機に、治道は銀之進を世嗣と決定した。磯右衛門に対する行動や、(のちの話であるが)昭邦と名乗った銀之進に対して永之進には「道」の字を与えて道稷と名乗らせていることから、銀之進を世嗣と決定したのも本意ではなく、治道自身も永之進を跡目にと期待し、世嗣決定後も永之進を偏愛していたことがうかがえる。治道の時代は幕府の手伝い普請、天災などで藩財政が窮乏した。賢臣に恵まれ藩政改革を断行したが、なかなか財政再建までは至らなかった。文武を奨励し、学問も盛んになった。寛政10年(1798年)5月6日に死去した。享年31。家督を斉邦が継いだ。法号は大機院殿賢翁紹雄大居士。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。 「池田 斉邦」(いけだ なりくに、天明7年2月18日(1787年4月6日) - 文化4年7月9日(1807年8月12日))は、因幡鳥取藩7代藩主。鳥取藩池田家宗家9代。6代藩主池田治道の長男。母は側室の三宅氏(於三保の方)。幼名秀三郎、のち銀之進と名乗る。初名は昭邦(てるくに)。官位は従四位下、侍従、相模守。鳥取城で生まれる。1歳年下の弟・永之進(後の斉稷)との間に家督相続争いが起こったが、佐々木磯右衛門事件の後、父・治道より正式に世嗣と認められ、昭邦と名乗る。寛政8年(1796年)、薩摩藩9代藩主島津斉宣の長女・操姫と婚約する。しかし、のちに婚姻前に斉邦が没したため流縁となった。寛政10年(1798年)、父・治道の死去に伴い家督を相続する。寛政12年(1800年)、11代将軍徳川家斉の面前で元服、家斉の偏諱を受け斉邦に改名。従四位下を叙任する。斉邦は若年ながら質素倹約、文武奨励を図り、老中松平定信・薩摩藩8代藩主島津重豪より賞された。文化4年(1807年)7月9日に死去した。享年21。家督を弟の道稷(斉稷)が継いだ。法号は真證院殿徳應義榮大居士。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。
2024年10月29日
コメント(0)
「池田 忠継」(いけだ ただつぐ)は、備前岡山藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家初代。播磨姫路藩主・池田輝政の次男(実は五男)。母は徳川家康の次女・督姫。慶長4年(1599年)2月18日、伏見で生まれる。徳川家康の外孫にあたるため、岡山藩を領した小早川秀秋が無嗣断絶により改易されると、慶長8年(1603年)に、わずか5歳で備前岡山28万石に封じられた。しかし、幼年の忠継に政務を取り仕切ることができるはずもなく、異母兄の利隆が執政代行として岡山城に入り、忠継は父の姫路城に留まった。慶長19年(1614年)、父の死後、16歳で初のお国入りをし、父の遺領の内、母・良正院の化粧料の西播磨10万石を分与され、計38万石を領した。そして兄の利隆と共に大坂冬の陣では徳川方として参戦したが、帰城後に発病して、翌慶長20年(1615年)に岡山城で死去した。享年17。森忠政の娘と婚約していたが、婚姻前に死去したため嗣子はなく、同母弟の忠雄が跡を継いだ。なお、忠継兄弟の系統は、忠雄の嫡男・光仲の時に因幡鳥取藩に転封となり、幕末まで続いた。墓所(廟)は清泰院にあり、木像と位牌が安置され、遺体は廟の下に木棺の中に胡座姿で埋葬された。なお、清泰院は当初岡山県岡山市中区小橋にあったが、昭和39年(1964年)に国道橋建設のために岡山市南区浦安本町に移転し、それに伴い廟も昭和53年(1978年)に当地に移転した。岡山県指定重要文化財。毒饅頭疑惑忠継の若すぎる死には以下のような伝説が残っている。忠継の母・督姫が実子である忠継を姫路城主にすべく、継子で姫路城主であった利隆の暗殺を企て、岡山城中で利隆が忠継に対面した際、饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとした。 女中が手のひらに「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかったが、これを察知した忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡した。 こうして身をもって長兄で正嫡の利隆を守ったという。また、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて死亡したとされる。史実としては忠継は、前述の通り慶長20年(1615年)2月23日に岡山城内で死去しており、督姫は同年2月5日に姫路城内で死去し、京都・知恩院に埋葬されている。また、昭和53年(1978年)に忠継廟の移転の際に発掘調査が行われ、その際に毒死疑惑検証のため遺体の調査が行われた。その結果では毒死の確証は得られなかった。したがって、この毒饅頭疑惑は伝説の域を出ない。「池田 忠雄」(いけだ ただかつ)は、江戸時代前期の大名。淡路洲本藩主、のち備前岡山藩第2代藩主。因幡鳥取藩池田家宗家2代。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。慶長7年(1602年)10月28日、姫路城で生まれる。慶長13年(1608年)、7歳で元服する。徳川家康の外孫に当たることから慶長15年(1610年)、9歳で淡路洲本城に6万石の所領を与えられたが、父の姫路城に留まり、重臣が政務に当たった。慶長19年(1614年)、大坂の陣に出陣。序盤の木津川口の戦いで出陣を命じられるなど、ある程度の重用を受けている。配下の横川重陳は、徳川家康から一番槍の感状を得ている。元和元年(1615年)、岡山藩主である同母兄・忠継が17歳で早世したため、その跡を継いだ。洲本藩は廃藩とされ、淡路一国は徳島藩の蜂須賀至鎮にあたえられた。岡山城に入ることとなった忠雄は遺領38万石のうち、忠継が相続した母・良正院の化粧料10万石より同母弟・輝澄(山崎藩3万8000石)や政綱(赤穂藩3万5000石)、輝興(平福藩2万5000石)らにそれぞれ分与したため、忠雄の領地は31万5200石となった。入封後は岡山城の拡張工事や城下町の整備、新田開発や治水工事に努めた他、元和6年(1620年)から始まった天下普請による大坂城改築工事に参加させられ、自らの担当場所に蛸石、肥後石、振袖石というそれぞれ大坂城内で第一位から第三位となる巨石をはじめ、その他様々な巨石を運び込んだ。そしてこの大坂城での工事を岡山城の改修工事にも生かし、現存する月見櫓近辺の石垣などを打ち込み接ぎで築き、天端石には石狭間を設置した。寛永7年(1630年)7月11日、寵愛する小姓の渡辺源太夫が藩士・河合又五郎に殺害されるという事件が起こり(鍵屋の辻の決闘)、脱藩した又五郎をかくまった旗本・安藤正珍と岡山藩池田家との争いに発展した。寛永9年(1632年)、又五郎誅殺を願いつつ、31歳で死去した。死因は天然痘だが、毒殺されたという説もある。死後、家督は長男・光仲が継いだが、幼少だったために因幡鳥取藩に移封された[4]。墓所は清泰院である。当初岡山県岡山市中区小橋にあったが、昭和39年(1964年)に国道橋建設のために岡山市南区浦安本町に移転した。政治備前1国と備中4郡を領した忠雄は、岡山城の城郭の整備、城下町の拡張整備にあたった。岡山城については、大手門を改築し、高麗門を構えて石垣で枡形をつくり、石垣を南北にまたいで西面する渡櫓門を建て、枡形門をつくった。また、大砲に対する防衛のため、本丸書院の段の北西角に望楼と武器庫を兼ねた月見櫓を新設し、付近に火薬庫と火縄銃用の石狭間をも設け、防備を固めた。城下町については、旭川の用水路である西川の開削が代表的で、この西川を城下と農村の境界とした。
2024年10月29日
コメント(0)
13、「鳥取藩主池田氏」「鳥取藩池田氏」(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。藩史江戸時代を通し池田家が治めた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。元和元年(1615年)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。寛永9年(1632年)備前国岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる池田光仲が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入った。これ以後、池田家の分家筋が因幡・伯耆国32万5000石を治めることとなる。この忠雄死去の前後に、鍵屋の辻の決闘に関わることで大きな注目を集めた。鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから、岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来た。これは鳥取池田家の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田家のみに許された特権であった。2国を領し因幡国内に藩庁が置かれたため、伯耆国内では米子に城が置かれ、城代家老として、荒尾家が委任統治(自分手政治)を行った。この他に倉吉、八橋、松崎、浦富といった藩内の重要な町にも陣屋がおかれ家老職にある家が代々統治を行っていた。なお、これらの町は他の在郷村とは違い、城下の鳥取と同じ扱いを受け町年寄などの役職が置かれていた。また、因幡国内には支藩として鹿奴藩と若桜藩を置いた。天保の大飢饉は鳥取藩でも猛威を振るった。その被害は「申年がしん」と称されている。幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。明治政府に登用された鳥取藩士は、河田左久馬、北垣晋太郎、原六郎、松田道之らがいる。廃藩以後明治4年(1871年)廃藩置県により鳥取県となった。初代の権令(知事)には本圀寺事件の首魁であった元藩士の河田景与が任命されている。また、池田家は明治17年(1884年)7月7日に、当主池田輝知が侯爵となり華族に列せられた。明治23年(1890年)に亡くなり、従弟の池田仲博が、婿養子となり14代として跡を継いだ。15代当主は長男の池田徳真(1904年 – 1993年)で、英国留学をきっかけに、クリスチャンとなっている。著書を数冊刊行している。なお、姉の幹子は徳川宗敬夫人である。2010年現在の当主は、先代の娘の池田百合子で16代。養子はいるが、家督を継ぐ者ではなく、当代限りで(旧鳥取藩主として)池田家の終了を決意している。この関係経緯により、東京多磨霊園にあった鳥取藩主池田家の墓は、平成15年(2003年)に鳥取市の大雲院に移築改葬され、「史跡鳥取藩主池田家墓所保存会」が設けられた。歴代藩主池田家(長吉流)外様 6万石 (1600年 – 1617年)*長吉(ながよし)〔従五位下・備中守〕*長幸(ながよし)〔従五位下・備中守〕池田家(宗家)外様 32万石 (1617年 – 1632年)*光政(みつまさ)〔従四位下・左近衛権少将〕池田家(忠雄流)外様(准家門) 32万5千石 (1632年 – 1871年)
2024年10月29日
コメント(0)
「池田 斉政」(いけだ なりまさ)は、備前岡山藩の第6代藩主。岡山藩池田家宗家8代。安永2年(1773年)4月8日、第5代藩主・池田治政の次男として江戸藩邸で生まれる。庶出の兄政恭がいたが、正室の子であったことから長男として届出がなされた。寛政2年(1790年)に元服する。寛政6年(1794年)3月8日、父の隠居により跡を継ぎ、第11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって初名の政久(まさひさ)から斉政に改名した。父・治政の代の放漫財政を改めて、役職に見合う予算制度の導入や出費の制限など、倹約財政を断行して藩財政の回復を図った。また、文化振興や有能な人材登用などにも努め、藩政をいくらかは再建している。文政2年(1819年)、嫡子・斉輝が23歳で早世し、文政3年(1820年)に斉輝の長男・本之丞も5歳で死去した。そのため、弟・政芳の長男・斉成を婿養子に迎えるが、文政9年(1826年)8月に斉成も18歳で死去した。その後、幕府から将軍・家斉の子女を養子に迎えるようにもちかけられるものの、それを断って文政9年(1826年)10月に薩摩藩主・島津斉興の次男・久寧(のち為政、斉敏、鳥取藩池田治道の孫)を婿養子として迎えた。文政12年(1628年)2月7日、家督を斉敏に譲って隠居する。天保4年(1833年)6月26日、岡山城西の丸で死去した。享年61。 「池田 斉敏」(いけだ なりとし)は、備前岡山藩の第7代藩主。岡山藩池田家宗家9代。文化8年(1811年)4月8日、薩摩藩主・島津斉興の次男として江戸で生まれる。生母は斉興の正室・周子(鳥取藩主・池田治道の娘)。初名は島津久寧(ひさやす)。岡山藩第6代藩主・池田斉政(正室の伊渡子は周子のおばにあたる)の嫡男であった斉輝が文政2年(1819年)に23歳で早世し、その後養子となった甥の斉成も文政9年(1826年)8月に早世してしまったため、同年10月に斉政の養嗣子に迎えられ、池田為政(ためまさ)と名乗る。文政12年(1829年)2月7日、斉政の隠居により家督を継いだ。将軍徳川家斉の偏諱を受け斉敏(「敏」は養祖父池田敏政の1字)に改名した。後楽園内に周代の井田法に倣い、井田を縮尺再現するなどし、民政に尽力した。嗣子のいなかった斉敏は、大叔父にあたる奥平昌高の十男・七五郎(後の慶政)を仮養子として、天保13年(1842年)1月30日に岡山において死去した。享年32。七五郎は斉敏と異なり、池田家とは直接の血縁関係がなかったため、支藩の鴨方藩主・池田政善の娘宇多子を斉敏の養女とし、婿養子として七五郎を迎える手順をとった。この手続きを完了するまで斉敏の死亡は隠されており、4月2日にようやく喪が発せられた。血筋[編集]池田輝政の女系子孫である。池田輝政―茶々姫(京極高広室)―養仙院(松平定頼室)―真修院(島津綱久室)―島津綱貴……斉興―池田斉敏池田輝政―忠雄―光仲―仲澄―吉泰……治道―弥姫―池田斉敏 「池田 斉敏」(いけだ なりとし)は、備前岡山藩の第7代藩主。岡山藩池田家宗家9代。文化8年(1811年)4月8日、薩摩藩主・島津斉興の次男として江戸で生まれる。生母は斉興の正室・周子(鳥取藩主・池田治道の娘)。初名は島津久寧(ひさやす)。岡山藩第6代藩主・池田斉政(正室の伊渡子は周子のおばにあたる)の嫡男であった斉輝が文政2年(1819年)に23歳で早世し、その後養子となった甥の斉成も文政9年(1826年)8月に早世してしまったため、同年10月に斉政の養嗣子に迎えられ、池田為政(ためまさ)と名乗る。文政12年(1829年)2月7日、斉政の隠居により家督を継いだ。将軍徳川家斉の偏諱を受け斉敏(「敏」は養祖父池田敏政の1字)に改名した。後楽園内に周代の井田法に倣い、井田を縮尺再現するなどし、民政に尽力した。嗣子のいなかった斉敏は、大叔父にあたる奥平昌高の十男・七五郎(後の慶政)を仮養子として、天保13年(1842年)1月30日に岡山において死去した。享年32。七五郎は斉敏と異なり、池田家とは直接の血縁関係がなかったため、支藩の鴨方藩主・池田政善の娘宇多子を斉敏の養女とし、婿養子として七五郎を迎える手順をとった。この手続きを完了するまで斉敏の死亡は隠されており、4月2日にようやく喪が発せられた。
2024年10月29日
コメント(0)
「池田 継政」(いけだ つぐまさ)は、備前岡山藩の第3代藩主。天城池田家第5代当主。岡山藩池田家宗家5代。第2代藩主・池田綱政の四男。母は綱政の側室で京都出身の栄光院。元禄15年8月17日(1702年)生まれ。宝永元年(1704年)10月、天城池田家の池田由勝の家督を相続し、保教(やすのり)と名乗る。長兄の吉政は生まれる前に既に死去、それを受けて嫡男となっていた兄の政順も宝永6年(1709年)に早世したため、実家に戻り後継者に指名された。正徳4年(1714年)、父の死去により跡を継いだ。慣例により、将軍(幼少の徳川家継)より偏諱を賜い、池田家通字の「政」と合わせて継政に改名する。正徳5年、従四位下侍従・大炊頭に叙任する。仏教に対して信心が深く、継政は湊山に仏心寺、瓶井山に多宝塔を建立した。領民に対しても善政を敷いた名君であり、享保年間に近隣の諸藩では百姓一揆が頻発して発生したのに対して、岡山藩だけは継政の善政のために一揆が起こらず、平穏を保った。正徳3年(1713年)8月18日、伊達吉村の娘和子と婚約し、享保7年(1722年)4月23日に和子が輿入れする。元文2年(1737年)10月5日、和子と離婚する。幕府や伊達家に事前に一切相談なく離縁したため、幕府の詮議を受けることになる。また、そのため継政の不行跡といった噂も流布された。継政は噂を気にかけ、隠居の意向を示すようになる。しかし、重臣たちは極官である少将に任官していないため、家格の低下を恐れ、継政に隠居を思いとどまらせ、官位昇進運動を推し進めた。なお、継政の離婚により、池田家と伊達家は絶交状態に陥った。天明4年(1784年)にようやく池田家と伊達家は和解した。継政は文人としても優れており、絵画や書、能などに才能を現した。特に能楽においては能の舞台図である「諷形図」5巻を著作している。延享元年(1744年)、ようやく左少将に任官する。嫡子宗政の初官が従四位下侍従にならないことや秋田藩主佐竹義峯が先に少将任官をすることを危惧していた。宝暦2年(1752年)12月6日、家督を長男・宗政に譲って隠居し、安永5年(1776年)2月8日に岡山にて死去した。享年75。隠居中の間、宝暦14年(1764年)に子の宗政が若くして死去し、孫の治政(当時15歳)が藩主となっており、この補佐にある程度は携わっていたものと思われる。孫の名前を見ての通り、将軍も10代将軍徳川家治の代になっていた。他に、寛保二年江戸洪水があり西国大名の手伝い普請に参加した。 「池田 宗政」(いけだ むねまさ)は、備前岡山藩の第4代藩主。岡山藩池田家宗家6代。第⒊代藩主・池田継政の長男。母は伊達吉村の娘・和子(心定院)。幼名は峯千代、茂太郎。幼少期より水戸の鶴千代、加賀の勝丸、出雲の幸千代と共に四君子と称され、聡明で知られた。元文5年(1740年)に元服する。初名は尚政(なおまさ)、のちに将軍徳川吉宗より偏諱を受け宗政に改名する。宝暦2年(1752年)12月6日、父の隠居により跡を継いだ。岡山藩藩学の充実に努めており、また自身は書画に優れ作品を残しているほか、俳諧や和歌もなした。宗政は信仰していた餘慶寺(瀬戸内市邑久町北島)に正室・宝源院の打ち掛けを法衣にして寄進している。宝暦14年(1764年)⒊月14日、父に先立って38歳で病死した。跡を長男・治政が継いだ。法号は寿国院殿豊山延祥大居士。墓所は曹源寺。 「池田 治政」(いけだ はるまさ)は、備前岡山藩の第5代藩主。岡山藩池田家宗家7代。寛延⒊年(1750年)1月9日、第4代藩主・池田宗政の長男として生まれる。母は黒田継高の娘、藤子。幼名は新重郎、のち初名の敏政(としまさ)を名乗る。明和元年(1764年)、父の死去により家督を継ぎ、同年のうちに元服、将軍徳川家治より偏諱を受けて治政に改名する。この当時15歳で決して幼少というほどの年齢でもないが、初めはまだ存命し隠居中であった祖父の池田継政から政務についてある程度の補佐を受けていたものと思われる。藩主としては有能にして剛毅果断で、老中となった松平定信が寛政の改革で倹約令を出したときにもこれに従わず、放漫財政を展開したという。文人としても優秀で、絵画や俳諧に様々な作品を残している。また、この関係からこの頃には衰退していた閑谷学校を再興している。寛政6年(1794年)3月8日、長男・斉政に家督を譲って隠居する。文化4年(1807年)に剃髪して一心斎と号した。文政元年(1818年)12月19日に死去した。享年69。墓所は岡山県岡山市中区円山の曹源寺。人物・逸話治政は老中・松平定信が行なった、倹約や統制を主とした寛政の改革に反対し、豪勢な大名行列を編成して江戸に参勤した。このため、江戸市民は「越中(定信の官位)が越されぬ山が二つある。京で中山(中山愛親)、備前岡山(治政のこと)」という落首を詠んだという。治政は定信失脚後の翌年に45歳で隠居しているが、これは定信の後継者として幕政を主導していた松平信明の報復を受けたためとされている。隠居後は、島津重豪(薩摩藩隠居)や徳川治済(一橋徳川家隠居)らと交流があった。天明4年(1784年)、盗賊田舎小僧新助が岡山藩邸に忍び込んだ際、寝所で寝ていた治政に発見された。治政は家臣も呼ばず、自ら鉄の鞭を振るって追い回し、新助は夜闇に紛れて辛うじて逃げ延びた。翌年に捕えられた新助は、この時ほど慌てたことも恐ろしかったこともないと供述している。
2024年10月29日
コメント(0)
12、「池田 綱政」(いけだ つなまさ)は、備前岡山藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家4代。幼名は太郎。初名は興輝(おきてる)、のちに将軍・徳川家綱と父・池田光政より偏諱の授与を受け、綱政に改名。後楽園造営で有名な人物である。江戸時代前期の名君として著名な池田光政の長男。母は本多忠刻と千姫の娘・勝子。父・光政が30歳のとき、江戸藩邸で誕生した。寛文12年(1672年)に光政の隠居に伴って家督を継いだが、父が存命中の藩政は隠居した父によって行なわれた。天和2年(1682年)、父の死によって自ら藩政に取りかかる。光政の治世により、岡山藩は藩政が安定し発展したが、大藩になればなるほど何事においても支出が増大し、そのために光政の治世末期から綱政が家督を継いだ頃には、岡山藩は財政難に見舞われていた。このため、綱政は津田永忠、服部図書らを登用して財政再建に取りかかった。綱政は、財政再建のためには農村再建による新田開発が必要であると考えていた。また、この頃、岡山藩は大洪水などの天災が発生して多難を極めていた。そのため、津田永忠を用いて児島湾に大がかりな干拓を行ない、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事を行なった。この農業政策は成功し、岡山藩は財政が再建されることとなった。また、綱政は造営事業にも熱心で、元禄11年(1698年)には池田氏の菩提寺である曹源寺を創建する。元禄13年(1700年)にはやはり津田を責任者として現在、日本三名園の一つとして有名な後楽園を造営する。その他にも、備前吉備津宮(現在の吉備津彦神社)を造営した。また、曽祖父の輝政が三河国吉田城(愛知県豊橋市今橋町)の城主であった時に信心していた縁で、河国の行基開基の岩屋観音(同県同市大岩町)にも多大な寄進をしている。また、宝永4年(1707年)東海道白須賀宿に宿泊中に観音が夢に現れ立ち退くようにお告げがあり、急ぎ二川宿へ向かったところ、いわゆる宝永地震が起こり、白須賀宿は大津波に飲み込まれたが綱政一行は無事であったと言うエピソードも残る。しかし実際にはこの地震のとき、綱政は岡山の後楽園で能に興じ揺れを感じており(『岡山藩主池田綱政の日記』)、間一髪、被災をのがれたというわけではない。正徳4年(1714年)、77歳で死去。跡を四男の池田継政が継いだ。法名は曹源寺殿湛然徳峰大居士。墓所は岡山県岡山市中区円山の曹源寺。磯田道史は著書『殿様の通信簿』において『土芥寇讎記』(各大名家の内情を記した古文書)を引用し、「生まれつき馬鹿」「愚か者で分別がない」などと記され、「特に色を好むことには限度はなく、手当たり次第に女に手を出した結果、70人以上の子供を作った」が、綱政の著作をみると優れた文化人の側面をもっていたと評価できるとしている。『土芥寇讎記』では父の光政、弟の政言が高評価され、比較対象とされた綱政は相対的に評価が低い。また『土芥寇讎記』は儒学の素養の少ない者、男色や女色、または文化活動に勤しむ者を低評価する傾向がある。さらに同書では当時の領内を「民間は富み豊かである」としており、綱政は行政面において一定の成功をおさめていることを無視することはしていない。子沢山についてであるが、「寛政重修諸家譜」では14人となっており、幕府には少なめに届けたようである。現実には後継者となり得る男子はことごとく早世しており、子女の多さは深刻な後継者問題の現れと考えられる。例えば、六男(公式には長男)吉政は18歳、十五男(公式には三男)政順は14歳で死去している。正徳3年(1713年),70歳をこえた綱政は、12歳の息子継政(公式には四男)を嫡子にせざるを得ない状況であった(幕府には14歳と届け出る)。なお、九男(公式には次男)軌隆は41歳まで生きているものの、生来多病のため後継候補者から外されている。『土芥寇讎記』では「文盲」とも書かれているが、これは『土芥寇讎記』が儒教を重視した評価をしているためであり、綱政が儒学的な学問には興味がなかったというだけのことである。綱政はその他の教養に優れ、特に和歌や書に優れていたという。前出の磯田によれば、綱政は公家の衣装で葬ってくれと遺言するほど京文化に憧れをもち、武骨な気風を重んじる父・光政とは趣向が異なっていた。これは光政と綱政の世代が戦国を知っている世代と知らない世代の境目にあるからでもあり、この時代に共通した大名の公家化の事例としている。能に詳しく、たびたび自ら家臣や領民に能を披露したことでも知られる。鳥取藩主池田綱清をライバル視し、積極的に官位昇進運動を行った。自分よりも少将昇進の早かった池田綱清に敵意を抱いたのである。元禄9年(1696年)、幕府の実力者柳沢吉保に対し、岡山藩池田家を本家、鳥取藩池田家を分家と扱って欲しいこと、嫡子・政順の初官に対する不満といったことを訴えている(岡山藩主家の方が池田氏の宗家であるが、鳥取藩主家は池田輝政と徳川家康の次女督姫の間に生まれた池田忠雄の家系であるため優遇されていた)。
2024年10月29日
コメント(0)
光政の人格当時としてはかなりの学問好きであった。幼児期から非凡な所があったようで前述したように家康にもその才能を認められたが、これには生母の鶴姫、養育を努めた吉田栄寿尼(光政の曽祖父・恒興の重臣・吉田甚内の妻。甚内は小牧・長久手の戦いで戦死)や下方覚兵衛(小早川秀秋の旧臣)の尽力があったという。光政は通称を新太郎と言い、寛永3年に左近衛権少将に任官すると新太郎少将と称され光政自身もその名称を好んで終生にわたって用いた。しかし大大名の池田家当主が通称を用いるなどどうかという意見があり、ある人から備前少将とされてはどうかといわれた。光政は「近頃江戸の町では鍛冶職人から鏡磨までが大和守とか用いている。名前などに大して望みなどなく、また有難いとも思わぬ」と答えた(『仰止録』)。14歳か15歳の頃、光政は京都所司代の板倉勝重に治国の要道について訊ねた。勝重は「四角い箱に味噌を入れて丸い杓子をもってとるようにすればよい」と答えた。光政は「隅の行届きがたきを如何し候べき」と訊ねた。勝重はその質問で光政が明敏な君主であると察し、「貴殿のような大国の政はそのように厳重なやり方だけでは収まらぬ。国事は寛容の心をもって処理せねば、人心を得ることはむつかしいものである」と答えた。のちに光政はこの勝重の教えをよく守って名君といわれた(『有斐録』)。光政が亡くなる1ヶ月前、大坂の医師である北川寿庵が招聘されたが、このときの光政の態度に北川は「この人こそ真の君子」と賞賛したという。光政は馬の目利で、江戸の浪人で谷田加介という者が江戸藩邸に馬を見せに来た。側近がその馬を「おろし」と見立てたが光政は「浮足」と見立てた。谷田は「この馬が浮足と見定めたのはあなたが初めてです」と答えて感服した。のちに谷田は光政が200石で召抱えようとしたとき、他家が400石を出して召そうとした。谷田は「知行は少なくても、目の明たる旦那にてなければ奉公面白からず」として光政に仕官した。武芸では弓矢を好んだ。病気中には常に弓の弦の音を聞いて慰めにしたという。光政は家臣が自分を諌める事を推奨した。ある寒い日の夜、蜜柑を食べていた時に侍医の塩見玄三が「冷たい物はお控えあれ」と忠告したので従った。のちに光政は老女を呼んで「玄三の忠告くらいは自分にもわかっている。だがわかっていると言えば今後、誰も私を諌めなくなるであろう。だから口に出しかかっていた言葉を抑えたのだ」と述べた。他にも家臣の池田出羽などを呼んで自分に悪事があったら遠慮なく諌めるように求めている。光政は生母福正院への孝養が厚く、寛文12年(1672年)に福正院が病気になった時、光政は昼夜服も変えずに側を離れず、食事は自らが試食したものでなければ通すことを許さなかった。また次男の政言(政言から見れば祖母)が不義を働いた時には激怒したという。大久保忠隣の失脚事件に連座して安房国から改易された里見忠義は、伯耆倉吉藩に預けられた。流人とは言え、忠義には4000石が与えられていたため、大岳院に3石1斗8升の寺地寄進をするなどの、それなりの身分を保っていた。しかし、元和3年(1617年)、光政が因幡鳥取藩に移封となった際にその4000石も取り上げられ百人扶持の知行とされた。なお、1622年に貧困のうちに亡くなった忠義に家臣8名が殉死した。彼らの戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称されるようになり、これが『南総里見八犬伝』の八犬士のモデルになったという説がある。学問14歳の頃、寝所に入っても容易に眠れず暁になってまどろむ状態が続いた。ところがある夜から熟睡するようになり近侍がその理由を訊ねると、「私は父祖のおかげで大国の主となった。だがこの大国と民をどう治めればよいかと悩んで眠れなかった。だが昨日、論語を読んで民に教育することが大切であることを知った。そのおかげでよく眠れるようになったのだ」と答えた。これは光政が学問に目覚めたことを示す逸話である(『有斐録』)。光政は熊沢蕃山の提言で陽明学を修めようとして近江の中江藤樹を招聘しようとしたが、藤樹は老母の病を理由に断った。この返答で光政はますます藤樹を気に入り、何度も手紙を交わして意見交換したり、参勤中に近江に立ち寄ったときは藤樹を歓待して話を交わし、藤樹の没後は位牌を西の丸に祀るほど尊敬したという。光政は朱子学よりも心学に傾倒して仁政に心がけた。綱政が学問に興味を示さなかったときには重臣に心学を怠らぬよう補導するよう命令している(『光政日記』)。家臣の池田出羽が「学問など何1つとして役に立たない」と言うのを聞いて光政は出羽を呼び出し、「学問への志がないのならそう思うのは当たり前だ。お主が心学を習得するよう意欲を出せば、学問の何たるかを理解できるであろう。もう少し本気になって学問をせよ」と、家臣にはあくまで自発的な修学を推奨し、押しつけるような事はしなかった。光政は明暦・寛文年間になると心学から朱子学へと移行している。これは幕府の圧力(特に朱子学者の林羅山)があったためといわれる(『宍栗日記』)。政治光政は承応3年(1645年)に諌箱を設置した。これは家臣からの諫言を受け入れるためのものである。光政の財政政策は一貫して倹約であり、本人も質素な衣服を用いたりしたが、それを示す逸話が多い(ただし光政を名君として誇張の可能性あり)。次男の政言がビロードの傘袋を供の者に持たせているのを見て「大国を領する人の傘にや、他所の者にてあるべし。我らが行列に混雑致さざるように」と注意した。このため政言はその夜に傘袋を取り替えたという。三男の輝録が無断で分限に過ぎる長屋を普請した際には怒って数日の間対面を許さなかった。輝録は父の怒りを知って質素なものに作り変えた。しかしどれだけ倹約しても幕命による手伝いや経費などで出費が重なり、岡山財政は承応3年の時点で銀3526貫目の赤字で、家臣の俸禄を下げたり借財して補った。しかし百姓に負担を強いたりすることはほとんどなく、年貢を上げることもわずかだったという。光政は農政に関する逸話も多い。ある年、赤坂郡で狩をしたあと郡内を巡視したが、このとき百姓を集めて芋の栽培を奨励したという。また巡視の際、稲の品種について郡奉行に訊ねたが、郡奉行は答えることができず、学問に精通していた光政は品種を見抜いて百姓に尋ねると、百姓はそのとおりと答えた。光政は品種も知らない奉行に嘆いたという。また鷹狩のあと、御野郡で誤って自ら稲穂を踏み倒してしまうと、光政は稲穂を紙でくくり合わせて謝罪したという。また泥棒が竿にかけてあった肌着を盗もうとして捕縛されたとき、泥棒は罪を軽くしてもらおうと「肌着の下のねぎを盗ろうとした」と述べた。すると光政は激怒して。泥棒を入牢させたという(『有斐録』)。のちに光政は百姓保護のため、田地売買の統制令や貧農没落の阻止に努めている。光政が百姓の負担を軽くしようと雑税を軽減したとき、年貢をもっと上げるべきと家臣が提言したが、光政は「右の手をあらい左の手を汚す」として許さなかったという[14]。光政が閑谷学校を訪れた時、和気郡の某村の賤民がかなり遠くから光政の来訪を出迎えていた。光政はそれを見て「あの者達は?」と家臣に質問すると「あれは卑賤の民で、奴らは猪や狸を剥ぎ肉食をする不浄の者どもです」と答えた。それを聞いて光政は彼らを差別する家臣らにむしろ激怒し、彼らに近くに寄ることを許したという。また、この事で賤民の事に関心を抱いた光政は、同じ年の末に「彼らの差し出す年貢を如何している」と役人に質問すると、「奴らは不浄なので年貢は藩庫や知行米には廻しておりません」と答えた。これを聞いて光政は役人を叱り付けてその心得違いを諭し、これからは彼らを一般の百姓と差別しないように命じた。衆道を嫌悪し、同性愛を激しく弾圧した。光政にとっては男色はかぶき者と同列の存在であり、断じて許すべきではないものとして、光政は男色を「大不義」と呼んだ。1658年、男色が原因で死者が出る刃傷沙汰が起こり、関係者が切腹や追放などの処分を受けたこれを契機として光政は男色の規制を強化し、男色があった場合迅速に家老に連絡するよう命じた。光政にとって、男色を規制することは彼の信条とする「仁政」であった。光政は正保元年(1644年)に東照宮(現在、玉井宮東照宮)を造営した。政治上の見識力量ともに自信に満ちた光政であるが、鳥取から移封された岡山藩組として藩政の土台を固める仕事は容易ではない。 まして高い政治の理想を実現させようという仕事は多くの困難を伴うである。その障害を排除し自分の政治の指針を示し、同時にそれを守護照覧するものとして東照宮が考えられたものと思われる。
2024年10月29日
コメント(0)
「岡山藩主」光政は岡山城の鎮守として東照宮(現在、玉井宮東照宮)を勧請しており、これは日光東照宮が地方へ分社された全国で最初のものであったが、他の藩でもこれにならって次々に東照宮の御勧請を行い、その数は一五〇社にのぼったと言われている。そして東照宮造営は藩主池田光政の大願であった。社殿造営にあたり家老池田出羽守を大奉行とし、徳川幕府の作事方総大工木原杢允を大工棟梁に充て、備前藩の作事総大工の地位にある横山三郎右衛門は小工として次席に置くなど、人員配置にも異常の配慮の払われた神社の造営であった。『池田家履歴略記』正保二年二月の記事中に「去年(正保元年)東叡山の開山天海増正を以て東照宮を備前に勧請し、城郭の鎮守と祝し奉らんことを将軍家(徳川家光)の御内聴に達せられしが、今年六月一日僧正より返答あって、同二日(池田光政が)酒井讃岐守(大老)の許へ参り給い、御勧請の事仰せあれば、(酒井は)貴殿の志は尤なれども、以後国々残りはなく願はれ、心にもあらぬ事に成行き候はんは如何也、さればいかに軽く御造営然るべしと答られける。烈公(光政)大に悦せ給い、やがて備前に帰られ其用意あり、七月九日諸役を命ぜらる。(カッコは注)」と」あった。社地は当時の上道群門田村幣立山で、ここには古くから玉井宮が鎮座し八幡宮(地元の氏神)として崇敬されていたが、この宮を地続きの南部の低地に移し、その跡へ大がかりな東照宮(現在、玉井宮東照宮)の造営は行われたのである。儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山を招聘した。寛永18年(1641年)、全国初の藩校・花畠教場を開校した。寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として閑谷学校(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官・津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。また、産業の振興も奨励した。このため光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。三名君と称された人物は個性的な人間が多い。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として実践した。この陽明学は自分の行動が大切であるとの教えで、これを基本に全国に先駆けて藩校を建設、藩内に庶民のための手習所を数百箇所作った。後に財政上の理由で嫡男の綱政と手習所存続をめぐって対立した。のちに手習所を統一して和気郡に閑谷学校を造った。光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、当時金川郡において隆盛を極め、国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。このため備前法華宗は壊滅している。こうした彼の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山32万石が安泰であった。光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。また、庶民の奢侈を禁止した。特に神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じたが、東照宮(現在、玉井宮東照宮)から岡山城下町を練り歩く岡山一の祭礼東照宮御神幸(権現祭り)は規模を縮小しながら官民一体となり毎年九月十七日に斎行された。また、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物の料理となっているちらし寿司の一種・ばら寿司の誕生にも光政の倹約令が絡んでいるといわれる。倹約令の一つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。なお正室の勝子とは最初の頃はあまり良好な夫婦関係とはいえないとみられていたが、その後は傍目も羨む仲の良い夫婦になったという。晩年と最期寛文12年(1672年)6月11日、藩主の座を長男の綱政に譲り隠居した。このとき次男の政言に備中の新田1万5000石、三男の輝録に同じく1万5000石を分与した[注釈 14]。隠居から4ヵ月半後、母の福正院が死去し、6年後には正室の勝子も死去するという不幸にあったが、光政は隠居ながらも実権は握り続けた。天和元年(1681年)10月に岡山に帰国した頃から体調を崩しだした。光政は岡山城西の丸で養生したが、年齢が70を超えていることもあって良くはならなかった。天和2年(1682年)4月、京都から岡玄昌という名医を招聘するも良くはならず、死期を悟った光政は5月1日に寝室に家老ら重臣[注釈 16]を呼び出して遺言を伝えた。5月22日に岡山城西の丸で死去。享年74。墓所は岡山県備前市吉永町の和意谷池田家墓所にある。人物・逸話様々な資料により数多くの逸話が残されているが、それらの資料は江戸時代に光政名君説を強調するために書かれたものが多いことを付記しておく。史料[編集]『有斐録』 …寛延年代初期に岡山藩士によって編纂された。精細だが光政を名君として過大評価して信憑性に疑問を持たれている。『光政日記』…寛永十四年十月から寛文9年2月までの日記で二十一冊に及ぶ。『率章録』…岡山藩士の近藤西涯が池田治政に奉呈した史書。成立年代は安永年間。『仰止録』…岡山藩の公的学者である早川某による史書。成立年代は文政だが史料性は信頼が高いと評価されている。
2024年10月29日
コメント(0)
11、「池田 光政」(いけだ みつまさ)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。家督相続姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。母は江戸幕府2代将軍・秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫。当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。慶長18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康は光政の態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという(『率章録』)。元和2年(1616年)6月13日に父・利隆が死去した。このため6月14日に幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となる。しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取32万5000石に減転封となった。鳥取藩主鳥取藩主となった光政の内情は苦しかったという。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だったところから藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。このため、家臣の俸禄は姫路時代の6割に減らされ、下級武士は城下に住む場所が無いので土着して半農半士として生活するようになった。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。元和6年(1620年)、幕府より大坂城城壁の修築を命じられた。元和9年(1623年)6月、第2代将軍・徳川秀忠の上洛に従って京都に入るが、未だ無位無官であったため、同月25日の秀忠の参内には供奉し得なかった。続いて7月に入ると遅れて上洛してきた世子・家光も入京し、7月27日に家光が将軍宣下を受けて第3代将軍になると、8月3日に15歳で元服し、このとき当時名乗っていた幸隆(よしたか)を、第3代将軍・徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗った。同月6日、家光の参内に先立って従四位下・侍従に叙任され、供奉の一員に選ばれた。その後、寛永3年(1626年)8月の家光上洛にも従い、左近衛少将に叙任された。寛永5年(1628年)1月26日に本多忠刻の娘・勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた。寛永9年(1632年)4月3日に叔父の岡山藩主・池田忠雄が死去し、従弟で忠雄の嫡男・光仲が3歳の幼少のため山陽道の要所である岡山を治め難いとし、5月に光政は江戸に召しだされて、6月に岡山31万5000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5000石に国替えとなった。以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。
2024年10月29日
コメント(0)
関ヶ原と西国の太守慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近した。また、福島正則や加藤清正ら武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立し、慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則・加藤清正・ 加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げた(岐阜城の戦い)が、本戦では毛利秀元や吉川広家ら南宮山の西軍の抑えを務めており、直接の戦闘はなかった。慶長6年(1601年)2月8日、徳川秀忠が輝政邸を訪れたが、これは関ヶ原以後初めての外様大名の屋敷への御成であったとされる[14]。戦後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となった。ここに輝政は国持大名としての政治的地位を獲得したのであり、その知行方は当時でも八番目に高いものであった。12月には従四位下・右近衛権少将に叙任された。関ヶ原合戦以後における徳川氏一門以外の大名における少将以上の任官は、前年3月における福島正則に次いでのものであり、初期徳川政権における両者の政治的役割の高さを示すものである。慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修する。慶長11年(1606年)からは姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めた。また慶長14年(1609年)には火災で焼失した伊勢神宮の摩尼殿を再建している。慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席した。慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「松平播磨宰相」と称された。徳川政権下において、徳川一門以外の大名で参議に任官されたのは輝政が最初である。また、次男・忠継の備前岡山藩弐拾八万石、三男・忠雄の淡路洲本藩6万石、弟・長吉の因幡鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。慶長17年(1612年)1月に輝政は中風にかかり、3月には徳川秀忠から息子の利隆に4通もの書状が送られている。8月には回復し駿府、江戸を訪れた。23日に秀忠に拝謁した際松平氏を賜り参議に奏請された。参議に任じられたことを謝するため、10月17日に参内し、その後播磨へと帰国した。慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて亡くなる。死因は中風(『駿府記』)。享年50。なお輝政が中風を患ったと本多正純から事情を聴いた家康は、中風の薬として鳥犀円を遣わしている。豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞いて愕然として「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」(『埋礼水』)と語ったという逸話がある。家督は長男(嫡男)の利隆が継いだ。 「池田 利隆」(いけだ としたか)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家2代。天正12年(1584年)9月7日、池田輝政の長男として美濃岐阜に生まれる。羽柴氏を与えられて称した。慶長5年(1600年)⒐月の関ヶ原の戦いに父と共に東軍方で参戦する。慶長8年(1603年)2月、異母弟の忠継が備前岡山藩主に任じられると、幼年の忠継に代わって執政代行として3月に岡山城に入った。利隆は岡山の実質的な領主として藩政を担当し、慶長9年(1604年)には慶長検地と呼ばれる領内検地を実施した。また兵農分離を行ない、前岡山領主であった宇喜多秀家や小早川秀秋らの夫役の廃止など、江戸期における近代的体制を確立した。慶長10年(1605年)、従四位下侍従に叙任され右衛門督を兼任した(このときは豊臣姓)。同年に徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘)を正室に迎えて幕府との関係を深めた。慶長12年(1607年)6月2日、武蔵守に転任して松平姓を賜り松平武蔵守利隆と名乗った。慶長18年(1613年)1月、父の輝政が死去したため、6月に家督を継いだ。その際に父・輝政の後室・良正院の化粧料である西播磨三郡(宍粟郡・佐用郡・赤穂郡)10万石を弟の忠継に分与し、姫路藩の所領は42万石となった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方に与し、大坂冬の陣の緒戦の尼崎合戦に参加した。元和2年(1616年)6月13日、義弟にあたる京極高広の京都四条の屋敷で病死した。享年33。墓所は京都妙心寺の護国院、岡山県和意谷池田家墓所、兵庫県姫路市山野井の国清寺。家督は長男の光政が継いだ。
2024年10月29日
コメント(0)
10、「池田 輝政」(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。永禄7年(1564年)、織田信長の重臣・池田恒興の次男として生まれ、幼名を古新といった。元服してからは実名「照政」を称した。実名「照政」は慶長12年閏4月9日まで確認され、7月3日からは実名「輝政」に改名していることが確認される。父や兄・元助と共に信長に仕え、輝政は信長の近習となる。天正元年(1573年)、母方の伯父・荒尾善久の養子となり木田城主となる。荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは天正7年(1579年)11月に父と共に摂津倉橋に在陣した。天正8年(1580年)の花隈城(花熊城)攻略の際(花熊城の戦い)には北諏訪ヶ峰に布陣し、閏3月2日に荒木軍の武士5、6名を自ら討ち取る高名を立てた。その軍功により信長から感状を授けられた。家督相続と豊臣家臣の時代天正10年(1582年)2月、兄と共に甲州征伐に出陣する。同年6月、本能寺の変で信長が明智光秀に弑されると父兄と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝と共に棺を担いだ。天正11年(1583年)、父が美濃大垣城主となると、自らは池尻城主となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続し、美濃大垣城主13万石を領した[5][4]。天正13年(1585年)には同じ13万石で岐阜城主となった。その後も紀州征伐や富山の役(佐々成政征伐)、九州平定など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。天正15年(1587年)6月21日から、羽柴岐阜侍従として所見される。天正16年(1588年)、従四位下侍従に叙任、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置には2800の兵を率いて参加した。そのため戦後の同年9月、三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)において15万2000石に加増され、吉田城主となった。また、在京の粮米として伊勢国小栗栖庄を与えられた。吉田城主時代は同時期に尾張に入部した豊臣秀次に付属させられたと見られており、そのため文禄の役に際しては国内守備の任務にあった秀次に近侍して吉田城に留まり東国警衛の任にあたっている。朝鮮出兵に関する任務としては、大船建造や兵糧米の名護屋城回送を命じられている[9]。また、伏見城普請や豊臣秀保の大和多内城普請を務めた。豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇された。文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。輝政の正室・糸姫は利隆を出産した際、出血が止まらずそれがもとで病気になり実家に帰ったとされる。中川家とはその後も関係が良好で、関ヶ原の戦いの前に糸姫の弟の中川秀成は輝政の仲介で家康に忠誠を誓った。文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若政所(秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている(秀次事件)。
2024年10月29日
コメント(0)
9、「岡山藩主池田氏」「岡山藩」(おかやまはん)は、備前一国および備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。岡山城を築城したのは宇喜多秀家である。宇喜多氏は岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた。しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となった。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5000石で入封した。寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5000石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなった。 このように池田氏(なかでも忠継・忠雄)が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が池田輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされる。光政は東叡山寛永寺の開山者で家康時代からの将軍家側近有力者であった天海大僧正によって東照宮(玉井宮東照宮)を備前に勧請し、岡山城の鎮守とする願いを寛永20年(1643年)に将軍家に出し、東照宮造営の許可を翌年正保元年(1644年)に東叡山の同意の元、大老酒井讃岐守忠勝より正式な許可を得て、同年12月17日に落成した。これは日光東照宮が地方へ分社された全国で最初のものであった。光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸初期の三名君として称されている。光政は陽明学者・熊沢蕃山を登用し、寛文9年(1669年)全国に先駆けて藩校「岡山学校(または国学)」を開校した。寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在国宝)も開いた。また土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年(1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。そうした中神戸事件が起こり、その対応に苦慮した。明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。
2024年10月29日
コメント(0)
「美濃池田氏」(近世大名)この頃には池田郡は守護土岐氏の直轄領となっており、その後は土岐氏に従属していたと考えられる(なお、近世大名となった池田氏は後述するように美濃池田氏の系統との説が有力である)。出自の謎近世大名の池田氏は、摂津池田氏の中興の祖である充正の弟の恒正、あるいはそれより3代後の池田恒利が尾張に移った時から始まるとし、摂津池田氏と同族であることを強調しているが、不確実でなんら確証もない。江戸時代初期、江戸幕府は諸大名に命じてその系図を提出させたことがあった。池田氏は尾張藩儒官堀正意に依頼し系図を作成してもらったが、鳥取池田家の分家鉄砲洲家(若桜池田家)の5代当主で学者の池田定常は自分の系図を調べた結果、「今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその先祖はよくわからない。池田家は池田信輝(恒興)より以前はその実一決しがたい」と述べている。また、新井白石も「池田恒利をもって祖としそれより以前は疑問」と言述している。近世大名の池田氏の系譜は、その白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、源頼光の末裔を自称し、頼光の4世孫でかつ源三位頼政の弟にあたる泰政が初めて池田氏を称したとされる。泰政の9世孫と称する教依(のりより)は内藤満之の娘を妻とした。この妻はかつて楠木正行に嫁いでいたが、正行の戦死で教依に嫁いだという。そのため、教依の子教正が正行の子であるという説が生まれ、この説は池田光政以降も根強く続いたといわれる。そして、教正の5世孫にあたるのが池田恒利というものである。しかしこの系譜は確証性が乏しい。なお、『寛永諸家系図伝』の作成者林羅山(あるいはその子大学頭鵞峰)の言述によると、寛永9年(1633年)に藩主の座に就いたばかりの岡山藩主池田光政は「わが家の遠祖は源頼光流とするように」と自らの系譜作成を依頼したという。現在では、文政4年(1821年)に美濃池田荘本郷村の龍徳寺から池田恒利の戒名「養源院殿心光宗伝禅定門」の五輪塔が発見されたことから、近世大名池田氏は美濃池田氏の系統との説が有力である。さらに、池田恒利は滝川氏の出身であり、池田政秀の娘(養徳院)の婿として美濃池田氏を継いだとの説もある。また『土岐系図』では、「…大桑駿河守頼名の四男池田掃部助益貞・伯父頼益の養子と為る。その子慶益(池田氏と称する)その子政益、その孫尚益あり…」などと記述されている。歴史池田恒利は滝川貞勝の息子とされ、尾張の織田信秀に仕え、その妻・養徳院が織田信長の乳母となっている。その子の恒興は、信長の下で戦功を立て、信長の死後は羽柴秀吉に仕え美濃国大垣城主13万石を領した。恒興とその嫡男の元助は、小牧・長久手の戦いで豊臣方につき戦死する。しかし、恒興の次男輝政は逆に徳川家康に接近して娘婿となり、以降池田家は外様でありながら徳川家一門に準ずる扱いを受けるなど、破格の待遇を受けるようになる。関ヶ原の戦いでも徳川方につき、戦後功により播磨52万石を与えられ姫路藩主となり、姫路城に現在に残る大規模な改修を行った。1603年(慶長8年)、輝政の次男忠継は、兄利隆の監国で備前28万石を与えられ、岡山藩主となった。さらに1610年(慶長15年)には、輝政の三男忠雄に淡路一国6万3千石が与えられ洲本藩主となる。1613年(慶長18年)、輝政が没すると、播磨の遺領は長男の利隆が相続し、10万石分だけ弟の忠継に分与された。これにより忠継の領国は備前岡山藩38万石となった。他に池田長吉(輝政の弟)は鳥取6万石を領した。利隆の没後、嫡男光政は幼かったことから播磨姫路藩42万石から因幡・伯耆二か国の32万石に移封となり鳥取藩主となった。長吉の長男・長幸は鳥取から備中松山へ移された(長常のとき改易、長信が井原1000石の旗本となる)。備前は忠継の没後、弟の忠雄が家督を継ぎ岡山31万5200石(分与と赤穂藩の2度の改易で減封)を領し、淡路一国6万3千石は収公された。しかし忠雄の没後、嫡男光仲が幼少であったことから鳥取藩の光政と入れ替えられた。以後、光政系が岡山藩、光仲系が鳥取藩を相続した。明治維新後、華族令により、ともに侯爵に列せられた。家紋の蝶は、恒興が信長から下されたものに由来し(平資盛の末裔を称する信長は木瓜紋以外に桓武平氏の定紋・揚羽蝶も大事にした)、それを変形させたものである。岡山藩池田家は、隆政の代で断絶した。鳥取藩池田家も、現当主の池田百合子が当代限りで絶家を表明している。
2024年10月29日
コメント(0)
8、「伊予池田氏」 伊予周敷郡池田郷に住み、池田氏を称した。「近江池田氏 近江佐々木氏の一族。六角氏、織田氏、羽柴氏に仕えて豊臣時代に大名となった池田秀氏を輩出した。「池田 秀氏」(いけだ ひでうじ)は、安土桃山時代の武将、大名。伊予大洲城主。豊臣秀吉の家臣で、後に藤堂高虎に仕えた。諱は高祐ともし、池田高祐の名でも知られる。通称は孫二郎。受領名は父と同じく「伊予守」を名乗った。近江国の国衆であった池田景雄(秀雄)の子。近江蒲生郡の出身。羽柴秀吉に仕えて、大和国広瀬郡、紀伊国有田郡、阿波国那賀郡、伊予国宇摩郡・新居郡(共に東予)の内で、2万石を領した。文禄4年(1595年)7月、高野山に追放された豊臣秀次のもとに派遣された3人の検使の1人が「池田伊豫守」で父子どちらか判別しがたい。『野史』はこれを秀氏と解しているが、元の出典は『甫庵太閤記』であり、現代の歴史学者は秀氏ではなく(秀吉の側近だった)父の秀雄をさしていたと考えている。前年10月に戸田勝隆が朝鮮の巨済島で陣没して家が断絶したことにより、同4年に秀氏が代わって伊予国大洲城主とされ、(南予の)喜多郡1万2,000石に転封。勝隆(7万石)の残りの所領は、父の移封地や、宇和島の藤堂高虎に分けて与えられた。慶長2年(1597年)、高齢の父と共に慶長の役に出征して朝鮮へ渡海。翌慶長3年(1598年)には父は陣没したが、秀氏はその後も転戦した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には西軍に属して伏見城の戦いに参加。美濃路に進み、西軍の高木盛兼の一族が守る美濃国駒野城に入城した。西上してきた東軍の徳永寿昌が包囲したが、抗戦し、本戦の敗戦の翌日である9月16日まで籠城して降参。退城して高野山に遁れた。所領は没収されて改易となったが、藤堂高虎の仲介で徳川家康の許しを得て伊予国でその身を預かることになって、5000石の大身で召し抱えられた。後に公儀に謝罪が受け入れられ、赦免後は京都に在住した。没年不詳。子の貞雄は、将軍徳川家光の乳兄弟である稲葉正勝のもとに預けられており、寛永18年(1641年)に家光に召されて近侍し、江戸幕府旗本となった。 「出羽池田氏」出羽庄内に住み、朝日山城主池田盛周が戦国時代の代表的な人物である。近代以降において、一族より政治家や実業家を輩出した。「摂津池田氏」出自摂津池田氏は、旧池田村(現在の和泉市)に住み池田氏を称した一族が祖と考えられる。その後、7世紀後半の荘官であった池田維将は娘婿の紀淑望の次子池田維実に池田荘を与えた(紀氏)。さらに11世紀末に、源頼政の弟源仲政の四男源泰政が池田氏の養子に入った。泰政は源頼政に助勢し戦死したが、子の泰光が源頼朝により所領を安堵され、摂津国豊島郡を時景、美濃国池田郡を泰継に継がせた(摂津源氏)。なお、泰政の9世の孫と称する教依(のりより)は内藤満之の娘を妻とした。この妻はかつて楠木正行に嫁いでいたが正行の戦死で教依に嫁いだという。そのため、教依の子教正が正行の子であるという説が生まれ、この説は池田光政以降も根強く続いたといわれる(美濃池田氏の出自に関する記述も参照)(楠木氏)。家紋は、『見聞諸家紋』に「池田筑後守充正」の名前で「木瓜」が載る。歴史摂津池田氏は池田城を本拠とし、清和源氏(清和源氏流摂津源氏の最初の本拠地は池田城の北(現在の兵庫県川西市多田)である)、同族の足利氏、その支流細川氏、楠木氏、三好氏、織田氏とそれぞれの時代における摂津の支配者の配下として活動した。その池田城が最初に落城したのは応仁の乱(1467年)で東軍について、文明元年(1469年)に西軍の大内政弘の軍に攻められた時に落城したとある。この時はすぐに奪回したので被害も少なく大規模な改修はなかったと思われる。その後次いで永正の錯乱に端を発した細川氏の内紛で阿波国を本拠とする細川澄元派に属していた池田貞正は、永正5年(1508年)に細川京兆家の細川高国の攻撃を受けて落城、貞正は自殺して子の信正は逃亡した。発掘調査で炭層、焼土が厚く堆積していることが確認されており、池田城は甚大な被害をうけたと見受けられている。享禄4年(1531年)の中嶋の戦いでも浦上村宗の攻撃を受けて落城した。直後の大物崩れにより城を取り返すと主郭の堀を広げ周りに土塁を設け、南側にも連郭状の曲輪を設け防御陣地を広げていった。天文2年(1533年)、享禄・天文の乱で2月に一向一揆に敗れて堺から淡路へ逃れていた細川晴元が4月にこの城に入城、畿内へ戻った。永禄11年(1568年)、池田勝正は織田信長に抵抗したが織田軍の攻撃を受け落城した。しかし勝正は抵抗したお咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。池田城は信長の持つ「虎口」などの城郭のノウハウを取り入れてもっとも拡張した。池田城の虎口は城内に2度曲げ、それ以外に東側に横堀を2条掘削し、大規模な曲輪を設け城域を拡張した。織田信長が力を持ったことで三好氏が衰退していくころ、摂津池田氏も三好氏を裏切って信長につくか否かで内紛が起こり、衰退していった。池田勝正はすぐに信長の家臣になって忠実だったが、池田知正を擁立した重臣「池田二十一人衆」の荒木村重ら三好派に追放された。知正は摂津で勢威を振るったが、室町幕府15代将軍足利義昭と信長が対立すると義昭に就いて没落、信長に寝返って摂津の領主となった荒木村重の家臣になった。村重は摂津を任され最盛期には領土は35万石となったが、天正6年(1578年)有岡城(現・伊丹市)にて謀反を起こして信長に敵対し(有岡城の戦い)、有岡城が陥落したあと、信長は「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」と伝えたものの応じず。.一族、重臣36名家臣の妻子衆122人(知正の妻子も含まれた)を処刑され、尼崎城から花隈城へ移り、花隈城の戦いののち毛利氏のもとに亡命し、身を隠した。これに村重は子である荒木村次も連れていた。信長は村重一族を見つけ次第殺していて、村重の残党を高野山がかくまったため、信長は死ぬ直前の天正9年(1581年)8月17日、高野聖数百人を安土において処刑した。村次、知正は信長亡き後豊臣秀吉の家臣になった。知正は江戸時代には旗本となったが慶長9年(1604年)に死去、甥で養子の池田三九郎が跡を継ぐが翌年死去した。三九郎の父で知正の弟光重が継いだが、家臣(親戚とも)の不祥事に連座して改易された。系統は次男重長の系統が存続した。
2024年10月29日
コメント(0)
7、「美濃池田氏」は、池田恒興の代に織田家重臣となり清洲会議に出席し、その子池田輝政は徳川家康の愛娘督姫を後妻にし松平姓を許され、一族で播磨、備前、淡路、因幡に計100万石近い諸藩を有し「播磨宰相」「姫路宰相」「西国将軍」などと称された。複数の分家(支藩)が改易になったが、他の分家である備前国岡山藩、因幡国鳥取藩は明治時代まで続き、子孫は侯爵に列せられた。 「池田 恒興」(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は養徳院。出身地は尾張国・美濃国・摂津国[3]・近江国など諸説あるが、『信長公記』に恒興の与力として尾張国海東郡一色村の者がおり、その付近が有力である。父の恒利は早くに死去したとされる。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い、美濃攻略[5]などで戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫を与えられた。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなどに参陣、天正2年(1574年)には武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして、東濃の小里城に入った。恒興はそのまま織田信忠の付属であったが、天正8年(1580年)に、信長に抵抗し摂津花隈城に籠もる荒木村重を破り(花隈城の戦い)、その旧領を領した。天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐では二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令された[5]。同年6月2日、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いでは兵5000を率いて右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において12万石を領有した。翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国内にて13万石を拝領し大垣城に入り、岐阜城に池田元助が入った。天正12年(1584年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦した。勝利が成った際には尾張1国を約束されていたという。緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉・森長可(恒興の婿)・堀秀政と共に家康の本拠三河国を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手(勝入塚)にて長可と共に戦死。戦死の状況は、永井直勝の槍を受けてのものだといわれている。享年49。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した。遺体は一時遠江国新居に葬られたが、後に京都・妙心寺の慈雲院に改葬されている。
2024年10月29日
コメント(0)
全422件 (422件中 1-50件目)