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5「長禄の変と赤松家の再興
」
Ø 嘉吉の乱以後、旧赤松領は山名氏の領国となり赤松家の旧臣は排除され、または浪人となり討伐の対象とされる事もあった。このため、赤松家旧臣の多くは主家再興を悲願としていた。
赤松家の旧臣・上月満吉は康正2年(1456年)に吉野に入り、神璽に関する情報収集に務めた。これは後南朝に奪われた神璽奪還のためであり、これは「御屋形様(政則)」と「勅諚」「上意」との約束だったという。
Ø 調査には1年の月日がかかり、長禄元年(1457年)12月に赤松家旧臣らは奥吉野に侵入し、南朝後胤とされる一の宮、二の宮を殺害した。二の宮を殺害したのが満吉である。
Ø この時に神璽も奪還した(一時的に吉野の郷民に奪われたが、再度奪回している)。この結果、長禄2年(1458年)8月に 神璽は京都に戻り、その功績により赤松家の再興が幕府から認められる事になった( 長禄の変 )。
長禄の変 (ちょうろくのへん)は、室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って、神璽を持ち去った事件。
嘉吉3年(1443年)9月の禁闕の変で、三種の神器の1つ「神璽」は後南朝に持ち去られたままだった。
嘉吉の乱で取り潰された守護大名赤松氏の再興を目指す赤松氏の遺臣達(上月満吉・石見太郎・丹生谷帯刀左衛門と四郎左衛門の兄弟など)はこの点に着目した。旧赤松領は山名領となり、赤松氏の旧臣らは追い出され、落ちぶれて浪人となっていた彼らにとって赤松氏再興は悲願であった。
また、朝廷や幕府とは神璽を後南朝から取り戻すことを条件として、成功の暁には赤松氏の再興を約していた。
赤松遺臣らは後南朝に接近するために策略を練った。彼らは「自分たちは(嘉吉の乱以降)どこにも仕える場所がなく、これ以上は耐えられないので吉野の朝廷に参上し、ともに京を奪還したい」、と後南朝に申し入れた。
そして、後南朝は赤松遺臣らを受け入れ、康正2年(1456年)12月20日に遺臣ら30人は吉野に向かった。
赤松遺臣らは吉野に入ってもすぐに行動には移さなかった。彼らは神璽のありかをさぐり、その調査にはおよそ1年の歳月を要した。
調査の結果、神璽は後南朝が行宮を置いていた奥吉野の北山(あるいは三之公)にあることが分かった。
長禄元年(1457年)12月2日の子の刻(午前0時頃)、赤松遺臣らは二手に分かれて、南朝の皇胤である自天王(北山宮、一の宮とも)と忠義王(河野宮、二の宮とも)の兄弟を襲撃した。
北山にいた自天王は丹生谷兄弟の兄によって討たれ、彼らはその神璽を強奪した。河野郷にいた忠義王も同じころ、上月満吉によって討たれている。
後南朝に仕えていた野長瀬盛高・盛実兄弟らは尊雅王(南天皇)を擁して奥吉野の山中を逃走したが、やがて十津川にて討たれた。
赤松遺臣らは神璽をいったん持ち去ることに成功するが、後南朝を支持する吉野の民にこの襲撃を察知されてしまう。
吉野の民の反撃によって、神璽を持っていた丹生谷兄弟は伯母谷で殺害され、神璽は自天王の首とともに奪還された。このため、赤松遺臣らは吉野から一旦引き上げた。
翌年の長禄2年(1458年)3月末、赤松遺臣らは大和の豪族小川弘光、さらに越智家栄の協力を得て、吉野の民によって戻されていた神璽がある自天王の母の屋敷を襲い、再度神璽を持ち去った。
この作戦もまた周到に計画されたものであった。その後、同年8月30日に神璽は京へと戻り、朝廷へ返還された。
室町幕府は後南朝によって約15年もの間京都から持ち去られていた神璽の奪還成功の功績を認め、赤松氏の再興を許し、赤松政則に家督相続をさせた。
また、その勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられた。
赤松氏再興と所領の付与には細川勝元が積極的に関与している事も確認されており、赤松氏を取り立てる事で山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている。
Ø 幕府が赤松家の再興を認めた背景には、長禄の変における功績の他に山名氏に対する政治背景があったとされる。嘉吉の乱で旧赤松領を分国とした山名氏の勢力は幕府を脅かすほど強大化していたため、赤松家を再興する事で山名氏の牽制に当てる狙いがあったとされている。
Ø また 赤松家再興と所領の付与には 細川勝元 が積極的に関与している事も確認されており、赤松家を取り立てる事で山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている。
細川 勝元 (ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。
家督・管領相続
永享2年(1430年)、細川持之の嫡男として生まれる。幼名は 聡明丸 。
嘉吉2年(1442年)8月、父が死去したため、13歳で家督を継承した。この時に7代将軍足利義勝から偏諱を受けて 勝元 と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となった。
文安2年(1445年)、畠山持国(徳本)に代わって16歳で管領に就任すると、以後3度に渡って通算23年間も管領職を歴任し、幕政に影響力を及ぼし続けた。勝元が管領に就任していたのは、文安2年から宝徳元年(1449年)、享徳元年(1452年)から寛正5年(1464年)、応仁2年(1468年) 7 月から死去する文明5年(1473年)5月までである。
勢力争い
応仁の乱で敵対関係に至ったため、細川勝元と山名持豊(宗全)は不仲であったとされているが、はじめはそうではなかった。当時、細川京兆家は一族全てで9ヶ国の守護であったのに対し、山名氏は赤松氏を嘉吉の乱で滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守護になっていた。
このため、勝元は持豊と争うことは得策ではないと考え、文安4年(1447年)に持豊の養女を正室に迎えることで協調することにしていたのである。また、政敵畠山持国に対抗する意味からも持豊と手を組む必要があった。
持国が6代将軍足利義教に家督を追われた元当主の復帰を図ると勝元はそれに対抗して義教に取り立てられた大名・国人を支持、持国は信濃守護に小笠原持長を任命、元加賀守護富樫教家・成春父子を支持、大和では元興福寺別当経覚と越智家栄・古市胤仙・小泉重弘・豊田頼英を支援した。
勝元はこれに対して小笠原宗康・光康兄弟や富樫泰高を支持、大和で経覚派と敵対している成身院光宣・筒井順永を支援、信濃・加賀・大和で持国と勝元の代理戦争が頻発した。文安2年(1445年)に近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させた。
宝徳2年(1450年)に主君である和泉守護細川常有(細川元有の父)と対立して持国と古市胤仙を頼った守護代宇高有光が殺害される事件が起こったが、その件にも勝元の関与の可能性が指摘されている。
宝徳3年(1451年)、兵庫津に入港していた琉球商船のもとへ勝元が人を送り、商物を選って取得しながら代金の支払いをせず、琉球商人は幕府に訴え、足利義政は三人の奉行を送って究明させたが、勝元は押し取った物を返さないという事件を起こした(『康富記』)。享徳2年(1453年)に伊予守護職を河野教通から河野通春に改替するが、実は勝元が教通を支持する義政に内緒で御教書・奉書などを作成したもので、5月にその事実が発覚して義政に責められた勝元が引責辞任を表明しているが義政の説得で最終的に留任した(『康富記』)。2年後の享徳4年(1455年)に自分が伊予守護となった。
その後伊予守護職は通春に戻されたが、通春を傀儡として伊予支配を目指した勝元の策は通春に拒絶されるところとなり、分家の阿波守護細川成之と通春が戦ったため、勝元と通春も対立していった [6] 。
享徳3年(1454年)、畠山氏で家督をめぐる内紛が起こった時には、持国を失脚させるため、舅にあたる持豊と共に持国の甥弥三郎を支援して持国の推す実子義就を追放に追い込んだ。
しかし8代将軍足利義政が嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興を支援しようとすると、赤松氏の旧領を守護国に持つ持豊は赤松氏の再興に強硬に反対した。
このため、持豊は義政から追討を受けそうになるが、この時は勝元が弁護したため、持豊は追討を免れた(この前後に持豊は出家し、宗全と名乗った)。宗全が赤松則尚討伐のため但馬へ下向した直後に義就が上洛、弥三郎を追放し、翌年の持国の死で義政から当主に認められたため、両者に対抗して畠山氏の引き抜きを図った義政の謀略とされる。
義政の側近となった義就だったが、無断で大和へ軍事介入したことから義政の信頼を失い、一方の勝元も弥三郎と反義就派の大和国人への支援を続け、長禄3年(1459年)に弥三郎と成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信の赦免を取り付けた。
弥三郎は同年に没したが、弟の政長を支援して翌4年(1460年)に義就から政長に家督が交替、義就が嶽山城の戦いを経て吉野へ没落した後の寛正5年(1464年)に管領職を政長に交替した。
しかし山名氏の勢力が勝元の想像以上に急速に拡大したため、勝元は宗全の勢力拡大を危険視するようになり、斯波氏の家督争い(武衛騒動)でも姻戚関係から斯波義廉を支持する宗全に対し、勝元は義廉と対立する斯波義敏を支持した。
また、宗全がかねてから反対していた赤松氏の再興問題に関しても勝元は積極的に支援し、ついには赤松政則(赤松満祐の弟義雅の孫)を加賀半国の守護と成し、赤松家を再興させたのである。
さらに勝元は勘合貿易の問題から大内教弘・政弘父子、河野通春らと敵対していたが、宗全はこれを支援するなどしたことから、細川と山名の対立構造が生じ始めた。このため、勝元は庶流の上野家出身の細川賢氏を伊予守護職に任じて通春を討伐させようとした。
また、はじめ継嗣がいなかった勝元は、宗全の末子豊久を養子にしていたが、文正元年(1466年)に実子政元の誕生後、豊久を廃嫡して仏門に入れるなど関係の悪化は明白となった(山名の血を引く政元を遠ざけ、分家の野州家から勝之を猶子に迎えたとも)。
寛正3年(1462年)に宗全の次男是豊を備後・安芸守護に任命、義就討伐に参戦させ、寛正5年に山城守護に任命したことも宗全への対抗とされる。
文正元年、義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる。
この時、義政の側近伊勢貞親と季瓊真蘂は義政が当初後継者に指名していた弟の足利義視の廃嫡と義尚の将軍後継を義政に提言した。
しかし義視を支持していた勝元はこれに反対、宗全も貞親が幕府内において権勢を強めていたことを苦々しく思っていたことから、この時は勝元に賛同し共に義政に対して貞親と真蘂の追放を訴え、これを強硬に実現させた( 文正の政変 )。斯波義敏・赤松政則も失脚したが、後に復権している。
これにより将軍家内部で実力者がいなくなると、宗全は12月、追放されていた畠山義就を上洛させ、義政に仲介して赦免の許しを出させた。
さらに宗全は応仁元年(1467年)1月、義政に強請して勝元が支援する畠山政長の管領職を取り上げて出仕停止処分に処し、代わりに宗全が支援する斯波義廉を管領に任命させたのである。ここに至って、勝元と宗全の武力衝突は避けられないものとなった。
応仁の乱
応仁の乱における最初の衝突は、畠山義就と畠山政長が争い、上御霊神社で衝突したことから始まった( 御霊合戦 )。
これに対して宗全は後花園上皇・後土御門天皇を確保して義就を支援したのに対し、勝元は義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、御霊合戦では静観していた。このため、政長は敗れた。
しかし5月25日、天皇を擁した宗全に対して、勝元は幕府を占領して将軍を擁立し、5月26日には山名方に戦いを挑んだ(上京の戦い)。
勝元は東軍、宗全は西軍と区別され、勝元は将軍・義政から宗全追討令を受領したものの、戦況は互角であった。また、赤松政則を支援して山名領へ侵攻させたりした。そして一時は宗全に奪われていた上皇・天皇を確保するなど、次第に戦況は東軍有利に進むが、決定打は出せずにいた [10] 。
応仁2年(1468年)閏10月、義政が伊勢貞親を復職させると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に変わるなど戦況も変わり、段々京都の戦闘が行われなくなる一方で地方に戦乱が波及、両軍はそれぞれの有力武将の寝返り工作へと戦略を変化させ、義視が西軍の総大将に祭り上げられ幕府がもう1つ出来上がるまでになった。このような中で文明3年(1471年)に西軍の部将朝倉孝景を越前守護に任じて寝返らせ、翌文明4年(1472年)に宗全に和平交渉を試みるが、決裂する。
文明5年(1473年)3月に宿敵である宗全が死去して優位に立ったのも束の間、自身も後を追うように5月11日に死去した。享年44。死因は病死と言われているが、一説では山名派による暗殺説もある。死後、政元が細川政国の後見の下で家督を継承、文明6年(1474年)4月3日に宗全の孫・山名政豊と和睦を結んだ。
赤松政則には幕府から勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられた。代わりに北半国の守護だった富樫成春は追放されている。
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