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(ほり なおひで /
なおひさ、
寛政
9年
7
月
7
日
(
1797
年
7
月
30
日
) -
文久
元年
3
月
6
日
(
1861
年
4
月
15
日
))は、
越後
村松藩
の第9代藩主。
直寄
系支流
堀家
9代。
第7代藩主・ 堀直方 の三男。はじめ 庸信 と名乗った。正室は 津軽寧親 の娘、継室は 土屋英直 の娘。子は 堀直休 (次男)、 堀直弘 (三男)、 福原資功 (?男)、娘( 吉田良義 室)、清子( 黒田直養 正室)。官位は従五位下、 丹波 守。
文政 2年( 1819 年 )、兄・ 直庸 の死により 家督 を相続した。直庸の時代から、家老・ 堀玄蕃 を中心とした百姓収奪による財政改革という悪政が行なわれたため、文化11年( 1814 年 )に藩内全土で 百姓一揆 が起こった。
天保 14年( 1843 年 )、祖先の 堀直寄 所縁であるものの火災によって損傷していた 上野大仏 を、寄進により新鋳再建し、仏殿を修復した。 嘉永 3年( 1850 年 )には 城主格 が与えられ、村松 陣屋 は城に改修された。
こうした中、嘉永6年( 1853 年 )に藩政の主導権を握って文武を奨励し、農村経済発達による 専売制 導入や流通整備による藩収増加など、財政再建にも力を注いだ。
また、官営 殖産興業 の発展にも注力している。 安政 2年( 1855 年 )、 安政の大地震 によって上野大仏が破損したため修復した。
安政4年( 1857 年 ) 隠居 し、家督を次男の直休に譲る。文久元年(1861年)死去した。
「堀 直休」 (ほり なおやす、 天保 7年 11 月 3 日 ( 1836 年 12 月1 0 日 ) - 万延 元年 7 月 12 日 ( 1860 年 8 月 28 日 ))は、 越後 村松藩 の第10代藩主。 直寄 系支流 堀家 10代。
第9代藩主・ 堀直央 の次男。母は側室岩田氏。正室は 加藤泰幹 の娘。子は 堀直儀 (長男)、 堀直張 (次男)、娘( 柳沢徳忠 正室)、娘( 岡本正鎮 室)。官位は従五位下、 丹波 守。
安政 4年( 1857 年 )、父の 隠居 により 家督 を相続した。藩政改革を引き続き推進したが、万延元年(壱八六〇年)に道半ばで死去した。跡を養子の 直賀 が継いだ。
堀 直賀」 (ほり なおよし、 天保 壱四年閏 9 月 24 日 ( 1843 年 11 月 15 日 ) - 明治 36年(1903) 1 月 6 日 )は、 越後 村松藩 の第11代藩主。 直寄 系支流 堀家 11 代。第6代藩主・ 堀直教 の長男・ 奥田教明 の長男。
子は 奥田直紹 (長男、旧 椎谷藩 主家を継ぐ、廃藩置県で奥田姓に復姓)、娘( 高野金重 室)。 従五位 下、 左京亮 。
万延 元年( 1860 年 )11月Ⅰ日、先代藩主・ 直休 の 末期養子 として家督を継ぐ。
幕末 期に入ると藩内に尊王論が起こり、 尊王攘夷 と軍制改革を主張する一派を形成した。
慶応 2年( 1866 年 )には 村松七士事件 (尊王攘夷派7名を保守派が処刑した事件)が発生し、藩政が混乱した。
慶応4年( 1868 年 )の 戊辰戦争 では 明治新政府 を支持する正義党の 近藤安五郎 一派と対立し、佐幕保守派の直賀は 奥羽越列藩同盟 に参加した。
明治元年(1868年)5月14日、長岡に出兵し、官軍と戦う。同年8月4日、官軍の攻撃で村松城を落とされて 米沢藩 に逃亡した。同年9月18日、新政府に謝罪を申し入れる。同年10月19日、新政府から謹慎を命じられる。
一方、安五郎は先代藩主・直休の弟・ 直弘 を新藩主に擁立して新政府軍に降伏し、村松藩は所領を安堵された。
明治元年12月7日、直賀は隠居を命じられて、直弘に家督を譲った。明治10年(1877年)に奥田姓に復し、明治36年(1903年)に死去した。法名は安達院殿従三位清節直賀大居士。墓所は 谷中霊園 。
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