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2024年11月09日
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カテゴリ: 戦国




同年3月、根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒は日高郡の湯河・玉置氏の加勢を得て和泉へ出撃。さらに淡路の菅達長の水軍も加わり、18日には水陸から岸和田・大津を脅かした。大津の地侍真鍋貞成は菅水軍の200艘1,000人を撃退した。


21日、秀吉は尾張に向けて出陣。


翌22日、紀州勢は二手に分かれ、一手は土橋平丞兄弟を将として4,000 - 5,000人で岸和田城を攻撃した。


もう一手は堺を占領して堺政所・松井友閑を追い払い、さらに26日には住吉や天王寺に進出して大坂城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・黒田長政らと戦った。未だ建設途上の大坂の町は全く無防備で、紀州勢は大坂の街を破壊し焼き払いつつ侵攻した。また盗賊が跋扈し略奪が横行し、その治安の悪化は安土炎上時に匹敵したという。最終的には大坂は守られ、紀州勢は堺・岸和田からも撤退した。この戦いを岸和田合戦という。


この攻勢は秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しようとした矢先に行われ、秀吉は一度は予定通り21日に大坂を出立したもののその後また大坂に戻るなど出鼻を挫かれることになった。その後も4月には保田安政が河内見山(錦部郡)に進出し、8月には見山城を築いて活動拠点とした。またこの時期、根来・雑賀衆は四国の長宗我部氏とも連絡を取り合っていた。


和泉の戦い


天正13年(1585年)2月、秀吉は小早川隆景に対し、毛利水軍を岸和田に派遣するよう命じた。


これを受けて、隆景は3月1日に自ら出発の準備を行い、まもなく隆景率いる毛利水軍が出陣してきた。


3月9日、秀吉は貝塚寺内に対し禁制を発行して安全を保障した。同日、秀吉正室の侍女孝蔵主を貝塚本願寺へ派遣し、親睦を深めた。


同月上旬、秀吉は木食応其を使者として根来寺に派遣し、応其は拡大した寺領の一部返還を条件に和睦を斡旋した。


斡旋案に対し根来衆の間では賛否分かれたが、反対派は夜中に応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけ、このため応其は急いで京都に帰還した。


ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて23段に布陣した。さらに多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。これに対し根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計 9,000 余人の兵を配置して迎撃した。


3月20日、先陣の秀次勢は大坂を発し、貝塚に到着。21日、秀吉は大坂を出陣し、岸和田城に入る。同日、先陣諸勢は泉南城砦群に接近したが、既に昼を過ぎていたことから即日攻撃か翌日に延期するかで議論になった。


中村一氏が「これだけの兵力差があるのに攻撃を延期するのは他国への印象が悪い」と即時開戦を主張したため、直ちに戦端が開かれた。


千石堀城攻防戦


まず防衛線の東端にあたる千石堀城で攻防が始まった。千石堀城に籠るのは城将大谷左大仁以下根来衆の精鋭1,400 - 1,500人、他に婦女子など非戦闘員が 4,000 - 5,000 人加わっていたとされる。


攻める上方勢は羽柴秀次を主将に堀秀政・筒井定次・長谷川秀一の諸将だった。


筒井・長谷川・堀勢ら15,000人が進撃すると、城兵500余人が討って出て横合いから弓・鉄砲で奇襲を仕掛けた。「城内より鉄砲を放つこと、平砂に胡麻を蒔くがごとし」 [66] という猛烈な射撃により、上方勢は多数の死傷者を出した。筒井勢などは傘下の大和衆・伊賀衆を合わせて8,000人で戦闘に臨んだが、城兵の銃撃の前に進撃を阻まれた。


味方の苦戦を見て、羽柴秀次は千石堀城がにわか造りゆえに防備は十分でないと推測し、田中吉政・渡瀬繁詮ら直属の将兵3,000余人を側面から城に突撃させた。しかしこれも城方の弓・鉄砲の反撃にあって多数の討死を出す。


秀次は自身の馬廻も投入して二の丸に突入させ、城兵300余人を討ち取ってさらに本丸を攻めるが、またしても城兵の弓・鉄砲により阻まれた。


一連の攻防により、秀次勢の死傷者はわずか半時(約1時間)の間に1,000余人に達したという。


この時、筒井勢のうち中坊秀行と伊賀衆が搦手に迂回して城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。この火矢が城内の煙硝蔵に引火爆発したため城は炎上、これが致命傷となり落城した。


城内の人間は焼け死に、討って出た城兵はことごとく戦死した。秀吉は人も動物も皆殺しにするよう厳命し、城内にいた者は非戦闘員はおろか馬や犬猫に至るまで全滅した。


第一次太田城の戦い


太田城の攻城戦は羽柴秀吉が行った第二次太田城の戦い、水攻めが有名であるが、信長の紀州攻めの後も攻城戦が行われた。1577年(天正5年)に織田信長が雑賀城に侵攻するにあたって、雑賀衆の中にも織田信長軍に協力した者がいた。太田左近を党首とする宮郷衆らである。


その織田信長軍が雑賀の地から撤退すると、これに遺恨を持っていた雑賀衆が兵をあげ報復を開始した。これに応じた織田信長は佐久間信盛を総大将に八万の増援軍を雑賀を送り込んだが制圧に失敗した。


その後、太田左近は根来寺の僧兵を味方にし、かなりの攻城戦があり一進一退を繰り返し、1ヵ月間も戦いが続いていたが太田城の守りは堅く雑賀衆は攻め切れず、雑賀孫一は太田左近に和睦を申し入れ停戦が成立した。


また佐武伊賀守は、この城攻めについて宮郷に雑賀の者が出耕作が妨げられるので、奪い取ってしまえとなったらしく、鍬をもって堀を崩し、別動隊は根来寺や宮郷からの応援隊を迎撃した。


この佐武伊賀守も根来衆の大谷某なる人物を討ち取ったようである [2] 。この話がどこまで史実に近いかは解らないが「鍬で城を崩してしまおうとは何とものびやかな話」と指摘されている。






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最終更新日  2024年11月09日 07時46分18秒
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