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白山城へは、武田八幡宮を目指せばよい。甲州から信州に向かう道は釜無川沿いにある。韮崎市の武田橋を渡たり、西南方向にある山を進むと山麓に武田八幡宮につく。武田八幡宮は源氏武田氏のゆかりの神社で、佐伯泰英の小説にも出てくる。その神社の脇の野原から山道にはいる。訪問した時は、とにかく山の頂上近くにあるはずと谷道をまっすぐにどんどん登っていくと、道がなくなり斜面を這い上っていったが、城跡らしい地形がないので、引き返した。すると、通ってきた道の脇に小さな標識を見つけた。山道を途中で分かれて、尾根に登っていったところに空堀、郭跡などの城の遺構が林の中にあった。<地図>白山城という名前は、実は中世はおろか近世の古文書のなかにも登場しない。この名前が一般的になったのは昭和53年(1978)に「韮崎市誌」が刊行されてからでらる。それまでは、鍋山の砦、為朝の城跡、城山、菱岩城と呼ばれていた。「寛永諸家系図伝」などでは武川衆の青木信種が守備した「鍋山の砦」と伝えられ、「裏見寒話」では源為朝の伝承とともに「為朝の城跡」と紹介され、「甲斐国志」では武田信義の要害として「城山ハ八幡ノ南ナル山ヲ云要害城ト見タリ」と記されている。近年では地名などの検討から武川衆の山寺氏が管理した可能性も指摘されている。検討された各時期により城主をはじめとする城郭の位置付けが異なることも白山城の特徴の一つである。 <遺構>当城は小規模ながらメリハリのある縄張りをもつ白山城を中心にして、ムク台と北烽火台という南北二つの烽火台とセットで構成されている。本城は、地元で鍋山や城山と呼ばれる標高570m余りの山頂に20x30m程の方形の主郭がありその周りにL字形に腰郭がつくられている。この腰郭の一段下にも腰郭がめぐり、放射状竪掘が施されている。主郭の北には土橋でつながる馬出郭があり、掘り込み式枡形虎口を設けている。主郭の南側には不整形の郭が二段あり、西につづく尾根との境には20mの幅を持つ堀切があり、さらにつづく尾根上に幅8mの堀切を設けて、背後からの侵入路を断ち切っている。本城の主郭への登城口としては、白山神社の社殿の隣から主郭の南側の郭に向かう九十九折りの道があり、主郭に近づくにつれ、狭小な平坦部が設けられている。また、北側から馬出郭へ向かう道もある。この二つのルートについては現在も遊歩道として使われている。この他に地籍図上で確認されている大慈寺の裏手から馬出郭へ至るルートがある。北烽火台は、本城の北にある武田八幡宮背後の標高602mの山の尾根上に立地している。主郭は東西10m、南北50mの規模を持ち三段構造で、中央付近に直径2mの窪地がある。主郭から西に伸びる尾根には空堀があり背後からの侵入に備えている。また主郭の東には10数段の平坦地が連続している。なお、主郭にいたる尾根は極めて狭く、危険を伴う。ムク台は、本城から約1.4キロ南側の東に向かって突き出した尾根上に立地する。標高695mにあつ主郭は三角形で東西30m、南北35mの規模を持つ。主郭北東部には直径2mの窪地がある。主郭の西に伸びる尾根に堀切があり、東の尾根には三本の堀切はある。 <歴史>武川衆として知られる山寺氏の一門に山寺甚左衛門がおり、その屋敷は「甲斐国志」には鍋山村の殿小路にもともとあったと記されている。「寛政重修諸家譜」にも「甲斐国鍋山郷百聞分の本領」とあり、山手氏の本領が鍋山にあったことは疑いなく、そこに居を構えていたのは事実であろう。白山城東山麓には実際に古山寺という地名も残っており、そこには方形区画の存在を確かめることができる。前述した大慈寺から馬出郭への道と古山寺の地区は他の登城ルートと比較すれば有機的なつながりがあるものと考えられる。また、この山寺氏の初代は「鍋山の砦」を守備したという青木信明であり、戦国期には山寺氏が白山城を守備していた時期もあったことを想定できる。当城と武田氏との関連性の深さをうかがわせる文化財として、武田信義が元服したと伝えられる武田八幡宮がある。白山城北烽火台の東側山裾に位置し、三間社流造の本殿は武田信玄の時代に再建されたものである。さらに、織田信長の武田領国侵攻にさいして天正10年(1582)の2月には武田勝頼の夫人が祈祷文を当宮に奉納しており願文も現存している。「甲斐国志」で白山城が武田信義と要害と位置付けられた背景には、武田八幡宮の持つ歴史や立地条件などが大きく影響したのであろう。当城は、武田氏の築城技術を特徴的に反映した縄張りを持つとされているが、その築城時期や変遷は未解明な部分が多い。 <関連部将>武田信義、青木信種等</関連部将><出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.05.25
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湯村山城は躑躅が崎館の西側の山間に位置する。甲府盆地の山すその道を信州方面にゆくと塩澤寺の立派な山門がある。湯村山城は、そこから山道を登ってゆくと明るい樹木の中に大きな石が点在するようになり、明確な城の遺構は確認できないが古い時代の城跡の雰囲気がある。偶々地元の人と思われる方から野鳥の撮影ですかと言われたようにここが城跡とは、認識されていないのかもしれない。訪れたときは、山つつじがきれいな色で咲いていた。<地図>武田信虎は、永正16年(1519)に相川扇状地頂部に位置する躑躅ヶ崎に本拠を構えるとともに、その周囲に家臣や服属させた国衆の居住を強制させ、新たに甲斐府中(甲府)を誕生させた。信虎は、永正17年(1520)の要害山築城にさいして、麓の積翠寺ではなく、わざわざ尾根伝いに甲府北西部の帯那を通り、平瀬の香積寺に下山している。自ら館の背後や西側に位置する山塊を踏査したことは、甲府防衛を意識した行動と読み解くこともでき、館の移転当初から甲府建設とその防御網整備の青図を描いていたとみられる。武田信虎は、要害山築城につづき、大永3年(1523)に南西端の尾根上に湯村山城を築城している。翌年(1524)には扇状地南東端の独立丘である一条小山に砦(現甲府城跡)を相次いで築いている。要害山は、相川扇状地の最頂部に位置し、館の背後にそびえる詰城と評価されている。意外と見逃されているが、要害山の脇には峠を越えて武田氏の本領が広がる盆地東部や西保方面から信濃へ通じる街道が走る北部交通の要衝に位置し、詰城としての機能だけでなく、館の背後から甲府へ入る街道の押えという側面を有していた。それに対して湯村山城跡は、相川扇状地を囲む山城の西側の南端部に位置する標高446mの湯村山に築かれている。眼下には信州往還が東西に走り、湯村山城山麓の南東付近に「関屋」の地名が残ることから、位置的にも信濃方面への出入口を監視し、防衛する役割を担っていたとみられる。築城時以外に史料が乏しく、維持管理体制も含め詳細は不明であるが、西からの外敵の侵入を阻む防御の要として築城されたとみられる。一条小山砦の東西南北へ通じる主要街道が集中する交通の要衝であり、 鎌倉期には時宗道場一蓮寺が成立するような場所であった。そのため、甲府の守備を固める上では重要な玄関口の一つとして一蓮寺を移築させてまで砦を築く意味があった。このように武田信虎が館の三方を囲む山塊の頂部と両端にいち早く城砦を築いたのは、甲府に通じる主要街道が強く意識され、扇状地の奥に引いた躑躅ヶ崎館へ通じる出入口を遮断できる位置に城砦網を整備したと考えられる。<遺構>「甲斐国志」には山頂に石塁と泉があり、烽火台であったと記述されている。現状では山頂を中心に土塁や堀で区画された三つの郭と二つの帯郭で構成されており、西の玄関口を守備する本格的な山城であったことは疑いない。城の中心は一の郭とみられ、その東に土塁で仕切られた二の郭と、北に堀と土塁で区画された三の郭が配置されている。登城口は、現時点で明確になっていないものの、二の郭南東下方に虎口状の小規模な平坦地が残ることから、その場所が大手と考えられている。湯村山城で最も大きく、整った区画を有する一の郭は、東西約40m、南北約70mの規模で、高低差を利用した南北方向に上下二段の平坦地で構成されている。記録にも登場する井戸跡は、この一の郭下段に構築されており、幅約2mの石積み井戸で現在の開口している。一の郭は周囲を低い土塁が取り巻き、虎口が三ヵ所に設けられている。その東に位置する二の郭は、一の郭に比べて東西方向が短く、約25m程度の規模で、大手道とみられる虎口と接続し、南側が大きく開かれている。一・二の郭の北側には、二本の堀切を挟んで三の郭が築かれて いるが、内部は安山岩の露頭や巨石も多く、生活面を形成していたか疑問も残る状態である。規模は、東西約50m、南北約40mの方形 に近い形状であり、北側には斜面を切り出した小規模な帯郭が二ヵ所に造成されている。 <歴史>湯村山城一帯は、中世には湯ノ嶋と呼ばれ、古くは温泉が湧き出す場所であり、連歌師宗長が甲斐を訪れたさいに湯治に立ち寄った場所もこの一帯と推測されている。湯村山城築城については、「甲陽日記」にその様子の一端が記載されている。湯村一帯は湯ノ嶋と呼ばれ、湯ノ嶋での城普請は、4月24日に開始され、5月13日には水補(神?)の祠が城に立てられたとあることから、城内の飲料水が確保されていたことがわかる。その後、築城時の記録以外に湯村山城が歴史の表舞台に登場することはなく、武田氏 滅亡とともに1度は廃城になったと考えられるが、信濃方面への玄関口を抑える戦略上の重要性から判断し、他の城館同様に織豊政権下で改修が施された可能性もある。現在は、山頂に築かれた郭群を中心に土塁などの遺構が保存されており、山麓の甲府市緑が丘スポーツ公園側から遊歩道が整備され、山頂まで気軽にハイキングが楽しめる場所として親しまれている。 <関連部将>武田氏</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.05.11
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谷戸城があるのは、八ヶ岳山麓を走る小海線甲斐小泉駅の南にある北杜市考古資料館のそばの丘陵地である。古い時代の城と思われるが、発掘調査されたようで、史跡公園として、整備されている。そのためか、郭跡、空堀、土塁など城の遺構を見ることができる。<地図>八ヶ岳南麓は、河川の浸食から残った流れ山という高地が丘陵または尾根状に点在する。谷戸城は、そのなかの一つの比高30m程度の丘陵に占地している。このあたりは南北6キロ、東西2キロにわたって流れ山が少なく、なだらかな傾斜地がつづいており、そのほぼ中央に位置するため眺望が優れている。地元では城山と呼ばれ、甲斐源氏の祖、逸見黒源太清光(1110~1168?)の居城と伝えられる。城の北東に対屋敷、北に接する水田に鍛冶田、西に町屋、御所、南には城の腰、城下という地名が残っており、いずれも城に関連するものであろう。城の南400mの位置にある城下遺跡からは、12世紀代の輸入された白磁片が出土している。その北に接する南北70m、東西60mの方形の地割が屋敷跡と考えれており、白磁もそこで使われたものかも知れない。逸見清光は、武田義清の嫡男で、新羅三郎義光の孫にあたる。もとは祖父義光が勢力を扶植した常陸国で生まれたが、濫行を朝廷に訴えられ、大治5年(1130)に義清とともに 甲斐くに配流が決まった。配流後は、八ヶ岳南麓の逸見を本拠とし、多くの男子を甲斐国内に進出させ、甲斐源氏と呼ばれる勢力の祖となった人物である。もっとも近いところで500mほど離れているが、城の南から西にかけて、上の棒道が通っている。「甲陽日記」天文17年(1548)9月6日条には、武田信玄が信濃へ侵攻する途中に「谷戸御陣所」で宿泊した記録が残り、この道を通ったものと考えられる。現在は史跡公園として整備され、北に隣接する資料館で出土品などを見ることができる。 <遺構>城のある流れ山は、北側から上がるとなだらかだが、東から南にかけては急斜面となっており、山裾から登るのは困難である。傾斜が比較的緩やかな西側は、山裾から幅50mほどの平坦面である六の郭を挟んで、崖となって西衣川へ落ちている。城外の北から東にかけては低湿地が広がっており、西側の崖と低湿地の間100mほどの幅が尾根となって城とつながっている。ここを堀切で分断して、地形的に独立したものとしている。城内は大まかに六つの郭と帯郭に分けられ、山頂の一の郭を中心に北・東・西に郭を配する「輪郭式」と呼ばれる縄張りをもつ。一の郭は南北40m、東西40mの大きさで、周囲を土塁に囲まれる。特に二の郭と接する北から東側の土塁は厚く、高くつくられており、中央が切れた平入りの虎口となる。西側の三の郭とは3mほどの高低差があるため、土塁は低い。しかし、一部が切れて虎口となっており、開口部に接する土塁の軸がずれた食違い虎口のなる。東の二の郭と西の三の郭を合わせると、そのまま一の郭を大きくしたような形となる。一の郭を完全に囲んでおり、北と南で郭がつながっている。二の郭は山のなかにある郭ではもっとも広く、発掘調査により掘立柱建物が確認された唯一の郭である。外縁を土塁に区切られるが、やはり北から東の土塁が大きい。最大の特徴は土塁の内側に空堀が掘られていることで、元は深い薬研堀だったが、自然に埋没していった途中で、人為的に埋められたことが発掘調査によってわかっている。三の郭は若干広い帯郭といった印象で、所々で切れる低い土塁が外縁にまわされており、その内側には、二の郭とつながる薬研堀が続いていた。この堀は南側ほど浅くなり、二の郭との境から南の斜面を下りられるようになっていた。北側でも二の郭との境で土橋が発見され、南北とも郭の境が虎口となっていた。整備前は、南北の虎口の近くに土塁を削って平らに造成した部分があり、物見の跡ではなかったかと考えられる。北側の土橋を渡ると、二の郭の北から東を取り巻く帯郭に出る。この外縁には高さ50cmにも満たない低い土塁がまわされており、北側で食違いに切れたところで四の郭と、東側で切れたところで五の郭とつながる。 <歴史>宝暦2年(1752)の谷戸村明細帳には「古城跡 壱ヶ所 御城主逸見玄源太清光公と申伝候」とあり、逸見清光の伝承はこの時期まで遡ることができる。江戸時代後期の地誌「甲斐国志」は、「吾妻鏡」治承4年9月15日条に載る「逸見山」を逸見山の館と解釈し、辺境にある谷戸城は要害で館は交通の要衝である若神子にあったと説明している。また、土塁や堀がはっきり残る城の姿は、天正壬午の乱(1582)の時に北条方により修築されたための推測している。このことは、当時から逸見山を谷戸城に比定する説が あったことを示している。谷戸城の周辺には清光に関する伝承のほか、安楽寺と深草館には清光の嫡子光長、白旗神社には孫の有義に関する伝承の残る点が注目され、谷戸城と逸見氏の強いつながりを類推できる。 <関連部将>逸見清光</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.05.05
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真篠城は富士川右岸の中部横断自動車道とR52に挟まれた城山にある。それらの道路から外れて南の集落に入ると真篠砦(城山)案内板があるので、そこから山に登る。城の遺構は樹木の中に土塁や空堀の痕跡が認められる程度である。この城は甲斐と駿河に通じる街道を監視する役目を果たすために築城されたのであろう。<地図>真篠城は、南に向かって流れる富士川西岸の河岸段丘上にある真篠集落北西背後の城山にある。標高は251m。城山は段丘東側を南流する富士川に画され、川との比高差145mで、山裾の西側と南側を駿州往還(河内路)が通る要衝の地となっている。城名は福士の城山・真篠砦とも呼称されるいっぽう、福士には真篠のほかに城山と呼ばれる場所が宮部にもあり、通説では「甲斐国志」に載る「福士の城山」は真篠のこととされるが、疑問がもたれる。 <遺構>遺構は、東西約300m、南北約350mの範囲におよび、城山山頂の主郭を中心に、山腹や四方にのびる尾根上に見られる。主郭は東西50m、南北約40mの不整は方形で周囲に土塁がめぐり、北。南東・南西に虎口をもつ。北と南西の虎口は平入りであるが、南東の虎口は食違いで、南側に低い土塁をもつ10m四方の枡形が外側に付設された形態となっている。主郭から北側の尾根筋や山腹には地形に応じた腰郭・帯郭を配し、先端部分や斜面の随所に竪堀を施している。主郭南西虎口直下から西に伸びる痩せ尾根の南斜面 には連続して竪堀があり、先端部分には北と南に大きな竪堀がみられる。主郭東側の山腹には比高差の大きな平坦地が数段あり、段造成された腰郭とみられるが、一部は耕作地の可能性も否定できない。主郭の南側には約35m四方の郭があり、その先には空堀の入り込んだ腰郭がみられる。この主郭南側の郭の落差は8mと10mもあり、段差の大きな見事な切岸となっている。腰郭南側は尾根筋の鞍部となり、幅20mにおよび大きな堀切状の凹地形となる。この堀切状の凹地を挟んだ対岸の尾根上には、頂の平坦面とその南側の緩斜面にかけて東西方向も並ぶ南北の空堀9本が設けられる。この空堀の南側直下には旧駿州往還の道が通り、西側の集落の境には道祖神場がある。さらに城山から離れた台地南西端の真篠集落仲間地区には、台地の縁辺に連続竪堀がみられ、これらが城郭関連の遺構であれば、真篠城は集落を取り込んだ台地全体に及ぶ広大な城域をもつことになる。なお畝状空堀は、連続空堀あるいは連続竪堀などと呼ばれ、防御上の弱点となりやすい緩斜面などを凸凹にして敵の侵入を阻もうとしたもので、県内の城郭では他にあまり類例がなく、本城の大きな特徴で見応えのある遺構となっている。 <歴史>本城のある地域は山梨県の南にあたり、富士川が南北に貫流している。この富士川の流域は河内地方と呼ばれ、戦国期には穴山氏の領有するところで、穴山氏は各地に代官を置いて統治していたようで、福士の代官は佐野氏が勤めた。しかし、代官佐野氏と本城とのかかわりを示す同時代史料は見当たらず、その経営主体などについては不明である。永禄11年(1568)、武田信玄は駿河に侵攻する。それ以降駿州往還は、武田氏の進軍に度々利用され、河内地方の軍事的重要性は高まる。天正8年、武田勝頼は跡部勝忠 に、甲斐と駿河の境目である本栖と河内地方に油断なく警戒するように命じており、警固の一翼を担ったものと思われる。 <関連部将>原大隅守</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.04.27
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新府城は釜無川とそれから分岐した塩川に囲まれた台地上にある。この七里岩台地は、釜無川側は断崖となっており、反対側には七理岩ラインの道路と迂回したJR中央線が通っている。<地図>新府城は、八ヶ岳南麓から甲府盆地に向かって南東方向に楔形に伸びた七里岩台地上の南西端に立地する「西の森」と呼ばれた小円頂丘上に占地する。標高は524mで、城の西側は釜無川が流れ、川によって浸食された比高129mの断崖となっており自然の要害をなす。城址西側の崖下には祖母石の集落が形成され旧甲州街道が通り、東側台地上には中条上野の集落があり、かっては原路と呼ばれる脇往還が堀際を通っていた。新府城から南に3.7キロ離れたところには白山城、東に2.4キロのところに日之城、北に1.9キロ離れて能見城がある。 <遺構>新府城は、おおよそ一山全体を利用して構築されている。山頂の本丸を中心に、西側には二の丸、南側に西三の丸・東三の丸といった比較的大きな郭がある。北側から東側の山裾には堀と土塁によって防御された帯郭がめぐり、南端にた枡形虎口・丸馬出・三日月堀を備えた大手、北西端は枡形虎口の乾門(搦手)を付設した郭が配され、これら主要な施設に付帯する郭・土塁・虎口等から成り立っている。ただし、東側山裾を南北に走る県道は昭和7年(1962)に開削されたものであり、部分的に遺構を壊している。本丸は東西約90m、南北150mの広さの郭である。中央部分から北にかけては窪地があり、北側半分の西縁は一段高い平坦地となっている。中央から北東側には藤武神社が鎮座しており、地形的に低くなっている。周囲には1~1.5m程の高さの土塁がめぐるが、神社東側は参道と拝所の空間で土塁は途切れている。藤武神社は、廃城後、江戸時代に祀られ、参道の石段は近世以降につくられたようである。南西隅は東西約10m、南北約50mの、北側から南に向かって漸次低くなる長方形に区画された虎口空間で、蔀の構と呼ばれる。一部道路によって破壊され不明瞭となっているが、蔀の構は変則的な枡形の類と考えられる。このほか北側中央、北西隅、西側中央、南東隅に土塁の開口した個所があり、それぞれに斜面や腰郭、他の郭に通じており、虎口と思われる。なお、蔀の構の東側にある直径10m程の穴は、江戸末期から明治にかけてここに芝居小屋が建ち、そこで使用されたまわり舞台の奈落の跡である。本丸の発掘調査では、石積みや石築地、柱穴などが確認されている。藤武神社南側のトレンチ調査で柱穴の確認された周囲には焼土があって、その中に炭化した米粒が認められた。廃城時の様子を物語る貴重な発見といえる。二の丸は東西70m、南北55mも広さで土塁に囲まれており、西側が高く、東側は約20mの幅で一段低い。西端は七里岩の急崖となっている。南側には一段低く土塁で画された郭が付設されており、本丸南側山腹の腰郭へ通じている。北側には長さ約45mの三角形状の平坦地がある。三の丸は、本丸から南側に100m程離れた中腹にあり、その間には、竪掘のような浅い溝や2~3段ほどの腰郭がみられる。南北100m、北辺の東西130m、南辺の東西70mの台形を呈する郭で、中央を南北方向に土塁がのび東3の丸と西三の丸にわけられ、東三の丸は、西三の丸に比して1m程低い。西三の丸の西側には、5m程下がって東西40、南北50mの三角形状の平坦な郭がある。大手は東南端の中腹にあり、東西14m、南北20mの空間 ももつ枡形虎口で、南側に三日月堀と丸馬出がともなう。枡形の内側は基底部の幅約10m、高さ約3.4mの大きな土塁が鉤の手形に配され、外側の馬出側は基底部の幅約5m、高さ1.2mの低い土塁で西側が短く東側が長くなっており、枡形の前後で虎口の位置をずらしたつくりとなっている。丸馬出は東西30m、南北15mで外側に低い土塁がめぐり、約10mの比高差で三日月堀が付設されている。大手から西側の崖縁には、東西30m、南北20m程の三角形の平坦地があって、北東側に一段高く土塁に挟まれた虎口があり、大手枡形内側 の25m四方ほどの平坦地と帯状の郭でつながっている。大手と三の丸の間の空間は道によってわかりにくくなっているが、段状に整備された平場や虎口状の遺構がみられる。乾門(搦手)は城の北西隅にあり大手と同様に内側が高く大きな土塁、外側が低い土塁で、13m四方ほどの空間をもった変則的な枡形となっており、西側の七里岩の断崖と、東側の水堀とに挟まれた土橋で城外と連絡している。なお、乾門は従来搦手と呼ばれていたが、城の裏門を意味する搦手の呼称は門の機能を限定してしまうことから、史跡整備事業では、城跡での方位を冠して、乾(北西)門としている。乾門(搦手)の枡形虎口の一之門(外側門)は北西角、二之門(内側門)は南東隅寄りに設けられており、一之門の調査では、直径45cm前後の円形の柱穴が、中心で約1.9mの間隔で南と北の二ヵ所に検出された。二之門の調査では、方形に配された六個の礎石が確認された。礎石の中心での間隔は2.5mx2.8mあり、間口に対して奥行きが長い配置となっている。礎石際と土塁の間には石積みが施されていたが崩れた状態であった。礎石にともなって散在した状態で焼土や炭化材、角釘が出土しており、新府城廃城時の様子を伝えている。門にとりつく土塁は、傾斜のきつい切り立った土塀状であったことも推定されている。乾門(搦手)枡形の内側は、北側を水堀と土塁、東から南側は水堀から鉤の手に入り込んだ深い空堀によって囲まれた東西65m、南北20mの郭となっている。この郭と二之丸の間には、上端の直径約32mの擂鉢状の井戸跡がある。 <歴史>武田勝頼によって新府城が築かれたのは天正9年(1581)のことである。武田信玄の跡を継いだ勝頼は、天正3年(1575)に三河の長篠城をめぐる織田・徳川連合軍との攻防戦の末、設楽原で敗戦を喫する。この長篠の戦いで武田氏は大打撃を受けたが、勝頼は天正5年(1577)に相模の北条氏政の妹を娶ることで同盟関係を築き、天正7年(1579)には越後の上杉謙信亡き後の相続 争いで主権を執った上杉景勝に妹を輿入れさせ甲越同盟を結ぶなど、積極的に近隣諸国と外交政策を展開する。ところが、謙信の後継者争いで景勝に敗れた上杉景虎は、北条氏政の弟であったため、甲越同盟は結果として甲相関係を破綻させ、氏政は徳川家康と結び、武田氏と北条氏は全面戦争に突入する。さらに天正8年(1580)には、織田信長と対立していた本願寺光佐(蓮如)が信長側と和睦し、上方方面における武田氏の同盟国がなくなってしまい、勝頼は関東を制圧する北条氏政、東海の徳川家康、甲信侵略を狙う織田信長たちに直接対抗しなければならなくなってしまう。このような情勢のなか、本拠地甲府の防衛の要となる要害城の再整備や防衛態勢の強化が進められ、そして、新府城築城が決行される。新府城築城を示す唯一の史料は、天正9年1月22日付けで真田昌幸が普請人足の動員を告げたものである。家10間あたり1人を召出し、同年の2月15日に着府するように命じ、軍役衆には人足分の食糧を申し付け、30日の普請日数を定めている。このような書状は武田領国中に発給されたものとみられ、普請の人足が挑発され新府城築城が開始される。2月に始まった築城工事は、同年9月には一応の完成をみる。新城に即刻移居するつもりの勝頼ではあったが、北条氏家臣の伊豆徳倉城城主笠原新六郎が内応してきたため、その処分に出馬していて引越しがが遅くなったようである。新城への移転は12月24日に行われた。翌天正10年に、武田氏の外戚である木曽福島城城主木曽義昌が信長方に寝返ったことを伝え聞き、勝頼は2月2日に軍を率いて新府城を出発し諏訪の上原城に陣を据えた。とこが、義昌援護のために織田軍が信濃に侵攻すると、武田勢は敵方に内通したり、投降・敗走したりするものが続出し瓦解していった。留守を預かる勝頼の夫人北条氏は、戦闘に臨んでいる夫の武運と勝利、子孫の繁栄を哀願し、2月19日に武田氏の氏神である武田八幡宮に祈願文を奉納した。けれども厳しい情勢は変わらず、2月28日に勝頼 は上原城を引き払い新府城に戻った。3月2日、勝頼の弟仁科盛信の拠る高遠城が、織田信忠率いる織田軍の攻撃によって落城する。その知らせを受けた新府城では、善後策について評定が行われ、嫡男信勝は新府城での自害を望んだ。真田昌幸は上州吾妻へ退去することを進言し、小山田信茂は郡内の岩殿城へ立て籠もることを申し出たという。岩殿城への撤退を決断した勝頼は、翌3日早朝、新府城に火を放ち城を逃れ出た。在城わずか68日であった。新府城を後にした一行は、小山田氏の変心に遭い途中から天目山をめざすが、11日田野において信長方の滝川一益に囲まれ、勝頼は夫人と嫡男信勝とともに自害し武田氏は滅亡する。武田氏滅亡後、信長は穴山氏の所領であった河内領を除いた甲斐国の新領主に河尻秀隆を任命する。しかし、6月2日に信長が明智光秀によって討たれる本能寺の変がおこり、秀隆は一揆によって殺されてしまう。全国的な動揺が広がるなか、北条氏と徳川氏は旧武田領国の奪取をかけて争い、甲斐国内は戦場となる。この戦いはその年の干支をもって天正壬午の乱と呼ばれ、北条氏直率いる北条軍は上野から信濃に入り、甲斐に向かって南進し、これに対して甲府を抑えた家康は7月に諏訪に兵を出した。しかし、徳川軍は北条方の進行によって8月6日には新府城まで撤退し、北条方の本隊はは若神子城に陣取った。また、郡内も北条氏に制圧され、北条宇氏忠は御坂峠に御坂城を構えた。10日家康は新府城を本陣にし、両軍は対峙することになる。12日には黒駒において徳川方が御坂城から甲府を目指し出兵してきた氏忠の軍を撃退する。これ以降両軍の間に大きな武力衝突はなく、二ヵ月程の退陣の末10月29日に家康と氏直は和議を結び、北条勢は退却し、徳川氏は甲斐国を領有するにいたる。家康は甲斐国の支配を平岩親吉に命じ、甲斐の府中はふたたび甲府の地に戻ることになる。戦後処理を行った家康は12月12日に甲府を発っている。 <関連部将>武田勝頼</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.04.20
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勝沼氏館へは、甲州街道(R20)から外れてR34を北上し、日川に架かる橋の先にでると館の入り口に着く。規模は小さいが虎口、空堀、土塁、郭、建物の跡など館の遺構が整備されている。甲州街道は相模の国に通じるのでこの館は甲斐の国の西端を守る位置にある。<地図>勝沼氏館は、甲府盆地の東縁にある柏尾山大善寺から北西へ1キロほどの地点に位置し、大菩薩嶺を源とする日川の右岸、比高差20m~30mの河岸段丘上、標高418m付近に立地する。甲斐の守護所が置かれた石和や甲府から見れば、国中東部の要とも位置付けらる。勝沼氏館は、中心部分である内郭と、それを取り巻く複数の郭からなる外郭によって構成されている。勝沼氏館の南側は、眼下に日川を臨む断崖が要害をなしており、勝沼氏館の北側は、江戸幕府が整備した五街道の1つ、甲州街道の成立に伴って誕生した勝沼宿が、現在もよく面影を残している。日川には、中央線開通以降、岩崎や藤井から、ぶどうやワインを勝沼駅へと運ぶ主要路であった祝橋も残る。 <遺構>内郭の発掘調査の結果、勝沼氏館は大きく三時期に変遷することが判明している。第一期は館の成立であり、内郭とそれを囲む帯郭によって形成されていた。第二期は発達期であり、帯郭の範囲が拡大し、東郭、北西郭、北郭が形成されるようになった。第三期は館の終焉期であり、内郭外堀・外土塁を埋め立てて、その上に建物を築くなど、館の防衛機能を失うような改変がなされるようになり、以後、衰退に向かったと考えられる。なお、館の整備は、館の発展期である第二期を主体にすすめられている。各時期は発掘された考古資料などの年代観から、第一期は15世紀代、第二期は16世紀前葉、第三期は16世紀中~後葉に比定されており、第二期の発展期はは、武田信友や今井信甫らが館主として存在していた頃と重なる。内郭は、第一期では一重の堀と土塁によって囲郭された施設で、東側土塁の中央部分に正門(大手)があったと考えられている。第二期になると堀と土塁が二重となり、堅牢さが増した様子がうかがえる。この時期に内郭正門は、東側から北西側へ移ったと考えられ、北西郭、北郭へと郭が連なっていたことが想定されている。内郭の建物は、いずれも礎石を用いた建物である。その中でも、二棟の南北棟の建物は内郭の中心的な施設と考えられるものであり、柱の配置から、一つは桁行八間半、梁行三間、東・西・南側に縁がつく構造で、もう1つは桁行六間、梁行三間で、東側に縁がつく構造と考えられるもので、建物の規模も発見された遺構のなかでも最大のものとなっている。また、これら中心施設の東側に一棟、南側に二棟、建物が並んでおり、これらも中心施設に関連する建物として位置付けられる。中心施設からやや離れた南西の位置にある、桁行四間、梁行二間の建物は、炉を有した土間構造と推定され、炉の中から鉄淬が発見されていることから、鍛冶工房と考えられている。城館の内部に工房が置かれるのは、全国的にも珍しい事例である。また、この工房に隣接した石積みの水溜跡からは、溶融物などが付着した土師質土器破片が発見されており、これらも工房に関連する遺物と考えられる。近年、その中に金粒が付着しているものの存在が明らかになり、工房が金の生産に関わる施設でもあったことが推測され、注目を集めている。東郭は、内郭の東側に位置する郭で、第一期段階では勝沼氏館の領域に含まれていなかったが、第二期に館が拡張されると、郭として新設された。発掘調査によって、東郭の北半にあたる部分の状況が判明している。東郭は一重の堀と土塁により囲郭されている。郭外への出入口は郭の東辺にあり、虎口の形態は、いわゆる食違い虎口となっており、内郭と同様に、第一期と比べて館の防御性が向上していることがうかがえる。東郭内で発見された遺構は、東西に走る素掘りの水路と掘立柱建物群で、内郭の建物のように礎石を用いたものはない。これは内郭の建物と東郭の建物の間に、明確な格差が存在したことを示すものであろう。東郭の建物の中には、桁行二間、梁行一間の方形建物や、桁行三間、梁行一間の長方形建物が見られるが、これらは それぞれ、炉や鉄滓、漆塗膜片、木片廃棄土抗などを伴うことから、鍛冶や木製品などの工房と考えられている。また、これら工房群に隣接した水路から多量の木製品や未製品、工具、陶磁器類などが出土しており、生活用品のほか、工房に関わる遺物と考えられるものも含まれている。 <歴史>勝沼氏館が築かれた時期は定かではないが、出土遺物の年代から15世紀代と考えられている。15世紀の甲斐は、上杉禅秀の乱や守護代・有力国人の台頭、後継者争いなどの戦乱がつづき、不安定な時代であった。築造当初の館主については不詳であるが、秋山敬は、栗原氏の一拠点であったとしている。館の名称ともなっている勝沼氏については、武田信虎の弟信友とその子信元が館主となり、永禄3年(1560)、謀反の疑いをかけられて武田信玄に滅ぼされたとされるのが通説である。信友については、永正17年(1520)岩殿山円通寺堂宇修理棟札写に「武田左衛門太輔信友」と見え、官職名が「左衛門大輔(太輔)」であることがわかる。また、信友の死後、子の信元が館主となったとされるのが従来の通説であったが、近年では、「引導院日牌帳」に「勝沼今井相州」、また「勝山記」に「勝ツ沼ノ相州」と、いくつかの記録に登場している今井相模守信甫(勝沼今井氏)が、館主として勝沼氏館に入部したと考えられて いる。ただ、館主であった武田氏・今井氏共に「勝沼氏」を名乗ったという明確な証拠は見つかっておらず、名字としての「勝沼氏」が存在したかどうかは今のところ不明である。「甲陽軍艦」によれば、永禄3年(1560)、謀反の疑いをかけられた「勝沼五郎」なる人物が、武田信玄に謀反の疑いによって成敗される。この「勝沼五郎」がどの人物に比定できるかじゃ想像の域をでないが、今井氏の誰か(信良か)がそれに比定できるものと考えられる。以後の館主の動向は不明であるが、館自体は16世紀を通じて存続したようであり、江戸期に入ると畑や水田として耕地化していった。 <関連部将>栗原氏、武田信友、今井信甫</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.04.13
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富士急行線谷村町駅から桂川に架かる城南橋を渡ると勝山城の入り口に着く。城域は、見通しがよく、内堀址、川棚見張台、三の丸、二の丸、本丸と城の遺構を見ることができる。本丸のある頂上には、東照大権現を祭る神社がある。これは、甲州街道に近いので、江戸時代に宇治から江戸へ幕府御用の茶を運ぶ御茶壺道中が、茶を保管する目的で設けた茶壺蔵があることに関係しているようだ。訪問したとき、本丸から山間に真っ白な富士山が望めた。<地図>都留市域のほぼ中心に位置する都留市役所および谷村第一小学校の背後を流れる相模川支流の桂川を挟んで北の川棚地区に所在する独立峰が勝山城である。都留市の中心街を形成する谷村地区は中世にさかのぼり、長く郡内地方の政治・経済の中心にあった。勝山城は地元で親しみを込めて「お城山」と呼ばれており、平成元年(1989)にはやまなしの歴史文化公園「つる」に指定され、平成8年には山梨県指定史跡に指定された。勝山城の規模は南北640m、東西580m、周囲約2キロ、面積は約25万平方キロである。都留市域をおよそ東西に貫流し、高さ10mの富士山の溶岩を由来とする急崖からなる桂川は、勝山城を取り巻くように流れている。標高は571mで、登山口からの比高差は100m程である。 <遺構>勝山城の郭と遺構は大まかに中腹から山頂と北尾根、東尾根、南尾根の四ヵ所に分布する。現在の登山道は勝山城の西から入り南北へ移動するように設置されている。登山道と当時の登城路は絵図面などと現状を比較すると、必ずしも一致してないが、一部は踏襲しているものと考えられ、大まかな経路を辿っていると推測される。南尾根には屋根の西脇を南北に抜ける「内堀」と「川棚の見張り台」と呼ばれる舌状に南へ突出する郭を確認することができる。まず、「本丸」から高低差19mの標高550m付近に「焔煙硝蔵」がある。郭の 名の由来は「甲斐国志」に「東ニ出タル地ヲ焔硝蔵ト云フ」という記述いよるが、それを明確に裏付ける遺構は確認できない。もう一ヵ所の郭はこの地点より標高差30m程、急斜面を下がったところに位置する「源生の見張り台」である。郭の名の由来はこの地点から桂川対岸の「源生」と呼ばれる地区の眺望が利くことによる。またこの地点から東に斜面を下ると三ヵ所目の郭(東尾根郭)を確認できる。「本丸」から北に伸びる尾根は南北、全長約150mあり、郭が二ヵ所で確認できる。一ヵ所の郭は北尾根の付け根部に位置する(北尾根郭)この地点は江戸時代前期に宇治から江戸へ幕府御用の茶を運ぶ御茶壺道中が、夏季に茶を保管する目的で設けた茶壺蔵の存在が推測される。この郭の南斜面には発掘調査によって、地表下の深さ約2.3m、底部幅は推定2m、上面幅は推定役7mの堀切の存在が明らかになっている。この地点から北に進むと「竪堀」と呼ばれる顕著な堀切が確認できる。これは北尾根の標高540m付近に位置するもので、尾根の中央を細い 土橋にし、左右に尾根と直行方向に堀が配されている。「竪堀」の先、北尾根の先端にもう1つ「大沢の見張り台」の通称をもつ郭が配される。この郭の周囲には約3~5m下がって幅約15~17mで帯状に郭がめぐる。この帯状の郭は横堀と推定されており、発掘調査に よって地表下深さ2m、上面幅約8mの断面をもった堀が実際に確認された。北尾根先端は緩斜面であるため横堀を配し尾根筋に「竪堀」や堀切を重ねており、「本丸」への防御を堅牢にした様子がうかがえる。発掘調査で戦国期まで遡る遺物は北尾根付根部の郭から確認された黄瀬戸の抹茶茶碗の破片一点のみであり、遺物から遺構全体の年代観をつかむのは難しい状況にある。「甲斐国志」には「本丸」に産土神が祀られていたのを浅野氏が川棚集落へ移したことが述べられ、戦国期の「本丸」に社が存在した様子がうかがえるのみで、その他は不明である。北尾根に顕著に見られる堀切は戦国期の山城の縄張りの特徴といえるが、防御の対象となる「本丸」もこの時期に存在し、主郭として城の中核をなしていたという見方もできる。ただ、現状のように大規模な面積をもった郭かどうかは不明である。城内で浅野氏時代の遺構と考えられる石垣に用いられた石材はすべて花崗岩であり、調達場所は同一の岩盤をもつ勝山城内であることが考えられる。石材の出所不明であるが、幅約60cm、控え幅約120cmの巨石を遠出して調達したことは想像しがたく、すべてを賄えなかったとしても、一部は郭造成時に削られた石材を用いたと考えられないだろうか。「本丸」を含め「二の丸」、「三の丸」といった郭からは戦国期に遡る遺物は確認されておらず、いずれの郭も戦国期以降、造成されたものと推測することができる。このことから、推測の域は出ないが、戦国期の勝山城は尾根に配された堀切や小規模な郭からなる山城であった可能性が考えられる。ただ、天正壬午の乱のさい、谷村館が北条氏の根城になったことが「甲斐国志」から読み取れるが、そのさい勝山城にも手を加えていることが推測され、すべての遺構は小山田氏に起源をもつものでなく、北条氏の改修の可能性という点にも留意すべけであろう。また、浅野氏によって改修が行われたとすれば、浅野長政が甲斐国を拝領したさいの関東地方へ対する抑えの城としての役割を勝山城に期待したことが推測される。 <歴史>勝山城は「甲斐国志」によれば文禄3年(1594)に甲府城主浅野長政・幸長父子の家老、浅野氏重によって築城されたとされる。この浅野氏重の勝山城築城説は長く支持されることとなるが、都留市文化財審議会によってまとめられた「都留郡勝山城と小山田・秋元両氏について」のなかで、戦国期の築城が示唆され、その後の調査研究でたびたびふれられるようになる。これは戦国期に郡内地方を統括した小山田氏を勝山城の築城者とするもので、浅野氏重は、既存の城を改修したという説である。ただし、小山田氏築城説は縄張りや個々の遺構に対する解釈にもとづくものであり、確固たる裏付けによる見解ではない。都留市では、勝山城と谷村城下町および周辺の史跡群の解明を目的に、平成17年(2005)から5ヵ年にわたってぁつ山城址学術調査を実施した。また、平成18年から平成20年にかけて、学術調査の一環として発掘調査が行われた。その調査成果からは小山田氏の築城によるものとする見方に傾きつつあるものの、現状では確定はできないとし、より確実な裏付け的史料の収集と分析が望まれる。 <関連部将>小山田氏</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.04.06
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獅子吼城は釜無川に合流する塩川の左岸の大ケヤキで有名な根古屋神社の裏の独立峰にある。根古屋神社に車を停め、城跡のある山裾を時計回りに登ってゆくと、民家が点在する付近から城域に行ける。城の遺構は樹木の中に、空堀や曲輪跡などを見ることができる。頂上の標高は789mあるので、塩川沿いにある街道を監視するのに適していたと思われる。<地図>獅子吼城は塩川左岸の独立峰に築かれた城で、西は塩川、南は湯戸ノ沢で区切られた要害である。北西の麓にある根古屋集落からの比高差は120mを測るものの、東の駒ヶ入集落からは40mほどしかない。山体は切り立った岩山であり、石積みや石塁、巨石を城の施設として取り込むなどの工夫が随所に見られる。根古屋集落のなかを穂坂路または小尾街道と呼ばれた街道が通っており、この道を押さえる目的の立地といえる。また、獅子吼城は穂坂路と佐久往還をつなぐ間道の起点となっており、その点でも重要な拠点であった。穂坂路は、甲府から茅ヶ岳を北上して信州峠につながる道筋で、佐久へ抜けることができた。獅子吼城から北はほぼ塩川に沿って進むが、これと同じルートを辿って数キロおきに烽火台も設置されており、獅子吼城もその中継地であった。 <遺構>獅子吼城のある山は、西から南にかけて100mを越える高低差があるものの、行人山と接する北から東にかけてはその半分にも満たない。特に東側はなだらかで、この城の弱点といえる。登城ルートとなりそうな尾根が北と西に伸び、根古屋集落とつながっている。大手と考えられるのは城の東側で、東に伸びる細い尾根を三つの郭に分割し、尾根の北裾の一段下がったところを通路側としている。通路は狭く、北側は沢となって落ちている。中央の郭とその奥の郭の間に堀切があり、中央の郭には通路側と堀切側、奥の郭には堀切に面して土塁が設けられる。この堀切により、東側からの地形的な分断を図っている。この通路は、そのまま斜面を上り、奥の郭と城内をつなぐ通路と合流するが、本来は途中で北西方向へ曲がり、二本目の竪堀の縁を通って主郭から下りてくる通路と合流していたと考えられる。このを北へ下りると、三本目の竪堀の縁を通って城のもっとも北に位置する郭に至る。通路西側の斜面上にも工夫があり、石塁で中央を分割し、それより北側に三段も郭を造成し、最下の郭から北側に石塁を延ばしている。竪掘と石塁で挟まれるのは北側の尾根であり、ここを上ってきた敵の横方向の動きを制限するとともに、正面と側面から攻撃することができる。三本の竪掘は中間で帯郭によってつながっており、竪掘の間を上る敵に対処できるようになっている。主郭部からの通路の合流点から南へ上がると、左に土塁を見ながらほぼ直角に西へ曲がり、右に見える大きな土塁を北へまわりこんで狭い虎口に至る。東側の土塁と西側の一段高い郭に挟まれた虎口で、このを枡形虎口とみる説もあるが、現況の地形観察からは判然としない。この先は土塁に目隠しされた堀底道となるが、これが主郭と外郭を分ける境となる。 <歴史>獅子吼城に関するもっとも古い伝承は、江戸時代末の嘉永6年(1853)に作成された「巨摩郡江草村諸色明細帳」と「甲斐国社記・寺記」の見性寺の由緒に載る信田小左衛門実正・小太郎実髙親子の獅子吼城での討死の記事で、元応2年(1320)のこととされる。同寺には、応永年間(1394~1427)の人物で、獅子吼城主であった江草兵庫助信泰により再建されたとの由緒もある。また、武田信虎の甲斐統一に最後まで抵抗し、享禄5年(1532)に降伏した国人、今井信元(浦信元ともいわれる)の本拠「浦ノ城」にも比定されている。信元は、早逝した江草信泰の所領を継いだとされる弟信景から五代後の子孫である。城の名前として「甲陽日記」永正6年(1509)10月23日条に「小尾弥十郎江草城ヲ乗取」と載り、「武德編年集成」天正10年(1582)9月7日以前「服部半蔵正成ノ組伊賀ノ士信州江草ノ小屋ヲ乗取ル・・・」との記録から、江草城・江草小屋と呼ばれていたことがわかる。獅子吼城の名称は、「甲斐国志」編纂時に地元の伝承から採用したらしい。「武德編年集成」から、天正壬午の乱では北条軍が入り、徳川軍により奪われたことが知られ、現在見ることのできる遺構も、この時に改修を受けた物と考えられる。 <関連部将>志田小太郎実髙、江草兵庫助信康、今井(浦)信元</関連部将><出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.03.30
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甲府城へは、JR甲府駅の南口を出て舞鶴通りの坂を上ってすぐ舞鶴城公園の入り口に行けばよい。舞鶴城公園は甲府駅からも見えるように高い石垣に囲まれている。城の中心部の天守台はさらに高く、その上からは、南アルプスや富士山まで遠望することができる。公園内には櫓や門が復元されており、石垣や水堀も残されている。<地図>甲府城は、甲斐武田氏滅亡後の豊臣政権下で、浅野長政と幸長が配された文禄2年(1592)から慶長5年(1600)までの間に築城された。これは、野面摘み石垣構築技術の比較検討や城内の発掘調査で出土した豊臣家家紋瓦である「五三桐」「五七桐」、浅野家家紋瓦「違い鷹の羽」の軒丸瓦や鬼瓦、鯱瓦などいずれも金箔や朱が施された遺物が論拠となっている。甲府城が築城された目的は、小田原北条氏滅亡後に 江戸を拠点とした徳川氏をけん制するためであり、長野県の高島城、松本城、小諸城、上田城や福島県会津若松城等と関東を取り囲むように衛星状に配された織豊系城郭の一つである。規模は、東西470m南北560m、総面積約18ヘクタールを測り、全周を堀と野面積みの石垣で築き上げた平山城である。城の名称は、江戸時代には甲斐府中城が一般的だが、鎌倉幕府開幕直前に功績がありながらも源頼朝に謀殺された一条忠頼の居館があったことに由来し、一条小山城ともいわれる。なお、舞鶴城は明治時代以降の公園としての名称である。 <遺構>天守台は標高304mを測り、城内の最高所である。甲府盆地や富士山、南アルプスの山々が一望でき、南眼下には江戸より三泊四日行程の甲州街道と甲府城築城とともに建設された甲府城下町が広がる。天守の存在については学術的にも大きな課題となっているが、本丸周辺の出土鯱瓦から高層建物の存在は推測できるものの、絵図や発掘調査からの確証が得られてないのが現状である。最近の研究では、甲府城 完成まで暫定利用された武田氏の居館(躑躅ヶ崎館<武田氏館>)の天守台に礎石郡が存在する点に注目する研究者も多い。天守台の西側一段下が本丸である。現在はマウンド状の広場になっているが、地下には城内で出土した瓦片が調査研究後に埋設保存されている。江戸時代、本丸へは鉄門と銅門をへて入った。鉄門は平成25年(2013)に復元され、銅門の跡では西側の礎石が露出展示されている。本丸内の北東部にはかって本丸櫓が存在し、近年イタリアからその外観を写した手札サイズの古写真が発見され話題を呼んだ。櫓は外側から見ると二階で、内側は三階建ての掛け造り構造であったと考えられている。柳沢時代には本丸御殿や持仏堂である毘沙門堂が建立された。この毘沙門堂については、柳沢氏の大和郡山移封後に華光院に移築された記録があり、最近の調査研究では往時の姿をほぼ残して存在しておることが判明し、現存する唯一の甲府城関係の歴史的建造物と評価された。天守台と本丸の全周を囲うように配置された曲輪が天守曲輪である。さらに一段下がり、北から東側にかけて稲荷曲輪、西側に二の丸、東南側に数寄屋曲輪、南側に鍛冶曲輪が、配置されている。稲荷曲輪の名称の由来は、現在は堀端に鎮座しているが、築城以前から一条小山を守護していた庄城稲荷に由来する。江戸時代の記録にもたびたび登場し、甲府城詰の武士から厚い崇敬を受けていたようである。稲荷曲輪の北東隅には、寛文年間に建てられた二代目の櫓を平成16年(2004)に復元した稲荷櫓がある。江戸初期には長屋建物が稲荷曲輪の東面石垣に延々と建設されており、外敵に対し厳重な防備をみせ、威容を誇った景観がうかがえ、現在はそれら建物の礎石が露出展示されている。北西部からは、全国的にも珍しい構造を持つ煙硝蔵が検出された。火薬庫でありながら平屋に地下構造を持つ一見不思議な建物であるが、地下部の底部は石張で、全壁面には幅30センチ程の壁厚になるように板材で覆われていた。その隙間には砂礫が充填されフィルター層となっており、防湿や雨水対策も十分な施設であることが判明した。数寄屋曲輪は城内での狭小かつ独特の形を持つ曲輪である。南端には江戸初期から明治初年まで数寄屋櫓が存在したほかに、建物は存在しなかったこのが判明している。また、江戸初期と中期以降の絵図と比較すると平面形に差異があることから改変を受けた可能性もある。鍛冶曲輪は、現存する曲輪では最大の面積を持ち、米蔵や会所が置かれた。北東側には石切場跡が露出展示されており、矢穴などの採石技術の痕跡を良好に見ることができる。なお、南側の遊亀橋は近代の所産である。 <歴史>甲府城築城期の姿を表わす史料は残念なことにこれまでのところ見つかっていない。江戸時代初期の様相が明らかになるのは、城番制であった寛永年間頃から徳川綱重、綱豊(六代将軍家宣)が甲府藩主であった寛文年間頃で、寛文4年(1644)に幕府から二万両を得て大規模な修理をした記録前後からである。宝永元年(1704)、武田氏遺臣の系譜を持つ柳沢吉保が甲府藩主となり、その子吉里が在城するが、この時に城内の御殿や門等の建物が新築され、城下町整備も大々的に実施されて最大の活気を得た。柳沢氏が大和郡山に移封された享保9年(1724)からは甲府勤番支配となり、任命された旗本が一族共に甲府城下に移り住み、大いに江戸の文化で賑わったといわれる。いっぽう、近代の甲府城跡は消滅の歴史であり、それは昭和44年(1969)の県指定史跡の指定までつづいた。明治時代になると城内の建物はすべてが取り壊しのうえ払い下げられ、石垣だけの景観となった。その後城内全域には果樹が植えられ勧業試験場となった。明治10年(1877)、鍛冶曲輪には官営の葡萄酒醸造所が造られ、全国初の葡萄酒やブランデーの量産に成功している。明治36年(1903)の中央線開通により清水曲輪が、甲府中学校や山梨県庁の建設と市街地化により楽屋曲輪と屋形曲輪が開発され、舞鶴城公園として開放された時には、往時の三分の一ほどの姿に変わってしまったのである。県都甲府のJR甲府駅には南北に出口があり、北口に降り立った場所は清水曲輪であり。南口は楽屋曲輪に位置する。しかし、現在の市街地の様子からはそこが甲府城内であることは想像できない。 <関連部将>浅野長政、幸長(平岩親吉、豊臣秀勝、加藤光泰)</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.03.23
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岩殿城はJR大月駅付近の北側の岸壁上ににある。岩殿山に城の遺構を見ることができ、城跡からは大月市街地から都留市、そして富士山の眺望が楽しめる。この岩殿城は、武田氏の滅亡時、勝頼主従を裏切った小山田氏の居城だった。<地図>岩殿城は、都留郡の北部、JR大月駅の北東にある標高637mの岩殿山上にあり、前面の南側は笹子川、桂川とその浸食による断崖に守られ、東側は葛野川、西側は浅利川とそれによって形成された河岸段丘によって隔絶された天然の要害である。「甲陽軍記」は、上野国岩櫃城、駿河国久能城と並ぶ関東三名城と特記しており、南側から望むと通称「鏡岩」と呼ばれる大岩がむき出しとなっていて、いかにも天嶮の要害という印象を抱かせる。岩殿城は、岩殿山円通寺が所在した信仰の山に所在し、同寺は中世には京都聖護院を本山とする本山派修験の中心であった。境内には、円通寺、三重塔、七社権現、常楽寺など多数の堂宇があったといい、明治維新まで壮大な伽藍を誇っていたという。城下はこの円通寺の門前町に相当する岩殿宿と、岩殿城の根古屋と推定される強瀬宿がある。特に強瀬には、「御所」「殿畠」「馬場」「元馬場」「見附ノ内」「カチ畠」などの地名があり、岩殿城に駐留する武士が居住した地域と推定されている。実は、この二つの宿は葛野川の段丘上に所在するが、その入口にあたる神宮橋付近は、今では埋め立てられてしまったが、堀状に掘削された痕跡があり、外部と隔絶させようとの意図があったように思える。このほかに、前記の駒橋にも、小山田氏の拠点的な集落が形成されていた可能性が高い。城の主要交通路は桂川の対岸を、旧甲州街道が通っているが、岩殿城へは、下和田から強瀬宿もしくは畑倉から岩殿山麓を伝わり、浅利宿に抜ける古道があった。これは浅利川、笹子川を越えて花咲へと通じ、旧甲州街道に合流した。岩殿城の古絵図を見ると、西の入口が浅利宿、東は岩殿宿となっている。 <遺構>城跡は山頂部に遺構が集中し、一部鉄塔建設などで破壊されているが、よく遺されている。「甲斐国志」によると、それらは「一ノ堀」「二ノ堀」「本城」「馬場」「亀カ池」「揚木戸門」などと記載され、現地にも案内板などで同様な呼称が掲示されているが、必ずしも根拠があるわけではなく、近世以来の伝承であろう。大手口と伝わる入り口は、これを守るように小規模な郭が複数設定され、城内へ大きくまわり こませる工夫がなされる。また「蔵屋敷」と伝わる広い郭の入り口部南側にも小高い部分があり、二つの連結した郭が敷設され、敵の侵入を阻もうとする意図が読み取れる。もっとも高い山頂部が「本城」と伝わるところであるが、これに通じる道から敵の侵入を防ぐ郭が連続して設けられ、土塁などで巧みに守られていることが読み取れる。ただ虎口が存在したと思われる場所は失われており、旧観を想像することは 難しい。なお山頂部からの眺望はよく、城下ばかりか甲武国境方面も見通すことができる。本城が烽火台の役割をも担っていたという指摘もうなずける。また麓から山頂への途中にも、城の遺構が点在する。まず丸山公園には現在展望台が建設されているが、ここは小高い台状の遺構があり、城の防衛にかかわるものと推定されている。このほかに、西側の浅利方面に向かう道を塞ぐように搦手門跡と伝わる遺構が残る。この城で特記すべきは、亀カ池の存在である。池は二つあり、それぞれ飲用水、馬洗水という用途分けがなされていたと伝わる。現在では旧観を失っているが、かっては直径2mに及ぶ規模で、また現在でも1日1200リットルの水が湧き出していることが発掘調査で確認 されている。このため籠城に際して、飲用水の欠乏の心配はまずなかったと考えられる。 <歴史>岩殿城をいつ、誰が築城したかは記録が無く明らかでない。従来より岩殿城は、都留郡の有力国衆小山田氏が築城したといわれてきた。ただし「甲陽軍艦」にも、小山田氏の属城との記述は存在しない。小山田氏築城説が唱えられ始めたのは、近世中期以後のことで、萩原元克著「甲斐名勝志」に始めて登場し、その後、甲斐国の地誌「甲斐国志」によって定説となっていた。しかも「甲斐国志」は岩殿築城 を、小山田氏が中津森から谷村に居館を移したのとあわせて実施したものと記述した。これは、武田氏の甲府躑躅ヶ崎館と要害城を念頭に推論したと考えられる。つまり、岩殿城の小山田氏築城説とは、居館-詰城セット論の典型として措定されたといえるだろう。さらに、天正10年(1582)3月の武田氏滅亡時、小山田信茂が武田勝頼に対し「みつからか在所、都留の郡岩殿山と申は、およそ天下そむき候とも、一持もつべき山にてあり、そこへ御こししかるべきと述べ、都留郡へ落ちのびるよう説得したという記録も、小山田氏築城・拠点説を補強 するものと指摘されている。ところが、1967年に小林利久は、小山田築城説に始めて疑問を投げかけた。小林の論点は、岩殿城を谷村館の 詰城とするには、12キロと距離がありすぎること、この城は甲斐・相模の境目の要所に位置しており、ここを戦略上重視するのは、小山田氏よりも武田氏であること、すなわち岩殿城は武田氏が領国防衛の拠点として築城し、大月周辺とその東部一帯を守る中核と位置付け、さらに情報伝達のための烽火台としても機能させた、というものである。この視点は、「日本城郭大系」における岩殿城や都留郡の諸城館、烽火台に関する分析にも継承され、小山田氏築城・拠点説は大きく後退した。そして岩殿城を武田氏が築城、支配した城郭と明確に位置付けたのが萩原三雄である。萩原は前記の諸研究を踏まえつつ、さらに天正9年3月20日付けで武田氏が萩原豊前に宛てて、落合の新左衛門ら10人を率いて岩殿城に在番し、さらに城普請を行うよう命じた武田家朱印状の存在を根拠に、武田氏直轄の城であったと断じた。このほかに、柴辻俊六・小峰裕美が小山田氏発給文書の検討を通じて、小山田氏の権力が及んだのは都留市と富士五湖周辺に限られ、岩殿城を含む大月以北には及んで いないと指摘した。この研究も、武田氏直轄城説を補強するするものとみなされている。その後も、八巻孝夫らが武田氏直轄説を強調しておられる。いっぽうで牧野雅彦は、天正9年の文書から武田氏による岩殿城の在番制実施は確認できるが、だからといって築城時期や主体までが明らかにされたわけではないと注意を喚起した。そして、岩殿山に所在した七社権現の修造に小山田信有が「当郡初語守護」として、勝沼武田信友とともに参加しているし、小山田信茂も永禄11年(1568)に、同社へ「戸張七掛」を寄進していることや、城下の駒橋に小山田氏家臣丹後屋敷、小山田出羽守妾宅跡が所在している事実などから、「小山田氏築城説は、居館との距離関係から否定されるものの、小山田氏が築城し、ある段階まで使用した可能性は、なお捨てきれない」と述べた。しかしながら、小山田氏の城か、武田氏の城かの判断するためには、以下の重要な点を追及する必要がある。それは、①小山田氏の支配領域に岩殿城を中心とする地域が含まれていないのは事実か、②武田氏の将卒が在番し、城普請を実施していることが、武田氏直轄城説の根拠たりうるか、という二点である。まず、小山田氏の所領分布についてであるが、元亀4年(1573)7月3日に小山田信茂が、菩提寺長生寺に与えた寺領寄進目録は注目される。それには、岩殿城周辺の所領として、花咲、幡倉、藤崎(いずれも大月市)が存在し、花咲は小山田出羽守信有、幡倉は小山田信茂、藤崎は寄進主体が不明だが小山田氏先祖であることは間違いない。 <関連部将>小山田氏</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.03.16
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於曾屋敷はJR中央本線塩山駅の南にある。於曾屋敷の一部は公園として公開されており、見学することができる。屋敷は土塁で囲われており、公園内は花などが植えられている。<地図>於曾屋敷は甲州市塩山下於曾地内に所在する。昭和38年(1963)9月9日に県の史跡に指定されており、JR塩山駅から南へ直線で300mほどと至近の位置にあるにもかかわらず、四周をまわる土塁がよく保存されている。屋敷の中央に設置されたフェンスにより東西に二分される。西側は個人が生活されている民地で非公開、東側は寄付を受け甲州市が管理する公園で、常時公開している。下於曾一帯は、東を流れる重川が形成した緩やかに南面傾斜する氾濫原で、日当たり・水はけのよい土地である。地内には勝沼方面に南下する通称西街道があり、西街道に沿って下於曾から熊野まで、於曾屋敷をはじめ多くの中・近世の屋敷が集っている。西街道沿いの主な屋敷を挙げると、下於曾に中村氏屋敷・風間氏屋敷・依田宮内左衛門屋敷・田辺氏屋敷・池田氏屋敷・宇賀屋敷・於曾屋敷が、熊野には深沢氏屋敷・依田兵部左衛門屋敷があり、そのほとんどが16世紀に経営された黒川金山で採掘作業に従事していた金山衆の屋敷か、金山衆との関連を指摘されている屋敷である。そのなかにあって於曾屋敷は、ひときわ大きく、構造的にも土塁を二重にまわすなど、他の屋敷とは一線を画しており、そのため金山衆の役宅ではないかと考える研究者もいる。 <遺構>「甲斐国志」の記述にあるとおり土塁は二重にまわり、今でも北辺でその一部を確認できる。昭和60年の調査では、南側の外土塁の基底部が検出されている。記述と現状で異なるのは門(出入口)の位置で、「甲斐国志」では南と西に門があるとし、付随する古絵図でも西側土塁が切れた状態で描かれているが、現状では東辺に出入口がある。また南辺については、昭和60年の調査で3mを超える幅の堀が検出され、堀に架かる土橋跡の位置から、現状の南辺出入口より東に出入口があったものと思われる。この調査では柵列と、奥行き二間、間口三間以上の門と思われる掘立柱建物も検出された。屋敷の規模について、内土塁内の平地は東西70m、南北88mを測る。各辺の土塁(北辺のみ外土塁)の長さは、北辺95mm南辺87m、東辺110m、西辺120mと確認され、古絵図にある外土塁まで含めると、東西約110m、南北約145mと推測される。屋敷内には三段程度の段差がみられ、地形に従って南へ緩やかに低くなる。南辺の内土塁は屋敷内からみると高さ1.8mほどだが、屋敷外からみると4mほどと、内外で大きな比高差がある。東辺の内土塁は中央で切られ、南半は形状がよく残っているが北半は崩れている。北辺の内土塁はほとんどが消滅しており、北東隅のケヤキの根元に高まりが確認できるのみである。現在の北辺の土塁は外土塁である。西辺の内土塁は民地で、土塁上に樹木が繁茂しているため観察しづらいが、北端で東へ折れ北辺土塁となる。このあたりの北辺外土塁には切れ目があり、西辺内土塁に沿う水路が引込まれている。切れ目より西の外土塁は「丸土手」と呼ばれており、「甲斐国志」にある「乾隅の髙塚」がこれにあたる。なお、平成27年の試掘調査では、北辺土塁の一部と思われる遺構が検出されている。於曾屋敷の小字は「元旗板」といい、旗板とは土塁上に設置された楯状の遮蔽物と理解され、強固な土塁にさらに旗板を並べ防護していた様子がうかがえる。 <歴史>於曾の初見は、平安時代の「和名類衆抄」に山梨郡の於曾郷とあり、古代からの集落の名であることがわかる。この頃当地を支配していたのは古代豪族の三枝氏で、文化11年(1814)に編纂された「甲斐国志」では、於曾氏は三枝氏の分流と説明している。平安時代の末には三枝氏は没落し、それに代わるように甲斐源氏が台頭してくるが、その一流、加賀美遠光の四男光経が於曾四郎を、五男光俊が於曾五郎を名乗り、於曾の名跡を継いだ。二人のうち四郎光経の屋敷が於曾屋敷で、五郎光俊の屋敷は塩山駅周辺に所在したと考えられる。室町後期から戦国期にかけての於曾氏の動向は、史料等に散見される程度である。いっぽう於曾郷については向嶽寺に対する寄進状にみえるが、その寄進者はいずれも板垣氏で、於曾氏の名はない。その他の史料からも文安年間(1444~49)には於曾郷の支配は板垣氏が行っていたと考えられる。その後の板垣氏について「甲斐国志」に「板垣左京亮信安、初メ於曾氏ナリ。永禄中、板垣ノ家督ヲ継ギ氏ヲ改メシム」とあり、武田の重臣である板垣信方の嫡子信憲の代に断絶となるが、永禄元年(1558)に於曾氏の信安が継いだことがわかる。 <関連部将>於曾四郎、板垣信安</関連部将> <出典>甲信越の名城を歩く 山梨編(山下孝司ほか)</出典>
2024.03.09
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高天神城があるのは、遠州灘と掛川市市街地の中間に広がる丘陵地帯である。城の入り口には、トイレ、駐車場があり、高天神社の鳥居から山道を登ると本丸と高天神社のある平地の間に出る。武田氏と徳川氏の攻防の様子は、小説などで具体的に描かれているので、その当時のことを想像しながら城内を見学できる。<地図>髙天神城の創築については、15世紀中葉以降、今川氏による中遠江にかけての領主制展開拠点の一つとして築城されたものと解釈されてきた。今川氏被官土方氏の関与が指摘されてきたもの、その具体相はほとんど言及されることがなかった。ここではまず髙天神城の創築について、その背景を含め近年の研究から探っていきたい。髙天神城の南、菊川河口部はかって浜野浦という湊があった。戦国期、今川氏が今川水軍の興津氏(駿河国興津郷)を浜野浦に配置していることが史料にみえ、水運による経済拠点としての側面のみならず軍事戦略的にも重視していたことが窺える。浜野浦を含む笠原荘は、旧浜岡町・大東町・大須賀的・小笠町および袋井市の一部を荘域とする荘園で9世紀には成立していた。中世には、三浦・安達氏らの有力鎌倉御家人が代々の地頭職にあったこと、さらにその後も名和長年や北畠親房らの武将・公家らの関与が史料から窺え、中世を通じて重要視されていた荘園であったことの証左となっている。髙天神城と浜野浦の中間に位置する「中」地区は、公文、政所、門註所(問注所=訴訟機関)などの政治的性格の色濃い小字を含む地域である。それらの小字の存在から「中」は笠原荘の政治中心であり、浜野浦との関係において市場=湊を外縁部にもった荘園構造が想定される。さて、髙天神城の創築に関わるとされる土方氏は、戦国時代には今川氏の被官となり、近世には掛川 城主山内一豊に従い土佐に移るが、「土方家譜」によれば承平3年(933)土方浄直が城飼郡司判官代に補任されたとされ、平安時代から近世初頭まで長きにわたり土方の地に住していたことがわかる。鎌倉時代には有力御家人三浦氏が領有する笠原荘の地頭職として実質支配ならびに経営していたことが文献史料からも窺え、一時的には土方が笠原荘の政治的中心であった可能性が示唆される。換言すれば「中」との関係においては、笠原荘の中心が「中」から土方への移動があったとも言える。ところが、「義貞記」によれば土方氏は中世前期に没落、笠原荘の中心も土方から再び「中」へ移動したと考えられる。 <遺構>髙天神城は、掛川市のほぼ中央にある標高265mの小笠山から南東に張り出した丘陵末端に占地する。標高約130mの山城である。東海道の掛川と遠州灘の浜野浦を結ぶ東遠江の要衝に位置する。城山の周囲は、無数の渓谷によって開析され複雑な地形を呈しており、とりわけ城の三方は急崖で、東方の丘陵は入江となりさらにその周囲には湿地が広がっていた。要塞の地にあるだけでなく、地勢的にも堅城であったと言える。地勢を利用した縄張りとしてもう一つ注目されるのは、城山は井戸曲輪を境に東峰と西峰に大きくわかれ、それぞれ独立した曲輪群構成されている点で、「一城別郭」と称される縄張り的特徴である。西峰の曲輪群は周囲を急崖と深い谷に囲まれたまさに天然の要害で、北方も搦手からの比高差10mにもおよび断崖は見るものを圧倒する。井戸曲輪・西の丸は髙天神にかかわる大小の鳥居と社による改変が著しい。最高所にある西の丸から下がって二の丸、堂の尾曲輪、井楼曲輪が尾根上に連なるように配置される。南北に急崖の谷が入り込むが、西側は緩斜面となるため、そこに入念な防御が構築される。特に堂の尾曲輪から井楼曲輪にかけての100mにもおよび長大な横堀と土塁、そして各曲輪を分断する堀切が連続してみられる。横堀は埋没により往時の深さと狭小さはわかり難いが、攻め手にとって通路は横堀しかなくいったん堀に入れば曲輪からの容赦ない頭上攻撃に晒されることになり、迎撃に重きを置いた防御が見て取れる。さらに二の丸周辺の袖曲輪、馬出曲輪などの小曲輪が段差をもって重層的に連なるが、いずれも虎口をもたない行き止まりとなっている。隘路としての横堀から袋小路に追い込み、行き場を失った侵入者に対し執拗な横矢を浴びせるキルゾーンが構築されていたのだ。ちなみに袖曲輪には、天正2年(1574)の武田方の攻撃に際し、二の丸周囲の激戦で討死した、徳川方の本間・丸尾兄弟の供養塔が建つ。この時の戦いでは、二の丸、堂の尾曲輪をはじめとする西峰曲輪群がことごとく攻め込まれたことから、徳川方から城を奪取した武田方も西峰が髙天神城の弱点と認識し、キルゾーンをともなった技巧的な大改修が行われた。西の丸からは、南東に伸びた見張り台へ続く狭小な尾根道と、南西の馬場平をへて甚五郎抜け道と呼ばれる山中への間道が続く。どちらも人一人通るのが精一杯の隘路で、両脇は急崖となっている。特に甚五郎抜け道は「犬戻り猿戻り」とも呼ばれる隘路で、天正9年(1581)の落城の際、武田方の軍監横田甚五郎がこの隘路から脱出したことに由来する。隘路は間道として城外に山塊につながっており、要害による攻め難さと同時に攻め手は城山を完全に包囲することも非常に困難であったことを示唆している。東峰の曲輪群は、門や側塀が存在した木戸跡と呼ばれる狭隘な平坦部の背後に控える曲輪群で、城内でもっとも規模の大きい本丸を中心に中小の曲輪を階段状に連ね本丸を堅守している。また、周囲は急崖と深い谷に囲まれた、天然の要害の様相を呈す。本丸や的場曲輪には土塁の痕跡が見られ、本丸へと続く食違い虎口も観察できる。本丸と的場曲輪からは、掘立柱建物と礎石建物跡に加え、拳大の石を敷き詰めた石敷遺構が確認された。籠城に備え、兵糧備蓄を目的とした倉庫などが存在したと考えられる。本丸から三の丸 にかけての搦手側に位置する狭長な帯曲輪からは、石列をともなった排水溝が確認されており、丁寧な整備状況から単なる帯曲輪とは考えがたく、その性格については今後の課題と言える。本丸・御前曲輪をはじめとする東峰の曲輪群は、削平地と土塁を組み合わせ広い空間を有した居住空間として機能していた曲輪群であることがわかる。本丸と御前曲輪の東裾を経て三の丸(与左衛門曲輪)に至る。三の曲輪も比較的広い曲輪で土塁が残されている。さらに南下するつづら折れの道は必ずしも城内道を踏襲するものでないが、大手門馬出曲輪や着到櫓と呼ばれるどちらも大手口に睨みを効かせる曲輪を中心に大小の曲輪が階段状に連なる。このように西峰=戦闘エリア、東峰=居住エリアとしてそれぞれ機能分けされており、まさに「一城別郭」と呼ばれる所以である。ちなみに本丸周辺の発掘調査では遺構面が複数確認され、最下層からは15世紀後半代の遺物が出土、西峰より東峰が先行する証左となった。 <歴史>土方がふたたび重要性と帯びるの髙天神城の創築の頃で、かって応永23年(1416)頃とされてきたが、現代では今川氏家臣福嶋助春が文献史料に初見される16世紀初頭と出土遺物の年代観を勘案し、城郭として機能し始めるのは15世紀後半と考えられている。その後、今川氏の拠点城郭として整備されるわけであるが、その創築から初頭段階に置いて経済的拠点は海に面した浜野浦であり、海から北に位置する「中」こそが政治拠点であり、それら地域の拠点から北に離れた個所に要害として造られたのが髙天神城だったと理解できる。換言すれば、髙天神城は、浜野浦と「中」による政治経済機能を前提として成立した城郭と言える。政治的かつ経済的拠点背景とする髙天神城は、その後、今川氏の遠江経営上の有力支城として機能していく。それを裏付ける事績として、三ヶ日の大福寺への戸田氏(三河国田原9の乱入狼藉に対する調停役として、在地の国衆浜名氏ではなく福嶋氏が当たっていたことが史料に見える。中東遠のみならず西遠にまで影響を及ぼしていたと考えられ遠江国内における往時の福嶋氏の影響力の大きさが窺える。 天文5年(1536)の花倉の乱後、城主だった福嶋氏が没落してしまう。あとを受け小笠原氏が入城、今川氏にとって福嶋氏の代同様、遠江支配の要として位置付けられた。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、遠江における今川勢力はしだいに衰退、それまで今川氏に与していた国衆の今川離反が相次いだ。それを好機とみた武田・徳川両氏は、今川領への侵攻を開始する。とりわけ両氏の版図拡大の上で、どうしても手に入れなければならない重要な駒、それが髙天神城であり、双方の攻撃目標として一躍クローズアップされるようになった。時の城主小笠原氏興・信興父子が徳川方に与し、髙天神城はまず徳川方の城となった。このことは、換言すれば武田方にとっての第一攻撃目標となったことを意味した。髙天神城をめぐる武田・徳川の最初の攻防では、元亀2年(1572)の信玄による攻囲を徳川勢が死守し、武田方の退却を余儀なくしたとされる。しかし、現在では元亀2年(1572)の信玄による三河・遠江侵攻の存在を否定する説も示され、同年の信玄による髙天神城攻めも疑問視されている。この説に対し従来の三河・遠江侵攻の存在を肯定する側からの反論もあり、その存否について現時点においては明確にし得ない。信玄亡き後の勝頼にとって、信玄が成し得なかった徳川領の遠江・三河東部の占領こそがなによりの戦略であり、その貫徹のためにはまず髙天神城の奪取であった。天正2年(1574)、武田軍は2万5000とも云われる軍勢ともって攻囲した。守る徳川軍は、自軍のみでの駆逐は困難と判断し、同盟関係にあった織田信長に出馬を要請し連合で後詰めを画策した。しかし、信長の後詰めは間に合わず、徳川勢主力も後詰めに出動できず、髙天神城は開城、武田方の城となった。奪還の後、徳川方から寝返った小笠原氏助(武田氏に帰属後、信興に改名)を駿府に移封し、城代横田尹松をへて武田軍の先鋒衆である岡部元信を城将としている。髙天神城を武田氏の直轄支配としていることからも、髙天神城が戦略的に重視されていたと同時に、信興の徳川方への寝返り阻止の思惑もあった。翌天正3年(1575)、武田氏 は長篠の戦いでの織田・徳川連合軍による敗北を境に攻撃から守勢に転じるようになる。武田氏が弱体化したと見るや、家康はそれまで武田方に占領されていた城郭の奪還に動き始める。二俣城をはじめとする北遠、中遠の武田方の城郭が次々と攻め落とされ、武田方の兵站拠点であった諏訪原城が落とされると、髙天神城は徳川領に対峙する橋頭堡というよりも、むしろ孤立した突出点となってしまった。孤立した山城とはいえ、髙天神城の戦術的ポテンシャルの高さを認識していた家康は、慎重かつ執拗な攻囲作戦を展開する。まずは、奪還の拠点として小笠山を挟んだ馬伏塚城の南東に「岡崎の城山」を築城、さらに沿岸部を東進して横須賀城を築城、両城間での船舶による兵站ルートを強化した。天正5年(1577)、髙天神城下に進出する間道を押える要衝として、かって掛川城攻めに用いた小笠山砦を改修した。現在も遺構として目にすることのできる長大な横堀からも改修規模の大きさが窺える。さらに天正6年から8年(1578~80)にかけ、髙天神城包囲網である六砦(小笠山砦・中村砦・能ヶ坂砦・火ヶ嶺砦・獅子ヶ鼻砦。三井山砦)をはじめとした20ヵ所にも及ぶ城砦群の築城によって攻囲、甲斐からの補給路の遮断を徹底した。対する武田勢は六回にわたって出兵するが、重要な兵站基地であった諏訪原城を失ったいたため、同地域に長期間軍勢を留めることができず、じわりじわりと徳川攻囲作戦の影響を受けることになる。勝頼は、先の天正2年(1574)の合戦において、西峰の曲輪群の弱点の認識しこの頃までに西峰を中心にかなりの改修を加えていることが発掘調査でも判明している。天然の要害としての高い堅牢性に加え、当時の遠江においては随一と考えられる縄張りとしての技巧性が加味されていたことにより戦術的ポテンシャルはさらに高くなっていた。ところが、勝頼は甲相同盟の決裂により北条氏と敵対、髙天神城に主力を傾注できず。髙天神城の後詰めを諦めざるを得ない状況に追い込まれてしまう。見捨てられたとは知らない岡部元信らの籠城衆は必死の抵抗を続けていたが、天正9年(1581)ついに後詰めの来援を諦め、家康に向けて降伏の申し入れする。しかし、家康と同盟関係にあった信長は、降伏を受け入れさせなかった。信長は、勝頼が後詰めに来攻しないことを予見し、勝頼の主君としての権威 を失墜させようとしたのであろう。籠城衆の必死の抵抗も空しく、兵糧も尽き、それ以上の籠城は不可能となり、城の放棄を決断。天正9年(1581)3月20日、東部への脱出を図るべく包囲陣を襲撃、城主岡部元信らをはじめ多くが討ち取られた。家康は髙天神城を奪還したものの、間もなく廃城にしてしまう。難攻不落を誇った堅城は、その後、主を置くことなく静寂な杜に抱かれた城址として現在に至る。 <関連部将>福島氏、武田氏、徳川氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.03.02
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始めて訪れたのは、ツアーで東海道53次を歩いているときで、近くのホテルに泊まり、城は案内人に説明してもらった。天守閣の石垣をどうして運んだかとか、石の特徴など。また、ホテルの近くの犀ケ崖にも案内してもらって、三方ケ原合戦当時の様子を想像することができた。<地図>浜松城が位置する元城町は、浜松市役所、元城小学校(現在、廃校により建物は撤去されている)等の公共施設を中心に市街地化が急速に進み、かっての城の大部分が失われている。わずかに天守曲輪、本丸西側部分(旧本丸の約三分の一)、清水曲輪の北端、作左曲輪北東部分が残るのみとなってしまった。城を取り囲んでいた堀はすべてが失われ、堀の旧状すら判然としない。そうした中、唯一ほぼ旧状が保たれている天守曲輪は、浜松城の歴史を知るための極めて貴重な場所となっている。 <遺構>平成21年(2009)以降、浜松城公園整備に伴う発掘調査が実施され多大な成果が見られた。天守門の調査では、石垣に囲まれた門部分で、1mを越える巨石の礎石が検出された。石材は、石垣と同じ圭岩の扁平な自然石であったため、石垣構築と同時期に立てられた門と推定、礎石配置から櫓門が確実な状況だ。江戸期においても、規模を変えずに建て替えられていたことが判明している。天守曲輪南側の土塁部分の調査では、石塁の石垣が高さ2mほど(石垣九段分)も地下に残存していることが判明。石垣は、未加工の自然石を積み上げ、石材間の隙間には丁寧に間詰めが施されてという、明らかに堀尾期をさかのぼる石垣であった。併せて天守曲輪南東隅に隅櫓(辰巳櫓)が建てられていたことも判明した。櫓は不等辺五角形の平面規模で、南北約10mx東西5.3~7.2mほど(五間x三~四間)が推定される。この調査によって、石塁の旧状が高さ3.2m、上段幅3.6m(最下段で7.2m)と判明し、現在の地表面から2.5m下に 堀尾時代の生活面があることがほぼ確実となっている。当然天守台石垣も現在より約2.5m下まであることになり、その高さも8.5mになり、よりシンボルとして強調されていたことになる。 <歴史>永禄11年(1568)、遠江に侵攻した家康は、旧今川諸将を味方に引き入れ、瞬く間に遠江西部地域を制圧してしまう。遠江一円支配を確実にすると、遠江国府の見付に城之崎城(磐田市)の築城工事を起こした。だが、背後に天竜川が流れる地形であったため、信玄と戦う場合「背水の陣」となってしまう。そこで、居城は川を渡った曳馬の地に造り直すことになったと言われる。家康が、新領国の支配の中心に定めた「曳馬宿」は、国府見付をしのぐほどの賑わいを見せ、名実ともに浜松荘の中心であった。城は東海道を見下ろす台地端に選地された。戦国時代の天竜川は、大天竜と小天竜の二筋を本流とし、西側小天竜は、現在の馬込川のあたりを流れていたという。したがって、曳馬城は、小天竜を自然の堀とし、城の北に犀ヶ崖へと続く溺れ谷となった断崖地形、東から南にかけて低湿地が広がる要害の地に位置していた。この地に入った家康は、引馬城の西対岸の丘陵部に中心城を移し、さらに南へ拡張工事を実施し、旧曳馬城も、東の備えとして城域に取り込んだ。家康は、天正13年(1585)までの約15年間浜松城を居城とすることになる。家康が、浜松城に移ると東から武田信玄が侵攻を開始した。家康は、居城の改修より、信玄侵攻ルートの支城網の改修を優先し、来るべき武田信玄の侵攻に備えている。戦闘の合間をぬって徐々に浜松城の拡充を実施したようであるが、本格的な改修に乗り出すのは、武田勢力を北遠江から撤退させ、髙天神城を孤立させた天正5年からのことである。同年以降、「家忠日記」等に浜松城普請の記載が増える。天正6年2月の新城普請、7年2月の本多作左衛門尉かまえ(構え)の普請、同年10月の浜松普請、9年9月の浜松普請と都合三ヵ年にわたる築城工事が判明する。この間に、徳川の築城技術は急激に進歩している。これは、遠江に進出した武田軍の城を接収したことで、武田氏の持つ築城術を取り込んだためだ。中でも、「横堀」の使用がもっとも大きい変化であった。天正6年以降、徳川軍が築いた小笠山砦、諏訪原城には、長大な横堀や巨大な堀が残存する。これらは武田氏の築城技術を取り入れた結果として捉えられる。浜松城でも、武田氏の築城技術を取り入れた可能性が指摘される。北側「作左曲輪」や南側出丸を取り込むことを可能にしたのも、横堀の採用によるもので、中枢部を囲む堀幅をより広くし、防御構造を高くすることに成功し、その居城としての体裁を整えた。この時期、すでに織田政権下では、配下の有力武将までが瓦葺きの天守・石垣を持つ織豊系城郭を築き、土造りの城は時代遅れの城となっていた。だが、徳川家は未だ技術者集団を把握しておらず、石垣や瓦葺き建物を構築する段階ではなかった。家康の築いた城の中枢部は、現在の天守曲輪から本丸にかけての部分であることはほぼ間違いない。家康の居住空間は、現在の天守曲輪で、そこを中心に周囲に物資保管施設があり、最下段の平坦地に家臣の居住空間が広がっていたと考えられる。天正18年、豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が近江佐和山城(滋賀県彦根市)から入城すると、大規模な改修工事を実施する。石垣、天守(瓦葺建物)を持つ、現在の城の基礎を築き上げた。石垣石材は、浜松湖畔の大草山や知波田で進出する圭岩で、水運を利用し運び込まれた。天守曲輪へと至る通路および天守門左右に配された巨石は、圧倒的な規模を誇り、豊臣政権の力を見せ付けている。だが、記録にはまったく残されていないため、その姿形ははっきりしない。残された天守台は、穴蔵構造で、地階中央部に石組井戸も存在する。同時期の天守に共通する構造で、その規模から、二階建ての櫓の上に、望楼を載せた漆黒の四重天守が想定される。浜松城絵図は数点が存在するが、いずれも天守台のみで天守は描かれていない。正保年間(1645~48)には、すでに失われており、短命天守であった。浜松城は、最高所に天守が建つ「天守曲輪」を配し、居住空間を持つ本丸は一段低い東側に設けられていた。このように、天守と本丸がそれぞれ独立して機能する例は少なく、大部分の城は本丸内に居住空間である御殿と天守が併存している。天守曲輪をもつ城は、県内では掛川城(掛川市)が挙げられる。 両城とも、敷地面積の関係で本丸と天守曲輪を独立した曲輪とせざるをえなかったのである。浜松城の場合は、東西に長い丘陵を利用しており、当初から西側が高く、東側が低い自然地形であったと思われる。現状で、本丸平坦面と天守曲輪平坦面との間には、10mほどの比高差があるため、自然地形を切り盛りしても、本丸と天守曲輪を併せた平坦面を確保するための土量が足りなかったと考えたい。天守曲輪および本丸周辺は総石垣で固められ、特に本丸から天守曲輪へ至る通路西側面に巨石を鏡石として多数配している。さらに、天守門左右の巨石、門を入って内枡形状の空間の正面に配された巨石などを見れることを重視した巨石配置となっている。天守曲輪は、出入りの激しい塁線によって、どこからも横矢が掛かる戦闘的な構造だ。特に、西面南側の石垣は、屏風折れと呼ばれる鋸刃のような折れを持った石垣で、全国的にみても類例は少ない。通常の屏風折れは、直線の塁線上に土塀を鋸刃のように折れさせたもので、石垣 までも折れさせることはほとんど見当たらない。天守曲輪の虎口は、東西に各一ヵ所設けられ、本丸から続く天守門が正面口で櫓門を、背後は埋門とし、空堀を渡る土橋を経由して西破城曲輪、清水曲輪へと接続する構造であった。絵図などによれば、埋門は石垣を空けた形式で、上部に土塀が設けられている。現存する例では、二条城の西門とほぼ同様の構造ととなる。絵図は、あくまで江戸期の絵図であるため、堀尾期の姿についてはまったく不明としかいいようがない。 <関連部将>徳川家康、堀尾吉晴</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.02.24
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飯田城は長野県飯田市が有名であるが、役所の敷地ないで、城の遺構はあまり残っていない。それに比べこちらの飯田城丘陵の杉林の中に曲輪あとや空堀などが残っている。説明版も祠なども見ることができる。場所は、天竜浜名湖鉄道の遠州森町の太田川の左岸で、森町の集落を丘陵に向かって進むと杉林が飯田城である。<地図>飯田城は、太田川中流域東岸、西に開析平野を見る下飯田に位置し、崇信寺南西の比較的平坦な丘陵西端に占地する。 <遺構>飯田城は、西側に伸びた三本の舌状丘陵の曲輪群と、三段の本曲輪からなる。本曲輪の北・西・南には土塁が巡る。搦手とされる本曲輪の東には、横堀による堅固な防御が見られるとされるが、現況をみる限りではその防御は切岸よ土塁によるものであり、横堀は確認できない。おそらく自然谷を堀として利用したものであろう。本曲輪北側にも横堀をともないそうな帯曲輪が存在するが、自然谷によるものと考えられる。三本の舌状丘陵による曲輪の内、もっとも北側の一の曲輪では小規模ながら二重堀切が確認できる。その他の曲輪では、三段程度の段切がされているが、堀切のような明瞭な防御は見られない。元亀3年(1573)以降、武田方を中心に徳川方の城になるわけであるが、二重堀切以外の重厚かつ技巧的な防御を示す遺構は見当たらず、同時期の犬居城や天方城にみられるような横堀、馬出状の空間をともなう虎口に代表される元亀3年(1572)以降の武田氏による堅牢かつテクニカルな改修はなかったと考えられる。したがって、武田氏の改修はなく、前代の永禄年間の様相を呈す城郭と評価できる。飯田城のその位置は、同時期の徳川方の拠点城郭である久野城に対する抑えと認識されてきた。しかし、飯田城から1.5キロほど南に位置する本庄山砦こそが最前線に位置する。加えて本庄山砦は発掘調査により、兵駐屯を可能にする大規模な曲輪、幅10mにも及ぶ堀切、横堀と堀底道駆使した複雑な動線をもつ虎口を擁した、堅牢かつ技巧的な普請が明らかとなった。したがって、本庄山砦こそが武田氏の最前線としての要の城郭であ飯田城は本庄山砦と、北方に位置する武田方も社山城や真田山城へのつなぎの城であったと考えられる。 <歴史>飯田城主山内氏の足跡は、鎌倉時代にさかのぼる。山内氏は備後を本貫地とし、遠江の飯田荘(森町の中・東部)も所領としていた。備後と飯田荘との関係について、どちらも砂鉄を産し、刀剣などの鉄製品生産地という共通点が見られ、山内氏はこれらを有力な経済的基盤として飯田の地にも進出していったと考えられる。その後、山内氏は三倉川の西俣に居館を構え、通弘・通秀の代、14世紀後半になると南下して大鳥居に天方本城を築く。さらに応永年間(1394~1428)頃、時の当主道美は天方郷から飯田郷へ進出、天方本城を弟山城守に譲り、新たに飯田古城(崇信寺の東方)を築いたとされる。同時に城内に崇信寺を建立し禅に帰依しており、武威と信心をもって飯田周辺支配の礎を築いた。道美没後、当主は久通、通泰と続くものの詳細は不明であるが、通泰が山内当主と なった天文14年(1545)頃、要害の地に新たに城(飯田城)を築いたと考えられる。その頃の遠江守護は斯波氏であったが、遠江の奪還を狙う今川氏との間で激しい抗争が繰り広げられていた。山内氏は、斯波氏と今川氏の抗争に翻弄されながら国人領主としてその領地を守り惣家存続のために、時に勢力の麾下に従いつつ、またある時は決然と反旗を翻した。その後、今川氏が中・東遠江を席巻すると今川被官として今川氏に降った。永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで討死すると今川氏は凋落に転じ、武田、徳川氏が弱体化今川領国遠江への侵攻を開始する。遠江は三勢力による三つ巴の様相を呈すこととなった。永禄12年(1569)には徳川氏の遠江平定が進み、国衆の多くが徳川方に服属していった。そうした情勢下においても、通泰は今川氏への忠誠に背くことはなかった。同年6月、家康は飯田攻めの兵を出し、榊原康政、大須賀康髙らが先を争うように攻め立てた。この戦闘で通泰以下城兵の奮戦もかなわず主従もろとも討死、惨劇のようすを「家忠日記」と「改正三河後風土記」は伝える。元亀3年(1572)武田信玄の大軍によって遠江が席巻された際に飯田城も落城、以後5年間は武田方の城となった。国衆の城から武田氏の要の城として史上に伝わるが、再び徳川方によって奪還されたとされ、何度かの戦塵に伴う領有の交代劇を経た、時代に翻弄され続けた城郭と言える。 <関連部将>山内氏、徳川氏、武田氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.02.17
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韮山城は、小田原合戦の際、大軍の秀吉軍に包囲されたが、落城しなかった。城池から城域に登り、堀切を経て本丸に着いても現在の城跡からは、大軍に攻められて、落城しなかった防禦性は感じられないが、韮山高校も城地で、天ケ岳付近も含め大規模な城で西側の狩野川に続く場所は湿地帯だったようで、北条氏規の城主としての能力の高かったので、落城しなかったのであろうか。<地図>韮山城といえば戦国関東の覇者北条氏初代伊勢宗瑞の居城として有名である。明応2年(1493)に伊豆へ侵攻した宗瑞は堀越公方家を滅亡させた後、伊豆全土を平定し、韮山城を築いて本拠とした。北条氏は二代氏綱の時代に本拠を小田原城に移すが、宗瑞は韮山城に残り、永正16年(1519)に同城内で没している。城は伊豆半島北部の田方平野の東方、標高50mの通称龍城山に築かれている。龍城山の西側には伊豆最大の狩野川が流れ、周囲には低湿地が広がっている。龍城山の背後には標高128mの天ヶ岳が聳え、ほぼ独立した山塊となっている。近世の城絵図には天ヶ岳は描かれないが、喫茶井は天ヶ岳でも城郭遺構が確認されており、韮山城の範囲は天ヶ岳も含む巨大なものである。 <遺構>韮山城の構造は基本的には南北尾根に一直線上に曲輪を配置する連郭式の縄張りとなる。頂上部に本丸を置き、北方へ二ノ丸、権現曲輪、三ノ丸と続き、南方へは長大な帯曲輪を配し、その先端には塩蔵が配置されている。最近の発掘調査で二ノ丸で礎石建物が検出されている。天ヶ岳へと続く南東尾根には三本の巨大な堀切を設けており、元来、天ヶ岳との間は完全に遮断した構造であったことがわかる。各曲輪の切岸は高くて急傾斜となる。また、各曲輪には巨大な土塁が巡らされているが、特に東辺に偏って築かれて いる。本丸から塩蔵に至る尾根筋に構えられた帯曲輪も東辺に巨大な土塁を設けているが、これも天ヶ岳との尾根筋を防御するものである。南端に構えられた塩蔵は四周を土塁によって囲繞されているが、その俗称である塩蔵とは塩ではなく、焔硝(塩硝)の塩のみが伝承されたものと考えられ、土塁に囲まれた空間は焔硝蔵であった可能性がある。なお、韮山城の西側山麓は字御屋敷という地名が残る。現在韮山高校となっているが、その立地と字名から山麓居館の場所であったと考えられる。寛正5年(1793)に作成された「伊豆国田方郡韮山古城図」に御屋敷は水堀によって囲まれた構造が描かれている。ここではこれまでに数次にわたって発掘調査が実施されており、井戸や園池など居館施設にともなうと見られる遺構が検出され、大量のかわらけや陶磁器などが出土している。特に注目されるのが堀の検出である。絵図に描かれた堀や、描かれていない位置からも検出されているが、それらは堀底に畝が残されており、北条氏の築城の特徴である畝堀であったことが判明している。一方、天ヶ岳に目を向けると、まず天ヶ岳の最北端、江川邸の背後にも江川遺構群と呼ばれる曲輪と堀切が構えられている。天ヶ岳山頂にも土塁や曲輪が設けられ、山頂から三方に伸びる尾根筋にも累々と曲輪や堀切が構えられている。天ヶ岳の尾根筋が痩尾根であり、曲輪は極めて小規模d虎口なども認められていない。それに対して堀切は幾重にも巨大なものを構えている。特に堀底には掘り残した土手が三本ほど認められるが、これも北条氏の築城の特徴である畝堀である。発掘調査ではなく、こうした露頭した状態で畝堀を見ることができる事例はまず他にはない。また、尾根筋に構えられた土塁は東辺のみ築かれているが、これは韮山城と谷を隔てた東側の山々に秀吉軍が築いた陣城に対処するためである。おそらく秀吉軍との戦いを想定して氏規が急遽普請したものと考えられる。天ヶ岳から西側に伸びる尾根筋の最先端には土手和田砦と呼ばれる出城が構えられた。天ヶ岳との尾根続きの鞍部は堀り切られておらず、一連の城郭施設として構えられたことがわかる。「伊豆国田方郡韮山古城図」には天ヶ岳で土手和田砦だけは描かれており、江戸時代になってもこの出城跡は韮山城の一部として伝承されていたことが伺える。曲輪配置は極めて単純であるが、南面にL字状に廻る横堀が構えられている。ここでも堀底に土手が確認でき、畝堀が構えられていた。絵図にも畝堀が表現されており、やはり江戸時代にも畝堀の存在が意識されていたことがわかる。ここでも最近発掘調査が実施され、堀の深さが3m以上もあったことが確認されている。天ヶ岳のこうした遺構配置から韮山築城当時から城が構えられていたのではなく、氏規により対秀吉戦を想定して新たに築かれたものと考えられる。 <歴史>韮山城は明応2年(1493)に伊勢宗瑞によって築かれたが、宗瑞の死後は豆州(口伊豆)と伊豆奥という二郡の支城として位置付けられた。そして郡代として笠原氏、清水氏が入れ置かれた。永禄12年(1579)から元亀元年(1570)には武田信玄が伊豆・駿河に侵攻し、韮山城は城下まで攻め込まれたている。甲相同盟により武田氏とはいったん和平が成立するものの天正7年(1979)に同盟が破綻すると、武田氏との抗争が激化し、天正8年(1580)には駿河湾で海戦があり、北条氏政は清水康英に韮山城を固く守るように命じている。天正13年(1585)頃よりは天下統一を目指す羽柴秀吉との戦いに備えて改修が進められ、天正17年(1589)には北条氏康の四男氏規が入れ置かれ、翌天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原攻めが開始され、韮山城は織田信雄以下4万4000の軍勢に包囲された。関東各地の北条方の城が落城するなかで韮山城は三ヵ月におよぶ籠城戦と戦うが、徳川家康の勧告により開城した。 <関連部将>伊勢宗瑞、北条氏規、内藤信成</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.02.10
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二俣城があるのは、天竜浜名湖鉄道二俣本町駅の近く、天竜川を見下ろす崖の上にある。二俣町の街並みから一段上がった道を行き天竜川の上流へ向かおうとするとすぐに二俣城跡の案内がある。城内に登ると広々とした曲輪跡に石垣の天守台があり、一段下がった場所に旭ケ丘神社がある。ここも城内と思われる。ここからは、天竜川が眼下に見える。この城は、徳川家康の長男が織田信長の命で、自害させられた場所だと思いながら見学した。<地図>二俣は、二股・二又とも書かれる。二俣川と天竜川が合流する地点ということで「ふたまた」と総称されるようになったという。二俣は、遠江の平野部と山間部との接点に位置し、信州から続く街道と、掛川・見付・浜松・浜名湖方面など遠江各地からの街道、さらに三河に延びる三州街道の交差点でもある。陸上交通だけでなく、北遠江山間部からの物資は、天竜川水系の水運を利用し、二俣が一大物資集散地であった。天竜川水系の支流の大部分は、二俣の鹿島以北の地で本流に合流しており、二俣ですべての水系近辺 の物資収集が可能なのである。二俣の地は、水陸の交通の要衝として軍事・経済の両面からの重要拠点であった。この二俣には、三ヵ所の城が所在し、史料に見える二俣城が正確にどの城を指しているのかわからない場合が多い。笠岡城(二俣古城)・城山(通常は、この地を二俣城と言う)・鳥羽山城(二俣川を挟んだ城山の対岸の丘陵)で、その距離は2キロでしかない。中世後期~近世初頭、この三ヵ所はすべて二俣郷、あるいは二俣の内であった。城の立地を描写している史料は、場所が特定できるが、「二俣の城」のみだと、その所在は判然としない。だが、笹岡城の発掘調査が実施されれたことにより、当初の城が笹岡にあり、永禄後半~元亀年間(1565~73頃)に城山へ移り、堀尾吉晴入封の天正18年(1590)には、二俣・鳥羽山が、一城別郭として機能を果たしていたことが、ほぼ確実な状況である。 <遺構>天正18年、徳川家康の関東移封にともない、豊臣大名の家臣堀尾吉晴が近江佐和山から、10万石(後に12万石)で入封。二俣城は、弟の宗光(氏光)に与えている。豊臣大名の入封によって、城は石垣・瓦葺建物(天守)をもつ近世城郭へと変化した。往時の状況ははっきりしないが、残存する石垣および近年実施された発掘調査で、本丸・二の丸・南の丸I蔵屋敷・西の丸で石垣が検出され、総石垣の城であった可能性が高まった。石垣は、積み直しを受けているものの、残存部は「野面積」の石垣で、石材は丘陵上で産出するチャートを主体とし、間詰石や裏込石には、周辺河川の円礫が使用されている。時代的には、文禄期(1593~96)の特徴を示し、堀尾時代として間違いない。瓦も天正後半から文禄期の特徴を示し、一部文様が判明する軒平瓦は、浜松城と同一文様である。堀尾氏は、同時に対岸の鳥羽山城も改修したと思われ、同様の石垣が残されている。城下町は、東側山麓の二俣川との間の低地に置かれたと考えられるが、面積が限られ、分散するような状況が推定される。関ヶ原合戦(1600)後に、堀尾氏が出雲に転封されると、浜松城主となった松平忠賴領となる。廃城年ははっきりしないが、徳川頼宣領となる慶長14年(1609)であろうか。城跡は、江戸期以来の開墾と近年の宅地開発で大きく姿を変えている。天守台の残る本丸(南に一段低く二の丸を配す)を中心に、北に堀切から続く竪堀を挟んで北の丸、その北下に現在道路となっているが、両側に竪堀を配す巨大な堀切の痕跡が残る。南側には、南の丸I(蔵屋敷)、IIと二曲輪が階段状に配置され、それぞれ堀切を配し独立する。西側には、小曲輪群が階段状に配され、西側と南側を石垣で囲まれた西の丸Iが中心曲輪と思われる。天竜川に面する最西端にも曲輪の存在が推定されるが、後世の改変が著しく現状では認識できない。本丸は、西側を除く三方に土塁が残る。外側はかってすべて石垣であった可能性が高い。本丸に残る野面積の独立した天守台は、北側に石段の通路と付櫓台状の小さな平場を持っており、天守台上に礎石は見られない。積直しは受けているものの位置と大きさはほぼ現況通りと思われ、天守は三重程度の規模が推定されよう。本来の大手口と考えられる二の丸東側の開口部は、南側の石垣は現況を保っているが、北側は完全に積直されている。また、そこに至るルートもすでに失われ、はっきりにない。発掘調査により、本丸と二の丸の間に食違いの石垣を配し、中仕切り門が配されていたことが判明した。また、搦手門と推定される北東隅も後世の改変によって、石垣が積直されている。平成30年(2018)に国の史跡に指定された。 <歴史>二俣城の初見史料は、建武5年(1338)正月の記事で、「遠江御家人内田致景が、代官内田西妙を二俣城に詰めさせたとして、某から承認を得た」というものである。内田氏は、守護今川範国の下で、北朝に属していた。次に、二俣城が史料に見えるのは、明応3~永正14年(1494~1517)におよんだ守護斯波氏と駿河守護今川氏親の遠江をめぐる抗争時のことになる。明応3年、氏親による遠江侵攻が開始されると、斯波義寛は広域的な反今川包囲網を形成し、信濃守護小笠原氏に援軍を要請している。文亀元年(1501)深志の小笠原貞朝が二俣城へと入城すると、社山城(磐田市)・座王城(袋井市)・天方城(森町)・馬伏塚城(袋井市)等で両勢力による戦いが展開する。永正年中(14年ヵ)犬居の天野明部少輔は、氏親から北遠山中の戦闘を讃えられ、水窪(浜松市)の奥山氏も永正14年の戦いに対し、恩賞を与えられており、北遠地域が今川支配下に入っていたことが知られる。翌年には、二俣城が今川氏の勢力下に入ることになる。今川氏の勢力下となった二俣城に誰が居たかははっきりしない。永禄2年(1559)今川氏真は、松井宗信に二俣等の知行分・代官職を安堵していることから、これ以前の段階で松井氏が二俣城に居たことは確実である。二俣城主となった宗信だが、桶狭間の戦い(1560)で討死してしまった。討死後に、今川氏真の側近三浦正俊は、その父貞宗に宗信の奮戦振りを褒め、御城(二俣城ヵ)の防御を命じているため、引き続き松井氏が城をおさめていたとして問題はあるまい。同年暮れには、宗信の息子宗恒が家督相続し、二俣城主となったようである。桶狭間の戦いによって、今川家の重臣の多くが討死したことで領国統治が機能せず、今川家から離反する動きが広がった。永禄4年(1561)には、松平元康が岡崎城に入り、公然と三河の今川方を攻撃し、西三河を制圧すると、東三河進出を開始する。氏真はこうした松平元康を中心にした反今川の動きを「三州錯乱」と呼んだほどである。永禄6年になると、遠江の家臣や国人衆にも混乱が広がり、井伊谷の井伊直親、引馬城主飯尾連竜、犬居城主天野景泰。元景父子などが離反する「遠州そう劇」と呼ばれる反今川の動きが活発化した。二俣城主の松井宗恒もこの動きに加担している。遠州そう劇は、氏真の反転攻撃によって鎮圧され、宗恒は所領を没収されたようである。永禄7年には、氏真が二俣領において禁制を発しており、さらに光明寺の寺領および別当職を安堵するな二俣周辺が今川支配下であったことが判明する。永禄8年、徳川家康の力が急速に三河全域におよび、東三河最大の今川方の拠点吉田城(愛知県豊橋市)が陥落した。氏真は、家康の侵攻に備え、永禄10年に西遠江諸城を一気に整備している。中尾生砦、頭陀寺城(共に浜松市)、吉美城(湖西市)などである。次いで、宇津山城(湖西市)、堀川城、堀江城、佐久城(いずれも浜松市)も整備された。記録にはないが、二俣城も三州錯乱前後に本格的整備が開始され、この頃、軍事機能に優れた天険の現在地へと移された可能性が高い。天竜川と二俣川に囲まれ、尾根続きを除けば段丘崖面で守られた地は、理想的な城地の条件を備えている。なお、二俣城からは鳥羽山が視界を遮り、浜松方面が望めないため、鳥羽山の地にも出城もしくは支城を構築したことが出土遺物から推定される。新城に入ったのは、吉田城から駿府へ帰った鵜殿氏長である。この頃、二俣籠城時の兵員の数、兵糧米等が決められていたことが、「徳川家康起請文写」から判明するのは重要であろう。永禄11年、武田信玄と徳川家康は東西から今川領内へと侵攻した。家康は、事前の調略もあり瞬く間に西遠江の要衝引馬城(浜松市)へと入城を果たしている。二俣城の鵜殿氏長も許には、一族の鵜殿休庵を派遣し、氏長や城兵を説得して開城させ、そのまま城の防備を命じ、所領を安堵した。元亀年間(1570~73)に入ると武田信玄が、北遠江・奥三河の国人領主層に調略の手を伸す。これにより奥三河山岳地帯に勢力を張る「山家三方衆」や北遠地方の奥山氏・天野氏が武田方に降ったと思われる。危機感を募らせた家康は、遠江平野部と山岳地帯、三河からの街道が接続する要衝二俣城の戦力補強を実施する。譜代の中根正照・青木又四郎・松平康安等を城に入れ防備を固めたのである。元亀3年、武田信玄は駿府から大井川を越え、相良方面から髙天神城を攻め、見付に出て北上し二俣城を取り囲んだ。武田軍は、二筋の河川に挟まれた要害地形の城に対し、力攻めを避け、水の手を断つ戦法をとったとされる。籠城一ヵ月ほどたった11月晦日、武田軍に天竜川から水を汲み上げる釣瓶縄も 切られ、やむなく降伏・開城している。信玄は、直後に城の改修を実施し、遠江の拠点とした。この後、三方原合戦、野田城め攻め、信玄の死と続くことは周知のとおりである。武田軍が二俣城を確保したことは、家康にとってきわめて重大なことであった。なぜなら、当時小(古)天竜で二俣と浜松は結ばれていたためである。二俣城下で船に乗ると、浜松城近くに着くことが出来たため、家康は喉元に刃を突きつけられた状態になり、完全に行動を制限されることになったのである。武田氏が二俣城の城将を誰にしたかははっきりしない。在番衆として依田信蕃、深山宗三が居たことは判明する。家康は、二俣城奪還に向け社山・合代島・渡ヶ島に砦を築いたとされる。さらに天正2年(1574)二俣城を孤立させるため、犬居攻めを敢行するが失敗してしまう。天正3年、両氏存亡に関わる長篠合戦が勃発。勝利した家康は、直ちに北遠地域の武田方諸城の攻略に取り掛かる。二俣城の四方には、毘沙門堂。鳥羽山・蜷原・渡ヶ島の砦を築き完全に包囲した。その上で、光明・犬居両城を陥落させ、城を孤立無援の状況に置いた。同年末、籠城7ヵ月の末、武田方は遂に徳川軍に城を明け渡した。家康は、大久保忠世に城を与えることになる。 <関連部将>徳川氏、武田氏、堀尾氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.02.03
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天方城があるのは、森町城下町の東側の丘陵である。今は、公園になっており、駐車場から登ってゆくと空堀などの城の遺構も残されており、広い平場の曲輪跡には、立派な石碑が立っている。城内はよく整備され、躑躅なども植えられており、ここからの眺望が抜群である。<地図>従来、森町向天方城ヶ平に位置する城が天方城とされていたが、平成4年(1992)に「高坂昌信縄・遠州天方古城」絵図が、尊経閣文庫で発見され、城跡と確認された。それにより、森町大鳥居に位置する本城山が絵図の古城と判明した。さらに近辺の城下には城藪(別称、城屋敷)と呼ばれる場所が残り、その背後の山上にも天方氏との関連が指摘される山城の白山城が位置する。こうしたことにより大鳥居の古城を「天方本城」、城ヶ平の城を「天方新城」と呼んでいる。新城は、太田川の東岸に位置する城山(比高約250m)の山頂を中心に築かれた二曲輪のみの小規模は城でしかない。だが、城からの眺望は開け、社山城(磐田市)をはじめ遠州一円が望まれ、遠く遠州灘や南アルプスも眺められる。この眺望のよさが、ここに城を築いた最大の理由であろう。 <遺構>城は、主郭と副郭(二の曲輪)のみの単純な構造であるが、副郭前面の駐車場が尾根頂部に続く平坦地であるため、ここにもなんらかの施設なり曲輪が造られていた可能性は捨てきれない。主郭は崖に面した東端に築かれ、東側を除く三方に土塁と横堀が巡っている。主郭は、東西約100mx南北80mほどの長方形を呈す曲輪で、曲輪内は平坦部も残るが自然地形の状態と思われる個所も多い。土塁は、横堀を挟んで内外に盛られ、その高さ約1.5m、堀の深さは約4.5、堀幅約8~10mである。通常、堀を掘った残土は、 内側に盛って土塁とするが、本城では内側と外側に盛る極めて特殊なケースなっている。現状で、虎口は、三ヵ所に見られるが、西側土橋のみ往時の遺構(搦手口)で、他の二ヵ所は後世の改変と思われる。「越前史料天方文書」によれば、大手道は、東側斜面端部から直線で登り、直接主郭中央部へと取付くように描かれている。絵図では、搦手口は土橋ではなく、木橋となっているのは興味深い。福郭(二の曲輪)主郭西側前面に設けられていたと思われるが、駐車場造成によって、ほぼ中央部が破壊を受けている。それでも左右に横堀が残り、往時は横堀に囲まれた曲輪であったことが判明する。その規模は東西約80mx南北約30mほどの長方形を呈し、前面に幅約8~10mほどの空堀が巡っている。通常なら、馬出的機能を持つ曲輪と考えられるが、内側に土塁が見られるとともに、自然地形の部分も残り、何とも判断ができない。二曲輪のみの小規模な城にも関わらず、主郭は極めて広い。内外に積まれた土塁といい、居住施設というよりむしろ駐屯施設、あるいは保管施設が建ち並ぶ空間のように思える。大手道もまた、直接背後の斜面からいる構造で、軍事的側面が希薄のような印象を受けてしまう。横堀を二重に廻らすことから、永禄後半から天正期の築城と推定され、元亀3年の武田氏による支配以降の改修の可能性が高いが、居城としての使用は認めがたい。むしろ、陣城的な使われ方とするのが妥当であろう。現在、山頂斜面に展望台が整備され、眺望は抜群である。山頂駐車場までの道幅はs膜、通行には十分な注意を要する <歴史>備後国を本拠とする首藤山内氏は、弘安4年(1281)飯田荘上郷の地頭職を任じられた。応永年間(1394~1428)、山内道弘・通秀の頃に遠江に赴き、天方本城を築き、天方氏を名乗ったとされる。築城者は、道美とも言われるが定かではない。首藤山内氏から分かれた天方氏は、天方九ヵ村を支配し南周南一帯に勢力を伸すことになる。明応3年(1494)、今川氏親は、叔父である伊勢宗瑞(北条早雲)の協力を得、駿河国を掌握すると、中遠の原氏討伐の軍を起こす。伊勢宗瑞を大将とする今川軍は、中遠三郡(現在の掛川市・磐井市・森町周辺)を席巻、天方城主であった山内通秀も、その勢いに押され、今川氏に従うことになる。文亀元年(1501)、遠江守護斯波氏は、深志(松本)の小笠原氏の協力を得、今川氏に対抗した。斯波、小笠原連合軍は、天方城を落し、久野氏の本拠座王城(袋井市)を攻撃、だが今川方の援軍により逆に撃退されてしまう。久野氏は、本間宗季などと協力し、天方城奪還に成功した。今川方に身を寄せていた通季は、ふたたび天方城へ入るが、手薄な本城の守りを固めるために南側に出城として白山城を築くことになる。永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で敗死すると、遠江の今川家臣団や国人衆にも混乱がひろがり、引馬城主・飯尾連竜、犬居城主天野景泰・元泰父子などが離反する「遠州そう劇」と呼ばれる反今川の動きが活発化した。通季の孫通興は、この頃より堅固な城を求めて天方新城を築いたと考えらている。永禄12年、徳川家康が遠江へと侵攻、多くの国人領主が徳川方へ寝返った。だが、通興は最後まで今川方となっていたため、徳川軍の攻撃を受けてしまう。防戦するもおよばず軍門に下り、石川数正を奏者として家康に謁見したという。元亀3年(1573)、武田信玄は駿府から大井川を越え、相良方面から髙天神城を攻め、久野城(袋井市)を攻撃、そのまま見付に出て北上し二俣城を取り囲んだ。また、各和城、飯田城、天方城などを攻撃し落城させてもいる。天方城主通興は、数万の武田勢の大軍を前に、一戦も交えることなく城を出て徳川方に身を寄せた。武田方となった天方城には、武田侵攻に際し武田方に走った久野氏の一族久野弾正が周辺諸士とともに入城している。この後武田軍は、城を改修し駐屯基地および物資中継地として利用したことが推定される。天正元年(1573)、前年の三方原合戦で敗れた家康であったが、武田信玄の死を確信し、森から袋井周辺の失地回復の軍事行動を起こした。天方城でも激しい攻防戦を展開、城に籠っていた久野弾正はたまらず夜陰に紛れて逃走、城はふたたび徳川の手に戻ったのである。家康は、その合戦で各和城(掛川市)、一宮城(片瀬城)、向笠城(磐田市) を奪還する。翌年、徳川軍は第一次犬居攻めを敢行する。大久保忠世の命を受けた通興は、森から犬居に向かう徳川軍の案内役を務めた。「三河物語」によれば、気田川の洪水に阻まれたうえ、兵糧も尽きたため退却することになったが、天野氏の追撃を受け、天方城まで敗走したとある。その後、大久保忠世に属した通興は、家康の戦いに参加し、数々の武功を挙げることになるが、天方城の廃城ははっきりしない。 <関連部将>天方氏、武田氏、徳川氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.01.27
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深沢城は武田信玄が北条綱成の籠る城に放った「深沢城矢文」が有名である。城跡の入り口には立派な城の石碑があり、三ケ月堀や曲輪跡、抜川側の深い崖などの城の遺構を見ることができる。珍しいことに、城域が畑や水田になっている。<地図>静岡県の北東部、駿河・甲斐・相模の三国の境界地域に位置する御殿場市・小山町・裾野市は、平安時代に伊勢神宮の荘園「大沼鮎沢御厨」となり、その名残りで現在も人々は親しみを込めて「御厨」という地域名を使っている。深沢城は、御厨の地でも東側、箱根外輪山の西麓の「深沢」にあり、近世以降は足柄街道や矢倉沢通と呼ばれた中世以前の足柄峠超えの東海道に面して立地する。足柄峠を控え、甲斐と相模を結ぶ鎌倉往還と中世以前の東海道が合流する交通路の要所「竹之下」は、深沢城の東方約2.5キロに位置する。深沢城は、御厨の中心から東寄りに外れているが、三国の境界地域である御厨を見渡し、東海道や鎌倉往還を押えるうえで重要な場所に築かれた城である。 <遺構>深沢城は、鮎沢川の支流である馬伏川(旧呼称は抜川)と抜川(旧呼称は宮沢川)が蛇行して合流する要害の地に築かれた平山城であり、北から第I郭、第II郭、第III郭が連なり、第III郭の東側には第IV郭の存在が想定される。基本となる城域は、第II郭を主郭とし、北・東は馬出aまで、南・西は第III郭および付随する馬出dまでの範囲であったと想定される。城内は意外にも平坦であり、第II郭以外は馬伏川・抜川の対岸と標高が同じかむしろ低い。樹木に覆われていない第I郭を対岸の馬伏川左岸から見ると、城内が丸見えになりかねない状態であることが良く分かる。高さについて弱点を持つ深沢城であるが、深沢の地名が示すように御厨の地を深く削って流れる馬伏川と抜川の両河川が天然の堀となり、城の防御力を高かめている。深沢城の地盤は、約2900年前に発生した富士山の山体崩壊(御殿場岩屑なだれ)およびその後に発生した御殿場泥流と、おおむね2000年前以降の富士山噴火で堆積したスコリア(噴出物)や火山灰からなる。固結した御殿場泥流層は現代の重機を用いても掘削に苦労する固く締まった層であり、軽自動車大の転石が混じることもある。このような泥流層を掘り込んで作られた堀の工事は、相当の困難がともなったものと思われる。第I郭は、第II郭との間を1~3号堀によって厳重に隔てられているが、馬出aを介して第II郭と接続している。浅野文庫蔵「諸国古城之図」駿河深沢においても、二本の川とその合流点に挟まれた平場として表現されているだけであり、常用の曲輪ではなかったと考えられる。馬伏川と抜川の合流点に挟まれた長辺約240m、短辺約90mを図る城内最大規模の曲輪であり、戦いに際しては将兵を駐屯させたと考えられる。なお、馬伏川と抜川の合流点の北側には、台山と呼ばれる小高い場所があり、この曲輪から橋をかけていたとの伝承がある。第II郭は、城内においてもっとも標高の高い曲輪であり、深沢城の主郭である。長辺やく130m、短片やく70mを測る南隅の欠けた長方形であり、欠けた部分には、4~6号堀に囲まれた馬出bが作られている。「諸国古城之図」では、曲輪の外縁を巡る土塁が表現されているが、土塁が残るのは馬出bに面した曲輪の南側のみで、ここが城内において明確な土塁が残る唯一の場所である。この曲輪では、御殿場市教育委員会が実施した試掘調査で、米と思われる炭化物の塊 や貿易陶器、カワラケなどが発見された。また、「諸国古城之図」において「ヤクラ」と記載されている辺りでは、試掘調査の結果、扁平な石が二列に並んだ石列と礎石の可能性がある石が発見され、何らかの建物にともなう遺構と想定される。第III郭との間は幅約15mの4号堀によって遮断されているが、馬出bを介して第IIIと接続している。北条綱成が最後まで立て籠もった曲輪はこの曲輪 であろう。第III曲輪は長辺約100m、短辺約70mを図る、深沢城の正面に当たる曲輪である。曲輪の外側は、南東から南西にかけて は屈曲する幅約10mの8号堀、北から西にかけては屈曲する幅約10mの10号堀が巡り、二つの堀は曲輪の西側で互い違いに重なり、食違い虎口を形成している。食違い虎口の前面に設けられているのが馬出dであり、その前面を防御するのが、武田流築城技術として紹介されてきた丸馬出と三日月堀である。また、曲輪の南東側には8号堀に隔てられて馬出cが設けられている。市教育委員会の試掘調査であh、曲輪と馬出cの間の8号堀および馬出dの東側に回り込んでいる10号堀で御殿場泥流層を補掘り込んだ断面V字形の薬研堀が見つかり、土層の堆積から元の曲輪の外縁に存在した土塁を廃城後に掘り崩して堀へ土砂を流し込み、堀底を平坦に埋め立てた事が判明した。また、8号堀では宝永4年(1707)の富士山宝永噴火で噴出したスコリアが埋められた堀に水平に積もった様子が確認されている。さらに、9号堀も御殿場出泥流層を掘り込んだ断面Vじ形の薬研堀であり、なおかつ畝条に掘り残した部分であることが判明し、堀底畝状の仕切りを設けた二重三日月堀であった可能性がある。かっては、武田氏の築城術を色濃く残す城として評価されてきたが、研究者からは徳川氏による大規模な改修が行われた可能性も指摘されており、先に触れた築城時期の問題とともに、近年、ふたたび再評価がなされる話題の城となりつつある。 <歴史>江戸時代の地誌では今川氏の築城とされるが、確固たる証拠はない。黒田基樹が指摘しているように、北条氏政関係の史料には永禄12年(1569)に「深沢と号す新地」という記述が見られることから、同年に後北条氏が築城した可能性が高い。以後、三国の境界地域にあって足柄峠越えの東海道や鎌倉往還を押える境目の城として、武田氏との間で攻防を繰り返した。元亀2年(1571)正月には、大軍で包囲する武田信玄を相手に城主北条綱成は寡兵で善戦するが、金山衆を投入して城の堀り崩しにかかった武田信玄に曲輪一つを残すまで攻め込まれ、最後は世に有名な「深沢城矢文」を受けて開城した。大河ドラマ「真田丸」でも知られる真田家に伝世する「地黄八幡の旗印」は、北条綱成が撤退に残した旗印を手にいれた武田信玄が「綱成の武勇にあやかれ」と深沢城攻めに従軍した真田家に与えたものだという。これ以後、御厨における後北条氏の最前線は、駿相国境の足柄峠を取り込んだ足柄城まで後退し、深沢城は天正10年(1582)の武田氏滅亡まで後北条氏と対峙する最前線となった。天正12年(1582)に武田家が滅亡すると深沢城を守備していた駒井昌直は城に火をかけて退去したと伝わる。天正12年(1584)には小田原への備えとして、徳川氏は三宅康貞に深沢城を守備させた。天正18年(1590)の後北条氏滅亡により境目の城としての役目を終えて廃城となり、その後は城や御殿として再利用されることはなかった。 <関連部将>北条綱成、駒井昌直、三宅康貞</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.01.20
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小山城には、横須賀城にいった帰りにいった。能満寺の参道から能満寺(ここも城の一部だったらしい)へ行き、今は能満寺公園になっている小山城を見学した。公園内には城の建物を復元した展望台があり、そこからは駿河湾まで展望できる。また城の前には虎口や空堀、井戸跡、門などの城の遺構がみられる。確か、今川領に攻め込んだ武田氏が勝頼の時代に、徳川氏に高天神城を攻略されたときに、この城まで退却することが史料にあった。<地図>全国有数の茶の産地として知られる牧之原台地、この末端は大井川下流域から駿河湾沿いの平野部に向かって複雑な小尾根に分かれていく。このうち、大井川以東の志太平野一円を望むことができるもっとも南東側の小尾根のひとつである「能満山」に小山城は築かれている。この場所は大井川流域とその対岸だけでなく、駿河湾まで遠望できる交通の監視に適した場所でもある。<遺構>小山城は主郭と副郭の二つの主要な曲輪と山麓の能満寺曲輪で構成されており、現在主郭には能満寺公園が、副郭には小山城展望台が設けられている。これらの曲輪は、旧地形が改変されているところが多いものの、ところどころに特徴的な遺構を残している。主郭は南北最大75m、東西80m程で、尾根の先端を占める三角形状の形状となる。周囲には土塁が築かれていたとみられるが、南側に微弱な痕跡が確認されるほかは不明瞭となっている。主郭の南側斜面にある虚空蔵尊が祀られる平場とその東側に連続する 平場は曲輪の可能性があり、山裾に設けられた能満寺曲輪と主郭の間を緩衝する機能をうかがわせる。一方、主郭の西側は丘陵から主郭を切り取るように直線状の横堀が南北方向に設けられており、その南端は虚空蔵尊が祀られる平場の西端で斜面側に竪堀となって落ちている。浅野文庫所蔵の「諸国古城之図」では、この横堀の中央部外側には丸馬出が描かれているが発掘調査では明かでない。現地に表示されている丸馬出も、絵図による再現といわれる。主郭の西側に続く副郭の西端には、主郭西縁の横堀に平行した横堀が さらに設けられている。その南端部は斜面に沿って東側に屈曲し、この南西外側に掘られた堀と連結して南側斜面にすり付いている。「諸国古城之図」ではこれらの堀は連結せず平行に東側へ延びることになっているが、現況地形は急斜面で確認できない。横堀の北端は尾根を狭める幅広の谷部に取付いている。この谷部は現在駐車場に改変され、旧地形が把握しづらいが、駐車場北側に幅10m、深さ6m程の堀の一部と認められる部分がある。横堀は、谷部の上端に沿って延伸されていたか、谷部の上端を切岸にしながらその先にある小尾根を遮断していたものと想定される。副郭の外側は、尾根の基部に向かって緩やかに登っていく平坦な地形が続いている。この地形は「諏訪原ノ方野ツヅキ城ノ地形ト同」と諏訪原城に近似していることが指摘されているが、この巨大な横堀を設ける構造も諏訪原城に通じるものがある。この巨大な横堀は三条で構成され、総幅は約35m、外法は高さ7~8mのほぼ垂直の崖となる。この内側二条はその間を天端幅1m程の土塁を設けて区切りながら平行して円弧機能を有していることになる。さらにもっとも外側の一条は、南端の丘陵縁辺に設けられた二条の堀切とともに連続する馬出を構成しており、小長谷城の崖際に馬出を重ねて設ける構造と近似している。一方、南麓にある能満寺の境内付近には、周囲を土塁で囲み南側に虎口を備えた曲輪の存在が記されている。現在の能満寺周辺に遺構は確認できないが、山裾の微高地と周囲に広がる低湿地という微妙な地形の差を活かしたものであったろう。<歴史>永禄11年(1568)12月、武田信玄と徳川家康は呼応して今川領に侵攻した。信玄は今川家臣団の調略が功を奏して、ほとんど戦闘もなく駿河を落とすことができたが、今川氏と同盟関係にあった北条氏政が、翌月には早くも今川救援に動いて富士川西岸に本陣を置き、駿府の信玄を背後から脅かすようになった。退路を断たれることを恐れた信玄は山西(駿府から西に山を隔てた現在の焼津市・藤枝市付近)に侵入することなく、久能城と横山城に兵を籠らせて翌年4月末に甲斐へいったん引き上げている。大勢を立て直した信玄は、北条領国へのけん制を繰り返しながら駿府に侵攻し、12月6日に蒲原城を落城させ、13日に再び駿府に至った。そして永禄13年(元亀元年)正月にいよいよ山西攻めに取り掛かり、今川家の遺臣が籠る花沢城(現焼津市)を攻め落し、德一色城 (現藤枝市)も接収して大井川東岸域の制圧を完了している。信玄と家康による今川領の分割は、大井川が境であったといわれる。家康は、永禄12年5月初旬に今川氏真が籠る掛川城を開城させ、遠江国の今川勢力を排除することに成功している。大井川の東岸に武田 勢があらわれ対峙するまでの半年ほどの間で、家康は今川氏から接収した諸城を改築するとともに、大井川東岸を監視できる施設の整備を進めていたとみられる。両者が大井川を境に対峙して2年余りをへた元亀3年、信玄は大井川西岸域への進入を企画したようである。武田氏は、東海道筋とともに駿河湾沿いの交通路を確保することで東遠江へ至る兵站を確実にし、以後の地域支配を優位に運ぼうと計らったのであろう。天正3年8月、家康に諏訪原城を奪われた東海道筋を通行できなくなった武田氏にとって、海岸沿いの迂回ルートこそが髙天神城に補給を行うことができる唯一の方法であった。このルート上にある小山城は、兵站基地として急速に重要度が増すことになる。家康は早速大井川を南下して小山城を包囲しているが、武田勝頼自らの出陣により諏訪原城に撤兵している。この後も天正7年11月まで、家康が髙天神城や田中城に攻勢をかけるたびに勝頼は駿河・遠江へ出陣し、家康をけん制しながら小山城を中継して髙天神城へ兵糧をいれ、兵員の交代・増強を行っている。天正3年末の髙天神城落城により、小山城はにわかに最前線としての緊張が高まっていく。しかし、同年6月に諏訪原城から志太平野に侵入した徳川勢により、持舟城・当目砦から出動した朝比奈信置の軍勢が撃破されたことにより、田中城や持舟城との間の補給、連絡も不自由となり、小山城は次第に孤立していったとみられる。そして天正10年2月16日、武田領国各所での戦線の崩壊にともない。軍勢が退去して自落したといわれる。東進する徳川勢は持舟城への攻撃を2月21日に開始し、29日には朝比奈信置が開城し久能城に退いている。さらに3月1日には江尻城の穴山信君が降伏し、駿河国の武田勢の抵抗は終焉を迎えることとなった。さて、武田氏が退去した後の小山城がどのように扱われたかは、定かでない。武田氏が兵站基地として重要視していたとおり、周囲の拠点となる城との中継点としては便利な場所にある。諏訪原城や小長谷城に近似する遺構が残されていることからも、家康の改修を受けて使用されていたものと考えたい。 <関連部将>岡部長教ほか</関連部将><出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.01.13
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勝間田城に行くには、駿河湾にそそぐ勝田川沿いのR233を北上していき西側のお茶畑の奥へ進む。城の登り口にも案内があり、お茶畑の先の樹木地帯に発掘調査され、整備された城の遺構を見ることができる。中心部の曲輪あとの奥の方にも曲輪跡があり、かなり規模の大きな城だったようである。<地図>勝間田城は勝田氏(勝間田氏)の本拠であった勝田荘の中心、勝間田川に沿った勝間田の谷のもっとも奥まった場所に所在する。牧之原台地から派生する丘陵の中腹に立地し、本拠の中枢部となる勝間田の谷を見下ろす場所にあることから、本拠の防衛拠点となる要害として築かれたことがわかる。15世紀中頃から遠江における勝間田氏の活動が活発になっているが、勝間田の谷の周辺にはこの時期に創建あるいは中興となる寺院なども多いことから、それは本拠周辺においてもうかがうことができる。城の築城年代に ついては正確な記録がないため明かではないが、発掘調査による出土遺物が15世紀中葉~後葉の時期にほぼまとまることから、15世紀中葉頃に築城された可能性が高い。また、勝間田川中流域の中地区には、やはり勝田氏が築城したとされる穴ヶ谷城(中村城)なども残り、本拠防衛のための諸施設が整備されていったものと考えられる。勝間田城築城をはじめとする本拠防衛体制の整備は、勝間田氏の本拠周辺での活動開始時期と密接に関連するものと考えられる。 <遺構>城は牧之原台地から降下しながら派生する丘陵上を階段状に削平し、本曲輪を尾根筋に連ねて配置するいわゆる連郭式の山城である。勝間田川流域を東側眼下に見る一方で、西側は牧之原台地上から見下ろされる場所にあり、立地としては南東の本拠を望むという位置関係がより重視されている。本曲輪は城内最高所の尾根上にある、南北やく30m、東西約18mの小規模な曲輪で、西側には厚い土塁を備えている。本曲輪から続く尾根筋には北東に北尾根曲輪、南西に南曲輪、東に東尾根曲輪などの曲輪が配置される。 本曲輪の南西側尾根には南曲輪を挟んで四条の堀切はあり、また東尾根曲輪先端の尾根に五重の堀切が設けられている。多重堀切によって本曲輪周辺城の防備を固めていつ様子ががうかがえる。東尾根曲輪の東側の五重堀切は、東尾根曲輪側の堀切が幅5mを超えるるとともに周辺の城では類を見ない多重堀切であり、城内屈指の見どころともいえる。北尾根曲輪IIと二の曲輪の間となる、城のほぼ中央には城を南北に分断するかのように幅約10mの大堀切が設けられ、その北側には二の曲輪、三の曲輪が配置される。 二の曲輪は東西約70m、南北約30mの規模を持つ不整形な曲輪で、南東部を除く周囲は土塁で囲まれている。三の曲輪は東西約70m、南北約35mの不整形な曲輪で、北西側に南北約10m、東西約25mの南三の曲輪をもとない、三の曲輪、西三の曲輪ともに土塁が巡っている。いずれも広大な面積を有し、建物等の施設が確認されたことから、居住空間として使用がなされたものである。三の曲輪北東の尾根筋には出曲輪とされる小曲輪が配置されている。現在みられる遺構からは登城道および虎口は明かでなく、三の曲輪と西三の曲輪の間にある現道部分に虎口の存在が想定されるものの、戦国期後半にみられるような技巧的な虎口を現況では確認することができない。本曲輪周辺が比較的小規模な曲輪で構成されるのに対し、大堀切を隔てた北側の二の曲輪・三の曲輪周辺は土塁囲みの広大な曲輪が配される点で城内の構造に相違がみられる特徴がある。<歴史>勝田(勝間田)氏は「保元物語」にも遠江の武士団としてその名が見えるように、同族である横地氏と並んで平安時代末期から活躍が知られる一族である。遠江くに勝田荘を名字の地として本拠を構えていたとされ、鎌倉幕府成立期には、源氏方の安田義定に従って平氏迎撃の軍に参じ、また源頼朝の上京に従った武士団にも数えられる御家人として活躍したことが「吾妻鏡」にも記されている。室町時代には奉公衆として将軍に仕えた一族であった。奉公衆とは御番衆とも呼ばれた将軍直属の家来衆である。六代将軍義教 に仕える奉公衆を記した「永享以来御番帳」には一番に勝田左将監、勝田兵庫助、四番に勝田能登入道、勝田弥五郎などの名が見え、また八代義政の代の「文安年中御番帳」にも同様な名がある。同族である横地太郎の名も記されており、勝田氏は横地氏らとともに幕府直轄軍の一翼を担うほどの武力を有していたことがうかがえるのである。寛正6年(1456)には、遠江守護斯波氏の被官であった狩野七郎右衛門尉が背いたため、守護代であった狩野加賀守と横地鶴寿、勝田修理亮がこれを討ち果たし、幕府から褒賞されている。本拠である遠江においても幕府の命によって武力行使がみられるように、この頃から遠江周辺での活発な活動をうかがうことができる。応仁・文明の乱は山名宗全と細川勝元を中心とした勢力が対立することで、将軍家や各地大名を巻き込んで複雑な対立関係が生じた動乱である。その影響は遠江地域にも及び、遠江守護斯波義廉は西軍方に、駿河守護今川義忠は東軍方に属して対立することになる。応永12年(1405)に斯波氏が遠江守護となる以前は今川氏が遠江守護であったことから、義忠は遠江の支配権奪還を渇望していたため、さらに激しいものとなっていった。文明6年(1474)、狩野加賀守を討ってその後を継いだ狩野宮内少輔を遠江府中見付城において討ち果たすなど、義忠は遠江進出に向けて着実にくさびを打ち込んでいった。文明7年(1475)、勝田氏は義忠に対抗すべく同族である横地氏とともに、かって狩野氏が館としていた見付城を拠点に挙兵する。勝田・横地両氏は遠江守護斯波氏の傘下にあったため、この挙兵には義忠の遠江進出に対抗した斯波義廉の意向がが強く働いたことは想像に難くない。勝田・横地両氏は今川方の一族衆である遠江今川氏の堀越陸奥守を小夜の中山(掛川市)付近の合戦で破るなど、優勢に戦況を進めていく。義忠は自ら出馬し、翌文明8年に見付城に籠る勝田・横地両氏を攻めて城を落としたため、勝田氏は本拠勝田荘に帰還し、要害である勝間田城に籠城するが、やがて今川義忠の大軍は勝間田城およびその城下に来攻し攻撃を開始する。勝田氏は奮戦するも今川方の猛攻によって勝間田城は落城してしまう。しかし、勝田・横地氏の残党はその後も抵抗を続け、塩買坂において義忠を討ち取ったため、今川氏の遠江進出作戦はいったん 中止となり、子の氏親に引き継がれることとなる。 <関連部将>勝田氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2024.01.06
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長久保城は国道や大型ショッピングセンターの建設により、城の遺構がほとんど残っていない。R246から高台となっている場所に城山神社公園があり、そこが城の中心部だったようだ。その南側に黄瀬川が湾曲して流れていて、城の防御となっていたと思われる。長久保城址碑は国道の反対側に立っているが、その奥には建物や長泉小学校などがあり、城跡らしい地形は無いようであった。歴史上にはよく出てくる城であるのに、城の遺構が改変されてしまっているのが残念である。<地図>長久保城は、南に黄瀬川、西南側は桃沢川とその支流の谷津川、そして東側には梅ノ木沢川による浸食崖に囲まれ、東西約600m、南北400mにもわたる広大な敷地を持つ。面積だけであれば、同じ東駿河の拠点である興国寺城や三枚橋城と同等か、より巨大な城郭ということになるが、国道246号線バイパスや周辺の市街地開発によって地表面積観察が可能な城郭遺構は、三の丸北端の土塁と堀、南曲輪の土塁のみとなっている。 <遺構>大規模な開発が実施される前に行われた沼館愛三による記録が残されていることから、長久保城の概要を把握することは可能である。なお曲輪の名称は沼館によるもので、ここではそれにしたがって記載する。現在ショッピングセンターとなっている「本丸」は黄瀬川の北側に位置する。川の蛇行沿いに本丸を配するのは、三枚橋城と同じ構造である。その規模は東西約100m、南北約80mで、その中で区画があり、「主郭」と「二ノ丸」に分かれ、「主郭」にた高さ8mの土塁がめぐり、「二ノ郭」へ向けては馬出が備わっていた。「二ノ丸」は、「本丸」の北側に位置し、ほぼ同規模の曲輪である。発掘調査では曲輪内において六棟以上にもおよぶ掘立柱建物の柱穴が検出され、さらに曲輪の西側と東側を区画する堀の底には約6m間隔で畝が見つかっている。堀からは出土遺物が報告されていないため、時期の特定は困難であるが、仮に北条氏の障子堀であったとするならば、永禄11年のころに比定できようか。そして最も標高が高い曲輪である「三ノ丸」は、その面積も城内最大で、北側に食違虎口を備える。この虎口の西側は小学校になっていて立ち入れないが、東側の土塁と堀は良好に残存しており、見学も可能である。そして本丸の西側、現在「城山神社」となっている「南郭」にも土塁が残っている。段上となっている曲輪内には遊具が備え付けられ、一ぶ破壊されているものの、土塁の高さは約5mを測り、これは沼館の観察時の高さと大差はない。「南郭」の北側には今は滅失した「八幡曲輪」があり、「八幡曲輪」西側の堀にも畝が伴う。さらにその西側には三日月堀が付くことで、丸馬出となっている。堀底からの出土遺物は報告されておらず、これもまた年代の決定はできないが、個別のパーツだけで判断すれば、障子堀の前面に三日月堀が付くという特異な馬出は類例のないものである。もちろんこれらが同時期であるかは検証が必要であるが、このよな遺構が検出されるということは、次々と支配者が変わるなか、戦国期を通じて城として機能した長久保城の歴史を物語っているといえよう。 <歴史>豊臣秀吉の小田原攻めに際し、箱根を越える豊臣の主要な軍勢は東駿河に一度終結した。先鋒は徳川家康で、家康は天正18年(1590)2月に駿府を出陣して、24日には長久保城に着陣、ここで秀吉の到着を待って、両者は小田原後略へ向けての軍議を行ったという。長久保城は興国寺城や三枚橋城と並び、東駿河の拠点城郭の一つであった。その築城時期は定かでないが、天文6年(1537)北条氏は今川氏と武田氏が同盟を結んだことから駿河へ侵攻、いわゆる「河東一乱」が起こったが、この際に北条氏綱は、駿河国 東半分を得て、長久保城を整備したと考えられている。なお、地元には氏綱の整備の前から前身の砦が存在したと伝わるが、国道246号線にともなう二の丸・八幡曲輪の発掘調査では、15世紀後半ごろの国産陶器の出土は希薄である一方、16世紀前半のものは一定量出土することが報告されている。このことからも、砦の存在は比定されるものではないが、本格的にこの地が利用され始めたのは16世紀前半頃と考えて差し支えない。さて築城からしばらくたった天文14年(1545)、東駿河を奪われていた今川義元は反撃を開始して長久保城へ攻撃を行った。城兵たちはよく耐えたようであるが当時武蔵国では河越城が上杉憲政らによって包囲されており、北条氏はこちらの救援のためにも東駿河を捨てることを選んだ。その結果、武田信玄を仲介にして長久保城は開城となり、今川氏はその領土を回復させて駿河国全域を再び治めることとなった。しかしその後、今川氏が衰退すると、武田氏が駿河に侵攻、これに乗じて永禄11年(1568)からは北条氏がまた長久保城を支配に置いて武田氏の侵攻に備えた。北条氏は長久保城だけでなく、興国寺城にも城将を配して、武田氏との攻防を繰り返したが、北条氏康の死去を契機とした甲相同盟が成立すると、駿河国は武田氏の領土となり、直接的な記録はないが、長久保城もこの時に武田氏の支配下に置かれたと考えられる。武田氏支配段階の様子は判然としないが、武田氏は北条氏の領土により近い沼津の地に三枚橋城を築き、さらに興国寺城をその抑えとしたため、長久保城の位置付けは相対的に低かった可能性も考えられる。しかし続く徳川氏の段階では、北条氏の伊豆の拠点である韮山城を抑えるためにも三枚橋城を修築し、さらに長久保城と興国寺城に牧野康成を配置したと史料が残されることから、この地域の支配は三枚橋城をを中心としながらもこの三城が連携して担ったと考えられる。これを裏付けるものとして徳川支配の末期の史料ではあるが、天正17年(1589)2月5日に発生した駿河湾の地震の被害について「家忠日記」には「するか川東興国寺、長久保、沼津城之へい(塀)、二かい門迄そんし候」と三城が並列に書き表わされているほか、翌年の秀吉による小田原合戦の際に作成された「小田原陣之時黄瀬川陣取図」にはこの三城が、豊臣方の城として描かれている。小田原合戦後には駿河国は秀吉の配下である中村一氏が治め、その弟である一栄が三枚橋城に入城してこの地の支配を担った。長久保城も中村の支配下に置かれていたはずであるが、その動向は明らかでない。そして三枚橋城が東駿河における政治経済の中心となっていくなか、長久保城は境目の城としての役割を終えたためか、慶長5年(1600)の関ヶ原の多胎ののちに廃城になったと伝わる。 <関連部将>北条氏、今川氏、武田氏、徳川氏、中村氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.12.30
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持船城へ行くには用宗港を目指すか、JR用宗駅へ行けばよい。城の名前から、水軍の拠点とされた城であろう。城へは登城口からミカン畑の道を登ってゆくと、平地に着く。そこは観音堂のあった場所で今は公園となっている。城の遺構は確認できないがそこからの展望がすばらしい。眼下には用宗の町と港があり、その先は駿河湾である。また、東北方向に富士山を見ることができる。<地図>持舟城の遺構は、南側山腹および山麓部分が東海道本線・新幹線工事やみかん畑の造成、近年の農道建設によって著しく破壊されている部分があるが、曲輪は大きく分けて北側と南側に二つの曲輪が存在している。北側の本曲輪は、南北25m、東西45mの広さを持ち、最近まで城山観音堂が存在したが現在は解体されて公園となっている。 <遺構>本曲輪は、平成20年度に静岡市によって発掘調査されているが曲輪の中心部分は後世による観音堂建設などの削平によるものであろうか、城の遺構は確認されなかった。曲輪周辺部においても土塁などの痕跡は確認できていない。北側には帯状の曲輪地形が確認できるがミカン畑により改変を受けてる。南側は現在ミカン畑となっていり、北側の曲輪より一段高く、階段状に曲輪を配置している。この二つの曲輪間は幅約16mの大きな堀切によって遮断されている。この堀切は現存する最大の堀切でこの底部分には井戸といわれている素堀りの縦穴遺構が存在しているが時代等詳細は不明である。南西側の小根山には、一条ないし二条の尾根遮断の堀切と小曲輪が存在したことが推定されているが、近年の農道建設により破壊されているため確認することができない。北側曲輪の東尾根および南曲輪の南尾根にはそれぞれ数段の曲輪が存在するがみかん畑による改変も大きいと考えられる。持舟城南側の大雲寺境内付近は「倉ヤシキ」といわれており、城に関係した施設が存在したと伝えられており、JR用宗駅構内付近が水軍の船溜まりだったとの考え方の存在する <歴史>持舟城は、静岡市西部に位置し、山西と呼ばれた志田平野地方との境にある大崩道および日本坂峠を押える重要拠点であることから、駿府防衛の重要な地点であり、今川氏入府後築城されたとの考えもあるが、詳細は不明である。永禄11年(1568)武田信玄が駿河へ進攻後この持舟城も西側の防御として築城されたと考えられる。長篠の戦い以後、家督を継いだ武田勝頼は穴山信君に駿河の支配を任せていたが、武田氏と北条氏が対立関係に至ったことにより、天正7年(1579)徳川家康は北条氏と同盟し持舟城を攻撃 した。この後は、朝比奈駿河守信置が在番として置かれている。天正10年にふたたび徳川勢の攻撃を受けて、ついに開城し、朝比奈信置は久能山城に退去し、当城は廃城になったとされている。持舟城は、静岡市の西南・石部山の先端部に位置し、駿河湾に面する標高75.5mの山上に立地している。山上からは、駿河湾や静岡平野が一望できる絶好の地となっている。江戸時代の古絵図によると北に沼地をひかえ、前面は海に接し、現用宗港付近は、深い入江となって、天然の良港を形づくる要害地となっていた。武田氏が 支配した時期にはこの地は武田水軍の拠点でもあったと考えられる。 <関連部将>今川氏、武田氏</関連部将><出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.12.23
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山中城のあるのは、箱根峠から国道1号線を三島に下る途中にある。後北条氏が小田原に攻めてくる秀吉軍を防御する城として整備した城であったが、秀吉軍の圧倒的な戦力に簡単に落ちてしまった。この城は、後北条氏独特の障子堀などの城作りの遺構を観察できる点でも貴重である。また城跡は、広大であるのによく整備されており、土造りの城の遺構を観察できる。<地図>静岡県と神奈川県の境にそびえる箱根山は、カルデラの形成と噴火の繰り返しによって複雑な山体が形成され、さらにその上には主に富士火山を起源とする降下火山灰による箱根西麓ローム層が厚く堆積している。山中城は箱根山西麓の南西方向に延びる尾根の標高約580mに位置する戦国時代末期の山城である。城の範囲は東西約500m、南北やく1000mと推定され、東側は来光川によって形成された比高差160mを測る急峻なV字谷に、西側は山田川によって複雑な谷地形が形成された要害の地になっている。<遺構>山中城は標高580mの本丸を中心に、そこから放射状に派生する三本の尾根上に曲輪を配置する城である。南西方向に延びる主尾根上に本丸、二の丸、元西櫓、西の丸、西櫓を階段状に配し、北西側の尾根には北の丸、ラオシバ曲輪、南側の尾根には三の丸、南櫓、さらに岱先出丸を配置している、山中城発掘調査の最大の成果は、北条氏が多用した、空堀の底に畝を障壁として掘り残す障子堀(堀障子)と呼ばれる堀の実態を明らかにしたことである。西櫓を廻る単列の障子堀は堀全体を10区画に区切っており、西の 丸西堀に見られる複数列の障子堀は中央の畝から両側に、互い違いの直角方向に延びている。障子堀一区画の大きさは、長さ8~9m、幅2m程度で、法面の傾斜は約55度になっている。ひとたびこの堀に落ちたなら、ローム質の滑りやすい土の壁を素手でよじ登ることはほぼ無理である。このように特徴的な堀を掘った土を版築状に積み上げた土塁は、高さ1.8m、法面勾配58度が一般的である。そして西櫓や本丸土塁の上面には直径約30cmの柱穴が等間隔に並んでおり、板塀あるいは柵の存在が推定できる。また土塁は敵の攻撃が予想される方向を正面にして、三方向を「コ」の字状に囲うのが基本である。堀と土塁によって独立した曲輪を連絡する橋は、土橋と木橋の二種類がある。西の丸と西櫓には堀の一部を掘り残した土橋が存在し、本丸北端と二の丸西堀では発掘調査結果から四本柱の木橋の存在が明らかになった。また「渡辺水庵覚書」には長さ10間余りの欄干橋があったことが記されているが、橋の位置や構造はよくわかってにない。遺物の出土は発掘調査面積に比較してきわめて少数である。このことは山中城が国境警備の城であり、臨戦時に限って人員が増強される軍事基地としての性格が強かったこと、あるいは敗戦による戦後処理が徹底的に行われたことを物語っている。西の丸や兵糧庫からは日常生活用品である中国産の陶磁器や瀬戸・美濃製品、初山や志戸呂など静岡県在地製品が出土している。いっぽう、西櫓や出丸からは刀や槍、火縄銃や甲冑の部品等の武器、武具類の出土が多くなる傾向が見られ、曲輪の利用形態が異なることを示している。また土塁上や堀底からは多数の角礫や鉄砲玉、少数の大筒玉が出土しており、原始的な投石から最新の鉄砲までを利用した戦闘形態を垣間見ることができる。 <歴史>山中城の築城年代は明らかになっていないが、永禄12年(1569)7月2日付の「信玄書状」に武田信玄の軍勢が山中城と韮山城を攻撃した記載があることから、この頃には城としての体裁を整えていたものと考えられている。おそらく築城時期は、駿河、甲斐、相模の三国同盟が崩壊して軍事的な緊張が高まった永禄10年(1567)頃で、小田原城の西方向防衛の拠点となる境目の城、あるいは韮山城、足柄城などと連携する繋ぎの城として築城されたものと考えられている。また街道を城内に取り込んでいる事から関所としての機能をもっていたことと理解されている。その後、元亀2年(1571)にいわゆる「相甲一和」が成立すると軍事的な価値は一時的に低下するが、豊臣秀吉の小田原攻めに際しては、北条氏の西方向防御の要の城として再び脚光を浴びることになる。戦に先立つ天正15年(1587)11月には山中城に守将の松田康長を配置して桑原(静岡県函南町)の百姓に山中城の普請を命じている。さらに天正17年(1589)11月24日に秀吉から北条氏直に宣戦布告がなされると、12月7日には武具調達の陣触れを領内に発し、城の南西に岱崎出丸の増築を開始した。しかし出丸の完成を見ることなく翌天正18年(1590)3月29日の寅の刻に開戦となった。豊臣秀次、徳川家康など総勢6万7000人とも言われる豊臣軍の圧倒的な兵力による力攻めの前に、山中城を守る松田康長以下約4000人の北条軍は抗するべくもなく午の刻には落城し、以後廃城となっている。激しい攻防戦の模様は、中村一氏の配下で一番乗りの働きをした渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」に詳しく記されているが、眺めの良い山中城から、守備側をはるかに上回る敵兵を見下ろした城兵の心境はいかばかりであっただろう。 <関連部将>北条氏(落城時の大将、北条氏勝)</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.12.16
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三岳城へは浜名湖方面から井伊谷に向かい、さらに山奥に進む。登り口には新しい石碑があり、石段を登ってゆくと三岳神社に着く。城はさらに山の中に頂上を目指す。樹木の中に城の遺構があり、説明板も設置されており、山の頂上の平地が城の中心部で、南に浜名湖を望み、すぐ北側の地下には新東名高速道路が通っている。<地図>井伊谷を東北方面から望む一際高く聳える山、標高466.8mの三岳山の山頂部に、三岳城は展開する。西側の山頂部には主郭を構え、東側に続く山をも城域とし、実に広い空間に城館が構えられている。主郭の西側および東側の山の東北方向のそれぞれに横堀・堀切が普請され、城域が画されている。主たる尾根筋が西側および東北方向に伸びていることもあるが、その方向からの侵入を警戒する構造になっている。山頂からの景色は抜群で浜名湖を見渡すことができ、南北朝初頭に三岳城に籠城した宗良親王が「李花和歌集」に、「はまなの橋かすみわたりて、橋本の松原湊のなみかけてはるくとみわたさるゝあした夕のけしき」と遠く橋本の松原までの風景を読み込んだ場所は、まさにこの地と実感できる。眼前には三方ヶ原も広がる。また井伊攻めに参戦した松井助宗が「遠江くに井伊城前の三片原の御合戦において」という空間認識を軍忠状に書き記したのも、山頂よりの景観が納得させてくれる。まさに風光明媚の地である。 <遺構>現存する遺構のなかで、先に除かれると指摘した一部の遺構とは、山頂西側の横堀付近である。まず注目すべきは横堀の規模の大きさである。そして随所に岩盤を切った壁・竪堀さらには石垣を見ることができる。石垣は粗割で野面積という戦国期らしい 石垣であるが、一部には登り石垣を思わせる遺構もあり、精査が期待される遺構である。また岩盤の穿った竪堀は他にあまり例をみることのできないほどの貴重な事例である。普請に際して多くの石工が投入された事は確実である。この付近の遺構は、石工の動員に始まり、普請にかかわる土木量が多く、遺構の規模の大きさや投入された労働力の差が顕著である。城館に石工が投入されるのは戦国期以降のあり方でもあり、少なくとも南北朝時代の遺構ではありえない。戦国時代以降の改修であることは間違いない。この横堀と石垣を中心とした主郭西側の遺構は三岳城のなかでも一番の見どころである。さらにこの西側の横堀と対をなす東側の山の東北隅に堀切が普請されていることにも注意を払いたい。さきにも述べたとおり、城の東西に堀を普請し、城域を画すという設計が 三岳城の基本的な構造であり、石垣の有無は存在するものの、両者の遺構はおおよそ同時期に設計されたと考えられる。南北朝期に先行する城館があったことを考えれば、山頂を中心としたであろう山城の構造から、東西の堀切で区画された構造へと城館が改修されたと考えたい。あるいは東西に堀を普請する段階、そして西側のみに石垣を普請する段階の二段階を考える必要があるかもしれない。この点の検証については、考古学的検証を必要とするものであり、後の課題として指摘しておきたい。南北朝時代の構造からの変更という改修の年代については、文献史料からあきらかでにできない。ましてや二段階になるかどうかは課題となるが、政治情勢や残る石垣の状況、すなわち遠江国での石垣導入を踏まえるならば、現在に伝えられる構造への改修は、あまり古くまでは遡りえないであろう。あるいは天正13年(1585)前後ではなかろうか。天正12年9月に小牧・長久手の戦いが終結し、天正14年(1586)10月の徳川家康が上洛するまでの間、徳川領国の境は不安定な状況にあった。事実、天正13年12月には豊臣勢が三河国に至ったという 情報がある。この時期に井伊谷は徳川領の三・遠国境の重要地点となっていた。ここに、三岳城が取り立てられる理由がある。全面的な築城ではなく、西向きだけの石垣などの普請という部分的な様相は、この緊急事態への対応だったことを物語っているのでは なかろうか。この天正13年前後の石垣普請はひとつの解釈ではあるが、三岳城が南北朝期に取り立てられつつも、現在に伝えられる遺構が戦国時代のものであることは間違いない。
2023.12.09
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高根城に行くには天竜川沿いに遡るR152を佐久間ダムの手前で分岐して山間を進むと水窪町の南の駐車場に着く。そこには案内板もあり、山道を登ってゆくと、急こう配の道には見学用の階段が設置されていて、空堀や堀切の城の遺構を見ながら頂上の再建された櫓などの建物に到達する。そこからは山間に水窪町の集落が見ることができる。<地図>高根城に関わるもっとも古い記録は、應永21年(1414)奥山金吾正ならびに諸士が尹良親王を守護して、周智郡奥山に仮宮を設け、葛郷高根の城跡を築き、十余年在城したと伝えるものだ。また、同31年信濃駒場で尹良親王以下25人が不意打ちで死去し、奥山金吾正が宮の御首を抱え葛郷城へ戻ったとも記載されている。発掘調査では、15世紀前半から中頃の遺物も一定量見られ、この時期の創築がほぼ確実な状況である。だからといって、親王云々が事実ということではなく、地元国人の奥山氏がこの時期に城を築いたであろうということである。確実な資料としては、永正10年(1513)銘山住神社棟札である。奥山氏は、永正年間および大永年間(1521~28)に、今川氏から野部郷(豊岡村)の地を宛行われたり、知行安堵を得たりしている。この頃から、今川配下の 武将として組み入れられ、北遠江のほぼ全域を支配下に置いた可能性が高い。この時期の遺物は、本曲輪のみの小規模な姿が想定される。奥山支配は、今川家の没落と、武田氏・徳川氏の台頭があった永禄年間前半頃に大きく変化することになる。「遠江国風土記伝」によると永禄12年(1569)、「奥山由緒」では享禄元年(1528)、高根城は落城したと伝わる。遠江国が大きく混乱するのは、永禄3年の今川義元敗死後のことだ。まず三河ついで遠江で、反今川の動きが勃発する。高根城も「遠州忿劇」と呼ばれた時期の可能性が高い。おそらく、奥山家内部で今川・徳川・武田のどこに就くかで大きな確執があったと推定される。前述の「遠江風土記伝」による落城年永禄12年発行の文書として二通が伝わっている。一通は、正月10日今川氏真が奥山兵部丞、左近将監に宛てた大膳亮跡職宛行、もう一通は4月13日徳川家康が、同じく奥山兵部丞、左近将監に宛てた所領宛行の本領安堵状である。敵対する二家からそれぞれほぼ同一内容の文書が発給され、さらに同年の落城説が伝わるということは、かなり大きな変化が奥山氏にあったということではないだろうか。天正3年8月時点で、高根城は勝頼が自由に在番衆を決めることが可能であった。また、前条にあるような人数を収容できる城の構えだったのである。たしかに、現在の城なら、ある程度の人数で在番することが可能だ。したがって、天正3年時点で、城が現在の完成した姿であった可能性は高い。発掘調査によって、主郭では二時期の遺構が確認された。だが、城門や井楼櫓など 主要建築は建て替えられていない。また、堀の掘り起こしや土塁の増築は見られない。改修が実施されたとするなら、曲輪上の変更はなく、新たな土塁や堀切を築いたということだ。城域を区切る二重堀切、三の曲輪前面のUの字を呈す堀切など武田氏特有の構造も認められ、明らかに武田氏の手が入っている。改修時期を改めて整理しておきたい。元亀3年12月に奥山氏から城を接収し、天正3年8月には、在番可能な城として完成していた。文献、発掘調査成果がこれを裏付ける。では、いつ改修したかである。信玄の死は、元亀4年4月。7月に天正に改元があり、8月に勝頼は、武田信豊等を三河に、武田信廉等を北遠江へ侵攻させている。10月には、勝頼自らが大軍を率いて侵入し、同年諏訪原城を普請している。天正2年6月、髙天神城攻略し、東遠江を制圧した。勝頼の行動で注目されるのが、天正元年10月の自ら大軍を率いての遠江侵攻である。この時点で、高根城の改修は、ほぼ完成していたのではないだろうか。国境越えの安全確保が成ったことによる侵攻の可能性が高い。いずれにしろ、元亀4年5月~天正3年8月までの 約2年間の間に高根城は改修を受け現在の姿が完成したのである。天正4年、武田勢力が家康によって遠江から一掃されると、高根城はその使命を終えたようである。発掘調査による遺物も、17世紀以降のものは出土していない。武田氏によって、高根城は、南信濃から北遠江へ抜ける街道の安全確保とためと、遠江における橋頭堡として必要欠くべかざる城郭の一つであった。武田勢力の衰退によって、徳川家康は信濃国境警備のための城郭は必要としなかったということになる。 <遺構>城は、北から本曲輪・二の曲輪・三の曲輪を尾根筋に連続させた単純な構造だ。だが、検出された城内道は、東側中腹に設けられ、土橋や梯子、木橋、櫓、門等の構造物によって折れと昇降を多用させる工夫が見られる。本曲輪は、南北約30mx東西約20mの広さで、西側に土塁、東北隅に大手門(礎石)、東南隅に搦手門(掘立柱)を配す。曲輪内では1x4間の礎石建物、2間四方の望楼状掘立柱建物(井楼櫓)、棚列が検出された。曲輪北側の腰曲輪状の平坦地は、大手門に至る通路で、山麓へと続く。本曲輪搦手 門下段には、厳重な虎口を配し、防備を強固にしていた。二の曲輪は、本曲輪南側に位置し、本曲輪との間には、幅約10mの堀切を配す。東側本曲輪下段と二の曲輪下段には小曲輪が配され、この両曲輪を結ぶための橋を架けたと推定される柱穴が検出されている。さらに、本曲輪には門(掘立柱)と土留めの石積みが確認された。二の曲輪下段小曲輪には柱穴が残り、二の曲輪には梯子を利用していたと推定される。また、三の曲輪から本曲輪へ続く通路が、東側斜面中腹に設けられていた。三の曲輪は、二の曲輪南側に位置し、北側端に櫓台状の方形の高まりが存在する(二の曲輪との橋台の可能性がある)。二の曲輪との間には、幅約20m、深さ約5mの堀切 を配し、東端に幅約1間(1.8m)の土橋が存在する。城域を区切る最南端には、中央に土塁を挟む、二重の堀切が設けられている。三の曲輪側の堀切は、曲輪を取り囲むようにU字状を呈し、外側堀切は尾根筋を直線に遮断。三の曲輪平坦部と城外平坦部との間の二重 堀切の幅は約29m。三の曲輪平坦部から、北側堀底までの深さは約8m、北側堀底から土塁上面までは約3m、城外平坦部から南側 堀底までが約9m、南側堀底から土塁上面までは約4mと、極めて強固な構造であった。この城内最大の二重堀切が最終防御ラインで、城はここを以て完結している。平成14年(2002)発掘調査に基づき、堀切などを復元するとともに、本曲輪の主要建築物を木造で再建し、戦国時代の城が甦った。なお、曲輪廻りの塀や柵は、安全のための施設であり、本曲輪に復元された御殿建築は、稲荷神社の覆い屋であって、復元建物ではない。<歴史>元亀3年(1572)、大井川を越えて遠江へ侵攻を開始する前に、武田信玄が奥山氏に対し発給した二通の文書が現存する。一通は、12月3日奥山大膳亮に宛てた2000貫文の所領宛行の判物で、もう一通は12月14日奥山右馬助(兵部丞から改名)、左近将監 に宛てた所領宛行の判物である、従って、信玄の遠江侵攻前に、奥山氏は武田配下に組み込まれていたということになる。問題は、信玄から宛行われた所領に本貫地の奥山郷が入っていないことである。美薗・小野・赤佐(以上浜松市)、友永・見取・新池(以上 袋井市)とすべてが遠江平野部の土地である。本貫地に新領が加わったのか、あるいは本貫地からの所領変更なのかは、はっきりしない。大井川を越えた武田軍本隊は、相良から髙天神城(掛川市)を攻め、久野城(袋井市)を通り、見付から向きを北に変え二俣城(浜松市)を取り囲む。二俣城を陥落させ、三方原合戦で徳川家康を破り、一気に三河野田城(愛知県新城市)へ攻め寄せた。だが、ここで信玄の病が悪化、甲府への帰路で病没してしまう。武田家を継いだ勝頼もまた、元亀4年7月5日に犬居城(浜松市)主 天野藤秀の寄騎であった奥山右馬助・左近丞に所領(鶴松=袋井市)宛行の判物を発給している。庶流の奥山氏は、引き続き武田家に組み込まれていたことが判明する。天正2年(1574)武田氏は、兄弟宛に二通の朱印状を発給。一通は上長尾郷(本川根町)での市設立の安堵、もう一通は同地における武田家朱印状不所持の者の人夫挑発の禁止である。これは大井川渡舟場の管理のためである。このように武田方となった奥山氏であったが、惣領家(大膳亮)は遠江平野部に領地を、庶流も天野家寄騎として奥山郷以外の土地を与えられていたようだ。武田氏は、奥山氏の本城(高根城)を接収しようと考えたのである。それは、この地が信遠国境であり、信濃から遠江へと南下する唯一の峠越えの街道が通っていたためであった。奥山の地を確保することで、国境越えの安全を確保しようとしたのであろう。武田・徳川両氏にとって、後々大きな影響を及ぼす合戦が奥三河の長篠城(愛知県新城市)を廻る天正3年5月21日の合戦であった。織田信長・徳川家康連合軍3万8000と、武田勝頼軍1万5000が設楽原付近で激突した。連合軍の鉄砲隊により武田軍は、山県昌景・土屋昌次・馬場信房らの信玄以来の宿将をはじめ戦死者は約1万人と言われる。勝頼自身も身一つで信濃へ逃れるなど、大敗を喫してしまった。家康は勝利の余勢をかって二俣城を囲み四方に砦を構築し封鎖、7月には光明城・犬居城を相次いで落城させ、8月には諏訪原城を落としている。勝頼も、このままの状態では、北遠江を奪還されるばかりでなく、駿河への侵攻を許しかねないと危機感をいだいたようである。同年8月10日、高遠城の保科筑前守正俊に二八ヵ条におよぶ命令文を発し、信濃防衛のための軍勢配備を命じた。この朱印状は、従来元亀3年の信玄による遠江侵攻直前に出されたと考えられていたが、近年の研究により勝頼が、天正3年に岩村城(岐阜県恵那市)攻防戦や伊那坂西一族の謀反などへの対応、遠江出陣を前に信濃防衛の詳細を指示した内容と判明した。朱印状の一〇条と一四条が高根城に関する内容の可能性が極めて高いため、その部分のみ抜き出しておく。一〇条、松島基忠と小原継忠の同心の大草衆(上伊那郡中川村に住む土豪集団)は、(中略)ことごとく奥山(高根城か)へ加勢のため移れ(後略)。一四条、奥山(高根城か)にはこの間の加勢衆と松島元忠・大草衆が在城し、大洞(大洞若子城か)には武田信豊同心の知久衆(飯田市の土豪集団)と跡部勝忠同心の知久衆が在番するように命じている。 <関連部将>奥山氏、武田氏</関連部将><出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.12.02
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戸倉城があるのは、今は、本城山公園として整備されている場所である。駐車場から階段を上っていくと、柵で囲まれた平場に着く。展望台もあり、アジサイやつつじも咲く公園で、眼下には狩野川が蛇行し、その狩野川にそそぐ富士山の湧水で有名な柿田川も見られる。さらに富士山も見られる場所でもある。北条氏と武田氏の争いの際、北条氏の笠原氏が武田氏に内応したという、場所でもある。<地図>戸倉城の築城時期は諸説あり、文明年間(1469~87)や天文年間(1532~54)以後に北条氏と比定されることから争う中で築かれたとする説、そして天正9年8月18日付けの「北条氏政判物」における「新城」が戸倉城と比定されることから、北条氏と武田氏の第二次の争いがあった天正9年(1581)とする説などがある。発掘調査が行われていない以上、詳細は今後の調査に委ねられるが、ここが北条氏と武田氏との戦いにおいて前線となり、築城もしくは改修を受けたことは間違いないだろう。ここで着目しておきたいのがその名称である。戦国期の史料において、その地のことを武田氏は「豆州戸倉」と記しているが、北条氏は「駿徳倉」という表現を用いていることが沼津市史にて指摘されている。市史ではこの違いを戸倉(徳倉)が駿河・伊豆の境の地であったため、武田氏はここを北条領国「戸倉」を用い、一方、北条氏はここを武田領国と考えていたため「徳倉」を用いたとする。境界であるからこその二つの表記であろうが、現在においても城の名前は「戸倉城」で、住所は「徳倉」となっているのは興味深い。 <遺構>戸倉城は国境を守る城として重要であったが、遺構の残りはあまり良好でない。最も標高が高い本曲輪こそ一定の広さをもつものの、虎口や土塁は後世の改変で不明になってしまっている。また城山には本曲輪以外に大きな曲輪は認められず、さらに堀切などは小規模である。しかし本曲輪に備わる展望台を登れば、眼前に泉頭城、南東に韮山城を望む好立地であることから、その城は大規模な軍事拠点として機能したのではなく、激化する戦闘を見張る場として重用されたことが推測される。また居館跡とも伝わる麓の龍泉寺は、狩野川沿いにあることから、戸倉しろは川湊とそれを守る砦として使われていたことも考えられよう。 <歴史>戸倉城がもっとも重要視されたのは、天正9年の北条氏と武田氏による第二次甲相合戦後半の時である。北条氏は韮山の守りのため、天正7年(1579)に泉頭城を築城した。その後、両氏の争いは激しくなり、このことから新たに泉頭城から狩野川を挟んだ 南側の戸倉の地に城を普請した。そしてここを任されたのが、伊豆衆の筆頭とされる笠原新六郎であった。笠原新六郎は伊豆郡代の 役割を担った重臣で、境界の防衛において北条氏の期待は高かったのであろうが、同年10月に武田氏の調略が成功し、笠原は武田方 へ寝返ってしまった。国の境の守りを任せていた笠原の内応は北条氏にとって想定外だったのであろうが、すかさず戸倉から約2キロ南に手代山城を築くことで、これに対抗した。そして天正10年(1582)に織田徳川連合軍が武田攻略を進めると、北条氏も攻勢に転じ、2月に戸倉城を奪い返した。ただし重要視されたのはこのころまでで、天正18年(1590)の小田原合戦においては、使用されなかった。 <関連部将>北条氏、武田氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.11.25
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興国寺城のあるのは愛鷹山の南の裾野で東海道の原宿場から北へまっすぐの道を進むと東海道新幹線や東名高速道路が通る付近の根古屋集落である。一番初めに訪問したときは、場所が分からず裏山の高速道路付近の茶畑までいった。その後、ツアーで案内してもらって、本丸台やその裏の大きな空堀などを見学した。最後は整備された城の遺構を十分に見ることができた。小説に伊勢宗瑞がそこから攻める伊豆方面を見渡せるとか富士山を望むことができるとあった。この付近は愛鷹山が邪魔して富士山は見えないのではと、確認してみた。城の中心部からは、見えないが海に近い曲輪あとから一部が見えた。<地図>小田原北条氏初代の伊勢宗瑞(北条早雲)旗揚げの城として知られる興国寺城。現在の沼津市西部に位置し、愛鷹山南麓に張り出した尾根を利用して築かれた平山城である。指定面積は約11万平方mと広大で、南に古墳時代までも遡る通称「根方街道」が東西に通る。さらに伝天守台からは、伊豆半島までも眼前に見通すことができる。ここに登れば、その城郭が目まぐるしく変化する戦国期の東駿河情勢を語るうえで、重要な位置にあったことを実感できよう。この城が歴史上に現れるのは、長享元年(1487)宗瑞が今川氏の家督争いを治め、その恩賞として富士下方一二郷と興国寺城を拝領した時とされる。ただし宗瑞がこの城に在城したかは一次史料にはなく、後世に書かれた「今川記」や「今川家譜」に記されているのみであり、さらに居城が富士下方一二郷と離れていることから、この伝承を疑問視する意見もある。一方、現在の興国寺城が所在する旧駿東郡と富士郡は隣接することから、旧来の研究の通り宗瑞の居城がこの地であったとする研究者もいる。なお、後者の説を補強するものとして、やや後世の史料となるが、大永8年(1528)の「今川氏輝判物写」に「駿河国下方大塚郷」という記載がある。大塚は本来興国寺城がある阿野荘に位置するが、この記述から戦国期においても、阿野荘に位置するが、この記述から戦国期においても、阿野荘の一部が富士下方荘と混同されて認識されていた可能性がある。したがって、必ずしも富士下から一二郷と興国寺城は当時の認識として離れた位置にあったとは限らない。なお、この問題の解決に寄与するものとして、考古学の成果が揃いつつある。現在史跡整備にともなって行われている発掘調査において、城内からは15世紀後半にまで遡る資料が一定量出土している。つまり城郭であったかはともかく、ここが15世紀後半には利用されていたことは確実である。文献史的にも考古学的にも不明なところが多い興国寺城の築城時期ではあるが、この地がいつ城郭として機能したかは今後の総合的な研究によって解決されていくことになるだろう。では確実な築城時期はいつになるか。一次史料としての初見は、天文18年(1549)の「今川義元判物写」びある。今川義元は善徳寺末寺であった興国寺を阿野荘井出郷にあった蓮光寺道場跡地に移転するように命じ、空き地となった興国寺の跡地に城郭を築いたとある。翌年2月には義元が普請の検分に訪れていることから、それは一年をかけた大規模な普請であった。東駿河の拠点として本格的に機能し始めたのはこの時期であったと考えてよいだろう。 <遺構>興国寺城の立地を見ると、ここが拠点となった理由も見えてくる。まず愛鷹山南麓の尾根は、幾筋もの小河川や流水などによって形成された開析谷によって隔てられており、興国寺城が立地するのはその尾根の先端で、三の丸のみ平野部に位置する。このような立地から北を除いた三方は、浮島沼に囲まれた天然の要害となっており、その防御性は非常に高い。また沼地と愛鷹山の裾の間には根方街道が通り、さらに浅野文庫所蔵の「諸国古城図」には、城から南へ向けて東海道へとつながる街道、通称「竹田道」が描かれ ており、興国寺城は二つの街道の交差点となる。高い防御性と交通の要所、その二つが拠点として機能した理由と考えられる。次に本城の構造を見ておきたい。北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸が直線的に並び、そして谷を東に隔てた清水曲輪からなる。しかし「諸国古城図」には、北曲輪と清水曲輪が描かれていないことから、天野康景による最終段階では、この二つの曲輪は城外となっていた可能性が高い。つまり現在見える城域や曲輪配置は、100年間通してそのまま継続されてきたものでない。先にみてきた ように、東駿河地域の支配は目まぐるしく変わっており、興国寺城は各城主の持てる軍力や政治的な動向に左右されながら、時には巨大な城となり、時にはやや小さな城へと変化した。今見えている城域は、本来様々な時期を含んだ重層的な城域が、一面的に見えているに過ぎない。どの支配者の時にどのような構造であったのか、この解明は本城を語る上で重要な課題である。これを考えるうえで発掘調査の成果が鍵となるが、一つの例として、本丸の南と北曲輪北端で発見された「三日月堀」を紹介しておきたい。北側の三日月堀は新幹線によって破壊されており、詳細は不明であるが、南側の三日月堀では、堀底近くにて16世紀後半の遺物が出土するとともに、この堀人為的に埋めて、絵図にも描かれる最終段階の堀へと造り替えを行っていることが確認されている。三日月堀は、静岡県内では武田氏もしくは徳川氏の城郭で多く見られる堀で、城の外郭に付けられる例が多い。興国寺城では本丸の二の丸・三の丸は武田もしくは徳川階段では城外であり、城は北曲輪・本丸という連郭式の今より小さな構造であった可能性がある。もちろん平野部となる現在の三も丸を放置したということはないであろうから、多少の造成は行っていたであろうが、あくまで城の本体は今よりも小規模な城域であったろう。旧段階が部分的にしかわからないため、以下の内容は城の最終段階である江戸時代初期の姿であることを前提に述べるていくことになるが、この段階の興国寺城の見どころとして強調したいのは、そのダイナミックな高低差である。特に本丸は、高さ10mを越える大土塁で囲まれ、虎口には礎石立ちの櫓門が備わる。本丸の背後には伝天守台がそびえ、そして伝天守台の裏に掘られた最大深さ20mの巨大な空堀は圧巻である。伝天守台のボーリング調査によってこの土塁や天守台の造成には大空堀を堀た際に発生した土砂が使われていることが判明していることがから、これらの施設はほぼ同時に造成されたと考えられる。そして最も標高の高い伝天守台の前面には石垣が張られ、伝天守台の両翼には櫓台が備わる。伝天守台および櫓台の発掘調査では、前者には二棟の建物の礎石が、後者には礫敷きの基礎がそれぞれ検出されている。瓦の出土はないことから、一般的にイメージされる天守が建っていたわけではないが、東海道や根方街道から見える伝天守台の姿は、城主の権威を示すには十分なものであったのだろう。大大名が造るような天守がそびえ、石垣で囲われるような城ではないが、今見える興国寺城は戦国時代から江戸時代にかけての過渡期に造られた小大名の力作の城と評することができる。 <歴史>東駿河は、伊豆国、甲斐国と接しており、戦国期において北条氏、武田氏、今川氏の争いの場となった。また、西国からの軍勢にとっては、箱根を越える手前の地ということもあり、関東への導入口として重要視された。そのため、宗瑞の旗揚げ以降の 約100年間、興国寺城の支配者は目まぐるしく変化した。今川義元が本格的に城郭として普請したのちは、河東一乱の後のすん駿甲相 の三国同盟によって、興国寺城を含む領国境は一時期に平和な時期を迎えた。しかし永禄11年(1568)に武田信玄が富士川沿いに南下して駿河へ出陣、一方北条氏は今川氏への加勢のため、当主である北条氏政自ら出陣して、富士郡と駿河郡の東域を支配下におくことに成功した。これにより興国寺城は北条氏のものとなり、ここには重臣である垪和氏続が入った。永禄12年(1569)に蒲原城が羅落城すると興国寺城は武田氏との前線となったことから、その後、いくどとなく武田氏からの攻撃を受けたが、垪和は最後まで城を守り通した。しかし元亀2年(1571)北条氏康が死去すると北条氏政はこれまでの方針を転換させ、武田氏と同盟を結んだ。翌年の正月8日付け「武田信玄書状写」には和睦によって興国寺城が武田氏に渡されることが記されている。その後、天正7年(1579)に沼津に三枚橋城を築いたことで北条氏との前線は東へと移ったが、この段階でも武田氏にとって興国寺城が東駿河の拠点であることには変わりはなかった。天正10年(1582)に武田氏が滅びるとこの地には徳川氏が入った。徳川氏は長久保城・三枚橋城・興国寺城の三城を東駿河の拠点として位置付けており、河東二郡郡代として松井清宗・松平康次を三枚橋城に、興国寺城には牧野康成や松平清宗・家清を置いた。そしてこれらの城は豊臣秀吉の小田原攻めの際に作られた「小田原陣之時黄瀬川陣取図」にも豊臣方の城として描かれている。さらに後世の軍記物による記載であるが、「関八州古戦録」には「東征ノ先陣追々ニ押来テ、富士ノ根方( 興国寺城周辺も含めてか)」、に兵が「野ニモ山ニモ充満」したとある。小田原に向かった豊臣軍は総勢20万人を超えるものであることから、この記載もあながち誇張しすぎるものではないだろう。小田原合戦が終わり、徳川家康が関東に移封されてからは、 駿河国は豊臣領になった。三枚橋には駿河国を任される中村一氏の弟である中村一栄が入城し、興国寺城には、中村の家臣である河毛重次が入った。この地域における豊臣期の史料として、慶長4年(1599)の「横田村栓法度」がある。その第四条の後半には「米 と大豆のわりは、沼津の町わりを以て、算用すべく候」とある。つまり中村氏が治める当時の駿河国において、沼津、すなわち三枚 橋周辺が中心的な交換市場であった事が示されており、この交換比率に関する規定は駿河国において府中町と沼津でしか行われて いないことから、中村領有期になって東駿河の中心は興国寺城ではなく、三枚橋城に移っていた。そして慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦により徳川家康の覇権が確立した。中村氏は東軍にについたため、加増を受けて伯耆国へ転封、新たにこの地に形成されたのが、大久保忠佐の沼津藩と天野康景の興国寺藩であった。興国寺藩は駿東郡と富士郡の一部にしかすぎず。一万石と小さな藩であったが、天野康景は家康の幼少からの家臣であり、信頼は厚かったとされる人物である。しかし藩の成立からわずか6年後の慶長12年(1607)、天野が突然の逐電、そのまま興国寺藩は廃藩、城は廃城となった。突然のこととはいえ、興国寺藩が存続しなかったのは、この地における中心が三枚橋城とその城下へ移っていたこと、そして東海道が整備されていく中で、戦国期には重要視されていた根方街道が相対的に価値を減らしていたことが起因していると考えられるが、宗瑞の旗揚げから約100年という長期にわたって東駿河の中心的 城郭であった興国寺城は、突然終焉を迎えることになったのである。 <関連部将>北条氏、今川氏、武田氏、徳川氏、河毛氏、天野氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.11.18
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久野城があるのは可睡ゆりの園の近くの丘陵の舌状部にある。東海道53次を歩いていたとき、可睡ゆりの園に立ち寄ったので、久野城も東海道に関連して構築されたのであろう。民家が点在するような道を行くと案内板のある駐車場があり、その上の丘陵に城が展開する。城の規模はそれほど大きくないが、城の遺構が整備されている。西側の低地には沖ノ川の支流が流れている。東名高速道路から久野城跡の看板を見ることができる。<地図>久野城の位置は守護所のあった見付宿と掛川宿の中間で、東海道より北側にある南方向に伸びた舌状の低丘陵地に築城されている平山城である。本丸から見ると近世東海道をよく見渡すことができ。戦国期の東海道も同位置にあったと想定され、東海道を抑えるための軍事的に重要な場所であったことがよくわかる。また、城の東側には東海道から真言宗の古刹である油山寺に行くための油山寺道があり、この油山寺道から分かれて宇刈から森町方面にいくための道も存在していたといわれている。城の北側を除いた周辺には低湿地が広がり、自然の要害の地に築城されていたこと、北側の尾根筋も痩せており、守るに好都合な場所にあることもよくわかる立地条件を備えている。 <遺構>久野城の築城は、久野氏系図によると宗隆の代である明応年間(1492~1501)、あるいは永正年間(1504~1521)とされていたが、本丸の発掘調査により小規模な掘立柱建物とともに、15世紀末~16世紀初頭の土器・陶磁器が出土したことから、系図の記載通り明応年間の築城であることが判明した。この時期の出土遺物は本丸に限られるものの、北の丸と二の丸ぐらいまでの丘陵頂部を中心とする範囲の小規模な平山城であったと考えられる。土器・陶磁器などの遺物の出土量がまとまっていることから、城主の居住場所としての館(山城型居館)も本丸を中心として、城内に置かれていたと考えられる。このほか二の丸西側の土塁や、本丸東側の小規模な堀切などもこの時期による遺構と見られる。16世紀前葉になると久野氏は今川氏の氏配下に入るといわれているが、この頃の城の姿はよくわからない。おそらく、築城当初とさほど変わらない規模や構造であったと思われる。永禄12年(1569)になると、桶狭間の戦いにより今川義元が織田信長に討ち取られたことにより、勢力を失いつつあった今川氏真は、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康により挟撃され、氏真は掛川城に立て籠もるも開城し戦国今川氏はここに滅んだ。この時の久野城主であった久野宗能は、今川氏との関係の深い家臣を粛清し、以後家康家臣として活躍するようになった。そして、武田信玄、勝頼親子の遠江侵攻戦に対抗すべく、城の規模を拡大させたと考えられる。この時の宗能の改修としては、本丸の北斜面に大規模な横堀と土塁を設けて防備を固めるとともに、 さらに北の丸の北側に続く尾根筋を大堀切により分断し、北の曲輪群の整備を進めて、城の弱点である北側からの敵の侵入を防いだ構造に大改修したと考えられる。大堀切については現在道路や宅地として削平されているが、道路下に堀切の痕跡が残っていると思われる。また、南の丸下層から掘立柱建物が発掘調査で確認されていることから、この時に南の丸という山麓部の曲輪も整備して、 山上の居住施設(館)が山麓に移されたと考えられる。豊臣家臣である松下之綱が入城すると、本丸周辺部からの瓦の出土から、織豊系城郭として瓦葺建物が建てられたことが発掘調査で判明した。本丸周辺部から城郭に使われた軒瓦、鯱瓦、桐文の施された鬼瓦が出土したため、本丸や櫓や門などの瓦葺建物があったことは確実で、地山削り出しによる小型の櫓台や、天守台の周辺部にめぐらされたと思われる雨落溝といった遺構も発見された。しかしながら、これらの遺構については、石垣をともなう天守台や櫓台としては検出されていないため、瓦葺建物の遺構とすべきか検討を要する。また、この時期、東の丸に礎石建物の遺構、油山寺道に面した大手に木柵による枡形虎口、南の丸にも整地土が確認できるため、石垣はないものの本丸に何らかの瓦葺建物、本丸南側の高見に物見ないし櫓とみられる規模の大きな掘立柱建物、南の丸や東の丸の御殿としての礎石建物、東側に城の玄関としての枡形虎口が造られ、織豊系城郭の特徴がみられる城に改修されたことが発掘調査で明かとなった。石垣が確認できない理由は、横須賀城天守台のような低い石垣の天守台で、近世初頭(北条氏重段階)の破城、ないし近代の開墾などで壊された可能性、さらに破城により埋められた本丸虎口などに石垣があった可能性も指摘しておきたい。また、城の東、南、西側の低湿地は、深さ2~3m、幅30mの範囲で水堀状に掘削していることも発掘調査で確認できたが、曲輪の改革ラインを保護するための石垣を使用した水堀とはなっていなかった。この後、城の大規模な改修が認められるのは、北条氏重によるものである。まず、豊臣政権のシンボルであった本丸の瓦葺建物を解体し、本丸周辺部の斜面に破棄している。低湿地の堀部分の土をわざわざ使い、破城とでもいえるような本丸全体 を埋め立てていたことが発掘調査により確認された。この時、天守台や虎口部分の石垣は解体され、いずれかに持ち去られたか、破壊し埋め立てられたとも考えられる。このように軍事的に重要な丘陵部の曲輪は破棄し、更地にしていることが確認された。つまり、織豊政権時代の象徴である瓦葺建物(天守か)を破却することにより、徳川政権に代わったことを示したとみられる。代わりに山麓部の南の丸と大手、その間の水堀部分を埋め立てて南の丸北曲輪を造成し、大手、南の丸北、南の丸一帯を御殿とした。さらに西の丸 や主税屋敷なども一ぶ堀部分を埋め立て拡張し、家臣団の屋敷地として整備したことも判明した。氏重段階の瓦は大手からしか出土していないため瓦葺建物は大手門のみであったと思われる。氏重時代の瓦は少なく、この時期の建物のほとんどは瓦葺建物ではなかったことも確認されている。さらに、石垣も確認できないことから、近世城郭としての石垣作づくりの城でなかったことも判明した。このように氏重段階の城の姿は、大坂の陣により豊臣秀頼が滅び豊臣政権に脅威がなくなったことにより、軍事的な城としての性格から、城主や家臣の居住地としての城として変化したことが確認されたのである。しかしながら、櫓門とみられる大手門を除いて、近世城郭としての特徴である石垣をともなう瓦葺建物である天守や櫓、水堀などについては採用されない点、久野城の特性として指摘される。構造としては城と言うより陣屋規模であったと思われる。 <歴史>久野城の歴代城主のうち最初も城主とされるのは、久野氏系図によるところ久野宗隆とされ、以後久野宗能まで15世紀後葉より16世紀後葉の100年間、久野氏の居城となっていた。久野氏の家系図によると、藤原南家の一族である工藤氏の末裔とされ、文献史料によると鎌倉時代後期まで存在を遡ることができる。室町時代の久野氏の動向はよくわからないが、駿河今川氏の家臣になっていた時期も考えられる。戦国時代になると初代城主として宗隆が登場する。その後、久野氏八代の城主が認められ、天正18年 (1590)、豊臣秀吉の関東・奥州平定戦により後北条氏が小田原城落城により滅亡した後、秀吉が徳川家康に関東国替を命じると、家康家臣の久野宗能も千葉佐貫へ移封となった。代わりに秀吉から東海道筋の支配を任された秀次付の家臣として、松下之綱が久野城主となった。ちなみに、之綱は足軽時代に秀吉が初めて家臣となった人物として伝承されている。今まで無名の之綱が突如大名としての久野城主に抜擢された事実から見ると、この伝承も事実であった可能性が高い。之綱死去の後、家督を継いだ重綱は家康家臣として関ヶ原合戦に東軍として活躍したため、引き続き城主としてとどまることが許される。ところが慶長8年(1603)城の石垣工事などを幕府に許可無く行ったとして、常陸国小張へ減封のうえ蟄居の処分を受けた。おそらく徳川幕府が行った関ヶ原合戦後の東海道筋における豊臣大名の国替え政策にともなうもので、無許可の石垣工事は口実に過ぎなかったのであろう。重綱後は久野宗能がふたたび隠居城として入城するが、慶長14年(1609)病没し、孫の宗成が家督を継ぎ城主となった。宗成は元和5年(1619)、紀伊城主となった徳川頼宣の付家老として、伊勢田丸に移封となった。以後歴代久野宗家は幕末まで伊勢田丸を領した。宗成の代わりに徳川家康の異母妹多却姫の息子という家康の甥にあたり、玉縄北条氏の後を継いだ北条氏重が城主となった。氏重も寛永17年(1640)下総関宿に移封となり、横須賀藩あずかりとなった。ちなみに、氏重の墓はその後掛川藩主となり、掛川城で没したことから、家臣により袋井市上嶽寺に改葬され、今でも墓所が残っている。正保元年(1644)廃城となった。廃城となった理由は定かではないが、周囲が低湿地であったため、城下町を形成することができなかったとされているが、加えて徳川幕府が安定したことにより東海道を監視するための戦略的な目的は失われたことによると考えられる。 <関連部将>久野氏、松下氏、北条氏重</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.11.11
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丸子城は、静清バイパスの丸子ICから一般道をしばらく西に行くと谷戸状の地形があり、その方向に進むと、左側に誓願寺がある。誓願寺の駐車場に車をとめ、道路を横切って、建物の脇の細い道を進むと、尾根の山道となり、登ってゆくと馬出曲輪跡を経て本丸曲輪跡の広い平場に着く。そのその先にも二の曲輪跡、北曲輪跡が樹木の中にある。曲輪、土塁、空堀、虎口など城の遺構が確認でき、規模の大きい城である。<地図>丸子城は阿部川の西側に位置する標高139.8mの通称三角山に築かれている。北方より伸びる山塊の先端に位置しており、南山麓には東海道が通っている。城の北方には藁科川が流れて安倍川に合流している。駿河府中の西側の守りは阿部川であるが、さらにそこより一歩抜きん出た位置に丸子城は位置している。そのため府中を守る山塊がほとんどなく、阿部川を渡河されてしまうと何ら防御の拠点となるような地形が見当たらない。まさに阿部川が西方防御の要であった。その阿部川の渡河を防ぐことが東岸では不可能なため、河川より西外側ではあるが丸子城の所在する山頂部が選ばれたものと考えられる。つまり駿河府中を守る最前線基地として築城されたものと考えられる。もちろん最前線として街道を押えることも視野に入れた築城であった。 <遺構>丸子城は東西約200m、南北約250mを測る。駿河では最大級の山城である。主郭Iには土塁が巡らされ、北・東・西の三ヵ所に虎口が開口している。とりわけ北の虎口はI郭とII郭とを結ぶ重要な虎口で、前面に虎口受けの小曲輪が構えられており、外枡形形状 を呈している。一方、外枡形の正面となるII郭の南東隅部は方形に突出している。ここに橋が架けられていたと考えられる。このようにI郭とII郭は橋によって行き来していたとみられる。II郭より北東方に伸びる尾根筋上には、III・IV・V・VI郭が階段状に構えられている。いずれの曲輪にも西側に面して土塁が構えられている。さらにI郭とII郭の間、II郭とIII郭の間、III郭とIV郭の間、IV郭とV郭の間、V郭とVI郭の間、VI郭の南面には竪堀が設けられており、敵の斜面移動を封鎖している。また、VII郭の南面、VI郭の南面、I郭の南東と南に伸びる尾根筋にも竪堀が設けられている。北側の尾根筋には堀切dが構えられ、東側の尾根筋には横堀Eが巡らされており、尾根に対しての遮断線としている。城の西側防御はこうした竪堀や堀切とはまったく様相を異にしており、曲輪切岸面に横堀を延々と巡られている。この横堀はI・II・III・IV・V郭直下に廻されており、遮断線としての横堀ではあるが、それとともに堀底道としても機能しており、I郭の北東部直下には虎口aが構えられている。虎口に隣接する横堀には堀外の土塁をコの字状に突出させて方形 の武者溜りbが配置されている。この武者溜りbによって合横矢を効かせて虎口aを守っている。加えて武者溜りbの外側土塁からは 竪堀が構えられ、やはり虎口aの側面を防御している。このように横堀は丸子城の西側防御とともに堀底道としても機能していたが、それも虎口付近では非常に巧妙に普請され、その城址の見どころのひとつとなっている。丸子城の構造でとりわけ注目できるのが東よりVII郭、X郭、IX郭である。これらは半円形の曲輪を造成し、その前面に横堀を巡らせるという構造となる。いわゆる丸馬出として構えられた防御施設である。通常丸馬出は段丘上に構えられた城郭に多く認められる。その典型例が静岡県の諏訪原城や小長谷城である。また、伊那大島城も同様に段丘上の地形に築かれた城郭である。山城で丸子城の丸馬出とよく比較されるのが静岡県の大居城である。側面に土橋を構えて城外と結び、本曲輪へは曲輪も中央に土橋を設けて結ぶ構造はまさしく丸馬出そのものである。しかしその平面構造は自然地形の制約を受けて半円形とはならず、いびつな方形となっている。このような明らかに丸馬出として構えられた防御施設は山城でも多々見受けられるが、それらの大半は犬居城と同様に不定形な平面構造となっている。それに対して丸子城のIX,X郭は自然地形の制約を無視して、見事に半円形に造成されている。その構造は教科書的と言っても過言ではないだろう。山城で このような教科書的な丸馬出を構えるものは他に例を見ない。IX郭は丸子城の西端に構えられており、背後のVIII郭とは堀切で分断されているが、その堀切は南側で竪堀となり、丸子城の南面を防御している。曲輪前面は堀切から横堀が巡らされている。この横堀前面に廻る土塁上が城道だったようで、馬出の南面に土塁から続く土橋が架かり虎口となっている。さらにIX郭で興味深いのは、背面のVIII郭とは横堀によって完全に遮断されていることである。城内と馬出IX郭とは行き来ができないのである。こうした構造からIX郭は城外へ出撃できる橋頭堡としての馬出ではなく、横堀より突出した場所に構えられていることより戦闘指揮的な施設であった可能性が高い。あるいは山城であるため城内とは高い切岸によって分断されており、段丘上に構えられた城の丸馬出とは同じ構造にできなかったとも考えられ、その場合は背後の曲輪との行き来は梯子などを用いていた可能性も考えられる。圧巻はこのIX郭の丸馬出の北面から北西山麓をめがけて掘られた竪堀cである。ほぼ山麓まで掘削されており、堀の北東側には土塁も設けられており、南西側からの攻撃に対しての斜面移動を封鎖する遮断線であった。IX郭の丸馬出とセットで構えられ、城の西側防御の最前線を担っていた。このIX郭と竪堀の存在からも丸子城が西側からの攻撃に対処する城であったことがわかる。つまり府中側の防御施設であったことを物語って いる。X郭は城の西側に巡らされた横堀のほぼ中央に構えられている。横堀のラインより突出して構えられており、馬出背後が横堀によって遮断され、前面には横堀が巡る。馬出への虎口は西側だと見られ、横堀に対して土橋が架かる。ただ面白いのはこの馬出と外を結ぶ土橋が横堀外側の土塁と結ばれており、外側土塁も城道として用いられていたことをしめしている。また、X郭でもIX郭と同じく背面に位置する曲輪とは横堀によって完全に遮断されている。さらにX郭も前面の横堀から竪堀を構えているのもIX郭の構築と同じであり、丸子城の丸馬出は同じ発想で構えられた施設であることがわかる。さて、丸子城の東側先端に構えられたVII郭はこれまで馬出として評価されることはなかった。しかし、その構造をよく見ると、前面に横堀を巡らせ、城外側に設けられた土塁を城道として曲輪南側の側面に虎口を構えている。背面にも北側には横堀が回り込み、次のVI郭とは分離した構造となる。IX・X郭のように定型化はしていないが、馬出的機能を有する曲輪として評価することができよう。このように丸子城の構造は戦国時代後半の非常に発達したものとして評価できよう。土造りの城の到達点といっても過言ではないだろう。さらにそれは増改築を繰り返したものではなく、統一感じさせるまとまりのある構造であり、一時期に築かれたものと考えられる。 <歴史>丸子城に関する史料はほとんど残されておらず、その歴史は不明に近い。宗長法師の「宇津山記」によれば、「駿河国宇津の山は、今川被官斉藤加賀守安元しる所とり(中略)、北にやや入て泉谷いふ安元祖先よりの宿所」とある。15世紀に泉谷に今川氏の被官である斉藤氏が居館を構えており、当初はその詰城として築かれた可能性が考えられる。永禄11年(1568)に武田信玄は駿河を手中に収めると、翌年正月に山県昌景を丸子城に入れ置き、花沢城などの今川方の諸城に対峙させた。天正10年(1582)には諸賀兵部、関甚五兵衛が在番として入れ置かれるが、持舟城の落城とともに武田勢は駿河より撤退する。その後駿河に入国した徳川家康は丸子城に松平(竹谷松平)備後清善を入れ置くが、天正18年(1590)の家康関東移封にともない廃城となった。こうした城の歴史と丸馬出の存在から丸子城の築城主体は武田氏であると言われてきた。しかし静岡県の諏訪原城では近年の発掘調査などから武田氏築城説は否定され、のちに入城した徳川家康によって改修された可能性が指摘されている。丸子城でも武田氏撤収後に松平清善が入城しており、当然その段階で改修された可能性は高い。 <関連部将>斉藤氏、山県昌景、諸賀兵部、関甚五兵衛、松平(竹谷松平)清善</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.11.04
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もう20年近く前、東海道53次の蒲原宿を歩いているとき、その山側に蒲原城のあることを知り、その後2回ほど訪問した。この蒲原城は、武田信玄が2度目に今川領に攻め入ったときに、今川氏に味方した北条氏が守っていて、武田軍の力攻めにあって落城している。武田信玄が北条・今川・武田の同盟を破って今川領にせめ込んだ時、北条氏は今川氏真に味方して、武田軍に抵抗した。武田信玄は、京都にいって天下統一のするには、北条氏が邪魔だと思い、1回目の今川領侵攻のあと、北条領を徹底的に荒らしまわり、小田原城を包囲した。そして2回目の今川領侵攻の初めに蒲原城を攻略した。武田信玄の北条氏に対する怒りを表す攻めだったように思われる。のちに北条氏が秀吉軍にあっけなく敗れた遠因は、この時、武田信玄に抵抗して、報復されて北条氏の国力が極端に低下したことによるとも思える。<地図>蒲原城跡では、昭和48年から昭和62年にかけて測量調査が実施されているが、昭和62年以降は、公園の整備や道路建設にもとない 確認調査が行われた。本曲輪は、平坦部が神社の建設により大規模な削平が行われたため、建物の柱穴を一ヵ所で確認するにとど まっている。縁辺部には、石積みが確認されている。この石積みは蒲原城が機能していた時期の石積みである可能性が指摘されているが、今後の検討を待ちたい。善福寺曲輪と大堀切の調査出では、大堀切北側の斜面で大形状の施設(高さ約0.5m)が確認され、 橋台であることが考えられているが、本曲輪との標高差から否定的な意見もあるため今後の検討をようする。大堀切からは、多量の炭とともに壁土が本曲輪側から投棄されたような陶磁器片やカワラケ片が堆積していたことが確認されており蒲原城の最後を示す資料として注目される。北側の帯曲輪では、土塁が確認されているが、現在みられる土塁はすべてが復元されたものである。さらに、二ノ曲輪や三ノ曲輪でも発掘調査が行われており、溝状遺構や柱穴などが検出されている。発掘調査により出土した遺物には国産の 陶器や中国からの輸入磁器があるが、その出土状況は15世紀中葉から後半年代の資料が徐々に増加し、16世紀前半にそのピークを迎え16世紀末の遺物は出土していない。このことからも蒲原城の機能していた時期および廃城年代を検討するための好資料となっている。 <遺構>蒲原城は、全体としては広大な面積を持ち斜面に階段状の曲輪を配した山城であるが、主要な遺構としては、標高137.7mの 城山に約70mx24~40mの平坦部を持つ本曲輪が存在し、北寄りに八幡社が鎮座している。曲輪の東西には1m未満の比高差で帯曲輪を伴っている。北側にある現況で幅約13mの大堀切と西側に続く竪掘を挟んで約55mx約60mの平坦部を削り出した善福寺曲輪(標高129.4m)が存在している。北側の搦手口方面は道路等の建設により大規模に改変されているため不明な部分があるが、自然の谷を利用して築城された大空堀が存在している。本曲輪の南西側に延びる尾根上には約12mの比高差で二ノ曲輪が上中下の三段に階段状に形成されている。この曲輪はミカン畑として利用されていたが、現在は竹林等で荒廃した状況である。その先約150mで三ノ曲輪が存在する。三ノ曲輪の規模は115mx90mで、現存している曲輪では最大で馬出曲輪または駐屯地と考えられ、周辺には三ノ曲輪井戸や城兵も水汲み場と考えられる地点も存在している。現在は存在しないが本曲輪の南側に独立 した形状の砦として小峯砦が存在していたが、東名高速道路の建設により削平されたために現状ではその姿を確認できない状況である <歴史>蒲原城は、戦国期今川、北条、武田の三氏が境の城としての重要性から、勢力争いを繰り広げ、文献でもまとまった良好な資料が存在している。天文6年から始まる今川氏と北条氏の富士川以東をめぐる「河東の乱」と呼ばれる抗争では富士川を挟んで西側の今川氏の前線拠点として蒲原城が存在し、遠江の国人や土豪の飯尾乗連、二俣昌長、原六郎らが、城番として駆り出されて守備している。天文23年(1554)、北条氏康の娘が今川氏真と婚姻し、駿・甲・相の三国同盟が成立したが以後も朝比奈千代増らの駿河の土豪が在番している。現在では、その城が蒲原氏数代の居城であるとは考えられていない。永禄11年568)には、武田信玄が駿河に侵攻したが、途中蒲原城を攻めずに駿府に入ったため、籠城していた今川氏真の家臣と北条氏の援軍が武田軍を駿府に足止めさせ、信玄は一時帰国することとなった。永禄12年1569)武田信玄は、ふたたび駿府掌握のため侵攻し、今度は蒲原城を攻め落とし、北条氏信をはじめとする多くの武将が討死した。武田信玄は直ちに重臣の山県昌景をいれている。天正10年(1582)以後、徳川家康の駿河支配によりその役割を終えたものと考えられる。 <関連部将>今川氏、北条氏、武田氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.10.28
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葛山城は、愛鷹山の裾野の山の中にある。初めて訪れたときは、城のある山の東側から尾根伝いに登っていった。そのとき、農作業している地元の人から南側に屋敷跡などもあると教えられたので、次に訪れた時は南側の道路から屋敷跡を見て葛山集会場の駐車場へつき、その上にある仙年寺を通って急な山道を登り、葛山城の曲輪あとや堀切、土塁などの城の遺構を見ることができた。城内にヤマユリが咲いていた。<地図>葛山は、室町・戦国期を通じて、東駿一帯で勢力を誇った今川氏国人衆の葛山氏の本拠だ。城は、愛鷹山から東に派生する愛宕山の末端、大久保川沿いの城下集落を一望する標高274m(比高70m)の山頂部に位置する。南麓には葛山氏一族の墓所を擁する 仙年寺が位置する。仙年寺は、城主居館が営まれていた可能性が高い。城の南東約400mの場所に、土塁囲みの経100m程の鎌倉時代 の葛山氏居館跡とされる方形館が、その西側一帯には葛山氏の重臣で四天王と呼ばれた半田屋敷跡、萩田屋敷跡が並んでいる。<遺構>城は、北側崖地形を背に、東西350mx南北70mの範囲に広がる。尾根頂部に主郭(曲輪I)を配し、北を除く下段三方を副郭(曲輪II)が取り巻き、東西尾根続きを遮断するために二重堀切を設けた、極めてコンパクトにまとまった戦闘的な姿である。最高所に位置する主郭は、南北約45mx東西やく25mの規模で台形を呈している。北側から東にかけて土塁(高さ約1.5m・敷幅 約4m)が巡る。東側には一段低く小規模な腰曲輪が設けられ、その脇に土塁を割った副郭への虎口を配す。副郭は、主郭の 東・南・西側下段を取り巻く形で配され、主郭との高低差は約5~6mとなる。東側南側にかけては、幅約8~10mの帯曲輪状であるが、西側は約25m四方の広さを持ち、北と西南側に土塁を巡らしている。この西側先端部の土塁を開口し、食違虎口が設けられ、二重堀切 に沿って南へと通路が続き、横堀へと至ることになる。本城の防御の要となるのが、副郭に沿って配された横堀で、総延長は100m程 となる。現況は、埋没が激しく土塁を巡らせた帯曲輪に見えるが、城外側に土塁を備えた幅5m程の規模が推定される。副郭からの 通路もここに至っていることから、堀底道が通路として利用されていた可能性は高い。さらに防御を固めるために、横堀に沿った土塁を断ち割る形で、南東隅と慢性側から南麓に向かって二条の竪掘が配される。東側竪掘は、仙年寺の脇まで、約100mに渡って続いている。竪掘は、主郭にも五条が連続し、北側防御を強固にしている。東西の尾根続きを遮断するのが、二重堀切で、東側は幅約20mを測り、東尾根筋から続くルートを扼している。この堀切は、後世の通路により埋没が激しく、深さははっきりしない。西側二重堀切は旧状を保ち、現状で東側が約15m・深さ約6m、西側が幅約10m・深さ約4mである。東西堀切から続く尾根上に明瞭な人工的改変は認められず、基本的な城域は、二重堀切で区画された内部として問題はあるまい。現在見られる遺構は、大規模な横堀 と二重堀切の採用から、元亀から天正段階と考えられる。武田・北条の和睦が成った後の武田氏による改修の可能性が高く、緊張関係の中で天正10年まで逐次改修が施されたとするのが妥当であろう。なお、仙年寺は、この時期の山麓居館が営まれた場所と推定 される。山頂から続く竪掘が西側を、背後から東にかけて尾根筋が巡る地形は、山麓居館を営むにふさわしい地形でもある。 <歴史>「大森葛山系図」によれば、葛山氏は藤原道隆の子伊周とし、忠親・惟康と続き、惟康の孫親家が大森氏を名乗り、惟康の 子惟廉が葛山に住んで在地名の葛山氏を名乗ったと言われる。惟廉の孫とみられる葛山惟重は、治承4年(1180)の源頼朝挙兵に弟惟平とともに従い、建久4年(1193)富士の巻狩りで頼朝の宿舎を設営したことから御宿殿とも呼ばれた。裾野市内の御宿の地名は、頼朝の宿舎になったことによるとされる。今川氏との関係は、はっきりしない。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に際しては、今川範国の指揮下に組み入れられている。永享10年(1438)の永享の乱時には、先鋒を務め活躍した。「文安年中御番帳」には、将軍義政の御番衆のうち四番の在国衆の中に今川氏と並んで葛山氏の名を認めることができる。また、今川氏領国中にあって葛山氏のみ自ら印判状を発給している。発給文書から、その支配地は駿東郡から富士山麓にまで広がり、葛山城を中心に一帯の土豪を氏配下におさえていたことが解る。こうした事実から、在地領主として今川氏とまでいかないが、ある程度の独立した地位を認め られていたと考えられる。延徳3年(1591)、伊勢宗瑞(北条早雲)の堀越御所急襲の折には、今川氏の援軍として参戦し、宗瑞 の次男氏時を養子としている。葛山氏の領国が、今川・後北条両者との関係を維持し、生き残りを図ったのであろう。天文6年 (1573)義が家督を継ぐと武田衆との同盟関係を結んでゆく。そのため今川と北条両氏が対立し「河東一乱」と呼ばれる争いに発展した。葛山氏は縁戚関係にある北条方へ与し、今川氏と争うことになる。天文14年、乱の終息とともにふたたび今川氏との関係は 復活する。永禄11年(1568)葛山氏元は、朝比奈・三浦・瀬名の各氏とともに今川氏から離反し武田氏に内通、本領を安堵されている。これに対し、氏真救援に動いた北条氏は、駿河各地を転戦し、葛山城を奪取し、清水新七郎に与えた。葛山氏は武田方に合流したと思われ、翌年穴山梅雪とともに北条方の大宮城を包囲攻撃しているが、氏元名の文書は、その年を最後にみられなくなる。元亀2年(1571)、武田・北条の和睦が成ると、葛山城も返還される。だが、城に入ったのは葛山氏の名跡を継承した信玄の 六男信貞で、御宿監物が後見人となっている。以後、天正10年(1582)の武田氏滅亡まで信貞の支配下となるわけだが、信貞自身が ここで在地支配したかははっきりしない。信貞は、武田氏滅亡に際し、甲斐善光寺で自刃している。現在見られる城は、元亀2年以降に武田氏の手によって改修された姿で、各所に武田氏の特徴が残されている。 <関連部将>葛山氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.10.21
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掛川城に初めて訪れたのは、東海道53次を歩いていた時で、その当時、静岡県内のいくつもの城跡に立ち寄ったので、城に興味がわいて、東海道を歩き終わった後、せっせと一人で城めぐりを繰り返した。その意味で、掛川城は、城めぐりを即発させてくれた城かも知れない。長く今川氏の城であったろうが、山内一豊が一時在城した城と思うのは、司馬氏の小説のせいだろうか。<地図>戦国時代、海道一の弓取りとしてその名を馳せた駿河の戦国大名今川義元が、西に位置する遠江支配を進めるため、斯波氏との抗争の場であった東遠江の拠点として築いたのが掛川城である。今川氏の重臣朝比奈泰煕は、文明年間(1469~86)頃、現在の掛川城から北東500mほどの独立丘陵に最初の掛川城(掛川古城)を築いた。朝比奈氏は掛川古城を拠点に東遠江の攻略を進め、今川氏の遠江支配を盤石なものとしていく。掛川古城は市街地中にありながら中世城郭の様相をよく残している。曲輪配置としては、本郭を中心に西に二ノ郭、東に三ノ郭が配され、さらに腰曲輪が取付く。北側にも曲輪が存在したが、国道により消滅した。また、現在の掛川市立第一小学校のグランド部分に居館が存在したと考えられている。本郭には明暦2年(1656)に建立された徳川三代将軍家光の霊牌を祀る龍華院大猷院霊屋があり、曲輪の東側には土塁が残されている。本郭と三ノ郭を分断する大堀切は、幅やく10m、現況での深さ約7mを測る圧巻の規模を誇る。発掘調査では最深部約9m、堀北端には土橋が取付くことが判明した。新城築城後は出城として機能し、実際に永禄11年(1568)の徳川家康による掛川城攻めの際には朝比奈方の出城として使われた。徳川領有期には対武田との前線に位置していたことから、往時の改修も考えられる。朝比奈二代の泰能の代になると、今川氏の遠江での勢力拡大にともなう城域の拡張により現在の地に新城が築城された。新城築城についても明確な記録はないが、連歌師宗長による日記「宗長日記」から築城の様相を窺い知ることができる。大永2年(1522)5月、宗長は朝比奈泰能を訪ね、築城のようすを書き記している。堀の堀削と土塁構築が行われており、その長さは6,700間(2080~1200m)にもおよび恐ろしいほどの深さがあると堀の印象を伝えている。その南にも竜池と呼ばれる池があったとも記している。二年後の 大永6年(1526)2月、ふたたび掛川城を訪れ、未だ普請中であることに加え、堀は幽谷のように深く、城山は椎や樫の木が繁茂し、まるで鷹が営巣するような深い山だと表現している。普請が長期に及んでいたことと、表現に多少の誇張があるにせよ普請規模の 大きさ、とりわけ宗長が関心を寄せる堀の記述は注目される。この点については後述したい。また、公家の山科言継が今川氏の駿河館を訪ねる往復の途中、弘治2年(1556)、翌3年(1557)に掛川の朝比奈泰能・泰朝父子を訪ねており、贈答のやり取り、饗応されたことと合わせ城域周辺の様子を日記「言継卿記」に記している。宗長による連歌会、言継らの客人を迎えての饗応から、城山の周辺にもれなしの場、いわゆる会所の存在が示唆される。また、連歌師や公家が駿河の今川氏を訪ねる途中に掛川城に立ち寄ることが比較的頻繁にあったこともわかる。ちなみに発掘調査では、染付や青磁・白磁などの中国製磁器とともに、かわらけが中央図書館地点から大量に出土している。かわらけは、宴席などで使い捨ての器として利用され、各地の武家屋敷内に存在したであろうハレの舞台となった会所跡からまとまって出土しており、神事、儀式、宴席に用いられたとされる。また、伝世品と考えられる13世紀代の中国製青白磁の皿・壺片ならびに古瀬戸瓶子片も多数出土しており、これらは社会的権威、信用、ステータスを表わす威信財であり、これらの威信財は会所にしつられたものと考えられる。したがって、中央図書館地点が神事、儀式をはじめ連歌師や公家等を招いての饗応の場であった可能性が高い。 <遺構>掛川は遠州平野の東隅にあり、東、南、北の三方を山稜に囲まれ、東の牧之原台地を経由し駿河への山越えの際の遠江側の入口となっている。すなわち東海道においては、平野部から山間部への地形が大きく変化する箇所であることからも、古来より要衝とされてきた。さらに東西交通だけでなく、駿河湾の塩や海産物を相良湾から信州へ送るための南北交通である「塩の道」も掛川を経由しており、名実ともに東西南北の要衝であった。17世紀半ばに成立した浅野文庫所蔵の「正保城絵図」から城としての縄張配置を見てみよう。標高56mの龍頭山を中心とした独立丘陵を主要部として占地する。龍頭山にに天守をいただく天守丸を最奥に置き、その前面に本丸を配し、さらに二の丸、三の丸をはじめとする諸曲輪がそれらを取り囲んでいる。城山の南を貫流する逆川を外堀 として取り込みその内側にも曲輪(松尾曲輪)を配し、主要曲輪の防御を強固なものとしていたが、明治時代の河川付け替えにより松尾曲輪は消滅した。城郭主要部の東西並び北側にも内堀が巡らされ、その周囲に侍町を配しそれらを外堀は囲繞している。掛川城の最大の防衛線である本丸虎口は、石垣こそ多用されていないが、内堀(松尾池)、三日月堀、十露盤堀の三つの堀を駆使した馬出空間を擁す技巧的な虎口となっている。発掘調査では三日月堀の縁辺部から山内期に比定される石垣が出土しており、さらに石垣の直下からは架け造りにともなう小穴列が確認された。このことから石垣をともなった虎口としては、織豊期である山内期には完成していたことは確かであるが、その初現、換言すれば石垣をともなわない虎口としては永禄末(1570)から天正18年(1590)にかけての徳川配下石川期の普請と考えられる。さて、冒頭の「宗長日記」に見られる大規模な堀の記述について、表現には多少の誇張があるにせよ深く長大な堀を目にしたことは間違いなく、おそらく当時としては比較的規模の大きな堀であったと考えられる。朝比奈期の虎口形態を含め堀の具体的な形状、規模について言及できないが、16世紀後半以降になって、当該部において長大な横堀とともに技巧的な虎口が採用されていることを勘案すると、現在、目にすることができる堀は朝比奈氏が掘削した堀を、後代、徳川配下石川期に馬出空間を擁す技巧的な虎口として大改修されたものと考えられる。当時の対武田との緊張状態を雄弁に物語る遺構と評価できる。本丸は戦国期から近世を通じ主要な曲輪で、特に千戦国期は物見台を含めた最終的な詰め部となる龍頭山を背後にした曲輪であった。発掘調査により本丸普請において、興味深い普請過程が明らかとなった。本丸の地形は、本丸普請以前、南に傾斜した谷地形で、そこには集石墓から成る中世墓群が造営されていたことが判明した。古瀬戸後期(14世紀後半)の蔵骨器に混じって山茶碗 も出土しており、13世紀には造墓が開始されたと考えられ、16世紀初頭の築城にともなう造成により埋没したものである。本丸普請に際し、谷地とそこに展開する中世墓群を埋め立てて曲輪としての空間を確保しており、朝比奈期の普請規模の大きさが窺われる。中世墓は挙大の石を方形状に積み上げた集石墓を主体とし、五輪塔・宝篋印塔の石塔類も見られるが、大型の切石基壇の墓は集石墓群にあっては異彩を放つ。朝比奈氏以前に当該地に割拠していた武士層の墓、奥津城と考えられ、これまで史料等では窺い知ることのできなかった築城前の様相が判明した成果として特筆される。本丸から天守丸へ至る登城路は、「正保城絵図」とも一致する複数の 折れを用いた城道跡が発掘調査により判明している。玉石で造られた階段、側溝、築地塀基壇が発見され、17世紀後半以降に整備、修復され廃城になるまで機能していた遺構であるが、その初現は山内期に求められる。天守丸も中世・近世を通じて主要部として機能していた曲輪である。天守が造られる前の遺構としては、食違い虎口を曲輪を取り囲むように配置された大型土抗列とそれにともなう柱抗列が検出されており、朝比奈・石川期の防御遺構と考えられ、往時の堅牢な普請のいったんが垣間見られた。山内期にはここに天守が造られ、現在、平成7年に復興された天守が建つ。遺構としては天守台の石垣が残るのみで、しかも近世以降の積み直しによる改変も著しく、山内期に比定可能な石垣は南面と西面の一ぶのみであった。石材は市内東部から産出する凝灰岩で、積み方により山内期とそれ以降に分けることができる。山内期では自然石・粗割石を用いており、築石面の隙間に間詰め石が多用され、織豊期の石積みの特徴を表わしている。復興された天守に代表される近世城郭として語られることの多い掛川城であるが、馬出空間を擁す本丸虎口、折れを多用した登城路をはじめとし軍事としての攻守に重きを置いた、中世城郭としての側面をそこかしこに確認することができる。 <歴史>16世紀半ばまで、甲駿相の三国同盟により均衡がが保たれていた今川領であったが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いによる今川義元の討死によりその均衡が破られることになる。三河の松平元康(徳川家康)は、尾張の織田信長と同盟を結び後顧の憂いが無くなったとみるや東三河への侵攻を開始した。その侵攻に誘発されるように遠江では、曳馬城の飯尾氏、井伊谷城のい井伊氏らによる今川氏からの離反が相次ぎ、いわゆる遠州忿劇と呼ばれる混乱状況に陥った。永禄11年(1568)徳川家康と武田信玄は遠江の 混乱状態に乗じるように、今川領の駿河を武田氏が、遠江を徳川氏がそれぞれ分割領有する密約が交されたされたとされ、駿河には武田信玄、遠江した徳川家康によって侵攻が開始される。信玄の侵攻により駿河を追われた今川氏真は、掛川城に逃げ込んだ。一方、曳馬城に入った家康は、今川方の髙天神城や久野城らの東遠江諸侯への懐柔を進めつつ、ついに氏真の籠る掛川城に迫った。家康は掛川城を取り囲むようにいくつもの陣城を築き波状攻撃を仕掛けるが、掛川城は容易に陥落せず、家康は力攻めが困難と判断 し和睦に梶を切ることになる。家康の和睦への決断は、掛川城が堅城であったことと今川・朝比奈方の堅固な守備に阻まれたことに加え、西遠江・北遠江では徳川への抵抗勢力に対する執拗な調略が続けられており、遠江は未だ不安定な状態にあったことによる。すなわち家康は、掛川城でのこれ以上の長期戦は何としても避けたいがために和睦による開城へと決断させたと考えられる。半年余りの攻囲の末、氏真は北条氏を頼り落ち延びるが、名門今川氏はこの戦いをもって滅亡した。徳川領有後の掛川城には、重臣石川家成が入城、対武田としての最前線に位置する城となった。天正18年(1590)豊臣秀吉による天下統一後、家康が関東に移封されると、掛川城には山内一豊が入城し最新の築城技術をもって大改修を行い近世城郭としての礎を築いた。明治以降の廃城令により二の丸御殿や太鼓櫓の一部の建物を残しほとんどが撤去された。また、掛川城は市街地にあるため、主要部以外の曲輪ならびに惣構を形成する外郭遺構の多くは市街地化による改変が著しく戦国期はおろか近世期の様相を窺うことも難しい。 <関連部将>朝比奈氏、石川氏、山内氏、松平氏、太田氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.10.14
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花倉城があるのは、JR東海道線藤枝駅のほぼ北にあたる丘陵上にある。東名高速道路の藤枝PA付近から花倉集落のある谷戸に向かうと西側の丘陵(ほとんどが茶畑)を登ってゆくと一番奥まったところに城の遺構が残されている。<地図>花倉城は駿河守護の今川氏によって南北朝期・14世紀中期の文和年間(1352~56)に築城されたといわれており、駿河今川氏 二代の今川範氏によって築かれたとされるが、文献史料には登場せず詳細は不明である。花倉城がある山は標高297mで、藤枝市の 葉梨地区に位置する。葉梨地区には中世、葉梨荘という荘園が置かれており、初代今川範国以来、駿河今川氏にとってゆかりが深い荘園であった。足利尊氏に従って美濃国青野原の戦いなどで目覚ましい武功を立てた今川範国は、建武5年(1338)正月に駿河守護 に任命され、駿河国内に数十ヵ所の所領を与えられたが、これに先立つ建武4年(1337)9月には勲功の賞として駿河国葉梨荘と遠江国内の二郷を足利尊氏より下賜されている。「今川家古文章写」には足利尊氏下文写が収録されており、「下す 今川五郎法師法名心省 早く領知せしむべき駿河国羽梨庄・遠江国河会郷並びに八河郷ぼ事」とある。葉梨荘は、今川氏が駿河国内で初めて得た所領であり、今川氏の居館が置かれていたと「駿河記」などに伝承される花倉八幡神社・遍照光寺の門前や、三代・今川泰範の五輪搭がある長慶寺など、今川氏ゆかりの寺社が分布している。また、松井・矢部・新野・左近といった、今川氏の一族・家臣団の屋敷跡と伝承される地名が点在しており、葉梨荘には初期今川氏の城下集落が形成されていたと考えられている。今川範氏は、観応元年(1350)10月から文和2年(1353)2月にかけての観応の擾乱で、足利尊氏に従い駿河国内を転戦して駿河南朝方勢力や足利直義派と戦って敵対勢力を掃討しており、尊氏から「一人当千」(観応2年12月の薩捶山合戦の忠節)と評された自筆感状を給うなど 目覚ましい活躍をした。範氏軍に従った伊達藤三景宗の軍忠状によると、観応元年12月、遠州凶徒の出撃に対して範氏の軍勢は駿河府中から藤枝宿へ発向している。また、文和2年2月に行われた南朝勢力・直義派との最後の戦いでは、大津城・徳山城・護応土城・萩多和城など、大井川中・上流域、川根筋に分布する敵城を攻め落し、土岐氏や石塔氏らの勢力を駆逐した。駿河山間部での南朝掃討作戦の遂行にともない、今川氏の直轄領である葉梨荘とその南方に位置する藤枝宿が今川氏の軍事拠点となったことは想像に 難くない。範氏が文和年間に花倉城を築いたとする伝承の根拠は、駿河南朝勢力・遠州凶徒に対する一連の軍事行動の中で、西方面に向けた今川氏の軍事拠点として機能したと判断されることによる。 <遺構>花倉城は、葉梨荘から西の稲葉郷へ抜ける山間部往還を見下ろす山上に立地し、その麓には市場といわれる集落があり中世には交易で賑わったと推定される。花倉城は駿河府中から川根へと通じる駿河山間部の主要交通路を監視。掌握する要衝に築かれた。城跡の発掘調査が行われていないため、詳細な遺構状況は不明であるが、山頂部に位置する本曲輪や二の曲輪を中心に遺構が良好に保存されている。城の中枢部本曲輪(尾根の高まりに沿って約58mx最大幅18mの細長い区画)と二の曲輪(長さ28mx幅20mの隅丸方形型の平坦部)からなる連郭式山城である。本曲輪と二の曲輪の間は上幅6m、底面幅1.4mの大きな堀切1で遮断され、堀切はそのまま東西の谷へ40mの長さで掻き流されている。堀切1が東側斜面へ落ち込むすぐ北側の斜面には、長さ40mの 竪掘が並行して掘られている。また、二の曲輪と、西南方向へ緩傾斜で下る尾根状平場(仮称、南曲輪)との間には、上端幅11m、底面幅3mの大規模な堀切2が存在し、堀切は北西方向と南東方向の斜面へ各25m以上の長さで掻き流されている。花倉城は二つの 曲輪を中心として、四方に延びた尾根上に遺構が展開しており、大手口とされる東側の尾根には堀切と土橋が各二ヵ所配置される。最高所の本曲輪から急傾斜の痩せ尾根を下った北側には弧状の堀切4,西南方面に延びる尾根には堀切5が築かれている。また、本曲輪から西側に延びる尾根には堀切はなく、尾根を削平して築いた小さな平場が三段にわたって築かれている。このように、花倉城の縄張りは、主要三方向に尾根に堀切を設け、敵の侵入を遮断する防御構造とし、併せて城域を画する役割を担っていたと推定される。本曲輪は長さ約47mの平坦面をもつ尾根の高まりの上に築かれ、南側の幅18m・中央部の幅22mで、北側は細くなる。現状では、南側の堀切1から本曲輪東側に沿って上り坂の通路があり本曲輪につながっているが、本来の虎口構造かどうかは不明である。主要部の測量調査により、本曲輪には上面幅10m・高さ0.5mで北側に約30m続く基壇状の高まりが確認され、また本曲輪北端には高さ0.9mの楕円形状の土壇が確認されている。基壇状遺構は建物の基壇と推定され、これが花倉城に付随する城郭建築か、城に先行する施設(山岳寺院など)の建物か不明である。また、土壇状遺構は標高297mの最高所にあることから、物見櫓が建てられていたことが推定できる。本曲輪から堀切1を挟んで3m下に位置する二の曲輪の平坦面周囲には土塁状の高まりが遺されている。曲輪東辺に幅3m以上、高さ0.5mの高まりが15m以上続き、北辺から西辺にかけ鉤状に23m確認できる。後世、曲輪への通路として切り取った部分を考慮すると、元来、二の曲輪の周囲には土塁が全周していた可能性がある。また、測量調査によって平坦部の北西部には幅10x奥行き7x高さ0.6mの基壇状遺構が確認され、本曲輪の土壇状遺構と同様、何かしらの建物が建っていたと推定される。二の曲輪に附属する小曲輪として、一段下がった南側に幅13x奥行き5mの腰曲輪、東側に幅5x長さ30mで上り勾配の帯曲輪が配置されている。測量調査によってこれと同レベルの平場二ヵ所の存在が確認され、二の曲輪の西側から南側の裾をめぐって東側を取り巻く平場が本来、連続してつながっていた可能性が指摘された。二の曲輪を一段下がった場所で取り巻く曲輪であり、二の曲輪が二段構造になっていたことも想定でき、堀切2の造成によって西南側の平場が削り取られた可能性が指摘されている。花倉城は東側の尾根が大手口とされており、付近の東南側斜面は「城表」と伝承されている。現在、花倉城址の入口に位置する土橋1のさらに東側の茶畑になっている広い平坦地にも大手曲輪が配されていたと推定されている。大手口から城の中枢部へ山道を進むと、長さ15mの土橋1があり、土橋の南側は断崖となり、幅3m前後の小規模な土塁と堀切3が存在する。この地点から傾斜は急となり、西へ約120m進むと、東側に湾曲する弧状の堀切6(幅7m)が存在し、緩やかなS字形となった隘路上の土橋2を渡る形となる。堀切は対岸は断崖上の小さな高台となっており、侵入する敵を攻撃する弓矢の狙撃台(横矢掛り)として機能したと思われる。また、堀切の南側は崖の斜面へと落ち込む竪掘となっている。本曲輪より110m離れた東尾根上に設けられた堀切と土橋は、大手口より攻め込む敵を食い止める最大の防御構造であったと考えられる。こを過ぎると、二の曲輪へ向けて急勾配の尾根道が続くが、特段、人工的な防御遺構は存在しない。 <歴史>花倉城が歴史の表舞台に登場するのは、天文5年(1536)の花蔵の乱のときである。花蔵の乱は今川義元が氏輝急死後の今川氏家督を相続するに際して、異母兄の今川良真(当時、遍光寺の住職を勤めており、玄広恵探の僧名であった)と争った今川家最大の内訌である。家督相続前の義元は、富士善徳寺の僧(喝食)であり、栴岳承芳と称していた。花蔵の乱は3月17日の今川氏輝急死から両派の対立が表面化し、冷泉為和の「為和集」によれば4月27日には乱が始まっていた。その後、5月24日から25日にかけて今川館のある駿府で両軍の大規模な衝突があり、良真派の中心である福嶋氏の軍が義元軍に敗れて久能山へ撤退したことにより、義元軍は駿府を掌握し、乱の大勢は義元優勢で決まった。良真軍は山西(髙草山の西側という意味)と呼ばれた西駿河の志田・益津郡へ撤退し、拠点があった方上城や花倉に籠って態勢を立て直し、義元軍の進撃に対抗しようとした。しかし、勢いに乗る義元軍は間髪を入れず6月6日には日本坂を越え良真派の勢力圏であった山西攻めに取り掛かり、方上城を落し、良真派最後の牙城である葉梨荘と花倉城攻めに向けて進軍した。山西攻めの義元軍の中心として目覚ましい活躍をしたのが、岡部左京進親綱の部隊であった。天文5年11月3日付けの親綱宛て義元感状には「今度一乱、於当構井方上城・葉梨城・別而抽粉骨華」とあり、同日付けの義元感状の追而書にも「葉梨しろ責落」と書かれている。これらの史料より、花倉城は、当時、葉梨城と呼ばれていたことが確認できる。駿府での戦いに敗れた良真は、自らの根拠地であった葉梨荘へと退き、葉梨城で最後の抗戦をするが、岡部親綱隊の迅速な攻撃により防戦叶わず、葉梨城を落ち延びて山伝いに西の瀬戸ノ谷へ逃れるが、衆寡敵せず6月10日、普門庵で自害して果てた。このように当時、葉梨城と呼ばれた花倉城は、花蔵の乱の最終局面における戦場となった。劣勢の良真軍は敗走のなかで従う武士たちも次々に離脱し、花倉城に逃げ込んだものの、少人数で岡部親綱隊の猛攻を防ぐことは到底できなかったと考えられる。花倉城は乱の勃発から俄作りでで城の防備増強が行われたと考えられるが、急展開での良真軍の敗走に普請が間に合わず、完成をみないまま最後の戦闘が行われた可能性が高い。<関連部将>今川良真(玄広恵探)</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.10.07
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横須賀城は、遠州灘を望む場所で、徳川氏が武田氏の高天神城を攻めるための補給基地として構築されたという。遠州灘に沿って走るR150から北に入った場所にある。街なかでないせいか、駐車場もあり、城の遺構も整備されており、見学しやすい城跡である。高天神城までの距離を想像しながら城跡を見た。<地図>永禄3年(1560)、桶狭間の戦いにより今川義元が討死すると、威勢を誇っていた今川氏は徐々に衰退していく。今川氏の衰退に 呼応するように今川領の駿河・遠江には武田氏と徳川氏の触手が伸びていく。甲斐の武田氏は今川領駿河に加え、遠江の併呑を目論み 両国にたびたび侵攻を繰り返していた。一方、三河の徳川も遠江を固守せんがため、遠江の各地で激しい攻防が展開されていた。横須賀城の位置する東遠江は両勢力の境界地帯にあたり、両氏の版図拡大の上で、何としても手に入れなければならない重要な駒、 それが髙天神城であった。髙天神城は徳川方の重要拠点として長年にわたり武田方の攻撃に耐えていたが、天正2年(1574)武田勝頼 の猛攻によって奪取されてしまう。天正3年(1575)、長篠の戦いで武田氏は織田・徳川連合軍に惨敗を喫すると、武田氏の遠江における勢力も急速に後退していった。二俣城をはじめとする北遠、中遠の武田方の城郭が徳川氏によって次々と攻め落とされ、重要な兵站拠点であった諏訪原城までも落城してしまう。そのような劣勢下にあっても髙天神城だけは武田方が死守していたが、徳川領に対峙する橋頭堡というよりももしろ孤立した突出点となってしまった。孤立した山城とは言え、髙天神城をめぐる争奪の攻防をへて 髙天神城の持つ戦術的なポテンシャルの高さを認識していた家康は、その奪還として慎重かつ執拗な攻囲作戦を展開することになる。まずは奪還の拠点となる馬伏塚城を改修し、さらにその南東に岡崎の城山を築城した。往時の馬伏塚城や岡崎の城山の周囲には低湿地 や潟湖が広がっており、小舟が往来する水上交通網が発達していたと考えられる。そらに南には淺羽湊、後に横須賀城が築かれる 横須賀湊があり、家康は城郭と湊を結ぶ水上交通網による兵士ならびに物資の大量輸送ルートの構築に着手した。浅羽湊から岡崎の城山を経て拠点城郭である馬伏塚城までの兵站ルートを確保したものの、馬伏塚城から髙天神城までの距離は遠すぎた。そこで家康は海浜から潟湖が展開する横須賀に目をつけ、馬伏塚城主大須賀康髙に命じ新たな拠点城郭を築城させる。それが横須賀城である。 髙天神城の北の小笠山頂部の小笠山砦をはさみ馬伏塚城、その南東の岡崎の城山、さらに沿岸部を東進して横須賀城を構築することで、髙天神城包囲網に加え船舶輸送による強固な兵站ルートを構築したのである。横須賀城は兵站基地としての役を担うとともに、天正7年(1579)には、横須賀城を本陣とし武田水軍の拠点である持船城ならびにその出城の当目城を攻撃、落城されている。兵站基地としての機能のみならず武田方の海上ルートの遮断と武田水軍壊滅の目的もあったのだ。 <遺構>横須賀城は、小笠丘陵から西南端に派生した尾根と、そこから西へ延びる砂州を利用して築かれている。築城当時、この地は南 から北にかけて展開する潟湖、すなわち大きな入り江と湿地を天然の要害とし、城前の入り江を湊としていた。このように横須賀城は海辺の道と海運の拠点として、遠州灘を押える要衝であったが、築城からおよそ100年を経た宝永4年(1707)の宝永地震の隆起により、入り江は後退して干上がり、湊としての機能を失った。海運による物流拠点としての機能を失った横須賀城と城下町は経済面 で大打撃を受けた。現在、海岸まで直線にしておよそ2キロが陸地となっており、往時の姿を想像するのは難しい。縄張りは砂州に沿うように東西に長く、その規模は東西618m、南北は東の三の丸で279m、西の二の丸で184mを測る。標高26mの松尾山を最奥に、その 前面に本丸、西に二の丸、東に三の丸が配される。三つの曲輪は、外堀と城内に配された池状の堀により分けられる。まず、16世紀末 に山城として本丸が築かれ、17世紀中葉に平城として東の三の丸が拡張され、さらに17世紀後半に西の二の丸へと拡張が重ねられていった。本丸は天守台や西の丸などがあった主要部と、御殿や倉庫があった北の丸に分かれる。特に本丸と西の丸は、近世城郭として整備されており、横須賀城を特徴付ける玉石積みの石垣が復元されている。玉石の石垣は一見すると奇異にも映るが、通常の角石を用いた屹然 とした石垣とは異なり、玉石の曲線から成る石垣ラインは優美でさえある。本丸虎口は、本丸下段に位置し、左右を石垣に囲まれ、かっては大型の二階櫓門が存在した。門を抜けると三方を石垣と切岸に囲まれた虎口空間がある。三ヵ所の階段が設けられた内枡形となっており、門を抜けると三方から頭上攻撃にさらされる迎撃強固な虎口となっている。本丸の最奥には、かって三層四階の天守を頂いた天守台跡がある。発掘調査では礎石の根石が確認され、その周囲には低い石垣がめぐっており、低い天守台と礎石配置を見る ことができる。南東隅には入り口と考えられるスロープがあり、天守台後方(北側)では防備のための土塁が確認されているが、一階北側を土塁上に架けた特異な天守形態であったと想定されている。北の丸の北東に位置する松尾山は城域でもっとも標高が高く、築城当初は松尾山を中心に本丸と北の丸程度の比較的小高い丘陵のみであった。松尾山の発掘調査では江戸時代のものであるが、自然石を据え置いた多聞櫓跡が確認され、櫓跡が表示されている。松尾山の背後、城郭最東端には幅30m、深さ15mの巨大な空堀が 設けられている。松尾山から続く尾根を巨大な空堀で分断することによる、東からの敵の侵入を遮断したもので、近世城郭の中にあって山城の景観を遺す数少ない遺構は、戦国期横須賀城としての最大の見所と言える。戦国期には、本丸、西の丸とその背後を固守する松尾山があり、それらの諸曲輪を北から東に空堀を巡らせ防備を固めていた。東西に長い砂州という地形に制約されるため、城域の 拡張も自ずと本丸を中心に東西に拡張されていった。後に拡張された二の丸と三の丸には、それぞれ西大手門、東大手門の二つの 大手門が存在することから両頭の城との異名をもつ。整備された本丸に対し、二の丸と三の丸はほとんどが宅地・農地・幼稚園・工場等に改変されており往時を偲ぶのは難しい。一方、南外堀などは未整備であり、今後の整備に期したい。 <歴史>築城時期については諸説があり、天正6年(1578)から天正8年頃、もしくは天正2年から天正4年頃といわれている。横須賀城 の選地は、最初から現在の地とされたわけではなく、石津の八幡山(石津八幡神社)や、後に、横須賀城主大須賀氏ならびに本多氏の 菩提寺撰要寺が建立される丘陵も候補地となった。早くも八幡山では掻き上げ砦、すなわち臨時的な城砦が築かれはじめたとされる。天正6年(1578)7月、徳川家忠は「よこすか取手場」にて取手(砦)の普請の最中であることを日記に記している。この横須賀砦 とは、現在の横須賀高校グランドの北にある水道貯水場、忠霊殿のある北側にあたり、その名称も伝承されている。家康は当初、この南に位置する三熊野神社北側の山稜に築城を考えた。山頂からの眺望が効き、とりわけ南方の遠州灘沿いの浜街道を眼下に収めることができ戦略上絶好の地にあった。しかし、三熊野大権現を奉還した由緒ある社であり、家康はそこを見下ろす場所に築城することは畏れ多いと考え断念。最終的に三熊野神社北側の山稜から西方に位置する松尾山に築城することとなった。松尾山にも若一王子権現の 社があったが、北方の小谷田に移した。築城の選地においては屈折を経たが、松尾山とその周辺への築城は家康自らが縄張りをした最初の城郭とされる。後の天下人にとって最初の本格的な築城にかかわった城郭として、浜松城と並び横須賀城も出世城とされる所以 である。完成後も家康と信康はたびたび来城しており、髙天神城奪還に対するなみなみならぬ決意と執念が窺える。天正9年(1581)、 家康は小笠山砦、三井山砦、中村城山砦をはじめとする六砦を主に20ヵ所にも及ぶ徹底した攻囲策と、横須賀城、馬伏塚城をはじめ とする兵站ルートによる圧倒的兵力をもって念願の髙天神城を奪取する。遠江平定においては欠くことのできない髙天神城であったが、家康は奪還後間もなく廃城としてしまう。難攻不落の城郭として戦術的には優れた城郭であったが、三河、遠江、駿河の三国を手中にした家康にとってはもはや髙天神城に戦略上の意味はなくなってしまったのである。廃城とした髙天神城とは逆に、横須賀城には城代を置き拡張整備をし、新たな拠点城郭としている。潟湖の入口を押える地勢的優位性と、兵站基地、とりわけ海路輸送の湊と しての機能を重視したものと考えられる。天正18年(1590)、豊臣秀吉による天下統一後は、徳川家康が関東に移封されると横須賀城には豊臣配下の渡瀬繁詮が入城、繁詮は織豊城郭として整備、拡張を行った。<関連部将>大須賀氏、渡頼瀬氏、松平氏、井上氏、西尾氏</関連部将> <出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.09.30
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長浜城といえば、琵琶湖の畔に羽柴秀吉が築城した城が、有名であるが、こちらの長浜城は駿河湾の岬に作られた北条氏の海城である。長浜城があるのは、沼津市の中心部から伊豆半島の西海岸を南下していくと、伊豆・三津シーパラダイスと発端丈山登山口を過ぎた長浜観光漁業組合のある場所からのぼる小高い岬の上にある。当初訪れたときは、あまり整備されていなかったが、今は登り口に説明版もあり、城跡までは階段も新設され、城の遺構の復元・整備もなされていて、観光施設と入ってもよい。<地図>長浜城址は現在の内浦長浜・重須の両地区にまたがる海に突き出した岬の上にある。この地域は、当時は「西浦」と呼ばれ、戦国時代にも存在が確認できる北条氏の被官衆の子孫が今もなお暮らしている。被官衆のなかには明応4年(1495)頃、伊勢宗瑞が 韮山を拠点としたときには伊勢氏にすぐに従ったものもおり、このこともあって西浦は早くから北条氏の御料所となっていた。永正15年(1518)発給の「伊勢家朱印状」には「代官 山角 伊東」と記されていることから、伊勢氏が北条に改姓する前にはすでに西浦に代官が派遣されていたことがわかる。ただし、この段階から西浦が特別重要な軍事拠点であったわけではない。確かに西浦は、伊豆の拠点である韮山城から西へ出るために重要な湊であったと考えられるが、西は今川領であって、伊勢氏とは 敵対する関係ではなかった。この地域の役割は先の伊勢家朱印状によれば、「毎日御菜御年貢」を収めることとあり、当時韮山にいた 宗瑞らに「毎日御菜」すなわち、毎日のおかずを納入する役割を担っていたようだ。このほかにも永禄6年(1563)にはイルカの追い込み漁のことが、さらには北条氏が滅んだ天正18年(1590)の「西浦七ヶ村納所覚」には「タイ、ブリ、ヨコワ、アンコウ、エビ、イカ、タコ」が税として記されている。同年の「浅野長政代官連署状」には長浜の大川氏に対し、徴収の権限を「前々のすじめ(筋目)にまかせ」とあることから、先の魚介類は北条氏段階においても、一貫して納入されていたものと考えられる。このように魚介類の 納入がこの地域の重要な役割であったようであるが、この他にもこの地域の被官衆の役割には、海運業があった。天文23年(1554)発給の「北条家朱印状」には、北条氏康の息女が今川氏真に嫁ぐ際「西浦御領所船方中」に対して「大事之荷物」を「西浦より清水迄」自ら上乗りして船で運べとある。同じ駿河湾とはいえ、彼らは北条領を超えて、今川領までも行っていた。 <遺構>長浜の城山は、平時では魚見の場として利用される一方、戦時の際においては軍事拠点として機能した。戦いのない江戸時代に おいても魚見の場としての利用が多く、後世の改変が少なかったことから、城郭遺構は今もなお城山にその姿を残している。城の主要 な曲輪は、標高33mの第一曲輪を中心として山側へ向けて、第二・第三・第四曲輪が直線的に並び、さらに海側に向かって曲輪A・B・C・Dが配されている。第一から第四曲輪の間には土塁や堀切が認められるが、これらは山側と中心に造られており、海側には視界を遮る ものはなく開放的な造りとなっている。したがって頂上の第一曲輪から海側を見れば、内浦湾すべてを見張ることができるうえ、さらに現在の沼津市街地、すなわち武田方の三枚橋城までも見通すとこができる。現在も海には数多くのヨットが係留されているが、当時は これが軍船であったと想像すれば、今の穏やかな景色とは異なる情景が思い浮かぶことになるだろう。この第一曲輪では面的な発掘が 行われているが、建物跡は検出されなかった。また遺物もその大半は、儀礼行為にも使われる素焼きの器(かわらけ)であって、ここで の生活の痕跡は認めがたい。基本的には見張りの場であるとともに、船団への指示の場所、さらには出陣の際の儀礼行為の場としての 利用などもあったのかもしれない。一方、最も広い第二曲輪では幾度かの建て替えを経ているものの、計六棟の掘立柱建物があった。遺物は15世紀後半から16世紀末ごろまでの生活に関わる陶磁器類も出土しており、第一曲輪との性格の差をうかがわせる。第二曲輪北東隅では方形竪穴に掘られた中に掘立柱建物が三度の建て替えを行った痕跡を残して発見されている。城山唯一の総柱建物跡 で、遺物は年代を特定できるものは出土しかかったが、遠江以西より搬入された白色胎土のかわらけがまとまって出土している。遠江 以西は北条氏にとって常に他国であり、なぜこれが長浜に搬入されたのかはわからない。しかし白色胎土のかわらけが廃棄されるこの 建物は、他の建物とは異なる性格を持っていたのは明らかである。現段階では、他の建物よりも堅牢な構造であること、繰り返し立て直されていることから「第一曲輪の裾」以外では機能しない建物であること、そして第一曲輪への通路や階段が発掘調査で発見 されなかったことなどを根拠に、第一曲輪と第二曲輪をつなぐ階段を備えた「櫓」であった可能性が高いと考えられる。そしてこの櫓と対となって第一曲輪を守る施設が堀切Iである。堀切Iは凝灰岩を掘り込む箱堀で、上幅3.3m、深さは1.6mで、南西側は斜面に掘られた 竪掘に続いていく。二つの堀の間には凝灰岩を掘り残した畝が存在し、堀切Iは曲輪の裾に造られた小さなプールのような形態となって いる。第二・第三曲輪の間には二度の折れをもつ虎口があり、発掘調査では門柱跡も発見されている。ただこの虎口は、当初から虎口 であったわけではない。この空堀には、元々堀切があり、これを一定の高さまで埋め戻したうえで、両曲輪の土塁を拡張し、門を備える という改修を行っていたことが発掘調査で明らかになった。なお、堀の最下層からは15世紀後半の遺物が出土していることから、北条氏 が西浦を治める前からも、城山に防御施設があった可能性もある。そして堀切から虎口への改修は、複雑に横矢が掛かる構造であること、さらに虎口付近では16世紀後半の遺物が出土していることから、先にみたような伊豆に脅威が訪れた時期、すなわち武田氏への備えを 強固にした時期に改修されたと考えられる。 <歴史>北条氏に被官衆は、軍事的に特化した集団であったわけではない。平時の西浦は良好な漁場であり、特に漁を行う際、長浜の城山は魚見の場として利用されていたと考えられていたと考えられることから、彼らは漁民としての性格が強かったのだろう。しかし幾度か伊豆に危機がおよんだ際には、長浜は伊豆を守る軍事拠点として機能し、また被官衆としての働きもあった。最初の危機は天文5年(1536)に始まる河東一乱の時である。宗瑞段階では今川氏との関係は良好でであったが、次代の氏綱の段階では武田・今川氏 と争うこととなり、これによって西浦は駿河湾を隔てて今川領との前線地域となった。被官衆出陣そのものは記録なないが、吉原周辺で北条氏と今川氏が戦う際には、西浦被官衆は韮山からの兵粮などの運漕を担った可能性がある。河東一乱は天文23年(1554)の三国同盟によって終結したが、この同盟も永禄11年(1568)に武田氏が破棄し、武田氏は駿河へと侵攻を開始した。これに対し北条氏は今川氏に加勢するため、清水新七郎ら300人を船で掛川城へ送った。船を用いたことから、この派兵にも西浦被官衆が関係している可能性がある。またこの時の武田信玄の侵攻は伊豆にもおよび、伊豆の最重要拠点である韮山城も攻撃を受けた。記録は残されていないが、韮山を守る長浜城にも影響があったと考えられる。なお、これ以前も含め、この段階に長浜の城山を管理していたのは、西浦の大庄屋 であり、永禄2年(1559)に編纂された「小田原衆所領役帳」において韮山の付近に十貫文をもつ重須の土豪、土屋氏と推定される。その後、北条氏は武田氏と甲相同盟を結んで和睦をしたが、その同盟も天正7年(1579)に破棄され、再度武田氏との抗争が始まった。この段階では武田氏は駿河国も治めており、伊豆との境の地である沼津に三枚橋城を築くとともに、今川氏の水軍を取り込んで自らの 水軍を強固なものに整えていた。伊豆はこれまでにない脅威を迎えていたといえる。そのため、北条氏は天正7年11月7日付けの「北条氏朱印状」において「長浜ニ船掛庭之普請」を命じ、ここに当時江戸湾において里見水軍との抗争で戦果を挙げていた梶原景宗を送った。梶原は当時の最先端軍船である安宅船を運用できた水軍将であり、「北条五代記」によれば、彼が運用する安宅船の数は10艘にもおよんだらしい。北条水軍の主力艦隊が長浜に集ったといえる。もはやこの脅威は土屋氏をはじめとした地元被官衆では対応できない ものになっていたのだろう。翌年3月には、駿河湾において大規模な海戦が行われた。「北条五代記」によれば、決め手には欠けた ものの、梶原と安宅船艦隊の活躍により北条水軍が優勢であった。また天正8年には「年来の戦功浅からず」という理由で大船一艘を 新規造船していることから、梶原は伊豆の防衛において一定の戦果を挙げていたようである。だが一方で武田方の水軍将が梶原艦隊を 討ち破ったとする「武田勝頼書状」もあることから、実際はどうやら戦いは一進一退であったようだ。武田氏との抗争は天正10年 (1582)に織田徳川連合軍が武田氏を滅ぼすことで終結を迎えた。梶原も伊豆を去り、西浦はふたたび平時に戻った。おそらく長浜の 城山の管理も地元被官衆に戻されたのだろう。そしてしばらくの間、西浦は平穏であったが、豊臣秀吉の小田原攻めの際、ふたたび緊張 状態に入った。天正17年(1579)、韮山を預かる北条氏規に宛てた「北条氏政書状」には、長浜は「韮山外張先之城」であるから、氏規 が念を入れて指揮せととある。「外張」とは「防衛網」のような意味であろう。さらに翌年には氏規から「長浜之城之儀」について申し入れがあった。ここには重須の土屋氏ではなく、長浜の土豪である大川氏の名が記されている。しかし備えを厚くしたものの、豊臣軍の艦隊は伊豆半島を回り込んで、直接小田原へ向かうものであったため、長浜城付近では大規模な海戦は行われなかった。そして小田原城の開城により長浜城は廃城を迎えたと考えられる。ふたたび漁場としてその性格を戻したのであろう。 <関連部将>土屋氏、梶原氏、大川氏</関連部将><出典>東海の名城を歩く 静岡編(中井均ほか)</出典>
2023.09.23
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最近のタモリの「ブラタモリ」の番組で、山形城が広大な規模の城であることの話があった。戦国時代の最上家が100石大名であったので、当然のこととだと思って見ていた。しかし、私が訪れたときは、霞城公園の入り口で、何かイベントがあるのか、警備員に城に行くと言ったら、大したものはないよといわれた。確かに石垣や大きな門はあるが、近世の天守閣は復元されていない。でもさらに公園内を散策していると相当広い発掘調査が行われている場所もあって、大規模な城であったことは実感した。<地図>山形城はJR山形駅のすぐ北にある堀で囲まれた霞城公園の中にある。公園内には山形県博物館や山形県体育館などの公共の施設ともに、門や櫓跡の遺構が残されている。駐車場に入る前に係の人に城を 訪問するためにきたというと、何もないよといわれた。復元された門や塀などと遺構の発掘調査中のような 場所もあった。 <遺構>中世段階の山形城の姿は不明な点が多いが、発掘調査により少しずつ明らかになりつつある。二の丸 地内の発掘調査で、幅13.6mの堀が検出された。出土遺物や遺構の切りあいから、16世紀後半頃の遺構と考えられる。ごく一部が確認されたのみであり全体の形状は不明であるが、規模の大きい区画があったことは確実である。この堀は、中世山形城の中心施設は未検出であるものの、「探題御所」を取り囲む方形館の 一部であると考えられる。いっぽう、三の丸地内では、幅が3~6mの方形館が複数検出された。出土遺物からこれも16世紀後半と考えられる。二の丸地内でみつかった大規模な溝と比較すると小規模であるので、最上氏の家臣の居所であると想定される。ただし、この時代は家臣でも自らの居城を有しているので、江戸時代のように常に城下町に集住しているわけではない。室町時代の史料によると最上氏は鎌倉の鎌倉公方に伺候することがあり、鎌倉近隣の長尾という地に館を有していたので、「長尾殿」と呼称されていた。このような 鎌倉公方と最上氏の関係と、最上氏と家臣らの関係は類似していたと思われる。三の丸地内の方形館は、自らの 居城から山形城に伺候する際の家臣の宿館であろう。天正18年奥羽仕置以後の改修により、近世城郭へと変貌 していく。瓦・礎石建物・髙石垣が近世城郭の構成要素とされるが、先に瓦と礎石建物が導入されていく。この時期の瓦は、軒丸瓦が山文を、軒平瓦が宝珠文をモチーフにすることが特徴である。奥羽仕置の翌天正19年 には、早くも最上義光は京都における豊臣秀吉の公邸である聚楽第の城下町に屋敷の建設を進めている。この最上屋敷の推定地から、山形城の出土瓦と類似する山文軒丸瓦が出土しており、山形城の瓦のルーツは 京都など畿内であると考えられる。また、本丸御殿から礎石建物が検出されている。山形城の調査で中世段階の 礎石建物は確認されておらず、近世城郭の一つの要素である。いっぽう、髙石垣は元和8年以降の改修により初めて構築される。二の丸の城門には石垣が現存しているが、このような石垣は最上氏時代に遡るものは確認 れていない。瓦・礎石建物が先行し、髙石垣が遅れて導入されるのが山形城の特徴である。近世初頭、最上氏時代の城絵図は写本を含めると相当数現存しているが、最も資料的価値が高いとされるものの 一つが「藤原守春本」である。写本した「藤原守春」なる人物の署名があり、元和8年最上氏改易の際に引継ぎ のために作成されたと考えられている。これによると、本丸には城門が二ヵ所、二の丸に5ヵ所、三の丸に11ヵ所 設けられている。本丸には「御本丸」の記載があるのみだが、御殿があったと考えられる。二の丸には。4名の家臣のほか「御横目衆」「御中館」「西仙」などの施設が所在する。「御横目衆」とは、元和3年(1617)に 最上家信がわずか12歳で家督を継ぐが、家臣の不和があったため、家臣を監視する目的で幕府が派遣した目付衆 の宿所である。三の丸は、若干の寺社があるほかは上層から中層クラスの家臣屋敷が広がっている。大身の家臣の屋敷が二の丸および三の丸の城門付近に配置され、守りを固めるのが特徴である。城下町は三の丸の 南から東を通り北に抜ける羽州街道沿いに形成されている。57万石の領国を有する最上氏は家臣数が多く、 三の丸に入れない下層クラスの家臣がここに屋敷を構えているほか、商工業者が集住していた。 <歴史>延文元年(1356)に羽州管領として山形に入部した斯波兼頼が、翌年に築城したのが創建とされる。斯波氏はもち最上氏と名乗り、山形城は最上氏代々の居城として機能していた。永禄6年(1563)に最上義守・義光父子が上洛するが、その様子を記した公家の山科言継は彼らを「出羽国之御所」と表現している。当時 の奥羽で「御所」と称されるのは、最上氏のほか陸奥国大崎の大崎氏と陸奥国浪岡の北畠氏のみで、彼らを 中心とした身分秩序が成立していた。この場合の「御所」は最上父子に対する敬称であるが、居城において 彼らの身分を示す儀礼を行う建築物、すなわち「御所」が存在していたことは想像に難くない。また、城郭 の南郊に所在する臨済宗寺院の勝因寺は、文亀元年(1501)から永正4年(1507)の間に室町幕府から十刹寺院 に任じられている。十刹寺院は室町幕府と強いつながりを持った領主の本拠にのみ設置されていたことが知られ ている。最上氏は羽州探題を自負するが、全国各地で明らかになりつつある守護所と類似する構造が中世山形城 にも確認でき、さしずめ「探題御所」とでもいうべき構造を有していたと想定される。山形城が近世城郭へと姿を変えるのは、最上義光の時代である。天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥羽仕置により、義光は豊臣政権 の支配下に入る。その直後の文禄元年(1592)から2年(1593)にかけて、最上義光は山形城の改修に関する 指示を出している。文禄2年にお書状には「うちたて」の堀の普請を指示しているが、「うちたて」とは本丸 のことと思われ、この時に二の丸付近までの複合的な郭が形成されたと考えられる。慶長5年(1600)の関ヶ原 合戦で徳川家康に味方した功績により、最上義光は庄内と由利地方を加増され57万石を領有するが、最上氏は 加増に見合った居城の整備を進め、三の丸や城下町が形成された。元和8年(1622)、最上氏は義光の孫の 家信の代に改易され、跡に譜代大名の鳥居氏が入部する。このとき、城請取り役の永井直勝が城郭の破損箇所 が多い旨を報告したところ、幕府が直接城郭の修復にあたっている。また、鳥居氏も独自に修復を行った。この改修で、本丸・二の丸の郭が最上氏時代より外側に拡張されている。ここで形成された基本的な縄張が、江戸時代を通じて維持されることとなる。現在、。二の丸の堀・土塁が現存しているが、これはこの時の 改修を経た姿である。本丸堀・土塁は、明治29年(1896)に陸軍歩兵隊第32連隊が入部した際に更地にされ 現存していなかったが、現在行われている整備事業に伴って徐々に復原されている。 <関連部将>最上氏、鳥居氏、保科氏、幕僚、(結城)松平氏、(奥平)松平氏、堀田氏、(大給)松平氏、幕領、秋元氏、水野氏</関連部将><出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>
2023.09.17
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白石城があるのは、JR東北本線白石駅の西側で白石川と益川の中間点にある。地方への補助金で建てられた木造の復元三階櫓が象徴的な城である。「もみの木が残った」に出てくる片倉氏の居城であったと思い訪れたが、案内してくれる人がいて、城を見学したあとで、武家屋敷が近くにあるというので、先に案内した人がそこまで案内してくれた。その人は私の仕事だった職業に関連した人で、道道、話が弾んだ。武家屋敷は、江戸での屋敷と異なり、土間があって、農家とそれほど差がないことに驚いた。 <地図>JR白石駅から西へまっすぐ歩き、商店街を過ぎると正面に小高い丘が見えてくる。そこが白石城である。木造で復元された三階櫓(天守)があることで有名である。東北本線や東北新幹線の車窓からも見え、蔵王の 山々を背景に白く輝くその姿は大変美しい。白石市のシンボルである三階櫓は、平成7年(1995)に木造復元 された。東北では、平成3年に復元された福島県の白河小峰城についで二番目である。最上階からは、城下町 から蔵王連峰まで見渡すことができ、絶景の一言である。三階櫓のほかにも、大手一の門、二の門、土塀、本丸周囲の石垣も合わせて復元・整備され、往時の雰囲気を味わうことができる。隣接する白石城歴史探訪ミュウジアムでは、白石城や片倉家関係史料が展示されている。また、城下には一ぶ武家屋敷が残り、当時の街並みを感じることができる。合わせて見学したい。 <遺構>関ヶ原の戦い後、慶長7年に白石城に入城したのが、片倉小十郎景綱である。白石城は、仙台藩のなかで 仙台城以外に「城」と幕府に公式に認められた城として有名である。以後、幕末まで代々片倉氏が城主であった。江戸時代の白石城は、当初は北側に大手門が設けられていたことが、「正保城絵図」などからわかっている。関ヶ原の戦い時の白石城攻防戦の時も、「大手口」は北側だったというので、おそらく、蒲生・上杉氏時代からそうだったのだろう。しかし、天和3年(1683)に描かれた「天和絵図」では、東側にあった従来の卯之方門が改修されて大手門(二の丸大手門)となり、従来の大手門は厩口門に改称されているのである。さらに、城下町 と接する南側の田野口門も、正保絵図では埋門だったのが、天和絵図では半円形の土塁と三日月堀を持つ丸馬出に改修されている。こうした縄張攻防の変化の理由であるが、まず大手門の変更については、北側は仙台方面であり、伊達氏に対して弓を引く形になってしまうため失礼にあたるので改修した、という説がある。それに対して、近年の研究では、この時期の白石城大改修と城下町設計との関係や、仙台藩主伊達氏の意向によるもの ではないかとされている。次ぎに、馬出へ改修した背景としては、家格や要害性とともに、馬出の存在自体が 仙台藩においてステータスシンボルとなっており、白石城も藩内唯一の「城」としての格式を内外に示すために、仙台藩主伊達氏の意向で造られたのではないかとされている。白石城を見学する際には、復元された三階櫓のみならず、石垣や縄張構造、城下町も合わせてじっくり見学することをおすすめしたい。なお、市内の延命寺に 厩口門が、当信寺に二の丸大手二の門が移築現存している。ほかにも市内外に移築建物が現存している。 <歴史>白石城は、白石氏の居城として造られたのが始まりらしい。白石氏は、鎌倉時代の武士刈田氏を祖 とし、五代秀信の時に白石氏を名乗り始めたという。その後、戦国期になると伊達氏家臣として白石氏が史料 上の登場するようになり、このころには白石城も築かれていたものと思われる。なかでも、伊達政宗に仕えた白石宗実は有名であろう。宗実は天正14年(1586)に福島県の宮森城へ移っているので、変わって屋代景頼が城主になったとされる。白石氏時代の白石城の場所は、よくわかっておらず、縄張構造も不明である。本丸の発掘調査によると、一ぶ中世の遺構と思われるものが出土しているという。そのため、現在の城跡と同じ場所にあった可能性も高いが、そこから数百m南に位置する傑山寺の裏山に比定する説もある。いずれにせよ、近世の白石城からそう遠くない場所に築かれていたものと思われる。天正19年、秀吉による奥羽再仕置が行われると、白石は蒲生氏郷の領地となった。そして、白石城には一族の蒲生源左衛門尉郷成が入部し、その名を益岡城に改めた。蒲生氏の入城により、白石城は大きく変貌を遂げた。上方の築城技術が導入され、いわゆる織豊系城郭としての白石城が誕生したのである。近年の調査によって、本丸石垣の一部は、石の形や積み方などからして、蒲生氏によって文禄年間に築かれた可能性が高いことがわかった。蒲生氏は、本拠の若松城を始め、三春城や守山城、二本松城など、各地の支城に織豊系の石垣を築いていることが知られており、白石城も同様だったこと になる。また、本丸の三階櫓の発掘調査では、三時期の遺構が検出されたが、もっとも古い柱穴は、蒲生氏時代のものと考えられるという。江戸初期の「正保城絵図」を見ると、三階櫓の部分が二階櫓として描かれていることが知られる。そのため、蒲生氏時代にも二階櫓だった可能性が指摘されているが、正保段階ではすでに三階櫓だったという説もあり、上杉氏時代との関係など、なお不明な点が多い。蒲生氏郷の死後、後を継いだ蒲生秀行は、慶長3年(1598)に下野宇都宮に転封となった。変わって移ってきたのが、越後の上杉景勝であった。上杉氏は、白石城に重臣の甘粕景継を城主に据え、白石城の改修を行った。慶長5年の関ヶ原の戦いの時に、 白石城は上杉氏と伊達氏との壮絶な攻防戦の舞台となったが、「貞山公治家記録」によると、「本丸」「二の丸」「中の丸」「厩郭」「帯郭」「三の丸」「外郭」などの諸郭があったことが確認できる。これは、江戸時代の白石城の縄張構造と基本的に一致しており、少なくとも上杉時代には江戸時代の白石城の原型がほぼ完成して いたことがうかがわれる。 <関連部将>白石氏、蒲生氏、甘糟氏、片倉氏</関連部将> <出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>
2023.09.09
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霊山が位置するのは、福島市から相馬市に抜ける中村街道(R115)の霊山町石田から北へ山道を登ったところにある。城跡めぐりで登る人は少ないようで、訪れたときは、霊山に登山する人たちが大勢登っていた。道の途中には名前の付いた岩が点在していて、古くから信仰の対象となっていたことがうかがえる。<地図>霊山は、阿武隈高地上に位置している。霊山が位置する阿武隈高地の西部には、福島盆地が位置し、東部は、福島県浜通り地方へとつながる。霊山寺に残る「奥州伊達郡東根南岳山霊山寺山王院縁起」によると 霊山寺は、慈覚大師を中興とし貞観元年(859)に創建されたと伝えられる。霊山の山上には、多数の平場や 礎石建物跡が確認され、その一部を現在も見ることができる。最高所となる東物見岩(標高825m)からは、東に太平洋を望むことができる。また、西物見岩から西部を見ると眼下に福島盆地を望むことができる。ハイキングルートとしても人気が高く、春の新緑や秋の紅葉シーズンには、多くの登山者に親しまれている山 でもある。現在は、福島から相馬へ抜ける115号線(中村街道)側の登山口から登るのが一般的であるが、中世 霊山寺に至るルートは、「霊山寺縁起」をもとに見ると霊山寺北側に位置する大石地区からのルートが中世来 の主要ルートの一つであったようである。霊山は、阿武隈高地上に位置し、最高所の標高は、825mを測る。「霊山寺縁起」によれば、慈覚大師により開山された霊山寺から始まるとされる。山中には、多数の平場や礎石建物跡が確認され、往時に山岳寺院の景観を良く残している。採集された考古資料の中には、9世紀後半の 遺物も含まれ、平安時代より機能した山岳寺院の様相をうかがい知ることができる。その後、南北朝時代には、山頂にある霊山寺の主要伽藍を利用して霊山城として機能したとされる。霊山寺の主要仏殿となる箇所が、これに当たり、現在埋没しているが、東西50m、南北55mの方形に堀と土塁により区画されていたと考えられ ている。また、この時、南朝方の拠点として陸奥国府が移転されたとされ、霊山城南下に位置する礎石建物跡がこれに当たるものと考えられている。国司館南方には、国司池(別名、松賀池)が所在し、この周辺に多くの平場や礎石建物跡が確認できる。霊山城は、このような立地条件の中に位置している <遺構>北畠顕家が陸奥国府を霊山へ移したもは、延元2年(1337)とされる。足利尊氏へ呼応ものが増える中での 国府機能移転であった。霊山は、阿武隈高地上に立地し、周辺は、南朝の勢力で固める要害の地であったと考えられている。西方は、評定衆の一人であった伊達氏の支配領域であり、霊山から大石へと続く道から霊山 を概観する。大石から東方を見ると、霊山の異様ともいえる岩領を望むことができる。この大石から霊山へ 向かう。地元では祓川と呼ばれる大石川沿いに霊山へ向かうと山麓に登山口(霊山閣)が現れる。そこから古代霊山寺からの行場とされる紫明峰の伊岩領帯を抜けると大宮(山王社)へとたどり着く。ここから、南へ稜線伝いに歩くと国司館と伝えられる国司館遺構群へつながる。丘陵上には20以上の平場が確認されており、礎石建物も5棟確認されている。この内、南北二間、東西三間に四面庇が付く礎石建物が国司館とされる建物である。この北にある最大規模の平場は、根本中堂と目されている。また国司館南部には、国司池とされる水場 が所在している。東部は、切れ落ちた崖となり、前面には福島盆地北部にあたる伊達郡が見渡せる。また、西部 には、奥深い阿武隈高地が広がることとなる。この付近からは、陶器の破片や硯、太刀などが採集されている。また、国司館跡北東の二ツ岩からは、青磁盤や青磁花盆が採集されている。これらの青磁は、韓国全羅道沖で見つかった新安沈没船に類例が認められ、14世紀前半に位置付けられるものである。陸奥国府移設および機能 時期とも重なり、陸奥国府の文化面を考える上でも貴重な資料といえる。また、大宮から東部へ向かうと寺屋敷 遺構群などの伽藍郡が認めされる。丘陵斜面を雛壇上に削平し伽藍を構成している。現在でも30以上の平場が確認される。最頂部には、奥の院観音堂と目される三間堂、その直下には、六角堂などの礎石建物跡が確認されている。また、その東には、霊山寺別院と目される東寺屋敷遺構群が所在し、現在もその一部に礎石を目にすることができる。このように霊山城は、古代より続く霊山寺の伽藍群および自然地形を活用したものであり、南朝方になる伊達氏や結城氏の領域を梃子として機能した国府跡と考えられる <歴史>鎌倉時代末期、気候変動による飢饉、蒙古襲来などの影響は、鎌倉御家人たちの得宗専制に対する政治 不信を増幅させ、ついには幕府の滅亡へとつながって行くこととなった。その後、倒幕の中心的役割を果たした 後醍醐天皇は、中央集権的な国家の形成を目指していく。この際、東北の地には、後醍醐天皇の息子である義良親王が下向し、陸奥守として北畠顕家が派遣されることとなる。また、これより先に、足利尊氏が鎮守府 将軍、護良親王が征夷大将軍に任命されている。元弘3年(1333)10月、顕家は、後醍醐天皇の命を受け多賀国府(宮城県多賀城市)に入り、東北地方における統治システムの構築を図っていく。義良親王の下、陸奥守として、式評定衆・引付・諸奉行を配置し、政治的ブレーンとなる式評定衆には、結城宗広・親朝、伊達行朝などの在地有力国人が登用された。しかし、後醍醐天皇による中央集権的な統治機能に対し、所領 安堵や様々な問題解決に遅れが出始めると次第に後醍醐に対する不満を招く結果となり、旧北条氏勢力が挙兵 する事態にまで発展することとなった。建武3年(1336)7月には、北条時行が信濃で挙兵し、鎌倉を手中にすると(中先代の乱)、足利尊氏は、後醍醐の命のないまま鎌倉を奪還し、建武政権からの離脱が明白なものとなっていた。この尊氏の動きは、東北の地にも大きな影響を与えることとなる。足利尊氏のこの動きに呼応する者が現われ、尊氏は、斯波家長を奥州総大将に命じ、東北支配の強化を行っていく。この混乱した情勢の中、顕家は、陸奥国府を霊山へ移すこととなる。足利方は、建武3年(1336)に川俣城(川俣町)・小高城(南相馬 市)を攻め、霊山の包囲網を構築していった。このように東北の情勢が不安定中、北畠顕家は、後醍醐の上洛命令に随い、京へ向かことなる。延元2年鎌倉を攻めこれに勝利した顕家は、伊勢から奈良へと進むが、和泉国石津の戦いで命を落とすこととなった。その後、結城宗広の働きかけもあり、顕家の弟である顕信が陸奥守 兼鎮守府将軍となり、南朝勢力の回復を図るが、足利方に転ずるものが増えることとなる。この情勢の中、貞和3年(1347)頃、霊山も落城したと考えられている。「霊山寺縁起」は、このことを「足利の軍勢当山に攻登、即時に踏落す、依て神社仏閣一宇も残らず焼払はれ、代々の重宝。御朱印。棟札等皆焼失せり」と記 している。その後、霊山寺は、霊山城の西方に伊達氏により応永8年(1401)に再興されたとされ、その箇所が、宮脇廃寺跡として平成26年(2014)に国の史跡指定を受けている。調査により出土した半栽菊花唐草文軒平瓦は、室町幕府と深い関連性をうかがわせ、南北朝の動乱の中、足利氏との連携を急速に深めていく伊達氏 の姿を物語っている。 <関連部将>北畠氏</関連部将> <出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>
2023.09.02
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平城があるのは、JRいわき駅の北側の丘陵地帯でである。訪れたのは、岩城平城中門跡の方からで、小高い丘の上から丹後沢公園には階段を下りてゆく。城域は公園や建物が立っていて、城の遺構はみあたらなく、水堀あたりまで行ったので、城跡に来た感じがしなかった。もっとも、城の規模は大きかったらしいので、広範囲に歩きまわれば城跡を感じられたかも知れない。<地図>常磐平城は、龍が寝ている形に似ていることから「龍ヶ城」、丹後沢にアヤメがたくさん咲いていたことから「あやめ城」の別名がある。いわき市の中心市街地である平の町を見下ろす標高39mの台地上に占地している。台地の北には好間川、東には夏井川、南には新川が流れ三方を河川に囲まれている。台地周囲は急崖で天然の要害となっている。 <遺構>岩城平城は梯郭式の城郭で、台地東端部に本丸を置き、西に向かって大手郭・大手外郭。内記郭と三つの 郭を直列させる。内記郭の西端の門が六間門で、ここを出ると主郭の外側(広小路)となる。これらの郭は本丸とほぼ同じ標高である。いっぽう、本丸の東側は一段低い位置(標高約30m)に焔硝郭と水手郭が巡る。さらに水手郭の東端に出枡形の役割を持つ水手外郭が取り付く。ここが城の裏門である。水手郭の北東の台地には二の丸・三の丸がある。標高は25~29mを測る。本丸北側の堀(丹後沢)をはさみ杉平郭(のちの三の丸)がある。本丸の広さは東西八〇間・南北八五間である。この広大な敷地の中に藩主が居住する平屋の御殿が建てられていたが天守はなかった。天守に代わるものとして、本丸縁辺に三階櫓と八ツ棟櫓が作られた。さらに本丸の大手側も門に中門櫓、搦手側に塗師櫓・隅図櫓・櫛形門櫓が作られ守りを固めている。平城の石垣は、本丸の周辺に遺存している。大手の中門櫓石垣、搦手の櫛形隅図櫓石垣・塗師櫓石垣などがある。塗師櫓石垣 は、「すべて自然石で野面の大きさをそろえ、横目地を通すことを意識しながら、隙間に間詰を多く入れた 布積崩しの新穴太積で積み上げられている。角隅に切石の算木積が未発達なことから元和期の構築である」と され、市指定史跡となっている。岩城平城の縄張変遷の画期は、三の丸の移動と拡大である。「正保平城絵図」では、本丸の北東にそれぞれ三五間ほどの広さの小さな二の丸と三の丸が並列して位置し、本丸の真北に杉平郭(七〇間x七五間)が描かれている。ところが元禄頃の岩城平古地図には、正保絵図の二の丸・三の丸が まとめて二の丸・三の丸がまとめて二の丸、杉平郭が三の丸と記載されている。その後この呼称が定着する。築城当初、杉平郭は侍屋敷が建っていたエリアだったが、17世紀後半頃、おそらく内藤義概(風虎)の代に一部 の侍屋敷を移転させ、三の丸としての主郭エリアに取り込んだものと思われる。新しい三の丸には近江八景を模した庭園(伝承では元和園という)が作られた。庭園跡は現在も民家の庭としてその一部が残っている。次に 注目されるのは丹後沢の形成である。「正保平城絵図」では本丸を囲む内堀と丹後沢は繋がっており、水手郭 と二の丸の間には木橋が架けられていたらしい。ところが17世紀後葉の絵図では土橋状になり、18世紀になると 内堀と丹後沢の間は完全に埋め立てられてしまい現在の丹後沢の池が描かれている。この変更は防禦性よりも 移動の利便性を優先した結果であろう。城郭の西側の台地上には重臣の屋敷や寺社が配置された。台地下の 東側にが中間屋敷と足軽屋敷、南側・北側の台地下縁辺には桜井屋敷が置かれた。台地の南方、外堀の外側には 東西方向に浜街道が通り、道の両側に町屋が作られた。町の東西には惣門があり、東が鎌田門、西が長橋門である。街道筋の町割りは、西から長橋町・研町・紺屋町・一町目~五町目・白銀町・番匠町。大工町・新川町 などがあった。 <歴史>関ヶ原の戦いで西軍に味方した戦国大名岩城氏が領地没収になると、慶長7年(1602)12月、鳥居忠政が岩城10万石を拝領し入封した。岩城氏の居城大館は廃城となり、鳥居氏によって岩城平城が建設さた。 以降、岩城平には北の伊達氏への備えとして、歴代、幕府の信頼の厚い譜代大名が配置された。元和8年 (1622)、山形に移封となった鳥居氏に代わり、内藤氏が就封した。内藤氏は総検地、新田開発などに力を 入れ領国支配の基盤を作った。延享4年(1747)に内藤氏が日向国延岡に移封となり、井上氏が入封したが 10年足らずで大坂城代となり異動、宝暦6年(1756)には安藤氏が入封し幕末にいたる。 戦国大名岩城氏の居城大館城は、飯野平と呼ばれる東西1.5キロの台地の西半分、現在の松ヶ岡公園(薬王寺台)から平大館および好間町大館(権現山)にかけての台地上に占地していた。近年、平第一小学校の校舎建て替えに伴う発掘調査で戦国時代の堀が発見され、城域の東端が揚土台まで広がっていたことが明かとなった。台の東半分(近世の岩城平城)には、飯野八幡宮とその関連の僧坊などがあった。大館城の城下町は台地周辺に 形成され。久保町・古鍛冶町・根小屋が家臣団や直属の職人が集住するエリア、新川の南側の御厩宿・小島町 には市町が形成されていた。鳥居氏は岩城平城を作るにあたり大館城を完全に破却しそこを寺院地とし、城郭 を飯野平の台地東側の物見岡と呼ばれる先端部に新たに建設した。城下町も東側に移動させ町屋や侍屋敷を新たに建設したのである。岩城平城と城下町の建設は、慶長8年に着手され完成に12年を要した。 <関連部将>鳥居氏、内藤氏、井上氏、安藤氏</関連部将> <出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>
2023.08.26
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白川城は、阿武隈川と南湖の中間の丘陵にある。実は、白河城に行くつもりでカーナビに設定して着いたところが白川城であった。小峰白河城は近世の城で、規模も大きいはずで、城跡は林の中に広場があるだけの場所で、小峰白河城とな違うことがすぐ分かった。戦国時代に白河結城氏が勢力をもっていたことは知っていたので、ここがその本拠であったのかと納得した。<地図>白河市街地より東へ3キロ、阿武隈川右岸に標高400mほどの丘陵が連なる。その丘陵地を利用して、白川城 は築かれておる。その広さ、約36.6ヘクタールにおよぶ。 <遺構>昭和63年福島県教育委員会を主体とした「福島県の中世城館」の調査により、白川城跡の縄張図が作成される。さらに、城館周辺部における開発計画などに対応するため、平成7年(1995)には中世城郭研究会の 佐伯正廣により、広範囲におよぶ詳細な縄張図が作成され、白川城の基本資料となっている。丘陵西側の頂上部は、御本城山と呼称され、古くから城館の主郭と考えられてきた場所である。頂上部から北東の丘陵(中山地区)や谷部(下門入地区)にかけては、丘陵斜面部に階段状に配置された平場や堀切が確認できる。御本城山から北西にかけては、北西に開く谷部とこの谷部の三方を囲む丘陵地が存在する(藤沢山地区)。特に、北側の丘陵頂上部の周囲には、部分的ではあるが斜面部に構築された階段状の平場が存在する。また、谷部の奥は、時宗の寺院である「小峰寺」の旧所在地と推定される場所である。御本城山の東側(堤ヶ入地区) を挟んだ東にも、遺構のまとまりが見られる。北に開く谷部である美濃輪地区を囲むように丘陵が存在し、それぞれの丘陵頂上部には平場が、丘陵斜面部に小規模な平場が配置されている。西側丘陵頂上部の鐘撞き堂 山、東側の搦目山地区頂上部にも比較的面積の広い平場が存在し、城館としての大きなまとまりをみてとることができる。藤沢山にも、丘陵斜面部に小規模な平場の存在が確認できる。南の押さえとして位置付けがなされている。平成22年から26年度にかけて実施された確認調査により、白川城跡の変遷が明かとなった。御本城山地区に おいては、丘陵頂上部である1号平場、その北側の2号平場を中心に14世紀を中心とする遺構・遺物が確認され、南北朝時代における城館の中心が、御本城山地区であったと判断された。出土遺物中には、威信財と考えられる青磁の酒海壺蓋や三足水盤が存在している。15世紀から16世紀の前半代にかけては、御本城山地区の遺構は減少する。いっぽう、藤沢地区の「小峰寺跡」の伝承地においては、寺院跡の存在は確認できなかったものの、遺構・遺物の存在を確認できた。室町期以降の出土遺物は、城域東部の搦目地区・美濃輪地区に多い傾向があり、城館の中心が東部の搦目山地区に移動している可能性がある。御本城山地区周辺では、16世紀後半頃に南北朝期 の遺構面を覆う形で大規模な整地がなされたことが確認でき、その整地層上面に伴う遺構・遺物が確認されている。同様な整地は藤沢山地区中央部・北部等でも確認され、さらに共通した特徴を有する土師質土器が、藤沢山地区 北部・中山地区、搦目山地区等でも出土している。この時期、城域は硬派にに広がり、城域全体で大規模な改修 などが行われた可能性が考えられる。 <歴史>下総結城郡(茨城県結城市)を本拠とする結城朝光は、文治5年(1189)に源頼朝の「奥州合戦」において戦功をあげ、白河荘を与えられたる。朝光の孫で、白河結城氏の祖とされる祐広は、13世紀後半に 白河に下向し、白川城を本拠としたといわれる。祐広の子宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、新田義貞らと鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は、結城家の「惣領」に命じられ、のち天皇に反旗を翻した足利尊氏を破り、天皇から「公家の宝」とまで賞賛されている。南北朝内乱期を へて、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有し、福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任じられ、その職権を背景に、室町時代には奥州南部から北関東にまで勢力を伸ばし、室町幕府から南奥の雄と認識される に至った。現在の地が、白河結城氏の本拠であることは、すでに江戸時代から認識されていたようでで、文化2年(1805)編纂の「白河風土記」の記載や、城館の北東部の断崖に結城宗広・朝光の忠烈を刻んだ 「感忠銘」碑の存在から伺うことができる。こうした江戸期の認識あ近代以降も失われることなく、城館の保存が図られ、昭和12年(1937)には、御本城山に「忠烈碑」や結城氏を祀った祠などが建設されている。さらに、昭和28年(1953)には福島県の史跡に指定された。 <関連部将>結城祐広、宗広ほか</関連部将> <出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>
2023.08.20
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小峰城があるのは、JR東北本線白河駅と阿武隈川に挟まれた城山公園内にある。駐車場から城に向かって行くと、通常の石垣の組み方とはことなる石垣が目に付く。城内は三階櫓などの建物も復元されており、近世の城の様子を見ることができる。水堀が残されているのもいい。<地図>JR東北本線白河駅のホームに立ち、北側を見ると木立に向こうには、石垣と平成3年(1991)に木造で復元された「三階櫓」の優美な姿が目に飛び込んでくる。 <遺構>小峰城の石垣は、現在本丸、竹の丸、二の丸、帯郭、搦手門、藤門、三の丸丘陵部に残存しており、総延長約2キロ、面積では約1万5000平方mを測る。石垣の構築が始まった時期については、現段階では明確に できないが、絵図の記載では会津領時代の慶長年間に遡る可能性が考えられている。蒲生秀行時代の「白河 城之図」には、本丸北東に三重の櫓が存在し、この櫓周辺部に石垣が存在することが描かれている。三重櫓 北面の一部には、不定形の石材を乱積した箇所が残されており、ここが慶長年間頃の石垣と考えられる。寛永6年からの丹羽長重による城郭の大改修により、本丸・二の丸はもとより、三の丸の門周辺、本丸東側丘陵部に石垣が構築された。文献や絵図の確認から、江戸期においてもこれらの石垣は崩落などがあったようで、現在残る石垣にも修復の痕跡を確認することができる。全体的な石垣の観察検証を踏まえ、石垣編年の構築と 石垣構築技術の解明が今後の課題となっている。本丸の北東高台に三重櫓(平成3年)本丸正面に前御門(平成6年)が木造で復元され、往時の姿を偲ばせている。復元の際に根拠資料となったのが、「白河城御櫓絵図」である。白河城御櫓絵図は、小峰城の櫓・門・高札場・屋敷・勘定所・学校・蔵・鐘楼堂・賄・水懸口・元作事等を、合計58枚の図面に描き、二巻の巻物としたものである。本図は、新築ならば必要なかったと思われる側壁補強の腰板や、寛政3年(1791)に創設された藩校立教館まで描いているところをみると、当時実在した建物を実測したものと位置付けられる。平成23年(2011)3月11日、白河市を震度6強の地震が襲った。この地震において8ヵ所、さらに4月11日の余震(震度5強)で1ヵ所の、合計10ヵ所の石垣が崩落した。崩落範囲は、総延長で約160m、面積約1500平方mを測る。修復は、石垣の崩落箇所のみならず、石垣の歪みが著しい箇所も含め、形16ヵ所が対象となり、平成23年12月より、文化財災害復旧事業として開始した。文化財石垣の修復として、元の石材を元の位置に戻すことを基本としおて進めている。また、石垣上面や背面(法面)の考古学的調査も併せておこない、中世から近世に至る土地利用の変遷の確認・記録をしている。現状においては、近世以前の小峰城の姿を把握するには至っていない。しかし、これまで実施された発掘調査の成果、現在進めている災害復旧事業み伴う発掘調査において、新たな発見が相次いでいる。こうした調査成果を手がかり に、中世における小峰城の姿を少しでも明らかにすることにより、白川城との関係性を検証することができる考る。 <歴史>小峰城の成立は、文化2年(1805)に編纂された「白河風土記」によれば、南北朝時代の興国~正平年間(1340~69)頃、白河荘を治めていた結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を興す)が築城したことに始まるとされる。結城氏の本拠は、市街地より東へ3キロの所に位置する白川城であったが、文献史の研究成果 から、結城氏一族の内紛のあった永正年間(1504~20)頃以降は、本拠が小峰城に移ったと推定される。天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置により結城氏は改易され、白河結城氏の支配は終焉を迎える。江戸時代に大改修され、現状で江戸期以前の城館の姿を確認することはできないが、これまで実施された発掘 調査において、断片的ながら15・16世紀代の遺物や16世紀代の遺構の存在が確認されている。さらに、近年の 東日本大震災による本丸や竹の丸の石垣修復において、断片的ながら中世の遺構・遺物が発見され、この場所 は中世においては谷地形で、少なくとも16世紀前半以降にいっきに盛土がなされ平坦面造成していることが 明かとなった。近世城郭は、東西に延びる標高370mほどの独立丘陵と、阿武隈川や谷津田川により形成された 標高357mほどの河岸段丘上に立地する。本丸が丘陵上、二の丸・三の丸は河岸段丘上に位置し、外堀より内側の範囲は東西850m、南北650mほどで、このうち本丸・二の丸を中心とした範囲16.3ヘクタールが国史跡指定範囲となっている。奥羽仕置の後、蒲生氏郷・上杉景勝・蒲生秀行が会津を治めることとなり、白河には、各時代に城代が置かれ、会津の支城時代を迎える。寛永4年(1627)、丹羽長重が棚倉より10万石で入封し、白河藩が 成立する。長重は幕命により同6年から約4年の歳月をかけて城郭の大改修を行った。阿武隈川の河道の変更と屋敷地の確保、本丸・二の丸を総石垣、三の丸や外郭の主要な部分に石垣を多用した城郭として改修されたことが、長重による大改修の大きな特徴である。石垣を多用した城郭への変貌は、長重の白河移封に際し将軍徳川秀忠が奥州の警備を命じたことに代表されるように、伊達、上杉、佐竹といった北奥羽の外様大名への、抑えの城との位置付けがあったことが大きな要因と考えられる。この丹羽長重の大改修により、近世城郭としての小峰城が完成をみた。丹羽家や松平(久松)・阿部といった徳川譜代・親藩の七家二一代の居城として経過したが、慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いにより焼失落城した。 <関連部将>結城親朝ほか</関連部将> <出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>
2023.08.12
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三春はさくら湖の近くにある三春滝桜が有名であるが、三春城は、その北側の三春町の中心地の丘陵にある。R288沿いに三春交流館「まほら」があり、そこから三春町立三春小学校の裏山に登ってゆくと、三春城域になり、近世の城の遺構が展開する。城の中心部は城山公園となっている。<地図>戦国時代の仙道(福島県中通り地方)に勇名を馳せた田村氏の居城である三春城は、奥羽仕置後、会津藩 の支城からその与力大名の居城をへて、正保2年(1645)から明治維新まで秋田氏が居城とした。このため、本丸周辺とそこへ通じる通路沿いは近世の改変を受けているが、それ以外の部分は、中世の面影を比較的よく残している。城は、阿武隈高地西縁の大志多山(城口)に所在し、標高360m前後の丘陵が周囲に乱立する 中で、標高408mの城山は頭ひとつ抜き出している。このため、近世に三階櫓があった本丸西端からは、郡山市街地や安達太良山、那須連山が望め、本丸御殿があった東側からは片曾根山、鎌倉岳、移ヶ岳など田村地方の峰々を見渡すことができ、これが城地に選ばれた理由であろう。また、三春の地名が「見張る」から転じた のではないかという説も肯ける。これに対して城下は、城山を囲む谷から派生する狭隘な谷地がうねりながら 伸び、谷の中央を走る街道に沿って町が形成されているため、谷筋の要所要所からランドマークとして城山や 寺社が望めるほかは、見通しが効かない中世のままの町である。<遺構>三春城には、秋田氏時代の呼び名で、本丸、二の丸、三の丸のほか、多数の平場が存在する。本丸は 標高400m以上の山頂部分で、南北に長い東の平場(上段)と東西に長い西の平場(下段)が鉤の手形になり、結節部北西に南北に細長い平場(杉の丸)がある。近世には、上段に御殿、杉の丸に風呂屋や土蔵、下段には 三階櫓と表門、長屋から多門櫓状に続く裏門などが置かれるが、秋田氏が入部すると、西側の麓(現在の三春小学校)に新たに御殿(居屋敷)を建設した。そして、天明5年(1785)の大火で城の大半を焼失すると、将軍から拝領した朱印状を納める三階櫓だけを再建しており、本丸は城下から見上げる藩主と幕府権力の象徴でしか なくなる。この本丸裾の標高360m前後の部分を、一周約850mの帯郭状の通路が周回しており、秋田氏時代には この内側を本城と呼んでいる。このうち、近世の利用が少なかった南東部には、戦国時代に在地の技術で築かれた高さ1m程度の石積が数ヵ所に残されており、秋田氏時代の絵図に古屋敷と記される平場が点在している。本城からは北西と南東方向に尾根が派生しているが、周回通路が堀切になり、北西が二の丸、南東が三の丸の郭群となる。二の丸は、秋田氏時代には中心平場とその北から西側を廻る下の段に限って郭として認識されて いるが、さらに西側の尾根筋に小さな平場が連続している。また、三の丸周辺では、中心平場の東から南側に 土塁や堀切を伴う小さな平場が配され、西側には複数の竪堀が確認できる。このほか、三の丸と居屋敷の間には、秋田氏時代に重臣屋敷となる大きな平場がるほか、北側には秋田家祈願寺宝来寺を核とする中級藩士屋敷の平場群があり、さらに国道を挟んだ北側に、田村月斎の屋敷と伝わる月斎館がある。このように三春城は、本丸、二の丸といった核となる平場を中心とした複数の郭群から形成され、各郭群が独立した縄張を持っている。一見並立しているように見える郭群だが、中心となる平場の標高差が家中での序列を示しており、また、本城の裾にだけ石積を築くような差別も行われている。 <歴史>三春城は永正元年(1504)に、田村義顕が大志多山に居城を移し築城したと伝わる。この時、義顕がどこから移って来たかは不明だが、田村地方は田村荘と呼ばれた紀伊熊野新宮の荘園で、その拠点が守山(郡山市田村町)であったため、守山から移った可能性が高い。本丸跡の発掘調査では、15世紀末頃の遺物を含む焼土を主体とした厚い整地層で現在の地形が形成されており、その下からは痩せ尾根に沿ってひな壇状 に削り出された狭い平場が検出されている。こにおことから、小規模な山城だった三春城が、16世紀初頭頃に 火災に遭い、その後、大規模に改修されたと推定される。また、この焼土層からは、大量のかわらけや青白磁 梅瓶など中国産の磁器が出土しており、このような財を持ち得る人物がほかに考えにくいことから、三春城は 元々田村氏の居城で、義顕が田村荘の権益をほぼ掌握したため、大改修工事を行って田村地方の主城とした 可能性もある。田村氏は、義顕、隆顕、清顕と三代続く。義顕は、永正期までに白川氏との同盟や岩城常隆 の娘を正室に迎えるなどの調整により、田村地方での基盤を固め、その後、安積、岩瀬方面へ勢力拡大を図る が、白川氏が弱体化し、代わって伊達氏と蘆名氏が力を増した。そこで、隆顕の正室には伊達稙宗の娘を迎えるが、安積へ進出する度に伊達・蘆名両氏に挫かれている。そして、天文11年(1542)に伊達稙宗と晴宗 父子の争いから天文の乱が起こると、隆顕は稙宗方として勢力を拡大する。しかし、これを嫌った蘆名盛氏が 晴宗方へ寝返った結果、同17年に晴宗方が勝利し、この機に晴宗は居城を米沢へ移し、仙道から一歩退いた。田村氏はこの時、相馬顕胤の娘を清顕の正室に迎えることで標葉郡の一部を獲得するが、蘆名氏との講和で 安積郡から撤退させられた。その後、隆顕は永禄2年(1559)に岩瀬へ攻め込んで今泉城(須賀川市)を落し、義顕の弟・月斎を城代として岩瀬・安積への橋頭堡とすると、安積の大槻城や片平城を攻め、天正4年(1576)には安積伊東氏を追い落とした。また、常陸から仙道をうかがう佐竹氏に対しては、蘆名氏と連合して戦い、同5年にはこれを破った。しかし、翌年の佐竹・白川氏の和睦を契機に蘆名氏は佐竹氏と協調し、岩瀬の二階堂 家出身の盛隆が蘆名家の実権を握ると、田村氏の孤立が深まった。こうしたときに、嫡子がなかった清顕は、天正7年に一人娘の愛を伊達輝宗嫡子。政宗に嫁がせ、男子誕生の際は田村家の家督を約し、伊達・田村同盟 を成立させた。しかし同9年に、田村郡南西の拠点・御代田城が蘆名・二階堂軍に包囲されると、翌年、輝宗 の調停で和睦し、今泉など岩瀬・安積の占領地を始め、田村郡南西部も二階堂氏に割譲することとなる。追い討ちをかけるように、伊達・田村氏の旗下にあった安達郡東部・塩松の大内定綱が反旗を翻したため、清顕は 何度も遠征するが連敗を喫し、さらに岩城常隆も南から侵攻を開始した。このため清顕は同13年、伊達家を家督した婿の政宗に、大内征伐を依頼する。政宗は小手森城を攻め落し、定綱は畠山義嗣の二本松城へ逃れる が、突発的な戦闘で、父・輝宗と義継が戦死したため、蘆名・佐竹氏を中心とする連合軍と伊達・田村氏との戦闘に発展する。そして、翌年、政宗は二本松城を落として畠山氏を滅ぼすが、清顕も急死する。当主を失った田村家は、清顕後後室相馬氏と田村月斎、隆顕の弟・梅雪斎、梅雪斎の子・顕憲、一族の橋本刑部 という四宿老により運営されたが、実際には伊達派と相馬派の家中抗争となる。そんな中の天正16年閏5月、相馬義胤が叔母である清顕後室との面会を理由に三春入城を企てる。義胤は、三春城入口の橋を渡り、坂を上って二の丸あるいは要害へ入るが、「あけつち(揚土)」に至ったところで阻まれ、東の小口あるいは搦手へ出たところで、弓・鉄砲をうちかけられて船引城へ逃れ、その後、伊達勢の追撃をかわしながら小高へ帰還 したという。これらの施設がどこに当たるのかは不明であるが、義胤は大手から入城し、中腹の周回路からは 侵入を拒まれ、東側から搦手を出たようで、こうした守城の様子からも二の丸・三の丸といった郭群と共有 する周回路までと本城部分とでは、同じ城内でも意味合いが違ったのではないかと考えられる。その後、郡山合戦に勝利した政宗は、8月に三春城に入城した。これに伴い清顕後室が船引城へ、田村梅雪斎・顕憲らが小野 城へ退出し、代わって清顕の甥・宗顕が政宗を後見に三春城主となった。政宗は一ヵ月余りの在城中に、三春城と周囲の要害の整備、相馬派家臣の城館の破却を行い、田村家中や城下および周辺の有力町人、在郷衆らと謁見し、大叔母で「東」と呼ばれた隆顕後室の元へ度々通い、大元明王やその門前町、金の座、月斎の屋敷などを訪ねている。政宗のこうした行動から、三春城と周辺には、田村氏一族たちの屋敷があるほか、寺社やその門前町、町屋があったことがわかる。天正17年になると、相馬・岩城・佐竹勢が田村領内になだれ込み、田村領は三春周辺を残すばかりとなった。こうした中、伊達政宗は擦上原で蘆名氏を破って南奥羽を制覇するが、翌年には豊臣秀吉の小田原攻めに心ならずも参陣し、その軍門に降った。その結果、田村氏は改易され、伊達領に組み込まれた。政宗は占領地の大半を召し上げられ、さらに、新たに会津に入った蒲生氏郷に葛西・大崎一揆 での動向を疑われ、翌年の九戸の乱鎮圧後、出羽置賜や旧田村領を含めた仙道諸郡を氏郷へ引き渡し、葛西・大崎氏の旧領へ移された。三春城には、蒲生家与力の田丸直昌が城代として入るが、いつからか守山へ移り、慶長3年(1598)に会津領主が上杉景勝に換わっても、守山城が使用された。同6年に景勝が米沢に減封され、氏郷の子・蒲生秀行が会津に戻ると、最初の城代・蒲生郷成が慶長14年に出奔するまでには三春城に戻っている。その後、蒲生郷治、郷成の子の郷喜・郷吉兄弟、さらに郷治と、蒲生家中トップの大名級の重臣が三春城代を 歴任している。三春城は明治維新後、木材や石材に至るまで払い下げられたため、ほとんど石垣はないが、本丸 の北東部や裏門下などに大型の粗割石を緩やかな斜面で積んだ石垣が残っている。守山城の石垣とも似ているため、これらは蒲生氏時代に築かれた可能性が高い。なお、この時期の瓦は出土にないため、瓦葺の建物は なかったと考えられる。寛永4年(1627)に秀行の子蒲生忠郷が亡くなると、加藤嘉明が会津を拝領し、三春 には嘉明の三男・明利が3万石で入るが、同時に二本松を拝領した嘉明の娘婿・松下重綱の急死により、翌年 には明利が二本松へ移り、三春には重綱の嫡子長綱が入った。本丸からは松下氏の家紋を刻んだ鬼瓦が出土 しており、この時代になると瓦葺建物が築かれている。その後、正保元年(1644)に松下氏が改易されると、翌年、常陸宍戸から秋田俊季が5万5000石で三春に入り、後の分知で5万石となるが、秋田家十一代の安定した治世を迎えた。そして、戊辰戦争では無血開城を果たし、明治維新後に廃城となった。<関連部将>田村氏、伊達政宗、蒲生氏、加藤明利、松下長綱、秋田氏</関連部将> <出典>東北の名城を歩く 宮城、福島、山形(飯村均ほか)</出典>
2023.07.29
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鷲城はJR小山駅に近い祇園城から思川河畔をを下流にいって思川に掛かるR50の橋の下付近の河岸段丘にある。小山市街地からR50の小山大橋に至る前に、左の道に降りて、細い道を行くと鷲神社の鳥居があり、そこから神社の社殿までの参道が続いており、その参道の両脇から社殿の先までが鷲城の城域と思われる。社殿から思川河畔に至る領域も城跡の遺構が残されている。 <地図>この城は、康暦2年(1380)に始まる小山義政の乱の舞台となり、一躍脚光を浴びることになった。ふつう城の名が同時代史料に登場することは少ないが、東国を揺るがせた小山義政の乱の舞台であっただけに、この時期の多くの史料にその名を書き留められている。それらの史料を見ると、鷲城は堀・壁で区画された「内城」と「外城」からなり、「切岸」を擁した堅い守りと、「戸張口」「西戸張口」などと呼ばれる防御を固めた出入口があったことが読みとれる。 <遺構>現在の遺構は、鷲神社が建つ広々とした郭、それとは空堀・土塁で区切られた南側の郭との二つから成り、それぞれの区画 に字中城・字四城へこの辺は外城と呼ばれる)という地名がある。前者が「内城」に、後者が「外城」に相当する郭であると 考えてよかろう。字中城=「内城」は、北側と西側か思川に面した「切岸」で、東側から南側にかけて、さらに西側の 南半分を大きな土塁・堀によって囲まれている。現存する土塁の基底部は約30メートル、高さは5~6メートルほどあり、鷲神社の参道入り口当たりが東側の虎口であった。15,6年前、この付近にマンション建設が計画され、保存運動が起こって、この城や祇園城の重要性が広く認識されて、国指定史跡になったことはまだ市民の記憶にのこって いる。もうひとつの虎口は西側にのこっている。鷲神社の少し南側に進むと上まんじゅうのような上塁があり、その南側から 西側の低地へ降りていく通路がそれであり、その降り口を塞ぐようにして長さ70~80メートルの大きな土塁がのこっている。この西側の虎口一帯は、「内城」の南側の巨大な土塁・堀と合わせて、この城の見所の一つである。「内城」は、東西約350メートル、南北約250メートルの巨大な郭であるが、東側の入り口から150メートルほど入ったところに段差が設けられていた名残があり、少なくとも二区画に区切られていたことがうかがえる。「外城」は、かなりの 部分が宅地となっているため、東から南側を取り囲んでいた土塁・堀のうち、一部の土塁が残存するのみであるが、思川に面しか西側には、高い段丘面を利用しか「切岸」がのこっており、在りし日の鷲城を思い浮かべることができる。 <歴史>現存する鷲城の遺構がそのまま小山義政の乱の時代にさかのぼるのではなさそうである。「内城」「外城」の回にある巨大な土塁・空堀といい、「内城」の西側ののこりの良い虎口といい、戦国時代の改修と考えざるを得ないであろう。実際、発掘調査でも15世紀以降の遺物が出土している。それゆえ、この城がいつ築かれ、義政の乱の頃はどのようになっていたのかは、今後の調査を待つしかない。 <関連部将>小山氏</関連部将> <出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫ほか)</出典>
2023.07.22
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茂木城は、那珂川の中流域に流れこむ逆川が湾曲・分岐する付近の桔梗山に城山公園として残されている。城へは逆川べりからつづらおりの坂道を車で登ってゆくと駐車場につく。広い広場の公園であるが、郭跡や空堀などの城の遺構も残されている。<地図>茂木町の中心部を流れる逆川のすぐ北に標高約165mの桔梗山がそびえる。かっての茂木城である。現在は、城山公園として、整備され、山頂までは車で登ることができる。山頂からの眺望にすぐれ、町民の名所として親しまれている。<遺構>茂木城は、山城とはいえ、山頂部は最大で東西約440m、南北約420mの規模を有する。本丸にあたる主郭部は、山頂の南西に位置し、東西約82m、南北約31mの長方形で、西側と北側を中心に高さ約3mの土塁が現存している。空堀をへだてて主郭部の北に位置する二の丸は、東西約18m、南北約55mで、城の西側を守る。城の北側にある三の丸は、前面に深い空堀を二重に設けて 防備を固めている。以上の諸郭に囲まれた山頂中央部の約100m四方の平坦部は、千人溜まりと呼ばれており、中央には溜池跡がのこされている。構造的には、城の東側が本来の大手口にあたると考えられ、大手口は南側の出丸によって守られていたと見られる。 <歴史>城主の茂木氏は、源頼朝に仕えて鎌倉幕府の有力御家人となった八田知家の3男知基にはじまる。知基は、父知家が頼朝から拝領した 下野茂木郡(茂木町)の地頭職を譲り受けて本拠地とし、茂木氏を名のった。茂木城の築城は、知基が茂木郡を領した鎌倉時代の建久年間(1190~99)と伝えられるが、実際には南北朝時代14世紀前半ごろの築城と考えられる。類例から見て、それまでが茂木城の山麓、もしくは近在に居館を構えていた可能性が高い。1説には、「館」の地名がのこる茂木城の北東台地上(荒橿神社付近)にもともとの居館があったとする見方もある。ともかく、茂木城は茂木氏入部以来の居城だったかどうかはなお検討の余地があろう。初代知基以降、茂木氏は2代知宣、3代知盛、4代知氏、5代知貞と代を重ね、知貞の時期に南北朝の内乱を迎えた。内乱に当たって知貞は、足利尊氏に従い、北朝方として各地を転戦している。とくに知貞・知政父子が南朝方の北畠顕家軍と宇都宮周辺で戦っていた 建武3年(1336)11月には、南朝勢によって茂木城はいったん落城しており、すでにこの時期には茂木城が築城されていたことがわかる。 たぶん、戦乱の激化にともない、茂木城が拠るべき新たな要害として茂木城は築城されたと考えられる。南朝方の軍勢に占領された茂木城だが、留守を守っていた一族。家臣らの反撃によってまもなく南朝勢は退散し、その後城内には茂木氏の一族・家臣だけでなく近隣の軍勢も立てこもっている。翌建武4年(1337)2月には、奥州から参陣した北朝方の軍勢もやはり茂木城に隣接する荒橿神社付近に陣を構えて、攻め寄せた南朝勢を撃退している。すでに茂木城は、北関東地方における北朝方の重要拠点となっていた。茂木氏は、知貞以後も北朝方として室町幕府。鎌倉府にしたがい、領地を守った。なかでも茂木氏は、鎌倉公方足利氏との主従関係を強め、歴代公方からは実名の「基」や「満」の一字を拝領して、それぞれ基知、満知と名のっている。しかし、幕府と鎌倉府の対立が 深刻化すると茂木氏の立場は微妙なものとなっていった。公方持氏が将軍義教に背いて討たれた永享の乱(1438~39)では、茂木氏は持氏にしたがったために一時、領地を没収され、茂木荘は常陸の佐竹氏らに与えられている。ただし、その後、持氏の遺児安王丸らが 与党と下総結城城に籠城した結城合戦では、茂木氏は結城城を攻める幕府軍に従軍しているので、幕府方となっていたことがわかる。また、宝徳元年(1449)には、持氏の子成氏が鎌倉公方に就任し、鎌倉府が再興されており、このころまでに茂木氏も領地を回復して いたとみられる。公方成氏と関東管領上杉氏との分裂にはじまる享徳の乱(1454~82)では、茂木氏は当初、上杉氏・幕府方となり、成氏に敵対している。このため、康正2年(1456)正月ごろから成氏方の軍勢による茂木城攻めが本格化し、3月には城をめぐって激戦が繰り 広げられた。城攻めにあたる那須持資に宛てた成氏の書状には、3月3日の合戦で持資の親類・家臣数名が負傷したことや城の近辺に 陣取って毎日矢戦が行われていることなどが具体的に記されている。昼夜におよぶ戦闘がつづいていた。しかし、それでも城を攻め落すことはできず、かえって4月になると持資とともに従軍していた宇都宮氏の軍勢が、成氏の許しもえずに勝手に撤退してしまう始末 だった。持資らは力攻めをあきらめ、兵粮攻めによって同年8月にようやく茂木氏を降伏させることに成功した。茂木氏は、半年以上 にわたす籠城戦を戦い抜いていたのである。享徳の乱以降、東国が戦国時代を迎えるが、この間に茂木氏は荘内の一円支配を実現するとともに、周辺の領主とも新たな関係を築いた。まず隣国の佐竹氏と同盟関係を結び、最終的に佐竹氏に服属している。また、一族 である常陸の小田氏との基本的に友好関係を保った。領地を接する那須一族の千本氏などとも緊密な関係を維持し、とくに千本氏とは婚姻関係にあった。いっぽう、結城氏や宇都宮氏配下の益子氏などとは境界争いなどが原因でしばしば関係が緊張し、両氏は茂木領への 侵攻を企てて、茂木領境で何度か軍事衝突を起こしている。茂木氏は、佐竹氏配下の武将として戦国時代を生き抜き戦国末期の天正年間(1573~92)には17代治良が当主となっていた。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めでは、治良は佐竹当主の義宣に従って秀吉への 謁見を果たした。こののち佐竹氏は、茂木領を含めた常陸・下野両国内の領地21万貫文あまりを秀吉から安堵されている。結局、茂木氏は茂木荘入部以来、約400年間にわたって領地を維持しつづけたことになる。 <関連部将>茂木氏</関連部将> <出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫ほか)</出典>
2023.07.15
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飛山城は、宇都宮市街地から東方面に行き鬼怒川を渡ってすぐ、北側にR408を進んでゆくと鬼怒川方面に登る広い道があって、たどってゆくと飛山城史跡公園の駐車場に着く。歴史体験館もあり、鬼怒川方面に空堀を渡ると史跡公園の場内で、広い敷地に空堀、土塁、郭あとなど城の遺跡が点在する。城の遺構がよく整備・保存されているのがうれしい。鬼怒川の崖からは鬼怒川、宇都宮市街地、遠くの山並みまでの眺望がきく。<地図>飛山城跡は、宇都宮市の中心部より東方約七キロ、竹下町地内に所在する。この地は昭和二十九年の「昭和の大合併」以前、芳賀郡に属していた。城跡の丙~北崖にかけての遠望は絶景で、宇都宮市街が一望できるほか、その奥に目光連山や那須連峰の山々が見られる。そして眼下には鬼怒川の清流が流れる。川と城跡の 比高は約20メートルを測り、見晴らしの良い河9 段丘上に城は築かれている。 もう少し微細に地形を見ると、城跡の東方約500メートルには、鬼怒川の支流により開折された谷が入り、また、南側にも開折谷が入ることから、宝積寺台地から独立した島状の台地北西端に城跡はI地する。このような地形を考慮すれば、城の指定範囲は、外堀(6号堀)により 囲まれた約一四ヘクタールであるが、城として機能した範囲は、この独立した台地全体であったと思われる。現在、東側の開折谷の中を国道四〇八号(真岡-高根沢線)がとおっている。芳賀氏が中世において支配した領域を考えれば、真岡城-飛山城-勝山城をつなぐ道があったことは確実で、飛山東側の開折谷の中をとおっていたと考えられる。ちなみに真岡城-飛山城問は約一四キロ、飛山城-勝山城間は約一三キロで、飛山城は真岡城と勝山城のほぼ中間にあたり、宇都宮城のほぼ真西約七キロに位置する。また、鬼怒川は江戸時代に河岸が発達し、物資輸送の中心を担っていた。中世にさかのぼる水運に関する文献は今のとごないが、飛山では多くの常滑甕が出土するほか、流通の拠点遺跡で出土が 確認される石鍋などが出土しており、中世においても物資輸送の一翼を鬼怒川が果たしていた可能性は高い。このように水陸両方の交通の要衝にあたるこの場所に、芳賀高俊が永仁年間(1293―98)に城を築いたと伝えられている。なお、発掘調査で出土する遺物は、一三世紀以降からのものが多く、城の築城伝承とほぼ一致する。 <遺構>城の東と南側が二重の空堀(5・6号堀)により防御され、北と西側が鬼怒川により守られる。そして、中央に城を北と南に分ける大きな堀(4号堀)があり、さらに北側の郭は三本の 堀(I~3号堀)と一条の溝により五つの曲輪(曲輪I~v)に分けられる。このうち、曲輪I~IIIが主郭部分と考えられる。対照的に南側は東西約220メートル、南北約200メートルの大きな郭(曲輪Ⅵ)のみである。この郭内には、広場的 空間や倉庫と考えられる竪穴建物群が存在した。5号堀と6号堀の間に帯郭(曲輪Ⅶ)が形成される。6号堀には櫓台と思われる突出部が約100メートル間隔で五基設置されている。また、北から2番目の櫓台より約四〇メートル北の位置で木橋跡が確認され、「横矢掛け」を意識した造りとなっており、同慶寺と結ぶ古道との関係からもここが大手口と考えられる。この時期、規模は最大となったが、遺物の量はあまり多くないことから、城の機能は、戦闘心など一時的な使用に変わっていたと思われる。天正15年(1587)の芳賀高継の書状には、家臣である平石主膳正に対し、「在城之者」が話し合って 普請などにあたるよう書かれており、このことを裏付けている。"天正18年(1590)、豊臣秀吉は後北条氏を滅ぼした後、鎌倉、江戸を経由し7月26日に宇都宮に到着。8月4日までここに滞在し、「宇都宮仕置」を行なう。その中に「佐竹・宇都宮ならびに家来のものども、多賀谷・水谷」の諸氏に対し、「いらざる城は破却せよ」との命令がある。発掘調査の結果、主郭部分を囲む1~3号堀や4号堀・6号堀が土塁を崩して人為的に埋められていることが判明した。これは「城破り」の状況を示しているといえ、このことから、飛山城も秀吉の「破却令」の対象となり廃城となったと考えられる。<歴史>元弘3年・正慶2年(1333)に宇都宮高綱(のちの公綱)は、鎌倉幕府の命を受けて 摂津の天王寺付近で楠本正成と対峙する。『太平記』には正成が「宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。紀清両党の兵、もとより戦場に臨んで命を棄つること塵芥よりもなお軽くす」と評し、正面きっての合戦を避けたことが書かれている。紀清両党の 紀は益子氏、清は芳賀氏のことであり、その勇猛ぶりが全国に知れ渡っていたことがわかる。この年の五月に鎌倉幕府は滅亡し、時代は建武の新政、そして南北朝動乱の時代となる。宇都宮公綱は建武新政権下で雑訴決断所のご貝となり、その後足利尊氏と後醍醐天皇が対立すると、公綱は後醍醐天皇側として行動する。延元元年・建武三年(一三三六) に足利尊氏と後醍醐天皇の講和が成立すると、公綱は捕えられいったんは尊氏に属するが、ふたたび後醍醐天皇や 新田義貞と行動をともにする。延元三年・暦応元年(一三三八)、南朝方の勢力拡大のために北畠親房が常陸国小田城 に入る。そして延元四年・暦応二年(一三三九)に南朝方の春日顕国が北朝方の八木岡城や益子城などを攻め、さらに宇都宮・飛山軍と戦いこれを退けている。翌年顕国軍は飛山城管轄下の石下城を攻略し、その周辺を西明寺城の 支配下においている。さらに、興国二年・暦応四年(一三四一)八月十一日に飛山城は顕国軍に攻められ落城している。発掘調査では、この時期と考えられる遺構が確認されているほか、出土した遺物の中には被熱しているものがあり、落城との 関連が想起される。なお、この間の戦いにおいて、芳賀氏の居城である御前城の名が出てこない。南西約三キロの八木岡城が攻められていることと考えると、この時期の芳賀氏は飛山城に本拠を置いていた可能性がある。それを裏付ける資料として、出土遺物の中には青磁の酒会壷・梅瓶・香炉・仏花瓶などの威信財や愛媛県大山祇神社の奉納物と同様な青銅製水瓶の一部が見つかっている。なお、公綱が南朝方として行動しているのに対し、子の氏綱は足利方として戦っている。この一連の 戦いのとき氏綱は一四歳前後であることから、その後見役である芳賀高名が宇都宮家中において大きな役割を担っていたと考えられる。「沙弥宗心書状写」からは「宇都宮并鳩(飛)山輩」と両者が一体として行動をしていたことがわかる。高名の父高久は宇都宮氏出身で公綱の父である貞綱とは兄弟であることから、公綱と高名は従兄弟同士となる。芳賀氏 はその後も高貞、興綱、高武など宇都宮氏からの養子を向かえ入れており、宇都宮氏の重臣というだけではなく、宇都宮氏 の一族(家風)としての立場でもあった。芳賀系図では、芳賀高名の子には、高貞(伊賀守)と高家(駿河守)がいる。高貞は光に述べたように実は 宇都宮貞綱の長男で、高名の養子となり芳賀氏の家督を継ぐ。そして高名の実子は高家であるという。また、高家は飛山城 主と明記されている。 一方高貞は、「続群書類従」によると、「伊賀守高貞代に真岡城を取立、五所より引越」とあり、真岡城を居城としたと考えられる。高家の行動については『太平記』などで断片的にしかわからないが、観応二年 正平六年(一三五一)の薩遠山の戦いにおける活躍により、宇都宮氏綱が越後・上野守護となり、氏綱は高名の子高貞・高家を両国の守護代に任じている。一三五五~五七年にかけて越後国加地、小泉荘、豊田荘に関する駿河守高家の 遵行状や打渡状などの文書が確認されており、越後国内での活動の一端が窺われる。康安二年・正平十七年(一三六二)に畠山国清か失脚し、上杉憲顕が復帰すると、宇都宮氏綱の越後守護職も罷免される。これに対し、宇都宮氏綱を擁し、芳賀高名・高貞・高家が上杉復帰の阻止に動くが、貞治二年・正平十八年(一三六三) の武蔵岩殿山(現東松山市)合戦で鎌倉公方足利基氏軍に敗れ、その時の戦いで高家は戦死してしまう。高家の頃の飛山城は、現在の城の半分(前輪II~Ⅳを中心とする部分)ほどの規模であったと考えられる。また、出土遺物を見ると、陶磁器関係は古瀬戸中様式II~Ⅳ期、常滑6~8型式のものが多く出土し、古瀬戸は後期様式以降極端に減少する。このことから、高家の死を契機としてこの城の機能が変化したことがわかる。なお、高家の子高清は氏家郷勝山に 移り住み勝山城主となる。勝山城は飛山城と同じ鬼怒川左岸の段丘上に築かれた城である。天文十八年(一五四九)、五月女坂の合戦において宇都宮尚綱が戦死すると、那須氏と手を結んだ 芳賀高照は宇都宮城を占拠し、さらに天文二十一年(一五五一)には、壬生綱雄が北条氏康の意を受けて宇都宮城に入城する。このようななか、芳賀氏当主であった高定は、尚綱の遺児伊勢寿丸(のちの広綱)を擁して真岡城にこもり宇都宮城奪還の機会をうかがい、弘治元年(一五五五)に高照を真岡城に誘い出し謀殺、さらにその2年後の弘治3年 (1557)に、古河公方足利義氏の命に応じた佐竹義昭が広綱・高定を支援するため五〇〇〇の兵を率いて飛山に在陣し、これにより綱雄は宇都宮城を退却、広綱は宇都宮城に帰還することができた。 <関連部将>芳賀高俊</関連部将> <出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫ほか)</出典>
2023.07.08
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西方城は東武日光線の東武金崎駅の西北、思川が湾曲する付近の丘陵にある。近くには真名子城跡、二条城跡もあり、ゴルフ場に囲まれている。R177から集落内の道を東北自動車道方向に向かうと、高速道路に下をくぐり、長徳寺へゆく。長徳寺の裏山が西方城であり、山の中に郭跡、土塁、空堀の城の遺構をみることができる。城の規模はかなり大きく期待していた以上の山城であった。<地図>栃木市西方町の西部、県道上久我都賀栃木線(通称「宿並」街道)がとある「本城」地区の西側丘陵上に築かれた山城である。位置的には、近世初期に開かれた例幣使街道よりも以前にさかのぼることが可能な中世の 「宿並」街道の都市的な場である中宿・新宿・裏町などの城下を支配管理するには好個な場所にしに占地している。西方城の東側麓には戦国時代に築かれた二条城(「新城」の語が変化したものか)が存在するが、平時は二条城、戦時は急峻な西方城と使い分けしていた可能性も考えられる。<遺構>西方城跡は、西側と南東側かゴルフ場の造成で破壊されているが、比較的遺構の残状況は良い。城跡へは、北東麓の長徳寺の所の通称「阿人道口」と呼ばれるところから登っていくとよい。尾根沿いに郭群や腰郭が 並び、それぞれが深い堀で隔てられている。敵の侵入に備え、土塁・堀・切岸(城壁)を巧みに組み合わせて通路を屈曲、複雑化し、横矢をかけやすくしている。虎口の形態は基本桝形虎口を多用している。 なお、本丸(主郭)より少し東に 下った所には石組みの井戸跡がのこっている。 <歴史>江戸時代中期以降に編纂された「西方記録」(阿久津武一家文書)の伝承によれば、鎌倉時代後期 に活躍した宇都宮氏当主に宇都宮景綱がいるが、景綱の三男武茂泰宗の子といわれている遠江守鳥丸景泰が初めて 西方城を築いたという。時期的には鎌倉時代後期であるという。しかし、近年市村高男氏は関係系図などを検討し、 西方氏は宇都宮氏の一族武茂泰宗の子貞泰(景泰、法名蓮智)が始祖で、鎌倉時代末期までの百方氏が事務官僚系の在京御家人であったこと、室町幕府が成立して以降の西方氏はその実務的手腕を評価され幕府引付方の官僚に抜擢・編成されたが、幕府の東国行政機関である鎌倉府が成立する過程で貞泰の子の宗泰が東国に帰還し、鎌倉公方から下野国内に所領を与えられ実質的なト野西方氏がこの時に成立したことなどを明らかにした。この市村氏の説に依拠すれば、西方城の築城年代は明らかにできないが、南北朝期以降になろう。なお、西方城の名が古文書の上で初めて登場するのは、大正元年(1573)頃に年代推定できる9月7日付けで常陸の佐竹氏に 宛てた「徳雪斎周長書状写」(白河証古文書)で、小田原北条方の小山・粟志川方面への攻勢が強まる中で西方城 が存在したことが指摘できる。 豊臣秀吉は、天正18年(1590)7月下旬から8月初句にかけて宇都宮城に滞在し、小田原北条氏滅亡後の関東や東北の戦後処理=宇都宮仕置をした。宇都宮仕置では、北条方にくみした下野中央部の壬生氏や壬生氏と縁の深かっと下野北西部の日光山や同国南部の小山氏が滅ぼされたり所領を減らされたりした。こうした壬生氏や日光山および小山氏の旧領であった千生・鹿沼・日光・小山・榎本領などを秀吉から与えられ、北条方 の常陸小田氏やその重臣菅谷氏の旧領であった藤沢・土浦領も加え、旧来の結城領とともに関東の中央部を南北に縦 断する形で新鎖国の形成を秀吉から安堵されたのは下総北部の結城氏であった。結城氏は戦国時代末期の当主は 晴朝であった。晴朝は徳川家康の二男で当時秀吉の養子になっていた羽柴秀康を結城氏の養嗣子として迎え名跡を継承させて隠居し、秀康に新たな鎖国の支配を委ねた。戦国時代の西方氏の所領百方は、宇都宮氏の勢力圏内に 属していたが、壬生氏の壬生領と鹿沼領を飛び越す飛地のような陸の孤島状態で最も西側に位置していた。西方氏は、天正18年(1590)の小田原合戦では、他の宇都宮氏の一族や重臣といっしょに小田原の豊臣秀吉の陣に 出仕し、秀吉には敵対していなかった。しかし、秀古が結城氏に小山・榎本・壬生・鹿沼・日光領を地続きで与えていく 中で、陸の孤島のような状態で宇都宮氏一族の西方氏の所領が結城領国内に存在することをいさぎよしとしなかったのであろうか。西方氏の所領西方は、豊臣秀吉の宇都宮仕置の結果、下総北部の結城氏に与えられることになった。所領を失った西方氏は、主家の宇都宮氏から代替措置として芳賀郡赤羽(市貝町)などの村々を与えられ移っていく。 <関連部将>西方氏</関連部将> <出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫ほか)</出典>
2023.07.01
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児山城はJR東北本線石橋駅と東部宇都宮線くにや駅のほぼ中間点にあり、東側に姿川が流れているほぼ平地に造られている。城域は華蔵寺の隣に樹木に囲まれており、空堀や土塁などの城の遺構を確認することができる。平地に近い場所にあるということは、鎌倉時代の古い時代に築かれたからであろうか。<地図>児山城は、華蔵寺のすぐ北西側にある。この寺院のある所ももともとは城域であったろう。グリムの森の西600mであるが、途中の信号の辺りにも「児山城入口」の案内がある。まがりなりにも県指定史跡であるので、一応案内等はきちんとしている。<遺構>児山城は現在本丸の土塁と堀がよく残っている。しかし、周囲にも土地の窪みが見られ、これも堀の跡であったろう。周囲に部分的に残る遺構をつなぎ合わせると、だいたいこんな感じであったらしい。さらに三重目となる外堀も存在していたらしいが、こちらはその形状がほとんど分かっていない。本丸は60m四方ほどの方形の郭で、周囲の土塁は郭内からの高さが2mほどある。四隅がうずたかくなっているが、櫓台というほどのスペースはない。この土塁は西側で かなり崩れているが、これは後に崩されたものであろうか。現在、城の入口は3つあるが、どれが本来の虎口であったが迷う所である。南西の角は土塁が直角に折れて伸び、枡形的になっているところがある。しかし、こういう斜めの虎口は珍しいし、虎口周辺の敵を攻撃しにくい。やはり公園入口の南側中央の土橋が本来の虎口と見るべきであろうか。 <歴史>本城は鎌倉時代後期(十三世紀後半)に宇都宮頼綱の四男・多功宗朝が、その二男(または三男)朝定にこの地を分封し、築城したと伝えられている。 <関連部将></関連部将> <出典>石橋町教育委員会現地説明板、余湖くんのお城のページ</出典>
2023.06.24
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犬飼城があるのは、JR日光線鶴田駅のほぼ西側、聖山公園墓地と将軍塚古墳に南側の舌状丘陵にある。公園墓地を脇の道(根古屋通り)を南下していくと民家が点在するあたりで道が90度曲がる箇所に駐車場があり、近くに城への入口がある。城域は樹木のなかであるが、説明板も設置されており、空堀や土塁の遺構が明瞭に残っている。<地図>明治期に書かれた『姿川村誌』によると、この城は康暦元年(1379)に小山義政により築城されたと伝えられているが確たる証拠はない。その後、元亀年間(1570-73)の初めに城主小山政長が北条氏政 と戦って敗北したと『宇都宮郷土史』にあるが、政長は養嗣子高朝が天文4年(1525)頃に家督を継ぎ、その前後に亡くなったといわれていることからすると、この記載には年代的な矛盾がある。そして、元亀4年(1573)に犬飼康吉が 城主となったが、宇都宮勢に攻められ廃城になったといわれているがこれも定かではない。この時期、隣接する地域を治める鹿沼城主が宇都宮氏寄りの立場をとる徳雪斎周長であることから考えると、仮に犬飼康吉なる人物が城主であったとしても、この時点では小山氏関係の城ではないと思われる。 <遺構>現状で城の遺構が明瞭にのこる範囲は約2.5ヘクタールで、主郭は北西に張出しをもつ一辺約50m 四方の方形で、北東部と南西部に土橋による虎口をもつ。また、南東隅に井戸がある。主郭をかこむ堀は、幅が約10m、深さが約5mを測る。主郭の西と北側をかこむ郭は、北側に櫓台状の突出部をもち、西側に土橋による虎口を設ける。南側には一段低い低地部との境に横堀を設け、広く細長い外郭を形成する。現在この城は、宇都宮市南西部の鹿沼市との境界近くに位匠し、姿川と武八川に挟まれた舌状台地の南端部に築かれた平山城でふる。城の所在する上欠町は、近世初期において欠下村または欠之下村と呼ばれ ており、明治22年に河内郡姿川村となる。『姿川村誌』には「犬飼郷城趾」とあり、その城名から中世犬飼郷内に位置 していたと考えられるが、郷内の北東端に位置し、犬飼郷一二郷を治めるには不便な位置のように思える。江戸時代に大金重貞加書いた『那須記』の『鹿目落桔言付君嶋備中守城入言』に天正4年頃の宇都宮方の城として、深津城、石川城、師ノ(下茂呂)城、上師ノ(上茂呂)城、府郡(府所)城、千渡城など武子川左岸の城が登場する。本城は武子川の左岸であり、深津城とは1.5キロしか離れておらず、城の構造的にも西もしくは南を意識した造りになっている。これらのことから類推すると、少なくとも天正年間においては宇都宮方の勢力範囲内に位置していた城であったと思われる。なお、『那須記』の中には、横田城主・西川田城主と並んで懸下城主江馬藤兵衛尉の名が見られる。横田城・西川田城は姿川右岸にあるが犬飼城と近い位置関係にある。また、先に述べたように近世はこの地が欠下村であったことからすると、この城が懸下城と呼ばれていた可能性がある。 <歴史>江戸時代に大金重貞加書いた『那須記』の『鹿目落桔言付君嶋備中守城入言』に天正四年頃の宇都宮方の城として、深津城、石川城、師ノ(下茂呂)城、上師ノ(上茂呂)城、府郡(府所)城、千渡城など武子川左岸の城が登場する。本城は武子川の左岸であり、深津城とは1.5キロしか離れておらず、城の構造的にも西もしくは南を意識した造りになっている。これらのことから類推すると、少なくとも天正年間においては宇都宮方の勢力範囲内に位置していた城であったと思われる。なお、『那須記』の中には、横田城主・西川田城主と並んで懸下城主江馬藤兵衛尉の名が見られる。横田城・西川田城は姿川右岸にあるが犬飼城と近い位置関係にある。また、先に述べたように近世はこの地が欠下村であったことからすると、この城が懸下城と呼ばれていた可能性がある。 <関連部将>小山義政、犬飼康吉</関連部将> <出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫ほか)</出典>
2023.06.17
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岡本城が岡本新道を行くと宇都宮市立岡本小学校があり、その北側に稲荷神社があって石段を樹木の中に土塁で囲まれた郭あとがある程度である。周囲よりそれほど高くないので空堀で防御されていたのかもしれない。<地図>岡本城は鬼怒川の河岸段丘上に造られた城である。城の北側には九郷半川が南北に流れているが、城の真下で直角に流れを変えているため、北側と東側は20mほどの急崖になっている。 <遺構>西側と南側は平坦地で、本丸跡が林となっているほかは農地や宅地のため、現存する遺構は本丸周辺の幅10mの堀と、高さ3m、幅4mの土塁にすぎない。しかし、古老の話や地形なとがら判断すると、北西隅の本丸から南にかけて五重の堀があったと思われる。 <歴史>岡本氏については史料が乏しく、故実な記録としては岡本富高と子の正高の二者が確認できるにすぎない。系図によると、富高は芳賀禅可(宇都宮氏綱の後見人で越後守護職)の弟で初めて岡本姓を名のり、駿河薩壇山の合戦に参加して討死している。子の正高は、貞治2年(正平18、1363)、おじの芳賀禅可と足利基氏・上杉憲顕との越後守護職をめぐる争いに加わり、禅可の命を受けて武蔵若林で基氏軍と対戦している。しかし芳賀軍は敗れ、正高も討死して岡本氏の正統は絶えたようである(『太平記』では、この時の討死を正高でなく富高としている)。その後、天文-天正期(1532-92)に塩谷氏の重臣として岡本氏の名が出てくる。一方、岡本城には以後玉生氏が居住したと思われるが、慶長2年(1597)、宇都宮氏の改易と共に廃城となったと思われる。当城は宇都宮氏の北方の守りであり、また鬼怒川の水運を通じて宇都宮氏よりむしろ芳賀氏(飛山城)との結びつきが強かったようである。 <関連部将>岡本富高</関連部将> <出典>日本城郭大系</出典>
2023.06.10
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伊王野城はR28を南から走っていくと伊王野の集落を過ぎた先に東側に小道があり、駐車場がある。そこから山道を登って行くと南側に伊王野小学校が見えるあたりから広い平地の三の丸に達する。城域はさらに北側の高まりに広がり土塁や空堀の遺構が樹木の中に見える。この部分は樹木が生い茂り、あまり整備されていないようであった。<地図>南流する奈良川と三蔵川の合流地点の内側、芦野からつづく丘陵地帯の最南端に伊玉野城は位置する。標高は最高地点の「遠見の郭」が約370mで、霞ケ城の異名をもつ。現在は山麓の南西部に駐車場と案内板が整備され、そこから登れるようになっている。かっての伊王野氏の居館は、山麓の南東部にあり、現在は伊千野小学校が建つ。伊上野小学校から、山麓の馬頭観音堂を経由して、つづら折りの道を登るのががっての大手道にあたるとみられ、急坂を登りきると三の丸にいたる。三の丸は、城内最大の面積をもつ郭で、周囲には土塁がめぐる。三の丸の東北隅には虎口があり、遺構の状態もよい。三の丸の北に二の九があり、階段状の平坦地から構成される。二の丸最高部の北側には土塁、そしてその先は深い空堀になっている。空堀を渡ると本丸で、北側に土塁があるほか、周囲には深い空堀がめぐる。那須氏の有力 一族だった伊王野氏の居城にふさわしい山城である。 <遺構>伊王野氏は、鎌倉時代中頃の那須氏当主資頼の子資長にはじまる。資長は、肥前守を称した資頼の次男で、嫡子太郎資光の弟にあたる。このため、資長は、公的には「那須肥前二郎左衛門尉資長」と名のっている。父資頼から那須荘の北部伊王野郷を与えられた資長は、郷内に居館を構えて本拠とし、資長の子孫はのちに伊工野氏を称した。伊王野氏の居館は、延応元年(1229)の築城と伝えられる。東西126m、南北111mの規模を有し、いまも北側には土塁と堀がのこる。大手は南側で、古代の官道である東山道は居館から南に約100mの地点を東西に走っていた。つまり、伊王野氏は、古代の官道東山道と中世の幹線交通路奥の大道の分岐点に居館を構えた のである。東山道は、伊王野地区では、義経街道ともよばれており、治承4年(1180)に源義経が兄頼朝に合流するため、奥州平泉から鎌倉に向かったさいに通過したと伝承されている。その関係で、たとえば、伊王野城山麓にある馬頭観音堂は、 義経の愛馬が病気になったときに供の常陸坊海尊が6日7夜にわたって病気治癒の祈願をした場所と伝わる。ほかにも義経街道周辺には数多くの義経伝説がのこされている。たぶん、伊王野氏がこの地に居館をかまえた鎌倉時代中頃の 寺点では、依然として東山道(義経街道)の役割は無視しがたいものがあり、それゆえ資長は奥の大道と東山道の分岐点に位置する伊王野郷を父資頼から分封されたのだろう。たしかに、那須氏の諸系図によると、資長の弟資家・資成の家系は、それぞれ稲沢・川田を名のったと伝えられる。稲沢・川田(ともに大田原市)もやはり東山道・奥の大道沿いの場所で、伊王野にもほど近い。つまり、当時の那須氏は、那須荘北部の開発を進めるのと並行して、周辺の水陸交通の拠点ともいうべき、伊王野・稲沢・川田の諸郷の支配を一族によって固めたのである。<歴史>資長からはじまる伊上野氏は、那須一族のなかでも有力で、伊王野氏の惣領職は、嫡子の高頼や 高頼の嫡孫資宿らに受け継がれた。南北朝時代の当主資宿・資直父子は、一族の惣領である那須氏のもとで北朝方として活躍し、資宿の代官は奥州での合戦にも従軍している。室町時代前期に伊上野氏は、一時、白河結城氏の一族である小峰弥太郎を養子としたが、結局、那須一族内の対立の影響で弥太郎の家督継承は実現しなかった。その後、長享元年 (1487)ころまでには、伊王野城は築城されていたらしく、伊王野城は山麓の居館から山上に本拠を移したと伝えられる。戦国時代には、主家である鳥山城主(那須鳥山市)の那須氏のほか、一族の芦野・福原・千本氏、那須氏の重臣大関・ 大田原氏らとゆるやかな連合関係を結び、俗に那須七党などと称された。戦国時代最末期の当主である資信は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原北条氏攻めにさいし、秀吉にしたがって本領を安堵され、また、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦にあたっても徳川家康の会津上杉氏攻めにしたがって軍功をあげている。とくに会津上杉氏攻めでは、伊王野城は上杉領でらう奥州白河(福島県山白河市)への最前線に位置し、緊迫した状況が つづいた。そして、関ヶ原の合戦がおこった9月15日の前日から当日にかけて、両軍の境界領域である関山(福島県 白河市) 一帯で上杉軍と伊王野勢との武力衝突が発生し、伊王野勢は39名の戦死者を出しつつも上杉軍の侵入を 撃退したという。徳川氏の覇権を決定的にした関ヶ原の合戦において、地味ながらも徳川主力軍の後顧の憂いをなくした 那須衆・伊王野氏の功績は大きく、この軍功によって伊王野氏の知行高は、当初の700石から2530石へと加増された。ただし、資信の子資重は、関山合戦での負傷が原因でまもなく死没してしまう。伊王野氏の家督は、資重の子資友が継いだが、資友の子数馬は後継ぎに恵まれず、とうとう伊王野氏は寛永10年(1627)に無嗣断絶にいたった。伊王野城は、伊王野氏の断絶に先立って、すでに寛永4年(1627)に廃城となり、伊王野氏は山麓の居館にふたたび居所を移していたと伝えられる。 <関連部将>伊王野氏</関連部将> <出典>関東の名城を歩く 北関東編(峰岸純夫ほか)</出典>
2023.06.03
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