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嘉兵衛拿捕までの経緯
ニコライ・フヴォストフ ( ロシア語版 )による 文化露寇 の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化していた。
そうした中、文化8年( 1811 年 )5月、軍艦 ディアナ号 で千島列島の測量を行っていた ヴァーシリー・ゴローニン は国後島の 泊 に入港した際、厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に捕えられ、松前で幽囚の身となった。
ディアナ号副艦長の ピョートル・リコルド ( ロシア語版 )は一旦 オホーツク に戻り、ゴローニン救出の交渉材料とするため、文化露寇で捕虜となり シベリア に送られていた 良左衛門 や文化7年( 1810 年 )に カムチャツカ半島 に漂着した 摂津国 の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島に向かった。
国後島に着いたリコルドは漂流民を陸へ送り、日本側からゴローニンの消息を知ろうとした。
松前奉行調役の奈佐瀬左衛門は良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝えたが、リコルドはそれを信じず、文書で証明するようにと良左衛門を陸へ送り返したが、 良左衛門は戻らなかった。
リコルドは国後島沖に留まり、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船である。
カムチャツカへ連行
嘉兵衛は観世丸に乗り、干魚を積んで択捉島から箱館に向かう途中、公文書を届けるため泊に寄港しようとしていたが、文化9年8月13日( 1812 年 9月18日)朝、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕された。
嘉兵衛は、リコルドにゴローニンが生きていることと、カムチャツカに行く用意があることを伝えた。
そして、弟の嘉蔵・金兵衛に事件解決のため「掛合〔交渉〕も致し候」と手紙を書き送り、食料と衣服をディアナ号に積み替え、水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌのシトカとともに、 カムチャツカ 半島の ペトロパブロフスク・カムチャツキー に連行された。
ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ。12月8日(和暦)、嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。
嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。
翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛は キリスト教 の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら 仏教 、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った。
その後、みずからの健康を不安に感じた嘉兵衛は情緒が不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。
リコルドはこのときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の提言に従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義の謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。
日本への帰還
幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフヴォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。
これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させた。この幕府の事件解決方針は、まさに嘉兵衛の予想と合致するものだった。
1813 年 (文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した。
リコルドが嘉兵衛を介して日本側に提出した謝罪文は、リコルドが嘉兵衛を捕らえた当人であったという理由から幕府が採用するところとならず、リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められた。
日本側の要求を承諾したリコルドは、6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発。
一方、高橋と嘉兵衛らは6月29日に国後島を出発、7月19日に松前に着いた高橋は松前奉行・ 服部貞勝 に交渉内容を報告。そして8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された。
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