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2023.09.17
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カテゴリ: カテゴリ未分類

最近のタモリの「ブラタモリ」の番組で、山形城が広大な規模の城であることの話があった。戦国時代の
最上家が100石大名であったので、当然のこととだと思って見ていた。しかし、私が訪れたときは、
霞城公園の入り口で、何かイベントがあるのか、警備員に城に行くと言ったら、大したものはないよと
いわれた。確かに石垣や大きな門はあるが、近世の天守閣は復元されていない。でもさらに公園内を散策
していると相当広い発掘調査が行われている場所もあって、大規模な城であったことは実感した。
<地図>
山形城はJR山形駅のすぐ北にある堀で囲まれた霞城公園の中にある。公園内には山形県博物館や
<遺構>
中世段階の山形城の姿は不明な点が多いが、発掘調査により少しずつ明らかになりつつある。二の丸  地内の発掘調査で、幅13.6mの堀が検出された。出土遺物や遺構の切りあいから、16世紀後半頃の遺構と考え られる。ごく一部が確認されたのみであり全体の形状は不明であるが、規模の大きい区画があったことは
確実である。この堀は、中世山形城の中心施設は未検出であるものの、「探題御所」を取り囲む方形館の 
一部であると考えられる。いっぽう、三の丸地内では、幅が3~6mの方形館が複数検出された。出土遺物から これも16世紀後半と考えられる。二の丸地内でみつかった大規模な溝と比較すると小規模であるので、最上氏 の家臣の居所であると想定される。ただし、この時代は家臣でも自らの居城を有しているので、江戸時代の ように常に城下町に集住しているわけではない。室町時代の史料によると最上氏は鎌倉の鎌倉公方に伺候する ことがあり、鎌倉近隣の長尾という地に館を有していたので、「長尾殿」と呼称されていた。このような 鎌倉公方と最上氏の関係と、最上氏と家臣らの関係は類似していたと思われる。三の丸地内の方形館は、自らの 居城から山形城に伺候する際の家臣の宿館であろう。天正18年奥羽仕置以後の改修により、近世城郭へと変貌 していく。瓦・礎石建物・髙石垣が近世城郭の構成要素とされるが、先に瓦と礎石建物が導入されていく。 この時期の瓦は、軒丸瓦が山文を、軒平瓦が宝珠文をモチーフにすることが特徴である。奥羽仕置の翌天正19年 には、早くも最上義光は京都における豊臣秀吉の公邸である聚楽第の城下町に屋敷の建設を進めている。 この最上屋敷の推定地から、山形城の出土瓦と類似する山文軒丸瓦が出土しており、山形城の瓦のルーツは 京都など畿内であると考えられる。また、本丸御殿から礎石建物が検出されている。山形城の調査で中世段階の 礎石建物は確認されておらず、近世城郭の一つの要素である。いっぽう、髙石垣は元和8年以降の改修により 初めて構築される。二の丸の城門には石垣が現存しているが、このような石垣は最上氏時代に遡るものは確認 れていない。瓦・礎石建物が先行し、髙石垣が遅れて導入されるのが山形城の特徴である。 近世初頭、最上氏時代の城絵図は写本を含めると相当数現存しているが、最も資料的価値が高いとされるものの 一つが「藤原守春本」である。写本した「藤原守春」なる人物の署名があり、元和8年最上氏改易の際に引継ぎ のために作成されたと考えられている。これによると、本丸には城門が二ヵ所、二の丸に5ヵ所、三の丸に11ヵ所 設けられている。本丸には「御本丸」の記載があるのみだが、御殿があったと考えられる。二の丸には。4名の 家臣のほか「御横目衆」「御中館」「西仙」などの施設が所在する。「御横目衆」とは、元和3年(1617)に 最上家信がわずか12歳で家督を継ぐが、家臣の不和があったため、家臣を監視する目的で幕府が派遣した目付衆 の宿所である。三の丸は、若干の寺社があるほかは上層から中層クラスの家臣屋敷が広がっている。大身の 家臣の屋敷が二の丸および三の丸の城門付近に配置され、守りを固めるのが特徴である。城下町は三の丸の  南から東を通り北に抜ける羽州街道沿いに形成されている。57万石の領国を有する最上氏は家臣数が多く、 
三の丸に入れない下層クラスの家臣がここに屋敷を構えているほか、商工業者が集住していた。 

 <歴史>
延文元年(1356)に羽州管領として山形に入部した斯波兼頼が、翌年に築城したのが創建とされる。
斯波氏はもち最上氏と名乗り、山形城は最上氏代々の居城として機能していた。永禄6年(1563)に最上義守・ 義光父子が上洛するが、その様子を記した公家の山科言継は彼らを「出羽国之御所」と表現している。当時 の奥羽で「御所」と称されるのは、最上氏のほか陸奥国大崎の大崎氏と陸奥国浪岡の北畠氏のみで、彼らを 中心とした身分秩序が成立していた。この場合の「御所」は最上父子に対する敬称であるが、居城において 彼らの身分を示す儀礼を行う建築物、すなわち「御所」が存在していたことは想像に難くない。また、城郭 の南郊に所在する臨済宗寺院の勝因寺は、文亀元年(1501)から永正4年(1507)の間に室町幕府から十刹寺院 に任じられている。十刹寺院は室町幕府と強いつながりを持った領主の本拠にのみ設置されていたことが知られ ている。最上氏は羽州探題を自負するが、全国各地で明らかになりつつある守護所と類似する構造が中世山形城 にも確認でき、さしずめ「探題御所」とでもいうべき構造を有していたと想定される。山形城が近世城郭へと 姿を変えるのは、最上義光の時代である。天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥羽仕置により、義光は豊臣政権 の支配下に入る。その直後の文禄元年(1592)から2年(1593)にかけて、最上義光は山形城の改修に関する 指示を出している。文禄2年にお書状には「うちたて」の堀の普請を指示しているが、「うちたて」とは本丸 合戦で徳川家康に味方した功績により、最上義光は庄内と由利地方を加増され57万石を領有するが、最上氏は 加増に見合った居城の整備を進め、三の丸や城下町が形成された。元和8年(1622)、最上氏は義光の孫の 家信の代に改易され、跡に譜代大名の鳥居氏が入部する。このとき、城請取り役の永井直勝が城郭の破損箇所 が多い旨を報告したところ、幕府が直接城郭の修復にあたっている。また、鳥居氏も独自に修復を行った。 この改修で、本丸・二の丸の郭が最上氏時代より外側に拡張されている。ここで形成された基本的な縄張 が、江戸時代を通じて維持されることとなる。現在、。二の丸の堀・土塁が現存しているが、これはこの時の 改修を経た姿である。本丸堀・土塁は、明治29年(1896)に陸軍歩兵隊第32連隊が入部した際に更地にされ  現存していなかったが、現在行われている整備事業に伴って徐々に復原されている。 
 <関連部将>最上氏、鳥居氏、保科氏、幕僚、(結城)松平氏、(奥平)松平氏、堀田氏、(大給)松平氏、 幕領、秋元氏、水野氏</関連部将>
<出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>





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最終更新日  2023.09.17 06:51:38
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