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11「景虎方」
Ø 景虎方には前 関東管領 ・ 上杉憲政 や上杉一門衆の多くが加担した。越後長尾家は長年一門同士の権力争いが激しく、特に上田長尾家と古志長尾家は謙信時代にも敵対しており、上田長尾家出身の景勝が上杉家当主となることは、古志長尾家からすれば到底認められるものではなかった。
Ø このほか、上杉家臣団では大身である 北条高広 も加担し、 本庄秀綱 ら謙信の旗本・側近で景虎に味方した者も少なくない。揚北衆の一部も加担しているが、これには本庄氏や新発田氏との対立関係も影響している。
Ø もう一つの特徴としては、周辺の戦国大名がことごとく景虎方に加担している点が挙げられる。血族である 北条氏 や、その同盟者である 武田氏 、奥羽からは同じく北条家と同盟関係にあった 伊達氏 に加え、 蘆名氏 ・ 大宝寺武藤氏 が加担している。
Ø このことから、景虎の支援に実家である北条家の力が大きく働いていたことが伺え、対外的には景虎が後継者と見なされていたのではないかという意見もある。
上杉憲政 :上杉一門(先代 山内上杉家 当主)。前 関東管領 。
上杉 憲政 (うえすぎ のりまさ)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 上野国 の 大名 。 関東管領 (1531年 - 1561年)。 山内上杉家 15代当主。 北条氏康 に敗北した後、 長尾家 の長尾景虎(のちの 上杉謙信 )を養子とし、 上杉家 の家督と関東管領職を譲った、謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた 御館の乱 で戦死。
Ø 憲当 (読み同じ、旧字体:憲當)、 光徹 とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。
家督相続
大永 3年( 1523 年 )、 上杉憲房 の子として生まれる。大永5年( 1525 年 )に父が死去したとき、まだ3歳という幼少であるため、父の養子である 上杉憲寛 ( 古河公方 ・ 足利高基 の子、初名:足利晴直。)が家督を継いで当主となった。家臣の 古幡良家 (畑将監)の娘を養女とする。
享禄 4年( 1531 年 )、 関東享禄の内乱 の結果、先代実子の憲政を擁立する 成田氏 ・ 安中氏 ・ 藤田氏 ・ 小幡氏 などの勢力が、対立していた憲寛方の 長野氏 らに勝利し、憲政が山内上杉家の家督を継いで関東管領となった。同年中、古河公方家内部対立も決着がついた。
北条・武田との戦い
天文 10年( 1541 年 )、 信濃国 の 村上義清 ・ 諏訪頼重 、 甲斐国 の 武田信虎 らは 上野国 と隣接する信濃 小県郡 へ侵攻し、5月23日の 海野平の戦い で 海野棟綱 を破ると棟綱は上野へ逃れ、憲政に救援を求める。同年7月4日に憲政は救援のため信濃 佐久郡 への出兵を行うと、 諏訪郡 の諏訪頼重は盟約関係にある武田氏・村上氏らに無断で憲政と和睦し、所領を分割する。
この頃 伊豆国 ・ 相模国 の 後北条氏 が 武蔵国 へ進出し、憲政の軍をたびたび破った。後北条氏の勢力拡大を危惧する憲政は天文14年( 1545 年 )に仇敵 扇谷上杉家 の 上杉朝定 と結び、後北条氏に接近していた古河公方・ 足利晴氏 を上杉方に引き込み、 駿河国 の 今川義元 とも和睦した。
そして古河公方・関東管領の威光により周辺武士を糾合し、義元の挙兵で 北条氏康 が駿河へ出陣した隙に、晴氏・朝定と共に 北条綱成 が守る 河越城 (かつての扇谷家の城。)を大軍で包囲した。
しかし翌天文15年( 1546 年 )4月、今川氏との戦いを収めた氏康との決戦で大敗を喫し( 河越城の戦い )、3,000人余の将兵を失って居城である上野 平井城 に逃れた(この時、本陣を命がけで守り、逃走を手助けしたのは 本間近江守 と本庄氏一族の 本庄藤三郎 と 本庄実忠 とされる。)。
その後は「憲当」と改名して勢力の立て直しを図ったが、天文16年( 1547 年 )に村上氏との連携により信濃志賀城救援に出兵した際に、佐久郡小田井原における 小田井原の戦い で 武田晴信 (信玄)に大敗を喫した。
武蔵では自立的な 忍城 の成田氏に続き、代々の山内上杉家家臣も離反していく。北 多摩 ・ 入間 を領した 勝沼城 の 三田氏 が後北条氏に帰順し、 秩父 ・ 児玉 ・ 大里 の雄たる藤田氏や南多摩の 大石氏 が後北条氏から養子を迎え降伏して、憲政は次第に上野に押し込められていった。
その上野でも伊勢崎の 那波氏 と 国峰城 の小幡氏、館林の 赤井氏 が氏康方についてしまう。特に那波氏は後北条氏の最前線として活発に行動し、周辺の上杉勢と衝突している。
平井落城と越後入り
天文21年( 1552 年 )、武蔵の最前線たる 御嶽城 (足利長尾氏寄子・ 安保氏 の城。)が落城して平井城が北条軍の脅威にさらされると、 箕輪長野氏 ・安中氏など西上野の河西の衆が那波氏に通じ後北条氏に服属、続いて憲政の 馬廻 衆も離反した。
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