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堀直政 (奥田直政)は、尾張中島郡奥田庄にて、奥田直純の子として生まれる。従弟の堀秀政の家老となり、堀姓を与えられた。上杉景勝に代わり秀政の子・秀治を越後へ移す際、 甘粕景持 に替って 三条城 の城主となる。
直政の長男・ 直清 は父から受け継いだ三条5万石の城主となり、堀家の執政職となる。
ところが慶長15年(1610年)、僧侶殺害を弟・直寄(堀直政の次男)が徳川家康に訴えたため直清は改易され、越後福島藩主で秀治の 嫡男・堀忠俊も磐城平藩・鳥居忠政へお預けとなった。
しかし、直寄自身も1万石減封で 信濃飯山藩 4万石に転封された( 越後福嶋騒動 )。
その後、 直寄 は長岡8万石から村上10万石(実高17万石とも)に転封となり、さらに3万石を加増される。
加増分は直寄の次男・ 直時 が分与され安田藩を立てる。村上藩は、直寄の長男・ 直次 が寛永15年(1638年)に父に先立って死去した。
翌年には父・直寄も亡くなり直次の長男でわずか4歳の 直定 が跡を継ぐことになったが、寛永19年(1642年)に夭折し、村上藩堀家(直政系嫡流)は断絶した。
堀直時 は本家の村上藩が断絶・所領召し上げとなった後も、安田藩 3 万石の領有を認められた。
本家の遺臣らにより村上の遺領相続を願い出たが、幕府からは認められなかった。
寛永21年( 1644 年 )5月、直時の子・ 堀直吉 の時代に領地替えと城主格への昇進が行なわれて、安田 陣屋 から 村松城 に移したことから、正式な村松藩が始まった。
「村松藩と堀氏」(むらまつはん)は、 越後国 蒲原郡 のうち、村松・下田・七谷・見附地方を支配した 藩 。藩庁は 村松城 (現在の 新潟県 五泉市 )に置かれた。
村松藩は 寛永 16年( 1639 年 )、 堀直寄 の次男・ 堀直時 が安田3万石を与えられたことから始まる。
寛永21年( 1644 年 )5月、直時の子・ 堀直吉 の時代に領地替えが行なわれて 陣屋 を安田から村松に移したことから、正式な村松藩が始まった。
村松藩はその所領の大半が山間地であったため、新田開発を成しても石高の伸びは少なく、 貞享 4年( 壱千六百八拾七 年 )では実質的な石高は4万石だったと言われている。
第2代藩主・直吉は領内に 検地 を実施して、藩政支配を確立した。しかし直吉の死後から財政悪化が表面化していったため、しばしば藩政改革が行なわれたが効果はなかった。
しかも第8代藩主・ 堀直庸 の代には、家老の 堀玄蕃 を中心と して財政改革という名目での百姓からの収奪が行なわれたため、 文化 11年( 1814 年 )には村松藩全土で百姓一揆が勃発した。
第9代藩主・ 堀直央 の時代である 嘉永 3年( 1850 年 )2月に 城主格 が与えられ、村松陣屋は城に改修されることとなった。
直央は嘉永6年( 1853 年 )から藩政の主導権を掌握して藩政改革に取り組み 村松縞 をはじめとする織物・紙・筆・茶そして 村松焼 などの生産を奨励し、産業の振興を図ったが、 万延 元年( 1860 年 )に直央の跡を継いで藩主となっていた 堀直休 が7月12日に、直央も9月6日に死去してしまったため、改革は頓挫した。
幕末 期、村松藩内では 尊王論 が台頭し、 尊王攘夷 と軍制改革を主張する一派と対立し、 慶応 2年( 1866 年 11月に 村松七士事件 (尊王攘夷派7名を保守派が処刑した事件)が起こるなど、藩内は大混乱を極めた。このため 戊辰戦争 に際して、新政府に与するべきと主張する正義党の 近藤安五郎 を中心とした一派と、第11代藩主・ 堀直賀 を中心とした保守的な佐幕派に藩論が分裂した。
藩主らが 奥羽越列藩同盟 に参加して 米沢藩 に逃れると、安五郎は第9代藩主・直央の末子に当たる 堀直弘 を新藩主として擁立して即座に新政府に降伏したため、村松藩は所領を安堵された。
明治 4年( 1871 年 )の 廃藩置県 により村松県となり、同年末には 新潟県 に吸収された。
「堀 直時」 (ほり なおとき)は、 越後 安田藩( 村松藩 )の初代藩主。直寄系支流 堀家 初代。
元和2年(1616年)、 信濃 飯山藩 主・ 堀直寄 の次男として生まれる。
寛永16年( 1639 年 )、父の死去に際し、3万石を分与されて大名となり、安田藩を立藩した。
寛永19年( 1642 年 )、甥の 直定 が早世して本家の 村上藩 が断絶すると、村上藩遺臣によって跡継ぎに擁立されたが、幕府からは認められなかった。同年12月、従五位下、丹後守に叙任する。
寛永20年(1643年)2月29日に死去。享年28。跡を次男の直吉が継いだ。
「堀 直利」 (ほり なおとし、 明暦 4年 1 月 1 日 ( 1658 年 2 月 3 日 ) - 享保 元年 7 月 10 日 ( 1716 年 8 月 26 日 ))は、 越後 村松藩 の第3代藩主。 直寄 系支流 堀家 3代。
第2代藩主・ 堀直吉 の次男。母は 堀直清 の娘。正室は 戸田光永 の娘。子は 堀直道 (長男)、 堀直為 (次男)、 堀直英 (三男)、 酒井忠刻 (四男)、娘( 成瀬正幸 正室)、娘( 福原資祇 正室)。官位は従五位下、 左京亮 、 丹後 守。
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