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京都守護職 の 松平容保 が 会津藩 兵を率いて上洛、着任したのは12月24日である。 一橋慶喜 は翌文久3年1月5日に入京し、 東本願寺 を宿舎とした。 山内容堂 は1月25日、 松平春嶽 は2月4日に入京した。10年後の攘夷実行から即今攘夷への転換を強いられた幕府にとっては、彼らの朝廷工作で将軍上洛までに状況を好転させておくことが必要だった。
薩摩からはすでに 島津久光 に代わって 大久保利通 が12月20日に入京しており、 関白 近衛忠煕 、青蓮院宮(政変後に還俗して 中川宮朝彦親王 )、 議奏 の 中山忠能 ・ 正親町三条実愛 と接触し将軍上洛見合わせの勅命降下を工作していた。この話は進展せず、大久保は容堂・春嶽を通じて幕閣の調整を行い、上洛見合わせの結論を得てから再び京都の工作に入ることとし、1月3日に江戸に下った。しかし、幕府はすでに将軍上洛を布告しており見合わせは難しいという。そこで将軍上洛を1か月延期し、その間に容堂・春嶽が国是を定める朝議を働きかけることになったのである。
だが、朝廷では朝議のあり方が大きく変わっていた。従来の朝議は関白・ 左大臣 ・ 右大臣 ・ 内大臣 ・ 議奏 ・ 武家伝奏 ・ 権大納言 および青蓮院宮までの参加が一般的だったが、12月9日に新設された 国事御用掛 には彼らを含む 29 人が任命され、朝議に参与できる廷臣の範囲が拡大した。
そしてこの国事御用掛では 三条実美 ・ 姉小路公知 ら急進派公家の発言力が強く、青蓮院宮や近衛関白、左大臣 一条忠香 などは早速辞意を漏らす有様だった。
さらに1月22日、儒学者 池内大学 が暗殺され、切り取られた耳が同26日に中山・正親町三条両議奏の屋敷に投げ込まれるといった状況で、近衛忠煕が23日に関白を辞任して親長州の 鷹司輔熙 に替わり、中山・正親町三条も27日に辞任に追い込まれた。
1月28日には 千種家 の 雑掌 賀川肇 が暗殺された。賀川は以前 岩倉具視 と 京都所司代 を連絡していた人物で、その左腕は洛北に隠棲する岩倉のもとに届けられ、首は慶喜の宿舎の門前に脅迫状を添えて晒された。攘夷方針での交渉を押し付けられている慶喜は、攘夷実行の期日決定を迫る公家や尊攘志士に対し、将軍が到着してからと逃げ続けていたが、2月11日に 長州 の 久坂玄瑞 ・ 寺島忠三郎 、 肥後 の 轟武兵衛 が鷹司邸を訪れて建白を行い、続いて姉小路ら13人の公家が鷹司関白に迫り、その結果朝廷は三条ら8人を遣わし慶喜に期日の即決を要求した。勅諚とあっては拒み切れず、慶喜は将軍の江戸期間後20日と回答した。
2月13日、久坂らの建白に基づく 国事参政 4人、 国事寄人 10人が朝廷に設けられ、急進派公家が独占した。20日には 草莽 の者でも 学習院 に出仕させ建言を聴くこととなり、尊攘派の影響力が一段と強まることになった。過激な尊攘派が多数をもって決する朝議は、もはや天皇といえどもその一存で覆すのは困難であった。
攘夷委任と攘夷期日
将軍 徳川家茂 は3千の兵を率いて文久3年3月4日に着京した。3代 徳川家光 以来229年ぶりの将軍上洛である。
翌日、将軍後見職一橋慶喜が参内し、「これまでも将軍へ一切御委任されていたことではあるが、(確認的に)今一度御委任くだされば天下に号令して攘夷を行いたい」と勅諚を求めた。慶喜は徹夜で粘り、 孝明天皇 は「従来どおり庶政は幕府に委任するつもりである。攘夷の実行に励むように」と答えたが、慶喜はさらに関白に求めて文書化したものを得た。
ところが、将軍が7日に参内しあらためて受け取った勅書は、征夷大将軍のことは従来どおり委任するが、国事については直接諸藩に命じる場合もあると書かれていた。
これでは「征夷将軍儀」はその文字どおりの職掌である征夷(攘夷)に限られ、他の国政の最終決定権は朝廷にあるようにも解され、幕府への庶政委任は骨抜きにされた格好であった。だが、とにかく何をもって攘夷としそれをどう行うかはその裁量に委ねられた。それだけでも幕府にとって意味はあった。
3月11日、長州藩世子 毛利定広 の進言によって攘夷成功祈願の 賀茂 行幸 があり、関白以下の廷臣に加え、将軍家茂、慶喜他在京の諸大名は徒歩で随行した。江戸時代の天皇は、観念的には将軍の上位にあっても、実際はさまざまな面で幕府の支配を受けていた。その関係が逆転したことを可視化し、攘夷を祈願する天皇に将軍・諸大名が随従する様を天下に示すデモンストレーションであった。
その3日後、島津久光が京都に入った。前年12月に春嶽に上洛を求められてのことで、山内容堂を加えた3人で公武合体の実現に努めるということになっていた。幕府もこれに形勢逆転の期待をかけていたが、当の久光は急進派の追い落としに手を尽くすも成功せず、早々と18日に帰国してしまう。
春嶽はもはやこれまでと将軍職返上を勧めて自らも政事総裁職辞任を申し出、承認も待たず21日に、容堂も26日に帰国する。帰国後、越前藩は次の行動の準備に取り掛かり、土佐藩では長州に通じる藩内の過激尊攘派から容堂が実権を奪回すべく動き出す。ただ薩摩藩は、次の段階に進む前に、生麦事件の賠償交渉という難事を控えていた。
将軍家茂も再三にわたり東帰を願い出たが、 イギリス 艦隊が大坂湾に襲来するという噂もあってことごとく差し止められ、4月11日の 石清水 行幸を迎えた。予定されていたパフォーマンスは軍神とされる八幡宮の神前で将軍に節刀を賜うというもので、これは兵権を委ねて朝敵の征伐を命じることを意味したが、慶喜は将軍には病気を理由に供奉させず、自らも名代として男山の麓まで行ったところでにわかに眼病を発して引き返した。欠席に激した攘夷派から慶喜は天誅の脅迫を相次いで受けることになった。
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