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このところ未音亭の黄金週間といえば、連休の谷間を狙って一泊二日の「温泉×(かける)ワイナリー」巡りが定番。これまではもっぱら群馬・栃木、長野、山梨といった亭の西方にある名湯を訪ねて回りましたが、今年は進路をあえて北に取り、隣県福島の「いわき湯本温泉×とみおかワイナリーツァー」に出かけました。これまでずっと避けていた震災と原発事故の現場に立ち、そのつめ痕を自らの目で確かめるとともに、復興にむけて前を向く人たちから元気のお裾分けを頂くのが目的です。目的地は比較的近場ということで、寄り道しながらゆっくり北上することに。家人が運転する車で常磐自動車道を日立中央で降りて国道6号へと走り、近くのJR日立駅に寄って展望台で太平洋を一望した後、まずは「勿来の関」があったとされる県境の場所へ。勿来の関は、奈良時代から平安時代にかけて奥州との境に置かれていたという古三関のひとつとして有名です。が、実は歴史資料中には明確な記録がなく、和歌などの文学作品の中でのみ知られるとのこと。同じ福島県内にある「白河の関」(一昨年に南会津・二岐温泉にお出掛けついでに訪問)については、江戸時代の末に白河藩主・松平定信が歴史的・地理的調査(発掘調査も含む)を行い、その場所が確定しているのとは対照的です。当地は公園として整備されていて(文学歴史館も併設)、新緑の間にまに小野小町のそれをはじめ数多くの歌碑が立てられていました。次に向かったのが小名浜港にある「アクアマリンふくしま」(ふくしま海洋科学館)。巨大なガラス張りのドーム屋根が東京・有楽町にある国際フォーラムを思い起こさせます。ここは環境をテーマに掲げる水族館で(2000年に開館)、日本近海やアジア・オセアニアの海洋生物に加えて淡水・気水圏の生物も展示し、巨大水槽にはイワシの大群などが舞っています。また、サンマの飼育やシーラカンスの生態撮影など、学術的にもユニークな研究を行っているようです。ちなみに東日本大震災では当施設も4メートル超の津波に襲われ、交通網の遮断や原発事故の影響で燃料や餌が枯渇した結果、展示の9割を占める海洋生物20万匹が全滅するという大被害を被ったそうです。にもかかわらず、関係者の努力によって4ヶ月という短期間のうちに営業再開にこぎつけたとのこと。いまでは震災の痕跡はすっかり消え、当時のようすは写真パネル等で伝えられています。水族館の長い順路をゆっくり散策しながら出口に辿り着くと、すでに閉館時間も間近の夕刻4時を大きく過ぎていたので、そのまま当日の投宿先であるいわき湯元温泉・古滝屋へ直行。お宿のウェブページによると、古滝屋は創業1695年という老舗旅館で、100%源泉掛け流しの湯がご自慢の宿です。とはいえ、大浴場入り口にある解説を読むと、お湯は旧常磐炭鉱の鉱底を掘って湧出した毎分5000リットルの源泉から引かれているとのことで、源泉は創業当初から変わったと推測されます。(ちなみに、そのうち毎分3000リットルが映画「フラガール」で有名な「スパリゾートハワイアン」に注がれ、残りが周辺の温泉旅館に引かれているとか。)泉質は塩化物と硫酸塩が同程度含まれるというやや珍しいもので、ほのかに硫黄臭がします。亭主は宿に着くなり早速大浴場でじっくりお湯を堪能、翌朝にも露天風呂で手足を伸ばしました。ところで、ホテルの部屋に入ると、ちゃぶ台の上に本が2冊置かれているのが目に止まりました。見るともなく手に取ると、「ふるさとは赤」(2021年)、「土地に呼ばれる」(2022年)という短歌の歌集です。いずれも著者は三原由紀子さんという歌人で、浪江町の出身とか。ページをめくると、地元福島の街々を舞台に、若い人の感覚で日常の様々な想いを描いた短歌が並んでいます。もちろん、その背景にあるのは震災と原発事故。心の底に沈澱する災厄の記憶を抱えつつも、何とか前を向こうとする気持ちが素直に歌われていて印象に残りました。1階ロビーでも購入可とあり、どうやら宿の主人推しの歌人のようです。宿の1階ロビーにはブックカフェと図書コーナーがあり、前述の歌集をはじめ震災や原発事故関連の書籍、映画史や常磐地方の郷土史、温泉や観光に関する本など多彩な本が並んでいました。また、(亭主はスキップしましたが)9階には「原子力災害考証館 furusato」という展示スペースもあることからも、震災や原発事故を未来へt伝承しようという宿の主人の思いが伝わってきました。翌日はいよいよ福島第1原発に程近いとみおかワイナリーとその周辺地域へ。(つづく)
2026.05.03
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以前、このブログで筒井清忠氏の「日本型『教養』の運命」を取り上げたことがありました(こちら)。明治の後期、日本の一般庶民の間で爆発的に流行した「修養」こそが、日本独自の教養主義の源流であるという指摘には、目から鱗が落ちる思いがしたものです。西洋の教養主義が王侯貴族の独占物であった高級文化に由来する(「教養」と「権威主義」が結びついて「教養主義」となった)のに対し、日本のそれは、そのような高級文化とは無縁の名もなき庶民が実践する「修養」と地続きであった…であれば、日本型「教養」には社会階層を超えて人々を結びつける連帯の「希望」があるのではないか。亭主はそんな妄想を抱いたものでした。一方で、竹内洋氏の「教養主義の没落」が描き出したのは、大正から昭和にかけて旧制高校や大学を席巻した教養主義がマルクス主義と深く結びつき、戦後の大学教育の大衆化の中で「非エリート」となった学生たちが、彼らの親世代との間の世代間闘争(=学生運動)を引き起こすとともに、急速にその威光(権威)を失っていく様でした。そこで、亭主は教養主義の元になったという修養主義がそもそもどういうものだったのかに興味を持ち、大澤絢子氏の著書「『修養』の日本近代―自分磨きの150年をたどる」(NHK出版、2022年)を手に取りました。本書の腰巻に「何が『働くノン・エリート』を駆り立てたのか」とあるように、修養主義とは庶民が「自己啓発による人格向上」と「立身出世」を分かちがたく結びつけ、人生の価値を見出そうとした運動でした。当時は日露戦争の戦勝により、日本が「西洋列強に並ぶ一等国になる」という明治以来の国家目標を一応は達成し、次なる坂の上の雲を見失っていた時代。人々は、激変する社会の中での不安のへ救いや経済的成功による立身出世への希望を、もともと仏教系の宗教に由来する「修養」に見出したというわけです。(「修養」と「自己実現・立身出世」が合わさって「修養主義」が生まれたという図式化も可能でしょう。)驚かされるのは、この「修養主義」が今日に至るまで日本の企業文化の深層を滔々と流れ続けている点です。大澤氏は、宗教に対して必ずしも寛容ではない日本社会において、修養主義が「宗教っぽいもの(擬似宗教)」として機能してきた側面を鋭く指摘します。かつて松下幸之助氏や、ダスキンの創業者・鈴木清一氏といった著名な経営者たちが実践した社員教育。それは時に宗教(カルト?)的な色彩を帯び、現代の眼からは異様にも映ります。が、それが熱心に受け入れられ、「日本型経営」として成功を収めた背景には、庶民の間にあらかじめ「修養」という土壌が耕されていたからだと見ることができます。(かつて語られた「国民性」の正体もこれ。)一般に、宗教における「修養」は現世の煩悩から解放されることを目的としています。高級文化を担う「教養」も、本来は現世利益とは無縁のもの。これに対し、「修養主義」は修養によって現世利益を最大化することを目指す点で、一見真逆です。が、似たようなことは西洋でも起きており、プロテスタンティズムにおいて禁欲的で勤勉な労働を「神から与えられた天職」とする考え方が資本主義を準備したと言われています。日本の「修養主義」がプロテスタンティズムにおける勤勉志向と類似の役割を果たすことで、明治期日本の資本主義が準備されたというわけです。振り返ってみれば、今も書店の棚を埋め尽くすビジネス書や自己啓発本の隆盛は、修養主義がいまだに健在であることを物語っています。「今のままの自分ではいけない」「もっと自分を磨かなければならない」という強迫観念にも似た向上心。それは、かつての修養主義が形を変え、より強固に資本の論理に組み込まれた姿なのかも。ここで、冒頭の「希望」に立ち返るとき、亭主はある種の皮肉を感じずにはいられません。高級文化を担っていた「教養主義」が社会の急激な大衆化とともにその威光を失い、見る影もなく衰退しつつある一方で、庶民の泥臭い上昇志向から始まった「修養主義」は、企業社会という鎧をまとい、今や社会全体の規範として君臨しているかのように見えます。これは、「教養」によって大衆を社会向上への連帯に導くという教養主義的な発想がそもそもエリート側の希望的観測に過ぎず、現実には「修養」という名の大衆的な自己啓発がかつての「教養」をも飲み込み、それを「世渡りのための道具」へと変質させてしまった、ということかもしれません。現世利益とは無縁のエリート的教養が庶民を包摂するのではなく、現世利益を至上とする修養主義が社会全体を支配する側に回るという、いわば逆転現象が起きているかのようです。先に亭主が妄想した「社会的連帯への希望」は、実のところ「自己責任」という名の終わりのない自分磨きの競争へと姿を変えて実現しつつあるのかもしれません。
2026.04.26
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前回このブログで取り上げた神戸市室内オケの問題について、今朝のA新聞で日曜コラム子が改めてコメントを寄せている記事を読みました 。その冒頭、コラム子は指揮者の鈴木秀美氏率いるこの楽団が、シューベルトの第8番「ザ・グレート」で鮮烈な演奏を聴かせたその裏で、運営主体から「補助金打ち切り」という非情な通告を受けていたことに思いを馳せ、2028年に三宮にオープンする1800席規模の新ホール建設を背景に、市が「稼げぬ楽団は不要」と切り捨てたのではないかと厳しく指弾しています 。文化とは数百年の命を「継承」する営みであり、民間には不可能な長期的支援こそが公金の役割である、という主張は、一般論としては至極まっとうなものです。しかし、一歩引いて現代日本の足元を見つめたとき、この正論だけでは突破できない「壁」の存在を無視することはできません。それは、この国が直面している凄まじい人口減少とそれに伴う公的資金の減少という現実です。現在、日本の人口は年間90万人という驚異的なペースで減少しています。これに伴う税収の減少は避けられず、一方で高齢者比率の増大は医療費や介護福祉費といった社会保障費を膨れ上がらせ、国や自治体の財政を硬直化させています。このような状況下で問われているのは、実は「芸術・文化の価値」そのものではありません。限られた予算を何に割り振るかという「優先順位」の問題です。老朽化したインフラの整備か、文化の継承か。 一床の病床か、一回の定期演奏会補助か。残酷なようですが、公金が投入される以上、芸術・文化支援は常に他の切実な民生支出との「ゼロサムゲーム」の中に置かれています。この状況下で、単に「文化は大事だ」という正論を叫ぶだけでは、当事者以外を説得することは難しいのが現実ではないでしょうか。バブル期までの右肩上がりの経済成長の下で肥大化したクラシック音楽界のシステム(東京にはプロオケが9団体もある!)や、日本各地で建設された巨大なホールといった箱物は、だいぶ前から「過去の遺物」になりつつあります 。さらに、前世紀末ごろからの「教養主義の没落」に伴って聴衆も「分衆化」し、ハイ・カルチャーとしてのクラシック音楽の相対的な訴求力も低下しつつあります。神戸市が1800席の客席を埋めることに汲々とし、集客力のない楽団を切り捨てる姿勢は確かに短絡的ですが、楽団側もまた、人口減少・縮小経済・聴衆の好みの変化、という不可避な流れの中で、時代とともに移り変わる自分たちの役割や意義をどこまで意識していたでしょうか?神戸の例のみならず、いま日本のクラシック音楽界全体として必要なのは、縮小していく社会の中で、いかに文化の質を落とさずに規模を縮小させるか。いわば「華麗なる衰退」をデザインすることではないかと思います。(その点、採用広告に「衰退業界へようこそ!」というコピーを掲げる新日フィルは真っ当な自己認識を持っていると言えます。)映画の世界でも、公的支援が経済効果の見込める大作に偏っていることについて是枝裕和監督(低予算で佳作を作り続けている)が懸念しているとのこと。しかし、文化を守る側も、公金という縮小するパイの「優先順位」を勝ち取るためのロジックを磨くだけでなく、資金源自体を多様化することが待ったなしだろうと思われます。(実は全く同じ状況が自然科学における基礎研究の分野でも起きています。財務省曰く、「基礎研究が大事であることはよく承知している。しかし、国の政策の中では最優先順位ではない。」)神戸市長が立ち上げるという文化芸術支援のフォーラムが 、単なるガス抜きに終わるのか、それとも「持続可能な文化の縮小形」への手がかりを見出す場になるのか。日本の文化政策の命運は、正論のその先にある、シビアな「解決策の提示」にかかっていると言えるでしょう。
2026.04.19
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コロナ禍以降、クラシック音楽業界でオーケストラが経営上の問題を抱えていることはあちこちで話題になっています(例えばこちら)。なかでも、このところA新聞でキャンペーン的に取り上げられているのが神戸市室内管弦楽団を巡る問題。オケの生みの親とも言える神戸市が、長年続けてきた公的支援を来年度いっぱいで打ち切ると言い始め、それに伴って楽団が解散の危機にあるとのことです。つい数日前には、この問題について同楽団の音楽監督である鈴木秀美氏と、指揮者の山田和樹氏がそれぞれに寄せた言葉を紹介するA新聞の記事が掲載されました。亭主はこの二人の対照的とも言える生き方を前にして、改めて考えさせられることに。鈴木秀美氏は、補助金打ち切りの理由となった長年の赤字体質について、これまで自らが主導して行なってきた改善の努力を強調するとともに、この状況を「科学の基礎研究に十分な資金が投入されないのと同根ではないか」と批判しています。 確かに、即座に利益を生まない文化や基礎科学を守ることは、自治体や国家の品格に関わる問題です。しかし、亭主が気になったのは、その主張の根底に流れる「プロ」と「アマチュア」を截然と分かつ意識です。鈴木氏は、市がアマチュアへの支援を続ける姿勢を見せていることに対し、「プロの仕事をアマチュアの活動と同じ土俵で語ること自体が間違っている」と断じ、草野球とプロ野球を例に出して反論しています。この言葉の裏には、クラシック演奏家がしばしばまとってしまう「選ばれし者」という特権意識、いわば「上から目線」が透けて見えるように感じられてなりません。(このような意識の背景に、クラシック音楽がまとう明治以来の日本における西洋古典崇拝を基底とした教養主義があることは、度々指摘されるところです。)かつて作曲家の芥川也寸志は、音楽を愛する心においてプロもアマチュアも区別はないと説き、新交響楽団を通してその思いを実践してみせました。プロがアマチュアを「下に見る」姿勢を厳しく戒めた彼の精神から見れば、鈴木氏の言葉は音楽という営為の本質から少しばかり逸れてしまっているのではないでしょうか。そもそも「プロ」とは何でしょうか。自らの足で立ち、その仕事の対価として糧を得る。それが本来のプロの定義であるはずです。公的資金という「守られた揺りかご」を当然の権利であるかのように享受することに、鈴木氏自身は疑問を抱いていないのか。そこが亭主には大きな違和感として残ります。一方で、同じ問題に触れた山田和樹氏の視座は、極めて現実的でありながら、希望に満ちたものでした。山田氏は、補助金の打ち切りそのものよりも、それによって即座に「解散せざるを得ない」という結論に至ってしまう組織の在り方に、強い驚きを表明しています。氏が引き合いに出したのは、自身が音楽監督を務める英バーミンガム市交響楽団の事例です。3年前に市が財政破綻した際、彼らが取った行動は「絶望」ではなく「街への回帰」でした。駅やショッピングモール、あるいはトラム(路面電車)の中にまで楽器を持ち込み、市民の生活の結び目の中に、自らの音を響かせていったのです。「お金がもらえないから終わり」という前例を絶対につくってほしくない。そう語る山田氏の言葉は、行政からの支援が減りゆく現代において、プロの楽団がいかにして「市民の誇り」へと脱皮すべきかを示唆しています。(この話も含め、クラシック音楽をエンターテインメントとして捉える山田氏の考え方には亭主も大いに共感しているところ。)鈴木氏は、ホールを楽器に例え、自分たちの音を染み込ませて育てていくものだと述べました。 その通りでしょう。しかし、染み込ませるべきは「音」だけではありません。その街に生きる人々の「想い」や「共感」が染み込んでこそ、初めて文化は街の顔になり得ます。 オケの設立者として、神戸市側が打ち切りの理由を市民に丁寧に説明することは行政の責任でしょう。一方で、公金への依存を「当然」とせず、自らの価値を社会に問い続けること、これこそは楽団の矜持であるべきではないでしょうか。また、神戸市民がこれを他人事と考えず、楽団が自分たちの街に必要なのかどうかを自律的に判断することも重要です。今回の騒動は、単なる地方自治体の予算削減問題ではありません。「芸術」にこだわる音楽家が「神殿」から降り、一人の「プロ」として市民と同じ大地に立つ覚悟があるのかを問う、避けては通れない試練なのだと感じます。「わが街にはこんなオケがある」。そう市民が胸を張れる未来は、補助金の多寡ではなく、奏者たちの「ここからが本当のスタートだ」という決意の先にしか存在しないのではないでしょうか。この問題が、神戸の街にどのような調和(あるいは不協和音)をもたらすのか。亭主も一人のアマチュア音楽家としてその行方を見守りたいと思います。
2026.04.12
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「春に三日の晴れなし」で、このところ初夏のような日差しに上着を脱いだと思えば、冷たい雨のせいで急に季節が逆戻りしたような花冷えに遭遇します。そんな季節の移ろいを感じながら、亭主は先月末のジャン・ロンドーの演奏会に刺激されて、この数日ばかりルイ・クープラン(Louis Couperin, c.1626–1661)の楽譜をハープシコードの譜面台に広げていました。ルイといえば、あの有名なフランソワ・クープラン(大クープラン)の伯父にあたりますが、彼が35歳という若さで世を去った17世紀半ばは、音楽史において実に興味深い「端境期」にあります。よく言われるように、彼の時代は「教会旋法と中全音律(ミーントーン)」という古い秩序が色濃く残る一方で、後の「調性音楽(長短調)と循環音律(平均律など)」という新しい夜明けが、地平線の向こうから顔を覗かせ始めていた時代でした。現代の私たちがピアノや平均律の鍵盤で彼の作品を聴くと、一見、ごく自然な「バロック音楽」として耳に馴染みます。しかし、当時の調律と感性を前提にその響きを紐解いてみると、そこには現代人が忘れ去ってしまった「危うい美」が潜んでいることに気づかされます。まず、当時の鍵盤楽器の前提であった中全音律(ミーントーン)について考えてみる必要があります。この音律は、主要な長3度を「純正」に響かせることを目的としていますが、その代償として、特定の和音から遠ざかるほど、激しい唸りを伴う「ウルフ(狼)」と呼ばれる不協和音が発生します。例えば、彼の「嬰ヘ短調のパヴァーヌ (Pavane in F-sharp minor, No. 120)」を例に挙げてみましょう。当時、嬰ヘ短調という調性は、中全音律の鍵盤では「禁忌」に近い領域でした。和音によっては、耳を刺すような、絞り出すような苦しげな響きが生まれます。しかし、ルイ・クープランという作曲家は、この音律の「物理的な限界」を欠陥として避けるのではなく、むしろ「悲哀」の表現として積極的に取り込んでいる節があります。平均律という均質化された響きの中では決して味わえない、あの、心臓を抉るような「音の歪み」こそが、彼の音楽の官能性を支えていたのではないでしょうか。また、彼の組曲に頻出する「ニ短調」にも、古い秩序の名残が見て取れます。現代のニ短調なら当然つくはずの「シ」のフラット(♭)が、当時の楽譜ではしばしば調号として書かれません。これは「ドリア旋法(第1旋法)」の伝統に基づいているためです。旋法的な明るい「ロ音(B-natural)」と、和声的な暗い「変ロ音(B-flat)」が、一つの曲の中で万華鏡のように入れ替わる…この「調性の揺らぎ」こそが、この時代の音楽特有の浮遊感を生んでいるわけです。(ふと思うに、バッハやスカルラッティの楽章内で短調と長調が糾える縄のように絡み合うのも、このような「調性の揺らぎ」の名残りかも?)ルイ・クープランの数ある名曲の中でも、亭主がとりわけ心惹かれるのが「ブランクロシェ氏のトンボー (Tombeau de Monsieur de Blancrocher)」です。これは不慮の事故(階段からの転落死)で亡くなった名リュート奏者、ブランクロシェを悼むための作品ですが、ここには前述した「旋法・中全音律」から「調性」への過渡期ならではのドラマが凝縮されています。曲は、中全音律において最も純粋で透明な響きを持つヘ長調(F major)」で静かに始まります。この時のヘ長調は、天上の音楽のような汚れなき秩序を感じさせます。しかし、楽曲が進むにつれ、その秩序は無慈悲に侵食されていきます。注目すべきは、ブランクロシェが階段を転げ落ちる様子を模したと言われる下降音型です(下図)。ここでクープランは、ヘ長調の枠組みを逸脱し、変ホ(E-flat)や嬰ヘ(F#)といった、中全音律では「濁り」を伴う半音を執拗に導入します。現代の耳で聴けば単なる「半音階的進行」ですが、当時の聴衆にとって、この純粋なヘ長調の響きが徐々に「汚され、歪んでいく」過程は、単なる比喩を超えた、生理的な衝撃を伴う「音の死」の描写であったはずです。機能和声的な「解決」を待つエネルギーよりも、旋法が持つ「重力に従って淀んでいく」感覚。そして、音律が内側からヒビ割れていくような不快な唸り。それらが混ざり合うことで、友を失った喪失感が、物理的な響きそのものとして立ち現れてくるのです。亭主が思うに、ルイ・クープランの音楽がこれほどまでに私たちの胸を打つのは、彼が「古い世界の終わり」と「新しい世界の始まり」の両方に足をかけていたからではないでしょうか。すべてが機能的に整理され、どの調性も均質に響く平均律の世界では、このような「響きの落差」によるドラマは生まれません。彼は、教会旋法という長い歴史の残照を惜しみつつ、同時に新しい時代の波に洗われ、その軋みの中からしか生まれ得ない「一瞬の美」を、クラヴサンの弦に刻み込んだのです。ルイがもし、バッハやラモーの時代まで生き延びていたとしたら、彼の音楽はもっと整然とした、洗練されたものになっていたかもしれません。しかし、35歳で早世したからこそ、彼の作品には、永遠に「夜明け前の薄明」のような、不安定で、それゆえに抗いがたい魅力が宿り続けているのではないか。皆さんは、ルイ・クープランの「音の歪み」に、何を感じられるでしょうか。
2026.04.05
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先週の3月25日夕刻に上野、東京文化会館小ホールにて行われた表記演奏会に出かけました。ロンドーの来日はこれまでに2017年、2019年、2023年の3回で、亭主共はいずれの回も同じ会場で彼の演奏を堪能。日本デビューとなった2017年はゴルトベルク変奏曲の一本勝負でしたが、その後2019年は主に18世紀のフランス・クラヴサン音楽、2023年にはハイドンやモーツアルトをハープシコードで弾くという変化球プログラムでした。ところが、今回はなんと亭主が愛してやまないルイ・クープランを集中的に取り上げることに加え、使用楽器も彼が活躍した17世紀フランスの初期モデルを名製作家ディヴィッド・レイがコピーしたものということで興味津々。昨年のアナウンス早々にチケットを予約してこの日を待っていたところでした。もちろん、ロンドーが今回のプログラムにルイ・クープランを立てた理由は明らかで、彼は2024年に演奏会活動を中止して8ヶ月ものあいだルイ・クープランの全作品(オルガン曲も含む)の録音に取り組み、同時代のクラヴサン音楽やリュート作品からの編曲も含めたCD10枚からなる大作を昨年暮れにリリース。その間、2025年9月からヨーロッパ各地でルイ・クープランを中心に据えたリサイタルを開催しているとのことで、このところロンドーの頭の中はルイ・クープランのことで一杯なのだろうと想像されます。亭主の方も昨年末に件のCDセットを落手し、週末をいくつか潰して全録音を一通り拝聴したところなので、改めて彼の演奏を生で聴くには絶好のタイミングです。ところで、今回のリサイタルのもう一つの目玉である初期フレンチモデルの楽器は、日本のヴィオラ・ダ・ガンバ奏者である千成千徳(せんなり しげのり)氏の所蔵で、2018年に納入されたものだとか。ところが翌年に千成氏が他界し、その後はコロナ禍などもあってこの楽器は表に出ることはなく、公開の場で披露されるのは今回が初めてとのこと。コピー元の楽器は17世紀の製作家ヴァンサン・ティボーの手になるものですが、その後フランスのクラヴサンはルッカース製に席巻されてこのような初期フレンチスタイルは廃れてしまったため、当時の響きを伝える大変貴重な楽器とされています。招聘元のアレグロミュージックによると、前回の来日時(2023年)にこの楽器のことを知ったロンドーは「次回の来日時にこの楽器をぜひ弾きたいと、毎日のように訴えてきた」とのことで、招聘元も彼の熱意に絆されてなんとか楽器を借り受けようと奔走したようです。なので、この演奏会は彼の夢がようやく叶う場となったというだけでなく、クラヴサン音楽を愛する聴衆にとっても、貴重な楽器の音を名手の演奏で聴くことができるまたとない機会になったと言えます。というわけで、亭主共も当日会場に着くなり、舞台上のこの楽器を繁々と眺めることに。まず印象的なのがその外見で、全体的にガタイが大きく重量感があります。調律師が鳴らしている音からは、これまで耳にしたことがあるどの楽器よりも大きな音量に聞こえます。音色もルッカースやそのラヴァルマンモデルよりはイタリアンに近く、特に低音の響きが明るい感じです。(ロンドーが実際に弾いている間にも同様の印象を持ちました。)さて、開演時間が近づいて聴衆が着席したところで、注意事項についてのアナウンスが流れるのを聞いていると、演奏中は会場の照明を落とすだけでなく、非常灯も消灯すると言われてびっくり。(何かと「安全」にうるさいこのご時世、文化会館側がよく許可したものです…)まもなくスーッと照明が消されて会場は闇の中に。舞台上の楽器が仄暗く照らされている中、ロンドーは例によってラフな格好(焦茶色のセータに黒いズボン)で登場。楽器の前でしばらく沈思黙考の後、まず一音だけトーンと響かせるところから演奏が始まりました。その後の1時間強、聴衆は暗闇の中で全員が息を凝らしてロンドーの演奏を傾聴。入場時にもらったパンフレットには当日のプログラムが印刷されていましたが、これほどの暗がりの中では全く判読不能です。それでも最初の「組曲ニ長」で取り上げられた曲はまだ馴染みがあって見当がつきましたが、ゴーティエの「メザンジョー氏ののトンボー」を過ぎたあたりから怪しくなり、ダングルベールの有名な「シャンボニエール氏のトンボー」まで来たところでようやく「これで3分の2ぐらいだな」と分かる程度。最後の曲となったフランソワ・デュフォーの「ブランクロシェ氏のトンボー」(例のCD5枚目に所収)もそれとわからず仕舞い。ロンドーが弾くのを止め、少し間を置いて椅子から立ち上がったのを見て、ようやく亭主も含めた聴衆はそれと知って拍手を送ることに。その後、一曲だけ演奏されたアンコールはルイ・クープランの「ブランクロシェ氏のトンボー」でした。(その他、曲目の詳細は招聘元のHPを参照。)最後に、この演奏会を聴いての亭主の勝手気ままな感想を少々。まず、全体のコンセプトはおそらく「クラヴサンによるルソン・デ・テネブル(暗闇の朝課)」ではないかと思われます。今年はルイ・クープラン生誕400年の節目の年ですが、ロンドー自身はちょうどルイが没した時と同じ35歳となり、自分が6、7歳の時に最初にルイの音楽をクラヴサンで弾いて以来、クラヴサン奏者として彼の全音楽を「生き直す」のに相応しい年齢になったことを強く意識していると想像されます。実際、プログラムに目を落とすと、「クープラン氏に寄せるトンボー(Tombeau de Mons Couperin)」というお題が付いています。これはとりも直さず「故人を追悼するための演奏会」を意味し、おそらくロンドーはリサイタル中に冥界からルイを呼び出し、彼に憑依させるためにあの暗闇を用意し、ルイになり切って鍵盤に向かっていたのかも、と妄想させられます。(前述の10枚組CDのジャケットも闇の中にロンドーの顔が仄暗く浮かぶというもので、同じノリであるように見えます。)当日の演奏を聴いていて気付いたことには、ロンドーは和音の構成音をできる限り同時に弾かないようにし、アルペジオやトリルをこれでもかと多用していました。これはおそらく当時のクラヴサン音楽におけるスティル・ブリゼ(〜リュートの模倣)を意識したものですが、あまりに多用されるので演奏全体の印象がやや平板になったという点で残念に感じられました(「過ぎたるは尚及ばざるが如し?」)。今さら言うまでもなく、四百年も前の音楽が実際にどのように鳴り響いていたのかは知る由もありません。ルイ・クープランの音楽に対する思い入れが過ぎて、演奏スタイルにある種の縛りがかかってしまったのかも。もっとジャズやロックのように自由に弾いていいんじゃないの、と言いたいところです。なお、暗闇の演出についてもう一言。前述のように、これは「トンボー」というお題には相応しいと思います。が、どうやらロンドーは同じことを「オール・バッハ プログラム」の回でもやったとのことで、いくらなんでもそれはやり過ぎだろうと思います。聴衆は音楽を楽しむために来ているのであって、彼らに常時宗教儀礼のような緊張と集中を強いるのは(演奏家と聴衆の立場の非対称性を考えれば)やはりフェアではないのでは?このような「集中的聴取」は、かつては北米ヨーロッパのクラシック音楽の演奏会でも主流でしたが、今では日本だけに特有の「お作法」のようです。演奏家にとって都合がよいからといって、聴衆をあたかも米俵のように暗闇の中で沈黙させるのには疑問を感じます。(これは興行における問題として招聘元にも考えていただきたい点です。)
2026.03.29
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先週の「クラシックTV」(NHK-Eテレ)で、エリック・サティが「謎多き先駆者」として紹介されているのを録画でチラ見しました。番組のうたい文句からもわかるように、クラシック音楽の業界(特に音楽興行に関わる演奏家など)では、サティがドビュッシーやラヴェルと同格の作曲家(?)として扱われる一方で謎めいた音楽家とも称され、いかにも彼を持て余しているように見えます。何故こういう中途半端なことになっているのか?そのわけは、サティが19世紀ドイツの「真面目な音楽」を中心とした近代西洋音楽のあり方そのものに対する徹底した批判者であるにもかかわらず、音楽業界が彼をあくまでそのような西洋音楽の伝統に連なる一員とみなし、その枠の中で捉えようとする姿勢にあります。例えば、「ヴェクサシオン(嫌がらせ)」という作品は、同じ旋律を840回繰り返すという点で演奏家・聴衆双方にとってもまさに「嫌がらせ」そのもの。これが19世紀以降の「演奏会」に対する批判であることは明白であるにもかかわらず、いまだに「奇妙」、「不思議」などといった曖昧な態度で肯定的に接し、果ては実際に演奏するという愚直さに陥ってしまう演奏家や、それを真面目な音楽として受け取ろうとするかのうような聴衆の存在は、クラシック音楽の異様さと当事者の無自覚ぶりをあぶり出しています。同じような状況が、ジョン・ケージの「4分33秒」という「作品」とそれに対する聴衆の接し方にも見られます。ところで、サティの音楽や彼の言行に込められた教養主義的なクラシック音楽に対する批判は、当事者たちにはスルーされる一方で音楽学や芸術哲学の分野では受け止められ、特に「反・芸術」や「制度批評」の文脈で深く掘り下げられてきたようです。例えば、サティが提唱した「家具の音楽(Musique d’ameublement)」は、「演奏会」という制度への最大の皮肉です。件の番組中では、この曲を前にしてサティが「音楽を聴くな!」と観客に求めたエピソードを紹介し、これを「BGM・環境音楽の先駆け」として好意的に紹介していました。しかしながら、サティがこの曲に込めた意図は、19世紀的な「崇高な芸術を静聴する」という儀式化された音楽体験を徹底的に揶揄するもので、番組のような扱いをすると「芸術の権威を剥ぎ取る」という作曲者元来の意図を隠蔽することになってしまいます。前述の「ヴェクサシオン」については、 それがクラシック音楽の型である起承転結という「物語」への拒絶を意図している点がまず指摘されるべきでしょう。さらに、 この曲がが題名の通り演奏家に対する身体的な嫌がらせであり、同時に「名演」や「感動」を期待する聴衆への拒絶である点も明らか。ジョン・ケージが1963年にあえてこの曲を実際に連続演奏させた意図も、これを従来の「音楽作品」ではなく「概念芸術(コンセプチュアル・アート)」の先駆として位置づけるためのものだったと言われています。ケージは、サティの中に「19世紀位以来の直線的な進歩主義からの解放(脱出)」を読み取ったというわけです。実際、少しネットで調べると、社会学者ピーター・バーガーの「前衛芸術論」(1984)などの文脈において、サティやケージの試みは「作品そのもの」ではなく、「それを取り巻く制度(コンサートホール、静粛、入場料)」を浮き彫りにするための装置であると定義されています。「何も弾かない演奏者」を真剣に見守る聴衆の姿は、クラシック音楽という「宗教」の形式がいかに強固で、時に滑稽であるかを逆説的に証明していると言えるでしょう。ここまで来れば、クラシック音楽業界がサティを「謎多き音楽家」と呼ぶ理由がはっきりします。なぜなら、彼の思想を真っ向から受け入れると、自分たちの立脚点(音楽作品の権威や芸術的価値)が崩壊してしまうからです。もっと言えば、音楽業界にとってサティの作品を「批判」として受け取ると商売しにくいが、彼を「不思議な変人」としてブランド化すればCDやチケットが売れる、という商業主義的な動機が働いていると想像できます。そのためには、サティを「音楽の父」バッハから始まる音楽史という一本の線の中に組み込む(「正典化」する)方が好都合。「クラシックTV」の番組内容もこのような正典化の路線に従っただけと言えます。ちなみに、番組でMCは「サティがドビュッシーやラヴェルから慕われていた」といったコメントも出ていましたが、これも一方的なもので、サティ自身は彼らにも批判的な目を向けていました。なぜなら、彼は当時のフランス音楽界を支配していた「崇高で、真面目で、仰々しい」空気感に対して強烈な違和感を持っていたからです。例えば、サティはドビュッシーの「印象主義」さえも、伝統的な枠組み(ドイツロマン派への対抗意識)に縛られていると感じていました。サティはドビュッシーの傑作オペラ『ペレアスとメリザンド』に対してもこう言い放ちました。「素晴らしいが、背景が足りない。木を描くなら、その枝に吊るされた果物も描くべきだ」これは、ドビュッシーの音楽が「雰囲気」に流され、構造的な明晰さを欠いていることへの、彼なりの鋭い批判でした。一方、ドビュッシーがサティの音楽を「君の音楽には形式(フォルム)がない」と批判した際、サティは後日、『梨の形(フォルム)をした3つの小品』というタイトルの楽譜を持って現れました。「ほら、形(梨の形)があるだろう?」というわけです。これも単なるジョークではなく、音楽的な形式論をあざ笑う最高に知的な嫌がらせだったと見るべきです。サティは作曲家が「芸術家」として神格化されることを極端に嫌いました。彼は公的な書類の職業欄に「作曲家」ではなく「器械技師(ジムノペディスト)」や「測量技師」と書くことがありました。音楽を感情の表出ではなく、あくまで「音の配置」という作業として突き放して見せるポーズです。また、父親から入学させられたパリ音楽院(コンセルヴァトワール)を「世界で最も下劣な場所」と呼び、わざと落第するような行動をとって逃げ出しています。後に40歳を過ぎてから、あえて保守的な音楽学校(スコラ・カントルム)に入学し、首席で卒業することで「伝統的な技法など、その気になればいつでも習得できる」と証明してみせた、というわけです。彼は自分の真意が理解されないことを逆手に取り、「変人」の仮面を被ることで、既存の批評家たちからの攻撃をかわしていました。遺産が入った際、彼は全く同じベルベットのスーツを7着購入し、そればかりを着て過ごしました。これは「ベルベットの紳士」という記号になりきり、私生活を匿名化する戦略でした。「私は非常に若い時に、非常に古い世界にやってきた」とはサティの言葉ですが、彼は自分が理解されないことを嘆くのではなく、むしろ理解しようとする側(伝統的な聴衆や批評家)の無理解を、彼らをあざ笑うための武器に変えていたとも言えます。サティが毒を吐き、変人を演じ続けたのは、「音楽を特別なものにしない」という信念を守るためでした。彼にとって、音楽を「感動の道具」にすることは、聴衆による感性の搾取に等しかったのかもしれません。サティのこうした「戦略的拒絶」を踏まえると、現代の我々が彼を「癒やしの音楽」として消費している現状を、本人は草葉の陰でさぞや滑稽に思っていることでしょう。
2026.03.22
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このところ、亭主の関心はイスラエル・米国によるイランへの軍事攻撃にハイジャックされていて、これに関連した報道にどうしても目が行ってしまいます。「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗もここに極まった感がある一方、問題の根本があのような大統領を生み出したアメリカという国にあることも明らか。そこで、この週末にヨーロッパとの対比という観点から考えてみることに。まず、冷戦(資本主義 vs 共産主義の対立)の終結以降の国際紛争には「宗教的な対立」が大きな影を落としているように見えます。そもそも米国は17世紀に英国で国王ジェームズ1世から迫害を受けた清教徒たちが、それから逃れるために海を渡って作った国。大統領が就任式で聖書に手をかけて宣誓するところからもわかるように、米国はキリスト教を軸とした「宗教大国」でもあります。そのため、宗教を否定する共産主義には極めて不寛容で、1950年代には議会による共産主義者及びその同調者とみなされる人たちへの政治的な迫害(マッカーシズム、あるいは「赤狩り」)も行われました。一方、これと対照的なのがヨーロッパで、16-17世紀に起きた宗教戦争でヨーロッパ全土が荒廃した経験から徐々に脱宗教化(=世俗化)が進み、18世紀には啓蒙主義の時代へと移っていきました。その表れのひとつが、啓蒙主義時代における古代ローマの歴史への関心の高まりです。これは、「キリスト教以前の世界」を参照することで、宗教に対する理性の優位性への歴史的証拠を見出し、キリスト教の精神的支配から脱却しようとする試みであったという見方もできます。同じような指摘が、18世紀に出版された「ローマ帝国衰亡史」の著者エドワード・ギボンをはじめ、前世紀の著名な歴史家の一人であるピーター・ゲイなどからもなされています。とはいえ、このような見方をそのままヨーロッパにおける「理性の勝利」という単純な構図に当てはめることにはいくつかの重要な問題があります。まず、啓蒙主義者の多くは必ずしもキリスト教を全否定して「理性のみ」の無神論に走ったわけではありません。ヴォルテールをはじめとする思想家たちは、伝統的な教会のドグマ(教義)は否定しましたが、宇宙を創造した「神(知性)」の存在は信じていました。(このような考え方は、最も無神論に近い立場にあると思われる現代の物理学者の中にも見られます。)彼らが称賛した古代ローマの徳(ストイシズムなど)は、実はキリスト教的な道徳観と完全に切り離されたものではなく、むしろ「迷信を除いた純粋な信仰」のモデルとして再解釈されていました。また、彼らの主張の目的は、「理性の優位」という哲学的なものよりは、当時の政治体制への批判という極めて現実的な目的が優先されていた点も見逃せません。モンテスキューらがローマを参照したのは、教会の支配を脱するためだけでなく、当時の「絶対王政」とは別の選択肢(共和政や均衡ある権力分立)を見出すためでした。つまり、彼らが求めていたのは「神学からの解放」と同等以上に「政治的自由」であり、古代ローマは非キリスト教的な統治の例というより、あるべき国家モデルのカタログとして消費されていた側面があります。もうひとつの問題は、啓蒙主義者が持っていた中世に対する過度な偏見です。彼らは自らの文明を「光(啓蒙)」、キリスト教支配下の中世を「暗黒」と定義しました。古代ローマからルネサンスに至るまでの間に、キリスト教神学の中で発展した論理学やスコラ哲学が、近代的な「理性」の形成を準備した側面があることは無視されました。彼らが称賛したローマの「理性」は、実際には多神教的な儀礼や呪術と密接に結びついていましたが、啓蒙主義者は自分たちの都合の良い「哲学的ローマ」のみを抽出し、歴史的実態を歪曲していたという批判があります。もし啓蒙主義が純粋に「宗教に対する理性の優位」を証明したかったのであれば、古代ローマの負の側面(残酷な見世物、非合理的な予兆の信奉、奴隷制)についても批判的に評価すべきでした。実際には、彼らはキリスト教がローマを滅ぼした(ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の論調)と論じることで、キリスト教を有害なものとして描く一方で、ローマ自体の内部崩壊や非合理性には目をつぶる傾向がありました。したがって、この運動は「宗教から理性へ」という一方的な進歩ではなく、「既存の宗教権威を打倒するために、別の権威(古代)を召喚した」という、権威のすげ替え作業であったと捉えるのがより正確かもしれません。とは言うものの、エドワード・ギボンの「キリスト教(宗教的熱狂)がローマという合理的秩序を内部から侵食し、崩壊させた」という史観を現代の宗教対立や紛争に重ね合わせる視点は、依然として現代的なアクチュアリティを持っているように思われます。ギボンがローマ帝国を理想化した最大の理由は、その「宗教的寛容」にありました。多神教のローマは、各民族の神々を帝国の秩序内に併存させる柔軟性を持っていました。(これは日本における神道の在り方とも通じるところです。)キリスト教という「唯一絶対神」を掲げる排他的な信仰は、帝国の多様な統合原理を破壊することになりました。冷戦後の紛争(ユーゴスラビア、中東など)において、世俗的な国家枠組みが崩壊した後に「宗教的アイデンティティ」が突出して排他的な対立を生む構図は、ギボンの指摘した「宗教による公共性の解体」と強く共鳴します。「普遍的な教義」が「世俗的な統治」を圧倒する時、社会の流動性が失われ、対立が激化するという警告として、ギボンの視点は極めて有効です。ギボンは、ローマの滅亡を単なる軍事的な敗北ではなく、「内なる知性のマヒ」として描きました。ギボンによれば、ローマ人は現世の統治や防衛よりも、キリスト教信仰における死後の救済や神学論争にエネルギーを注ぐようになったことが衰退の原因です。21世紀の紛争においても、合理的対話や経済的互恵関係よりも、宗教的聖地や教条的な正義が優先される現象が見られます。これは「高度に発達した文明であっても、非合理な情念によって自壊しうる」というギボンの文明論的危惧を裏付けるものと言えます。ただし、ギボンの見方にも「非合理な情念」の原因まで思い至らなかった点に限界があると言えます。実際の紛争の実態を仔細に眺めれば、その原因は資源分配や格差、政治的疎外にあり、宗教は「旗印」あるいは口実に過ぎないように見えます。啓蒙主義者は古代ローマを合理的・安定的な理想社会とみなしていましたが、実際には深刻な格差や軍事的腐敗を抱えた不安定な体制だったことを考えれば、それらこそが「非合理な情念」の真の原因と言えるでしょう。(これは現大統領の出現を促した米国の状況とウリふたつに見えます。)ギボンの視点は、「世俗的な公共空間をいかに宗教的熱狂(あるいは原理主義的なイデオロギー)から守るか」という課題を考える上で、今なお強力な「教訓」として機能します。しかし、現代の紛争を「宗教(暗黒) vs 理性(光)」という啓蒙主義的な二分法だけで捉えると、問題の背後にある経済的搾取やポストコロニアルな構造を見誤る危険があります。「宗教が文明を滅ぼす」のではなく、「文明がその包摂力を失ったとき、宗教が対立の言語として選ばれる」このようにギボンの言葉を読み替えることで、彼の史観は現代の複雑な紛争を解読するための、より洗練されたツールになると言えるでしょう。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』におけるこの「宗教への懐疑」は、現代の私たちが直面している「多文化共生と世俗主義の対立」というジレンマの先駆けであったと言えます。
2026.03.15
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西洋クラシック音楽、特に古楽に関わる日本の音楽家や音楽史家は、ある程度年齢や経験を重ねると、必ずと言っていいほど「日本人の自分が人生を賭けて西洋音楽をやっていることに意味があるのか?」という根源的な疑問に向き合うことになるようです。そして、その答えの一つとして辿り着くのが16世紀にイエズス会の宣教活動を通じて生起した日本と西洋文明との接触です。大雑把に言えば、この接触によって日本もヨーロッパの文化と繋がっていた(無関係ではなかった!)ので、彼らの音楽をやることは日本人にとっても何かしらの意味はある、という納得の仕方です。とはいうものの、当時の宣教師達が何を目的に日本に来ていたのかを考慮せずに、この「未知との遭遇」を僥倖であるかのように捉えるのは、あまりにも無邪気すぎると思われます。イエズス会自体はキリスト教の布教を目的として16世紀半ばに成立した修道会ですが、同会は「新大陸」での植民地獲得を目指すスペイン・ポルトガル王室の意を受け、いわば帝国主義の先兵として日本を含むアジアに進出してきました(たとえばこちら)。その戦略は明快で、現地の住民をキリスト教に改宗させ、さらには政治権力にも取り入って宗教的権威を上書きすることで彼らを支配しようというわけです。(これを察知した豊臣秀吉や徳川家康が禁教へと舵を切ったことはよく知られています。)外国の宗教勢力が日本の政治に影響を与えた、という点でイエズス会と似ているのが、このところマスコミでもよく取り上げられる旧統一教会です。両者には「宗教というソフトパワーを用いて、その土地の有力者(大名や政治家)に深く食い込み、背後の組織や国家の利益を図る」という共通の構造が見て取れます。亭主には、彼らのいずれもが日本を政治的な「属国」にしようとしたように思われますが、その理由を歴史的背景と現代の構図から整理すると以下のようになります。1. 「トップダウン型」の浸透戦略イエズス会が戦国大名を、旧統一教会が国会議員を標的にしたのは、効率的に社会を動かすための「上部構造の掌握」という共通戦略からでした。 ・16世紀: キリシタン大名に対し、南蛮貿易(武器や硝石)という「実利」を餌に改宗を促し、背後のスペイン・ポルトガルの影響力を拡大させた。 ・現代日本: 保守系政治家に対し、選挙の「無償ボランティア」や「組織票」という喉から手が出るほど欲しい「実利」を提供し、政策決定や人事への影響力を確保した。2. 「資金の還流」という経済的属国化「属国」という言葉が最も現実味を帯びるのは、日本が教団の「ATM(資金源)」と化していた実態です。イエズス会の場合、日本をキリスト教化することで貿易利潤を得る側面がありましたが、旧統一教会はより直接的でした。 教団の教義では、韓国を「アダム(主人)国家」、日本を「エバ(罪人)国家」と位置づけ、日本は過去の植民地支配の罪を贖うために、韓国や全世界の教団活動を支える「経済的な使命」を負うべきだと説かれました。 このため、日本の布教活動は組織的な資金集めが最大の目的となり、集められた巨額の資金(累計数千億円規模とも言われる)は韓国本部への送金や、世界規模の政治工作、巨大ビジネスの原資、果ては教祖一族の豪華な生活費へと充てられてきました。これは、富が一方的に外部へ流出するという意味で、「経済的な搾取構造における属国」と言える側面があります。3. イデオロギーによる「思考の占領」「属国化」のもう一つの側面は、日本の国益よりも「教団の利益や教義」を優先させる政治家を醸成した点に見ることができます。 ・政策への干渉: 教団の教義に沿った「家庭教育支援法」の推進や、「選択的夫婦別姓」への反対など、本来日本の有権者の議論で決まるべき課題に対し、特定の宗教的価値観を忍び込ませることに成功した。 ・対韓・対米関係: 「日韓トンネル」構想や、文鮮明氏が提唱した世界戦略に日本の政治家が「お墨付き」を与えることで、日本の政治的資源を教団の権威付けに利用した。というわけで、16世紀のイエズス会が「十字架と剣」で植民地化を狙ったと言われるのに対し、旧統一教会は「投票箱と献金袋」を用いて、民主主義のシステム内部から日本を実質的にコントロールしようとした(国家の乗っ取りにも比せられる)と言えます。 「属国」という表現は多少過激であるものの、「日本の政治決定権が、日本国民ではなく外部の宗教組織の意思に左右されていた」という本質をよく表しています。今回の解散命令は「民法上の不法行為」という、ある意味で些細に見える理由によるものですが、その根底にある問題は非常に深く、16世紀の歴史に照らしても学ぶべき点が多いと思われます。
2026.03.08
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イタリア・ルネサンス期の造形美術をこよなく愛する亭主にとって、メディチ家といえばすぐに思い浮かぶのが「イル・マニフィコ(豪華王)」という渾名を持つロレンツォ・ディ・メディチ(1449-1492)。彼の実質的な支配の下、フィレンツェにおける芸術・文化は最盛期を迎えたと言われ、500メートル四方という狭いフィレンツェ旧市街は、絵画や彫刻の名作で溢れかえっている感じです。(亭主も若かりし頃にこれらを全部目に焼き付けよう、と1週間ほど街中を歩き回りました。)もう一人、よくその名を聞かされるのは「祖国の父」の尊称でも知られるロレンツォの祖父、コジモ・デ・メディチ(1389-1464)で、彼は初期ルネサンスのパトロンとしていわゆるクワトロチェント(1400年代)に活躍した画家や彫刻家を支援するとともに、プラトン哲学に心酔して私的な学芸サークル「プラトン・アカデミー」の基礎を築いたり(ここでの人文主義者達の活動が後の新プラトン主義の流行へと繋がる)と、「文芸復興」の影の立役者でもあったことが知られています。あともう一人の有名人が、前述のロレンツォの次男でローマ教皇「レオ10世」となるジョバンニ・デ・メディチ。彼が教皇時代のローマにルネサンスをもたらした(ミケランジェロやラファエロのパトロンとなり、彼らに数々の名作を委嘱)と言われています。(亭主もシスティーナ礼拝堂にある彼らのフレスコ画を目前にして圧倒されたことが昨日のことように思い出されます。)というわけで、もっぱらルネサンス芸術という窓を通してのみ彼らを見ていると、メディチ家の人々は皆が金払いもよく善良な芸術愛好家であるかのように錯覚しがちです。が、もちろんそんなことはなく、政治的には日本の戦国時代にも似て権謀術数が渦巻く乱世といってよい時代を生き抜いた人たちなので、それぞれの人生が波乱万丈。人物伝として今日まで文筆家の題材を提供し続けている所以でもあります。ところで、亭主が以前から気になっていたのが、ヘンデルやドメニコ・スカルラッティが若い頃に関わったメディチ家のトスカーナ大公コジモ3世(1642-1723)と彼の二人の息子、フェルディナンド(1663-1713)とジャン・ガストーネ(1671-1737)のことです。まず、フェルディナンド(長男なので大公子)の方は、1705年にドメニコが父アレッサンドロの紹介状を持って求職活動を行った相手。彼は「建築・素描・絵画に熟達したアマチュアというだけでなく、ハープシコードを上手に弾いた」ことで知られ、後にピアノフォルテの発明者として名を馳せるバルトロメオ・クリストフォリの雇い主でもありました。(アレッサンドロの紹介状を見ると、彼が息子へのオファーを切望してたことがヒシヒシと伝わってきます。)一方、同じ頃(1706~)に若いヘンデルはイタリアで武者修行に出かけますが、そのきっかけを作ったのがジャン・ガストーネ(フェルディナンドの弟)であったとされています。ヘンデルはハンブルクのオペラに関わっていた1705年に当地を訪れていたジャン・ガストーネと出会い、彼からイタリアに来るように熱心に誘われたようで、その場では断ったものの後に自分で旅費を工面してイタリアに渡ります。(その後ヘンデルとスカルラッティがローマで邂逅を果たし、鍵盤の腕比べの後で親交をかわしたことがよく知られています。)こういったエピソードから、亭主はルネサンス期から2世紀以上下った18世紀初頭においても、フィレンツェがメディチ家の支配の下で繁栄を保っているかのような印象を持っていました。ところが、今回表題の本を読んで、これが全くの幻想だったことを知ることに。同署によれば、フィレンツェがメディチ家の下で曲がりなりにも栄えていたと言えるのはコジモ3世の曽祖父フェルディナンド1世(1549-1609)の代までで、「あとはゆっくり百年をかけて衰退してゆく運命にあった」とのこと。コジモ3世の代には、トスカーナ大公国はすでにヨーロッパの小国へと落ちぶれ、メディチ家自体も貧しくなっていました。長命(享年81)だった彼の治世(1671-1723)の前半にフィレンツェを訪れたイギリスの歴史家は、あれほど美しかった花の都フィレンツェが見る影もなくなった、と驚いたとか。このような状況を考えれば、ドメニコがなぜフェルディナンドからのオファーを得られなかったかも容易に想像がつきます。要するに、当時メディチ家はすでに財政難に瀕しており、新たに宮廷音楽家を高給で雇うような余裕はなくなっていた、ということでしょう。その後、兄フェルディナンドが父親のコジモ3世より先に病没(男色による梅毒が原因とされる)して弟ジャン・ガストーネがトスカーナ大公職を継ぎますが、彼も兄同様のゲイで「若い男達と宮殿に閉じこもって、酒と遊びの自堕落な生活を延々繰り返した」とのことで、まるでバイエルン王ルードヴィッヒ2世の後半生そっくりだとか。当然のように子供もおらず、彼の死をもって初代からおよそ350年続いたメディチ家は絶え、フィレンツェはハプスブルク家の支配下に入ることに。こうしてみると、1685年組のヘンデル、バッハ、スカルラッティが生きた時代とは、まさに貴族が没落していく時代だったことがよくわかります。
2026.03.01
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今年の10月に来日が予定されているヘルシンキ・フィルの公演を予告した招聘元のSNS広告がネット上で物議を醸しているそうです。2月19日のA新聞夕刊の「音楽閑話」という記事によると、当初予告に指揮者の名前がなかったことに批判が上がっていたのが、そのうち共演者である「かてぃん」こと角野隼斗に対しても向かい、彼のせいでチケットが高騰しているのではないか、あるいは彼を「客寄せにしたのではないか」という疑問、果ては音大でアカデミックな教育を受けていない彼を「正統ではない」とか「由緒あるオケのソリストにふさわしくない」といったバッシングまでになっているとか。このところ角野クンの人気が異様に高く、ファンクラブに入っても高い抽選倍率でなかなかチケットが取れないことは夙に知られています。こういうポップスター並みの扱いは、先週このブログで取り上げたスタニスラフ・ブーニンの場合によく似ています。一方で、ブーニンの場合には、当時の評論家から批判が向けられたのはミーハーな聴衆に対してで、そのような聴衆は芸術としてのクラシック音楽をよくわかっていないのではないか、という上から目線のものでした。これは、ブーニンが演奏するようなピアノ音楽は「真面目な芸術音楽」として鑑賞されるべきもので、追っかけの聴衆が楽しむ娯楽音楽のような軽いものではない、という教養主義的な考え方の表れです。今回の場合にも、批判の発信元はどうやら昔ながらの「真面目派」クラシックファンのようですが、その対象が聴衆ではなく、演奏家本人に向かっている点が異なります。その理由たるや、「彼は音大を出ていない」とか「正統ではない」ということで、まさに教養主義にどっぷり浸かったオールドファンの「雰囲気の悪さ」が丸出しです。多少とも彼らオールドファンの心情を忖度してみれば、角野クンが他の人気あるクラシック音楽演奏家と同じような経歴を持たないにもかかわらず、クラシック音楽のショービジネスでおおいに稼いでいることに、ある種の嫉妬を感じていることが批判の根っこにあるように思われます。ネット上の彼らの発言を見ていると、なんで彼のような駆け出しの演奏家のチケットが手に入らないのか、という不満(ルサンチマン)が見て取れるからです※)。今回のSNS上の批判に対し、角野クンは「私が正統のクラシックではないとか、由緒あるオケのソリストに相応しくないと批判する方も一部に見受けられます。このような声は数年前から常に存在し、私が日本を出て欧米で武者修行したいと思った理由の一つですが、現在各地で実力と実績を積み上げている最中ですから、今後に期待いただければ幸いです。ただし、私は権威や正統化のために音楽をしているのではありません。自分の心に従い音楽をします。」とキッパリ。このコメントが逆に炙り出していることは、日本のクラシック音楽の興行(演奏会)が依然として教養主義的で閉鎖的なオールドファンに牛耳られているらしい、ということです。角野クンが海外に拠点を移した理由のひとつもこれということなので、同じ理由で広く有為な若手人材の海外流失を招いている可能性があるとすれば事態は深刻とも言えるでしょう(やれやれ…)。それにしてもクラシック音楽のオールドファン達よ、角野クンのことはもう忘れてはいかが?彼のやり方にあれこれ口出しするのはまさに余計なおせっかいというもの。彼はあなたのような聴衆を必要としていないし、あなたの好みの「正統的なクラシック音楽演奏家」として振る舞う気も毛頭ないのだよ…※)追記:この状況、有名なイソップ童話「すっぱい葡萄」を思い起こさせます。空腹の狐がうまそうな葡萄を見つけたものの、それが高い木の上にあって手に入らないと分かるや、「どうせこんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と負け惜しみの言葉を吐いた、という話です。ただし、この狐は葡萄に対する恨みを内面化せざるを得なかったのに対し、現在ではそれを匿名でSNS上に吐き捨てる、という悪行が蔓延するようになった、ということでしょうか。
2026.02.22
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このところ、テレビや新聞といったマスコミでは、先週末に投開票が行われた衆議院議員選挙の話題でもちきりです。高市早苗氏がそれまでの前言を翻して国会を冒頭で解散、衆院選挙に打って出たことに対し、前述のような「オールドメディア」では当初「騙し討ちだ」、「大義がない」といった否定的な論評が主流であるように見えていました。(議院内閣制の下での議員の選挙を首相公選制にすり替えているのでは、といった理にかなった批判もありました。)ところが、いざ選挙戦が始まると序盤から高市自民党の優位が伝えられ、蓋を開けてみれば自民党が単独で3分の2を超えるという地滑り的な大勝という結果に。これについて、オールドメディアではもっぱらSNS上の「高市人気」に帰する解説が眼につきます。曰く、「女性初の首相が頑張っている」のに「国会で意地悪なオジサン達にイジメられている」のをなんとかしてあげなければ、という感情が「推し活」の動機となって一気に広がった(「サナエ・シンドローム」?)、という見立てです。これで亭主が思い出すのが、ちょうど40年前にクラシック音楽業界で起きた、ピアニスト、スタニスラフ・ブーニンの来日をめぐる大騒動です。この騒ぎを知らない読者のために付言すれば、来日の前年である1985年に開かれたショパン・コンクールで当時弱冠19歳だったブーニンが優勝し、翌年演奏会のために来日したところ異常な人気で聴衆が殺到。カメラと色紙を持って成田空港に押しかけたり、ステージに登場したブーニンを見て「キャー、かわいい」と悲鳴を上げたり、「《英雄ポロネーズ》の演奏の間じゅう、キャーキャー騒ぎ、立ち上がって手を振ったりおしゃべりをしたり、挙句の果てにはフラッシュをたいて写真まで撮る」(梅崎史子『スタニスラフ・ブーニン』)といった、それまでのクラシック音楽の演奏会では考えられないような熱狂的ファンの反応が業界内で大いに物議を醸したことが思い出されます。この騒ぎの中心にいたのはそれまで「クラシック」には縁のなかった客層(その多くは若い女性達)で、彼らの関心を呼び起こしたのがNHKのテレビ番組《ショパン・コンクール’85—若き挑戦者達の20日間》(1985年12月)や新聞紙上での論評(同コンクール審査委員を務めた園田高弘の激賞)などのマスコミ報道だったようです。音楽学者の渡辺裕氏は、このブログでも紹介した著書「聴衆の誕生」の中で、この現象を「商業主義の申し子ともいうべき『アイドル・スター』の誕生」と捉える一方、当時の評論家達はどちらかと言えばこれを否定的に見ていたことを伝えています。例えば、ブーニンの演奏が「パンダを見るような」つもりで聴かれているのではないか(黒田恭一)、あるいは彼の演奏は「センセーション」だったが、「音楽というような奥深いものをもった芸術」はセンセーションのみによってはとうてい辿ってゆけるようなものではない(吉田秀和)、といった言説です。クラシック音楽を真面目な芸術と信じる彼らにしてみれば、これらは至極当然の反応と言えます。当時はウブな「真面目派」だった亭主も、ブーニン現象をくだらない馬鹿騒ぎと思って見ていた方ですが、今にして思えばこれは「娯楽としてのクラシック音楽」のあり方の一つと理解できます。さらに、フランツ・リストに代表される19世紀の「ヴィルトゥオーソ」人気(聴衆は彼らの演奏会にほとんどサーカスでも見に行くようなノリで集まった)を考えれば、このような現象はクラシックの享受態度におけるこれまでの「行き過ぎた生真面目さ」からの揺り戻し、とも言えるわけです。さらに付け加えれば、このようなブーニン現象とそれに対するネガティブな受け止めは日本だけに見られるもので、これが日本のクラシック音楽界の問題、「演奏会というアイコンが持っている雰囲気の悪さ(レセプショニストに殴りかかったり、マナーをよく知らない初心者に冷たい視線を浴びせたりする)」につながっています。話を今回の選挙に戻せば、いわゆるオールドメディアに登場する評論家や解説者は、その道の専門家でいわば「真面目派」の人たちで、選挙で選ばれるのは政策であるべきと考えています。一方、選挙後に行われた投票行動の分析では、高市人気は特に30歳代以下の若い世代(特に無党派層)に高かったことからも、彼らの中にはSNSでの推し活のノリで投票した人も少なくなかったと推測されます。とはいえ、ブーニンの熱狂的なファン達も、その数という点ではクラシックの聴衆全体の一部に過ぎなかったように、「推し活」の延長で投票した人の数も、定員の3分の2超という議席数から想像されるよりは遥かに少なかったと思われます。今回の選挙で我々が理解すべきことは、SNSに象徴されるような大衆社会にあっては、支持率の差を極端に拡大する小選挙区制の選挙結果はこのような大きな振れ幅を持つ、ということです。オールドメディアに出てくる政治の専門家の皆さんには、この結果を「リベラル・社会主義の退潮」といった古色蒼然たるイデオロギー的な文脈で総括(誤解?)するのではなく(「革新幻想」はとっくの昔に終わっている…)、「推し活」という行動の背後にある人々の感情(現状への不満や閉塞感)やその原因(アベノミクスの失敗?)を冷徹に分析して見せてほしいものです。ちなみに、ブーニン自身は日本の聴衆の反応を肯定的に受け止めたようで、その後日本との縁を深めますが、2013年に病気と転倒事故による怪我で演奏活動の中断を余儀なくされ、10年の療養を経て2023年に復帰。これを機に彼の半生を追ったドキュメンタリー映画「ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生」が製作され、今月20日に公開されるとのこと(「ぶらあぼ」の記事)。彼の日本での人気の根強さを改めて思い知らされます。
2026.02.15
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未音亭のハープシコードは2007年製、同年に導入されて以来いつのまにか来年で20年になろうとしています。この間特に大きな問題もなく亭主を楽しませてくれていますが、近年傷みが目立っていたのが譜面台。といっても傷んでいるのは木製の台そのものではなく、楽譜が置かれる部分に敷かれたフェルト製の緩衝材の部分で、重い楽譜の底部と擦れていつのまにかボロボロになってしまいました。(ちなみに、以前のメンテでは少しずつ削れたフェルトが鍵盤の下に溜まっているのを発見。)亭主はこれを自分で修理することを思い立ち、まずは必要となるフェルト布が手に入るかどうかを調べることに。この手の手芸用材料といえば、百円ショップが最も手ごろな入手先だろうとあたりを付け、ウォーキングのついでに近所の「セリア」を訪ねたところ、予想通り手芸コーナーでちょうどよい色合い(濃い臙脂色)のフェルト布を見つけて落手しました。次に問題なのが、フェルトをどうやって譜面台に接着するかです。一見すると木工用ボンドのような接着剤で付いているようにも見えますが、いずれにしても張り替えるにはフェルト部分を剥がしすしかなく、腹を括って剥がし始めました。すると、予想以上に接着面の経年劣化が進んでいたらしく、フェルトの残骸は苦もなく剥がれます。さらに、フェルトがどのように接着されていたのかを調べようと剥がれた後の木部を仔細に眺めたところ、長手方向に3本の両面テープで張られていたらしいことが判明。そこで、今度は両面テープを物色するために再度ウォーキングで「セリア」にお出かけです。テープ類は文具コーナーに並んでいましたが、意外と種類が多く(テープの幅や素材、用途など)、どれにするか悩みましたが、寿命を考えて「強力」タイプで一番幅広の15 mmをゲット。これで材料は揃いました。さて、ここまで来ればあとは張り替えるだけ、と思ったのも束の間、譜面台の両面テープが付いていた跡らしい部分を爪で擦ると白い粉のようなものが出てきます。どうやらテープの接着剤が残っているようで、このまま上からテープを張ってもすぐに剥がれそうなので、当該部分の掃除を始めました。ところがこれが意外に難物で、水やアルコールで拭いてもビクともせず、さらには石油系の溶剤も試してみたものの効果がありません。最後に以前家族が使っていた除光液を試したところ、これでバッチリ除去できました。(主成分アセトンの威力というところです。)こうして綺麗になった底面に両面テープを貼るとちょうど3列で全体を覆うことができ、これに裁ち鋏で切ったフェルト布を押し付けて修復は完成。フェルト生地が元のものよりやや薄い以外はほぼ以前の状態に戻り、楽譜の置き心地も快適です。早速平均律クラヴィーア曲集第1巻を譜面台にドンと乗せてポロポロ。 * * * * *ところで、今朝起きてカーテンを開けると外は一面の雪景色。その後も雪は降り続き、ようやく収まったのが午後2時ごろでした。亭主が住む茨城県南部でも冬の間に積雪を経験することは珍しくありませんが、今回のように10 cmを超えて積もるのは久しぶりです。(多分2014年の豪雪以来。)1時間ほどかけて玄関周りと駐車場付近の雪かきをを行い、庭側に回ってみると綺麗な新雪が20 cm近く積もっています。ゴミ収集ステーションへのアクセスに道を作ろうとしたところで、ふと思いついて雪だるまを作ってしまいました。
2026.02.08
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数日前に近所のイオンモールにある書店にぶらっと立ち寄ったところ、入り口付近の一角に古書店が畳3畳ほどの広さのブース(書架)を置いて無人販売を行っていました。冷やかしで眺めていたところ、漫画本のコーナーに筑摩書房の「現代漫画」シリーズが3冊ほど並んでおり、その中に「園山俊二集」(第10巻)を発見。実はこのシリーズ、亡父が大昔に購入したものが実家にあり、亭主もパラパラ眺めていました。中でも園山俊二は、学研の雑誌「科学/学習」に連載されていた「はじめ人間ゴン」などの作者として馴染みがあり、この本も読んだ覚えがあります。とはいえ、刊行された1970年には亭主はまだ小学校高学年。マンガが諧謔の中に忍ばせる深い風刺などはわかるはずもなく、娯楽として読み飛ばしたものでした。(そもそも大のオトナが文学全集のように立派に装丁されたマンガ本を読む、ということ自体をなんとも不思議に思ったことが思い出されます。)ところが、以前このブログで林達夫の著作を取り上げた際に、文庫版の解説記事の冒頭で庄司薫氏が言及した「鳥が矢の名人に射抜かれたことも知らず満月の彼方に悠々と飛んでいく様を描いた園山俊二の漫画『名人伝』」をもう一度見たくなり、実家に問い合わせたところ「あ〜、ちょうど他の本といっしょにまとめて古書店に引き取ってもらった」とのことで、残念ながら後の祭りでした。こうなってくると、どうしても気になってくるのが人情。というわけで、しばらく燻っていたところに現物を見せられてどうしても欲しくなり、衝動買いすることに。(それにしても、奥付けに1969年11月30日刊とあるのを見ると、あれから半世紀以上という時の流れに圧倒されます。)本を開くと、件の「名人伝」は「読み切り傑作選」の項の2番目にあり、馬術、居合抜き、鎖鎌、槍、神童、と来て最後に弓術が出てきます。この弓の名人のエピソード、置かれた文脈によって如何様にも解釈や教訓を引き出すことができる点が面白いところです。が、それにも増して感心させられるのは、作者が少ない線描を用い、たった8コマで主題を描き切っている点で、漫画という表現の威力を改めて思い知らされた感があります。さらにもう一つ、本書を手元に置くことで初めて目にすることになった鶴見俊輔による巻末の解説記事、これがまた面白い読み物となっています。「園山俊二集」に集められた漫画が世に出た時期は1960年代後半の高度成長期、大学進学率が急上昇するとともに学園紛争が盛り上がった時期でもあります。鶴見によれば、例えば一世を風靡した「ギャートルズ」(「はじめ人間ゴン」はその子供版として作られたとか)の背後には教育問題がある、と言います。園山俊二(1935-1993)が早稲田大学で学んだ昭和30年代には日本の多くの大学で漫画研究会が生まれたことから、鶴見はこれを日本の大学生の間に「大学による近代的知性養成計画にたいするうたがいがきざしてきたこととからんでいる」と言い、「ギャートルズ」は、大学をふくめての現行の教育計画にたいする告発の書であるとまで言います。なぜなら「こどもをどう見るかが教育のはじまりにある問題」であり、「今の平均のおとなのように育てることにうたがいをもつならば、眼はしぜんに、今の社会以前の人間はどうだったのかにむけられ、原始人が眼に入ってくる」というわけです。これはフランスの哲学者ルソーの問題意識と軌を一にしており、鶴見は作者に対し「いつかは、園山俊二としての社会契約論あるいは社会再契約論をかいてほしい」と呼びかけています。その当時に吹き荒れた学園闘争の嵐は、受験戦争を勝ち抜いて手にした大卒の学歴がエリートへの切符ではなくなり、社会ののコマになって働くだけの冴えない展望しか描けなくなった学生たちの異議申し立てでした。とはいえ、その後も大学受験を頂点とする教育システム、およびそれに裏付けられた学歴社会は変わらないまま現在に至っているように見えます。ところが、ここに来て人工知能(AI)、なかでもChatGPTなどの大規模言語モデルの大成功により、少なくとも知識だけ見れば東大生レベルのそれを誰もが手にできる状況になりました。これはもしかするといよいよ学歴社会の終焉を意味するのかもしれません。こうなってくると、これから人間に求められるのはある種の原始人のような能力、ということになるのかも?
2026.02.01
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昨年の暮れに、A新聞で「古楽の現在地」と題する連鎖コラムが4回にわたって掲載されました。第1回では古楽復興運動の立役者だったアーノンクールの活躍を取り上げ、2回目以降では彼らを異端扱いしていたクラシック音楽界でもその考え方や音楽に対するアプローチが徐々に広がっていく様子が紹介されています。なかでも最終回で引用された「古楽の探究は、クラシックがまとう『教養』の呪縛を断ち切り、当時の人たちと同じように、現代の奏者と聴衆がともに大作曲家たちの冗談やいたずらを楽しむためにあるんです」という鈴木秀美さんの言葉、あるいは「僕らが再現したいのは、以前に鳴り響いた音色そのものではなく、どこまでも自由を許す寛容の精神なのです」という濱田芳通さんのそれは、「古楽の精神」とは何かを端的に語っていると思われます。ところで、引用の中にある「クラシックがまとう『教養』の呪縛」とは、教養と言われるものが往々にして権威主義・エリート主義と一体になっていること(=教養主義)に対する批判を含んでいます。これはクラシック音楽に限らず芸術・文化一般に言えることで、教養が権威主義と結びつくと人の自由な思考や感性を縛り、寛容さを失わせる方向に働いてしまうことを表しています。以前にこのブログでも紹介した「教養主義の没落」という竹内洋氏の著作では、日本における教養主義が、明治後期から戦前昭和にかけて「西洋古典崇拝」をベースにして旧制高校・帝大の学生エリート文化として発展し、戦後の高等教育の大衆化とともに廃れていく様が豊富なデータに基づいて描かれていました。その様子は、明治期の日本が礼賛した西洋文化の一部であるクラシック音楽の受容に始まり、大衆娯楽に対抗する「高級文化」として威光を放つ昭和前半から徐々に「オタク文化」となりゆく昭和後期ー平成時代までの栄枯盛衰の歴史によく対応しているように見えます。とはいえ、こうして教養主義が時代遅れな過去の遺物のようにディスられている様を見ると、アマノジャクな亭主としては「教養とはそんなに悪いものか?」と反感を覚えるところも。ここで少し冷静になって考えれば明らかなように、「教養」と「教養主義」は同じではないので、これらを明確に区別して考える必要があります(前述の引用記事中にある「『教養』の呪縛」も本来は「『教養主義』の呪縛」というのが正しい)。この視点から面白く読めるのが表題の「日本型『教養』の運命」(岩波書店、1995/2009)という本です。この本、実は前述の竹内洋氏の本の中でもしばしば引用されており、彼の仕事の出発点のひとつにもなったと思われるものです。本書によれば、まず「教養」という言葉には、(1) 専門に対する基礎としての教養(「教養レベルの語学力」といった用法における意味)、(2) 幅広い知識としての教養(大学における「一般教養」(パンキョウ)という場合のそれ)、(3) 文化の習得による人格の完成という意味での教養、の3通りの意味があります。これらの中で教養主義と強く結びつくのは(3)の意味における教養で、人文的教養とも呼ばれます。従来これを身につけることは、他者に対する理解を深め、社会や人生に対する洞察力を高めるという点で人間形成にとって根幹的なものと考えられてきました。では「日本型『教養』」とは何か?本書によれば、日本における教養の概念は、西洋文化に接する以前において庶民から武家まで広く浸透していた「修養主義」、努力を通して人格を向上させるという二宮尊徳的な精神が「文化の享受」と結びついて形成されたものです。これは、日露戦争後に「修養書」と呼ばれる本が数多く現れたことなどからも裏付けられています。(修養主義を具体的にイメージさせるものとして亭主が思い出すのが、中学生の頃に友人に誘われて参加した宏正会の朝の集会です。)そのような教養という概念の下で生まれた教養主義は、エリート文化であるにもかかわらず大衆的な修養主義から派生したという点で両者の間は地続きになっている(断絶がない)点に特徴があるというわけです。これは、もともと貴族文化に発するエリート文化と大衆文化が明確に別れている(断絶がある)ヨーロッパ諸国の場合と対照的です。著者の筒井氏によれば、日本の学生エリート文化においてもそのような断絶を生む可能性があったものの、それを抑止する要因として働いたのが「人民の中へ(ブ・ナロード)」を掲げるマルクス主義の流入にあったとのこと。筒井氏はこの点に日本型「教養」の限界を見る一方で、将来への希望も抱いています。なぜなら、それが広く大衆を包摂する可能性を持っているからです。SNSなどを通して大衆ポピュリズムが席巻する昨今の世の中を憂う年配者である亭主としては、我々も当事者として教養と教養主義を明確に区別し、冷笑的になることなく前者の「文化の享受を通して人格を完成させる」という精神を取り戻す必要があると感じました。
2026.01.25
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前々回のこのブログで、國分功一郎さんの「手段からの解放」という著作をご紹介しましたが、その際に著者が議論のベースとしていたカントの著作「判断力批判」に書かれていたことと「音楽」との関係が気になり始めました。著作の中で、國分さんは純粋な享受の対象である「嗜好品」、およびそれがもたらす「享受の快(=楽しみ)」の本質が、目的性のない点、「こうあるべき」といった合目的性の欠如にあると喝破します。そのような嗜好品の例として、カントはタバコを、國分先生はお酒を取り上げ、それらを「純粋に楽しみのために嗜んでいる間は人生を豊かにするが、それらが何かの目的のために使われ始めると大きな問題を起こす」例として説明していました。(具体的には、「疲れを取るため」とか、「つらい現実から逃れるため」といった目的のためにこれら嗜好品を多用することで「依存症」を発症する、という問題です。)その背景には、カントの「感情能力」の議論で登場する「美しいもの/崇高なもの」、「快適なもの(享受の快)」という区別があり、前者が感情能力の「高次の実現」に、後者が「低次の実現」に対応している、という議論がありました。ここで亭主が見落としていたのが、もう一方の概念である「美しいもの/崇高なもの」の中身。カントが「高次の実現」と称する感情能力の対象物です。実はどうやらこちらが近代の芸術論(美学)のベースになっており、カントの音楽論として(専門家には)よく知られているようです。カントの主張をザックリ要約すれば、音楽には「美しい音楽」と「快い音楽」があり、前者には「その形式的構造を通じて深い感情を喚起する能力がある」と考えていました。これはまさに19世紀ウィーンの音楽評論家・ハンスリックが擁護した「絶対音楽」の美学理論そのものです。というわけで、西洋クラシック音楽、なかでもドイツ語圏の絶対音楽を「高級な芸術」と考える価値観の大元はどうやら近代哲学の始祖であるプロイセンの哲学者、イマヌエル・カント(1724–1804)にある、ということを今頃になって知ることに。ちなみにカントは、感情能力による判断を「趣味判断」と呼び、それが結局のところは主観的なもので、誰もが同意するような判断基準はないと考えていました。その意味では、彼のいう感情能力の「高次/低次」といった分類も同じように恣意的なものに思われ、そこがカント美学の限界でもあると思われます。にもかかわらず、クラシック音楽を「芸術」とみなす音楽家や批評家(〜芸術至上主義者)は、音楽を「享受の快」の対象ではなく、何らかの「美」(あるいは「崇高さ」)を実現するための手段とみなしているように見えます。彼らがカントの矩を超えて独善に走っているところは、昔日の山田耕筰の振る舞いにも似てキケンで有害なものにすら見えてきます。彼らの「生真面目さ」を解毒し、音楽は「嗜好品として、これを楽しむものにしかず」という境地に至らせる妙手はないものか? * * * *ところで、18世紀人であるカントは実際どのような音楽を耳にし、その中で「美しい音楽」と「快い音楽」をどのように区別していたのかも気になるところです。同じドイツ語圏で同時代人の音楽家は、そのスタイルから大雑把に2種類に分けられます。一つは「多感様式」あるいは「疾風怒濤」運動の担い手とみなされるC.P.E. バッハ(1714-1788、「ベルリンのバッハ」)やハイドン(1732-1809)です。彼らの音楽は形式を逸脱し、人間の激しい感情を前面に押し出す表現主義的なもので、後のベートーヴェンへとつながっています。もう一つの流れは「ギャラント様式」の音楽で、ドイツ語圏ではテレマン(1681-1767)やクリスティアン・バッハ(1735-1782、「ロンドンのバッハ」)が代表的な音楽家です。このスタイルは、重厚で複雑な多声音楽が主体のバロック音楽(=貴族文化)へのアンチテーゼとして現れたもので、最大の特徴は明快な単旋律(ホモフォニー)と優美さ・軽快さにあります。当時台頭しつつあったブルジョア市民にも親しみやすく、その後モーツアルトへと引き継がれていきます。とはいうものの、18世紀ドイツ語圏にとって最先端の音楽とは、やはりイタリアの音楽。これは当時のヨーロッパ各地を旅して音楽事情を詳細に報じた同時代の英国の音楽ジャーナリスト、チャールズ・バーニー(1724-1814)の「音楽見聞録」を眺めても明らかで、バーニーが憧れの「音楽の都」ナポリに到着して狂喜する様はまるで子供のようです。そこではアレッサンドロ・スカルラッティに代表されるようなナポリ派のオペラやオラトリオ(声楽曲)が音楽の中心を占めており、それらがドイツを含むヨーロッパ各地に輸出されていました。前述のギャラント様式の起源がナポリ派の音楽に遡ることを考えると、庶民出身であるカントが「快い音楽」と捉えていたのはこちらの方だと思われます。また、こう考えると19世紀ドイツ語圏の絶対音楽が「芸術音楽」として浮かび上がる、という点でも辻褄が合います。
2026.01.18
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既に2週間前になりますが、昨年12月末から年明けにかけての朝古楽では、「古楽ゆく年くる年」と題し、2025年および2026年が周年記にあたる音楽家の作品がが取り上げられました。具体的には、前半がパレストリーナ(1525-1594、生誕500年)、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725、没後300年)、後半はトマス・ウィールクス(1576-1623、生誕450年)という構成で、いかにもMCの藤原一弘さんらしくマニアック(?)です。中でも面白かったのが2日目の最後にオンエアされたアレッサンドロ・スカルラッティのハープシコード作品「Toccata Per Cembalo D'ottava Stesa」で、亭主は一聴するなり度肝を抜かれました。これ以前にも、父(「オヤッサンドロ」)スカルラッティの「トッカータ」と称する作品はいくつか聴いた覚えがありますが、ここまで強烈な印象を受けた記憶がなく、まさに頭をトンカチで殴られたような衝撃です。ちなみに当日流れたのはアンドレア・マルコンによる演奏で、演奏時間がおよそ24分にならんとする長大な曲を最後まで飽きさせることなく聴かせてくれる名演奏。さっそく音盤を手に入れようと調べたところ、何と30年以上前にリリースされたCDで(1994年:録音は1991年)、現在ではストリーミング配信でしか聴けないことが判明。仕方がないので、当日の録音ファイルからこの部分を切り出してiPodに保存し、若きマルコン(録音当時は20代の終わり!)の名演を繰り返し聴いて楽しんでいます。(遅まきながら、こういう作業がMacのGarageBandという音楽ソフトを使えばできることを初めて知りました。)当日の藤原センセによる解説は簡にして要を得ているので、以下に番組ナレーションの該当部分を筆耕しておきます。(ついでにYouTubeに上げられていたマルコンの演奏も挿入しておきます。)今日最後にお届けするのは、アレッサンドロの鍵盤作品の中でもその長大さと演奏技術の高さ、そして一度聞いたら忘れられない表現の力強さにおいて抜きん出た作品、「トッカータ・ペル・チェンバロ・ドオッターバ・ステサ」です。この表題については少々説明が必要です。直訳すれば「拡張されたオクターブのチェンバロのためのトッカータ」となりますが、これでは何のことやら分かりませんね。説明しましょう。当時のチェンバロ には最低音域であまり用いられない半音のキーを省くことで、見かけ上のキーと音名がずれているものがありました。例えばEのキーのように見える 最低音が実際はEより長3度低いCの音であるような鍵盤配列の楽器です。このような最低音域の鍵盤配列法をショート・オクターブと言います。アレッサンドロの曲名の「チェンバロ・ドオッターバ・ステサ」というのは、ショート・オクターブを拡張したすべての半音キーを備えたチェンバロということなので、表題を意訳すると「ショート・オクターブではなく全てのキーを有するチェンバロのためのトッカータ」ということになります。しかし、長いしややこしいですね。ここからは「チェンバロのためのトッカータ」と略すことにします。イェール大学図書館に収められたヒッグス写本には、このトッカータが筆写された年と思われる1723年という年号が記されていますが、いつ作曲されたのかは不明です。曲はニ短調プレストで開始されます。ラプソディックとすら呼びたくなるような アルペジオと音階和音の連打が続いたのち、バッハの半音階 幻想曲とフーガを思わせるようなレシタティブ風のアダージョ となり、ト短調、ハ短調、ヘ短調、変ロ短調と遠隔調への転調が続きます。再びプレストを経て二短調の激しいフーガとなりますが、いつしか主題は消え去り、アダージョではアルペジオから両手が交互に和音を激しく打ち鳴らし、突然の休止を迎えます。そしてフォリアによる変奏となり、第29変奏の後、フォリアの冒頭に回帰してこの長大なトッカータは閉じられます。ではお聞きください。アレッサンドロ・スカルラッティ作曲、チェンバロのためのトッカータ、演奏はチェンバロ、アンドレア・マルコンです。[YouTubeへのリンク]アレッサンドロ・スカルラッティ作曲、チェンバロのためのトッカータ、演奏はチェンバロ、アンドレア・マルコンででした。この激しい曲を聴くと、まさにこの親にして息子のドメニコあり、と思わざるを得ません。長大な作品への偏愛を示した父親がいたからこそ、超絶技巧を誇る息子は二部形式によるコンパクトな作品を550曲あまりも作曲したのかもしれません。「この親にして息子のドメニコあり」というコメントには亭主も満腔の賛意を表したいと思います。また、藤原センセは「バッハの半音階 幻想曲とフーガを思わせるような」と、バッハの作品を比喩的に使っていますが、バッハがケーテン時代(1717-1723)には既にアレッサンドロの作品を知っていたに違いないと確信している亭主としては、この作品についても同様に知る機会があっただろうと妄想しているところです。最後に、この作品についてAI先生(Gemini)に教えてもらった内容をアップしておきます。1723年を作曲年としているところがご愛嬌ですが、なかなかの物知りであることに感心させられます。アレッサンドロ・スカルラッティ(1660–1725)の《Toccata per Cembalo d'Ottava Stesa》(拡張オクターヴのチェンバロのためのトッカータ)は、彼の鍵盤楽曲の中でも最も重要かつ大規模な傑作の一つとして知られています。この作品について判明している歴史的背景、音楽的特徴、および用語の意味を整理して解説します。1. 基本情報と歴史的背景作曲時期: 1723年にナポリで作曲されました。位置づけ: アレッサンドロはオペラやカンタータの大家として有名ですが、晩年に書かれたこの作品は、息子のドメニコ・スカルラッティの斬新な様式とは異なる、バロック音楽の集大成的な厳格さと情熱を併せ持っています。名称の由来: タイトルの「Ottava Stesa(オッターヴァ・ステーサ)」は、「拡張されたオクターヴ」を意味します。これは、当時一般的だった「ショート・オクターヴ(低音域の鍵盤配置を省略して音域を稼ぐ手法)」ではなく、低域まで半音階が揃ったフル・キーボードを想定して書かれたことを示しています。2. 楽曲の構成この作品は単一の楽曲ではなく、複数のセクションが連なる巨大な変奏曲付きトッカータです。演奏時間は20分〜30分に及ぶこともあります。Preludio (Primo Tono): 重厚な導入部。Presto: 急速で技巧的なセクション。Adagio: 叙情的な緩徐部。Fuga: 厳格な対位法によるフーガ。Adagio (Appoggiato): 次の変奏曲への橋渡し。La Follia (29 Variations): 作品のクライマックス。有名な「ラ・フォリア」の主題に基づく29の変奏曲です。3. 音楽的特徴ラ・フォリアの変奏: 終曲のフォリア変奏曲は特に有名です。アルカンジェロ・コレッリの有名な「ラ・フォリア」へのオマージュとも言われ、チェンバロの持てる技巧(アルペッジョ、急速な音階、交差奏法など)がこれでもかと詰め込まれています。イタリア・バロックの極致: 自由な幻想曲風のトッカータと、数学的なフーガ、そして厳格な低音に基づく変奏曲という、バロック時代のあらゆる形式が1つの作品に凝縮されています。技巧性: 1723年という日付からもわかる通り、鍵盤楽器の性能向上に合わせて書かれており、演奏者には非常に高い技術と持久力が要求されます。4. 現代における評価アレッサンドロの鍵盤作品は、長らく息子ドメニコの影に隠れていましたが、近年、古楽演奏(ピリオド楽器)の普及により、その構成力の高さが再評価されています。 特にこの「オッターヴァ・ステーサ」は、彼のチェンバロ音楽の最高到達点として、イゴール・キプニスやリナルド・アレッサンドリーニといった著名なチェンバロ奏者たちによって録音・演奏されています。
2026.01.12
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新年最初のお題は表題の書。國分先生にによる「シリーズ哲学講話」の第2段(新潮新書、2025年1月刊)で、昨年7月にこのブログで紹介した「目的への抵抗」という本の続編にあたります。腰巻きの表紙側にある「『楽しむ』とはどういうことか。カントの哲学をヒントにして、現代の”病理”に迫るー。」という惹句は本書の要旨を言い得て妙なるものがあり、前著を知らずとも著者が伝えたいメッセージを受け取ることができる内容になっています。とはいえ、前著との関係は切ってもきれないものがあることも確か。なぜなら、現代人が往々にして陥る「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗から解放されるためにはどうしたらよいか、という前著の問いへの答えが本書の主題でもあるからです。(前著を読んでこの問いの切実さを実感すれば、それに対する答えも身に染みるというもの。)ここでちょっとだけ復習すると、目的による手段の正当化とは「人間が一度何か目的を設定すると、その達成のためには何をしてもよい、というマインドセットに陥ること」を指します。人間に理性の力を期待する亭主のような凡人の感覚からすれば、こういう場合に何らかの道徳・倫理感が働いて「そうは言ってもやってはいけないことがある」と歯止めがかかることを期待したいところです。が、目標達成への圧力が強まるとそのような歯止めが効かなくなり、やって良いことと悪いことの区別がつかなくなる(=道徳的腐敗)というのも凡人の現実。卑近なところでは組織における不正会計処理といった法令違反(いわゆるコンプライアンス不全)から、その極限には戦争に勝つという目的のために組織的な殺人が正当化されるというレベルまで、社会・経済活動のあらゆる面においてこのような道徳的腐敗が見られます。とはいえ、このような文脈で「目的による手段の正当化」の弊を語るのはあまりにコトが深刻で、無力感に襲われるか目を背けたくなるのも人情。それを察してか、本書ではこの問題を「嗜好品」とそれへの「依存症」という別の文脈に置き換えて語ります。ここで嗜好品とは、それがなくても人間の生存に困らないもので、それ自体を「楽しむ」(=享受する)ためにあるものごとを指し、例えばタバコやお酒といった類のものが該当します。この「楽しむ」という言葉、普段我々が何気なく口にし、さしたる深い意味もなさそうな言葉こそが「手段からの解放」にとっての鍵であり、本書はこれを哲学的に考察することから始まります。問題となるのは、これら嗜好品が単に楽しむためだけでなく、精神的不安を紛らわすためといった何らかの「目的」のために摂取されるようになる可能性があることです。お酒はわかりやすい例で、本来なら単にお酒の味を楽しむところを「酔うことで憂さ晴らしをする」といった目的が入り込むことで色々な弊害が現れます。アルハラもそのひとつですが、もっと深刻なのがアルコール依存症です。この状況を念頭に、本書腰巻きの裏表紙側では、「享受の快を剥奪することは、人間に病としての依存症への道を開く。…すべてを手段化した時、我々はおそらく、これまで見たこともないような依存症に出会うことだろう。人間から享受の快を剥奪してはならない。それは人間の生すべてを目的-手段関連に従属させることだからである。」これを言い換えると「目的というやつが人生をつまらなくする」(磯田道史)のみならず、それが手段として正当化されることで依存症を発症し、さらには犯罪に手を染めるといった文字通りの道徳的腐敗へと至る扉が開かれてしまうというわけです。従って、このような隘路に陥ることを避ける上でおそらく唯一の処方箋は「何かが楽しめなくなったらそれを止める」ことです。ちなみに、この問題は現代の資本主義社会における際限のない「消費」という深い(深刻な)現実にも直結しています。曰く、「『浪費』は満足すれば止まるが、『消費』は止めどなく続く、なぜなら消費は『物語』によってそれ自体が目的化されるからである。」例えば、高級レストランでのちょっと贅沢な(浪費的な?)食事は単なる「楽しみ」である一方、「グルメガイド」に従って「食べ歩き」をはじめると、食事をした有名レストランの数を競い、あるいはその様子をSNSに挙げて自慢することなどが「目的」となり、レストラン巡りが止めどなく続くことになります。(しまいには「欲しいものが欲しい!」という倒錯に陥ることになり、楽しいどころではなくなってしまいます。)こう考えてくると、「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」 (『論語』)という孔子の言葉にも新たな深い意味を読み取ることができる気がします。ところで、亭主にとって興味深いことに、「楽しい」とは人間の感情のひとつであり、この問題は「感情の哲学」という普遍的なテーマに繋がっています。國分先生によると、彼の論考の出発点となった「嗜好品」についての考察を行った数少ない哲学者の一人がカント(1724-1804)であり、彼の有名な「3批判」と呼ばれる著作のひとつである「判断力批判」の中で取り上げられています。そこでは人間の「感情能力」と、その高次の対象である「美しいもの・崇高なもの」、および低次な対象である「快適なもの」という概念の関係を論じているとのこと。「快適」とは感情というよりは身体の受動的状態を反映する「情動」に近いもの、という近年の脳科学的知見に照らせば、ヒトの感情を「能力」と見たり、その対象が高次だの低次だのと分ける議論には違和感もあります。とはいえ、18世紀の人間が純粋に思弁だけに基づいて「楽しい」とはどういうことかをそれなりに論じて見せたという点は、それ自体でなかなか興味深いことに思われます。なお、判断力批判の中の議論については、「3批判」の他の著作(純粋理性批判、実践理性批判)との関係も含めて國分先生自身による解説記事をウェブ上で見ることもできます(こちら)。
2026.01.04
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皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
2026.01.01
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今年初めに予告されて以来、亭主も心待ちにしていた表題のCDが11月にリリースされ、最近ようやく落手。週末に10枚組の最初の1枚(「I」とラベルされただけ)を一聴しただけでいろいろな思いか交錯し、付録DVDをチラ見したところで飽和状態になっている感があります。とにかくハープシコードの音がなんとも印象的。「I」で使用されているのは仏・アルザス地方のコルマールにあるウンターリンデン博物館に所蔵されているヨハンネス・ルッカース製(1624年)のハープシコード。今からちょうど400年前の楽器がこのような豊潤な響きを聞かせてくれる、というだけでも驚異的です。(しかもマイク2本だけで録り、余計な後付けの音響効果なども一切施していないとのこと。)亭主はスイスの研究所に短期滞在していた1980年代前半、同博物館に所蔵されているマチス・グリューネヴァルトの代表作として知られるイーゼンハイム祭壇画を一目見ようと友人と車でコルマールを訪問した際、ついでに入った資料館のようなところ(?)で件の楽器が陳列されているのを目にした覚えがあります。もちろん、その頃のクラシック音楽シーンではまだハープシコードといえばノイペルトやアンマーといった「モダンチェンバロ」が主流で、亭主もオリジナル楽器はおろかそのコピー(ピリオド楽器)の演奏すら耳にしたことがなく、目前の古びた楽器を眺めてもどんな音が出るのか想像すらできない状態。せいぜい「骨董品」の類という印象しかありませんでした。(あれから半世紀近く、亭主もいつの間にか古楽をこよなく愛する日曜ハープシコーディストとなり、ピリオド楽器の響きを愛でることができるようになったという意味では、長生きした甲斐が大いにあったというもの。)ちなみにライナーノート(何と日本語の全訳付き)によると、この楽器は1680年ごろにフランスに渡ったと推測されるものの、最初に記録に現れたのは1778年で、外交官でアカデミー会員でもあったラ・ファイ侯爵(有名なラ・ファイエット侯爵とは別人)が所有し、コンデ公の旧狩猟小屋注)に置かれていたとか。その後19世紀初頭には「荒廃状態」となってサド侯爵の次男に相続され、一族の所有物として1978年まで受け継がれたとのこと。これを英国のコレクター、アラン・ルービンが買い取って1979-1980年にパリの工房で修復、その後パリの仲介者を通じてウンターリンデン博物館に収まることになりました。この経緯から見ると、亭主が目にした1980年代当時はまだ同博物館に所蔵されるようになって間もないころだったこと、また亭主の想像に反して楽器は演奏可能な状態だったことが知れます。さらに、1993年にクラヴサン奏者のブランディーヌ・ヴェルレは、あるジャーナリストにこの楽器のことを「魔法のような、素晴らしいチェンバロ…(中略)…私が愛してやまないルッカース。手放すことなどできない」と語ったとか。ロンドーがこの楽器から紡ぎ出す響きを耳にすれば、誰もがこの言葉に納得するだろうと思います。ところで、ウンターリンデンにある楽器が18世紀フランスで大きく改造されている点は要注意で、もともと移調用に作られた2段目の鍵盤は上下同じピッチで鳴るように作り変えられ、音域も拡大。また、この改造に伴って楽器全体のピッチもA=415 Hzから400 Hzに変わったと推測されるようです。実際、亭主がロンドーの演奏を自宅のハープシコード(A=415 Hz)で少し追ってみたところ、ちょうど半音下がっていることを確認。いわゆるヴェルサイユピッチ(A=395 Hz)に近いようです。さて、こうしてCD1枚目を聴くなり楽器のことにどハマりしてしまった亭主ですが、もちろんロンドーの演奏についてもいろいろと思うことが山ほどあります。ただ、下手に言葉にするとあとで後悔しそうなので、ここではごく表面的なレベルの感想でお茶を濁すしかなさそう。それでもあえてコメントすると、ロンドーが弾くプレリュード・ノンムジュレは、他人に聴かせるための演奏というよりは、彼自身と楽器の響きとの個人的な対話とっいた趣きです。彼のこれまでの演奏を知る人であれば、演奏会で楽器の前に座って瞑想し、鍵盤上の手がいつの間にか動き出すとともにじわりと音楽が動き始める、というあの独特の間合いを覚えていると思います。ルイ・クープランのプレリュード・ノンムジュレこそは、そのような彼のスタイルに完璧にフィットする音楽に思われます。それもそのはず、ロンドーはなんと6、7歳のころ、初めて弾いたのがイ短調のプレリュード・ノンムジュレ(ボウアン手稿第7番)だったとかで、彼はこの「人生の出会い」によってなかば必然のようにこの世界に導かれていったと語っています。(本人がとある対談で語ったところでは、彼がハープシコード[クラヴサン]を知ったのは5歳の時。ラジオから流れるその音色に感動し、親に「この楽器、弾いてもいい?」と聞いたのが始まりだとか。その後、前述のブランディーヌ・ヴェルレの下で6歳から20歳まで学んだということなので、幼少時のロンドーをプレリュード・ノンムジュレに導いたのはヴェルレだったことが知れます。)ただ、他の演奏家による演奏との比較、という点では、上記のような「ロンドー節」は若干好みが分かれるかも?(まぁ、まだ1枚聴いただけなのでなんとも言えませんが…)いずれにせよ、この音盤のおかげで、これからの年末年始の休みはまったく退屈せずに過ごせそうです。注)原文では"relais de chasse (hunting lodge)"。ただし、ウィキペディアによると「ラ・ファイ(1674-1731)は膨大な美術コレクションの持ち主で、パリに2軒、ヴェルサイユに1軒のホテルも所有していた。1719年に古いコンデ城を取得すると、当時の最も流行の芸術家たちと建築家、ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニに依頼し、精緻な改修を施した。内装装飾にはフランソワ・ルモワーヌとその弟子フランソワ・ブーシェ、アントワーヌ・ヴァトーとその弟子ニコラ・ランクレ、さらにジャン=バティスト・ウードリーを起用した。」とあるので、件のハープシコードはこのコンデ城に豪華な調度品の一つとして置かれていたのではないかとも推測される。
2025.12.28
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いきなりクイズで恐縮ですが、カラヤンは何国人でしょう?ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)といえば、日本人クラシック音楽ファンも崇拝してやまないあのベルリン・フィルの終身主席指揮者・兼音楽監督(1956~1989)として有名でした。なので、昔の亭主なら反射的に「ドイツ人」と答えたと思います。が、彼がザルツブルグ出身のオーストリア人であり、音楽をザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んだこと、ウィーン・フィルの首席指揮者(1946~)やウィーン国立歌劇場の音楽監督(1956~)を務めていたことを考えても、彼の精神的・文化的背景はオーストリア人としてのカラーが農厚だったと想像できます。この例に限らず、日本ではそもそもオーストリアという国の存在感が希薄で、せいぜい「音楽の都・ウィーン」を擁する中部ヨーロッパの小国という印象しかありません。それどころか、同じドイツ語圏ということで、ドイツの一部のような感覚すらあります。(なのでカラヤン=ドイツ人と思い込みも容易に起きる?)ところが、カラヤンが生まれた当時、オーストリアはヨーロッパ最後の世界帝国であったハプスブルク帝国の末裔である「オーストリア=ハンガリー二重帝国」として落日の輝きを放っていました。同国ではドイツ人が占める割合は人口の4分の1程度、3割ぐらいがマジャール人、あとは様々な民族的背景を持つ人たちからなる多民族国家。首都ウィーンはこんにちで言えば米国のニューヨークのようなもので、19世紀末にかけて多彩で豊潤な芸術・文化が花開いた都市として歴史に刻まれています。(音楽や造形芸術のみならず、例えば有名なフロイトの精神分析もこのような文化的背景の下で生まれたとも言われています。)一方で、現在のドイツの原形を作ったのが、18世紀以降に軍事的新興国としてポーランド北方から西進しながらのし上がってきたプロイセン王国。新興国ドイツ(1871~)が進取の気性を持って富国強兵と経済・社会の近代化に邁進した状況は、同時期に「明治維新」という政治革命を経た日本と同じでした。19世紀後半以降にドイツが自然科学の研究で世界をリードし、産業としての化学工業を大きく発展させたこともよく知らられています。(職業科学者=俸給をもらって研究する人が大学のようなアカデミア以外で誕生したのも同国が最初と言われています。)これらを一言で要約すれば、オーストリア=凋落する古い世界帝国、ドイツ=日の出の勢いで進化し続ける新興国、という全く対照的な時代背景を持っていたと言えるでしょう。(オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦の終了とともに1918年に消滅し、現在のオーストリアがその忘れ形見という感じで残っています。)精神的な面においても、例えばドイツでは何事も「極端」で振れ幅が大きいのに対し、オーストリアは中庸を好むらしい(悪く言えば微温的?)。実際、近年においてもウィーンとベルリンでは楽壇の雰囲気は大きく異なるようで、大雑把に言えば前者が「古き良き伝統」にこだわるのに対し、後者は基本的に新しい物好き。例えばオペラでも、ウィーンでは作品の時代に即した舞台作りが好まれる一方、ベルリンではほとんどが現代へと読み替えた舞台・演出だとか(「オーケストラに未来はあるか」浦久俊彦・山田和樹、ARTES)。というわけで、ドイツ語圏のクラシック音楽を十把一からげで考えるのではなく、コインの裏表のような「2つのドイツ」を意識して眺めていると、いろいろな差異を発見できて楽しみも増すというものです。ちなみに、これはもう一つの重要な精神的背景である宗教についても同じで、旧プロイセン王国の影響が強い北ドイツはプロテスタント、南ドイツとオーストリアはカトリックという違いがあることも思い出されるべきでしょう(詳しくはこちら)。ところで、最近の新刊として話題になっているのが「地球の歩き方・ハプスブルグ帝国」。これまでの旅行ガイドが「地理」を中心にし、時代背景的にはごちゃ混ぜの名所・旧跡巡りの案内書だったこととは一線を画し、まずは正面から「歴史(事蹟)」を取り上げて、そのモニュメントとしての名所・旧跡を辿る旅を提案しようというもののようです。(亭主も大いに興味を覚えて早速1冊ゲットしたところで、これってもしかしてターゲットとなっているのは「教養主義」に弱い亭主のような世代か、と思い当たり、まんまと乗せられたことに気づくことに。)亭主はまだ旧帝国の首都ウィーンには足を踏み入れたことがなく、足腰が大丈夫なうちに訪ねたいと願っているところですが、今は円安の上にロシアの軍事侵攻がいつ終わるとも知れず、その気になれずにいます。せめて本書を眺めながら空想の旅にでも浸るか…
2025.12.21
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もう先々週のことになりますが、亭主もファンである古楽アンサンブル「アントネッロ」の主催者で、コルネット(=ツィンク)奏者の濱田芳通さんが朝のFM番組「古楽の楽しみ」に登場し、5日間にわたって彼が関わった古楽界の大御所や演奏仲間についての面白いエピソード・裏話を交えた軽妙なトークを大いに楽しませてもらいました。番組に取り上げられたのは、ジョルディ・サヴァール、ブルース・ディッキー&コンチェルト・パラティーノ、グイド・モリーニ、マルコ・ビーズリー&アッコルドーネ、ルネ・ヤーコプス、そして最終日は自身の楽隊アントネッロでした。これらのうち、ジョルディ・サヴァールとルネ・ヤーコプスについては亭主もある程度馴染みがありましたが、コルネット奏者のブルース・ディッキーと鍵盤奏者のグイド・モリーニについての話を見聞きするのは多分初めて。特にディッキーさんは、濱田氏の先生という以前に、「この楽器を現代に奇跡的に甦らせた立役者」で、「どんなトランペットの名手でも、この古楽器のコルネットを吹こうとするとまるで発情期のネコの声のような音しか出なかった」のを、研究と鍛錬を重ねてこの楽器から驚くほどの美しい音色を引き出し、現代の人々を魅了する楽器として甦らせたとのこと。(ここでトランペット奏者が出てくるのは、コルネットが復活する以前には彼らが代役を務めることが多かったからです。)その他にも、ジョルディ・サヴァールは遅刻魔(それも日を跨ぐ!)だとか、グイド・モリーニが即興の名手で、濱田氏が彼とパレルモで共演した演奏会ではその素晴らしい即興演奏で聴衆を圧倒し、コンサートを一人でかっさらって行ったことなどのエピソードが披露され、これらを通して濱田氏自身の古楽やその演奏家仲間に対する思いが伝わってきます。そのようなこぼれ話の中でも特に亭主の関心を引いたのが、ルネ・ヤーコプスの回で言及があった鍵盤奏者、ニコラウ・デ・フィゲイレドについてのもの。以下はその部分を放送から文字起こしたものです。さて、ヤーコプス氏のオーケストラにはいつも優れた音楽家たちが集まっていましたが、中でも忘れられないのがチェンバロとフォルテピアノのニコラウ・デ・フィゲイレド氏です。 モーツァルトのオペラでは、 チェンバロでレチタティーヴォの部分を伴奏するのが常でしたが、当時すでにフォルテピアノが使われていたことがわかって以来、その歴史的実践に伴い、ヤーコプス氏の指揮するモーツァルトのオペラではフィゲイレド氏がフォルテピアノを弾いてレチタティーヴォの伴奏をしていました。ここではその素晴らしさを是非お聞きいただきたいのです。まあ、これ以降このような派手なフォルテピアノによるレチタティーボの伴奏は皆が取り入れるようになりました。彼らはまさにその先駆けと言えるでしょう。それではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲、歌劇「コシ・ ファン・トゥッテ」 第1幕から「剣を抜かれよ」他、レチタ ティーヴォの醍醐味をお聴きください。指揮はルネ・ヤーコプス、演奏はコンチェルト・ケルン、テノール、ヴェルナー・ ギューラ、バス、マルセル・ボーネとピエトロ・スパニョーリです。(以下CD演奏) フィゲイレドさんとは、個人的にも親しくしておりましたが、残念ながら2016年55歳の若さで亡くなられました。演奏仲間であると同時に、私は彼の大ファンでしたので、彼のスカルラッティのソナタ集を国内版としてプロデュースしたことがあります。そのアルバムから1曲をお聞きください。ドメニコ・スカルラッティ作曲ソナタニ長調、カークパトリック番号119、チェンバロの演奏はニコラウ・デ・フィゲイレドです。 (以下CD演奏)ソナタK.119は、スカルラッティのソナタの中でもとりわけ有名な曲ですが、フィゲイレドの演奏は誰の演奏にも増してスピーディーで、世紀の変わり目以降に古楽演奏に流行した高速テンポの先端を行く感じです。調べてみると、亭主がフィゲイレドのことを知ったのはちょうど15年前(2010年)、朝の古楽番組がまだ「バロックの森」だった頃、若き(!)大塚直哉さんが1週間担当された週で、彼の演奏によるソナタK.141、K.380、K.381が番組でオンエアされ、「K. 141のモーレツな演奏速度にビックリして目が覚めた」と、当時始めたばかりのこのブログに書き残しています(こちら)。亭主はその当時から件の音盤をなんとか入手しようと試みたものの、なぜか手に入らない状態で不思議に思っていましたが、濱田氏の話を聞いてそのわけがようやくわかりました。フィゲイレドのCDは、日本国内のワオンレコードという会社からアルケミスタというレーベルでリリースされ、2008年頃には売られていたようですが、その後廃盤になってしまったようです。(当時の案内チラシはこちら)こうなってくると、このCDに収まっている他のスカルラッティ・ソナタも是非とも聴いてみたいところですが、中古品は高値で手が出ません(サブスク音源にもない?)。なんとか再リリースを期待したいところです(濱田さーん…)。[追伸]その後、piter912さんより上記の演奏がYouTube上で聴けることを教えて頂きました(こちら)。
2025.12.14
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先週末にこのブログでベートーヴェンを取り上げたこともあり、少し気になって「ベートーヴェン フォーエバー!」と題された去る木曜日のテレビ番組「クラシックTV」を録画で拝見。この番組には珍しく、一人の作曲家の生涯と作品を4回に分けて語るというシリーズもので、今回が最終回とのこと。古株のクラシックファンとしてベートーヴェン様のことは一通り知っている気になっていた亭主ですが、今回に限ってはMCである清塚クンのさりげない歴史的背景についての指摘にハッとさせられることがありました。それはベートーヴェン(1770-1827)の晩年にあたる1815年以降のヨーロッパが「ウィーン体制」と呼ばれる反動的な国際体制になり、フランス革命以前の絶対王政を復活させるとともに、革命でヨーロッパ中に広がった自由主義や平等思想、ナショナリズムを否定し、これらを弾圧するようになった時期に当たっていた、ということです。そしてこの時期に生み出されたのがあの交響曲第9番。ベートーヴェンが当初自分の交響曲第3番を「フランス革命の英雄」ナポレオンに献呈しようとしていたところ、ナポレオンが「皇帝」になったことに憤慨して楽譜の献辞を破り捨てた、という有名なエピソードからは、ベートーヴェンが革命の思想・理念に深く共感してたことがわかります。そんな彼にとって、ウィーン体制とは失望としか言いようのない政治状況だったと思われます。(ちなみに、ウィーン体制という呼称の由来は、ナポレオン戦争の終結後1814-5年に開かれた戦後処理の会議が開催されたのがウィーンだったからで、この体制は1848年まで続きました。)とはいえ、これで経済・社会の発展を邪魔する保守反動体制に対するブルジョア市民階級の不満が収まるはずもなく、彼らはこの間さまざまな抵抗運動を起こしていました。「世界史の窓」というHPを眺めると、例えばドイツではブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)が1817年に蜂起し、イタリアではカルボナリ(炭焼党)が1820年に蜂起。スペインでは1820年に憲法制定を求めて立憲革命が起こり、ロシアでは1825年にデカブリストの反乱が起こったとのこと。(興味深いことに、ここでは左派リベラル思想と国粋主義・民族主義がともに反動体制に対峙していた、という構図が見えます。)こうして見ると、このような反体制的な思想の延長線上に19世紀末以降のマルクス主義・共産主義を含む左派リベラル思想があることと、日本でそのような政治思想が知的エリート層に浸透した大正から戦前昭和期にかけて、ベートーヴェンの一大ブームが巻き起こったことには、何か関係があるに違いないと思わせられます。ここで鍵になるのは、やはり彼の最高傑作にして最大の問題作(?)である交響曲第9番です。器楽である交響曲にあえて合唱を付け加え、しかも歌詞の元になったシラーの詩「自由賛歌」は、フランス革命の直後、ラ・マルセイエーズのメロディーでドイツの学生に歌われていたもの。当時の文脈からは、「歓喜」とは反動的な政治体制から解放された喜びに他ならず、ベートーヴェンはこれによってフランス革命の理念・思想の擁護を意図していたとも想像されます。「ベートーヴェンと日本人」の中で、著者の浦久氏は日本でこの時期に起きた関東大震災という未曾有の大災害を取り上げ、苦難に喘ぎ意気消沈した当時の日本人を第9番交響曲が大いに勇気づけたことで人気に火がついたと推測しています。(同じ構図が第二次世界大戦の惨禍とそれからの復興における戦後の「第9ブーム」でも語られます。)これはこれで説得力のある見立てですが、亭主としては戦前・戦後(昭和時代)を通じて日本におけるクラシック音楽の主な聴衆であった知的エリート層が、「歓喜の歌」の中にある抑圧的な政治体制からの解放への欲求、あるいはその背景としての自由・平等・博愛といった左派リベラル的な思想を見出したことがベートーヴェンブームに繋がったのだろうと想像させられます。クラシックTVでは、ベートーヴェンの葬儀に1万人とも言われる参列者が集まったことが紹介されていました。これについても、番組ではベートーヴェン個人の人気、あるいは彼の音楽への敬意という文脈で解説されていたようですが、前述のような背景を考えると、むしろウィーン体制への異議申し立てを込めて足を運んだ人たちが大勢いたことを示すもの、と合点した亭主でした。
2025.12.07
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指揮者の山田和樹氏との対談本「オーケストラに未来はあるか」や、その中でも取り上げられていた「138億年の音楽史」といった著作を通じて浦久氏に大いに興味を持った亭主、最近になって表題の本(新潮新書、2020刊)を購入。この週末に楽しみながら読ませて頂きました。腰巻の惹句に「クラシック音楽が『異物』から『教養』に変容する姿を描いた発見と興奮の文化論」とあるように、本書はベートーヴェンの音楽を明治期に輸入された「西洋音楽」のシンボルとして、それが日本人にどのように受容されていったか、その背景となる日本の社会情勢や例の「教養主義」との関係も丁寧に見ながら詳説した本です。あるジャンルの音楽の受容史とは、一言で言えば「感受性(感情)の変容の歴史」。とはいえ、音楽も含め、新生明治政府にとって西洋文化とは自国の「外見」を西洋風に装うためのもので、軍隊のための音楽など国家制度の一部として取り入れたのが始まりでした。一方、西洋音楽輸入のために政府に設置された「音楽取調掛」では、面白いことに当初は米国から来た教師による「教育」としての西洋音楽を導入しようとしていました。(例えば、この方針に従って初等学校に音楽という科目が設けられ、小学校唱歌などの教科書も編纂され、学校で実際に使われました。)ところが、その後音楽取調掛(のちの東京芸大)の教師陣がドイツ人に変わると方針が大きく変わります。すなわち、そのミッションが教育音楽から「芸術」としての西洋音楽の演奏家=芸術家養成に大きくシフトしていきます。(このことは、日本の西洋音楽受容史における一つの重要な分水嶺になったと見ることもできます。)そしてこの時期、幸田延や久野久などが欧米に留学し、そこで学んだ「芸術」としての西洋音楽を日本に普及しようとするわけですが、「教育」をなおざりにしておいて聴衆が育つはずもなく、明治期には西洋音楽とは官僚・華族・文学者・富裕市民など一部の知的エリート層の好奇心を満足させる程のもで、一般庶民とは縁遠いものだったことが伺えます。(なお、この頃の面白いエピソードとして、明治期に文学者の間で突然ワーグナーブームが巻き起こり、その音楽を実際には聴いたことがない上田敏と森鴎外との間で議論が盛り上がったことが紹介されています。これはワーグナーがニーチェの哲学と強く結びついており、ワーグナーも音楽というよりはドイツ哲学思想の一部として受容されたからだというのが著者の見立てです。)ところが、明治の終わりから大正時代にかけて、旧制高校ー帝国大学で「教養主義」が盛んになるとともに、欧米で市販され始めたSPレコードで彼らの音楽に接することができる様になり、輸入されたバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった音楽家の音楽が徐々に人気を集めるようになります。いうまでもなく、これらの音楽家は新生ドイツのナショナルアイデンティティとなった「絶対音楽」の代表者たち。こうして、教養主義とドイツ音楽を中心としたクラシック音楽が一体となった時代が始まり、第二次大戦中に一旦抑圧されたものの、戦後復活してしばらく続くことになります。(これ以降、クラシック音楽=レコードを介して鑑賞される音楽という状態が100年以上も続いたわけで、最近の「レコー芸術」休刊という事態が業界に与えた衝撃が大きかった理由もわかるというもの。)そして、元号が昭和へと変わった直後の1927年、ベートーヴェン没後100年を記念して東京、大阪などの主要都市で行われた彼の交響曲を中心とした演奏会、特に第9番のそれが大成功を収めたことで、ベートーヴェンは西洋クラシック音楽の中心にあって最大の人気を誇るようになる、というわけです。(ちょうどこの頃、N響の前身である新交響楽団がプロオケとして誕生し、交響曲の本格的な演奏も可能になったという背景もありました。)ちなみにこれより以前、「楽聖」という言葉はクラシック音楽の大作曲家全体を指す言葉であったのが、このベートーヴェンブーム以降に彼だけを意味するようになったと推測されています。その意味で「ベートーヴェン=楽聖」という呼称は「バッハ=音楽の父」と同じく、日本固有のものなのでした。(ちなみにこの「楽聖」という呼称、お隣の中国でも通じはするらしいとのこと。)上記ような歴史的文脈で、例えば音楽評論家の吉田秀和(1913-2012)の最初期の著作である「主題と変奏」を振り返ると、彼が大正末〜昭和初期のドイツ文化をベースにした教養主義文化の申し子であったことがよくわかります。(その主な主張が絶対音楽としてのドイツ・クラシック音楽を擁護するものであることは明らか。「ショーペンハウエルのフルート」というお題は、旧制高校の「デカンショ」ブームの反映そのものに見えます。)こうして西洋音楽の受容史をじっくり眺めると、日本のクラシック音楽における「芸術至上主義」とは、政治思想において明治・大正・昭和と日本の知的エリート(インテリ)層を魅了した「左翼リベラル思想」と同類のものに思えてきます。ここで左翼リベラル思想を一言で「革新」というのに倣い、「音楽=芸術=美」という芸術至上主義を「芸術」の一言で置き換えれば、前回のブログで取り上げた「革新幻想」と同じように「芸術の擁護者でなければインテリではない(?)」というクラシック音楽業界内の(聴衆も含む)同調圧力を「芸術幻想」と表現してもよいでしょう。昭和も遠くなり、世の中の大半は「革新幻想」から覚めたようですが、「芸術幻想」の方はいまだに根強いものがあります。亭主としては、これを変えるべく頑張っている山田和樹氏や浦久氏に改めてエールを送りたいと思います。
2025.11.30
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今年の夏に「教養主義の没落」(2003)という本を手にして以来、同じ著者の本を端から読んでいる亭主ですが、表題の本は「丸山眞男の時代」(2005)に続く3作目。中公文庫で上下二冊という結構なブツ量も何のその、やはり大変面白く一気に読ませてもらいました。原書は2011年10月に中央公論社から刊行され、2015年に文庫化されたもので、文庫版には「おまけ」として2つの補論(1. 昭和戦前期「左傾学生」の群像ー統計的考察、2. 鉄のトライアングルー進歩的文化人・岩波・朝日)が追加されています。文庫本の解説記事の冒頭を借りると、革新幻想とは「左派(リベラル)にあらずんばインテリにあらず」という進歩的な同調圧力(空気)のことだとか。同調圧力とは「議論の余地なく正しいことを認めよ」という意味です。このような「政治的信条としての左派リベラル思考」(共産主義やマルクス主義もそのひとつ)への傾斜は、明治時代末の旧制高校を中心とした「学生エリート文化」に始まり、次第に帝国大学そのものがそのような文化の牙城となった「大正デモクラシー」を経て、日中戦争から第二次大戦中にかけては右派的思想(国粋主義、「近代の超克」論、日本浪漫派など)の盛り上がり(=逆向きの「空気」)と軍部の思想統制によって一旦壊滅させられますが、戦後に再び大学知識人や大衆化したエリートを中心に日本全体を風靡することになります。タイトルに「戦後史」とあるように、本書は特に終戦直後から現在までの期間に的を絞って日本社会におけるそのような「空気」の変遷を辿ったものですが、その最大の特徴は、論考の対象にとなる政治的な事柄について、ともすればやってしまいそうな「価値判断(左右いずれか寄りの政治的立場に立って称揚する、あるいは貶めること)」を自ら禁じ、時代を降りながら「岩波書店の雑誌『世界』の隆盛と凋落」、「進歩的教育学者の教育支配」、「旭丘中学校事件」、進歩的文化人についての参照光としての「福田恒存」、「小田実・ベ平連・全共闘」、といった時代を画する人物や事象の背後にある「空気」の実態やその社会全体への影響を中立な立場で評価している点にあるといえます。(なので、読者がいずれの立場にあっても大変面白く読めるわけです。)もうひとつの特徴は、このような精神史的論考を統計データの収集や新聞・雑誌記事の博捜に基づいた実証主義的な手法で行っている点にあります。この点は全2作にも共通ですが、本書ではこれに加え、著者自身の同時代人としての体験(戦後最初の大学紛争だった「60年安保」直後の1961年に大学に進学し、65年に生保会社に就職、その2年後に大学院に入り直して教育社会学を専攻、学位取得後に大学教員として勤務)が随所で語られ、当時は分からなかった若い頃の著者自分の置かれた客観的な状況や行動の意味が明かされていく、という謎解きのような面白さもあります。(亭主は著者よりだいぶ年下ですが、昭和の青春世代には広く共有できる面白さだと思われます。)さて、「左派リベラル思想」そのものと、これを問答無用に他者へ押し付ける「独善」とは全く別の話です。(左右どちらであろうと、後者の様な態度はよくて権威主義、へたをすればファシズムと同類になってしまいます。)戦後の日本では大学関係者といった知的エリート層の政治信条である「左派リベラル思想」が社会を広く支配し(革新幻想)、これに対して異論や疑念を許さないような(〜独善的な)雰囲気が長く続きました。著者によれば、その究極にあるのが1960年代後半に起きた全共闘運動など先鋭化した(エリート化した)「活動家」の思想で、彼らはその出自である大学そのものや進歩的文化人ですらも批判の対象にしました。(このあたり、前著「丸山眞男の時代」によく描かれています。)米国で似たような例であるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)についても、ポリコレ自体よりは、これを民主党支持のエリート層から独善的に押し付けられることへの不満が爆発した(反知性主義に火がついた)のが「トランプ現象」とも言えます。現在直面する政治的分断と排除の理論も、リベラル・保守それぞれの独善的な振る舞いに由来しています。(その背景には、例の「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗の影も見え隠れしています。独善とは結局、自分が善と思う目的を実現するためには何をしても構わないという思考に他ならない?)「革新幻想」に振り回された戦後日本の歴史を踏まえ、「革新幻想の帰趨」と題された終章で示される日本社会の現状に対する著者の認識には厳しいものがあります。いまや社会の主役はマス化した大衆で、そのような「『幻像としての大衆』を想定して言論活動や政策がなされるのが現代大衆社会の特徴である」と言います。「高い身分に伴う義務」ならぬ「大衆であることの義務」が前景化し、指導者がポピュリズム狙いのパフォーマンスに走るか大衆圧力をかわす「保身」だけに走りがちなのも、指導者の資質の問題というより、層としての中間インテリや中間エリートを欠き、劣化した大衆社会圧力によるのではないか。本書の結びに書き付けられた「日本は古代ローマの様に滅びに向かいつつあるのではないか」という著者の予言、不気味なリアリティを持って迫ってくる感じです。
2025.11.23
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既に旧聞となりましたが、先月(10月)英国のとあるオークションで、物理学者アルバート・アインシュタイン(1879-1955)がかつて使用していたヴァイオリンが2億円という高値で落札されたというニュースが伝わりました(たとえばこちら)。アインシュタインは「死とは何か、それはモーツァルトが聴けなくなること」という名言(?)を残したほどの音楽好きで、アマチュアヴァイオリニストでもありました。(友人でピアニストのアルトゥール・シュナーベルは、一緒にモーツァルトを弾いている間頻繁に拍を間違えるアインシュタインに呆れて「君は数も数えられないのかね」とからかったとか。「天は二物を与えず」で、音楽でも天才とはいかなかったようですが…)件の楽器は、彼がナチスの迫害を恐れて米国に逃れる直前に、友人の物理学者マックス・フォン・ラウエに託したものだったそうです。ところで、アインシュタインに限らず物理屋さんには音楽好きが多い、というあまり根拠のないウワサもありますが、かのアイザック・ニュートン(1643-1727)はどうやら音楽を解さなかったようです。ニュートンといえば、若い頃にペストの流行を避けて疎開していた田舎でりんごが木から落ちるのを見て万有引力の法則に思い至った、というエピソードでよく知られる物理学者。(日本では科学雑誌の名前にもなっています。)彼の生年を見ると、音楽の世界ではジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)、ブクステフーデ(1637-1707)、あるいはヘンリー・パーセル(1659-1695)といった前期バロック時代の音楽家たちに近い感じですが、享年84歳と当時としては例外的に長命だったせいで、我々がよく知るヘンデルの英国時代(1712年〜)とも15年近くのオーバーラップがあります。ニュートンは人生の後半に英国政治と関わるようになり、1696年からは王立造幣局長官の職を勤めるようになります。在職中は贋金作りを摘発するのに手腕を発揮したりする一方、ちょうどヘンデルが英国に現れた1710年ころから過熱し始めた株式投資に手を出し、最後には大損を被っています(これがのちに「南海泡沫事件」と呼ばれるようになる1720年ごろのバブル崩壊)。その際、ニュートンは「私は天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算できない」と言ったとか。一方、ヘンデルの方は、この投資ブームに乗って一儲けしたようで、これを元手に彼を支持する貴族たちと1719年にオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」を設立、その芸術部門の中心人物として活躍するようになります。ここから生まれたのが「ラダミスト」、「ジューリオ・チェザーレ」、「ロデリンダ」といった作品の数々でした。ではニュートンが彼の音楽をどう見ていたか?最近聴く機会があったコルティによるヘンデルのハープシコード組曲集CDのライナーノートにその様子を伝える記事がありましたので、引用すると以下のようになります。ヘンデルの即興演奏と作曲の才能を誰もが驚異的だと思たわけではない。作曲家の友人ジェームズ・ハリスのノート(1743年4月21日付)によると: 「著名なアイザック・ニュートン卿は、ヘンデルがチェンバロを演奏するのを聞いて、彼の指の弾力性以外に特筆すべき点を見出せなかった。...かくして、人間、たとえ最も偉大な者でさえも(俗に言うように)自分の本領から外れると、必然的にこのような事態が生じるのである。... 存在するものと存在しないものを区別する知性において、彼に勝る者はいなかった。しかし存在するものの中で、何が公正で美しく優雅で洗練され、何がその反対であるかについて…彼は全く理解していなかったと想像せざるを得ない。 老いたニュートンはヘンデルのオペラの魅力にも同様に無関心だった。1720年4月18日、新設された王立音楽アカデミーのためのヘンデル初の新作オペラ『ラダミスト』のリハーサルがあると告げられた偉大な科学者は、考古学者ウィリアム・スタックリーにこう語った。「オペラは一度しか観たことがない。第一幕は楽しんだが、第二幕で忍耐が尽き、第三幕では逃げ出した」。同じ「天は二物を与えず」でも、こちらは音楽への関心が薄い、とうレベルの話だったようで、これには亭主も意外の感を強くしました。(ちなみに、ニュートンが導き出した「万有引力の法則」、実は経験則以上のものではなく、そこで仮定されている「2つの物体が何もない真空を介して力を及ぼしあう」などという考えは、いわば「念力」にも似て怪しげなもの。もし彼が今の世にこんな論文を書いて専門雑誌に投稿しても却下されたでしょう。このような怪しげな仮定をしなくても万有引力を理解できるようにしてくれたのが、他でもないアインシュタインの一般相対性理論なのでした。)
2025.11.16
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ピアニストのアンドラーシュ・シフが「高松宮殿下記念世界文化賞」という賞を授与され、授賞式(10月21日)のために来日したとのことで、その際に行われた合同記者会見と個別懇談会の席でのインタビュー記事がいくつかのネットメディアに出ているのを最近になって目にしました。亭主が見たのは「ぶらあぼ」(10/22)、産経新聞(11/1、オンライン版)、朝日新聞(11/6、夕刊)ですが、特に産経、ぶらあぼの記事中で引用されたシフ本人の発言が大変挑発的で、彼の音楽観や芸術観を率直に語っていて大変興味深いものがあります。まず、合同記者会見(他の部門も含め五人の受賞者による)で、シフは「芸術(音楽)は”ショービジネス”ではない」と宣言。さらに、その後の懇談会で「”ショー”も”ビジネス”も、私はどちらの言葉も好きではありません。芸術はエンターテインメントではない。もっと深い次元があると信じています。それは学びであり、生の音楽を聴くという唯一無二の経験を皆でシェアするという面もあります。演奏はその場限りのもので、翌日のコンサートは全く違うものになってしまう。その瞬間にしか存在しないからこそ意味がある。一人でリビングで聴く音楽ともまったく違います。人と共有することが大切なのです」(ぶらあぼ)。さらに、会見直前にショパン国際ピアノ・コンクールの結果が発表されたことから、コンクールに話を向けられたシフ氏、真っ先に「ベリー・バッド」という言葉が口をついて出たとのこと。さらに「私もオンラインで視聴していましたが、退屈してしまいました。コンクールは消えてしまえばいい。こういうことを言うのは少数派でしょう。音楽はスポーツではありません。芸術なのです。スポーツは速さ、距離などを測ることができますが、芸術は計り知れない要素の集合です。審査員のいるスポーツのフィギュアスケートなどは芸術に近づくと問題が生じるのです。人の趣向、エゴ、嫉妬心などの感情が入り込みます。芸術で測れるものがあるでしょうか。主観的な趣向だと思います」(産経)。A新聞の記事では「コンクールはエンターテインメントであり、教育に何ら貢献するものではありません」という発言も引用されています。この後、シフは若い音楽家へ伝いたいこととして「音楽はワインと似ているところがある」、その心は「どちらも熟成しなければならない」点だと曰います。「良い音楽家になりたければ、充実した人生を送ること。練習ばかりしていてはいけません。美術館や映画館や劇場に出かけ、友人と時間を過ごし、自然の中を散策する。こうした生き方のすべてが、あなたの音楽を豊かに実らせていくのです」(A新聞)。特に前半のショービジネスに関する発言、このところ「芸術」(クラシック音楽もこれを標榜している)と商業主義の相剋という問題について色々と考えている亭主から見ると、あまりに浮世離れしている、という感想を否めません。特に残念なのは、初めから「芸術」と「エンターテインメント」を相反するものであるかのような二項対立の図式で捉える彼の思考回路です。その背景には「真面目な音楽」としてのクラシック音楽、という19世紀的な音楽観(=教養主義)、あるいはそのような「高級文化(ハイカルチャー)」の体現者としてのエリート意識が透けて見えます。「聖今生陛下派」ピアニストであるシフ閣下(彼は英国でナイト=男爵に叙されている)としては、バッハやベートヴェンの音楽をエンターテインメント(娯楽・おもてなし)と捉えるなどという不真面目な輩はけしからん!というわけでしょう。一方、「最高の芸術は最高のエンターテインメントでもある」と捉えれば、二項対立的な思考回路からは容易に解放されます。そこでは、シフが言う「生の音楽を聴くという唯一無二の経験を皆でシェアする」体験それ自体もひとつのエンターテインメントです。(それとも、シフ先生はそういうふうに「勉強が楽しい」という生徒を「真面目にやれ!」と叱るのでしょうか?)シフは1953年生まれ、クラシック音楽がまだ「エリート文化」として健在だったころにキャリアを積んだ演奏家です。この時代には、音楽を享受する側である聴衆も演奏家と同じレベルで音楽に向き合うこと(「集中的聴取」)が当然視されていました。とはいえ、1980年代以降の聴衆は大衆化し、彼らからアイドル並みに扱われる演奏家も出てきました。そのような聴衆からすれば、なぜクラシック音楽がエンターテインメントであってはダメなのか、と問いたくなります。芸術、あるいは音楽もそのように享受されることに何の不都合があるのか。ビジネスとしてのクラシック音楽が今のところ何とか成立している理由も、そのような聴衆の存在あってのことです。(聴衆を気にせず自分の音楽を追求できるのは大学や音楽学校といったアカデミアにいる音楽家ぐらいでしょう。)それにしても、「音楽はショービジネスではない」と、ある種の理想論を掲げながら、一方で演奏会というショービジネス(興行)のシステムにちゃっかり乗っかってお金を稼いでいることについて、シフ男爵閣下は何の矛盾も感じていないのだろうか、と訝る亭主でした。(なお、亭主はシフの演奏のファンであり、かつて彼の奏でるバッハなどを大いに楽しんだことが思い出されます。)
2025.11.09
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先月落手したフランチェスコ・コルティによる3セットのCDのうち、昨年(2024年)10月にリリースされたという表題の1枚をじっくり拝聴。亭主にとってドメニコのソナタを入れた新譜CDを手にするのは、ピエール・アンタイのそれ以来3年ぶりです。ただし、アンタイのCDはヘンデルのハープシコード組曲とドメニコのソナタが交互に演奏され、二人の音楽家のキャラを比較しながら楽しむという、ある種音盤上の演奏会のような作りでした。ドメニコのソナタだけを入れたCDとしては久々というところ。とはいえ、驚いたことに音盤は1枚きり、最長でも70分強という限られた尺を考えれば、555曲ものドメニコのソナタのソナタからどれを選んでくるかは、それだけで演奏家にとって十分なチャレンジです。一昔前であれば、セールスも考えてまずは有名なソナタをピックアップし、これらと自分の好みのソナタと適当に組み合わせたアルバムに仕立てるのが定石という感じでした。ではコルティはどのような作戦で臨んだのか?以下は収録作品のリストです。01. ソナタ ニ短調 K.213: Andante02. ソナタ ニ長調 K.214: Allegro vivo03. ソナタ イ長調 K.208: Adagio e cantabile04. ソナタ イ長調 K.209: Allegro05. ソナタ 変ロ長調 K.248: Allegro06. ソナタ 変ロ長調 K.249: Allegro07. ソナタ ホ長調 K.215: Andante08. ソナタ ホ長調 K.216: Allegro09. ソナタ イ短調 K.217: Andante10. ソナタ イ短調 K.218: Vivo11. ソナタ ハ長調 K.242: Vivo12. ソナタ ハ長調 K.243: Allegro13. ソナタ ロ長調 K.244: Allegro14. ソナタ ロ長調 K.245: Allegro15. ソナタ イ長調 K.219: Andante16. ソナタ イ長調 K.220: Allegroこれらを見るとすぐに気づくこととして、カークパトリック番号で200番台前半のソナタのみが取り上げられていることが分かります。ドメニコのソナタの主要な原典のひとつとして、ヴェネチアのマルチアーナ図書館が所蔵する手稿(「ヴェネチア手稿」全13巻)が知られていますが、上記リスト中のソナタはすべてその第3巻(K.206〜235)、および第4巻(K.236〜265)から取られています。もう一つは、これらが2曲ずつ調性の対として演奏されていることです。これは、手稿上でこのような対(あるいは3曲で一組)になった配置が作曲者自身の意図したもので、それらについては演奏も対ごとのまとまりとしてなされるべき、とするカークパトリックの「対理論」を踏襲したもの。(もっとも、このような対構成が400曲近くで見られる、というカークパトリックの主張については疑問視する向きもありますが、かなりの数のソナタがこのような相関を持っているように見えることも確かです。)カークーパトリックは自身の著書の中で、ヴェネチア手稿第3、4巻の2巻をいわば「傑作の森」と評しており、そこからコルティが取り上げたソナタも例外なしに名曲揃いです。ペアの演奏順を変えた理由は、アルバムとしての起承転結や曲の性格の対比を考えてのものでしょう。(例えば、ドメニコにしては数少ないアンダンテの速度記号を持ち、シリアスで物悲しい曲調のK.213を先頭に配置する、という作法は、以前にキャロル・セラシやピエール・アンタイのソナタ集でも見られました。)さらに、YouTubeのプロモーションビデオを見ると、コルティが参照しているのはファディーニ版(イタリア、リコルディ社刊行)の楽譜であることが分かります。校訂者であるエミリア・ファディーニ(イタリア人)は、カークパトリックの主張に従ってヴェネチア手稿を最も重要な原典として校訂譜を作成したことで知られています。録音で使用しているハープシコードもイタリアンモデルであることなどを考え合わせると、どうやらコルティがドメニコを「イタリアの音楽家」として遇したがっていることが読み取れます。さて、では実際の演奏はどうかというと、これら二部形式のソナタで前半と後半、それぞれ反復される2回目の演奏では必ず大胆な変奏が加えられ、特に速い楽章では鍵盤の名人芸が爆発。さながらコルティのワンマンショーです。「古楽は自由だ!」というモットーを極限まで突き詰めるとこういうことになるのだろう、と思わせられる演奏でした。 * * * *ところで、今年の初めにこのブログでドメニコの父アレッサンドロが生誕300年の記念の年であることに触れ、それにもかかわらず巷では全く話題になっていないことを嘆いていたところですが、最近になってネットでググるといくつかイベントが企画されているようです。その一つ、「アレッサンドロ・スカルラッティの情熱と華」と題されたコンサートの案内が目に入り(こちら)、チラシの画像を拡大して眺めたところ、左上にある肖像画が何と息子ドメニコのそれになっているのを見つけて「あちゃー…」。このチラシ画像、日本チェンバロ協会のフェースブックにもアップされているのですが、なぜかスルーされているようで何とも残念。
2025.11.02
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以前にこのブログで、國分功一郎氏の「目的への抵抗」という本を紹介しました(こちら)。亭主はその記事の末尾に、「コロナウイルスを恐れるあまり、生き延びることだけが人生の目的になっていないか?『人生そのものを楽しむ』ために必要なものこそが『不要不急』と言われているものではないのか?こちらも深淵な問いかけに思われる」と書きました。そのしばらく後、最近始まった某放送局の朝ドラのモデルとしてよく話題になる、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンとその妻セツの生涯にまつわる話を取り上げたテレビ番組を見る機会があり(「英雄たちの選択」、10月15日)、その最後の方で図らずも上記の問いに関する答えを聞かされることに。番組では、雑誌社の特派員として来日(1890年)したハーンが日本の魅力に取りつかれ、元の仕事を断って日本で英語教師として生計を立てるようようになったことや、その後松江藩士の娘・小泉セツと結婚し家庭を築いたことでより良い処遇を求めて転職を繰り返し、最後に東京帝国大学で英文学の講師になったこと(1896年)が紹介されるとともに、その7年後に教育方針を巡って大学側との軋轢が高まり、職を辞するかどうかの決断を迫られた(=番組のお題である「選択」がこれ)という話でした。では、この話がなぜ「目的への抵抗」と関係するのか?それを理解するために必要な背景として、当時(明治時代後期の)帝国大学が「お雇い外国人」教師による西洋の学問・知識の輸入というフェーズを脱し、自前の日本人教師によるテクノクラート(エリート官僚)養成のフェーズへと移ろうとしていた点が挙げられます。(実際、1903年=明治36年に彼の後任として赴任したのが夏目漱石でした。)番組の解説によれば、八雲の講義は作家(物書き)の養成講座のようなものだったらしく、効率的に外国語を習得させて行政・外交に有用な人材を養成するという当局の目的にはそぐわないと見なされていたとか。ただし、ここで面白いのが講義を受けていた学生たちの反応で、八雲に対し理由もなく雇用延長しないと通告してきた大学側の措置を知った彼らは反対運動を起こし、大学もそれを撤回せざるを得なくなりました。(最近読んだ竹内洋氏の著作によれば、このような反応はちょうどこのころから旧制高校・帝国大学で勃興した「学生文化=教養主義」の典型的な表れと見ることができます。皮肉なことに、彼らが卒業後に大学教員となることで、大正から昭和にかけて大学そのものが教養主義の牙城となっていきます。)ところが、学生たちの応援もあり、当局も雇用延長を申し出たにもかかわらず、八雲は最終的に大学を去るという決断をします。その理由について、MCの磯田道史氏や番組ゲストが語ったことを亭主なりにまとめれば、「能吏養成という目的に縛られた大学教育に対する根源的な懐疑があったのではないか」となります。これを承けて、番組は大学教育論でさらに盛り上がりますが、終わりにかけて磯田氏曰く、「人間的に楽しく暮らすには意味も目的もないものが必要であり、八雲は本質的なところを見て警告をいち早く放ったのではないか。」その真逆が「今だけ金だけ自分だけ」、それで幸せに本当になれるか、と問いかけます。(磯田氏は別のところでも「目的というやつが人生をつまらなくする」と宣っています。)というわけで、冒頭の「『人生そのものを楽しむ』ために必要なものこそが『不要不急』と言われているものではないのか?」という問いに対する番組の答えは「その通り!」でした。とはいえ、今度は別の問題が立ち現れます。我々は生きている以上、浮世の様々な「目的」から逃れられないという問題です。逃れられないどころか往々にしてその奴隷となり、「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗に陥ります(ホロコーストはその典型例)。一体どうすればこの隘路を抜けられるのか?國分先生は前作の続編として「手段からの解放」という本をものしたようなので、近々手に取ってみようと思います。
2025.10.26
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先週の連休初め、群馬県立近代美術館で開かれている展覧会「響きあう絵画—宮城県美術館コレクション」を眺めてきました。お目当ては「須之内コレクション」、画商で随筆家でもあった洲之内徹(1913-1987)が、商売で出会った数多の絵の中でどうしても手放せずにいた作品群で、彼の没後にコレクションとして出身地の宮城県美術館に寄贈されて今日まで伝わっています。その宮城県美術館が現在リニューアルのために長期閉館中とのことで、所蔵品が群馬をはじめ国内何ヶ所かを巡回することになったようです。亭主が洲之内徹のことを知ったのはかれこれ30年ほど前(1990年代半ば)、表題の本(新潮社、1973)に出会ったことがきっかけでした。著者は昭和の人で、当時はこれと「セザンヌの塗り残し」(同、1983)、および文庫本として再刊された「気まぐれ美術館」(同、1978/1996)ぐらいしか手に入らなかったようで、これらを通勤電車の中で読み耽っていたことが懐かしく思い出されます。この本を読むまで、亭主は日本の近現代美術にそれほど関心がありませんでしたが、著者が同時代の画家たちの作品に示す商売を超えた思い入れや、彼らとの個人的な交流の様子などを読むにつけ、それまでの西洋美術を中心にした絵画観(音楽における構図と同じ:教養主義的な価値基準)から抜け出すとともに、「絵画(作品)とは何か」、「絵を見るとはどういうことか」といったことを考えさせられた気がします。その後、洲之内の著作は書棚の片隅で埃をかぶっていた一方で、彼の随筆で知ることになった絵の実物を眺めてみたいという欲求はずっと燻っていました。(例えば、彼が熱心に紹介していた松本竣介の展覧会があると聞くと、なんとか都合をつけて遠方の桐生市まで足を運んだりしていました[こちら]。)そのような亭主にとって、今回の展覧会はまさに積年の願望を叶える貴重なチャンス。というわけで、会場が遠いことを口実に温泉旅行(下仁田温泉)と抱き合わせで群馬に向かいました。実は群馬県立近代美術館に来るのは、昨年4月の「長谷川潔展」に続いてこれが2回目。その際にはまだ2階の展示スペースは改修中で閉鎖されていましたが、今回の展覧会では作品が1階とリニューアルした2階の両方にまたがる二部構成になっており、しかも1階の展示作品群は写真撮影OK、という破格の対応になっています。(入館料も低めに抑えられており、家族連れに優しい設定。)会場に入ると、まず最初に目に入るのが高橋由一の「宮城県庁門前図」、あの「鮭」で有名な明治の洋画家の作品です。これ以降、展示作品は概ね時代順に並べられており、日本の洋画の歴史を辿っていくことができます。ちなみに、亭主のお目当てである洲之内コレクションからの作品をリストアップすると以下のようになります。中村 彝 「自画像」萬 鉄五郎 「風景・春」、「自画像」児島 善三郎 「ギャルソンヌ」鳥海 青児 「うずら」長谷川 利行 「酒祭り・花島喜世子」海老原 喜之助 「ポアソニエール」野田 英夫 「メリーゴーラウンド」松本 竣介 「ニコライ堂」靉 光 「鳥」林 武 「星女嬢」麻生 三郎 「人」長谷川 潾二郎 「猫」曹 良奎 「マンホールB」洲之内ファンにとってはどれも見逃せない作品ばかりですが、これらの大部分は「絵のなかの散歩」で取り上げられているものです。中でも海老原喜之助の「ポアソニエール」は口絵冒頭にカラー印刷で収録されており、亭主もその青や碧色の鮮烈なイメージの記憶が蘇りました。とはいえ、それ以外の上記の作品は、本の口絵では全てモノクロ画像でしか提示されておらず、ほぼ初めて見るに等しい状態です。なかでも今回の目玉は、長谷川潾二郎の「猫」。このところの猫ブームに加え、最近どこかでこの絵が紹介されたこともあり、「髭が半分描かれていない」というエピソードもあいまって大人気に。亭主も鼻を擦り付けるようにしてまじまじと眺めました。その他、亭主が撮ったスナップで数枚をご紹介。松本竣介「ニコライ堂」野田 英夫「メリーゴーラウンド」靉光「鳥」亭主にとってもう一つのハイライトは、松本竣介の「画家の像」でした。この作品は彼の代表作としてよく知っていたものの、実物を初めて目にし、予想より遥かに大画面であるにもかかわらず細密に描かれていること、また非常に透明感のあるタッチであることに魅了されました。宮城県美術館、なかなかの絵画コレクションを持っており、隅におけない存在です。
2025.10.19
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「ヘン、ベートヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」これは、東大紛争当時、同大法学部教授であった丸山眞男が全共闘学生による「吊し上げ」の席で浴びせられた罵声だそうです。(のちに当人は、こんな「むき出しの憎悪」にいままであったことがない、と回顧しています。)よく知られているように、1968年に始まった東大紛争は学生らによる安田講堂占拠に発展し、大学当局はこれに対して翌年1月に警察(機動隊)を導入、学生らを強制排除することで鎮圧しました。丸山が糾弾されたのはその直後の2月から3月にかけてで、直接の理由は彼がこのような強権を発動した大学当局者の一人とみなされたからでした。とはいえ、冒頭のセリフを眺めると、学生たちのもっとドロドロとした怨念(ルサンチマン)のようなものが感じられます。特にベートーヴェンへの言及は、それが西洋クラシック音楽、さらにはそれを含む西洋流の学問・文化全体(=旧制高校・帝大に由来する学歴エリート文化=教養主義)を象徴するものとして、学園紛争に関わった大学生に強烈な嫉妬の感情を呼び起こしていたことが見てとれる点で非常に興味深いところです。ではなぜ彼らはそんな感情に駆られたのか?丸山は、敗戦後に新たな政治規範となった民主主義の下で、それを擁護・推進する「進歩的文化人」(左派リベラル知識人)のエースとみなされるようになりましたが、それからわずか20年ほど後には左派の活動家学生たち(日本共産党と袂を分かったので新左翼とも呼ばれる)から前述のような糾弾を受ける立場となり、その後定年を待たずに1971年3月に辞職(57歳)。論客としての人気や影響力も急速に失われたようで、亭主が大学に入った1970年代終わりにはほとんど彼の名前を聞かなくなっていました。表題の本(2005)は、同じ著者による前著「教養主義の没落」(2003)の内容をさらに深掘りしたもので、大正時代から太平洋戦争前後にかけて典型的な学歴エリートコースを歩んだ丸山眞男(1914-1996)の生涯を、当時の社会情勢や政治状況などを参照しながら辿ります。亭主も丸山の「日本の思想」(岩波新書)や「戦中と戦後の間」(みすず書房)を読んだ覚えはあったものの、40年以上も前のことでその中身は綺麗さっぱり忘れていたので、本書のおかげで初めて彼の仕事を俯瞰的に眺めることができました。著者によれば、丸山の原点は戦前に遭遇した国粋主義者による左翼・リベラル思想、特にその擁護者である旧帝大教授への暴力的な批判という体験(「赤狩り=日本のマッカーシズム」とも例えられる)にあります。(瀧川事件や美濃部達吉の例がよく知られています。)丸山は、戦後この恐怖の体験と嫌悪感をバネに、戦前の政治思想・体制を批判する「超国家主義の論理と心理」という論文を提げて論壇にデビューし(1946)、一世を風靡します。ところが、1960年の「安保闘争」で政府批判に消極的な立場を取ったことを境にして徐々に批判される側へとまわり、そのカリスマ的な人気を失うに至ります。著者はこの間の一連の動きを、当時の日本の政治状況や統計データなどに基づいた経済・社会情勢の変化から読み解いていきます。それによると、学園紛争当時、大学教育は進学率の上昇によって大衆化し、大卒は社会のエリート予備軍ではなくなりつつありました。冒頭の罵声の根っこにあるのは、自分たちにもはや光輝く未来はないと感じた学生たちが抱えていた不満や焦燥を発散するために、目の前にいる親世代の学歴エリートたちを吊し上げていたというふうに見ることができます。(当時の論壇で同じような動機を匂わせながら丸山批判を展開したのが非エリートの知識人と目される吉本隆明、あの吉本ばななの親父さんです。)とはいえ、本書の最大の眼目は、日本における戦前の左翼・リベラル思想に対する「赤狩り」的な批判と、戦後の右翼・国粋主義に対する批判(丸山らに代表される)がコインの裏表のように相似形であることを明確にした点にあります。(丸山に対する批判の核心もここにあります。)亭主をはじめ戦後生まれの世代は、戦前の日本で実際に何が起きていたのか詳細をよく知らないまま、「戦後民主主義」の土台としての左翼・リベラル思想を受容してきたとも言えます。ところが、そのような思想の根底ある西洋由来の学問・文化は、政治思想も含めあらゆる点で両義的であり(帝国主義もあれば民主主義もある)、左右どちらの側にとってもお手本だったことを見落としがちです。それにしても、丸山に浴びせられた「ベートヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」という罵声、クラシック音楽ファンにとってはかなりショッキングなものではないでしょうか?これを理解するためには、ビートルズに代表される戦後のロックミュージックが「クラシック音楽なんか糞食らえ」という大衆とエリートの間の文化闘争の産物(カウンター・カルチャー)であったことを思い出す必要があります。ビートルズがカバーして有名になったチャック・ベリーの曲の題目「ベートヴェンなんかぶっ飛ばせ(Roll over Beethoven)」にも上記と通底する感情が流れています。近頃は世界のあちこちで戦争が日常化し、当事国の音楽家も不当な差別の対象になります。これを誤りとして批判することが大事なことはいうまでもありませんが、その理由としてよく持ち出される「音楽に政治を持ち込むな」というスローガンにはあまり意味がないことも心得るべきと思われます。なぜなら、戦前のドイツにおけるワーグナーの例を持ち出すまでもなく、音楽それ自体はけっして政治から自由ではないからです。
2025.10.13
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亭主はこの十年余り、「らじる★らじる」のストリーミングをffmpegというプログラムでPC(Mac)上に「録音」(cronを使ってあらかじめffmpegを含むシェルスクリプトの実行時刻を月-金の6時に設定)することでNHK-FM「古楽の楽しみ」を拝聴していますが、なぜか9月末の金曜日の放送分がうまくとれていませんでした。原因がよくわからないままとりあえずPCを再起動しておいたところ、翌週月曜日の録音も失敗。これでさすがに10月1日に始まった例の新サービス「NHK ONE」開始との関連を疑い始め、ストリーミングのURLが変わったらしいことを突き止めました。新しいURLは「https://simul.drdi.st.nhk/live/5/joined/audio/media.m3u8」で、スクリプト中のURLをこれに書き換えることで無事問題解決。(ただし、なぜか録音されたmpegファイルのサイズが以前のちょうど2倍(39.2 MB)になっているのが気になるところですが…)ところで、そうやって聴いていた先週の朝古楽で、久しぶりにルイ・クープランの音楽が数多く取り上げられ、音源になったCDをネットサーフィンしていたところ、フランチェスコ・コルティのそれに遭遇。(彼は2006年のバッハ国際コンクールのハープシコード部門の覇者で、その翌年にデビュー盤としてルイ・クープランの鍵盤作品録音をリリースしていました。)コルティといえば、2017年にリリースされたハイドンの鍵盤作品集が素晴らしい演奏で、亭主もしばらくハマっていました。が、その後については全くフォローしておらず、久々に彼の名前を見つけてさらに調べたところ、色々と面白そうな音盤が出ていました。そこで、古いルイ・クープランの録音はそっちのけでヘンデル(表題のCD、2021)、フレスコバルディ(2023)、およびスカルラッティ(2024)の3点をオトナ買い。特にヘンデルのハープシコード組曲は、有名な割にはなぜか取り上げる演奏家が少ないこともあり、この週末に興味津々で拝聴しました。ヘンデルのハープシコード組曲には1720年に出版された第1集と1733年の第2集の2巻があり、今回の録音は前者の全曲が2枚のCDに収まっています。また、2CDを採用したことで尺に余裕が出たようで、ヘンデルのオペラから鍵盤用に編曲された作品が組曲の合間に挿入されており、彼の本業との関連を音で確かめられるという趣向になっています。なかでも亭主の興味を引いたのが、同時代の英国の作曲家、ウィリアム・バベル(William Babell, 1689-1723)による「Suits of the most Celebrated Lessons」の第1セットからの4曲です。いずれもヘンデルの歌劇「リナルド」に基づいており、最後にあの超有名なアリア「涙の流れるままに」が収まっています。これを聴くと、18世紀に入って音楽が王侯貴族の独占物ではなくなり、出版された編曲譜を通じで広く市井の人々が人気の音楽を楽しんでいたことがよくわかります。このような鍵盤音楽への編曲、実はこんにちのアマチュア音楽家にとっても大変有用で、楽譜さえ手に入れば自分で演奏して楽しむことができます。少し調べたところIMSLPに古い出版譜があることがわかり(こちら)、さっそくダウンロード。これでまた週末の楽しみがひとつ増えました。
2025.10.05
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表題の本、指揮者の山田和樹(ヤマカズ)さんが音大の教科書にしたいと激賞したとのことで(先々週から取り上げているお二人の対談本の中で紹介)、その中身が気になった亭主。ネットで調べたところ、既に新刊書としては手に入らないので(2016年刊)、古書を通販サイトで見つけて先週半ばに落手。この週末にかけて大いに楽しみながら読ませて頂きました。まず題名の中で目をひく138億年。これは宇宙物理学のビッグバン理論で信じられている「宇宙の年齢」に対応し、「音楽史」とは何の関係もなさそうに思われます。両者がどう繋がるのかと思いきや、どうやら「宇宙の基本粒子は弦とその振動で記述される」という素粒子物理学の理論(超弦理論)に音楽とのアナロジーを見ていることがわかりました。ビッグバンの初期にある宇宙は超高温で、いわば「素粒子の他に何も存在しないスープのような状態」だったと考えられており、そこから「音楽(のようなもの)」の歴史が始まった、というのが表題の趣旨のようです。このアナロジーの是非はともかく、本書を一読しての最大の要点がどこにあるかと言えば、通常の音楽史のように音楽とは何かを歴史的に説明するのではなく、この世界のさまざまな事物(の歴史)の中で音楽がどのように存在・機能してきたのかを明らかにしようとする点にあると理解できます。これは、各章のタイトルが、第1章の「宇宙という音楽」から始まって「〇〇という音楽」となっている(〇〇には「宇宙」、「神」、「政治」、「権力」、「感情」、「理性」、「芸術」、「大衆」、「自然」、「人間」という十個のキーワードが入る)ことからも読み取れます。亭主もこれまで色々な音楽史関係の本を読んできましたが、このように「逆転した視座」から音楽を語った本には出会った記憶がなく、それだけでも大変新鮮な切り口だと思われます。そして、このような視座こそが、「音楽とは何か」という問いへの答えをさらに深化させてくれるというわけです。(ヤマカズさんが感動したのもこの点にあると思われます。)一方で、このような「あらゆる事物の中にある音楽を探す」というミッション、言うは易しですが、実践しようとすれば膨大な記録・文書(データ)を博捜し、それぞれの文脈の中で「音楽」を位置付ける必要があり(果ては素粒子物理の理論にまで首を突っ込むことになる)、その報告書(の抄録)のような本書はいやでも「博覧強記」を地で行くような造作になります。腰巻の「圧倒的教養」というウリ文句、さらには巻末にある500編近くもの参考文献リストは、使われたデータの量をアピールすることでセールスに繋げようとした担当編集者の仕業かもしれませんが、これらは読者の注意を「世界における音楽の諸相」という肝心なテーマから逸らすだけでなく、古めかしい教養主義と誤解させる恐れもあります。(実際、ネット上の本書のレビューを見ると、そう捉えた読者もかなりいるようで、著者の立場がむしろそのような教養主義や権威主義とは遠いところにあるように見えることを考えると残念。)著者があらゆるものの中に音楽を見出そうとした結果、「宇宙」や「人間」という項目ではアナロジーが過ぎてやや怪しげに見える主張も散見される(「水からの伝言」という疑似科学本を肯定的に取り上げている点などに批判的な読者もいる)ようですが、これは著者のみならず読み手側のリテラシーの問題でもあります。むしろ、他の類書にないメリットとして古代ギリシャ以来の「数学的な世界理解の方法としての音楽」が詳しく取り上げられている点が挙げられます。ここでの「音楽」とは、弦の振動で規定される2つの音の「比率」が一定であることから発して、あらゆる事物の中に整数比という「調和」を見ようとする、という世界理解の体系(古代哲学の一流派であるピタゴラス派に由来)を指しています(こちらの記事もご参照下さい)。これは科学史・科学哲学の対象としてその分野の研究者にはよく知られていて、やはり「数学的な世界理解」の一つである現代物理学にもつながっている重要な視点ですが、音楽史の世界ではもっぱら「ピタゴラス音律」との関連でしか論じられておらず、両者の間には断絶がありました。本書はこれらを橋渡しするよきガイドブックだと思われます。
2025.09.28
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先週末にこのブログでさわりをご紹介した「オーケストラに未来はあるか」(浦久俊彦と山田和樹の対談)という本、その後も「巻措く能わず」状態で、平日の日中にも暇を見つけるなどして2日ほどで読了。お二人の対談をそのまま筆耕したということで本としての情報密度は若干低いものの、対話によって二人の思考が枝割れや回り道をしながらもどんどん発展していく過程がスリル満点で、ユーモアのセンスもたっぷりでエンターテイメントとしても読者を飽きさせません。(その後もあちらこちらと読み返しているほどです。)とはいえ、何と言っても亭主を唸らせたのがその中身です。「古楽」という新しい視点を獲得して以来、亭主がこの十数年余りにわたって音楽、特にクラシック音楽について感じ、あるいは考えてきた諸々のことほぼ全てが本書の中に書かれているという印象です。もう一つの収穫は、山田和樹(ヤマカズ)というクラシック音楽業界の内部にいる(しかもその中心的立場にある)現役の音楽家が、日本の業界特有の現状についての問題意識を共有し、真摯に向き合っていることを知ることができたことでした。特にヤマカズさんのすごいところは、業界内部では「話題にすることも憚られる(三浦雅士)」雰囲気が支配している日本の現状の問題点を、第三者の前でオープンに議論する(そして本書という形で出版までしてしまう)姿勢です。これは、たとえば「衰退業界へようこそ」とウェブページに出した新日本フィルの求人広告に対し、「芸術」(それも元の文脈とは全く無関係なAIとの対比という文脈)を盾にして早速これを批判的に引用するA新聞の日曜コラム氏(=業界内部の人)の例を考えれば、その貴重さがわかるというもの。もちろん日本の現状の問題点とは、まさにこの「衰退業界」という言葉が意味することでもあり、端的に言えば「興行ビジネスとしてのクラシックオーケストラは既に破綻している」という問題です(たとえば、渋谷ゆう子「揺れる日本のクラシック音楽」参照)。これについて、第2日目の対談で突っ込んだ議論がされていて非常に面白かったので、(ネタバラシになりますが)以下に少し紹介しましょう。浦久氏曰く、日本のクラシック音楽界の問題は、「演奏会というアイコンが持っている雰囲気の悪さ」にあると言います。これは前回のブログでも引用した一部の聴衆の不寛容さ(レセプショニストに殴りかかったり、マナーをよく知らない初心者に冷たい視線を浴びせたりする)を指しています。が、問題はこのような「演奏会の空気の重苦しさ」そのものというより、それが内部にいる人間にはなかなか見えてこないことにある、と言います。実際、亭主が前回のブログで引用した部分を読んで「ショックを受けた」理由も、よく考えると自分もこれを構造的な問題と明確に意識していなかったことに気付かされたからです。ではどうすればよいのか?そのヒントは「エンタテインメントととしてのオーケストラ」というお題以下のトーク(pp.156-160、「…」は亭主による省略)に見出すことができます。山田:(前節のフィルハーモニーという名称の由来を承けて)調和を愛する精神で、演奏会という楽しい、わくわくした雰囲気を作れるかどうか。…芸術とか高尚なことをいっても、けっきょくは、どこかで娯楽なんですよ、音楽は。どんなものでも人を惹きつけるためには、魅力がなければならない。やっぱり、楽しさとか、おもしろさがなければと思うんですよ。浦久:エンタテインメント性の問題ですよね。山田:そう、エンタティンメントなんですよ。いくら芸術といったって、市場原理のなかで、お金を払っていただくぶんきちんと楽しんでもらわなければならない。極端をいえば、クラシック音楽界そのものが、エンタテインメントとして成立するかどうか。ここはとても重要なところだと思うんです。それを、やれ芸術だ、フィルハーモニーだっていいながら、お客さん同士が殴り合いを始めてしまうのだったら、もうそれどころじゃなくなるわけですよ。ぼくがよくいうのは、クラシックの演奏会が、ディズニーランドみたいになればいいんじゃないかと。ディズニーランドのリピータ率って知ってますか?驚異の98%!浦久:それはすごい。ほんとうですか?山田:ほんとですよ。それは、あそこに行けば、「夢と魔法」があるからなんですよね。つまり、「夢と魔法」がオーケストラの演奏会にあればいいんですよ。そこで気持ちよくなって、おもしろいな、楽しいな、となれば、また来ようって、リピートしてもらえるでしょう?お客さんとそういう関係が築けたら、絶対にうまく行くと思う。…たとえば、ディズニーランドで、掃除をしているお兄さんに「写真を撮ってもらえますか?」といえば、「よろこんで!」と最高の笑顔でやってくれるじゃないですか。浦久:そうですね。山田:でも、オーケストラの場合、楽団員に写真を撮ってくださいとお願いしたら、「それ、私の仕事じゃないんで」と断られそうな気がしませんか?浦久:そう思わせてしまっている時点で、お客さんは楽しめないですよね。山田:もちろん、よい音楽を提供することが音楽家の仕事なんだけれど、それだけではなくて、音楽家であるまえに、舞台人であるという意識をもっと持っていけたら、けっこう変わるんじゃないかと思うんです。…ぼく、エンタテインメントの意味をあらためて調べてみたんです。辞書を開くと、「娯楽」や「余興」よりもまず先に「もてなし」という言葉が登場してくる。浦久:「お・も・て・な・し」!どこかで聞いたような。山田:まさに、コンサートでおもてなしができているかどうか。(以下略)実際のところ、テレビなどで音楽関係コンサートのライブ映像を見ると、ポップスやロックのコンサートでは聴衆がノリノリで演奏家と一体になって楽しんでいる様子が伝わってきます。ジャスコンサートでは曲の進行に合わせて聴衆が声援や拍手を入れています。つまるところ、クラシック音楽界においても変わるべきなのは聴衆のあり方なのだ、と思われます。
2025.09.21
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連休の中日である昨日、イオンモールでの買い物のついでに未来屋書店に立ち寄ったものの、探していた本は一つも見つからず、憂さ晴らしにと斜向かいの島村楽器の書棚を眺めていたところ表題の本(アルテスパブリッシング刊、2021)に遭遇。書棚から引っ張り出して腰巻きに目を落とすと、山田和樹氏の上半身写真に付けられた「ない!」というマンガの吹き出し(明らかに表題の問いかけへの答え)が飛び込んできて思わずクスリ。その下に別の吹き出しで「そういわれてしまうと、もう身もフタもない(笑)。」と浦久俊彦氏が応じているのも目に入ります。「山和」といえば今話題の指揮者。その直裁な物言いに、何だか面白そうなので表紙をめくると、山田和樹氏による序文があり、本書の元になった対談が彼からの呼びかけによるということで、さらに興味をそそられ、そのまま未音亭にお供することに。偶然にも、昨日夜のNHKクラシック音楽館では山和さんのベルリン・フィル指揮者デビューコンサート(今年6月)の録画が放映され、久しぶりに番組を初めから終わりまでリアルタイムで鑑賞。番組中では彼のインタビュー映像も流れ、下積み時代のアマチュアオケや合唱団の指揮を通じて「アマチュアこそが音楽の真髄を教えてくれる」という信念を持つに至ったと語るのを聞いて、思わず「我が意を得たり」と膝を打つとともに、ますます山田和樹という音楽家に興味を惹かれて本書を読み始めることに。本書に収録されているのは2019年4月、同5月、および2020年1月と2月の都合4回にわたり浦久俊彦氏のオフィス(代官山)で行われた対談で、特別編として2020年5月に朝日カルチャーセンター(新宿)で行われた対談が収録されています。その日付から想像できるように、4回の対談の後編と特別編はコロナ禍の勃発とその拡大の最中にあり、演奏会が消滅するという危機意識の中でなされた文化・芸術についての議論を、4年後の今というタイミングで冷静に眺められるという点でも興味深いところです。いまのところ、亭主は対談の第1日目部分を読み終えただけですが、その面白さは期待を遥かに上回っていいます。とりわけ特筆すべき点として、会場のリアクションも含めた会話全体が文字で巧みに再現されており、2人の(ときに掛け合い漫才のように爆笑を誘う)対談の様子が目に浮かぶようです。また、そこで語られる話題もピタゴラスの数の神秘主義からケプラーの「宇宙の調和」まで行ったかと思うと、ニュートンやゲーテの色彩論が出てきたりと縦横無尽。さらには、フランスで20年勉強したという浦久氏によるヨーロッパと日本のクラシック音楽の享受のありようの大きな落差など、業界内の裏話が次々と出てきます。なかでも亭主が驚いたのが、日本のクラシック演奏会での聴衆の特殊性。彼らが「高齢化している」という話は、以前から「クラシック音楽の若者離れ」という文脈で語られてきましたが、実はそのような高齢の聴衆達が若者をコンサートホールから遠ざけている(!)という実態が暴露されています。よく知られているように、日本でクラシックのコンサートに行くと、開始前には必ず携帯電話の電源を切るようにアナウンスが会場に流れます。また、言わずもがなのルールとして、演奏中は一切もの音を立てないこと、拍手もすべての楽章が終わるまではしないことになっています。このような自主規制は昨今のヨーロッパでは見られないらしく、浦久氏が日本でコンサートホールの担当者と話したところ、彼らも本当はやりたくないのだが、「熱心なファンからのクレームがすごいらしい」とのこと。以下続きをを引用すると、山田:クレーマー対策ですか。お客さん同士のトラブルもそうとうすごいらしいですね。やれ、物音を立てたとか、うるさいとかいうのはまだいいほうで、ひどくなるとお客さん同士で殴り合ったりとかね。浦久:レセプショニスト(ホールの案内係)に殴りかかったりすることもあるみたい。ぼくの若い知人が、はじめて恋人とふたりでクラシック音楽を聴いて優雅な気分になろうと、ある在京オーケストラのコンサートに行ったら、常連みたいなおじさんから睨まれたりで、あまりに雰囲気が悪くて逃げるように帰ってきたらしい。山田:どうしてそんなことになっちゃうんでしょうね。浦久:じつは、これ、現代日本の問題というか、いわゆる「キレる老人問題」とも絡んでくる深〜い問題(笑)なので、またどこかでじっくりやりたいところですが、ぼくの見るところ、クラシック音楽ファンのプライドと虚栄心の問題は、日本に西洋文化が導入された明治以降の和魂洋才からはじまって、明治時代の文学者達の熱狂的なワーグナー・ブームとか、修養から大正教養主義といった、日本型エリートの精神構造にも絡んでくる問題だと思う。山田:それは深いテーマだ(笑)。どこかでまたやりましょう。(以下略、強調は引用者)この一節を読んで、亭主は何か自分のことで図星を突かれたようなショックを受けました。クラシック音楽ファンのマジョリティである高齢者(亭主もその一人)の中には「没落した教養主義」者の生き残りのような人たち(?)が少なからずいて、彼らがコンサート会場の雰囲気を仕切ってしまっている、というわけです。ここで問題にされているお作法、実はだいぶ前に紹介した渡辺裕氏の著作「聴衆の誕生」で議論された「集中的聴取」というクラシック音楽独特の享受スタイルそのものでもあります(このブログでも紹介)。19世紀ドイツの芸術至上主義とともに生まれたこのお作法、本場ヨーロッパではとうに廃れてしまったらしいのに、極東の日本ではまだコンサートを支配してしまっている、というわけです。(亭主も自分の無自覚さに恥じ入った次第。)こうしてみると、日本におけるクラシック音楽の衰退の原因は、「分衆化した聴衆」だけでなく、彼らの音楽享受スタイルにおける「時代遅れの伝統」にもありそうです。ところで、最近話題になっている「衰退業界へようこそ」という新日本フィルの採用情報サイトの自虐的な見出し、業界内関係者からは評判がよくないようですが(例えば昨日のA新聞の「伝統の芸術『衰退』と呼ぶなかれ」という日曜コラム)、彼ら自身も上記のような「時代遅れの伝統」に無自覚になっていないか、自ら点検してみる必要があるように思われます。
2025.09.15
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先週後半は、気まぐれに関東南岸を通り過ぎ台風の影響もあってか、9月に入ってやや気温が下がった気がしますが、この週末は厳しい残暑がぶり返しています。その台風がちょうど関東を通過する前後、亭主は昨夏に続き所用(研究集会)で2泊3日で栃木県那須町にある温泉ホテルに滞在。この間はずっと天候不良で、中日の午後に設けられていた自由時間も外出はままなりませんでしたが、ちょうど読みさしだった表題の本を読み耽っていました。実はこの本、亭主は昨年の暮れに落手したものの、何となく気後れしてこれまでツン読状態でした。ところが、最近になって「教養主義の没落」という本を偶然手にしたことで(先週のこのブログで紹介)、林達夫(1896-1984)が戦前の旧制高校文化(=エリート学生文化)に発する教養主義の時代を生きた具体的な人物として立ち現れるとともに、そのような(「教養主義の時代」という)俯瞰的な視点から眺めた彼の生き様やその周辺の人々の群像劇が俄然面白くなり、本書に一気に没入することに。おかげで那須を往復する車中の時間を含め、全く退屈することなく空き時間を過ごすことができました。本書の副題である「演技する反語的精神」、あるいは腰巻きにある「反戦、反権力、自由主義」というキーワード、これまでは林個人の人格に結び付けられて語られることが多く、本書の著者も基本的にはそのような視点で語っています。(例えば、彼の反骨的な生き方が、その生い立ちや父親との関係、さらには学生時代の交友関係などと結び付けられて語られます。)いわゆる伝記ものが基本的に個人史である以上、このような筆致はある意味当然のことですが、彼の考え方や意見の由来、あるいはその選択や判断の原因など、個人の資質だけでなく同時代の時代背景に求められるべき部分も少なくないはず。「教養主義の没落」は、まさに後者の部分を詳細に明らかにしてくれており、本書とシリーズで読むことで「時代の子」としての林達夫の姿が鮮明な焦点を結んで浮かび上がります。たとえば、前出の3つのキーワード、これらは林達夫に特有のものではなく、読書を中心とした教養主義と高い親和性を持った左翼的思考に共通するもので、教養主義にハマった知的エリートなら誰もが共有する思考回路に過ぎないと言い切ることもできます。本書が強調するような林に特有の事情があるとすれば、彼の人生コースが当時の標準的な学歴エリートから外れており(父親に大反対されつつ一浪までして入学した旧制一高をドロップアウト、最終学歴は京都帝大の選科生)、その分だけある種屈折した感情を持っていて、社会人になってからも権威筋に対する反骨心が持続していたらしいことぐらいでしょうか。さて、総ページ数が400ページ近く、その内容も多岐にわたる本書の内容を短いブログ記事で要約するのはハナから諦めるとして、ここでは表題にある「ドラマトゥルギー」に込められた著者の意図をメモっておきましょう。林達夫は幼い頃から人間関係に屈託を抱え、長じてからは自らの心の安寧(内心の自由)を確保するために、正体(ホンネ)を隠して「役割を演じる」ことを習い性にしてきた、というのが著者の見立てです。世間ではよく「人生は一度きりのドラマ」と言い、そこでは「人生の一回性(唯一無二さ)」や「主人公としての自分」が強調されますが、林達夫にとっては「演じること」自体が屈託の多い人生を生き抜く知恵だった、というわけでした。これでようやく亭主も林達夫を「卒業」できそうです。
2025.09.07
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表題の本、このところあちらこちらで話題になっていることを知り、先日書店に立ち寄った際にふと思いついて購入、興味本位で読み始めたところ大変面白く、「書置く能わず」状態に。中公新書の一冊として本書が出版されたのは2003年と、今から20年以上も前ですが、最近になって米津玄師(ミュージシャン、ボーカロイド・プロデューサー)、三宅香帆(書評家、新著「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」で「新書大賞2025」を受賞)といった30歳代の若い読者にウケたようで、彼らによるネット上の推し活によって今年2月ごろから急激に売り上げが伸びているとか(アマゾンでも「ベストセラー1位」と表示中)。亭主が本書のことを最初に知ったのは、どうやらA新聞の記事だったようで(調べてみると、4月5日の朝刊「耕論『教養』はどこへ」に取り上げられていたらしい)、その際には「いまさら『教養』を話題にするとは何とアナクロな…」と読み飛ばしたような気もします。では、なぜ本書が今の若い読者にウケたのか?一読した亭主が思うに、その答えの一旦は本書の副題「変わりゆくエリート学生文化」にあるように思われます。つまり、近代的な学制が敷かれた明治期以降、それぞれの時代の若者、特に社会に出る直前の「大学生たち」がどのようにオトナになっていったか(成長物語)への興味です。以下多少のネタバラシをすれば、本書の言うところの教養主義とは、明治から戦前期昭和までの旧制高校(新制大学の教養部にほぼ対応)の学生たち=若い知的エリートの思想や行動の核になっているもので、彼らの読書対象を具体的かつ詳細に分析することで、その起源を浮かび上がらせるとともに、それが戦後どのように変遷していったかを追いかけて見せています。その中でも特になるほどと思わせられたこととして、読書を中心とした教養主義が必然的にリベラリズムやマルクス主義と高い親和性を持つ、という論点があります。本書に曰く、「マルクス主義が知的青年を魅了したのは、明治以来、日本の知識人がドイツの学問を崇拝してきたことが背後にあった。しかしそれだけではない。マルクス主義は、ドイツの哲学とフランスの政治思想、イギリスの経済学を統合した社会科学だといわれた。合理主義と実証主義を止揚した最新科学とみなされた。したがって、マルクス主義は、教養主義にコミットメントした高校生に受容されやすかった。受容されやすかったと言うよりも、マルクス主義は教養主義の上級編とみられさえしたのである。」(pp.50)かくして、大正時代から昭和初期にかけての旧制高校生の多くが左傾化し、これを危ういと考えた当時の政府が彼らをことあるごとに取り締まることが日常化します(最後には治安維持法が制定)。戦後の初期には、日本を軍国主義に戻さないためには左傾化もOKと考えた占領軍の方針もあって、新制大学においても教養主義が復活するとともに、再び学生運動や労働運動が盛んに成ります(このころがちょうど前回のこのブログで取り上げた若い芥川也寸志が活躍してた時期と重なる)。その後、朝鮮戦争やその後の冷戦の激化によって世の中は徐々に右傾化する一方で、大学が大衆化するとともに学歴エリート文化としての教養主義はその輝きを失い、1960年代終わりの大学紛争(いわゆる「70年安保闘争」)によって終焉を迎えたと語られます。ちなみに亭主の学生時代は「70年安保闘争」から10年ほど経っていましたが、依然として 大学キャンパス内で活動家グループ・セクト間の小競り合いが起きる(目の前で怪我人も出た)などその余韻が残っていました。そんなこともあり、大学紛争直後の若者の生態を描いた庄司薫の小説(=薫くん4部作)を読みながら、あの大学紛争とは一体何だったのだろうと、当時滅多に寄り付かなかった大学の総合図書館に入り込んで調べ物をしたことがあります。なかでも象徴的なのが「安田講堂事件」で有名な東大紛争(1968-9)で、その発端となったのは医学部におけるインターン制(医学部を卒業後、医師免許を取る条件として課される研修制度:実態は医学生を無給で奴隷のようにコキ使う制度だった)の改善要求という切実な問題でした。これが(大学側の強硬な対応もあって)徐々に大学全体に拡大し、先鋭化した学生たちによって「全共闘」と呼ばれる運動組織ができます。亭主がその当時読んだとある本によれば、学生の大部分(ノンポリ学生?)は医学部の問題に連帯を示す一方で紛争の拡大を望んではおらず、大学側との交渉による解決という方向で意見がまとまりつつあったまさにその時に「全共闘」がこれを拒否し、全学的な解決の機運が消滅します。この本の著者は、その理由を「彼らが学生運動の『エリート集団』と化し、一般学生の妥協的な態度を侮蔑したからだった」と分析していて、ストンと腑に落ちたことを思い出しました。こうして見ると、大学紛争とはまさに「エリート学生文化」の最後の申し子(鬼子?)だったことが本書によって明確に位置付けられた感じです。
2025.08.31
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先月(7月)のこのブログで、音楽とアマチュアリズムという視点から芥川也寸志と彼の新交響楽団(新響)の活動についてご紹介しました(こちら)。その後も彼の音楽活動について関心を抱いていたところ、7月末に表題の本が中公文庫から出版されたのを連れ合いが見つけてきました。原書はなんと1959年(昭和34年)に音楽之友社から刊行されたとのことで、著者(1925年生まれ)がまだ30歳代半ばという若い頃のもの。時代・世相的には、第二次大戦終結後の混乱がようやく収まるとともに、日本経済が高度成長期をひた走り始めた頃です。その後、本書は著者の没後間もない1991年にちくま文庫にて再刊されますが、今回はそれから数えても34年が経過しており、おそらく生誕100年を記念しての再々刊だと思われます。このような大昔の本は、いわば歴史的資料として扱われるべきもので、これをまともに理解するためには、書き手が属していた当時の社会状況や時代背景(現在とは大きく異なる)という文脈に置いて眺める必要があります。実際、文庫収録にあたり巻末に置かれた片山杜秀氏による解説記事でも、本書を芥川也寸志の思想・信条に関する資料とみなしているようで、それを読み解く上での予備知識を詳細に語っています。それによると、本書の元になったのは関西労音(関西勤労者音楽協会)の機関誌『新音楽』に連載された記事とあります。このことから、想定された読者層がクラシック音楽にはそれほど馴染みがない勤労者で、書かれたのは1950年代後半とあたりがつきます。このころの世の中は、米国を中心とした西側の資本主義・民主主義陣営と旧ソ連を中心にした東側の共産主義・権威主義陣営の対立という冷戦構造の真っ只中。そんな中で、前者の一員である日本の社会、なかでも若者の間では、先の大戦の原因を資本主義(〜帝国主義)の破綻に求め、東側の世界をある種理想化した見方が広りました。その結果、社会主義や共産主義に共感する学生運動や労働運動が盛んになり、企業別の労働組合が多数結成されて活発に活動していました。このような背景を考慮しつつ本書を読むと、若い芥川もこのような時代の子としていわゆる左翼的な思考(リベラリズム、社会主義、共産主義の混淆物としての)を奉じていたことが容易に想像されます。これは、亭主の亡父(芥川と同じ1925年生まれで、民間会社勤めの貧乏サラリーマンだった)が残した蔵書や組合関係の資料からも明らかに見て取れる傾向です。話を戻すと、労音とは貧乏な労働者(当然その多くは若年層が占める)にもお手軽な会費でプロの音楽家の良質な演奏を楽しんでもらおうという趣旨で作られた音楽鑑賞団体です。一方で、それが日本社会党、あるいは日本共産党という政党の支援を受けていたという点では、政治的な労働運動とも密接に絡んでいたと見ることができます。(労音は亭主が大学生だった頃にもそれなりに存在感があり、M. ポリーニなどの有名ピアニストの演奏会を安く聴くことができたので大いに助かった覚えがあります。)では、芥川と労音の関係はどういうものだったか?「楽譜を一切使わずにクラシック音楽の魅力を大衆に伝える」という本書の目的や、言葉の端々に感じられる「音楽とは専門家や高尚な人々が民衆に外から偉そうに与えるものではなく、民衆の生活の中から内在的に迸り出てくるものでなければならず、芥川ら専門家は産婆役としての地位に徹するべきだ(片山)」という彼の理想からは、彼が労音の活動の中に自分の思いを実現する場を見出したものと想像できます。一方、芥川が単にノンポリの(政治から距離を置く)左翼シンパだったかというと、必ずしもそうではなかっただろうというのが杜秀クンの見立てです。というのも、芥川は大のソ連音楽・ソ連びいきで、戦後にはストラヴィンスキーあたりから始まってプロコフィエフ、ショスタコーヴィッチといった作曲家にハマっていき、芸大の師である伊福部昭の影響も受けて「大衆音楽と芸術音楽との親近性を『発見』し」、「しかもソ連の芸術音楽が大衆から好まれていると思い」、「ソ連の音楽を支えるソ連の社会に我々の模範とすべきひとつの夢のかたちの具現があるのではないかと信じていった」(片山)からです。その結果、芥川は1954年10月にはウィーンからハンガリーを経由して、当時国交がなかったソ連に渡り、「ショスタコーヴィッチやハチャトゥリアンやカバレフスキーに迎えられ」、さらに中国を旅した後の翌年2月に香港経由で帰国するという離れ業をやってのけます。若かったとはいえ、この大胆さと行動力は大したもの。労音との密接なつながりができるのもこの後で、機関誌への解説記事の連載のみならず、催事に音楽の新作を提供したり、労音会員で組織されたアマチュアオケの音楽監督を引き受けたりと、労音の活動に深く関わるようになります。片山氏によれば、このころの芥川はソ連側の政治体制の対外的な宣伝のために利用されていた(そのような実利がなければソ連側が彼の来訪を歓迎するはずがない)と推測されます。芥川自身がそのことを理解し、あるいは意識していたかどうかはわかりませんが、彼のソ連愛はその後1980年代までも続いたという指摘には確かに驚くべきものがあります。では、彼の「アマチュアこそが音楽の本道」という信条の価値は、上記のような彼の政治的な立場によって割り引かれるべきものでしょうか?亭主はそうでもなかろうと考えます。芥川は後に「アマチュア音楽団体のありようを巡って、技量や演奏の質を重視する芥川と、質より量を優先するかのような労音側との意見の齟齬が埋めがたくなり」、1966年に指揮していた新交響楽団を連れて労音を脱退します(これが「新響設立の年」)。片山氏はその背景として、当時の労音が強く影響を受けていた日本共産党が、ソ連追随をやめて親中国路線へとシフトしたことに、ソ連を愛する芥川が反発したからだ、との見方を示し、彼の判断に政治的動機も絡んでいたとの見方を示しています。とはいえ、これを少し離れて眺めれば、反米イデオロギー政党として先鋭化した日本共産党の影響から自由になるという判断は、むしろ彼が自身の音楽の理想を追求するために、より政治的に穏健・中立な方向に向かう判断をしただけ、とも解釈できます。(実際、その後の新響は60年近くにわたって運営の自主独立性を維持しているようです。)こうしてみると、やはり芥川は古今稀に見る純真な理想主義者だったのではないか、というのが亭主の勝手な想像です。杜秀クンも解説の最後の方で彼の「生活に根ざしていない音楽は真に必要とされない、だからどうするのかという、大疑問とその解決に向かって彷徨する姿勢は、どこまでも一貫していたと思います」と語っています。解説末尾にある、「まだまだ若い芥川の熱情がたっぷり籠もった『私の音楽談義』を片手に、よくよく考えてみなければなりません。芥川の辿った道のことを。そして芸術文化の未来のことを」という結語、亭主も大いに共感しました。
2025.08.24
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昨夜(8月16日)、NHKーEテレで流れた表題の番組を拝見。副題からも想像できるように、この番組が作られたきっかけは、戦時中に国策の一環として作曲され、戦後に焼却されて失われたと思われていた253曲もの音楽の楽譜がNHKの倉庫からゴッソリと見つかったことでした。これらの作品は、当時の「内閣情報局」の指示の下、戦争遂行に必要な音楽=軍需品として日本放送協会から第一線の作曲家たちに依頼されたもの。楽譜に付けられた表題からも、戦意高揚や戦争遂行のためのプロパガンダといった目的に沿って作られたことが明確に読み取れ、少なくともその一部がラジオの全国放送で流されたことも確実なようです。作り手の中には山田耕筰(1886-1965)や斎藤秀雄(1902-1974)など、我々がよく知るクラシック系の音楽家、あるいは古関裕而(1909-1989)といった大衆音楽の作曲家も含まれています。いわば彼らの黒歴史が、証拠品とともに白日の下に晒されたというわけです。中でもやはり突出するのが山田耕筰で、今回見つかった253曲のうち50曲は彼の手になるものだとか。番組では、山田耕筰の作品も含め、これらの中からいくつかのオーケストラ作品(一部は声楽付き)が沼尻竜典の指揮、東京フィルハーモニー交響楽団(+歌手)の演奏で音になって流れ、当時の聴衆がラジオを通じて耳にしたであろう音楽が再現されました。亭主は一昨年、太平洋戦争時に山田耕筰が自発的かつ積極的に戦争協力を行っていたことを偶然知り(このブログでも紹介)、その際には大きな衝撃を受けましたが、今回はその予備知識もあって「ああやっぱりな…」と思うと同時に、今度はこの「国民的音楽家」の振る舞いが番組でどのような扱いを受けるのかを大いに注目しながら番組を見ていました。ちなみに番組のMCは、日本における西洋クラシック音楽の受容史に詳しい片山杜秀氏。その他の主要な出演者としては、幼少時の戦争体験者(父親は斎藤秀雄の同僚だった)で放送業界のレジェンド(?)である黒柳徹子氏、「幻の楽譜」の中にあった音楽家の一人で台湾出身の江文也(1910-1983)の娘・江庸子氏、そして山田耕筰の関係者として養女の山田浩子氏(晩年の7年間を共にし、山田の没後は彼が作った「日本楽劇協会」の理事長)が登場しました。この中で亭主がもっとも注目したのが山田浩子氏の発言でした。戦時中の山田については「一国民としては戦争に勝ってほしい、一方で西洋音楽を広めようとしていた矢先に戦争になり、苦しい思いがあったのでは」と語り、沖縄戦終了後にその責任者(司令官)であった牛島満の辞世の句に付けられた彼のカンタータ「沖縄絶唱譜」の演奏(世界初演!?)が流れた後には、これを「多分泣きながら書いていたのだろう」という感じで、山田を擁護するコメントがなされました。ところが、終わりの方で「7年間、山田とはこれほど話したことはないほどずっと話していたが、戦時中の話は一切出なかった」とのこと。つまり、従前のコメントはあくまで彼女の想像に基づいたものだということも明かされます。戦後、山田耕作はその戦時中の積極的な戦争協力を音楽評論家の山根銀次から痛烈に批判されますが、それに対して、国家の要望に従った愛国的行動が戦争犯罪になるなら日本国民は全員が同罪だ(なので批判は当たらない)、と居直っています。(ハンナ・アーレントが言うところの典型的な「目的による手段の正当化」の例。)山田浩子氏の証言からは、これ以降山田は戦時中の自分の信条・行動についてはダンマリを決め込んでいたことが伺えます。(これが功を奏してか、晩年には文化勲章などの栄にも浴しています。)これと対照的なのが、やはり253曲の中にその名前が見える大木正夫(1901-1971)という音楽家の身の処し方でしょう。番組では一切触れられませんでしたが、ウィキペディアによると「戦後は、戦中の体制に協力的であった自らの態度を自己批判し、信州の浅間温泉に10年ほど居を移した。同地で自責の念にかられて宗教的救済を求め、『古代彫刻に寄せる6つの前奏曲と終曲』(1948年)を発表した。その後は楽壇からは距離を置きひっそりと活動し、左派の政治的立場から、交響曲第5番『ヒロシマ』、カンタータ『人間をかえせ』、男声合唱曲『わだつみのこえ』、交響曲第6番『ベトナム』など反戦的な作品を残した」とあります。こうして改めて山田耕筰の生き様を眺めていると、初めは西洋クラシック音楽を日本に根付かせ広めようと頑張ったものの、次第に日本独自のクラシック音楽を目指して「民族派」となっていた山田にとって、戦時中の国粋主義的な政治環境は願ってもない活躍の場であり、内面においても何の矛盾や葛藤も抱えていなかったのだろうと得心がゆきます。別の言い方をすれば、山田耕筰の音楽活動とは文学における「日本浪漫派」あるいは「近代の超克」運動にも似て、日本の伝統への回帰といった抽象的・情緒的なものでしかなかったと言えるでしょう。もし彼が今の世に生きていれば、日本保守党や参政党のプロパガンダを喜んで引き受けたかも?(やれやれ…)。
2025.08.17
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一昨日の夜、「名将たちの勝負メシ」とかいうTVシリーズ番組に偶然チャンネルを合わせたところ、「天正遣欧使節」というお題の下、漫画家のヤマザキマリがネプチューンとかいうお笑いトリオを相手に4人の少年使節の大旅行の様子を、特にヨーロッパでの食事に焦点を当てながら解説する番組をやっていて思わず見入ってしまいました。ご存知の方も少なくないと思いますが、天正遣欧少年使節とは、戦国時代末期の1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名である大友宗麟・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団で、当時日本でキリスト教布教活動の中心となっていたイエズス会の宣教師、ヴァリニャーノの提案によるものでした。地元が九州である亭主も、彼らのことはこれまでおりに触れて知る機会がありましたが、先月末にセントジョンズへの海外出張の際に、この少年使節を主人公に据えた表題の歴史フィクション(上下2巻にわたる力作!)を往復の飛行機の中で読む機会があり、少年たちの足掛け8年にも及ぶ冒険を(著者の妄想も含めて)たっぷり追体験する機会がありました。同書の奥付きによれば、著者は執筆にあたって美術史家である若桑みどり氏による綿密な研究書とも言うべき著作「クワトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」(集英社、2003)を参考にするなど、現在までに知られている歴史的事実(使節団の構成員や実際に辿った航路、ヨーロッパに上陸してからの足跡など)を踏まえた上で空想を羽ばたかせています。とはいえ、やはり面白いのがフィクションの部分。その最大ののものは、琳派の元祖として知られながらも謎が多い同時代の天才絵師、俵屋宗達を、少年使節と同じ年頃の主人公としてメンバーに加え、ヴァリニャーノをはじめとした宣教師たちや織田信長、狩野永徳といった歴史上の人物たちと交錯させながら絵画論、あるいはキリスト教信仰について大いに語らせるところでしょうか。少しネタバレすれば、宗達は織田信長に命じられて狩野永徳とともに描き上げた「洛中洛外図屏風」を少年使節に随行して運搬し、これをローマ法王に献上するとともに、ヨーロッパで西洋絵画の技法および活版印刷術を習得して帰国することを信長からミッションとして課せられます。そして、ヨーロッパにたどり着いた彼は、日本で目にしたキリスト教美術の源流である後期ルネサンス巨匠の絵画(ヴァチカン・システィナ礼拝堂にあるミケランジェロの天井画やミラノの修道院にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」など)を目にして衝撃を受けるとともに、後にバロック期絵画の巨匠となる少年時代のカラヴァッジオに出会う、という感じで妄想がテンコ盛りです。調べるとすぐわかるように、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは1571年、ミラノの生まれ。少年使節がヨーロッパを旅していた1584-5年は13-14歳と、確かに使節の少年たちと同じ歳頃です。カラヴァッジオはミラノで修行した後、絵画の需要が旺盛だったローマに移って活動、1600年に「聖マタイの殉教」、「聖マタイの召命」という作品で一躍ローマ画壇に名を馳せます。ミラノ、ローマともに少年使節が通った街なので、彼らそのいずれかですれ違った可能性は全くゼロではないわけです(小説ではミラノで出会うという設定)。ところで、亭主は本書のリサーチ対象となった若桑みどりさんの著作を出版当時に入手し、読み始めた記憶があったのですが、今回見直したところ最初の数十ページを読んだところで挫折たらしいことがわかりました。もしかすると、当時はまだ自分の中で十分に関心が盛り上がっていなかったのかも?若桑さんがご自身の本を書いた動機は実に切実なもので、西洋美術史、しかもカラヴァッジオを専門に研究していた彼女が、大学の定年を機に「日本人の自分が西洋美術史を研究する意味はどこにあるのか?」と自らの仕事に根源的な疑問を持ち始めたところから始まります。そんな折に、天正遣欧少年使節がちょうど自分が専門としていた時代の西洋を訪ねて、ローマ教皇をはじめ現地の人々や芸術に接したことを知り、「日本人とも無関係ではなかった!」ということに自分のこれまでの仕事の存在理由を見出したというわけです。そのような動機があることに加え、歴史学者である若桑さんは少年使節のことを調べるに際し、小説家の原田マハさんとは真逆のアプローチに徹し、1年間ローマ、サンタンジェロ城の前のアパートに部屋を借りてひたすら現地で関連資料を博捜します。(今にして思うと、亭主が本書を途中で投げ出した理由の一端も、そこに盛られた無数のディテールの連続に辟易したのかも。)いずれにせよ、小説を読んだことで再度関心が高まってきたので、若桑さんの本に再挑戦してみようかと思います。
2025.08.10
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亭主の大学時代の恩師であるY先生が今年1月末に亡くなって半年ほど経ちました。Y先生は昨年12月に新型コロナに罹患し入院されたものの、順調に回復して翌月には退院されると聞いていたので、突然の訃報を受け入れるまでにしばらく時間がかかることに。その後、所属する小さな学会の会誌で追悼記事を依頼され、その準備のために色々と調べ物をしているうちに、Y先生がその昔「バイロイト音楽祭の100年」という本を音楽之友社から出版していたことを突き止めました。実は亭主、Y先生がワーグナーに関する著作を出しているらしいという話を学生時代に研究室の関係者から聞き及んでいたのですが、その詳細を知ることもなく今に至っていました。そこで、この機会にとY先生のご子息に連絡を取って尋ねてみたところ、それが英国の作家・翻訳家ジョフリー・スケルトン(Geoffrey Skelton、1916-1998)による「Wagner at Bayreuth: Experiment and Tradition」(1965, 1976)という著作の邦訳だったことが判明。先方からは訳者による「あとがき」部分のコピーも送っていただくとともに、Y先生が邦訳を出すことになった経緯の詳細も知ることができました。それによると、Y先生は1960年代半ばに仕事(原子核物理の実験研究)のために米国バークレーに滞在していた際にワーグナーの楽劇に触れて魅了され(この頃米国でリリースされたショルティ=ウィーンフィルによる世界初の「指輪」全曲録音LPを手に入れて毎晩のように自宅で聴き入っていたとのこと)、一度はバイロイトを訪れてみたいと思うようになっていたそうです。そんな折、大学近くの書店に並んでいた本書を見つけ、愛読するようになったとのこと。その後Y先生はコペンハーゲンに移動して研究を続け、いよいよ帰国という1967年に初めてバイロイトに立ち寄って一連の楽劇を観劇し、その魅力にどっぷりハマったようです。以来、毎年のように夏のバイロイトを訪れるようになったY先生、ワーグナーの魅力を日本の聴衆にも紹介したい、と愛読書であるスケルトンの著作の邦訳を思い立ちます。1973年にはミュンヘンで著者と直接会い、ちょうど原書の改訂版を準備しているとのことで改訂部分の原稿を事前に送ってもらい、原書改訂版の出版とほぼ同じタイミングの1976年に邦訳が出ることになりました。ここまで知ると、亭主もその中身が大いに気になります。そこでネット上で検索をかけたところ、本書がまだ古書として流通していることがわかり、さっそく入手してこの週末にざっと読ませてもらいました。ちなみに、本書の邦題が示すように、1976年と言えばバイロイトでワーグナー自身の手により楽劇が初演されてからちょうど100年という節目の年にあたります。それに加え、この年のバイロイト音楽祭では(やはり100年目を機に招聘された)パトリス・シェローの新演出、ピエール・ブーレーズ指揮、というフランス人コンビによる斬新(革命的?)な演奏に対して賛否両論の渦が巻き起こり、「怒号と歓声が飛び交う」大騒動となった(日本のクラシック音楽メディアでも大々的に取り上げられた)ことが思い出されます。世間のの関心が高まっていたという点で、本書は絶妙なタイミングで世に出たとも言えるでしょう。(実際、翌年には増刷されています。)(実はY先生、1974年ごろからNHK-FMで毎年暮れに放送されるバイロイト音楽祭の録音放送の解説者としても登場。1976年にはテレビで特集番組が作られ、Y先生はこちらでも短時間ながら登場しています。しかも、当時高校生だった亭主はこれらを見聞きした覚えがあります。)さて、大変おこがましいことを承知で恩師の邦訳にコメントすれば、その訳文の明快さと完成度の高さに(お世辞抜きで)大いに感嘆させられます。ウィキペディアの情報から判断する限り、原書の著者スケルトン氏は音楽ジャーナリスト(英国BBCに勤務)であり、本書の内容的も音楽学の専門知識をそれほどまでには要求されない感じですが、ワーグナーの音楽とそれを取り巻く歴史的状況といった音楽史的な面では半端でない量の知識を要求されます。「あとがき」には、本書が「普段の生活に追いまくられて、旅行に出た時の滞在先ぐらいでしか自由な時間が持てない」状況で準備されたとか。同業者でもある亭主から見ると、あの忙しい先生がこのような専門家顔負けの邦訳をいわば片手間でこなした、ということだけでも驚異的です。こうしてY先生の邦訳を眺めると、そこにアマチュアリズムの真髄を見る気がします。芥川也寸志の新交響楽団の活動になぞらえて言えば、アマチュアリズムとは純粋に自らの楽しみのために何かを成すことに加え(前々回のこのブログにかこつけて言えば「不要不急」なコトに対応)、それによって思いを同じくする仲間を鼓舞することでもあります。世にワーグナーファンは数多いると思われますが、バイロイト祝祭劇場の席に座る幸運に恵まれた人も含め、彼らが恭しく舞台上を眺めあるいは音楽に耳を傾けていることは、本人に豊かな音楽体験をもたらすものの、それだけではアマチュアリズムを実践しているとは言えないように思われます。自らの楽しみや喜びを他者と分かち合うために、能動的に何かを成すこと、これこそがアマチュアリズムの精神でしょうか。
2025.08.03
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先週は3年ぶりの海外出張ということで、とある研究集会(国際会議)に参加するために、カナダ東端にあるニューファンドランド島の街、セント・ジョンズに1週間ほど滞在しました。東西に長いカナダにあって、大昔に亭主が住んでいたことがある西端のバンクーバーからセント・ジョンズまでは直線でも5100キロメートル、東京からだと14000キロメートルとその3倍近くあります。東京ーロンドン間が10000キロ弱であることを見れば、北半球の中で日本から最も遠隔の地と言えるでしょう。そんな場所には生涯縁がないだろうと思っていた亭主にとっては思いがけない旅となりました。出発にあたり、服装だけは間違えないようにと現地の気候を予めネットで調べたところどうやらかなり涼しいらしいので、(猛暑の今は見たくもない)長袖のシャツやパーカーを行李に詰めることに。目的地はニューファンドランド・ラブラドール州の州都ということですが、予想通り日本からの直行便はなく、乗り継ぎの便を考えるとキャリアはエアカナダの一択になります。飛行機はほぼ満席の客を乗せて土曜日夕方に成田を出発し、モントリオールまで11時間半の長距離フライト、そこで3時間ほど待ってセント・ジョンズ行きのローカル便で現地入り。空港に降り立つと既に現地時間で日曜日の深夜1時半、タクシーでホテルに到着すると2時をだいぶ回っていましたが、ロビー受付にはちゃんと人がいてなんとか無事チェックイン。日本との時差はマイナス11時間30分と、珍しくも中途半端な時差。昼夜が逆転しているので時差ボケが強烈です。あまり眠れないまましばらくベッドで横になっていました。さて、会議本番は翌月曜日からだったので、日曜日は終日暇な時間です。おまけに窓から外を眺めるとよく晴れていて外出日和。朝食をとるとだいぶ元気も出てきたので、ロビーで付近の観光案内地図をもらい、時差ボケ解消を兼ねて日課のウォーキングに出かけることに。日差しは強いものの気温は20℃台前半ぐらいで、海風もあるので歩くには快適です。セント・ジョンズはニューファンドランド島の東に突き出たアヴァロン半島のさらに東端、北米で最東端に位置します。中心市街は、大西洋岸から一旦西に入った後で南西に折れ曲がって伸びる深い入江の周りに広がっており、岸に並行な幹線道路とそれに直交してかなりの急勾配で丘に向かって伸びる道路で仕切られています。入江の入り口北側にはシグナル・ヒルという小高い丘(標高167メートル)があり、その頂上は大西洋と入江全体、およびその周辺の街並みを一望できる観光名所の一つ。投宿先のホテルは入江の一番奥に面していますが、そこからでも歩ける距離ということで、街の中心部の観光を兼ねてシグナル・ヒルを往復することに。途中気温が上がり、長袖ではやや暑さを感じましたが、強めの風のおかげで大したこともなく歩き通すことができました(〜15000歩)。水曜日の午後には、会議主催のイベントであるクジラ見物ツァーに参加。セント・ジョンズの中心から20キロほど南にある入江まで観光バスで移動し、そこから大型ボートに乗って入江の出口付近の海まで出ます。途中、この辺りで名物となっているパフィン(和名はニシツノメドリというらしい)という小さな海鳥が海面を飛び回るのが目に入ります。沖に出たところでで船が停止、しばらく待っていると遠くの海面で潮を噴くクジラを発見。乗船者から思わず歓声が上がります。クジラは人慣れしているのか、海面スレスレを潜航しながらこちらに寄ってきては時々で体をくねらせたり尾ヒレで海面を軽く叩いたりして巨体の一部を見せてくれるなど、愛嬌を振り撒いている様子。戻りの航路では、切り立った海岸に沿って海鳥が巨大なコロニーを作っている様子を見物。パフィンに似た小さなペンギンのような鳥が見渡す限り壁を埋めて佇んでいるさまは壮観です。木曜日夕方の晩餐会では、まず4時半ごろから参加者が街の中心部にある「イエローベリー」という大きなパブの3階を借り切って皆でクラフトビールをひっかけ、その後「ガワーシアター」という舞台付きレストランに移動してご当地名物の「キッチンパーティー」にゆかりスタイルでのディナーショー(客も舞台に引っ張り出されて色々なことをやらされる)。いずれも英国北部(アイルランド/スコットランド)の雰囲気を漂わせていて、いかにもカナダという感じです。とはいえ、後で調べてみるとニューファンドランド島に最初に足を踏み入れたのは北欧ヴァイキングの人たちで(〜10世紀ごろ、島北端のランス・オ・メドー遺跡は北米における最古のヨーロッパ人の居住の痕跡だとか)、その後500年あまりの空白を経た大航海時代(15世紀末)にイタリア人探検家、ジョン・カボットに再発見されます。島の名前もイタリア語名Terra Nova(=新しい大地)に対応する英語名New-found-landから来ています。周辺の海がタラの好漁場だったことから、16世紀初頭からはヨーロッパ各国が入り乱れて島の争奪戦が繰り広げられたとのこと。その間、最初に定住したのが英国からの入植者だったこともあって最後には英国の植民地となり、20世紀になってカナダに編入、今日に至っています。ウィキによると、セント・ジョンズはカナダの主要都市の中で最も日照時間が少なく(年1,633時間)、最も霧が多く(年124日)、最も風が強く(平均24.3 km/h)、最も雪が多く(年間降雪量・335.0cm)、最も降水量が多い(年1,534.2mm)街だとか。今ではタラ漁も乱獲による資源枯渇で廃れ、島の経済はもっぱら観光リゾート産業(海洋性気候で夏は冷涼、冬の寒さもも比較的穏やか)で支えられているようです。というわけで、連日の猛暑でバテ気味だった亭主も、久々に冷涼な気候に浸かって正気を取り戻すことができました。
2025.07.27
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6月末からしばらく猛暑が続いた後、この1週間ほど雨模様が続いていた関東地方、今日は朝から晴れ上がり、ようやく梅雨明け宣言が出されました。表に出ると、聴覚を麻痺させるようなアブラゼミの合唱が大音響で耳を圧倒。いよいよ本格的な夏の到来です。こうなると、日課と定めている最低5千歩のウォーキングも、暑くて日差しが強い日中にはムリなので、休日昼間にやれることは冷房に浸かって楽器を弄るか読書するぐらい。というわけで、このところ結構読書が進み、ながらく「ツン読」状態だった本の数もだいぶ減ってきました。(もう一つの理由は、亭主が4月以降、基本「週休5日」になり、それなりにヒマになったことでしょうか。)そのような状況で、最近手にしたのが「暇と退屈の倫理学」の著者、國分功一郎氏による表題の本です。新潮選書の一冊として2023年に刊行されたものですが、内容はそれに先立つコロナ禍中の2020年および2022年に著者がオンラインで行った高校生・大学生向けの哲学講和(およびそれに対する質疑応答)を収録したもの。特にその考察の中心となっているのが、コロナ禍当時に行動制限を促すためによく使われた「不要不急」という言葉の意味です。「はじめに」から引用された本書の腰巻(裏)にある惹句を孫引きすれば、「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある」とあります。この文脈をコロナ禍での事態に当てはめれば、行動制限とはまさに「人間の自由を奪うこと」であり、その理由とされた不要不急の行動とは「明確な目的がない行動」というわけです。コロナ禍真っ最中の頃、亭主は行動制限が広く呼び掛けられたことに大きな違和感を持っていなかったことを思い出します。一つには、それがあくまで自発的なものとされ(不要不急な外出の「自粛」)、先日韓国で起きたような法律(戒厳令)に基づく強制ではなかったからかもしれません。一方で、この呼びかけが他人の行動までをも制限しようとする「自粛警察」活動を引き起こしたことも記憶に新しいところ。つまり、行動制限が自己目的化することで、例外を認めない強制へと容易に転換してしまうという恐怖をまのあたりにしたわけでした。いずれにせよ、いくらコロナ禍のような非常事態だからとはいえ、このような「ある目的のために人の行動を制限すること」をやすやすと受け入れてしまう、という我々のメンタリティーがいかに危険なものかという点について、本書は強く注意を喚起し、改めてその正当性をじっくり考えるべきだと促します。この問いかけ、実は思いのほか深淵です。たとえば我々は物心ついて以来、「人生の目的」という言葉に縛られ(?)、あるいは「正義を正当化するのは目的か手段か」といった倫理的な問題(例えば現下のウクライナやパレスチナで起きていることの是非に関わる)に直面し続けています。これについて、亭主がまさに図星をついていると思われる本書中のハンナ・アーレントの著作からの引用を以下に孫引きしておきましょう。目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう(アレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、359〜360ページ)。この一節がアウシュビッツを想起させることはいうまでもありません。が、この後に続く部分で展開される考察は、この文章が引き起こす「目的がすべての手段を正当化するわけではない」という倫理的反発が実のところ無意味であることを示し、読者をさらなる恐怖へと導きます。なぜなら、目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである(同書、360ページ)。言い換えれば、我々ヒトは「目的」を設定した途端、必然的にその奴隷になってしまい、そこから抜け出せなくなるというわけです。しかも、なお悪いことに、目的はその達成が一種の快楽を伴う(=達成感!)を伴うため、ヒトはこの快楽を繰り返し求めるようになる、という心理学的なメカニズムからも目的から自由になれない、というのが亭主の見立てです。いわば「目的中毒」、「目的依存症」の状態、もっと言えば「目的の自己目的化」という無限地獄に陥るわけです。かつてNHKで放映された学生向けの特別授業「ダイアモンド博士の”ヒトの秘密”」(全12回)という番組の中で、休憩時間に学生から「人生の目的に悩んでいる」と相談された進化生物学者のジャレド・ダイアモンド先生、即座に「そんなものはないし、それを探すのは時間の無駄だからやめなさい」とアドバイスされていました。亭主も全く同感ですが、これが虚無主義を意味するものでは全くなく「人生そのものを楽しむべし」というアドバイスであることを若者が理解するのはなかなか容易でないとも思われます。(こういうことがよく見えてくる、という意味では、定年で「目的から解放されて」ヒマになることは人生を豊かにする?)考えてみると、人生を何かの目的に捧げる(=そこに人生の意義を見出す)という考え方は、ユダヤ・キリスト教的な歴史観・自然観と表裏一体のようにも思われます。社会的に厳しい立場に置かれ、現世に不信・不満を強めている人たちがこのような考えに取り憑かれた結果、世界をリセットしたいと願う「終末的世界観」へと導かれることはよくある話です。現在米国で急速に広がっている福音派の「キリスト教シオニズム」もその表れと見ることができるかもしれません。ところで、亭主が購入した本書の腰巻き(表)には「『ただ生きている』本当にそれだけでいいのだろうか—」というもう一つのスローガンがあります。その意味するところはもちろん「不要不急」というものの見方そのもの(「行動制限」の理由としてだけではない)への問いかけになっています。コロナウイルスを恐れるあまり、生き延びることだけが人生の目的になっていないか?「人生そのものを楽しむ」ために必要なものこそが「不要不急」と言われているものではないのか?こちらも深淵な問いかけに思われる亭主でした。
2025.07.20
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もう6年前になりますが、亭主はフランス・クラヴサン音楽を片っ端から聴いているうちに「シャルル・デュパール」という音楽家による「6つのクラヴサン組曲」に行き当たったことをこのブログで紹介しました(こちら)。中古CDとして手に入れたジョゼフ・ペインの演奏による音盤(2003年リリース)の解説記事では、作曲家については生没年もはっきりしないとされ、謎に包まれた音楽家というふうに紹介されていました。一方で、このクラヴサン曲集はセバスティアン・バッハが若い頃に全曲を筆写して持っていたことも知られており、その影響が取り沙汰される重要な音楽家でもありました。ところが、先月の「古楽の楽しみ」で2日間にわたってデュパールが取り上げられ(6月16、17日)、ボブ・ファン・アスペレンによる近年の詳細な研究によって、彼の生涯と作品についての全貌がほぼ明らかになったという話が紹介されてびっくり。(まず、名前からして正確には「シャルル」ではなく「フランソワ」。)さらには、最近発見された2つの「組曲」を含めた組曲全体をアスペレンが新たに録音した音盤が2023年にリリースされていたことを知ることに。番組ではその音源を用いて最新のデュパール像が紹介されるとあって、亭主は耳をダンボにして拝聴。その後すかざずネットで件のCDを落手しました。(ちなみに今HMVオンラインで調べると既に注文不可!なんと足が速いこと…)放送の際にも感じましたが、改めてCDを一聴するや、鈴を振るようなハープシコードの音がなんとも素晴らしくうっとりさせられます。使用楽器はマイケル・ジョンソンが1979年に製作したフレンチ-フレミッシュのコピーで、元の楽器はJohannes Goermans/Pascal Taskin、パリ、1764年(エジンバラ大学所蔵)とのこと。さて、アスペレンの演奏もさることながら、このCDの魅力は彼の詳細な研究成果の要点が10ページ余にわたってまとめられたライナーノートです。この週末に少し時間をかけて全訳を試み、改めてその充実した内容に感嘆。折角の機会なので、その一部を以下にご紹介します。フランソワ・デュパール、その生涯、チェンバロ組曲、特にJ.S.バッハへの影響ボブ・ファン・アスペレンフランソワ・デュパールが18歳頃にパリで作曲した「クラヴェッサン(Clavessin)の6つの組曲」(作品I)は、17世紀最後の純フランス風舞曲集であると同時に、レジャンス期([訳者注]ルイ14世より後の時代)に先立つ中期バロック様式の最高峰でもある。彼の師であったフランソワ・クープランは、来るべきロココを早くから歓迎していたが、デュパールは意図的にそれを拒絶し、むしろ最後の一匹狼として「情緒的」なフランス・バロック様式の完成を目指したようである。ポリフォニーに対する天賦の才能を持ち、著名な先達のマニエールに触発されたこの若く想像力豊かな作曲家は、遊び心のある模倣やフガートを織り交ぜた印象的なリリシズムで私たちを驚かせる。デュパールの音楽は次の世紀に決定的な国際的影響を及ぼした。原初の細胞という独創的な原理を用いた、革新的でダイナミックな「ギャラントリーのある鍵盤組曲」という彼の黄金公式(と私たちは呼びたい)だけでなく、大規模で演劇的な「独自の鍵盤序曲」は、これらの様式の範例となった。後者の「小さな鍵盤シンフォニー」は、古典派やロマン派のピアノ・ソナタにまで影響を与えた。 デュパールの大作が1701年にアムステルダムで出版されると、ワイマールのヨハン・セバスティアン・バッハは、その旋律の独創性と緻密な動機付けに感銘を受け、批判的な修正を加えながらも、全曲を書き写した。バッハが終生この作品からインスピレーションを得ていたことは、デュパールからの数多くの借用が証明している。 私たちは、バッハの改訂を考慮に入れながら、部分的にしか残っていない楽譜(下記参照)を再構成し、同時代のチェンバロ奏者が即興的にこの作品をどのように演奏したかについておぼろげに示すことを試みる。…フランソワ・デュパールとは何者か - 新しい伝記過去に広まった誤った情報については、『デュパールの正しくない伝記』p.14を参照。フランソワ・デュパールが1676年8月1日にパリで生まれ、1751年1月26日にイル・ド・フランスのメラン・フォンテーヌブロー近郊のサン=ジェルマン=シュル=レコールで亡くなったことは、最近になってようやく知られるようになった。 このフランス人作曲家は、マエストロ・アル・チェンバロ(音楽監督)としてオペラ座に雇われただけでなく、チェンバロ、オルガン、歌唱を教え、伴奏者、レペティトゥール、声楽コーチ、さらには音楽家のエージェントとしても活躍した。(ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾという怪しげでユニークな言及については同時代の確証がない。)…フランソワ・デュパールの鍵盤作品とその作風 - リニューアルされた形式デュパールの《クラヴェッサンの6つの組曲》は、ヴァイオリンとフルート、バス・ヴィオールとアーチリュートのための協奏曲であり、デュパールの最も初期の作品であると同時に、最も重要な作品でもある。この楽譜を見ると、若き作曲家がリュリやルベーグといった宮廷の父の同僚たちから影響を受けていたことがわかる。その中でも特にフランソワ・クープランは、当時未発表であった彼の作品と数々の類似点を示していることから、デュパールが(そのサークルの他の音楽家からではないにせよ)教えを受けたと思われる。この6つの組曲に続く2つの組曲は、最近になってようやく明らかになったもので、私たちによって「VII」および「VIII」と名付けられた。一方はロンドンにあるフランスの写本で、後述する6つの組曲のあまり知られていない初期版(以下で議論する)、もう一方はウィーンのいわゆる「フローベルガー写本」にあるかなり変更された版である。これらのすでに今風で簡潔な組曲には署名がないが、デュパールが作者であることは間違いない。なぜなら、これらはデュパールの他の本物の作品に「挟まれて」おり、旋律や様式に顕著な類似性が見られるからである。ルール([訳者注]舞曲の一種)で始まり、リュリやルベーグの習慣に従って、生き生きとしたガヴォットやブーレーで締めくくられているのは驚くに当たらない。…デュパールの6つのクラヴェッサン組曲の起源と楽器編成 - 新しい見解デュパールの「6つの組曲」の原譜は、2つの五線譜、すなわち上声譜と数字付きバス譜に書かれていたと結論づけることができる。楽譜の全楽器音域がC-c" [C2 - C6]までと著しく限定されていることから、この作品は、おそらく商業的な理由から、原理的には2つの異なる楽器編成で演奏することが可能であったと思われる。バスはヴィオラ・ダ・ガンバでよく使われるコントラオクターヴの音符をすべて排し、上声はヴァイオリンには制約が多く、フルートやリコーダー(ソプラノ・リコーダーは当時のフランスでは通奏低音伴奏の独奏楽器として使われていなかった)には広すぎる。さらに、2種類の移調用リコーダー(当時のフランスでは知られていたにせよ、極めて稀なもの)を推奨する「方便」がエディションに記されているが、これにはいくつかの問題がある。第二の演奏可能性は、タイトルと序文が示唆するように、チェンバロである。...影響デュパールの作品は、フランスでは早くから写本として回覧され、ペジブルや、マルシャン、若きラモー、クレランボー、ダンドリュー、ル・ルー、ジャケ・ド・ラ・ゲール、シレ(特にルイ14世の直近の立役者アンドレ・デトゥーシュ)など、彼の後に出版されたクラヴシニストたちとともに、同時代の作曲家たちによってすでに認められていた。 デトゥーシュは、1699年に早くもデュパールの上記の「新」手稿組曲「VIII」を「借用」し、それと認めることなく、5部構成の弦楽オーケストラのために、確かに素晴らしくみずみずしい作りに編曲した。デトゥーシュはこの作品を、フォンテーヌブロー、パリ、ブリュッセルで上演されたオペラ『ギリシャのアマディス、音楽による悲劇』に全曲収録した。この宮廷作曲家は、少なくとも1714年まで、後輩のクラヴェッサンの音楽を流用し続けた。 さらに、ヨハン・セバスティアン・バッハ自身が1710年頃、ワイマールでデュパールの作品に大きな感銘を受けたことは明らかである。ロジェのチェンバロ版は、バッハが入手できる唯一のものであったらしいが、実際にはすでに3回編曲されていた。…作品劇的な序曲は、デュパールの父親が宮廷オーボエ奏者として働いていたリュリ派のジャンルで、若いフランソワは当初から明らかにこの曲に魅了され、彼の主要な革新的形式のひとつとなった。2つの部分(実際には3つの部分)からなるこの楽章は、豊かなハーモニーに満ちた付点リズムの、狂詩曲的で荘重かつ高貴な序奏で始まる。続く賑やかな序曲-フガートでは、組曲「VII」の「現代的な」バタリヤのようなものも含め、ディユパルトは上記のようなフーガの技法の精選を聴かせてくれる。さらに、例えば組曲Ⅴのリズムは、時にジーグではないかと思わせるほど生き生きとしている(ジーグⅥ参照)。このポリフォニックなセクションは、第2組曲と「VII」を除いて、穏やかな終結部のレントマンへと発展する(ちなみに、初期のフランス序曲のほぼ半数には見られない要素である)。この長く引き延ばされた、しばしば瞑想的なコーダは、デュパールが半音階的に下降する低音の上に部分的に構築したものである。組曲I、IVの序曲がそうであり、特に組曲VIヘ短調は、悲劇の前奏曲と想像されるかもしれないが、最近、デュパールの2つのロンドン・オペラ序曲が発見され、確認された(文献参照)。この序曲の冒頭のフレーズ全体は、2つのヴィオラ・パートを含む4部編成で、J.S.バッハがカンタータ第61番冒頭の抑制された合唱に6部構成のロンドーとしてパラフレーズしたものであり、続くバッハの合唱フーガもデュパールのフガートに基づくものである。…以上、見出しがある項目とその冒頭の文章を「さわり」として引用してみました。この解説によって、デュパールがバッハに与えた影響がいかに深く大きなものであったかが実によくわかりました。なお、この記事を読み返しながら、亭主に馴染みのあるドメニコ・スカルラッティのソナタの中にも、デュパールの「独自の鍵盤序曲」に似た感じの作品があることに思い当たりました。「6つの組曲」が1701年に出版されていたことを考えれば、ドメニコがこれをナポリかローマで目にした可能性は十分にあるとの妄想が沸々と湧いてきた亭主。裏が取れないものか調べてみようと思います。
2025.07.13
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今年は作曲家・芥川也寸志(1925-1989)の生誕100年の記念の年、ということで、このところ彼の名前やそれにまつわるイベントを見聞きします。(つい昨日も「クラシックの迷宮」というNHK-FM番組で特集番組が流れました。)亭主が日本のクラシック系作曲家の名前としてすぐに思い出すのも、彼や黛敏郎(1929-1997)、團伊玖磨(1924-2001)といった人たちで(この3人は「三人の会」というのを1953年結成)、テレビを始め大衆メディアでもよく見かけたものでした。特に芥川也寸志は、黒柳徹子とともに出演したNHKの番組『音楽の広場』(1977年から1984年)の司会としてお馴染みで、そのダンディでカッコいい話しぶりや立ち居振る舞いが記憶に残っています。(ちなみに、今にして思うと武満徹(1930-1996)もほぼ同世代ですが、彼はそのようなメディア露出を嫌っていたようで、亭主の学生時代には彼の作品が演奏会で取り上げられるわずかな機会、あるいは彼自身の著作を通してその名前を知ることに。)とはいうものの、これまでほぼ名前だけの存在だった芥川也寸志の存在が急に気になり始めたのが、先週のA新聞夕刊に出ていた「芥川也寸志の本懐 映像音楽で」というコラム記事。その記事の冒頭に以下のような記述があるのを見て思わず目を見張りました。 生誕100年を迎えた作曲家、芥川也寸志が結成したアマチュアオーケストラ、新交響楽団が21日、芥川の楽曲を中心に20世紀の映像音楽に焦点を当てる公演を東京都で開く。 「音楽はみんなのもの」「アマチュアこそが音楽の本道」。こうした理念は師の伊福部昭ゆずり。クラシックは特権的なものではなく、誰にでも開かれたものと語り、芸術と大衆文化を連ねるべくメディアにも積極的に出演。とりわけ1956年に創設した新響を、自らの信念の権化として丹精込めて育てた。(以下略:オンライン版はこちら)「アマチュアこそが音楽の本道」という言葉、「音楽(芸術)と商業主義の相剋」という問題への答えとして亭主が思い描くものを単刀直入に喝破した箴言であり、強力なマニフェストのように響きます。新交響楽団のホームページを早速チェックすると、そこには楽団創設にあたっての芥川本人の言葉を読むことができます(「新響について」メニュー下、「私にとってのアマチュア」という題目の記事)。芥川の文章を亭主なりにざっくり要約すれば、クラシック音楽はプロオケ(「ある特別の才能をもった、ある特別の訓練を経た、ある特別の人間」によるオケ)がその他大勢の聴衆に(お代をを取って)サービスするものではなく、それぞれの分に応じて等しく共有されるべきもので(「音楽はみんなのもの」)、そのような音楽の前ではプロ・アマの区別はなく、むしろアマチュアこそは音楽を純粋に愛し楽しむことができるのだ(「“みんな”を代表するものこそ、アマチュア」)、ということになります。さらに、文中の至るところで、プロオケがアマオケに対して示す優越感の誇示や身振りに対する強い嫌悪が語られており、クラシック音楽界の宿痾とも言うべき権威主義への公然たる批判ともなっています。ちなみに、この文章の出所は第113回演奏会(1986年)のパンフレットとあり、書かれたのは彼が亡くなる3年前という意味ではその晩年に当たりますが、創設時と変わらない彼の揺るぎない信念の発露がなんとも初々しく、青年のような気迫に満ち溢れていています。(振り返って、たいして歳の差もないのに訳知り顔にこんな駄文を書いている自分が恥ずかしくなりますが…)こうなってくると、新交響楽団がどのように運営されているのか大いに興味が持たれるところ。この点については「団員募集」の項を眺めると大体想像がつきます。それによると、入団金=5000円、団費の月額=1500円、演奏会参加費=36,000円/回で、年4回の演奏会全てに参加すると団費も含めて年間16万円ぐらいの出費になります。が、年4回という演奏会の数はアマオケとしては驚異的で、これら全てに付き合うのは団員の一部なのかも(?)。いずれにしても、趣味に使うお金としては実にリーズナブルです。さて、芥川のアマチュアリズムへの賛美と擁護の念、彼が生きた時代(ちょうど「昭和」と重なる)のクラシック音楽界にはゴマメの歯軋り程度にも届かなかったと想像されます。が、それから既に40年近くの時を経て、「分衆化した聴衆」を前に権威主義がかつての神通力を失い、権威主義に守られていたクラッシック音楽の商業主義も持続可能でなくなりつつあるように見えます(特にプロオケを食べさせ続けるのは難しいでしょう)。その点、先日このブログでも紹介した渋谷ゆう子さんの「プロとアマの協業」の重要性への指摘は真面目に受け取られるべき(?)いずれにせよ、亭主は前述の新聞記事をきっかけに新交響楽団というアマオケの存在を知り、それがプロ中のプロだった芥川也寸志によって創設され、「音楽はみんなのもの」という理想主義を掲げてこんにちまで歩み続けている(来年は70周年!)という歴史に大いに感銘を受けるとともに、クラシック音楽の未来にも一筋の光明を見た気がしました。
2025.07.06
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いつの間にやら6月も終わりに近づいていますが、亭主が住むつくば界隈はこの数日来もう梅雨明けしたかのうような晴れて暑い日が続いています。西日本ではすでに梅雨が明けたらしい、というニュースも流れ、今年の夏はこれまでになく長く暑い日が続くのかも…。(まぁ、暑いのも悪いことばかりではなく、クラフトビールマニアの亭主としては「ビールがうまい!」季節が長く楽しめるとばかり、最近売り出し中の「有頂天エイリアンズ」という新製品を買いだめ・飲みまくっているところです。)閑話休題。今年は「昭和100年」に加えて「戦後80年」という節目の年である上に、数年前からのロシアのウクライナ侵攻、最近のイスラエルとパレスチナ・イランとの軍事衝突など、世界の至る所で戦争が巻き起こっていることも背景にあり、このところマスメディアでも「戦争と〇〇」といった話題を頻繁に目にするようになりました。なかでもびっくりしたのが、つい2週間ほど前、亭主がA新聞の朝刊のページをめくっていて地方版(茨城)のページに見つけた「ドイツ音楽史と戦争 考える」という見出しの記事(ネット版はこちら)。サブタイトルに「筑西出身の研究者 来月6日、地元で講座」とあり、どうやら公開講座の予告編を兼ねた紹介記事でした。(ちなみに正式なお題は「戦後80年に考える『戦争と音楽』〜二つの世界大戦と今〜」だそう。)講師は石井萌加さん(29)というお若い方で、つくば市に隣接する筑西市の出身、しかもウチのすぐ近所にある県立の中高一貫校の卒業生とあり、なんだか親近感が湧きます。現在は東京大学の博士課程に在学中で、「ドイツ文化史」や「音楽学」が専門だとか。研究テーマは「20世紀前半のドイツ語圏でブラームスやその作品がどのように評価されたのか」ということで、両大戦・戦間期という「戦争の時代」における音楽の黒歴史に焦点を当てようというもののようです。記事の中からご本人の言葉を拾うと、「作曲家や作品の評価は、時代の要求や政権の意向で人々が気づかないまま都合よく変えられていく」、「人種主義的で排外的なナショナリズムと結びついたと考えられるブラームス像も、そうしたなかで提示されていったのではないか」、「いつでも音楽は希望をもたらすというのは一面にすぎない。いまを生きるわたしたちが音楽を聴く意味を問いかけたい」とのことで、やはり音楽とナチズムとの関係が焦点になりそう。(講座の問い合わせ先をリンクしておきます→こちら)ところで、亭主はこの記事を読みながら、19世紀に勃興したいわゆる絶対音楽(=器楽)の雄としてのブラームスや彼の音楽が、世紀末にかけてワーグナーに代表される標題音楽やその題材であるゲルマン民族神話の台頭によって片隅へと追いやられた、という音楽史の図式を思い出していました。これと「人種主義的で排外的なナショナリズムと結びついたブラームス像」とは一見相矛盾する感じもします。そこで、この点を探るべくもう少しネットで調べ物をしたところ、東大リポジトリに置かれた「『北方的』ブラームス像とドイツのナショナリズム」と題された石井さんの論考に行き当たりました(こちら)。これを読むと、ちょうど両大戦間期の1933年、ブラームス生誕100年を機に新聞等で発表されたブラームスについての論評でブラームスが「ドイツ的音楽家」として評価されていること、またそのキーワードとして「北方的」という形容詞が頻出し、これが北方ゲルマン神話とブラームスの音楽との親和性を表すキャッチフレーズとして使われているらしいことが指摘されています。1933年といえば、まさにヒトラーが政権奪取を果たした年。かつては音楽美学上、その普遍性(言語・文化を超えて共感を呼ぶ音楽)ゆえに「非ドイツ的」とみなされていた絶対音楽が、独裁国家においてはいとも簡単に「国民的な音楽」と持ち上げられる様は、まさに政治的プロパガンダの典型例だといえます。最後に、この記事のおかげで、こういう地味でマニアックな分野の研究者を目指している平成生まれの若者がいる、という事実に驚くとともに、いささかの感慨を覚えた亭主でした。
2025.06.29
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先週火曜日、ロンドンを中心に活躍していたピアニスト、アルフレッド・ブレンデルの訃報が流れました。ブレンデルは1931年1月生まれとのこと、和暦に直すと昭和6年なので、奇遇にも一昨年に他界した我が母(同年2月生まれ)と同じ歳だったことを知りました。だいぶ前に引退宣言をして話題になり(2008年に最後の演奏会を開いたらしい)、以来彼の消息を耳にすることもほとんどなかったので、久しぶりに彼の名前を聞いて遠い昔の我が音楽遍歴を思い出すことに。折りしも亭主はちょうど先週末、長年押し入れの肥やしになっている(引越し荷物が手付かずのまま保管されていた)古い段ボール箱の中身をチェックしていたところ、学生時代に聴きに行った演奏会のプログラム冊子が結構な数保管されているのに遭遇。その中に、ブレンデルが1978年の秋(10月)に来日した際のリサイタルのプログラムを見つけて青春時代を懐かしんでいたところでした。1978年秋といえば亭主はまだ大学初年で、東京で下宿生活を始めてようやく大都会の暮らしにも慣れ、ヒマに任せてコンサートに足繁く通い始めた頃ですが、ブレンデルはおそらく亭主が初めてコンサートに足を運んだ外来の演奏家の一人でした。とはいえ、すでに3回目の来日だったにも関わらず、当時はまだアルゲリッチやポリーニといった一回り若いピアニストに比べても地味な存在で、売り出し文句は「考えるピアニスト」。プログラム冊子も地味な作りで、3つあるプログラムの曲目もすべてシューベルトのピアノ曲、というかなりマニアックなものでした。3つのプログラムのうちで、亭主がどれを聴いたのか記憶は判然としませんが、プログラム冊子の書き込みなどから判断すると、どうやらCプロだった模様。曲目は前半が「楽興の時」(D. 780)と「さすらい人幻想曲」(D. 760)、休憩を挟んで後半は「即興曲」(D. 935)、というものでした。(他の2つのプログラムはいずれもピアノ・ソナタがメインで、当時それらに馴染みがなかった亭主が選んだのがCプロだったということかも。)この時の印象もあり、亭主はしばらくの間ブレンデルのことを「シューベルト弾き」のピアニストだと思い込んでいましたが、1978年はちょうどシューベルトの没後150年という記念の年で、プログラムもどうやら記念イベントのひとつということで組まれたようです。とはいえ、当時シューベルトの鍵盤作品をベートーヴェンやブラームスのそれと同じように真面目に(?)取り組む演奏家は稀で、他の演奏家との差別化という点で聴衆の注目をうまく惹きつけることが出来たのではないかと想像されます。その後、亭主はもっぱら音盤(フィリップスから続々とリリース)を通して彼の演奏に接することになります。なかでも彼とネヴィル・マリナー&アカデミー室内管弦楽団によるモーツァルトのピアノ協奏曲は素晴らしく、その魅力にドっぷりハマることに。もちろんシューベルトも、さらにはバッハの音盤も大いに楽しませてもらいました。(彼が弾くバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」を聴いて感動し、真似しようと猛練習したことも今となってはよい思い出です。)それにしても、ブレンデルはベートーヴェンのソナタを3回も録音しなおしたとのことで、まさに音盤文化全盛の20世紀後半を象徴するような演奏家だったと言えるでしょう。改めてご冥福をお祈りします(合掌)。
2025.06.22
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芥川賞といえば日本では「純文学」作品に贈られる著名な文学賞の一つですが、その第172回(昨年度下半期)受賞作の一つに選ばれたのが鈴木結生(ゆうい)さんの「ゲーテはすべてを言った」という作品。書き手がまだ弱冠23歳で西南学院大学(福岡)の大学院生という若さもあって、今年1月の受賞決定以来あちこちのメディアで取り上げられています(例えばこちら)。それらによると、小説の内容は「高名なゲーテ学者である主人公が一家団欒の夕食で彼の知らないゲーテの名言(ティーバッグのタグに書かれていた)と出会い、その出どころを探して膨大な原典を読み漁りながら長年の研究生活の記憶を辿っていく」という知的探究談だとか。同作品で披露される作者の博覧強記ぶりも話題になっており、なかなか興味をそそられます。が、それにも増して亭主の目を引いたことは、彼が自分と同じ高校の出身、という点でした。日常生活では出身高校などという経歴は話題にもなりませんが、実際にその校名を目にすると同窓生(同郷者)の一人として多少とも郷愁を誘われます。これは夏の高校野球大会などで郷党意識(地域共同体の帰属意識)をくすぐられるのと同じような心理が働くからでしょう。ところで、同じ高校出身の著名な芥川賞作家として亭主がすぐに思い浮かべるのが宇能鴻一郎(1934-2024)です。彼は第46回(1961年下半期)に「鯨神(くじらがみ)」という作品で同賞を受賞し、純文学の作家として出発した(?)ものの、亭主が学生時代だった1970-80年代には「官能小説」の作家として名を成しており、当時のウブでマジメな亭主からみるとその「転向」ぶりが理解不能、恥ずかしくて話題にしたくもない「トンデモナイ同窓の先輩」でした。その後、彼の名前を聞くことは久しくありませんでしたが、昨年その訃報が伝えられたことから少しネットで調べてみたところ、数年前から彼の初期作品についての再評価の動きがあるようで、雑誌(文藝春秋や婦人公論など)や新聞、テレビのインタビューにも登場するようになっていました。インタビューで本人が語った内容から想像するに、彼は芥川賞というイベントを通じで当時の「文壇」という世界に自分と相容れない何かを感じ、そこに背を向けたのではないかと思われます。亭主の記憶によると、文学評論家の斎藤美奈子さんがどこかで、芥川賞・直木賞といった文学賞は「文芸春秋社という一出版社の下に集まる文壇仲間が、同業者に相応しいと思われる新人をリクルートするための採用人事のようなもの」と語っていました。選考委員は全員がいわゆる純文学の作家で(しかも任期が終身と異様に長い)、賞の勧進元(事務局、賞金などの出元)は文芸春秋社、受賞作はもちろん同社から出版されてその儲けになります。亭主のような一般人は、芥川賞と聞いて純文学(=「芸術」)を志す新人・無名作家を支援するための、中立な立場で組織された賞を想像しがちですが(選考委員会も形の上ではそのように装っている)、よく見るとちゃっかり商業主義に乗っかるような仕組みになっている、というわけです。ここからは亭主の想像ですが、宇能鴻一郎は文春の担当編集者から受賞後の執筆活動について「売れる」ことを条件にいろいろと要求されたのではないか。純文学を商売の道具にすることに何の疑問も持たないように見える出版社を前にして、まだ「芸術」としての文学の価値を信じていた(?)若い宇能が感じた反発や幻滅は小さくなかったと思われます。(実際、「鯨神」以降の彼の作品は文春以外から刊行されており、同社とは縁を切ったようです。)どうせ売文渡世で生きるのであれば、売れても大したことのない純文学作品を(担当編集者から「売れない」と文句を言われながら)書くぐらいなら、いっそのこと100%大衆路線でエロ小説でも書いて「文壇」を見返してやろう、と思ったとしても不思議ではない気がします。その後の彼の「商業的成功」は誰の目にも明らかで、芥川賞の選考委員たちをさぞガッカリさせたことだろうと想像させられます。面白いことに、今では全ての回の選考委員の名前や彼らの選評をネット上で見ることができ、宇能の回の選考委員の一人だった石川達三(第1回芥川賞の受賞者)が「鯨神」について以下のように書いています。「物語性も豊富で、一種の香気もあり、才気ゆたかな作家であるとは思いながらも、容易に私たちが当選を承知できなかったのは、この作品の裏に作者の悲しみも憤りも慨きも、そういうどっしり(原文傍点)とした動かすべからざるものが、何もないような不満を感じていたからではないだろうか。」「私のこのおせっかい(原文傍点)めいた忠告が宇能君によって理解されないようならば、マス・コミの攻勢に会って、彼はたちまち売文業者に転落して行くだろう。」最後の予言が的中している、という点では大変な慧眼ですが、同時に「純文学」側の「自分達は売文屋ではない」というエリート意識もヒシヒシと伝わってきます。その後の宇能の生き様を見れば、これを読んだ彼がカチンと来ただろうことは容易に想像できます。さて、そんな宇能が最近再評価されて、初期の中編作品のアンソロジーが2022年に新調文庫の「新刊」として刊行されていたことを知り、早速落手して受賞作の「鯨神」を見参。小説の舞台は明治時代初期の長崎・平戸島。村全体が鯨漁で生計を立てている和田村で、近隣の海に周期的に現れては船を破壊し、多くの漁師たちを海に引き摺り込んで溺死させる巨大なセミクジラ(「鯨神」と呼ばれる)に祖父・父・兄を殺されたシャキが、長じて漁師となったところで再来した「鯨神」に命懸けで復讐を果たすというもの。こういったあらすじだけを眺めると、19世紀米国の作家メルヴィルの有名な小説「白鯨」を思い起こさせるところがあり、実際にその影響を指摘する向きもあるようです。が、「白鯨」が非常に難解で読みにくい長編(亭主も一度ならず挫折)であることに比べれば、ストーリー展開も明確で一気に読み通せる佳作だと思います。また、文中の会話は(亭主にもある程度馴染みがある)長崎弁で、個人の生き方をがんじがらめに縛り上げる村社会の人間関係や習俗(潜伏キリシタンに関わる部分もあり)が生々しく描かれるなど、緻密な構成が光ります。(最近たまたま訪ねる機会があった島原温泉の周りで見聞きしたことが思い起こされました。)それだけに、宇能がその後「あたし、〇〇なんです」というあの独特の語調による女性の一人称モノローグで量産することになる軽いノリの官能小説との落差は一瞬目が眩むほどです。とはいえ、誰かが指摘しているように、これらの作品では女性が主人公で、女性の視点から語られる点が、男性中心の古色蒼然とした「文壇」に対する作者の隠れた反骨心(反エリート主義)を見ることができるのかも?
2025.06.15
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数日前、クラシック音楽の興行主の一人で「新ゴロウ日記」という人気ブログの筆者でもある山根悟郎さんが、某局のラジオ番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」(6月6日)に出演した、というので、この週末に聴き逃し配信(6月13日まで)を使って拝聴。といっても、ゴロウさんが出てくるのは後半で、前半は最相葉月さんの「絶対音感」というノンフィクション本(1998年)を最近になって読んだとおぼしきゲンチャンことMCの高橋源一郎氏が大いに驚きかつ感動し、そのあらましを紹介するという内容でした。亭主は迂闊にしていまだにこの話題本(小学館ノンフィクション大賞受賞のベストセラーらしい)を読んでいませんが、「絶対音感」については以前に「数字と科学から読む音楽」という本(西原稔・安生健著、ヤマハ、2020)の中で読み(このブログでも紹介)、MCと同じような感想を抱いたことを思い出しながら聞いていました。(非常に大雑把に言えば、「絶対音感」とは幼年時代に音高を言葉の一種として学習した後天的な能力で、音楽家にとっては色々不便なことが多く、無くもがなの能力。なのに、それが少数派である上に「絶対」などどいう接頭辞が「天才」といった19世紀的な概念を想起させ、礼賛や崇敬の対象になりがち。とはいえ、ゲンチャンは言葉の端々から依然として絶対音感を礼賛しているらしい…)ところで、番組ではゴロウさんが登場したところで彼が2冊の著作「歴代作曲家ギャラ比べ」、「名曲誕生の裏事情」をものしていることが紹介され、後者の「あとがき」の内容を軸に、現代の興行としてのクラシック音楽が抱える問題についての対談が行われました。ゴロウ氏に言わせると、世の中のクラシック音楽離れが進んだ原因は「20世紀になってクラシック音楽が難しくなったから」。「エリートの破壊」といった言葉も出てきたところを見ると、「難しくなった」クラシック音楽とは19世紀的な「芸術」にこだわり、エリート化して聴衆に背を向けた十二音音楽以降の「現代音楽」を指すようです。このような状況をなんとか打開したいとの思いから、ゴロウ氏のブログではできるだけ難しい言葉を使わず、軽いノリでクラシック音楽関係のネタを取り上げるように心がけているとのこと。これを今風に言えばクラシック音楽を広めるためのアウトリーチ活動の一環、ということでしょうか。(前述の2つの著作も同様)そのような彼の言葉の端々からは、とにかくクラシック音楽はいいもので、いいものはいつか必ず分かってもらえる(ちょっと敷居が高いだけ)という信念(希望?)が伺えます。とはいえ、亭主から見ると、このような信念は演奏家(と興行主)からの聴衆への片想いにも似て、現代の聴衆の実態(この数十年にわたりオタク化、分衆化が進行)を冷静に見ていないようにも思われます。(なので、クラシック音楽の衰退を「ひねくれた現代音楽」だけのせいにするのはやや酷なところもあります。)それよりも、演奏家は興行で自立して食べるべき(売れてなんぼの芸人の世界と同じ)、という商業主義こそが多くの演奏家を追い詰め、一方で「芸術」としての音楽を足元から掘り崩しつつあることについて、興行主自身がどのくらい自覚的なのかは知りたいところ。将棋界の藤井聡太のようなスターを待ち望むような発言もありましたが、囲碁・将棋やスポーツと違い、音楽(というより芸術一般)は優勝劣敗を決めるわかりやすい基準がない世界(番組でも言及されたように、例えばコンクールというものがあるが、所詮そこでの優劣は審査員の主観的な判断の寄せ集めであり、誰が勝つかは偶然に近い)。誰もが熱狂するようなポップスターが商業主義の申し子であることを考えると、クラシック音楽といえども自立する(=儲かる)ためには商業主義を完徹するしかないのでは…というのがラジオ番組を聴きながらの亭主の呟きでした。
2025.06.08
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最近スペインのピアニスト、ハヴィエル・ペリアネス(1978-)による演奏の様子を収めたNHK-BSのプレミアム・シアターという番組を録画で見る機会がありました。プログラムはドメニコ・スカルラッティのソナタとアルベニスの「イベリア」、「スペイン組曲」からの作品を組み合わせたもので、2人の作品が交互に演奏されました。曲目はドメニコのソナタがK.185 、K.141、K.491、K.447、K.448、K.193、アルベニスは「イベリア」 第1巻から 「エボカシオン」「港」、同第3巻から「坂の多い町」、同第2巻から 「トリアーナ」、そして「スペイン組曲」から 「セビリア」です。ペリアネスの演奏もさることながら、今回特に印象に残ったのが収録場所であるセビリア(セビージャ)のレアル・アルカサル内部の映像です。(レアルとは王宮の意)いうまでもなく、セビリアはスペイン南部、アンダルシアの中心都市。隣接するコルドバや最南端のマラガ、グラナダとともに、スペインで最後まで栄えたイスラム文化を今に伝える街です。スペイン王室が各地に持つ宮殿の一つであるアルカサルは、イスラム政権時代の14世紀に造営が始まり、15-16世紀にかけて増築された結果、いわゆるムデハル様式(レコンキスタ後にスペインに残ったイスラム教徒=ムデハルが作ったイスラムーキリスト教の混交様式)で建てられています。イスラム建築では、壁面などが流麗な幾何学模様で埋め尽くされるなど極めて装飾的なことで知られていますが、番組で映し出されたアルカサルの内部もまさにそのような感じ。そこにスタインウェイを持ち込んで、スペインゆかりの音楽家たちの作品を響かせる、というのですから何ともゴージャスで洒落た企画です。(元になったと思われるEuroArtsChannelの短い番組予告編がYouTubeに落ちており、その雰囲気を垣間見ることができます。)番組途中でのペリアネスのコメントにもあるように、ドメニコはポルトガル王室で教え子だった王女マリア・バルバラとスペインの皇太子フェルナンドとの結婚(1729年)に伴い、父ジョアン5世からの命に従ってマリア・バルバラの嫁ぎ先であるスペインに赴きますが、セビリアこそはその最初の滞在先でした。当時のドメニコの動向について、カークパトリックは以下のような想像を書き連ねています。 ほぼ確実に言えることだが、ドメニコ・スカルラッティはマリア・バルバラとほとんど同じ頃に、あるいは少なくともそのすぐ直後にスペインに到着した。1729 年2月3日、「夕刻、宮廷はセビリアに到着し、国王陛下および妃殿下の御一行は、古代ムーア人の王達の宮殿であるアルカサル(Alcazar)の庭園に向かわれた……」。次の4年間、スペイン宮廷はセビリアのアルカサルをその第一の居所と定めることになった。スカルラッティをも含む多くの従者達は、おそらくその近隣の様々な家屋に住まうことになったようである。 彼の後年の音楽から見て、ドメニコ・スカルラッティがアルカサルのムーア人風のアーケードの下をそぞろ歩き、あるいは夜のセビリアの街路で陶酔的なカスタネットのリズムや半ば東洋的なアンダルシアの歌唱に耳を傾けていたことは想像に難くない。それらを前にして、シチリアの祖先のサラセン的なもの、またナポリの子供時代の記憶が呼び覚まされたに違いない。父親、パスクィーニ、それにコレッリによるラテン文化への順応の日々は過ぎ去った。彼はもはやマリア・カジミラやアルカディアの古典主義者のために上品なオペラを書く作曲家ではなかった。あるいはサン・ピエトロ大聖堂におけるパレストリーナの追随者でもなかった。今やスペインの流行音楽に耳を傾け、「車力、ラバ追い、そして一般民衆が歌う音楽の節回しを真似する」につれ、彼の本当の運命が展開し始めていた。それ以後、スカルラッティはスペインの音楽家の道を歩むことになったのである。(R. カークパトリック、「ドメニコ・スカルラッティ」pp.99)アルカサルの残響も手伝ってか、ペリアネスが奏でるスカルラッティのピアノの音色は実に魅力的でしたが、亭主としては同じことを是非ともハープシコードでやってほしいところ。(演奏家としてはピエール・アンタイあたりが適任でしょうか…)ちなみに、ペリアネスはこれまでマニュエル・ブラスコ・デ・ネブラ、モンポウ、グラナドスといったスペインにゆかりの音楽家達の作品を収めたCDを出していますが、ネット上でググッた限りでは今回取り上げられたスカルラッティやアルベニスの録音はまだのよう。とはいえ、このような充実した録音録画がなされていることから、何かあるだろうとさらにしつこく調べていたところ、どうやら来る8月にHarmonia Mundiからスカルラッティのソナタ集がリリースされる予定であることを掴みました(こちら)。こうなってくると彼の演奏によるブラスコ・デ・ネブラの方も気になりますので、近々そちらも聴いてみようと思い始めたところです。(なお、その後2009年の来日公演の様子を聴いていたことを思い出しました [こちら]。)
2025.06.01
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