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2024年08月01日
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カテゴリ: 大正・昭和




内田康哉 外相が協議し、首席全権として西園寺を派遣する方針を決めた。西園寺は健康上の不安から辞退しようとしたが、12月18日に応諾した。この際、「無謀」であるが、老体を犠牲にするという覚悟を原に示している。しかし決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があったため、西園寺が出国したのは 牧野伸顕 珍田捨巳 といった他の全権が出発してから1ヶ月後の大正8年( 1919 1月14 のことであった。西園寺と同行したのは妾の奥村花子、娘の新子と八郎の夫妻、そして 近衛文麿 公爵 らであった。また名門料亭 なだ万 の主人楠本萬助が板前二人を連れて乗船しており、船倉には日本食が5トンも積み込まれていた。これは現地で 日本食 パーティーを開くためのものであった。


西園寺の一行は3月2日にパリに到着したが、フランス側からの出迎えはなかった。日本にとって重要な検討課題の討議は既に行われており、牧野や珍田が交渉の主役となっていた。さらに20年ぶりの訪仏であったこともあり、旧友クレマンソーの語るフランス語を聞くことはできても、話すことはできなくなっていた。また病気がちであったために精力的な活動もできず、会議には参加していたが、発言は一度も行っていない。このため 外務省 がまとめたパリ講和会議の概要文書で、西園寺が登場するのは 4月27 のクレマンソーとの会談のみであった。 吉野作造 は「何を言ってよいか分からなかったためだ」と批判している。ただ、 佐分利貞男 は、 山東半島 問題が紛糾した際に、日本代表団の中から帰国しようという声が上がった際、 西園寺が「 国際連盟 問題は山東問題よりも重要 であるとし、自分一人でもパリに留まる」と発言したことを回想し、日本代表団内部に影響を与えたことを示唆している。


◯国際連盟 [こくさいれんめい、)、は、 世界平和 の確保と 国際協力 の促進を目的として設立された 国際組織 であった。 第一次世界大戦 を終結させた パリ講和会議 の後、 1920 1月10 に発足し、 1946 4月20 に活動を終了した。


国際連盟規約 に記載されている連盟の主な目的は、 集団安全保障 軍縮 によって 戦争 を防止し、交渉と 仲裁 によって国際紛争を解決することであった。また、労働条件、先住民の公正な扱い、 人身売買 違法薬物の取引 、武器取引、健康、戦争捕虜、ヨーロッパの少数民族の保護などが、この規約や関連条約に盛り込まれていた。国際連盟規約は、 1919 6月28 ヴェルサイユ条約 の第1編として調印され、1920年1月10日に他の条約とともに発効した。連盟理事会の第1回会合は1920年 1月16 フランス パリ で、連盟総会の第1回会合は1920年 11月15 スイス ジュネーヴ で開催された。1919年、 アメリカ合衆国大統領 ウッドロウ・ウィルソン は、連盟設立の立役者として ノーベル平和賞 を受賞した。


連盟の外交理念は、それまでの100年間とは根本的に異なるものだった。連盟は独自の軍隊を持たず、第一次世界大戦で勝利した 連合国 フランス イギリス イタリア 日本 常任理事国 )が決議を執行し、経済制裁を守り、必要に応じて軍隊を提供することとしていた。しかし、 大国 はそれに消極的だった。制裁措置は連盟加盟国に損害を与える可能性があるので、大国は制裁措置を遵守することに消極的だった。 第二次エチオピア戦争 の際、イタリア軍の兵士が 赤十字社 の医療テントを攻撃していると連盟が非難したとき、 ベニート・ムッソリーニ は「連盟は雀が叫んでいるときには非常に良いが、鷲が喧嘩をしているときには全く良くない」と答えている。


また、 人種的差別撤廃提案 が否決されるなど、人種問題の解決を果たすこともできなかった。なお、2回目の提案の際、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。


連盟の本部は 1920 から 1936 までは スイス ジュネーヴ パレ・ウィルソン 英語版 )に、 1936 からは同じくジュネーヴの パレ・デ・ナシオン に設置されていた。 パリ家 モーリス・ド・ロチルド 英語版 フランス語版 )の屋敷 シャトー・ド・プレニー 英語版 )も、1920年から1939年まで国際連盟の会場として使用された。


1934 9月28 から 1935 2月23 までの間は、最多の58か国が加盟していた。連盟は、1920年代にいくつかの成功と初期の失敗を経験した後、最終的に1930年代の第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。 アメリカ合衆国 は連盟に加盟せず、 ソビエト連邦 は遅れて加盟した後、 フィンランドへの侵攻 後すぐに追放されたことで、連盟の信頼性は低下した。 ドイツ 、日本、イタリア、 スペイン などは連盟を脱退した。 第二次世界大戦 の勃発により、連盟は「将来の世界大戦を防ぐ」という本来の目的を果たせなくなった。


第二次世界大戦終了後、 国際連合 (国連)が 1945 10月24 に設立され、連盟が設立したいくつかの機関や組織は国連が引き継いだ。連盟は 1946 4月20 をもって正式に解散した。連盟の存続期間は26年であった。



起源


背景


「国家間の平和のための共同体」という概念は、初期には イマヌエル・カント が1795年の著書『 永遠平和のために [12] で、国家間の紛争を抑制し、平和を促進するための国家連合体の設立を主張した。カントは平和のための世界共同体の構築を主張したが、それは 世界政府 という意味ではなく、各国家が自国民を尊重し、外国からの訪問者を同じ理性的な存在として迎え入れる自由な国家であることを宣言することで、世界の平和な社会を促進することを願っていた。 集団安全保障 を推進するための国際協力は、19世紀の ナポレオン戦争 の後、ヨーロッパ諸国間の現状を維持し、戦争を回避するために展開された ヨーロッパ協調 英語版 )に端を発している。また、この時代には 国際法 が整備され、 ジュネーヴ条約 では戦時中の人道的救済に関する法が制定され、 1899 年と 1907 年のハーグ条約 では戦争のルールと国際紛争の平和的解決が規定された。歴史学者のウィリアム・ H ・ハーボーと ロナルド・E ・ポワスキー 英語版 )が指摘するように、 セオドア・ルーズベルト はアメリカ大統領として初めて国際的な連盟の設立を呼びかけた。ルーズベルトは、1906年にノーベル賞を受賞した際に、「誠実に平和を願う大国が平和連盟を結成してくれれば、それは素晴らしいことである」と述べている。






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最終更新日  2024年08月01日 10時18分53秒
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