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別所長治・荒木村重の離反 /
天正6年
天正6年(1578年)1月、毛利輝元は大軍を上月城に派遣した。毛利方では、先述のように3ルートからの上洛作戦を策定していたが、上月城奪還から播磨進攻が得策であると小早川隆景が提案し、山陰道担当の吉川元春も合意して合流した。4月15日には輝元自身が軍を率いて備中松山城(岡山県高梁市)に陣をかまえ、吉川元春・小早川隆景の両将は、18日に6万余の兵を率いて上月城を攻め、堀や柵を設けて何重にも城を取り囲んだ。
秀吉からの急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、ついで滝川一益、明智光秀を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止され、ついで子息信忠・信雄・信孝を派遣した。先発隊として村重が到着すると、秀吉は村重と共に上月城の東方・高倉山に陣をしいたが、地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、毛利の大軍に歯が立たなかった。
この間、秀吉も信忠らも別所長治離反(後述)のため撤退せざるをえなくなり、7月5日、半年にわたる毛利氏の攻略によって上月城が陥落した。これにより、信長と同盟を結んでいた尼子勝久・尼子氏久が自害、山中幸盛も捕らえられ、輝元の本営である備中松山城への護送中に処刑された(第二次上月城の戦い)。こうして、一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願いむなしく滅んだ。
天正6年2月、三木城主別所長治が本願寺・毛利の側に寝返り、同年10月には荒木村重も本願寺法主顕如と盟約を結んで信長に離反した。調略手腕で短期間のうちに制した播磨であったが、長治の離反におよんで同調者が続出し、秀吉は敵国のなかに身を置く様相を呈するに至った。
長治は秀吉が黒田孝高と共に中国進攻戦の先導役として最も期待した武将の1人であった。だが『別所長治記』によれば、長治離反の理由を、加古川城(兵庫県加古川市)での軍議に参席した長治の名代の意見が容れられなかったために、不満をもった家臣が長治に謀反をすすめたからであると説明している。
これらの動きに呼応して毛利水軍の600余艘が本願寺への大量の兵糧米を積載して木津川の河口へ向かった。信長は先の大敗の経験に学んで急遽志摩の九鬼嘉隆に6艘、伊勢の滝川一益に1艘の装甲をほどこした大型の安宅船(鉄甲船)を建造させ、7月に和泉の堺に廻航させて海上封鎖にあたらせていた。
鉄甲船には、大砲3門が搭載されていたという。11月には、織田水軍と毛利水軍のあいだで海戦があり、九鬼嘉隆が敵船を引きつけて大将の船を大砲で撃破する戦法で毛利水軍を敗走させ、毛利・本願寺間の糧道の遮断に成功した(第二次木津川口の戦い)。なお、これに先だつ3月13日には信長包囲網の一画を占めていた越後の上杉謙信が春日山城(新潟県上越市)で死去している。
いっぽう陸上では、3月末に別所長治とのあいだで三木合戦がはじまり、長治に呼応する播磨国内の諸勢力とのあいだで戦闘に入った。秀吉は播磨屈指の名刹として知られていた書写山圓教寺(姫路市)を陣所と定め、先に派遣されていた信忠らの援軍を得てただちに三木城を包囲、4月には野口城の戦い(加古川市)で長井政重を、6月末には神吉城の戦い(加古川市)で神吉頼定を討った。
5月には尼子救援のため兵をいったん上月城に差し向けて熊見川(千種川)では毛利勢と戦ったが、信長は6月の中国方面での戦況報告を受けて上月城救援を諦め、三木城攻めを優先すべきことを秀吉に厳命した。
この間、4月には、小寺政職が小寺氏と別所氏は元来ともに赤松氏の流れを汲む同族であると称して美嚢郡・飾東郡・印南郡などの一族を呼集して御着城に立てこもった。小寺家の家老であった黒田孝高は家臣の多くを味方につけて秀吉にしたがい、7月、政職はこれに敗れて逃走した。
上月落城後、秀吉は8月の櫛橋伊定とのあいだの志方城の戦い(加古川市)、10月の梶原景行とのあいだで高砂城の戦い(兵庫県高砂市)によって三木城の孤立化をめざし、播磨の再平定に努めた。この過程で、別所方についた姫路の鶏足寺(現在は廃寺)は秀吉によって焼き討ちにあっている。
また、上月落城後の毛利氏では、小早川隆景がその勢いで山陽道を東上する作戦を主張し、鞆の義昭も本願寺支援のため三木城救援を求めた。
しかし、吉川元春は但馬国人衆の入国要請を理由に但馬へ去ったため毛利勢の東進は中止、山陽方面からの進攻計画は頓挫したが、播磨沖の制海権をにぎっており、海上からの三木城への兵糧補給は継続された。
こうした中の10月に荒木村重も離反するが、義昭が摂津花隈城(神戸市中央区)に重臣を派遣して説得に努めた結果であったという。摂津有数の大名であった村重は、明智光秀などと共に石山本願寺攻めの際には先鋒にあたったが、大坂方面軍司令官の地位を佐久間信盛に奪われ、中国方面軍の司令官の地位もまた秀吉に奪われ、さらに信長の側近長谷川秀一の傲慢無礼な態度に耐えかねて将来に望みを失っていたのではないかと推定される。秀吉は、村重とは旧知の間である黒田孝高を有岡城に派遣して村重の翻意を促したが、逆に孝高が村重に捕らえられ幽閉された。
また、それまで秀吉に加勢して三木城攻略にあたっていた信忠は、急遽村重への対応に迫られて摂津へ出向いたため、秀吉はこの後僅か8,000の手勢でほぼ互角の7,000人が守る三木城を包囲しなければならなくなった。この年の6月13日には陣中で竹中重治を失っていたので、秀吉にとっては軍監2人を欠いての攻囲戦となった。秀吉は城の周囲に柵や塀を幾重にも構築して城兵の動きを封じた上で、30以上もあるという三木城の支城を各個撃破する戦略を採用した。
村重は毛利氏・本願寺と組んで謀反を起こしたものの、毛利水軍の木津川口での敗走と、それに続く11月16日の高槻城(大阪府高槻市)主高山右近、11月24日の茨木城(大阪府茨木市)主中川清秀の2人の配下の降伏によって孤立の度合いを深め、有岡城に籠城して織田軍に抗した(有岡城の戦い)。
宇喜多・南条の帰順と有岡落城 / 天正7年
詳細は「有岡城の戦い」を参照
この年前半、秀吉は、2月の播磨平井山の戦い(三木市)で長治の叔父別所吉親と、5月の摂津丹生山・淡河の戦い(神戸市北区)では明要寺の衆徒、および淡河定範と闘った。
前年の別所長治・荒木村重の寝返りは、毛利軍の東上を期待してのものであった。それまでも毛利は両氏に援軍を送っていたが、天正7年(1579年)正月にも救援軍の派遣を決定し、甲斐の武田勝頼と同時に信長を挟撃する予定を立てていた。しかし、信長は豊後の大友義鎮(宗麟)と親交を結んで毛利の背後を脅かすことに成功し、正月、毛利氏の重臣で豊前松山城(福岡県京都郡苅田町)の城主であった杉重良が大友側に通じて北九州で挙兵し、これにより毛利勢の東上は阻まれた。
また、美作川上郡の高山城(岡山県高梁市)の城主草刈景継も信長方への寝返りが露見して吉川元春によって成敗された。なお、信長は11月、宗麟の子大友義統に対し、毛利氏支配下の周防・長門をあたえるとの朱印状を出している。
同年、織田・毛利間にあって帰趨の定まらなかった伯耆東部羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町)城主南条元続が9月に、毛利氏と同盟関係にあった備前の宇喜多直家が10月に信長に服属した。南条と宇喜多は連携して毛利に対することを盟約したのである。この調略の過程で、同年9月に秀吉は直家の帰順によって信長に朱印状をあたえるよう要請したが、信長は許可せず、かえって秀吉の専断を叱責して、播磨に帰らせるという事態も生じている。
また、堺の豪商の家に生まれた小西行長は当時直家に仕えていたが、織田方への内通には行長のはたらきかけがあったともいわれている。直家の寝返りによって備中・美作両国はそれまでとは一転、宇喜多・毛利両氏の抗争の場となった。この年、直家は毛利氏と結んでいた三星城(岡山県美作市)の後藤勝基を攻め滅ぼしている。
こうして、敵対勢力を近くにかかえることとなった毛利氏は援軍を派遣することが困難となり、長治・村重はともに孤立の度を深めていった。
9月2日、村重は現状打開のため有岡城を出て嫡子荒木村次のまもる尼崎城(兵庫県尼崎市)に移った。
有岡城攻めの総大将をつとめた信忠は、軍を対有岡城・対尼崎城の2つに分け、滝川一益が双方に調略して織田方への離反を誘った。信長はこのとき、次男信雄にも伊勢の兵を率いて出陣するよう命じたが、信雄は武士や百姓にとって負担であると考え、かわりに隣国伊賀に攻め込むことで取り繕おうとして敗戦し、信長からきびしい叱責を受けている。
10月15日、織田軍は有岡城総攻撃を開始し、守将荒木久左衛門に対し尼崎城・花隈城(神戸市中央区)を明け渡すならば本丸の一門・家臣の命を助けると呼びかけ、久左衛門は10月19日、有岡城を開城した。開城に際しては、村重翻意のために秀吉によって派遣され、そのために有岡城内に抑留されていた黒田孝高が1年ぶりに救出された。しかし村重自身は毛利輝元のもとへ逃れ、久左衛門も失踪したため有岡城の人質助命は反故にされた。
信長は、戦後の12月、有岡城の人質全員の処刑を断行した。村重の一門は京都六条河原で斬首、重臣の妻子は尼崎近郊で磔刑に処せられ、その他510名余は枯れ草を積んだ家屋に閉じ込めて焼き殺すという残酷な報復であった。
いっぽう別所長治との三木城攻囲戦は、秀吉によって兵糧攻めが採用され、これは後世「三木の旱殺し」とよばれた。
村重方の花隈城から丹生山の砦(神戸市北区)と淡河城(神戸市北区)を経て三木城へと達する補給路は、5月、両城砦が秀吉によって落とされたため、機能しなくなった。また、この年の9月10日には毛利方の生石中務少輔とのあいだで兵糧の補給路をめぐる平田砦の戦い(三木市)が起こっており、これは、三木合戦のなかでは最大の激戦となった。
山陰方面では、前年より明智光秀が丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻略しており、この年の6月、敗れた波多野秀治・秀尚の波多野兄弟は磔刑に処せられた。
7月初旬から8月上旬にかけては細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長・明智秀満らの諸将を加えた光秀軍が第二次黒井城の戦いで勝利して赤井忠家を破り(荻野直正は前年に死去)、10月、丹波・丹後両国の平定をほぼ成し遂げた。これにより丹波は明智氏、丹後は細川氏の領国となり、山陰道からの毛利勢の東上路はふさがれることになった。
三木落城と播磨・但馬の平定 / 天正8年
前年の平田砦の戦い以降、孤立無援となった別所方では兵糧が欠乏して三木城内からは餓死者が出はじめた。天正8年(1580年)1月、正月であるにもかかわらず城内から煙がたたないのを見た秀吉は、1月6日早朝、三木城の背後の八幡山への攻撃を開始した( 鷹の尾砦の戦い )。八幡山には、三木城を南から見下ろす鷹の尾砦があり、長治の弟別所友之(彦進)が詰めていた。
秀吉の攻撃に対し300余名が抗戦したが、充分な食糧のない兵は充分な武具も付けずに戦わざるをえなかったため、多くは討死に、老将36名は自害して砦は失われた。
1月17日、丸裸になった三木城は陥落し、別所長治、弟友之、叔父吉親が城兵助命を条件に自害して、2年におよぶ三木合戦が終わった。なお、それに前後して、別所氏に与力していた魚住城(明石市)・高砂城(高砂市)・御着城(姫路市)も陥落している。
なお、秀吉は天正13年(1585年)、長治の叔父別所重宗に但馬城崎城(兵庫県豊岡市)1万2000石をあたえている。
いっぽう、大坂では閏3月5日に信長と顕如とが正親町天皇の勅命によって和睦し石山合戦が終了して、中国戦線にも転機がおとずれた。戦後、顕如は紀伊雑賀(和歌山市)に去り、信長は摂津・和泉の両国で国内諸城の破棄(城割)を命じている。しかし講和に反対した顕如の子教如は、大坂に残って諸国に檄を発して一向宗門徒の再挙をはかった。
教如の蜂起に対しては、足利義昭は毛利輝元、小早川隆景に対して「新門跡」(教如)を支援するよう命じており、教如も義昭に謝意を表明していることから、両者が提携していたことはほぼ確実視される。しかし、その教如も形勢不利とみて7月に信長と和睦した後、本願寺に火を放って雑賀に退去した。
東播磨およびその東方が安全となった秀吉は、閏3月29日から4月24日まで、播磨一向一揆の拠点であった英賀城(姫路市)を攻略してここを占拠、引き続いて赤松氏の一族宇野政頼・宇野祐清父子の立てこもる長水山城(宍粟市)も落城させて一揆を解体、播磨を再び平定して、その支配を強化した。
4月からは信長の命によって播磨の検地をおこない、手狭になった姫路山の近くに新城を築いて居城(姫路城)とし、浄土真宗の寺内町だった英賀から町人・百姓を呼び寄せて、城下町を整備した。以後、秀吉は播州姫路を拠点に毛利氏との直接対決を迎えることとなった。
6月には、宇喜多直家と連合して美作攻略を開始し、枡形城の城主で毛利方の福田盛雅が守る祝山城(医王山城とも。岡山県津山市)を攻めた( 祝山城の戦い )。かつては浦上宗景の被官で、当初は毛利氏と結ぶことによって備前国内での勢力を伸張させた宇喜多直家は、今や織田方の先鋒となって山陽地方における毛利氏の前線を切り崩していった。
山陰方面では、朝来郡の竹田城を根拠として秀長部隊を主力とする羽柴勢によって但馬攻略が本格的に再開され、5月16日、山名堯熙の守る有子山城(兵庫県豊岡市)が落城した。その父で但馬守護山名祐豊はその中で死去、5月21日には山名氏の本城出石城(豊岡市)も落城した。
これにより但馬は再び平定され、秀長には出石城があたえられた。同月、因幡にも侵攻し、第一次鳥取城攻めがおこなわれたが、その際、鳥取西方の鹿野城(鳥取県鳥取市)も攻略された。戦後、秀吉は因幡進攻計画を練り直して若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせた。これにより、穀物価格は急騰したという。
なお、この年の8月、信長は本願寺攻撃の責任者であった佐久間信盛を砦にこもって無為に過ごしたとして、「武篇道ふがいなし」と断じ、高野山に追放した。いっぽうで、明智光秀・羽柴秀吉・池田恒興のはたらきについては「天下の覚え」「天下の面目」と激賞した。また、戦国時代史の研究者谷口克広は、羽柴軍が「中国方面軍」へと昇格したのは、播磨・但馬を統一した天正8年とみるのが妥当ではないかとしている。
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