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2023年12月30日
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カテゴリ: 江戸時代





堀田 正俊 (ほった まさとし)は、 江戸時代 前期から中期の 大名 江戸幕府 老中 大老 上野 安中藩 主。後に 下総 古河藩 の初代藩主。正俊系堀田家初代。


寛永11年(1634年)11月12日、第3代 将軍 徳川家光 政権下の老中・ 堀田正盛 の三男として生まれる。


寛永12年( 1635 )に義理の曾祖母に当たる 春日局 の養子となり、その縁から寛永18年( 1641 )、家光の嫡男・竹千代( 徳川家綱 )の小姓に任じられて頭角を現した。


寛永20年( 1643 )、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。


慶安 4年( 1651 )、家光の死去に際して父・正盛が 殉死 すると、遺領のうち 下野 新田1万石を分与され、 守谷城 1万3000石の大名となる。同時に従五位下・備中守に叙位・任官する。


その後も4代将軍・家綱の時代に順調に昇進し、 明暦 2年( 1656 )に稲葉正則の娘と結婚、正則の後見を受けて万治3年( 1660 )には 奏者番 となり、上野安中藩2万石を与えられた。


同年に長兄の 堀田正信 が改易されたが、お咎めは無かった。 寛文 10年( 1670 )に若年寄となり、 延宝 7年( 1679 )に老中に就任し、2万石の加増を受けた。


延宝8年( 1680 )、家綱の死去にあたり、家綱政権時代に権勢をもった大老・ 酒井忠清 と対立して家綱の異母弟である 綱吉 を推したという。


綱吉が5代将軍に就任すると 大手門 前の忠清邸を与えられ、 天和 元年( 1681 12月11 、忠清に代わって大老に任ぜられる。就任後は 牧野成貞 と共に「 天和の治 」と呼ばれる政治を執り行ない、特に財政面において大きな成果を上げた。


しかし貞享元年(1684年)8月28日、 従叔父 で若年寄の 美濃 青野藩 主・ 稲葉正休 江戸城 内で刺殺された。 享年 51。


幕府の記録によれば発狂のためとされているが、事件は様々な憶測を呼び、大坂の 淀川 の治水事業に関する意見対立や、正休もその場で殺害されていることから、将軍綱吉の関与も囁かれた。


家督は長男の正仲への相続が許されるが、屋敷地や所領は移転されている。



暗殺陰謀説


正俊が暗殺される直前に綱吉は 生類憐れみの令 を布くことを表明しており、正俊はこれに反対していた。また、正俊には綱吉を将軍に就任させた功績があり、大きな発言力を持っていたと推測される。そのため両者の間に溝が生まれたことから、「綱吉による陰謀説」がある。


またこの事件以降、綱吉は奥御殿で政務を執るようになり、老中との距離が生じた。そのため、両者を連絡する 柳沢吉保 ・牧野成貞ら 側用人 が力を持つこととなった。






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最終更新日  2023年12月30日 07時37分06秒
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