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小笠原長行は鎖港通告に対する列国公使の抗議を5月12日に幕議に報告した。そして急進的な攘夷論を一掃するため、武力をもって京都を制圧する計画を打ち出した。構想は前年からあったし、3月には英仏公使からも提案されていた。軍制改革によって洋式武装した騎兵・歩兵・砲兵1千余を横浜で幕府艦とイギリス艦計5隻に乗せ、29日に 兵庫 に上陸、6月1日 淀 まで進み、京都の情勢をうかがった。
将軍直率の兵と京都守護職の会津藩兵などが合流すればかなりの力になる。朝廷は騒然となり、将軍にこれを抑えさせ、東帰も認めることとした。結局武力制圧は空振りに終わり、小笠原ら幕兵の幹部は罷免・蟄居の処分を受けたが、ようやく将軍を取り戻すことはできたのだった。家茂は6月8日に下坂し、13日に海路で関東へ向かった。
これより先、越前へ帰国した松平春嶽は、破約攘夷が実行されれば、反発する列国が艦隊を 大坂湾 に送り込み朝廷を威圧する事態を招きかねないと危機感を抱いていた。そこで 横井小楠 が 挙藩上洛計画 という思い切った献策を行う。
不測の事態が起こる前に越前が藩を挙げて上洛し、暴論を抑え、将軍・関白から草莽まで含めて主だった者を一同に集め、各国公使の主張を聞き取り、互いの条理の理解を究め尽くした上で、後は鎖港か開港か、和親か戦争かいずれに決しようとも一致して進めようという。
これは越前全藩が身も国も捨てあたらねばならぬ大難事であり、隣国 加賀 、横井の故郷肥後、旧一橋派の同志薩摩などに呼びかけ、ともに決行しようというのである。その成功の先には、朝廷が政府を任免し、幕府に限らず有能な諸侯、諸藩の人材を登用する新体制も構想していた。5月26日に藩議は決定し、6月1日に計画が家中に布告された。ところがその後将軍が江戸に帰ることになり、これまで将軍の上洛中を理由に延期していた藩主 松平茂昭 の江戸 参勤 が議論になった。
姉小路殺害
この間の5月20日夜、京都では国事参政の姉小路公知が殺害されていた( 朔平門外の変 )。その翌日、御所の九門の警備が、長州(堺町門)、 仙台 (下立売門)、水戸(蛤門)、 因州 (中立売門)、薩摩(乾門)、 備前 (今出川門)、 阿波 (石薬師門)、土佐(清和院門)、肥後(寺町門)の各藩に命じられた。
姉小路は、三条実美とともに急進的な攘夷派公家の代表格であったが、4月の将軍下坂時に監視役として随行した際、積極開国論者の幕府 軍艦奉行 並 勝海舟 から海岸防御について意見を聞き、幕府艦にも乗り込んで 摂津 ・ 播磨 ・ 淡路 など大坂湾岸を巡視し、勝の説に感化を受けて帰京した。そのため、土佐の武市瑞山、肥後の轟武兵衛ら尊攘派の失望をかっていた。
5月22日に土佐脱藩浪士の 那須信吾 が、現場に遺棄されていた刀は薩摩藩士 田中新兵衛 のものだと証言した。田中は 幕末の四大人斬り の一人に数えられ、武市瑞山と義兄弟の契りを結び、 岡田以蔵 などと徒党を組んで「天誅」を繰り返した過激尊攘派である。
だが、田中は 京都町奉行 永井尚志 の尋問に対して口をつぐんだまま隙を見て自害したため、その背後関係は究明されなかった。関与を疑われた薩摩藩は謀略だと抗議したものの、結局九門警備から外された上、九門内の藩士の往来も禁じられ、京都における地歩をさらに後退させることとなった。
政変へ
攘夷親征策
外国艦船に砲撃を加えた 長州藩 に対し、幕府は「もはや戦端を開いた以上、穏便に事を運ぶのは不可能だと申してきておるが、先に異国拒絶について布達した際、不明な点は逐一問い合わせることになっていたはず。
ところがそれもせず、横浜の交渉が決裂してもいないのにみだりに戦端を開いたことは(世界に対して)国辱を生ぜしめたに等しく、もっての外である」との問罪書を6月12日に交付した。長州は幕府の穏健な攘夷(鎖港交渉)方針に従うことはできないが、外国艦船砲撃に同調する藩はなく孤立し、幕府から譴責を受けてしまった。幕府があくまで武力攘夷を非とするなら、長州としては、3月の勅書で確認された将軍への攘夷実行の全権委任を解除し、直接的な親征の方式に転換して攘夷戦争を断行するしかなかった。
久留米 の尊攘家 真木和泉 は、前年の 寺田屋事件 で捕えられ国元で幽囚の身となっていたが、長州藩の働きかけによりこの5月に赦された。そして長州で藩主 毛利慶親 に拝謁し、長州一藩のみが列強を相手に攘夷をしても勝ち目はない、全国一丸となって事に当たるには天皇が攘夷親政を進められる以外に道はない、と意見具申して採用された。
真木は京都でも 木戸孝允 (桂小五郎)ら在京の長州藩士らに攘夷親征策を提案する。攘夷親征を天下に布告して石清水に行幸、そこから勅使を関東に下すというのである。毛利慶親は6月18日、石清水行幸・攘夷親征勅命の工作、違勅の幕吏・大名は長州一手でも討伐すべきことなどを家老らに命じた。
しかし、 孝明天皇 は熱心な攘夷論者ではあるものの、暴走する急進派公家や長州を嫌悪し、攘夷戦争も望まず、将軍に対する委任を止めるつもりもない。 島津久光 が帰国して以降、天皇は 国事御用掛 の 中川宮朝彦親王 や前 関白 の 近衛忠煕 らに久光への期待をたびたび漏らし、近衛もまた久光に上洛の催促を繰り返した。6月9日には、叡慮を妨げ偽勅を発する「姦人」(三条実美ら)を排除せよとの密勅が 薩摩藩 にもたらされる。しかし、久光側近の 大久保利通 は機はまだ到来していないという意見で、 越前藩 の挙藩上洛計画との調整や、生麦事件の賠償を迫るイギリス艦隊の襲来への備えもあり、上洛は7月下旬頃がよいということになった。
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