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2025.07.20
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カテゴリ: 雑感


こうなると、日課と定めている最低5千歩のウォーキングも、暑くて日差しが強い日中にはムリなので、休日昼間にやれることは冷房に浸かって楽器を弄るか読書するぐらい。というわけで、このところ結構読書が進み、ながらく「ツン読」状態だった本の数もだいぶ減ってきました。(もう一つの理由は、亭主が4月以降、基本「週休5日」になり、それなりにヒマになったことでしょうか。)

そのような状況で、最近手にしたのが「暇と退屈の倫理学」の著者、國分功一郎氏による表題の本です。新潮選書の一冊として2023年に刊行されたものですが、内容はそれに先立つコロナ禍中の2020年および2022年に著者がオンラインで行った高校生・大学生向けの哲学講和(およびそれに対する質疑応答)を収録したもの。特にその考察の中心となっているのが、コロナ禍当時に 行動制限 を促すためによく使われた「 不要不急 」という言葉の意味です。



「はじめに」から引用された本書の腰巻(裏)にある惹句を孫引きすれば、「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある」とあります。

この文脈をコロナ禍での事態に当てはめれば、行動制限とはまさに「 人間の自由を奪うこと 」であり、その理由とされた不要不急の行動とは「 明確な目的がない行動 」というわけです。

コロナ禍真っ最中の頃、亭主は行動制限が広く呼び掛けられたことに大きな違和感を持っていなかったことを思い出します。一つには、それがあくまで 自発的なもの とされ(不要不急な外出の「 自粛 」)、先日韓国で起きたような法律(戒厳令)に基づく強制ではなかったからかもしれません。一方で、この呼びかけが他人の行動までをも制限しようとする「自粛警察」活動を引き起こしたことも記憶に新しいところ。つまり、行動制限が 自己目的化 することで、例外を認めない強制へと容易に転換してしまうという恐怖をまのあたりにしたわけでした。

いずれにせよ、いくらコロナ禍のような非常事態だからとはいえ、このような「ある目的のために人の行動を制限すること」をやすやすと受け入れてしまう、という我々のメンタリティーがいかに危険なものかという点について、本書は強く注意を喚起し、改めてその正当性をじっくり考えるべきだと促します。

この問いかけ、実は思いのほか深淵です。たとえば我々は物心ついて以来、「人生の目的」という言葉に縛られ(?)、あるいは「正義を正当化するのは目的か手段か」といった倫理的な問題(例えば現下のウクライナやパレスチナで起きていることの是非に関わる)に直面し続けています。

これについて、亭主がまさに図星をついていると思われる本書中のハンナ・アーレントの著作からの引用を以下に孫引きしておきましょう。
目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう(アレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、359〜360ページ)。
この一節がアウシュビッツを想起させることはいうまでもありません。が、この後に続く部分で展開される考察は、この文章が引き起こす「目的がすべての手段を正当化するわけではない」という倫理的反発が実のところ無意味であることを示し、読者をさらなる恐怖へと導きます。なぜなら、
目的とはまさに手段を正当化するもののこと それが目的の定義にほかならない 以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである(同書、360ページ)。
言い換えれば、我々ヒトは「目的」を設定した途端、必然的にその奴隷になってしまい、そこから抜け出せなくなるというわけです。

しかも、なお悪いことに、目的はその達成が一種の快楽を伴う(=達成感!)を伴うため、ヒトはこの快楽を繰り返し求めるようになる、という心理学的なメカニズムからも目的から自由になれない、というのが亭主の見立てです。いわば「目的中毒」、「目的依存症」の状態、もっと言えば「目的の自己目的化」という無限地獄に陥るわけです。

かつてNHKで放映された学生向けの特別授業「ダイアモンド博士の”ヒトの秘密”」(全12回)という番組の中で、休憩時間に学生から「人生の目的に悩んでいる」と相談された進化生物学者のジャレド・ダイアモンド先生、即座に「そんなものはないし、それを探すのは時間の無駄だからやめなさい」とアドバイスされていました。亭主も全く同感ですが、これが虚無主義を意味するものでは全くなく「人生そのものを楽しむべし」というアドバイスであることを若者が理解するのはなかなか容易でないとも思われます。(こういうことがよく見えてくる、という意味では、定年で「目的から解放されて」ヒマになることは人生を豊かにする?)

考えてみると、人生を何かの目的に捧げる(=そこに人生の意義を見出す)という考え方は、ユダヤ・キリスト教的な歴史観・自然観と表裏一体のようにも思われます。社会的に厳しい立場に置かれ、現世に不信・不満を強めている人たちがこのような考えに取り憑かれた結果、世界をリセットしたいと願う「終末的世界観」へと導かれることはよくある話です。現在米国で急速に広がっている福音派の「キリスト教シオニズム」もその表れと見ることができるかもしれません。

ところで、亭主が購入した本書の腰巻き(表)には「『ただ生きている』本当にそれだけでいいのだろうか—」というもう一つのスローガンがあります。その意味するところはもちろん「不要不急」というものの見方そのもの(「行動制限」の理由としてだけではない)への問いかけになっています。コロナウイルスを恐れるあまり、生き延びることだけが人生の目的になっていないか?「人生そのものを楽しむ」ために必要なものこそが「不要不急」と言われているものではないのか?こちらも深淵な問いかけに思われる亭主でした。









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Last updated  2025.07.20 22:00:05
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