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今日のお昼に多治見のル・トア・ド・パリで会食をしました。持ち込んだワインは、ワイン仲間の持込分を含めて、エグリ・ウーリエのミレジメ'96、コシュ・ドュリのムルソー'01、ランシュ・バージュ'85、デュジャックのボンヌ・マール'96です。ワイン好きにはたまらんラインナップです。ワインの素晴らしさもさることながら、今回はつくづく小田川さんの底知れぬ実力と素晴らしいセンスを思い知った気がするので、ほぼ1年ぶりにブログにアップします。Rokkuにとって小田川さんの料理の素晴らしい世界は、窓外のいかにも日本的な景色が幻に感じられるほどの、フランスそのものに居るような気がする「非日常性」にあります。言わんとするところは、ル・トア・ド・パリで食事された方ならわかっていただけると思うけど、とりわけ上質のワインを持ち込むと、その非日常ぶりが、もう、さらにとんでもない世界にトリップしてしまうんです。今日はそのことが身にしみて感じられたように思うんで、そのことを言わないではいられない!前にも書いたことがあるけど、料理ってコミュニケーションです。ちょっと話がこ難しくなってしまって恐縮ですが、おつきあいください。Rokkuは、料理人とお客とのコミュニケーションという意味だけで言っているのではありません。それに合わせる付属物との間の料理人とのコミュニケーションがあって、一つの世界が構築されていく、そういう意味での料理人の気配りとでも言えばいいのでしょうか。普段味わうことができない、トータルな世界としてのレストランの素晴らしさ、ということです。たとえば、調度品にまでこだわることの大事さが、普通なら「雰囲気の盛り上げ」という程度の意味で理解されているけれど、もう少し奥深く料理の世界と関わっているのではないか。そういう意味です。ル・トア・ド・パリにはそれが明らかにあるのは前からわかっていましたが、ワインと料理のマリアージュも、そういう意味での世界構築に深く関わっているのですね。だから、仮にお酒にあまり強くなくても、全部飲みきる必要はないから、ちょっとだけでもいいから、味わってもらいたい。フレンチの料理人には、そういう心が間違いなく潜んでいるのだろうと思います。96年のシャンパーニュは言うまでもなく、古酒の世界です。プチプチとフレッシュさが口の中で飛び跳ねている感じがする、普段のみのスパークリングとはまったく違った世界です。コルクのようなナッツ感も見事に溶け込んでしまって、既にテクスチャー(ワインの生地というか、味わいとなっているという意味のことを織物の世界に譬えて、ワイン仲間がよく使う言葉です)になりきっている世界なんですね。いつもRokkuは、持ち込んだワインを必ず小田川さんに少しだけ味わっていただくのですが、そのことの効果は思いがけない形で現れてきます。だって、小田川さんはそのワインを味わって、早速コミュニケーションの構築に取り組む素晴らしい感覚の持ち主だからです。今日は早速このシャンパーニュにポークとピスタチオのパテをバゲットに乗せて、即興で出してくださいました。口の中にまだそのバゲットがあるうちにワインを少しいただく。別世界とはこのことなんです。まるでワインが料理の一部であるかのように、二つがしっかりと一つの世界を築き上げていく。素晴らしい食と飲の絡み合った感覚がそこに生まれる。至福の時間です。それがさらに二回も味わえた。こういうのが凄い! コシュ・デュリ・ムルソーの素晴らしいバランスを絶賛していらした小田川さんですが、それに合わせて魚料理を考えるだけでなく、そのワインを少しだけ使ってソースを二種類味わわせようとしてくれるんです。即興的に。その心遣いがたまらなく嬉しい。コミュニケーションって、そういう意味でもあります。さらに凄いのが赤ワイン。どちらも言語に尽くしがたい素晴らしさでしたが、ボンヌ・マールは柔らかさが身上の繊細なワインです。ボルドーとはかなり違います。勿論、何せランシュ・バージュですから凡百のボルドーとは違って、浮遊感を伴った、ブーケ主体の複雑な葡萄の絡みが味わえる素晴らしい世界ではありますが、ボンヌ・マールと比較するならば、さすがに実質感を十分に備えているボルドーらしさは疑いようもないのです。普通なら、ランシュ・バージュを後にするでしょう。ところが小田川さんは、反対なんですね。なぜか? ボンヌ・マールがグラン・クリュ(特級)だからです。味わいがいかに繊細に感じられようとも、グラン・クリュは芯がしっかりしています。そのことが料理と共に味わうと大変はっきりしてくる。それを彼は経験的に知っている。それが凄い! それだけではありません。彼は、ワインの味を確かめてからソースまで変える。というか、ソースがマリアージュの命であることを骨の髄までわかっている。やっぱりフランス10年の経験は何ものにも変えがたい! そのことをつくづく感じたのです。もしワインを持ち込む気がおありなら、清水の舞台から飛び降りたつもりで、ぜひ上質なワインを持ち込んでくださいな。とんでもない世界が味わえますよ。どれを買えばいいか分からない? 名古屋の方なら大曽根のふじみ家がお勧めです。安いワインも品揃えがしっかりしてますが、高級ワインでは全国的に定評のあるお店です。松坂屋のワインも悪くありませんが、安くはありません。JR高島屋のルロワのワインは絶対お勧めですが、ブルゴーニュでも5千円します。でも、上質かどうかの一つの判断基準が5千円ですから、ここのブルゴーニュを買っておけばまず間違いない。ルロワと小田川さんの料理は相性抜群ですよ。一番いいのは、ふじみ家かなあ。安い(千円かそれ以下)ワインを家で飲むために買って、一本だけル・トア・ド・パリ用に買う。そうして、ぜひ小田川さんの提供する「非日常」を味わっていただきたい。心からそう思ったRokkuなのでした。あ、言い忘れたけど、電話予約の際、持ってくワインも伝えておいたほうがいいですよ。小田川さんの心が燃えます。
Feb 22, 2009
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Rokku は異様に忙しくなってしまい、おかげでブログに書き込めなくなってしまいました。 それでも、日記に書き込みができなくなってからしばらくは、学会がらみの準備でどうしてもまとめなければならないものができた、という、研究者にはありがちな、手馴れた忙しさでした。 それが、ここ1週間ぐらいで身辺の様子が変わってきました。学会発表の仕事もまだ済んでいないうえに、教務がらみのいわゆる雑役が Rokku に回ってきたんです。すべき事柄に関する引継ぎだけで、A4にびっしり8種類ぐらいあります。もちろん、会議で聞いたことのある事柄ばかりなんですが、それを取り仕切る側になると、準備はいつごろ、どのようにするのか、どのように差配すればいいのかなど、知らないことばかりなんですね。大学って、言葉は悪いけど、馬耳東風でもそう問題になりません。授業をして、研究さえしていれば、生きていける。大学教育の現場を少し離れたところにある、アドミニストレーションと呼ばれる業務の内実について、何も知らない、いわゆる「世間知らず」で生きていけます。でも、当たり前だけど、取り仕切る役になれば、そうはいきませんものね。それが Rokku にまわってきた、ということですよ。昨日、4月1日はその仕事の始まりです。いやあ、大変でした! 一日済んだだけなのに、仕事が追っかけてくる、というか、一つ片付けたら、次が待っている、ものも言わずに……。これから二年。先が思いやられるけど、生活は一変するだろうなあ。それだけは間違いない!というわけで、なかなか書き込めませんが、この前の日曜日の水泳大会のことだけは言わないわけにはいかない。やりましたよ! 目標のフリーの50メートルで40秒切りました。39秒22でした。他の人に比べたら全然大したことないけどね。それでも、24秒か25秒(!)で泳ぐ30代の知り合いのスイマーの人に、「練習してないと50メートルはベストを出せませんよ。日頃の練習の成果です」と褒めてくれ、祝福の握手をしてくれました。ホント嬉しかったです。25メートルのフリーは、残念ながら、16秒台は出ず、17秒03でした。大きく速くかいて、速く足で打つ、はずだったんですが、飛び込んだら、もう何がなにやら……。必死にもがいて終わってしまいました。練習のようには泳げませんねえ……。こっちのほうが先のレースだったので、よけいかもしれません。後の50メートルはある程度気をつけて泳げましたから、ちょっと残念。でもベストです、これでも。今から考えてみると、アップが不十分だったなあ……。ダッシュやってないから。水泳の大会って、アップが難しいです。25メートルのバタフライは、Rokku にとって最後の種目でした。泳いだのは、25メートルのフリー、100メートル・メドレーリレーのバタフライ、50メートルのフリー、そしてもう一度、25メートルのバタフライです。1回目のバタフライは20秒台の前半が出ましたが、さすがに最後はちょっとバテてました。一生懸命腕を回すのですけどねえ。なんか重かったです。20秒58でした。公式の記録としてはこれしかありませんので、もちろんベストになります。というか、レファランスですね。緒点に立ったということですか。でも、生活も様変わりだし、これまでのように練習三昧とはいかないだろうな。今夏や来年の記録更新は無理かも。
Apr 2, 2008
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もう先週のことですが、HEROES最終回でしたね。面白かったですねえ。最後まで。目を見張っているうちに終わりましたねえ。怒涛のドラマでした。 あの「目を見張る」感覚は、たまらなくいい! よく練り上げられてましたね。ダレないように。緊迫した場面というよりも、ただのナラティブの推移(物語展開)に属する内容を描写するときでも、わざわざ場面を頻繁に変えて、別の人の話をたくさん折り込んで、スピーディな場面展開にとりわけ気を遣ったドラマ作りでした。 「目を見張る」場面展開といえば、古くは『サイコ』から始まるとRokkuは思いますが、そういえば、『サイコ』のことをジェットコースターに乗って見ているみたいな映画と形容した人がおりましたなあ。そういう意味で言えば、HEROESはもっと速い。軽いめまいに近いかもしれない。 日本語の使い方が、これまた秀逸でした。安藤君なんか、韓国人だそうですが、日本語うまいですねえ。Rokkuは彼とヒロの日本語が聞きたくて、わざわざ字幕版も録ってもらって、その怪しげな日本語と字幕の確認、その日本語の英語直訳の感じの危なげな雰囲気(全然日本語のロジックではなく、英語のロジックがそのまま日本語になっているという、不思議な、聞いたことのないような日本語の世界)を結構楽しみにしてました。あれって、英語的でいいですね。確かに日本語ってクールかもしれない。ああいうふうに喋ってもらうと。 あの日本語混在の世界って、カリフォルニアの現実なんでしょうね。Rokkuは東海岸しか知りませんが、そんなふうに思いました。それがニューヨークまで演じてしまう。そのロカリティの混在がまたしても、カリフォルニアなんでしょうね。ハリウッドってすごいね、最近。ただし、テレビの話だけど。映画じゃないよ。 もっとビックリしたことがあります。第二部があるんですって? 最終回で終わるとばっかり思っていたもんだから、ヒロが江戸時代らしき日本にテレポートしたのを見て、まだ見られると喜んでいいのやら、悲しむべきなのやら、複雑な気分になりました。 ケイトは、さすがにテレビ視聴の女王ですな、血の引きずったような跡がマンホールまで続いているのを目ざとく見つけて、あ、サイラーは生きている、これは続編ありだな、と気づいたそうです。自慢げに、得意げにほざいておりました。 Rokkuなんか、血の跡とマンホールには気づいたものの、ネイサンとピーターの麗しい兄弟愛に感動していて、そんなもん、思考のどっか片隅に追いやってしまいましたよ。情けない。 でも、第二部って、大体悲惨なんですよね。『デスパレートな妻たち』、通称『デスパ』はご存知ですか? 第一部は素晴らしかった! 映像がスリリングとは思いませんでしたが、物語展開の謎めいた感覚はなかなかのもので、毎週楽しみにしていましたが、第二部になったとたん、ただの荒唐無稽に成り果てました。 ことほどさように、第二部って難しいんです。うまくいったのは『ゴッドファーザー・パート2』ぐらいなもんですよ。でも、HEROESの第二部を見ないわけにはいかない。悲しむのは嫌だけど。 それに、やっぱりRokkuは見たいです。あの中西部のレストランのウェイトレスの女の子、あの子が生き返らないわけはないと思うし。だって、あの子、別に超能力があるわけでもないのに、サイラーに殺されてしまったんですよ。そんな理不尽って、許せないでしょう。Rokkuは、愛したあの女の子を助けに、最終回にヒロが過去に戻らないわけがないと、実は思ってました。かならず最後は、ヒロはあの子を救いにいくと。 そうかあ。そのためにはサイラーが生きている必要があるのかもしれない。あの子が殺される前にサイラーを殺さなければならないのだから。そういうことなのだろうか、本当に?それなら、第二部にもかすかな希望がわいてきたような気がする……。
Mar 17, 2008
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今日はちょっと運動ができました。その日記を書きます。 午後から、ケイトがテニスの練習をしようと言いますので、二人で室内コートを借 りて練習しました。まずショートラリーを15分、それからサービス・ラインからのロ ング・ボレーを15分、ストレートのボレー/ストロークを15分、クロスのボレ/ストを 15分で、1時間の予定がもう終了です。 ケイトは今、ストロークの安定性を高めたいと思っています。実は、彼女は自分で 思ってるほど安定感がないわけではないんですが、ネットにかける確率が高い気がす るので、それがなんとも悔しいのでしょうね。確かに、他の安定性に比べれば、そう 言えなくはないんですが、それでも、ちょっと前と思ってもずいぶんよくなってきた と思うんですがね。 Rokkuはボレーが苦手です。だから、利害が一致して、Rokkuのボレー/ケイトのスト ローク練習が30分にもなるという次第ですがね。 ケイトはだんだんよくなる法華の太鼓の人です。うらやましい。Rokkuは、反対で す。苦手なボレーも、最初のうちは「ラケットを立てる!」と心に誓ったことが、そ れなりに実践できるのですが、だんだんいい加減になってしまう。終わりのほうは、 立てるという意志すらはっきり意識できず、なんとなくボレーしてしまうんです。情 けない! その後は水泳です。もうじき大会があるので、15日が過ぎたら調整練習をするよう にコーチから言われています。メニューの水泳量を減らして、速くこまめに手と足を 動かす練習を中心にするのだそうです。 今日初めてやってみましたが、いやあ、大変ですねえ。うまくできない。 メニューは、まずアップ100メートル、メドレー25メートルずつのスイムで100メー トル(速くできない)、バタフライのキックを気をつけ姿勢で50メートル、板付きで 50メートルを各2本の計200メートル。フリーでイージー50メートル。ここから速くこ まめを心がけて、右手3回・左手3回・両手3回のバタフライ・ドリルを25メートル4回 で100メートル。これが意外にきつい! 速くすると、両手がうまく回らない! 腕 がだるい。 あ、その前に、今日はスカーリングを50メートルと、片手クロールを25メートルず つで50メートル、練習やりました。これやらないと、Rokkuは水がうまくつかめない 気がするんです。だから、今日からまたこれを入れることにしました。計100メート ルね。 さて、いよいよ、行きバタフライ・帰りフリーの50メートルを3本で、150メートル です。速く手足をまわそうと思うと、すごく疲れますねえ。普通なら3本ぐらいで、 ここまでしんどい!とは思わないのですが、とにかく腕がだるい。終わりのほうなん か、ヘロヘロですよ。コーチが、距離は短くていいと言うはずです。 後は、100メートルのダウンだったのですが、それだけではなんとなく物足らない ので、一度手足はゆっくりだけど、力を入れて25メートルのバタフライ、今度は速く 25メートルと、余分にやってみました。やっぱり、速く動かすことの負担は相当なも のです。おそらく、これに慣れる必要があるんだ。 というわけで、合計950メートル。あんまり減ってませんねえ。
Mar 16, 2008
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今日はRokkuの勤める大学の卒業式。彼ら彼女らにとってもRokkuにとっても記念すべき「いい日」でした。節目としての感慨と共に、再会を約しました(食事会に来られなかった二人とは4月に改めて食事会をすることになりました)しね。楽しいひとときでしたので、「今日の出来事」的にはそのことをこそ書くべきですが、卒業記念食事会で卒業生のことは書きましたからねえ、話がダブっちゃう。そこで、思うところあって、今日はアメリカ民主党大統領候補予備選のことを書きたいと思います。ちょっと固いけど……。ご存知と思いますが、大変な盛り上がりかたです。無理もないかあ。アメリカ初の女性大統領か黒人大統領ですからね、盛り上がらないわけがない。特に、オバマ候補のキャンペーンがすごい。よく草の根選挙という言い方がされますが、投票率が大体群を抜いて高いのでしょ、今年の場合。過去40年間で最高ですって! しかも、民主党の大躍進だそうで、なんと支持率は50%にもなるそうではないですか。ということは、もちろん比喩的な言い方でしかありませんが、リベラルなアメリカ人は(つまり、民主党支持者は、というつもり)、本気で今度こそ変革の旗印の下にすっくと立った「いかにも21世紀的なリーダー」を望んでいる、その実現を本当に選挙で模索している、ということになります。ちょっと前までは、オバマ/ヒラリーのどちらがなってもいいという民主党支持の有権者が多かったそうですね。そりゃ、そうです。大体、アイデンティティ(ここでは出自ぐらいの意味で使っています)などとわざわざ言い出すまでもなく、この二人の予備選挙戦とは、国内的にはアメリカの戦後史の総括とでも呼ぶべき重みがある、そう言っていいぐらいの象徴性を持っているのですから。言うまでもなく、Rokkuは黒人問題(公民権運動)とフェミニズムのことを言っています。そして、この二つは切っても切り離せないほど密接に絡み合った、同時的な政治・社会現象でもあったのです。カバーする領域・範囲は、もちろん、微妙に違いますし、明確な共闘を組んだ、ということでもありません。しかし、政治的・社会的に自己主張の機会を奪われている、いわゆる社会的弱者の異議申し立てという意味では、この二つの運動が相関関係にあると考えるのはむしろ自然です。ですから、手を携えることの重要性を訴える運動家ももちろんあったのですが、外では公民権を叫びながらも、家に帰ればセクシスト(性差別に鈍感な人)なんてことは、アメリカ黒人の男性にあって、そう珍しい存在ではなかったはずです。これ一事をもってしても、論理的必然としての共闘の可能性がありながら、別々の道を歩まざるを得なかった悲哀というものを、この二つの同時的政治・社会現象は持っていたという言い方はできるでしょう。なんとも悲しい歴史ではありませんか。だからこそ、リベラルなアメリカ人たちは今度こそ変革を、という強い意志を持ってこの予備選に臨んでいるはずです。その意気込みを、よそ事ながらRokkuは、感じないではいられない。話はそれにとどまりません。実を言うと、19世紀後半にイギリスで起きた第一次フェミニズムも、労働運動と微妙な形でリンクしていました。第一次フェミニズムとは、平たく言えば婦人参政権運動のことです。19世紀前半の労働者の政治的権利を求める運動であったチャーティスト運動には、女性の参加者もかなりいたようです。しかし、それは自分の夫の権利を主張し、それを獲得することで夫がよりよい家庭環境を整えることができるようになるための運動参加であって、自らの参政権を得るとか、自らの社会的な労働環境を整えるというような、後のフェミニズムに通じるような運動ではなかったようです。しかし、面白いことに、そこにおける彼女らの運動ぶりは、穏健派で知られたチャーティスト運動にあって特異なほど過激だったようで、それは後のパンクハーストらの過激な婦人参政権運動家を髣髴とさせるものがあります。で、この穏健派の運動は、実は簡単に失敗に終わったのだそうです(1848年)。なぜか? 我慢して待てば、いずれ権利は得られると踏んでいたからです。事実、第一次選挙法改正(Reform Act)が1832年にはおこなわれていて、10ポンド相当の家財産を所有するあらゆる男性に選挙権が与えられるようには既になっていました。これって、5人の男性のうちほぼ1人に権利ということです。そりゃ確かに、待てば海路の日和ありですわ。もうひといきで労働者階級のかなりのところまで権利がやってくるんですもん。というわけで、果たせるかな、鴨はねぎ背負ってやってきました。1867年の第二次選挙法改正で労働者階級の多くが選挙権を得、1884年の第三次改正で農業労働従事者にまでその権利が到達したのです。たまらんのは、女性のチャーティスト運動参加者です。そりゃ、確かに、初期の目的は達成されたと言えるかもしれませんが、さっきも言ったように、すでに結構過激な運動家となっているのですよ。そういう社会的向上の欲望を植えつけられた人が、夫の権利の次に何を要求すると思いますか? 言うまでもないですよね。自分の権利です。そして、1860年代には実際に職業選択の自由を要求するようになるのです。ここ、めちゃくちゃ重要です。だって、女性が選挙権(以前か)に関してその気になったときには、男性はもう既にそれを手に入れつつある、ということを、この話は示しているからです。だから、当然のこと、労働運動家は女性の権利主張に対して冷淡でした。だから、女性の権利の主張に対して、それなりの利益(選挙権)が果実として与えられたのは、それからほぼ60年後の1918年、第一次世界大戦後のことです。パンクハーストら、婦人参政権運動家の行動が過激になったのは20世紀に入ってからのことですが、それもむべなるかな。世間(要するに男たちです)が応えようとしないからなのですね。長くなったので、そろそろやめます。で、Rokkuの結論です。一言で言えば、それは、できる(強い)女は嫌われる、です。要するに。Oという有名な女性の先生がいます。今はウィスコンシンにいらっしゃるんですねえ。その人が先般ヒラリーを批判して、彼女が最近用いているアイデンティティ・ポリティックス(出自を基盤に自らの政治的主張をする態度)に基づいた政治手法は古い、今はジェンダー(という知的に構築された社会的性差)に基づく議論をしないとフェミニストだってそっぽ向くよ、実際にそういう目にあってるじゃない、フェミニストの批判が目に付くわよ、という趣旨のことを言ってらっしゃいました。でも、Rokkuは、まったく反対のことを思います。ちょっと前まで、ヒラリー、初の女性大統領か?って言われていたのを覚えていらっしゃいますでしょうか。正直、オバマの人気はちょっと前までここまでではなかった。いったい何があったの? そうヒラリーが思っても仕方ないほどの大逆転です、最近の傾向は。こうなってしまった今、彼女に出自以外の何を訴えろと言うのですか? 世の中の半分は女性なんですよ! その女性に訴えないで、いったいヒラリーに何をしろと言うのですか? Rokkuはそう思います。ヒラリーって、冷徹な女とか、知性が勝ちすぎとか、相手を容赦なく論駁してしまうとか、ま、簡単に言えば怜悧な女ですよね。そう言われています。ホントのところは知らないけど。で、ね。Rokkuは思い出すのですよ、ラカン(そういう名前の精神分析医がいたんです)の言葉を。「異性愛者とは、男女を問わず、女を愛するもののことである」。この場合の「女」って怜悧な女では絶対ないとRokkuは思います。ミソジニー(女嫌い)なんじゃないですか、ヒラリーが嫌だってのは。
Mar 15, 2008
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昨日は魚料理までご紹介しました。今日は肉料理です。「ランド産鴨胸肉のロティ カシスソース(Magret de canard landais rôti sauce cassis)」。なんと鴨ですよ。学生には勿体ないカモ……。飲んだワインは、1999年のニュイサンジョルジュ1級レ・ダモード、ドメーヌ・レシュノー(Nuits-St.-Georges 1er Les Damodes 1999, Domaine Lécheneaut Phillipe et Vincent)です。カシスソースなのは、このブルゴーニュに合わせてくださったんだと思います。すごかった! 99年は素晴らしい年ですが、まだまだ飲んではいけないと聞いてました。那須さんからのお言葉ですから、いくら、かなりな本数を持っているからといって、そううかつに開けるわけには参りません。でも、今飲んでみたらどんなものかな?って、わかるでしょ。悪魔の声がささやく。しかも、もう飲んでもいい年のものはグラン・クリュしかない。それを学生に飲ませたりしたら、いくらなんでもワインに悪い(?)。ま、単なるケチ、吝嗇というだけのことですが……。で、さっきの悪魔の声ですよ。ちょいと見たら大した値段ではない。それなら一本ためしに飲んでみるかと取り上げたのがこれ、レシュノーのニュイ・サン・ジョルジュ、ラ・ダモードというわけです。Rokkuは2001年に買ったようですね。3,980円ですよ。安いなあ! ワインって、本当に高くなりましたね。味は素晴らしい! 正直、Rokkuはもうだいぶ出来上がってました。すきっ腹のうえに、男子学生が来るまでしばらく芋をちょっとつまんだだけで、大変コクのあるシャンパーニュを結構飲んでしまいましたから。でも、口に含んだだけで、最近飲んだどんなワインよりも濃厚で、大きな、味わいが口いっぱいに広がって口腔を圧倒してしまいます。大変な存在感です。99年はあらためてすごい!出来のいい年のワインは、どうしても骨格が大きすぎて、肉厚で、甘すぎることもしばしばです。フィネスを味わいたければ出来のよくないか、普通の年の方が向いているほどです。99年は、どちらかというと、その大きすぎ、膨らみすぎという印象が、市場に出回り始めた頃にRokkuが感じたものでした。多分2001年ごろのことでしょう。やはり、年月は経るものですね。ひょっとして、少し収斂しているところなのかもしれませんが、それにしても、近年にない素晴らしい年であることは本気で実感できました。酔っ払ってたのが残念なくらい!楽天内で探してみました。やはり高くなってますし、何より、99年なんてありませんねえ。いい年だから、どこかで押さえてあるんですね、きっと。高くなると思いますよ。もし余裕があったら、そしてどこかで偶然にも見つけたら、ぜひお買い求めになることをお勧めします。残念ながら、時間がないので、他のサイトを調べる余裕がありませんが、ひょっとしてあるかもしれませんから、検索してみてください。一応、楽天内で一番安い部類のものを探してみました。1,500円ぐらい高くなってるだけですが、有名なドメーヌのレシュノーで探すと、倍ぐらいにはしっかりなってます。当たり前だけど、有名ドメーヌものが高いですが、いい年はどこの葡萄も出来がいいので、いい年ほどドメーヌの差異は小さいと考えていいです。そういう意味では、このドメーヌのレ・ダモードは05年の底値と考えたほうがいいのかもしれません。ニュイ・サン・ジョルジュ・レ・ダモード[2005]年・ドメーヌ・ジャン・ピエール・ボニー元詰 Domaine Jean-Pierre Bony Nuits dt Georges Les Demodes [2005]うきうきワインの玉手箱さん税込5,649円) 送料別残りあと 4 本です料理のほうは、最後のデザートです。「トリノ風マロンケーキ、ガトーショコラ・クラシック、フランボワーズ・ソルベ、苺&ヨーグルト・アイス(Turin, gateau chocolat classic, sorbet framboise, glace yaourt aux fraises)」そしてカフェ(Café)ですね。学生たちも大満足で帰りました。小田川さん、本当にお世話になりました。行けなかった学生が、写真をみて、ぜひもう一度やってほしいと頼むので、いつになるかわかりませんが、また卒業記念食事会になるかもしれません。3月はとても無理だと思いますが……。やることになったら、またお知らせしますね。
Mar 14, 2008
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昨日は、学生の説明だけで終わっちゃってすみませんでした。あんまり個性的なやつらなんで……。実は昨日、卒業アルバムのゼミで自由に作るページ作り作業をしたって言いましたっけ? 言わなかったように思いますが、その作業にも全員が集まらない! もお、本当に当てにならない連中です! でもね、くどいようですが、面白いんです。イラストがものすごくうまい! ゼミ生4人しかいないのに、そのうち二人がうまい。もう一人の女の子も面白い絵を描くというから三人かあ。前代未聞だ。芸術家タイプは普通じゃありませんからねえ、個性的なはずだわ。そのイラスト、忘れないように写真に撮れて、彼女らの掲載了承がとれたら、お見せしますね。 もう、いい加減にしなけりゃいけません。メニューです。でも、またまたハプニング。ゲストは二人しかいないのに、一人は遅刻ですよ、まったくう。本当に、心から当てにならない! と言いたいところですが、無理もないんです。彼は三重県の人、それも松阪です。近鉄で言ったら中川でしょう? これは遠いわ。多治見まで来るのは大変だ。しかも、多治見までどうやって来たらいいかも多分知らない。 若いころのことを思い出しました。大学院生になりたての頃。バイトがなくて困っていたら、岐阜市の英語塾で働いていたゼミの友達が「バイトしない?」と誘ってくれたので、行くことにしましたが、どこにあるのかがわからない。大体、Rokkuはその頃一度も岐阜市に行ったことがなかったのです。教えてもらったとおりに、電車に乗り岐阜の駅に着き、言われたバスに乗り、言われたバス停でおり、指示通りの方角に歩いていったのですが、もうあたりは真っ暗になっていて、心細かった! 地の果てのような気がしたことを思い出します。彼も心配だっただろうな。 そういうわけで、すぐに料理は始められないですから、彼が着くまでしばらく(30分以上)待ちました。その間に小田川さんが出してくれたのが、「ほど芋」です。まずはご覧ください。これは、学名をアピオスと言って、なんと懐かしい。Rokkuが、あれは多分ダンが生まれる前だと思うけど、ラジオでたまたま聞いたのが、これを作っている先生のお話でした。東北の先生でした。東北大学だったかなあ? 大学名は覚えていませんが、実に情熱的に「ほど芋」、つまりアピオスの話をなさったので、今でも覚えているんです。 そのお話の何が面白いって、ほど芋というぐらいですから、日本にもあるのですよ。ほら保土ヶ谷って地名があるでしょ? あの「ほど」です。細かいことは記憶が曖昧なので間違っているかもしれませんが、そのときの話では、そういう「ほど」という地名は日本のあちこちにあるんですって。日本名は、そういうところで採れる芋って意味なんだ、ということをその先生はおっしゃったように思います。 そいでアピオスです。これは学名なんですが、それはなんとアメリカ先住民族の食べ物の名前なんですって! 産後の栄養食として食べられたと、その先生は紹介していらっしゃいました。しかも、その先生、それと「ほど芋」をくっつけて、そこからなんと、環太平洋文化圏(もちろん、アグリカルチャーとしての文化ね)の食物なんだ、アピオスは!って話をなさったんです。Rokkuは感動しましたねえ。その頃Rokkuは「国際」ということに関心があったものですから、なんという土着の国際性!と、ラジオを聴きながらの車中で一人興奮していたのをありありと思い出します。 そのアピオスが今目の前にある! 何と言うことだ! 小田川さんはこれをデザートに使いたいのだとか。うまくいくといいですね、小田川さん。あんまり芳しくないとおっしゃってましたが。 このとき開けたシャンパーニュは、この前3月1日に持ち込んだミシェル・アルノー(Michel Arnould)です。やはりうまい! 芋にもよく合う。大体芋の味って、ジャガイモを筆頭に、ワインによく合います。以前にも言ったと思うけど、白には抜群。場合によっては赤でもオッケー、というワインとの相性という意味ではもう超優等生の芋ですから。しかしコクのあるシャンパーニュですね。とてもいい。 次の「自家製ノルウェーサーモンのスモーク エストラゴンと共に……(Saumon Norvege fumé à la maison l’huele d’estragons)」が出てきたところで、彼が来ました。よかった、よかった。お品書きにはありませんが、手前の魚はワカサギのマリネで、奥は季節の野菜です。言い忘れてましたが、今晩はRokkuたちを含めて、3グループのお客さんです。商売が決してお上手とはいえない小田川さんのお店で、これは大変珍しいことです。お忙しくなられたんですね、って小田川さんに言ったら、そうなんです、平日に来ていただけるといいんですけどね、とお返事が返ってきました。そうかあ、忙しいんだ。嬉しいですねえ、今度は平日にしようと思いましたよ。だって、小田川さんが忙しいと、ゆっくりワインの話や料理の話やフランスの話ができないじゃないですか。面白いんです、彼の話って。英語もうまいしね。写真見たところで、思い出しました。小田川さんが「トロのところですよ」とおっしゃったのですが、すきっ腹だったこともあって、既にほろ酔いを過ぎた感のあるRokkuは、そのことにあまり気づいていなかったように思います。でも、今こうして写真で見ると本当にトロですね。紅トロ。おいしそう。シャンパーニュのコクにピッタリだったと思います。でも、飲んでるときのRokkuはそのことに気づいていない。ということは、このシャンパーニュ、かなりのコクということです。Rokkuは分かってませんけどね。 続いて、出てきた料理がはっきりしません。スープだったか、二品ある魚料理のどちらかだったか? 困ったことに小田川さんがくださったメニューには、スープがない! でも、学生が撮ってくれた写真にはあるし、Rokkuもスープをいただいたような気がします。で、多分えんどう豆のスープ(ケイトに写真見てもらって、教えてもらいました)だと思います。間違ってたら教えてね、小田川さん。 続いての料理は、「穴子のブレゼ 黒胡椒とシェリー酢の香り 新じゃがのアンチョビ&エシャロットの温サラダ仕立て(Anago braisée pomme nouvelle aux anchois)」。ブレゼって蒸し煮ということなんですね。辞書で調べたらそう書いてありました。穴子の下にある三切れの白いものがジャガイモです。おいしかった! 下のジャガイモがまた本当においしい。写真見ただけで、ただならぬうまさが伝わってきますね。ジャガイモの食感が今でも思い出されます。学生たちもおいしい!の連発です。 ここで二本目のワインです。白をもう一本と思って持ってきたものですが、サンセール(Sancerre)ということしか覚えていません。すみません。でも、それもそれですが、もっとビックリしたのは、一口含んでみたらエッと思うほどのぼけた味。なんだこれは? すぐに分かりました。前のアルノーがコクありすぎだったんです。だから、ロワールの軽いサンセールでは、太刀打ちできなかったのですね。Rokkuの失敗でした。順番を間違えましたねえ。でも、今更このサンセール(そんなに悪いものではないはずなのですが……)は飲めません! どうしようもないので、小田川さんに差し上げました。 もう一枚の魚料理です。「甘鯛のヴァプール グレープフルーツのブールブランソース(Amadai vapeur au beurre pample mousse)」。ヴァプールってなんだろ? 辞書には蒸気、水蒸気とあります。そうか、vaporかと気づきました。英語でも同じ意味ですね。蒸し焼きということなんですかね? よく分かりませんが、蒸し煮と蒸し焼きという二連作品なんですね、おそらく。 今頃気づいたんですが、このあたりの料理って、サンセール、つまりはロワールのワインを意識して作ってくださったのですね。蒸すという調理法と割にあっさりした味わいのロワールが、いけるのではないかと考えてくださったのだと思います。これがもし、たとえばピュルニー・モンラッシェとかムルソーをもってきていたら、多分調理法はポワレ(フライパンで焼く)、つまり赤にも通じるようなコクのあるワイン用に変わったのではないでしょうか。やはり、恐るべしですよ、この小田川さん。ぜひ、ワインを持ち込むべき。何でもいいから。
Mar 13, 2008
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学生から写真をいただいたので、8日の卒業記念食事会の模様をお知らせします。けっこう、うまく写真は撮れていました。でも、ファイルの加工過程でサイズを小さくしすぎたかもしれません。見にくかったらお許しくださいね。今年のRokkuの4年生ゼミは人数が極端に少なくて、たったの4人です。でも、その割には存在感はかなりのもので、おそらく忘れられない4人になること請け合いの連中です。ホントに良くも悪くも個性的な面々でした。1年生のときに英語の授業で会ったときは始終ふてくされていて、Rokkuにはなんでそんなに機嫌が悪いのか、まったく見当もつかなかった女の子がいました。名前も覚えるのが極端に苦手なRokkuにして、その名前を忘れようがないと思わせてしまうほど、悪い意味で存在感たっぷりの子でした。その子がなんと、Rokkuのゼミに来るというではありませんか。ビックリしましたが、その子のやりたいテーマがなんとこれまたビックリのゲイなんです。Rokkuは英語以外にジェンダー論も担当していますが、ちょっと専門的でご存じないかもしれませんが、その学問はゲイ・レズビアンの研究ともかなり近い領域なんです。そういうわけで、もちろん当初の彼女の希望ゼミ先はRokkuではなかったのですが、ゲイならRokkuさんだねとその先生に言われたわけです。それで彼女も、「英語のあいつかあー」と思いながら、仕方なくRokku希望にしたという曰く因縁をもってのゼミ選択なのですね。でも、彼女が一番真面目に研究して、一番いい論文を書いたのですから、人間の評価って心底難しいと思います。ゼミへ来てからのあいつは輝いていました。楽しそうに勉強し、調べたことを実に楽しそうに発表し、屈託なく質問し、勉強の楽しさってこういうもんだヨネ、ってRokkuが言いたくなるほど、面白そうに研究を楽しんでいました。ある意味、学生の鑑(かがみ)です。休学していたこともあって、最初は一年とさらにもう半期遅れての卒業になると言われていたらしいけど、一年遅れの卒業ということで済んだし、就職も決まったし、とにかくいいこと目白押しの2年間となったのです。心から卒業おめでとう!二人は残念ながら、グァムへ卒業旅行に行ってしまい、今日の食事会には不参加でした。あんなに用心して、ずいぶん前から予定を立てて、この日は食事会だからねって念まで押しといたのに、それでも忘れるそういう個性たっぷりな連中です。まったく、トホホですよ。Rokkuは、彼ら彼女らの学年で初めて、学生が来ないことによる自然休講を経験しました。繰り返しますが、まったくもってトホホです。でもね、難しい文章読ませると、理解はまったく悪くないんです。訳がわからんけど、個性的であることは間違いない!出席したもう一人は、ゼミ唯一の男の子です。これも十分に変。授業にものすごく遅れてくる。こんなヤツは今教えている中国人留学生以外に知らない。あまり日本人では見かけないタイプの日本人。じゃあ、不真面目かというと、これが決してそんなことはないんですよ。つかみどころがないといえばそうかもしれない。学生の紹介だけでずいぶんな分量になってしまいました。もうやめます。すみませんが、料理とワインの紹介はまた明日ということで。
Mar 12, 2008
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今晩、小田川さんからファックスが届きました。今度、土曜日の卒業記念食事会の内容をお知らせしますね。おいしかったですよ。ただ、写真は学生に撮ってもらったので、同僚のようにうまくは撮れていませんし、写真アップに少し時間がかかるかもしれません。その点、ご了承を。さて、今日は、3月11日付の朝日新聞「ののちゃん」について。昔紹介したことがあるので、機会があればと思っていましたが、今日のは傑作だと思うので、久しぶりに、いしいひさいち作品についてまくしたてます。朝日新聞ご購読の方は、できればマンガを参考にしながら読んでくださいね。まずは、一コマ目。ののちゃん、学校に出かける準備も終え、「行ってきまー」とまで言ったところで、廊下でおばあさんとドンとぶつかります。おばあさんもビックリで、「おっと」と思わず声がでます。二コマ目。おばあさんが、「とび出したらいかん。わたしがクルマやったらえらいことやで」とお説教。まあ、要するに教育的配慮で、ののちゃんに教訓を垂れるわけですね。で、三コマ目が秀逸! おそらくその教訓が実際にののちゃんにとってどんなイメージをもって受け入れられたかの、いわば図像化なのでしょう。面白さは絵を見るにしくはなし、ですが、とにかく面白い。それがなんとおばあさんのダンプカー化した図なんです。「どかんかい」と大書された横に、ダンプの大きな絵が描かれています。誰が見ても、これはしげさんです。おもしろいですよ、この絵。ダンプの横に「五十歩百歩」と、派手なトラックの絵柄のようにかかれています。その言葉がマンガ全体の意味と如何に関わるのかは、よく分かりません。でも、なんか、面白そうです。しかも、その下には「しげOBモデル」と書かれていて、このダンプが近所の老人会の面々が時々繰り出す老人パワーを示そうとしているらしいことはアリアリなのです。しかも、まだあるんです。三コマ目の説明なのに、もう一パラグラフ要るとは! なんと、正面ライトらしきものの隣中央に、「トーマスちゃうぞ」と書いてあるんです。これは面白い! 笑える。確かにしげさんはトーマスではない!ハハで、四コマ目ですが、ののちゃんが「うん、おばあさんがもしクルマだったらたいへん」といいます。これって、明らかに、三コマ目がののちゃんの想像図、おばあさんの二コマ目の台詞に触発されたイメージの発露であることを物語っています。ここで、絵としては四コマ目なのに、まるで五コマ目のような機能を持つおばあさんの言葉です。曰く、「そうやけど、そういうことではない」。これもすごい! おばあさん、ののちゃんが自分の言った言葉に反応して、よからぬ図を想像していることに気づいている。そうでないと、こんなこと言えません。それがまた面白い。面白いときのいしいひさいちは、絵が何コマにも相当して、何度でも楽しめるから、すごい! でも、今回の三コマ目の秀逸ぶりは、くどいようですが、朝刊の付属についているマンガの域をはるかに越えてます。素晴らしい! 敬服。
Mar 11, 2008
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最近、運動に精が出ません。理由は分かりません。なんとなく、面倒になってくるのです。 今日もテニスのレッスンを受けただけです。本当なら、レッスンの後、筋トレ、ジョギング、水泳が待っているのですが、それがなかなかその気にならないんです。 理由はいたって簡単。準備ができなかった。朝から仕事があって、出かけました。昼過ぎには片づいたのですが、家に帰っていてはいつものテニス・レッスンに間に合いません。で、着替え・道具の類をケイトに持ってきてもらったのです。おかげでテニスはできたのですが、水泳の準備はない。レッスン後どうするか? 家に帰って、もう一度準備して、出かけるという気にはなれないのですね。 そういうわけで、今日も大した運動量ではありません。二日続けてカロリーがたまってます。 今日唯一こなしたテニス・レッスンですが、厳しい内容でしたよ、今日も。 縦にハイ・ボレー、つめてポーチ・ボレー、これを三回で次の人に交替。簡単そうに見えますが、けっこうきつい。Rokkuがやると、どうしてもポーチ・ボレーをする前に一度止まって、相手側に正対することがおろそかになってしまうのです。 なぜか? その前の動作が一歩遅れるからのようです。ロブをハイ・ボレーでとるときに、足を一歩余分に踏み込んでしまうので、その分次の動作が遅れる。その遅れをカバーしないとポーチ・ボレーに間に合わないので、その前に一度止まるという動作ができないわけなんです。 そう、軸足でためてハイ・ボレーすれば、次の動作がスムースになるのですが、そこの足がドタバタしてしまうから、足を一歩余分に送ってしまい、その分遅れるんですね。要するに、足の動きがエレガントでない。 でも、余分に動いている分、カロリーは消費できてるかも? 情けないけど、そう思うしかないか。という、実に情けない運動量の今日一日でした。大丈夫か?これで今月の水泳大会? ああ心配……。
Mar 10, 2008
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今日はケイトが昼間から飲みたいので白を一本開けろと言います。彼女は今日テニスがお休みですからね。昨日ル・トワ・ド・パリの送り迎えをしていただいた(酔っぱらってしまいました、毎度のことながら……。お品書きをいただいたら一部始終報告します)関係もあって、断ることはとても出来ない。夫婦の間柄とはいえ、貸し借りの義理人情を欠くと、後で大変なしっぺ返しが待っていますからね。本当言うと、Rokkuは暇ではありません。すぐにも片づけなければならない仕事があります。それにもかかわらず、ジョギング・水泳の運動義務(?)があるにもかかわらず、ちょっとだけ味見したら?という軽いケイトの誘惑にうかつにも引っかかってしまう。で、おいしい。さすが2002年だ、ということになる。で、結局、Rokkuもつい飲んでしまいました。もちろん、最初はフィットネスに出かけるつもりでいました。でも、仕事はほろ酔いでもできないことはありません(仕事とは字を読んで――つまり本を読んで――考えることですから)が、水泳は無理です。死にそうになる。年を考えたら、やめるのが無難。くどいようですが、飲むつもりではありませんでしたから、これでも垂涎のワインはやめたのです。数少ない白のコレクションから、一番飲まれても惜しくない(卑しいでしょ?)ものを選びました。それがこの、モレ・ブラン オークセイ・デュレス(Morey Blanc, Auxey-Duresses)'02です。2002年といえば、言わずと知れたブルゴーニュ白の当たり年です。かなりレベルが高いうえ、若くして熟成感のある傑物ぞろいです。ま、オークセイ・デュレスぐらいならいいっかあ、という軽いノリで開けました。でも、02年は今いいですねえ! ちょっとだけ口に含んでみる(それもボルドー・グラスではありませんよ)と、いいじゃないですかあ! 酸は確かに落ち着いてきている(もともと酸は柔らかい性質だと思う、02は)ので、なかなかの熟成ぶりです。ミネラル感はかなりゴージャスです。こうなると、待てない。やっぱり飲んで、名古屋国際マラソンでも楽しんで、走った気になろう!と安逸の道まっしぐらと成り果てました。天国の先生(指導教官のことです)、ごめんなさい! Rokkuはまた道を踏み外しました!せめてもの罪滅ぼし(?)に、モレ・ブランについて調べましたよ。ドメーヌ・ピエール・モレ(Domaine Pierre Morey)がやっているネゴシアンだったのですね。道理でうまいはずです。というのも、この人物あのルフレーヴの醸造長なのですって。そういえば、ルフレーヴに通じる舌触りでしたなあ。くどいようですが、うまいはず!しかも、その前はなんと、「コント・ラフォンの畑の折半小作人としてモンラッシェなどを造って」いたのだそうです(リカーランド・コモリ ドメーヌ・ピエール・モレ/モレ=ブランHPより)。そのせいなのでしょう、確かにモンラッシェに通じる道を感じさせる本格的味わいです。2001年のオークセイ・デュレスを飲んだ人の去年の記録も見つけました。それによると、オークセイ・デュレスはプチ・ムルソーと呼ばれているとのこと。位置関係はよく知りませんが、おそらく南に位置するのではないでしょうか。こちらのほうが、ムルソーより分かりやすいというか、太いというか、フィネス感において少し劣るかもしれませんが、よく似ているとも言えます。だから、割安に高級白ワインを飲んだ気になるにはいい選択なのだと思います。だって、分かりやすいとはポップということですからね。消費社会にはうってつけです。記録から引用させていただくと、 色は、イエローとオレンジをまぜあわたぐらいの色、薄い味醂や蜂蜜のような色合いである。香りは、とてもフレッシュで華やかな気分にさせてくれる。すがすがしい香り。味わいは、果実味豊かで酸がきりっとしめてくれてとても飲みやすい。余韻もきれいに残り、飲み応えがある。とてもリッチな味わいで、コストパフォーマンスもよいと思う(約3,500円)。かなりおすすめのワイン。(けろぶろ: 2007/02-2007/03HPより)正直な話、これで3,500円かっ!ちゅう感じです。ちょっと高い。そんなことしてるから、かなりよい白が買いにくくなるんだ、と、Rokku義憤の声です。白って、すぐに飲み終えてしまうし、そのうえ、次の赤のことを考えると、そんなにお金は使えない。だから、けろぶろにあるように、「日常飲みとしてはちょっと高い」という感想に容易につながってしまうのです。Rokkuは仲買が儲けすぎだと思います。だって、FinestWine.COMという海外のサイトによると、02年でケース僅か143ドルなんです。ということは1本約12ドル、1,320円(ドル110円で計算)相当です。もっとも、重いものだから送料が高くつくし、業者なら保険にも入らなけりゃならんでしょうし、もろもろ計算すると3倍ぐらいになるのも仕方ないかもしれない。やっぱり、仲買の儲けすぎは撤回かな? 日本がアジアの端っこにあって、ワインの生産地から遠いのが一番の問題かも。近くすると、人件費がかかるし。ここは一つ、中国で本格的なワイン作りに取りかかってもらうしかないか。もう誰かやり始めているかもしれませんねえ。ひょっとしたら……。さて、味です。ここで、Rokkuはグラスをボルドーに変えました。そうすると、これは無茶苦茶いいです。酸はやはり、あまり感じない。むしろミネラルです。香りは心地よいフルーツ香。でも、蜂蜜感はあまりない。でも、香りより味わいにこのワインの真骨頂はあるでしょう。舌触りの滑らかさは、本気でルフレーヴを想起させます。ルフレーヴ(もっと酸があるけど)をお手軽に味わいたいのなら、絶対に買いだと思いますね。Rokkuはいくらで買ったかですって? 実はこれ、某酒屋さんの福袋に入っていたものです。だから、値段がはっきり分からない。かなり長い間購入ワインの記録もとっていなかったですから、全体でいくらだったかもはっきり記憶がありません。何が入っていたかも、実を言うと、はっきりしないぐらいなんです。こういうとき困るので、また購入記録をとるようになりました。さて、写真ですが、残念ながらバッテリー充電が間に合わず、今回はあきらめます。楽天内にはありませんでした。でも、サン・トーバンがありました。ここも、オークセイ・デュレスと同じく、あまり有名ではないものの、なかなかいい白が出る村です。そこに目をつけるところといい、このモレ・ブランというネゴシアンは要注意です。Rokkuの経験によると、サン・トーバンはさらに分かりやすい白という印象ですから、柔らかい(しかも高級感のある)白がお好きな方には、うってつけのワインと言えるでしょう。モレ・ブランならルフレーヴを感じることができるはずですよ。サン・トーバン ”レ・ピュセル”[2002]/モレ・ブラン Saint Aubin "Les Pucelles" 2002, Morey Blanc金沢マル源酒店3,990円 残り3本くどいようですが問題になるのは、やはり値段でしょうねえ。飲めばお手頃感が納得できるのですが、最初に値段だけ見るとなあ。ちょっとひく。もう一声安いと、即購入となるのですが。バーゲンを待つ? でも、そこまで残っているか? 果てなき疑問の応酬です。
Mar 9, 2008
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二日で終わると思ったんですけど、無理でした。というわけで、またしてもル・トア・ド・パリでのワイン・アンド・ランチの続きです。最後のお皿は肉料理です。「和牛ほほ肉の赤ワイン10時間煮込み(Ragôut de joue de boeuf cuire 10 heurres)」。小田川さん自ら、満足のいく出来とおっしゃった一品です。でも、このお品書きをもらってビックリしました。10時間も煮込むんですね。仕込みに時間がかかって忙しい、と言ってらしたのが、片鱗程度とはいえ、分かったように思います。 見るからにおいしそうでしょ? ダンはこれが大好物で、後で「稀に見る出来」との小田川評を聞いて、すごく悔しがっていました。無理もない。合わせたワインは、コス・デストゥルネルの98年です。まだまだフレッシュそのものでした。言うまでもなく、煮込みには見事な調和ぶりでしたが、まだまだ置いておいたほうがよさそうです。Rokkuはしばらく触りません。でも、スペースもあることだし、一応楽天内で見つけたものをご紹介します。ウィンドウ・ショッピングでもしてみてください。ワールドリカーショップさん税込み 11,400円 残り本数は書いてありませんでした飲みやすいとあるけど、一般的にコスはやわらかいと言われているので、その言い方が個別のこのワイン評価として妥当という気はしません。実際に飲んでみると実にフレッシュですし。例えがいいかどうかは分からないけれど、ものすごく若い感じのラフィットを飲んで、無理しておいしいと言うよりは、もう少し実感としておいしい、と言える程度の熟成です。要するに、熟成感が出てくるのはまだまだ先ということ。もっとも、熟成ということだけ念頭に置いていたら、いったいいつ飲めるんだ?ということにもなる。悩むぐらいなら飲んでしまうというのも一つの手です。だからセラリングは難しい。それぐらいなら「買ってすぐ飲む」も立派な一つの手法。ただRokkuは、同じボトルが幸いなことにまだあるので、もう少し置くことにした、というだけです。口に含んだときの濃さからして、かなり長い時間OKだと思います。でも、人生は短いしね。こっちが先にくたばってしまうかも……。ああ無常。はい、そんなことは忘れて、最後にデザートです。「トリノ風マロンケーキ、ガトー・ショコラ、フランボワーズ・ソルベ・オー・ド・ヴィー・フランボワーズ入り(Turin, Gateaux chocolat classic, Sorbet framboise)」。 お品書きにはありませんが、手前にあるのが、フルーツ・カクテル。定番ですが、おいしいんです。あきない。いやあ、おいしい食事とワインでした。恭子ちゃん、どうでしたか? また参加しますか? みんな大歓迎ですよ。夏にはブイヤベースを食べさせてもらわにゃいかんしね。プロヴァンスのワインがうちで控えている。マイクさん、ご一緒しませんか? 釈迦楽さんはどうですか?そうそう、現在同僚の、卒業生の方が就職決まりました。おめでとうございます。新しい職場は大変だと思うけど、頑張ってくださいね。そして、その頑張りのご褒美に、また食事会をやりましょう。それが励みになるといいですね。ワイン持込みといえば、アメリカを思い出します。もう10年以上も前の話ですが、酒類販売の権利を入手するのがとても高額になるので、勝手にワインを持ち込んでもらって構わないというレストランがけっこうありました。ル・トア・ド・パリも、日本では例外中の例外ですが、他にもチョコチョコあるみたいですね。今度研究会の懇親会がそういう持ち込みオッケーのレストランで、Rokkuはすごく楽しみにしています。イタリア料理屋さんなので、早速イタリア・ワインを仕入れました。またブログにアップしますね。3月はそういう食事の話が実は多いのですよ、珍しく。ワクワクしています。言いにくいですけど、今夜も実はル・トア・ド・パリで卒業記念の食事会(ワイン・アンド・ダイン)をゼミの学生とすることになっています。楽しみです。またご報告しますね。
Mar 8, 2008
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案の定、長くなりましたねえ。オードブルだけで制限文字数オーバーでした。ということで、続きです。そうそう、今回のワインは白をやめました。同僚の方が持ってきてくれた赤とRokkuが出そうと思っている赤はどちらもブルゴーニュの95年です。奇しくもジュヴレイ・シャンベルタンとヴォルネイという異なる地区の、ホリゾンタル・テイスティング(同じ生産年の地区が異なる、あるいは生産者が異なるワインの比較)という趣向です。そのうえ、Rokkuは何本か持っている98年のボルドーをそろそろ試してみたい誘惑にかられています。そろそろ10年でしょ。ものによっては、もういけるかもしれないという気がする。で、コス・デストゥルネルでも開けようかという、まあ、何と言うか、わがままな希望です。したがって、赤を何が何でも3本は飲まないといけません。そしてシャンパーニュが2本となると、いつもの消費量から考えても、白の入る余地はない。こうして、今回は白はなし、なんです。さて、そうこうするうちに、また料理です。久しぶりにスープです。小田川さんがファックスで送ってくれたお品書きによると、「自家菜園の野菜とパセリ、タイム、バジルのフレッシュハーブがたっぷり入った田舎風スープ(Soupe Garbure aux herbes du jardin)」となります。 野菜のスープっておいしいですよね。ケイトも時々出してくれます。たくさん混ぜるのがコツなのでしょうか、Rokkuには作り方はわからないんですけど、とてもよく白に合います。シャンパーニュにももちろん、バッチリです。ちなみに、同じ野菜を焼くといっぺんに赤用の食材に変わります。写真をご覧になるとお分かりのように、緑色っぽいでしょ。黄色系と言ってもいいかな。そういう系統の色の食事は白です。焦げ目がついて茶系になると、途端に赤です。面白いもんです。ブロッコリなんか典型的。ここで赤ワインが登場しました。まずは、クリスチャン・セラファン(Christian Serafin)のジュヴレイ・シャンベルタン1級レ・カズティエ(Gevrey-Chambertin 1er Cru Les Cazetiers)の95年。ここは、定評あるドメーヌで、一度大評判をとってからは超品薄になった由。Rokkuが好きなドメーヌの一つです。花があって、土の香りもなくなることはないという、あのシャンベルタンに特徴的な相反する二要素の弁証法的合一がここにはあるのでした。残念ながら写真はありません。忘れました。それに、何よりも、大評判をとってから高くなりました。今回調べてみてビックリしました。Rokkuはいつ買ったのか、リストを見ても分かりませんが、とにかく8,900円で買ったようです。ほぼ5割増という感じです。写真がないのもつまらないので、楽天内にある唯一の例を一応出しておきます。セラファン・ペール・エ・フィス ジュヴレ・シャンベルタン・レ・カズティエ1級 2000 イーショッピングワインさん税込み14,130円 残り3本でも、はっきり言って、これは高いですね。ちょっと勿体ない。匹敵するとはいえ、グラン・クリュじゃないんですから。真剣に購入をお考えの方は、楽天外ならこれより2,000円弱安く売っているところがありますから、そちらを当たったほうがいいかも。ただ、品薄ですので、いつまでもあるとは思えませんが。食事会で飲んだわけではありませんが、特価でどうしても今日お伝えしておくべき、セラファンのワインがあります。ただのブルゴーニュ・ルージュですが、96年なんですよ。普通のドメーヌならお勧めしませんが、セラファンのもので特価なら断然悪くありません。Rokkuはルロワ(ネゴシアンのほうです)のブルゴーニュを確か3,000円ぐらいで買ったことがあります。それ自体はうちで飲んじゃったけど、同じものを去年、同僚の協力でル・トア・ド・パリに持ち込みました。前飲んだときもうまいワインでしたが、小田川さんがこれはまさしくブルゴーニュのエッセンスだと、いたく感激されたほどの味だったんです。地域ワインって、馬鹿にならないんです。特に特価のときね。だからこそのご紹介です。それに、96年はブルゴーニュ赤はいい年でしたから。ドメーヌがよくて特価なら絶対買いだと思います。残り5本でした。急いだほうがいいかもしれません。ブルゴーニュ ルージュ[1996]Bourgogne Rouge 750mlセラファンSerafin ワインとお宿 千歳 chitoseさん特価 税込み 45,15円続いて、魚料理のご紹介。「まだかと帆立貝のポワレ ずわい蟹とラングスティーヌのブールブランソース(Bar et st jaque pôelé au beurre de grabe et langoustine)」です。 おいしそうですねえ! ほら、ちょっと色が茶系でしょ。そうすると、赤が全然おかしくない。ホタテなんか、ものすごくよく合うんです。普通なら考えられないんですがね。どなたかもブログに書いてらっしゃいましたが、小田川さんのホタテは本当にうまい。干してあるのかな?と思うほど味が濃い。でも身はプリプリしている。ソースがまたおいしかった! 写真って、食べたときの心地をそのまま再現させる力がありますね。続いてのホリゾンタルの対象ワイン、ジャン-ミシェル・ゴヌー(Jean-Michel Gaunoux)のヴォルネイ1級・クロ・デ・シェーヌ(Volnay 1er Cru Clos de Chênes)です。 ゴヌーと聞いていたので、エチケットを見たときおやっ?と思いました。知っているラベルと違うのです。ミシェル・ゴヌーのは、何と言うか、もっとゴツイ感じで、こんな洗練された(言い換えればどこにもあるような)ものではありません。そうそう、ゴシックな感じ。でも、ラベルを変えるのはよくあることなので、知らないうちに変わったのかと思っていましたが、今回ネットで調べてみて、事情が分かりました。これは、ミシェル・ゴヌーの弟さんが90年に独立して作ったドメーヌのようで、評価はそれなりに高いのですが、楽天内では、かなりミシェル・ゴヌーと混同して使われているようです。ちょっと情報が混乱していますね。以前に飲んだミシェル・ゴヌーはなんだったか、まったく覚えていません。ただのブルゴーニュだったかもしれませんが、覚えているのは、大変ブルゴーニュらしかったということです。つまり、土の香りですね。ジャン-ミシェルからはそれは感じられませんでした。うまいことはうまい。多分、ホリゾンタルをしなければ分からなかったでしょう。それほど性質(たち)は似ています。表現のしようによっては、土がないあるいは薄い(つまり相反する要素がないあるいは薄い)分だけ、深みがあると言えなくもない。でも、それではブルゴーニュではなくなってしまうのです。英語で書かれたサイトの中に、ジャン-ミシェルの白、ムルソーを大変褒めてあるものがありました。エチケットを見ると、確かにムルソー村の作り手のようです。Rokkuはそれを読んで、分かる気がしました。白の洗練に似合うように思いますが、残念ながら、楽天内はもとより、ネット上ではほとんど確認できませんでした。唯一、和泉屋というお店が毎月おこなっているらしいワイン会で、去年ムルソーを飲んだという記録がありました(他にもあったかもしれません)が、00年のムルソーが既にピークを過ぎているとのことでした。あくまで推察に過ぎませんが、長熟型ではないのかもしれません。でも、とにかく記憶に刻んでおかなければ、と思いました。一度白を飲んでみたい。一応お断り申し上げておきますが、Rokkuはかなり細かいことを言っていますよ。ここで書いたようなジャン-ミシェルの欠点らしき事柄は、ホリゾンタル・テイスティングだからこそ気づくことであって、日にちを変えただけでも差異が分かったかどうかはっきりしないようなことなんです。それほど性質が似ているんです。赤を比べるのであれば、Rokkuは躊躇することなくセラファンをとりますが、ジャン-ミシェルのお得意は白ではないのかと回想しつつ、思いをめぐらしているだけです。もしジャンのお得意がそこにあるのなら、このテイスティングは、ジャンにとって最初から不利だった、ということになりますからね。それではフェアでありません。そうそう、言い忘れていましたが、そこにテロワール(地味)の差異も見る必要があるでしょうね。それにはRokkuにヴォルネイに関する基礎知識が欠けているかもしれません。もっとも、それでRokkuを責められてもかないませんけどね。そういう知識はソムリエにこそ必要なのであって、私にではありませんから。一応、言い訳を。というわけで、ジャン-ミシェルのワインは手頃ではあります(ミシェル・ゴヌーは高くて手が出ません)から、楽天内のものを紹介しておきます。 [1996]ポマール レ・ペリエール/ジャン-ミッシェル・ゴヌーPOMMARD LES PERRIERESJEAN-MICHEL GAUNOUX アルベルワインショップ税込み5,900円 残り2本また文字数オーバーしてしまいました。肉料理からは明日にします。
Mar 7, 2008
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3月1日の卒業式の後、実は、ル・トア・ド・パリでワイン・アンド・ランチがありました。前にシェ・シバタのことで小田川さんに聞いてみるね、って言ったと思いますが、あのプレスティージュにいた若者がそうなのかどうか、です。聞きました。やっぱり、柴田氏だったようです。どんな容貌だったか、まったく覚えていませんが……。というわけで、今日は久しぶりに写真つきでフレンチのご紹介です。一緒に飲んだワインもお知らせしつつの、長いブログになりそうです。ついでに、同じドメーヌの比較的手頃なワインも、楽天内のショップからご案内いたしましょう。今回のワイン会には、教え子の恭子ちゃんも静岡から参加してくれました。彼女、2年以上前のブログでの写真を見て、前から、チャンスがあればぜひ!と言ってました。そこで、この日の話をしたら、行けると言うので、遠路はるばるはせ参じてくださったわけです。この子と玲子ちゃん(もうこんな呼び方はできない年令になっているはずですが、Rokkuの頭の中ではまだ学生の頃のままなんです)は、本当に面白い子たちで、二人で中国をかなり奥地まで旅行してくるわ、シベリア鉄道を使ってロンドンのビクトリア駅まで来るわで、話題に事欠かない学生たちでした。そのビクトリア駅には、ちょうど研修に行っていたRokkuが出迎えたのですよ。適当に日にちと時間だけ聞いておいて。イギリスで! 会えなかったらどうするつもりだったんでしょうねえ……。さて、会の始まりです。まずはシャンパーニュ。2本用意しました。1本目がミシェル・アルノー(Michel Arnould: 英語のアーノルドをフランス語でどう読むのか、調べてもよく分かりません。普通ならアルヌーとでも読みそうですが、Rokkuはフランス語はよく分かりません。でも普通、ouってウーと読むでしょ? 果てしなく疑問なんだけど、ここは一応、インターネットで流通している表記に従います。どなたか教えてください)は、ピノ・ノワール100%の本格的な割に、手ごろなシャンパーニュ。なかなかコクを感じさせるもので、蜂蜜香も含めて、さすがピノです。でも、ウーリエのような重さを期待している人には、軽く感じられるかも。本格的でありながら軽めのシャンパーニュ、という要望には応えてくれる一本です。 写真はこれです。エチケットはかなり個性的なので、お店にあればすぐ分かるでしょう。もっとも、見つかればの話ですが。小田川さんが合わせてくれた料理は、フランス産フレッシュフォワグラ“ル・トア・ド・パリ特製”(Foie grais frais de canard à la façon de "le toit de paris")。 Rokkuは昔、フォアグラに合わせるワインに困ったことがあります。最も合うとよく言われるのは甘口ソーテルヌです。たとえば有名なディケム。さぞかしおいしいでしょうが、何より問題なのはこの料理が、必ずオードブルとして供される点です。そんな段階でソーテルヌを出してしまったら、もう後のワインがない。だって一番アルコール度の高い、「酔う」ワインですからねえ。いわばトリのワイン、しめのワインなのです。極め付けが先に出てしまったら、後のワインの出番がない。フォアグラに合うワインはないものか? 色々考えました。プリモ・パラトゥムという銘柄のワインを那須さんに教えてもらったので、試してみましたが、小田川さんには、「こちらのほうが合いますよ」といって、別の料理が即興で出てきました。それは事実もっとワインによく合いましたが、Rokkuはショックでしたねえ。センスの前には、努力など何の役にも立たない。そのショックのせいでしょうか、料理はまったく覚えていません。でも、よく合ってました、パラトゥムのワインに。と同時に、小田川さんの懐の深さにも感銘しました。すぐにワインに合わせて料理を提供できるだけの技術と知識とセンスにです。ル・トワ・ド・パリでワインとのマリアージュをと思われる方は、ぜひワインをご持参ください。もちろん予約は忘れないでくださいね。ワインを持っていくと断りさえすれば、小田川さんは予算内で最高のものを用意してくださると思います。もちろん、銘柄はお伝えくださいね。何を持ち込むのかもわからないのでは、手の打ちようが遅くなるはずですから。お忘れなく。あ、それから、小田川さんにお味見をしていただく心の余裕もお忘れなく、ね。そいで、Rokkuが何が言いたいかというと、そう、この実に美味な、小田川さん定番のフレッシュ・フォワグラ(Rokkuは慣れてますから、普通にこう言ってしまいますが、それはそれはおいしい、蜂蜜の甘さと黒胡椒がらさとフォワグラのねっとり感のハーモニーです、感動ものですよ)に本格シャンパーニュはよく合う、という実に単純な事実なんです。しかも、このシャンパーニュをRokkuはほとんど冷やさずに持ってきてしまったものだから、少し甘みが目立つ。それがまた、ことさらにフォアグラにピッタリ寄り添わせる感じ。敵は本能寺というか、どう形容すりゃいいのか困るけど、とにかくよいマリアージュでありました。脱帽。このアルノーのシャンパーニュ、なかなかいいシャンパンであることは間違いありません。値ごろ感もあるので、紹介しておきましょう。ドメーヌ・ミッシェル・アルノーDomaine Michel Arnould Grand Cru Verzenay Brut Traditionグラン・クリュ・ヴェルズネィ・ブリュット・トラディション 古武士屋さん税込み5,775円 残り8本だそうです。ただ、Rokkuは、まとめ買いのバーゲンではあるものの、これより1,200円ほど安く買いました。相場に詳しくはありませんが、できることなら後500円は安くしてもらいたい感じはあります。ただ最近、ワインは高含みなので無理ないかもしれませんが。2本目のシャンパーニュは、同僚の人が持ってきてくれました。写真がないので、アフィリエイト用の画像を掲載しておきます。[NV] Egly Ouriet Les Vignes de Vrigny - Egly Ourietエグリ・ウーリエ レ・ヴィーニュ・ド・ヴリニー - エグリ・ウーリエ アサヒヤワインセラーさん税込み7,329円 残り3本だそうです。エグリ・ウーリエは、とにかくコクのあるシャンパーニュで有名です。冬に重いシャンパーニュをと思うのならこの銘柄ですが、当然そういうワインは値段も高い。かなりの値段ですが、ものはいいです。期待を裏切ることはありません。一番一般的なもの(ピノ・ノワールとシャルドネの混醸もの)でよければ、これよりほんの少し高いぐらいの値段であります。このレ・ヴィーニュ・ド・ヴリニーはピノ・ムニエという葡萄100%のもので、普通の重厚なウーリエとは少し趣きが違います。普通のピノ系とは値段の開きが1,000円ほどありますね。味の傾向は、今言ったように、かなり違う。こちらは酸が強いです。好き好きかもしれませんが、本格嗜好ならやはり1本目でしょうね。そのほうが無難。こちらは少しビネガーの感じもあって、良くも悪くも独特な趣きです。じゃあ、悪いのかというと、さすがウーリエです、悪いことはもちろんない。そうではなくて、普通じゃない、ということです。シャンパーニュって、悪くすると、個性があまりないでしょ? Rokkuはそう思うことが多い。だから重めのものをと、つい気張るのですが、それらは当然値も張る。そうすると、また個性の話に逆戻り。そこまでお金を出すほどのものか?となる。で、ついつい買いそびれる。その結果が、結局個性のあまりない無難なシャンパーニュに落ち着く。果てしない悪循環です。個性という点では、このヴリニーはまったく問題ない。どこかのホームページに、赤ワインの良さを志向したとのドメーヌの付言がありましたが、さもありなん。酸の強さはある種のコクに通じますから。ただ、Rokkuにはそれがビネガーに感じられたというだけのことです。そういえば、このシャンパーニュはロゼを思わせるフレーバーもありましたよ。飲んだときには赤ワイン志向などまったく知らなかったRokkuですが、ドメーヌとしては赤のフレーバー=ロゼ系のお手頃なものを、というデザインがあったのかもしれません。こうやってブログに書いていると、最初のうち、悪く評価している自分(事実、飲んだときは悪い評価でした)が、次第に、むしろこのシャンパーニュの良さを代弁しようとしているような気がしてきます。飲んだときの感想では、このワインはちょっと酸が強すぎと思いましたが、ロゼと考えればけっこう本格的なロゼが楽しめるシャンパーニュとも言えるからです。しかも、それは単なるRokkuの思い過ごしなどではなく、事実ドメーヌの志向している線とも合致しているらしい。そうすると、ですよ。これは、かなり本格的なロゼ・シャンパーニュの代替品として使えるかもしれんということになります。ご存知のとおり、シャンパーニュのロゼはやたら高い。5割増し。下手をすれば2倍です。しかも、安いのは如何にも代替そうろうで、それを飲むと「ロゼが高くて飲めないのか」とワインに言われているみたいで、かえって空しい。そういう意味では、これは本格的な代替品足りうる。そう考えると、確かにこれは安いかもしれない。今考えると、小田川さんはさすがですね。このシャンパーニュに合わせて、料理は「自家製ノルウェー・サーモンのスモーク厚切り、エストラゴンの香りと共に(Tranchée du saumon Norvege fumé sauce estragon du jardin)」ですよ。酸の強さにスモーク香は確かに相性バッチリだ。エストラゴンもにくい。実を言うと、何を持っていくかは何も小田川さんに言ってないのです。それで、このマリアージュですよ。恐るべし、小田川シェフですなあ。案の定、長くなりました。オードブルだけで文字オーバーです。どうしてもお伝えしたいワインがあったのですが、明日にします。しょうがない。
Mar 6, 2008
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昨日の運動は、筋トレ、4キロのジョギング、850メートルのスイミングで時間切れとなりました。名古屋駅前のキャッスル・プラザのローズ・ガーデンで、同僚の先生方と親睦を兼ねた食事会があって、そこに向かわなければならなかったからです。 フレンチ・レストランで食事会を同僚とするのは実に稀なことで、先生方とは初めてだったかもしれません。Rokkuがワインを飲むなんてことも、みなさん、ご存じないかも。 食事は、「シェフズディナー」でした。オードブル風の魚料理がまずは三皿。順に、鮮魚のサラダ仕立て蟹葛饅頭のアメリカンソース 鮑と春野菜添え春野菜とムール貝のペペロンチーノです。最初のお皿は、今日魚市から仕入れたという鯛と蝦蛄(しゃこ)を使ったサラダです。鯛にも軽く湯通しがしてあり、なかなか美味。アンディーブもおいしかった。 まずはビールという決まり文句があるので、なんとなく生ビールを頼んでしまったのですが、この料理にはやはり白ワインです。でも、高いのはかないませんねえ。チリを薦められたので、ボトルでいただくことにしました。軽く洋ナシのフレーバーをもった、けっこういい白です。チリは久しぶりに飲みますが、ずいぶん洗練されてきた感じです。変にオークの味付けが強いカリフォルニアよりいいかもしれません。チリの白は要注意ですよ。安けりゃ買いです。人工的な感のあるカリフォルニア(けっこう高いのも、Rokkuにはそう感じられます)より、自然系です、これは。オーク香のつけ方が穏やか。 さて、料理に戻りますと、次のお皿もおいしかった。鮑は二切れほどしかないけど、少ししかないと思うと貴重感がいや増して、それはそれでなかなかよい。アメリカンソースとは海老の殻を使ってとるんですね。パンにつけて残りのソースも食べました。難しいことを言わないで、単純においしい。分かり易すぎ、という印象もなきにしもあらずだが、変にうるさいことを言うのはやめやめ。 それになりより、このパンはうまい! パンのみに生くるにあらず、なのだし、パンだけお目当てでここに来るというのは本末転倒だとは思うけど、パンがとにかくおいしい。 三皿目のムール貝も悪くありません。でも、こう続くと、ちょっと印象が薄くなってきます。そういう気味はあるものの、ここまで、総じて魚関係はいいです。やはり日本人が作るからでしょうか。 だいたい、魚の料理は、褒められることが多いです、日本のフレンチは。多分、作る人も食べる人も、琴線に触れやすいのでしょう。魚そのものが。その分、和食風に引きずられる傾向が、どうしても出てきてしまいますが。 そういえば、可児のミラベルがTVに出たのだそうですね。出世したもんだなあ。感心しました。西可児にお店があった頃は時々出向きましたが、八百津のほうの酒屋とワイン会みたいなことを始めた頃から、行かなくなりました。ちょうど、可児にお店を移されたのも、その頃のことだったと記憶しています。 この前、あるブログで写真を見ましたが、変わりませんねえ。オードブルから魚までの印象はいい店です。とりわけオードブルは見るべきものがある。でも、肉料理がRokkuにはよくない印象がありました。ワインに負けちゃう。あれだと、薄いワインでないと合わないと思います。ワインと料理が全然違う世界、って感じになっちゃうんですね。最後まで白のほうがいいかもしれない。シャンパンでもいい。 それのどこが悪い! と言われたら、それまでです。別に悪くはない。軽い世界はそれなりにポピュラリティを得もするでしょうし、そういう世界があったっていい。でも、ワインと合わん。それだけのことです。世界が違う。 で、ローズ・ガーデンに話を戻します。次の料理は鮟鱇・帆立貝・才巻き海老のカプチーノ仕立てです。ここへ来ると、ちと厳しい。やっぱり、煮込み系って、こってりした白か赤の世界だと思いませんか。だって、煮込む分、味のエキスが凝縮されていく世界でしょ? 刺身風魚料理で感じられる、オードブル的な料理、そう、おつまみ料理とは違ってくる。すると、とたんに、さっきまであった良さが感じられなくなるんです。 Rokkuには時々、こういうシェフおまかせ料理って、往々にして、和食のバリエーション(変奏)なのでは?と思えることがあります。多分、それは間違いではないのでしょう。肉料理の順番になると、ステーキ以外はちょっと厳しい感じになってくるからです。 肉料理は、二つの種類から選べるようになっていて、牛フィレ肉のステーキ 季節野菜を添えて 又は牛舌の軽い煮込み 季節の温野菜を添えてとなっていました。Rokkuは牛タンの方にしたのですが……。 昔、ステーキハウスが流行りました。 Rokkuの子どもの頃、洋食といえばカレーライスでした。黄色い、ノリのようなカレーで、今の本格(?)カレーとは似ても似つかぬ代物です。でも、おいしかった。そんな頃には、ステーキなどというものは、どこか遠くの世界の食べ物で、おいしいお肉とは、何を指していっているのか、一部の例外を除いて、誰にもよくわからない世界でした。 でも、ステーキなるものを食べてみたい。それはおそらくみんなが思っていたのでしょうね。だから、Rokkuが若い頃には、いたるところにステーキハウスがあったものでした。今ではほとんど見かけなくなりましたが。 その頃は、鉄板で焼くというのが、ある意味大流行で、スパゲッティですら、鉄板焼きでした。喫茶店でよく見かけたものです。 アメリカニズムの一変奏だったのでしょう。アメリカにあるモノの移植、輸入です。そうすると、鉄板焼きスパゲッティはアメリカニズムのキッチュ? それから数えて30年ほど。ステーキは見事に日本に定着、贅沢ではありますが、当たり前の食べ物になりました。おかげで、そちらの味はまずまず大丈夫。だからでしょう、フィレ肉のステーキを選んだ先生方は、みな口をそろえて、おいしかった!とおっしゃいましたよ。 煮込みは、まだまだなんですね。多分。そういえば、懐石に煮込み料理ってありましたっけ? 炊き合わせや、鍋物はあるけど……。 同僚のお一人の方が、白ワインはおいしかったけど、赤はイマイチでしたね、と帰り際にRokkuに話してくれました。多分メルロー主体のワインなんだと思いますが、どちらかというと、ガメイみたいな感じでした。そうそう、ボジョレー・ヌーボーに近い感じ。ステーキにはつらいでしょうね。煮込みはもちろん無理です。 ちなみに、ステーキとフランス・ワインはものすごくバッチリという感じでは、Rokkuにとってはありません。カリフォルニアはバッチリです。 忘れそうになりましたが、デザートの抹茶スイーツ グラス盛りは、なかなか美味でした。お菓子の伝統はありますからね、日本に。いける味になるのも、当然なんですね。煮込みのところだけが、かえすがえすも残念!なのでありました。
Mar 5, 2008
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昨日はテニスのレッスンを二つ受けただけで、運動は終了。後は飲んでしまいました。残りの運動は延ばします。ですから、この日記には昨日のテニスのレッスン内容を、かいつまんで書きます。 このレッスンのコーチははっきり言ってハードです。たまりません。今日も最初からハードに追い立てられまくりました。最初のメニューは、ストレートにバック、フォアとボールを打つだけですが、今日はそこに少しバリエーションが加わりました。 何が加わったのか? ちょっとストレートに球出しボールを打っただけで、Rokkuが反対サイドに呼ばれて、そのストレートのボールをアングル・ボレーせい!と言うんです。ということは、サイド・ステップでRokkuは延々と横に動き続けなければならない、ということです。これはたまらん。このように練習してみると、アレー(ダブルス・コート分の横の帯状の部分)の遠いこと! もう、これだけで疲労困憊。 それを二回ほど、人数分、順繰りに交替でこなしました。それでボールを集めて、しばらく休憩。その後はボレーの練習です。今日のボレーは、バック側がつなぎのロー・ボレー、フォア側がバック・ハンドのポーチの繰り返しです。これを二人でしばらく延々と続けるのです。 もう慣れているので、そんなに長いと思うことはありませんが、片方が少なくとも10球は受けるでしょうね。二人で20球。大したことないと思うでしょう? そりゃ、最初のうちは体力が余ってますからねえ、それほどこたえない。でも、たとえば最初がロー・ボレーだったら、次はバック・ハンドのポーチでしょ。そしてもう一度これが回ってくると、もうその頃には、最後のバック・ハンド・ポーチがかなりしんどくなる。 それも、けっこうリズムよく、「ハイ、ハイ」という掛け声とともにボールが次々に出てくるんです。まだ慣れてない頃は、この掛け声が耳に残って、まるでトラウマのように頭を駆け巡りました。最近でこそ慣れましたが。 それでも、今日はわりにあっさりとこの練習が終わって、何をするのかな?と思っていたら、アト・ランダムにボールを出すので、それをペアでつないでとれ、決められるときは好きなように決めろ、というのです。 このコーチ、オープン・スペースにボールを出すのが天才的にうまい。Rokkuたちスクール生は、ただ翻弄されるだけです。アト・ランダムとは、このオープン・スペースに僕はボールを出すからね、というサインに他なりません。 そう、Rokkuたちは、どっちのサイドに出てくるのか分からないボールを(ロブももちろんアリ)、延々追っかけるという蟻地獄です、これは。 言うまでもありませんが、声も出ないほど疲れました。二回も回ってくると、もう本気でたまらん。 この後はしばらくラリーをしました。クロスにサーブ・アンド・リターンの練習です。コーチはデュース・サイドのリターンと決まっていて、そちらサイドのサーバーはコーチとの対決を片側コートでする、という趣向です。このコーチ、必ず人を前に誘いこんでおいて、ロブを打つんですね。もちろん、スクール生には「前においで」と盛んに勧めておいて、ですよ。 Rokkuなんか、単純ですから、(下手な)サーブ・アンド・ボレーですわ。するとすぐにボレーが、苦手なバック側に出てくる。それを何とか返すと、次はもちろんロー・ボレー。左右はそのときのRokkuの立ち位置によって変わります。だいたい、こちらと準備した反対に来ます。たまらん。 フォア側にロブが上がると、当然Rokkuはスマッシュをと思いますが、だいたいカス当たりですから、言うまでもなく一発では決まらない。再三再四ロブがあがって、浅いうちは対応できますが、最後には深いバック側のロブが来て、万事休すですね。こっちが攻めてるんですけどねえ……。どうなっとるんだ? この後は、コーチがデュース・サイドのリターンに入って、ゲーム形式の練習です。サーバーはデュース・サイドから10ポイント分サーブを打って、そこから何でもありのゲーム練習です。 サーバーは、とにかく、ハイ終わり!と声がかかるまでサーブを打たなければなりませんが、このサーブって、けっこう疲れるんですよ、続くと。もうこの頃には、疲れているのかそうでないのか、感覚は麻痺しているから、あんまり疲れていたという記憶はありませんが、細かいことをほとんど覚えていないところからすると、けっこう大変だったのではないかと思います。 あ、そうそう、言い忘れてましたが、今日は人数が少なかったので、この間、休憩はほとんどなしです。今お話した、ゲーム形式だけ、一人余るので休憩できたように思います。 これで、一つ目のレッスンが終了。さらにもう一つです。疲れたわけが分かるでしょ? 他の運動、つまりジムと水泳をパスするのも無理はない。そんなもんは明日、明日。今日はやめ! おかげでよく眠れました。泥のようでした。
Mar 4, 2008
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この前の「母のその後」の続きです。 母は去年の晩秋に左大腿部を骨折して入院しました。エクスカーションに出かけて、滑って転んだらしいのです。もう90歳になるので、心配でした。普通、高齢者は転んで骨折すると、寝たきりになるそうですね。そうなるんじゃないかと心配したのです。 でも、杞憂だったみたいで、術後はとても快調でした。あまりの快調ぶりに、認知症も治るのではないかと錯覚したくなるほどでした。おかげでお正月は我が家で久しぶりの一家団欒を少しだけ味わってもらえました。 ところが、それは束の間の喜びだったようです。まもなく母はまた転び、今度は本当に大腿部を骨折してしまいました。後で聞いたのですが、前の入院時は、骨折していたのではなかったらしく、後転ばないようにするのが大事だったのだそうです。Rokkuたちはそんなこと聞いてないので、ただのぬか喜びをしていたことになります。 今度はさすがにダメでした。病院に会いに行っても、ボーッとしているだけで、ご飯すらまともに食べられません。だいたい覇気がありません。そういえば、盛んに「もうダメだ、もうダメだ」を繰り返していました、入院当初に。 やっぱり、気の持ちようは大事ですね。おかげで母の認知症は相当進んでしまいました。仕方ないですけどね。おかげさまで退院しましたが、車椅子生活です。健脚だった母が歩けなくなってしまいました。 でも、ホームに戻ってからは、次第に調子を戻しつつあります。大したもんですね。丈夫さもさることながら、女の人の芯の強さを見た思いがします。 そこで今日のタイトルの「老後のジェンダー論」です。 Rokkuにとっても、グループホームを見られたことはジェンダー論を構想するに当たって、本当に有益でした。特に老後の身の処し方を考えるのに、です。 何が言いたいか、もうお分かりかもしれませんが、グループホームでそれなりに元気に過ごしていらっしゃるのはほとんどが女性なんですね。男性がほとんどいない。Rokkuの知っているところでは、一人しか男性はいなくて、しかもその一人の人が長続きしない。最初は元気に、協調的に共同生活を営んでいるように見えても、数ヶ月もすると不機嫌が目立つようになり、そのうちいなくなってしまう。もちろん細かい事情は分かりません。男性が増えるとうまくいかなくなるので、そういうこともあって、数を調整していらっしゃるのかもしれません。が、しかし、そういう事情は措くにしても、何せ男の人が長続きしないのが面白い。 上野千鶴子の『おひとりさまの老後』(法研)という本をご存知でしょうか? Rokkuも購入予定リストには入っているのですが、まだ買ってはいません(今日やっと注文しました)。だから中身について今ちゃんとしたことは申せませんが、老後の一人暮らしについて、ジェンダー論の第一人者が、自らの生活を想定しつつ語っているであろうことは想像できます。 新聞記事によると、老後の一人暮らしは圧倒的に男性が不利だそうですね。さもありなんです。料理は作れない、掃除はできない、近所づきあいは苦手では、老後でなくても生活は破綻し、ゴミ屋敷とまではいかないまでも、それとさほど違わない状況になるのがおちでしょう。 グループホームを見ていると、そこにもその恐ろしい真実が口をあけて待っているような気がするのです。 難しく言うと、これは公共性に関する認識の差異によるものだと思われます。 男は会社における公共性しか持ち合わせていません。会社というところは、共通の利益を追求する集団ですから、そこにおける目的は一致しています。容易に一致団結することができる土壌を、その基盤にもっていると言っていいでしょう。 基本的に言って、男の集まりはこの共通利害をもって構成されているので、同じ方向を向いて進みやすい社会です。それをホモソーシャルといいます。同一原理(価値)で構成されているというぐらいの意味です。もちろん、利害に関する意見の相違はありますよ。しかし、それはどうすれば利害が一致するかではなくて、仮に対立があったとしても、あくまで、どう行動すればその利害にとって有益かに関する対立にすぎません。 それに対して女性の社会は、基本的にその共通利害がありません。「あーら、うちはこうよ」の世界です。この発言の裏には当然、「おたくはそうかもしれませんけど」がありますね。いちいち口に出して言うかは、Rokkuは男ですから知りませんし、「うちはこうよ」にしても、言う人はかなり押し出しの強い、ひょっとすると嫌われ者かもしれませんので、実際にどれほど、このやり取りが現実の会話に出てくるかは分かりませんが、基本的に言って、このやり取りが女性どうしの会話の基調となっているのはおそらく間違いありません。 なぜか? これは基本的に、いくつかの家庭が集まったときのお話にその構図を持つからです。平たく言えば「井戸端会議」です。 家庭の中は外からは覗けません。覗けないので、想像するしかありません。その家のことを知りたければ、探りを入れて、それとなく外から判断する。その方法以外にないでしょう。中にはずけずけと単刀直入に聞く人もいますが、それはあまりに粗野なやり方なので、ソフィスティケーション(洗練)がありません。洗練がないのは、エレガントでないので、女性は嫌います(男だって嫌いですけど、ね)。だから、探りを入れて、それとなく分かる範囲で想像し、解釈するのです。 そういう意味では、女性の公共性って、ヘテロソーシャル(heterosocial)なのでしょうね。そんな言葉があるかどうかは知りませんが。 「相手と意見が合うはずだ、合うに決まっている」から始まる男の社会性は、向こうも同じことを考えているときは有効です。でも、違うとなった時の譲歩のしかたを知っているようで知らない。どうしていいかわからない。 家の中でも、男は同じ公共性でものごとに対処しようとします。つまり、妻に「あなたとの間で意見は合うはずだ」で話を始めるのですね。 普通、夫婦というのは、愛情を基盤にして成り立っている共同体です。言うまでもありませんが、愛とは共同幻想です。「お互い愛しているはず」という幻想がまずあって、そのうえでお互いの条件を互いに調整して、家庭という社会活動の場を形成しているわけです。 お金を基盤にしてもいいのですが、残念なことに、お金では共同幻想にならない。というか、誰との間でも持ちうる共同幻想だから(誰にとっても価値がある)、二人だけの共同幻想にならない。だから、お金を基盤にすると、二人の関係は簡単に破綻してしまう。 愛情を妥協と言い換えてもいいですよ。別に恋愛である必要はないんです。惰性と言い換えてもいい。要は、家庭というのは共同幻想を基にした利害調整の場だということなんです。 女の人は、その家庭という場が利害調整の場であることをよく知っている。井戸端会議と同じように。だってヘテロソーシャルなんですから、彼女にとっての公共性の実感は。 ところが、男はホモソーシャルなんで、妻に自分と同じ感想、同じ意見を求めるんですね。根底のところで、意見の一致を見たいんです。 本当のところは、奥さんが譲歩しているだけだということに気づかない生き物なんです。 この話、面白いんですけど、キリがないから次行きますね。というわけで、この延長線でグループホームに入るときのことを考えます。 グループホームは擬似家庭です。アットホームな空間で、そこはいかにも家庭を思わせますが、実はそこは利害調整の場です。たくさんの女の人たちがいる、ということは、そこが井戸端会議と同じ社会性を持つということです。女の人たちはそのことをよく知っています。女の人にとってグループホームとは、井戸端会議と自分の部屋だけで構成されている、実におなじみの場でしかありません。 では男は? 彼は、この擬似家庭にも意見の一致する場、自分と同意見の者がいる空間を探すでしょう。そうでないと、彼にとっての家庭にならないからです。井戸端会議と自分の部屋しかないグループホームに、およそありえない夫婦の関係の場でも築かない限り、その男の人にとっての家庭はそこにないということを、それは意味します。個室の部屋では独居老人と何も変わらないのです。心安らぐことがない。 グループホームの場が、意外にも、恋愛・痴情沙汰の修羅場と化すということを聞いたことがありますが、そういう現実には、Rokkuの言う男の公共性(その裏返しとしての家庭の公共性)の概念が関係しているのかもしれません。 Rokkuの知っているグループホームでは、細かい事情は知らないものの、現実に男性入居者は次第にしょぼくれて、みんなに合わせられなくて、ついには消えていく運命にあるようです。今ひとりの方が入居していらっしゃいますが、誰かと喋っているのは見たことがありません。母は隣にいるのですが、もう痴呆も進んでいるものですから、容赦なく悪態をつくようです。母の悪口雑言ぶりについては申し訳ないことで、謝るしかないのですが、それにしても心配です。協調してやっていけるでしょうか、あの男の人は? 言うまでもありませんが、その男の人は、未来のRokkuの姿でもあるのですよ。
Mar 3, 2008
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Rokkuは愚息ダンの通う高校のPTA役員をやっていまして、昨日、その高校の卒業式があり来賓として出席する栄誉を賜りました。ダンは高二です。卒業する高三の人たちにRokku自身、面識はありません。いわばお義理の出席です。ただ、彼が通う高校はなかなか今時得がたいほどの充実した高校生活が送れる珍しいところなので、そこの卒業式がどんなものなのかはちょっと興味がありました。 そこで、今日はその式に列席したRokkuの感想です。 この高校は、現校長先生がなかなかの傑物でして、話は面白いは、行動力はあるは、統率力はあるはで、この高校が有名になったことに少なからぬ功績を果たした人です。とにかく面白い。人を飽きさせない。静岡県のとある高校まで、PTAの行事で視察に出かけたことがあるのですが、そのときも車中は彼の独壇場でした。じゃあ嫌味なほどの押し出しかというと、決してそんなことはない。様々な話題をある意味見事に展開させて、決して自慢話に堕したりせず、ある種の爽やかさをもって次の話題に転じることができる珍しい人なんです。 そんな校長先生ですから、訓話は長い、というか、つい舌が回りすぎて時間オーバーということも珍しくないのだそうです。普段お話をうかがっていて、さもありなん、という感じです。 ところが、やはり厳かな式だからでしょうか、いつもと様子が違う。式辞をある意味定型的に読み上げていくだけ、です。しかし、それは見せかけだけなのではないか、とRokkuは思いました。書き上げたものを読んでいるかの振りをして、実はそこには別に何かが書いてあるわけでなく、式辞にふさわしいと誰もが思う言辞を弄して、いかにも式に則った形だけ見せておいて、内実は、簡単なメモしか、その式辞が書かれていると思われる用紙には挟んでなかったのではないかと憶測しています。 決して枠を踏み外すことなく、しかも卒業生のみんなに意味のあることを。そう校長さんは思われたのではないでしょうか。何せ、ご病気で体育祭の最中は入院していらしたのですが、代理に最後の挨拶に立たれた教頭先生が、「ここに校長先生がいらっしゃらなくて、みんなの頑張りぶりに関するお話を聞けないのは実に残念だ」と仰って(教頭先生は初めて見る体育祭に感動していらっしゃいました)、みんなもそれに同感できてしまうほど、校長さんと他の先生がた、そして生徒たちの間の信頼感が厚いのです。ダンもその夜、「まったくだ。校長さんがいなくてマジ残念だった」と言っておりました。 それほどの関係を今時の高校生が校長先生となぜもてるのか、不思議なぐらいです。そういうわけですから、如何に厳かな式での式辞といえども、この校長先生がそのままで済ますわけがない。案の定、各担任の先生方の一言ずつを紹介するという、あくまで卒業生のことを考えた趣向が凝らされていました。もっとも、それは例年通りのことなのかもしれませんが。 とはいっても、枠を超えるほどの演出がなされたわけではありません。あの校長先生にしてこの式次第どおりなのですから、やはり、卒業式というのは、セレモニー色の強い、いかにも「式」という形をとるしかないのかなあ、とRokkuも思いました。 式は進んで、卒業生の答辞となりました。Rokkuはそういうものを読む栄に預かったことはないので、よく知りませんが、ケイトは読んだことがあるそうです。それを後で聞いて、すごいなあ!と感心しましたが、「与えられたものをただ読むだけだったよ」とのたまっておりました。 卒業生代表は女の子でしたが、その答辞原稿が与えられたものなのか、自分でお作りになったのか、もちろんRokkuには分かりません。ま、どちらでもいいのですが、彼女は、淡々とした口調で、しかしある種の熱(冷静・知的な情熱)をこめて、読み上げておりました。内容は、「一人ではできることに限りがある、仲間が大切」という、まあ、よくある話です。 でも、よくまとめられてましたよ。その「仲間が大切」というテーマは、身近な高校生活での経験から出発、その認識を敷衍させ、大学あるいは社会に出てからのもっと大きな問題に将来取り組まねばならなくなったときの心構えへとつなげるという、全地球規模のスケール(たとえば環境問題)にまで広げたテーゼとしての「仲間が大切」に行き着くのですから。実によくできた答辞でした。 ところが、「仲間が大切」を訴える最初の話のところで、ハプニングはやってきました。先ほど申し上げたように、彼女がこの答辞を自分で仕上げたのか、それこそ「仲間」との共同作業なのか、先生(もうひとりの「仲間」)との共同作業なのか、Rokkuは知りません。どちらでもいいのですが、彼女は、自分が窮地(たとえばテスト勉強や、進路のことなど、何でもいいけど、高校生活にありがちな悩みに関するもの、具体的に彼女が何を挙げたかは覚えていない)に陥ったときに、その仲間が救いの手を差し延べ、一緒に考えてくれたことに言及しようとしたとき、感極まったのでしょう、声がつまり、涙が出てきたのです。 それは、はっきりと泣いている声でした。卒業生たちは起立しています。座っているRokkuから、彼女の姿は見えません。でも、彼女が泣いていたのは間違いないでしょう。 そう、それほど、この高校での勉強は大変なものなんです。入学して真っ先に、押しなべてみんなが言う不満は、あまりの量の宿題、毎日のように課せられる小テスト、合格点に達しないと課せられる追試、休日におこなわれる模試への参加と、まあプレッシャーに次ぐプレッシャーなんですね。寝る時間を惜しまないと片付かないほどの課題の山。こんな毎日を三年間も続けられるだろうか、という不安。それをつい、彼女は思い出したんでしょう。 Rokkuは、この学校がそういう勉強をさせるところだというのは、もちろん知っていました。正直、少し心配もありましたが、入学式の前に、ケイトが何やらの用で行かれないからと、ダンに付いて注文してあった学用品を取りに行ったときのこと。そこに在校生の人たちが部活の勧誘をしているのに遭遇しました。そのとき、そんな心配は取り越し苦労だなと、すぐに分かりました。だって、みんなすごく明るい顔をしてたんです。勉強以外のときにこんな明るい顔していられるんなら大丈夫だと、Rokkuはすぐに悟ることができました。この学校は勉強と他の活動(たとえばスポーツ)のバランスがとてもいいんだと直感したのです。 それは間違いではありませんでした。見るにつけ、聞くにつけ、こんないい高校は他にはないと思うようになりました。だって、生徒たちが、ここの学校の生徒であることに誇りを持っている。そうでなければ、あんな明るい顔をしていられるわけがないんです。 でも、明るいだけじゃないんだ、やっぱり。彼女に何があったのかはもちろん知る由もないけど、悩みに悩んで、自分の卑小さに悩み苦しんで、何かの拍子で先生や友達に勇気づけられて、立ち直って、今、答辞を読んでいる自分がいる。そのことに彼女は感動したのだと思います。 そして、その感動の涙は、厳かな式の雰囲気も手伝って、全体の空気を包んでいきました。だからでしょう、その後に彼らが歌った「仰げば尊し」の古い文学性が、Rokkuにはちっとも古く感じられず、21世紀を生きる18歳にも通じる、ある感性の表現足りえてましたよ。 明治のセンチメントはバリバリのモダニズムですから、今の若者にはまったくピンと来ないものでしょう。普段ならそういう違和感しかない歌なのに、あの涙の後だと、何か不思議な連続性が感じられて、あまり経験したことのないような感動が伝わってくるような気がしました。Rokkuだけの思い込みかもしれませんが、ちょっと「伝統」という言葉を思い出しましたよ。高校生は何も感じていないと思うけど。 さて、Rokkuの言いたいことです。 あんないい高校にいたみんな、おそらく大学へ行ってガッカリすることでしょう。残念ながら、そこは君たちが思っているほどいいところでも、刺激的な場所でもありません。一部の大学を除いては、すっかり弛緩した場所にしか見えないでしょう。あんな刺激的な高校から、下手をすると最も弛緩した場所へと移動する。これは別の意味でのカルチャー・ショックだろうと推察します。 どうか、ガッカリするかもしれないと覚悟して、大学へ行ってくださいね。 あの高校の唯一の弱点は、オルターナティブ(代替)のなさです。代替がないとは、一流大学以外には目標とすべき場所がない、というぐらいの意味です。ここで言う「一流」とは本当の一流で、比喩的に言えば「東大」の言いかえぐらいに思っておいて下さい。比喩ですから、必ずしも東大でなくてもいいですが、該当する範囲がかなり限られることは間違いありません。プライドをくすぐられるぐらいの知名度、といえば分かりやすいかもしれませんね。プライドをくすぐられるというのは、きわめて主観的な尺度ですから、ある大学が一流と思えるかどうかは、個人差があるということでもあります。 オルターナティブがないことは、あの高校の責任ではもちろんありません。それはむしろ日本社会が責を負うべき事柄です。あの高校は、そういう、日本社会に一つしか残されていない価値を、高校生活におけるもっとも重要なポイントと明確に意識し、それを徹底的に実践しているだけのことなのです。しかも、他の事柄も無視することなく、です。これは至難の業であって、Rokkuはもちろん、そういう、あの高校のありように大変な敬意を表しているのです。みなさんの頑張ってきたことに間違いはありません。 問題なのは、その要求に応えられる大学が少ない、ということなんです。 でも、行く末を心配する必要はありません。大学の体制というか、高等教育体制はまだまったく整っていません(もし大学教育が自由化されたら、ほとんどの大学は淘汰されるのではないでしょうか)が、幸いなことに、どの大学にも「いい先生」が、必ずいます。その人を早く見つけてください。そして仲良くなって、色々とその先生と話をしてください。どんな大学であれ、あなた方が4年間を過ごすことができそうな空間を、その先生の近くに見つけられるはずです。 ユビキタスという言葉があります。遍在という意味で、平たく言えば、どこにでもある、ということです。「いい先生」もけっこうユビキタスなんです。 グッド・ラック!
Mar 2, 2008
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日記をアップしなくなって長い月日が経ちましたが、その間にもっともドラスティックに変化したのは母のことです。盛んにアップしてた頃の母は、ボケたといってもまだ家にいましたが、その母も長い間自分の家には帰っていません。グループホームにいるんです。 移った頃に感じた、いろいろな思いはもうかなり薄れてしまいました。自分の家が見られないなんてかわいそう!と思うこともないではありませんが、今ではホームのほうが母には快適なのではないか、そう思うことばかりです。家なんてただの郷愁ですし、今見ても誰の家か分からないかもしれませんしね。 ケイトは一貫して、家を離れてから母は悪くなったと言います。でも、Rokkuにはどちらとも言えない気がします。ケイトにしてみれば、いろいろなことに気を遣いながらも、陰で文句を言いながらも、家にいるというただ一点でもって、母はしゃんとしていられる、そういう意味での気概というか、気の張りを持っていられるのに、ホームに入ってしまうと「アア私はもうダメなんだ、家にいられなくなってしまった」とレッテルを自らに貼ることになる。そのガッカリした気持ちがあって、状態は悪くなるんだと言います。 そうかもしれません。自らの頭がうまく機能せず、悪くなったことを盛んに嘆いていた母ですが、そういうことをホームに入ってから言わなくなり、人の悪口ばかり言うようになりましたし、欝の症状がかなりはっきりと見られるようにもなったので、ひとり部屋でポツンとしていると碌なことを考えないんだろうなあと思います。 しかし、Rokkuは悪くなってもいいんではないか、と思っています。だから、兄夫婦が母をホームに入れることにしたことはやはり、正しい判断だったと本当に思っています。家で面倒を見るのははっきり言って無理です。感情的軋轢が大きくなるばかりですしね。家にいたって没交渉なんだから、悪くなったのは、コミュニケーションがなくなったからではないと思うんです。どうせ次第に進んでいくんです、認知症は。それなら、せめて快適に進んでいったほうがいいのではないか、Rokkuはそう思うんです。 母の部屋は殺風景でした。かわいそうなぐらいに。没交渉は明らかでした。話が普通にはできないのだから、そうなるのもある程度無理はないんです。100パーセント母に合わせないとコミュニケーションがとれているようにも見えないほどなんですから。それは家で1週間預かっていたときから、多かれ少なかれ見られる傾向でした。 コミュニケーションなんて、いいかげんなものです。結構誤解の連続でも、それなりに通じ合っているようなのがコミュニケーションです。それがいかに誤解に基づいていようとも、互いに了承したという共同幻想さえ成立すれば、立派なコミュニケーションです。というか、幻想があるからこそ、コミュニケーションは成立するんですね。そう、コミュニケーションなんて、通じ合っているという思い込みで成り立っているんです。ヴィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」ですね。 だから、ケイトの言うように、こちらがその言語ゲームであることを理解して、母に100パーセント合わせてしまえば、実は会話は成立するんです。少なくともそう母が思うことはできる。 寛容さが何よりも大切なんです、認知症には。 殺風景な部屋とは、それがないことのいい証拠です。だから、Rokkuは、母はホームに入ってよかったと思うんです。少なくとも、もうあんな寒い部屋にいる必要はないし、夏にあんなに暑い部屋になることもありません。 いまどき、同居だからといって、どれほどの気配りを受けて、老人が生きているというのでしょう。みんな自分の大事な人のことで奔走しています。とりわけ、介護の中心にいる家庭の母(Rokkuの母ではありませんよ)は、場合によっては共稼ぎまでして、そのうえ老人の面倒も見ていたりする。そんな人がどうやって寛容になぞなれるのですか? 土台無理な話です。 何をどう考えようとも、母(Rokkuの母ね、念のため)はホームにいたほうがいいに決まってます。そこにはビジネス・ライクの付き合いしかないかもしれないけど、少なくとも職業柄必要とされる「寛容」はあるに決まっている。そう思ったからです。 で、実際は、もっといいところでした。だから、今のほうがいいとRokkuは言い切れるんです。 ホームの母の部屋は、前と変わることなく、殺風景です。でも、それは母の性格なんですね。そういう人だと息子の私が思います。さっぱりというか、気にしないというか、細やかではないんです。 ホームの方々は、そんな殺風景な部屋にたまに絵を飾ってくださって、すごく気を遣ってくださっています。そのことをRokkuは知っています。実によくやってくださっている。素晴らしい人たちです。実に親身な方々です。頭が下がります。
Mar 1, 2008
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昨日は結構運動できました。テニスはしませんでしたがね。 まずは、筋力トレーニング。内容は細かく言えませんが(どう表現すればいいのか分からない)、主に二つの目的でやっています。一つは、テニスのせいで悪くなりそうなところを補強するトレーニング。中心になるのは肘の鍛錬で、ストリングを使った肘の周りの筋肉を鍛えるトレーニングと、肘の周りのストレッチで成り立っています。 もう一つは、テニス・水泳・ジョギングのパフォーマンス向上に役立つと思われるトレーニングです。一つはスクワットで足の鍛錬。もう一つが腕と肩の筋肉を鍛えるものです。 で、ごく最近になってもう一つ目的が増えました。題して、体重変動があまり起きない運動を目指す、です。これは受け売りなので、あまりうまく説明することができませんが、要するに、あまり汗をかかないでカロリーを燃焼させる運動を目指す、ということらしいです。この前言ったかもしれないけど、確かに、ジムで筋トレやっている人って、あんまり汗をかかないんですね。前から不思議だったので、ある人に聞いたら、そういうことをその方がのたまった。それでRokkuも目指そうか、ということになったのですが、そのために、一つの器具で15回やるだけだったのを、時間が許せばもう15回ずつ繰り返すことにしました。 今度はジョギングです。これはまあ、走るだけですが、以前足を痛めたので無理をしないようにしています。歩くのにも困るほど膝の周りが痛くなったことがあって、度が過ぎないように!と言い聞かせます。時々知り合いに、死んじゃうぞ!と真顔で心配してもらうので、返答に困ります。 でも、そんなことを言われてもと困りながらも、結構一所懸命に走ってしまいます。膝に気をつけながら。 だんだん分かってきたのですが、走るのは、負担が心臓というか呼吸器系(そこにもかかるのでしょうが)ではなくて、やはり足にくるんじゃないでしょうか。足が負荷に耐えてくれない。水泳と比べるとつくづくそう思う。 水泳の場合、腕や足が疲れるというよりも(もちろん疲れはするんですが)、呼吸のほうが大変。心臓と肺に負担がかかる。ど素人の言うことですから、どれだけ正しいのかはまったく分かりませんが、経験的に言って、息苦しさとの闘いみたいなところがある。とりわけRokkuの場合、ノーズ・クリップをしないと鼻水が止まらなくなるので、よけいに呼吸が苦しい。息継ぎが大変ですから。それが拍車をかけるんでしょうね。足や腕よりも、きついのはそっち。 マラソン選手って疲労骨折が多いでしょ。走りすぎてしまう傾向って、本質的に持っているのじゃないでしょうか。ランニング自体が。ランニング・ハイとか、エンドルフィン効果と言われるけど、脳と足の関係って、なかなか面白いですね。そういえば、橋本治がサッカーの芸術性を「手を使えなくしたこと」と喝破していましたが、脳と足って遠いんだよ、多分。だからすぐ騙されるんだ、脳は。きっと。 忘れそうになりましたが、走った距離は4キロです。大したことありません。えらそうなこと言って、たった4キロです。でも、足には結構負担がたまるんです。そうならないように、坂の負荷をかけて走っています。どうしてかは知らないし、気のせいの可能性も多分にあるんですが、負荷をかけたほうが次の日がラクなんです。それから、負荷をかけてある程度の距離歩くのも大事。 さて、水泳ね。 アップが100メートルのクロールに、行きが個人メドレーで帰りがクロールの50メートル4回で200メートル。(計300メートル) この前と同じですが(メニューが全部終われないと次回にそのメニューを繰り返すことにしているものですから)、少しだけキックをと思い、クロールのキックを100メートル入れました。続いて片手で腕・肩を伸ばすクロールの練習が、右左で50メートル。スカーリングの練習を50メートル。プルを付けて50メートル6回で300メートル。(計500メートル) ここからがスイムです。まず個人メドレーの種目で25メートルを2回だから、全部で200メートル。そしてクロール50メートルを4回で200メートル。さらにクロール100メートルを2回で、やはり200メートル。今度はクロール50メートルの4回に戻って200メートル。さらに個人メドレー25メートル2回にも戻って、200メートル。(計1キロ) 最後にクロール25メートルのダッシュを2回で50メートル。ちょっと速くなった感触アリで、嬉しい。ダウンは100メートルです。(計150メートル) 合計1950メートルですか。よく泳ぎましたねえ。 そうして、仕上げに10分間水中ウォーキングをする。これが足の疲労回復にことのほか効果的なのはこの前も言いましたよね。そうなんです。これをするのとしないのとでは、次の日が大違いなのですから、面倒くさがらずに必ずやるようにしてますよ、Rokkuは。
Feb 29, 2008
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昨日は運動がほとんどできませんでした。会議が長引いて夕方になってしまい、ジムに行く気にはさすがにならなかったからです。 で、会議の内容がなかなか面白かったので、今日はその話。内容は何かというと、FD(ファカルティ・デベロプメント)といって、授業内容が学生にとって有益であったかどうかを教授者側が検討しあい、問題点に関する情報を共有しあって、互いの授業を高めあおうとする企画です。学生に授業内容を評価してもらうためのアンケートをおこない、その結果はじき出された数値に基づいて、自らの授業内容を様々に検討、次回の授業で改良していくわけですね。平たく言えば、授業に関するQC(クォリティー・コントロール)会議です。 もちろん、導入時には否定的意見が多かったです。学生に正当な評価ができるのかとか、単位がとりやすい科目やレベルの低い授業など、結局学生の意向に迎合する授業を増やすだけではないのかとか、当然ありそうな否定的意見が大勢を占めていましたし、Rokku 自身もそういう傾向を危惧した一人です。授業に関する検討がオープンになされるのには大賛成だけれど、学生に尋ねるというのは両刃の剣なんじゃないか。学生だって決して褒められたものではないのが現状ですからね。 でも、この企画が導入されてもう何年にもなりますが、最近になって、やはり学生に聞いてみるのはいいことだなとつくづく思っています。彼らは、当たり前かもしれないけれど、学ぶために学校へ来ているんです。そう見えないことも多々あるでしょうが……。 こんな話をすると、「大学って変わったんだ!」と思いませんか? ホントに昔とは違いますよ。なぜか? 簡単です。学生が変わったんです。 学生が勉強しなくなった。 そんなのは昔だって同じだった、そうおっしゃるかもしれませんね。そうです。昔だって同じだった。でも、昔は、やらなくていいからやらないだけの話で、やらなかったからといって後で困ることにはなりませんでした。だから大半の大学生はマージャンなどして遊んでいても、別に就職に困るわけでなし、ちゃんと社会人になれました。モラトリアムとか何とか言って、「友達を作ればいいんだ!」なんて、親も、うそぶいていられたんです。 昔は、大学に入るためには勉強をしなければならない、という大前提がありました。その前提をこなしたからこそ大学にいられるわけですから、大学生になったということは、もう既に勉強の下地ができている、ってことなんですね。だから、イザ!となれば、何をどう学べばいいかの、おおよその形は、各人それなりに出来上がっていたんです。 大学へ行かなくっても事情は同じです。会社に入るためには高校・中学で勉強したという大前提がなければならなかった。有名企業に就職するには、やはり優秀でなければいけなかったんです。その優秀さとはまさに勉強する態度です。いつも工夫をしようとする気持ちです。そういう、勉強するという下地を、みんなそれなりに作ったうえで社会に出て行くというシステムが昔はあったわけです。 つまり、昔は、みんなその人なりに「真摯に学ぶ」ということを身につけて、その人なりの社会へと旅立っていけたのです。簡単に言うと、みんな勉強したんです。 で、今はこの大前提が崩れているんです。 勉強しないというのは、比喩ではありません。本当に勉強しないんです。試験の前でも勉強しない。試験ができなくても何とかなると知っているから。大学にまで行けることを知っているから、勉強しない。 今でも勉強する子はいますよ。当たり前です。そういう子は、一流大学に行かなければなりません。そのためには合格しなければなりません。だから勉強します。 もうお気づきかもしれませんが、大学といっても、一流大学は今でも中味はほとんど変わっていません。先生方は昔のまま(だと思います)。なぜか? 変わる必要がないからです。近頃の学生はできなくなったなあ、と言っていればいいからです。それで何も困らないからです。一流大学の学生は、やはり就職に困らないんですよ。 Rokku も昔公立大学に勤めていましたが、もしあのままあの大学にいたならば、あまり昔と変わらなかったでしょうね。学生が優秀だと、別の大変さはもちろんありますが、それでも自らの研究さえきちんとしていれば、おそらく大きく変わる必要はないからです。 話がちょっと逸れますが、今の勉強する子どもたちも、それはそれで大変です。一流大学に入るという一つの価値しかそこには残されていませんから。曲者はセンター試験です。二次試験を含めて、結局二回試験に成功しないと、合格という「お印」はいただけませんからね。しかも受からなければ何も残らない。ここが辛い。敗者の気持ちが簡単には克服できないんではないでしょうか。結局、受かるまで挑戦し続けるしかないんじゃないかなあ。 さて、勉強しない学生たちですが、彼らは彼らなりのあり方で、もちろん大変です。実は、何とかなるのが大学の入り口までだけだからです。後は無理なんです。 ここ、大事なところです。入り口までだけということは、卒業できないことがありうる、というような簡単な話ではありません。そんなものは昔からありました。問題なのは、来てみたけれど「面白くない!」しか思わない人たちが結構いることなんです。 要するに「私は何もしたくない」ということがはっきりしてしまう人々ですね。「隠れニート」とでも申しましょうか。言うまでもありませんが、この人たちは働けません。だって、本心は「何もしたくない」なのですから。すぐやめます。もちろん、入った大学もすぐ、あるいは1・2年でやめます。 お気づきと思いますが、実は、就職して3年以内に辞めてしまう若者が一杯います。心性上、上の二つの事柄は当然関係があると考えるべきでしょう。 授業でも言うのですが、今の若者たちは潜在的にニートなんです。「面白くない」んです。本当言うと、面白い授業ってないんです。単位がいるから、しょうがなく授業に来て、単位取れる程度の勉強だけして、ぎりぎりの努力で(別の意味での費用対効果だ!)大学を卒業していくんです。 Rokku は非常勤で国立大学にも集中講義をしに行くことがあるんですが、自分の大学で身につけたノウハウを用いて、できるだけ面白そうに、できるだけ必死に授業をやるようにしています。そのためには自分が面白がっているテーマをぶつけるべきかと思うので、教えて立ち往生しないかと不安になりながらも、それにあえて挑戦します。すると、異様な盛り上がりに包まれるのですね、その集中講義が。「こんなに面白い集中講義は初めてだった」とか言われたりすると、無事にやれてよかったと安堵するとともに、彼ら・彼女らも普段の授業に不満なんだな、満ち足りないものがあって「面白くない」と思っているんだな、ということが分かります。 「潜在的にニート」とは、もちろん、満ち足りた幸せな子どもたちの言い換えです。彼ら・彼女らは豊かなので、飢えたように努力する必要がないんです。 でも、面白がるとは経験知です。その経験がないと、ありきたりのアミューズメント以外のもので面白さを経験することができません。そういう意味で言うと、面白さの極北にあるのが授業なんですね。 「勉強する気にさせる」授業をすること、それは、文科省が言う意味と同じかどうかは知らないけれど、本当に生きる力をつけることなのかも知れんなあ。そう思ったりするんです。これ、比喩じゃありませんよ。 Rokku にそのことに気づかせてくれたのが、何あろう学生による授業アンケートなんですね。「牛に引かれて善光寺参り」。
Feb 28, 2008
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長い間書いてなかったブログを見て、あらためて時間のたつのが如何に早いか思い 知らされたように思います。水泳のスクールに通うになってもう丸二年になるんだな あ……。 日記って、まさに備忘録なんだと再確認しました。 何も書くことがない日などは、前日の運動量でも書いておけばいいのかもしれんで すね。 さて、その運動量ですが、この二年の間に実は減っていません。相変わらずです。 泳ぐ距離は少し短くなりましたが、他にやることが増えました。水泳の大会にまで出 るようになってしまいました。いったいどうなるつもりなんだろ?と、時々思いま す。 最近思いついた言い訳は、震災にあったときに家まで歩いて帰れる体力をつける? そうかもしれない……。分からない、相変わらず。 というわけで、昨日の運動量です。 夜テニスのスクール、1時間半。結構ハードだけど、運動量は分からない。寒かっ た。 テニスがあるときはいつも2キロ走るのだけど、昨日はその後ダンのテニス・ス クールが会って、10時にはテニス・コートにいなけりゃならないので、9時にはプー ルに行きたい。そこで、1.5キロにしました。走るといっても、時速8キロの軽いジョ ギングです。 書き忘れましたが、走る前に筋トレを少々。細かい器具の名前は分からないのです が、10分もやらないかもしれません。肘や肩の疲れを取るのに最適です。詳しい人に 聞くと、もっとやったほうがいいらしいです。代謝にいいんだそうです。体重変動が 少なくなると聞きましたよ。 プールは、100メートルのアップ、続いて行きは個人メドレーの順、帰りはクロー ルの50メートル4本。それから、片手で肩から前方に腕を伸ばす練習を右手左手25 メートルずつと、スカーリングの練習を25メートル2本。プルを付けてクロール50 メートル6本。スイムは個人メドレーの種目25メートルを2本ずつ。100メートルのク ロール1本で、時間終了でした。全部で、100メートル、200メートル、50メートル、 50メートル、300メートル、200メートル、100メートルですね。ちょうど1キロです か。 ダウンは、水中ウォーキングを50メートルしかできませんでした。ケイトに教えて もらったんですが、足の疲れを取るのに水中ウォーキングはことのほか効果的です。
Feb 27, 2008
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久しぶりにアップします。ちょっと暇な時間ができたので。 一時期「失われた10年」って、よく言われました。バブルがはじけて不景気にな り、なかなかどん底から抜け出せなかった日本経済。その間にさまざまなお店がなく なっていきました。 不景気からはいつか脱出し、いつの間にやら、世の中好景気と言われるようになり ました。でも、それは前の景気の良さとはまったく実態が違う。そのことも、新聞・ テレビでよく言われました。トンネルを抜けると、そこは雪国ならぬ、ポストモダン のグローバリゼーションの怪物の世界。Rokkuには縁がありませんが、ミッドランド・ スクエアとはそういうところなのでしょう。 通勤にはクルマを使っています。いつも通る国道には元々あまりお店はありません でした。喫茶店も数えるほど。交通量が少ないので、勤務先まで行くのにも距離の割 には時間がかかりません。Rokkuにとっては重宝この上ない道路なのですが、そんな 国道ですから、お店が出来るわけがないんですね。 ところが、何年ぐらい前からでしょうか。お店がさらに減ってきた! おそらく代 替わりなのでしょう。団塊の世代の中には喫茶店を個人経営していらした方も大勢い らっしゃる(いらっしゃった)のではないでしょうか。国道沿いにあっても、その土 地の人々だけが対象のお店。アット・ホームな地縁・顔見知りのくつろいだ空間。団 塊の世代の第一線からの退却とは、そういう地縁社会としての様々な空間がいよいよ 本当に消えてなくなる。そういう意味だったのかもしれません。 なかなか、プレスティージュの話にいけません。Rokkuの悪い癖です。 何度もこのブログで書いてきたように、Rokkuはル・トア・ド・パリの私設応援団を 自認しています。応援団長としては、時々インターネットをチェックして、ル・トア・ ド・パリのコメントが増えたかどうか調べなければなりません。 久しぶりに調べてみて、ビックリです。ずいぶん増えているではありませんか。ヒ ロ・ナカムラではありませんが、「Yatta!」ですよ。お節に関するアップまであ る。やめてください。あんまり広がったら、困るではないですか。と、応援団にある まじき軽口です。 応援団としては当然、どんなことが書かれているのかをつぶさに見ていかなければ なりません。チェックしていくと、その中にずいぶんたくさんのレストラン情報に関 する薀蓄が書かれたページがあって、「究極のレストラン・ランキング」と、まるで 『美味しんぼ』みたいなことをしている人がいるではありませんか。その中に一時期 話題だったケーキのシェ・シバタのことが書いてあって、そこのコメントに「パリ」 のコメントがあるという。それでRokkuはチェックに走ったわけですが、そしたら、 コメント欄の現実はシバタに関する賛否渦巻く意見の嵐で、まあ大変なわけです。 で、その中に「プレスティージュ」のことが書いてあった、というわけですよ。そ うか、ひょっとして、あのプレスティージュ(Rokkuが一生において毎週通った―― 狙いはケーキよりもお惣菜だったんですが――唯一の店、これからもおそらくはな い)と、柴田氏は関係があるらしい! ひょっとして、小田川さんの下で働いてい た、あのよく言葉を交わした若者が柴田氏だったのか? そういえば、何か、生意気な薀蓄を語る人がおったなあ、あの店に。ずいぶん自信 家だなあと思ったことがありますが、あの人がそうだったのだろうか? 今度の土曜 日にル・トア・ド・パリでワイン・アンド・ランチだから、小田川さんに聞こっと。 で、あんたは何が言いたいんだって? そりゃあ、シェ・シバタに関する悪口が、要するに、グローバリゼーションの逆巻 く時代でのお店経営の大変さ、ってことなんだろうな、という感慨です。コメントで 縷々語られている悪口はおそらく嘘ではないんでしょう。でも、今更、身も心もこぎ れいなままで一線にいられるほど、時代はシンプルではないんでしょう。もう、外で おいしいものを食べようと思ったとき、そこにあるのは、マクドナルドと地続きなん だということを覚悟しなければならないんじゃないでしょうか。小田川さんだって年 とるしなあ……。 レストランの味について、まるでそれに関する理想的絶対的地平があるかのように 議論していても、何か大事なものが抜け落ちてしまっているのかもしれませんね。
Feb 26, 2008
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久しぶりのアップです。 なかなか外で食事というのがしづらくなりました。お酒なしで食事だけというのはつ まらないのに、郊外に住んでいると、車なしというのはもっと困るからです。 Rokku の家族(というか夫婦)が見つけた方法は、「どちらかがあきらめて飲まな い」です。Rokkuかケイトかどちらかが運転手になるのですね。色々事情があって、 なかなかその担当がきれいに交互になるという具合に、イーブンとはいきませんが、 そこはそれ適当に算段しつつも、最後にはいっそ外食しない、となることも多いので す。結局、我が家が採ったのはほとんど最後の選択肢。つまり外食しない、です。 でも、ボーナス・シーズンともなると、やはり気がはやります。いくらか懐が暖かに なりそうなので、「久しぶりに外でご飯を食べようか!」となる訳です。 しかも今年11月のワイン蔵出し(セラーのワインを全部出して、飲み頃になったか どうかを決めるRokku の例年の行事)の結果が良好で、結構いい線いってるワインが 多かったんですよ。そうすると、購入時に高かったワインなんかは、できれば小田川 さんの料理でと思うのが道理じゃないですか。 かくして、晴れて久しぶりにル・トワ・ド・パリに行こうとなったわけ。 するとケイトが、「折角のワインを開けようというのだから、運転してあげるわ」と 落涙もの(ところで『Always3丁目の夕日』はよかったですね)のことを言ってくれ たものですから、はりきりましたよ。ワインも。ドミニク・ローランのシャンベルタ ン・クロ・ド・ベーズ 1998(Dominique Laurent, Chambertin Clos de Beze, 1998)です。 98年はパーカーによればとっくに飲み頃なのですが、Rokku のいい加減な目測ではま だまだの感じでした、長い間。ところが、いつだったか忘れてしまいましたが、マル タンの那須さんが98年はよく熟して来ましたと仰るんですわ。2000年のブルゴーニュ ももう飲み頃とのたまいました、彼は。そんなものかと思って、今回蔵出しでチェッ クしてみると確かに行けそうな気がする。2000年のボルドーもかなり行けそうな感じ で、今度試そうと思ってます。 この話を、那須さんから聞いてなかったらやめたかも知れないけど、その気になって ワインを眺めると、確かに熟成の粋に達しているのが結構ありそうに見えます。こう いうとき、権威の一言は人の行動を背中からポンと後押ししてくれますね。この後押 しがないとなかなか2万円を越えるワインは開けにくいんですよ、正直言って。 藪から棒ですが、Rokku は株はやりません。ギャンブルだからです。でも、実を言う と、ワインのコルクを開けるのも何だかんだ言ってギャンブルみたいなもんです。1 万円越えるワインで失敗したことも何度もあります。ギャンブルなんですよ、結構。 だから後押しが欲しい。 前置きが長くなりましたが、ドミニク・ローランをRokku が心置きなく飲めることに なりました。うまかった! これぐらい出して、当たると、なるほどうまいブルゴーニュはやめられんぞ、という 感じですね。ここから上の値段のものは、どれほど違ってくるのか、Rokku には分か りかねますが、素晴らしい花の香りと、甘み、フルーツの熟した香気に、しっかりし たアルコール感が複雑に入り混じる。要するに、相矛盾した二つの要素の混合。大げ さに言うと、弁証法的な止揚の世界がそこにある、ということでしょうか。楽々とそ こに至るのが、ブルゴーニュのグラン・クリュなのだな、と思いました。 ピノ・ノワールに特有に感じられる土臭さ。それは、決して嫌な香りではありませ ん。Rokku は好きですが、それはほとんど感じられません。でも、あるんです。甘み の中に潜む相反する要素として、それがまとわりつくように舌の上に残り、不思議な 弁証法的世界へとRokkuをいざなう感じ。 最初の料理はきのこのパイ包みでした。うまい! 冬は違いますなあ、夏とは。写真 はありませんが、パイのさくさく感が、ワイン・ソースとよくマッチしているんだけ ど、何と言うか、小田川さんのこれは軽くないの。ひょっとしてRokku がシャンベル タンを持っていったからかもしれない。 今、書いていて思い出したけど、そうだシャンベルタンだった。そういえばアルマ ン・ルソーのシャンベルタンに似ている、味というか、気配というか。姿が。なるほ ど花とフルーツ。その背後にしっかりした土。シャンベルタンの特徴なのかな。 それが、きのこのパイ包みと調和して、冬の重みにあらわれるのだろうか。とにか く、よく合うよ、きのこと。そしてパイのさくさく感と。このワイン。 次は柿の熟した実になんだろう、聞いたんだけど忘れてしまった、調味料が入ること によって少しエキゾチックな味わいへと変化した一品と、絶品のフォアグラ。これに はやっぱりイケムか何か甘口の白が欲しいところだけど、それは贅沢というもの。で も、やっぱり赤ではちょっと無理。水の方がいいか。 魚料理は答志島の鱸とホタテに、アスパラとセロリのソテーだったと思います。よく 魚は白だというけど、どうしてどうして、料理によってはまったく赤でおかしくな い。おいしいマッチングが味わえました。やっぱりスパイスの使い方なのでしょう ね。ホタテもぜんぜんおかしくなかったです。 最後はフランス産鴨のロースト、ブルーベリーのソースでした。ワインがベリー系の うまみが凝縮されたタイプなので、このソースなのだろうと思いました。ワインとの 相性? そんなの、聞くほうが野暮でしょう。 ところで、小田川さんから、「Rokku のブログを見て、ル・トワ・ド・パリへ来た」 というお客さんがあったのだそうです。嬉しくなりましたね。小田川さんのしっかり した構築された味わいをぜひ皆さんにも楽しんでもらいたいと思いますから。 Rokku の好きな吹き上げのマルタンは、いわば現代的な味です。もちろんおいしい し、素晴らしく感動します。ワインは那須さんが料理に合わせて、一杯一杯合わせて 準備してくださるし、その素晴らしいサービスは感動モノです。 でも、小田川さんの作る料理って、もう少し重みがある。何なんだろう? 伝統なの だろうか。フランスの? ちょっと分からないけど、少なくとも構築的なのは事実。その意味では、夏よりも冬 のほうが合うのかもしれませんね。夏のブイヤベースもやめられませんが……。 勝手に宣伝役を買って出ている関係もあって、お店の電話番号書いておきますね。必 ず予約してくださいよ、ブログ見たとも言ってくださいね。 ル・トア・ド・パリ xxx-xxx-xxxxx 毎年冬に横浜のご夫婦がいらっしゃるそうです。素晴らしい写真と共に、HPで紹介し ていらっしゃいます。今度予約の電話が入ったら教えてくださいね、と小田川さんに 頼んできました。ワインを持って出かける予定です。 そうそう、お節もやっていらして、まだ間に合うんじゃないかな。すごくおいしいで すよ。大晦日にとりに行って、その晩にうちは食べちゃいます。オマールなんか争奪 戦です。めちゃくちゃうまいですよ。
Dec 4, 2006
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採点やら色々な雑務が今日、何とか一段落しました。 しばらく日記がアップできませんでしたし、明日から岡山に出かけるので、また二、三日、日記がかけません。 だから、何とかして、これからあるスイミングのレッスン前に、日記を書いておこうと思います。 もちろん言いたいのは、この前の亀田兄ちゃんのボクシングのこと。ひどい試合でしたね! あの人、パンチは強いかもしれんけれど、本当にまだまだこれからの人だったんですねえ。すごい視聴率に Rokkuも加わってしまいました。 なるほど世界との差は相当なものだ。でも、あの頑張りというか、根性は買えるから、もっと勉強して強くなって戻っておいでよ……。 そう、シンパのボクシング玄人のTV解説者も話していたし、Rokku も心底そう思った。いい勉強だったね!と。 そしたら、チャンピオンだと言うではないですか! 絶句しましたよ。 あきれてTVを消しましたが、みなさん、ご存知です? 翌朝のTVのワイドショーは、まだ祝賀ムードだったんですよ。 TVが何を言うか興味あったので、朝のワイドショーを見たのですが、スタジオに亀田君を呼んでインタビューしているぐらいだから、そりゃあ批判はできませんわねえ。 でも、真の意味ですごかったのは、その後でした。 なんと、午後のワイドショーでは、もう、判定への不満のほうにトーンが完全に移っていたからです。 TVって、ひどい日和見ですねえ。あれは信用できません! だって、世論の動向次第では、いかようにも意見を変えていくメディアであることが、今回バレバレになってしまったわけですからね。朝令暮改とはこのことだ。 その点、新聞は朝から判定への疑問が渦巻いていました。 全部の新聞を見て言っているわけではないので、たぶんに印象批評ですが、スピードが売り物、視聴率を稼げるかどうかにかかっているTVって、本当に危ない存在ですね。オピニオン・リーダー的な存在にはなれっこない! それで思い出すのは、ワールド・カップでの日本戦です。 スポーツが劇場型になって久しいと言われますが、ひょっとしたら、TVメディアって、とにかくTVへの映りかただけを問題にしているのではないでしょうか。本当の実力は度外視して。 見た目にいかにカッコいいか、TV映えするかどうかだけで、さまざまなことが決定されているのではないですかねえ。 インタビューしても、TVの場合、現場でその人から直接話を聞くのですから、インパクトもあるしね、カッコいいし。そりゃあ、TV映えして、視聴率が稼げるでしょう。 ところで、オシム監督が選抜したメンバーって、全然ジーコの選んだ選手と違うでしょ? Rokku はサッカーのこと詳しく知りませんけれど、オシム氏はTVメディアが嫌いなのではありませんかねえ、ひょっとしたら。真実を捻じ曲げるから。 これは Rokku の邪推でしかありませんが、もしその邪推が正しいのなら、オシム氏の日本チームは面白いかもしれません。 そして、もし本当にオシム・ジャパンが面白くなったら、Rokku の言っていることは正しいということになるのだろうか?
Aug 5, 2006
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ということで、今日もワインの話題を。 今年に入ってから、ワインのこまめなチェックをやめてしまいました。 えらそうに、ワインのテイスティング記録をとっておくと自分の評価が次第に客 観化されていいですよ、なんて言っておきながら、なんか、飽きてしまいました。 ワインにも前ほど情熱が入りません。 理由は分かっているんです。相変わらずセラーに入らんのですよ、ワインが。と いうことは買うわけにいかない! 特に夏はね。 この前も、かなり高価なヴヴレーの甘口を野菜収納庫に置きすぎてしまい(30度 を越える日がありました)、少し吹きました。もう飲んじゃいましたが、ケイト にばれなくてよかったですよ。値段を考えると犯罪ものだ! 味ですか? 何とかよかったです、飲めましたから。ハハ ハ…… 梅雨明け宣言はないけれど、もちろん、今は夏ですよね。夏はシャンパンだ!と ばかり、3本ほど購入したのですが、そのボトルを入れるために何か適当な赤を 消費して、セラーの場所をあける。こういうのを自転車操業と言うのでしょうが……。 ある楽天のお店で、クロド・デュガのブルゴーニュが結構お買い得な値段であり ました。お買い得で失敗ばかりしている Rokku です(ケイトにいつもたしなめ られる)が、これは買わねば(今一本もないし)と、早速購入! セラーに入れ るために、また別の1本を飲む。暑いから、つい白に手が出る。結果、臨時用の セラーのほうは赤でいっぱいになってしまうんです。 何とか入れたと思ったら、お中元でワインをいただきました。もうセラーに空き はなし、冷蔵庫もすでに2本入れてあります。しょうことなしに、床に1本ぽつん と立っていますよ。 こうなった最大の原因は、Rokku の誤算にあります。95年物が去年飲み頃を迎 え、十数本大放出され、セラーがあくはずだったんですが、なかなか予定通りに はいきませんねえ。去年の秋の蔵出し(ボトルをセラーから全部出して、飲み頃 かどうかをチェックする作業を、Rokku は勝手にそう呼んでます。毎年11月の楽 しみでした)で飲んでもいいなとなったのは、わずかに3本ほどでした。 ワインって、簡単に成熟しませんねえ。1年ごとにチェックしてもあまり意味は ありません。今年は蔵出しをやめようかなと思っているぐらいです。 確かに蔵出しは楽しみではあるんですけど、結構大変でもあるんですよ。積み込 んであるワインを全部出して、床に並べて、またきれいに積み込む、というのが ね。ほら、ワインって、形がよく似ているようで、ボルドー以外は微妙に違うで しょ。あれが積み込むときの邪魔になるんです。結構太いしね。積み木のように 積まないと崩れてくるし、だんだん嫌になってきました。 楽しみにしていたんです。ワインは大体10年が目処なので、2005年になるのを。 ところが10年経っても、さほどワインが成熟を迎えたという感じがしないんで、 はっきり言ってガックリきてるんです。 今年はどうしようかなあ、とぼんやりと思案していますが……。 そんなことより、あの床のワインをどうしようか? 飲めばいいんですがね。 でも、夏はやっぱりビールじゃないですか。焼酎もあるでよお、となると、つい 放置されてしまう。 これも立派なネグレクトだな……
Jul 29, 2006
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Georis Clos des Moutons 2002 を飲む 今日から息子のダンが福岡に行きました。2週間帰ってきません。嬉しいよう な、寂しいような。ちょっと複雑な気分ですね。 彼の福岡行きを記念(?)して、かなり高級な赤ワイン、Georis Clos des Moutons 2002 をケイトと飲みました。 どれほど高級かというと、Georis Winery のホームページ (WWW.GEORISWINE.COM)によれば、1本65ドルもするわけですから、日本での おおよその購入価格が推測できると思います。 ついでに、このワインに関するホームページの記述を訳しておくことにします。 ルビーとチェリーの混在色、ブーケはダーク・チェリーとザクロの印象があり、 フィニッシュにかけてココア、オレンジ、タバコの香りが漂う。酸とタンニンは 構成がしっかりしていて、長い熟成を保証するだけの構造と複雑さを兼ね備えて いる。 さて、飲んだ印象です。 ま、カベルネ・ソーヴィニョンの味わいですね。現段階では可もなく不可もな く。香りに関するニュアンスは、ホームページほどの複雑さは感じられませんで した。どちらかというと、オーク香を強く感じるもので、その意味では「長熟向 き」という HP の記述は正しいと思います。 飽くまで現段階での印象として聞いていただきたいのですが、よくあるカリフォ ルニアのカベルネという感じでした。豚肉のソテーと合わせたのですが、断然牛 肉のステーキと合うと思います。 米国産牛肉が解禁となりましたが、それとの相性は抜群だと思われますから、米 国産ステーキを食す場合には重要なアイテムの一つになるのではないでしょうか。 長熟型と言いましたが、どれぐらい待てばいいか? よく分かりませんが、後5 年は寝かせたほうが面白いでしょうね。でも、先ほど言いましたステーキ(米国 産ですよ)とあわせるのなら、今からでもおいしく飲めると思います。ま、もち ろん、その場合は、狂牛病のリスクを背負いつつということになりますが……。ハハ…… しかし、それにしても今回感じたのは、何よりもカリフォルニアのユニヴァーサ ルさです。もちろん、いい意味で言っていません。だって、それは変わり映えが しないということですものね。 『フラット化する世界』って本、ご存知でしょうか? アメリカ、ヨーロッパ、 日本の先進国ぶりを今風に言い換えれば、世界のユニヴァーサル化ということに なる、という趣旨のことをさまざまに検証してみせた本です。要は、そういう先 進国の今を「フラット化」と喝破することで、ポスト・モダニズムの意味を簡単 に表した、という意味を持つ本なのですが、その本の言わんとするところをカリ フォルニア・ワインと重ねれば、フラット化するカベルネ、ということなので しょうね。 つまらんと言えばつまらん。それが Rokku の言う「可もなく不可もなく」の意 味です。 ただ、申し上げておきますが、その言わんとする意味は飽くまでグラン・ヴァン と比較してということです。その「可もなく不可もなく」の普及版という意味合 いの、廉価版カリフォルニア赤とは歴然とした差異はありますよ。言うまでもな いことですが、そのことだけは強調しておきます。 1万円級であることに変わりはない。 ということは、最近バカ高くなった Opus One を買うのなら、このワインで十 分、という意味です。それこそがユニヴァーサル化のいいところですから。Opus One の神話に2万円以上出すのははっきりバカバカしい。お金の無駄遣い! ちなみに、ケイトは「ウスイね」と一言で喝破しました。恐るべし、ケイトの直感!
Jul 28, 2006
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スイミング 手をつけた練習の巻 さて昨日の続きです。足の練習が終わると大体13往復ぐらい泳いだことになりま すから、ここまでで650メートルですか。 バタフライの練習は、新手[あらて]が加わりました。まずは左手をまっすぐ前 に伸ばして、右手だけかきをつける練習。かいた手を前に伸ばしたときに、水中 深く手をもぐらせないようにするための練習なのだそうですが、なかなか足との 連係がうまくかみ合わず、最初は苦労しました。最近ちょっと慣れてきたかな。 ま、とにかく、これを右1往復、左1往復です。 続いてバタフライは、右手をかいて、左手をかいて、次に両手かきで1往復で す。これはそんなに難しくありません。あ、言い忘れていましたが、ここまで最 初のクロールを除いて全部25メートルで止まっています。50メートルにすると死 にますので。 次は背泳ぎね。昨日も言ったように、これが最近の難物。とにかく時間がかか る。まあご託は措くとして、メニューをご紹介しましょう。まずはブイをつけて 手だけで1往復。狙いは、かいた手が水上に出てから次の手をかき始めるように することです。気をつけないとタイミングがだんだん早くなってしまうんです。 次に片手かきで足をつけます。最初のワン・ツー・スリーで後ろに一かき、次の ワン・ツー・スリーで空中から前に手を伸ばす訓練ですね。これを片手で向こう 岸まで果てしのない旅に出るのですが、とにかくリズムが合わない。ものすごく 難しい。なんとか右手はリズムが合うのですが、左手が悲惨! もちろん進みも ひどいものです。いやんなるぐらい。ホント、へこたれそう! ちっともうまくなった気はしませんが、とにかくこの夏に、少しは上達が実感で きるようになりたいという、超難物の課題です。 さて、平泳ぎですね。まずは足にブイをつけて、腕だけでかいて進む練習です。 足は使いません。体を前傾させて前に腕ごと伸びていく感覚を身につけるための ものだそうですが、時々うまくいきます。でも、腕がものすごく疲れる!1往復 だけなのに……。その代わり、平泳ぎの選手が前に腕で突っ込んでいくように水を かき分けていくイメージを持つことができます。 ところが、次に足をつけて、一かき一けり(スタートしてからの平泳ぎの水中で の動作をこう呼びます。要は、「ターンしてから水中で手を一かき、足を一けり していい」というルールに基づく所作ですが、こればかりは百聞は一見にしか ず、どなたかがやっているところでも見ていただかないことには、見当つけにく いかもしれません)を加えて泳ぐ段になると、腕が前には突っ込んでいってくれ ないんです。難しいもんだ! これも1往復です。 さてやっと、最後のメニューが来ました。クロールの手の練習は、片手で泳ぐも のです。これはあまりに疲れるので、25メートルずつ右手、左手とやります。 ここまでの手をつけた練習で、9往復、450メートルですから、足と手を合わせて 全部で1100メートルですね。 ここからいわゆる普通の泳ぎ方でバタフライから背泳ぎ、平泳ぎ、クロールとや ればいいのですが、実はこの段階でRokku はすでに疲労困憊。それぞれ1往復が やっとです。 この夏はもっと時間をかけて、足と手の練習が終わったら少しジャグジーで休ん で、全種目を5往復ほどやってみたいと思っているのですが、果たしてどうなる でしょうか。そんなことしたら全部で40往復越えますものねえ。 こんなに疲れるほど泳いで、いったい私は何になるつもりなのでしょうか? 皆目分からないのですが、はっきり言えることが一つだけあります。体力はつい てきました。あんまりへこたれない! そして、それがどうも気力とも大いに関 係ありそう、なんですね。その意味でもあまりへこたれなくなっているかな? もともとあんまりへこたれるタイプではないので、違いと言ってしまっていいの かどうかは分かりませんが。強いて言えばの、なんとなしの実感というところで しょうか。
Jul 27, 2006
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久しぶりにブログにアップ 本当に久しぶりにアップします。 と言いながら、実はこれは3月に書こうと思った内容。今でもあんまり事情は変 わっていないけど、水泳の内容はずいぶん変わったので、そのことに今更ながら ちょっと驚いています。こういう変化はブログという日記ならではかも。変わっ た水泳の内容についてはまた日を改めて。 というわけで、ここからは3月に書いたことです。 このところワインをあんまり飲んでいません。酒はもちろん飲みますが、いつの 間にやら芋焼酎が主になってしまって、時々日本酒だったり、泡盛だったり、ワ インだったりする程度。 どうしてこんなことになってしまったのか? 一体Rokkuに何があったのか? 前に言ったことがあると思うけど、要は、文武両道の難しさということですか ね、Rokkuの理解としては。 最初に言ったとおり、ほぼ6ヶ月ぶりのブログです。その間、何を一生懸命に やってきたかと言うと、ズバリそれは水泳です。スイミング。 これが面白い! やめられない! 医学的には、かの麻薬的エンドルフィンの仕 業ではないかということらしいですが(マイクさん、これって正しい?)、 Rokku にはそんなもの、何のせいであろうが、面白いのだからしょうがない。 事情が許す限りほぼ毎日、1キロぐらい泳ぐのです。ブイをつけて25メートル プールをまず6往復。続いてビート板を手に持ってクロールのキックだけで6往復 するのですが、これがなかなかキツイ! でも、やめられない。 そしてさらに、背泳ぎ2往復・平泳ぎ2往復を2回繰り返して、そのままクロール で2往復泳ぎます。この10往復分はノンストップということにしているので、こ れまたなかなか苦しいのですが、それでもやめられない。やっぱりエンドルフィ ンか? 計算すればお分かりのように、もう1キロにはなっていますから、これでやめれ ばいいようなものですが、目標は個人メドレーですからね、バタフライを練習し なけりゃならんでしょ。だから、スイミングの日課はもちろん、まだ続きます。 そう、今度はバタフライ・背泳ぎ・平泳ぎ・クロールを各25メートルずつ連続で 泳ぐ練習! もう、ほとんど修行だ、これでは。
Jul 25, 2006
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今日朝日の朝刊に目を通してビックリしたのですが、「ののちゃん」が3,000回を迎えたのだそうです。その記事を読んで、いろいろ忘れていることに気づきました。以前は「となりのヤマダ君」だったんですね。タイトル自体が変わったことに、あまり気がついてなかったように思います。そういえば、そのタイトルのアニメ映画もありましたから、気がつかないほうがおかしいのですけど。三千回ということもあったのでしょうか、ここのところ「ののちゃん」は調子がいいですね。2998回ですから、9月18日付け朝日の「ののちゃん」は、傑作ですね。5コマ目が読者の想像力によって浮かんでくるように作られているのですから。もっとも、後でお知らせするように、人によってその想像の向かう先は微妙に違うようですが。まさに、読者受容論ですよ。さて、どんな話かというと、場所はどうもフードコートのようです。おばあさんと松子さん、ののちゃんが買い物を終えてでしょうか、フードコートの座席確保を試みている様子です。1コマ目 おばあさん・松子「よっしゃ 席とった!」そう言って、ドサッと荷物をテーブルに置きます。荷物をテーブルに置いたことが、後でボディーブローのように効いてきます。2コマ目 松子「のの子はなににする?」 ののちゃん「ハーブソーセージ チリドッグ ミラノ風!」なんだか判らないものを注文しようとするところが、次のミソですね。この時点でののちゃんは席に坐っています。松子さんは、彼女を席番にここに置いて、注文に行こうと思っていたのでしょう。3コマ目 松子「わからん いっしょにおいで」こういう説明を付けていると、何が起きるか分かってしまいそうなものですが、荷物を置いたまま、ののちゃんを連れて、三人で注文に行きます。それが3コマ目。4コマ目 「ほー なるほど そうきたか。」このセリフに噴出しはありません。喋っているのはおばあさんなのか、松子さんなのか、まったくわかりません。最初、何を言っているのかもよくわかりませんが、そのうち、よく絵を見てみると、イスがなくなっていることに気づきます。そうです、鵜の目鷹の目で席とりをしている他の人たち(一切描かれていません)は、テーブルに荷物を置いてしまっている状況から、何も抑えられていないもの、すなわちイスを持って行ってしまったのですね。面白いのは、この4コマ目の松子さん、おばあちゃん、ののちゃんがそれぞれコマの外側に視線を送っていることです。しかもいくらか険しい目つきで。正確に言うと、おばあちゃんは左側、松子さんとののちゃんは右側に視線をやっているのです。ここで解釈が分かれました。ケイトは、その視線の方向にはさほど意味がない、ここから5コマ目を読もうとするのは、読みすぎであると主張しましたが、Rokku とダンは、いやいや、この視線の先にあるのは、空いているイスである。「そうきたか」というセリフの後には、「それならこちらだって」と、早くも隙あらば空いているイスをいただきに行こうとしている三人のすばやい行動をこそ読むべきだろうというものだったのです。これはなかなか絵を見ないと、分かっていただけないかもしれませんが、Rokku にはありありと5コマ目が浮かんできます。この三人が立ったまま食べるとは思えませんからね。必見ですよ。この「ののちゃん」2998回目は。
Sep 20, 2005
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仕入れたばかりの安いイタリア・ワインを飲みました。今日は、その試飲結果をご報告。買ったのは モンテプルチアーノ・ダブルッツォ(Montepulciano d’Abruzzo)2003, グラン・サッソ(Gran Sasso)と、トレッビアーノ・ダブルッツォ(Trebbiano d’Abruzzo)2003, グラン・サッソ(Gran Sasso)です。6本ずつ混載でケース買いしたので、割引してもらえて、お買い得でした。Gran Sasso というのはアブルッツォ(Abruzzo)州の山の名前で、スキー・リゾートもあるようですが、この Gran Sasso は、その山の名前にちなんで付けられた、ワインを造っている醸造業社の名前です。日本リカーという会社が日本に輸入していて、www.nlwine.com にいけば、ボトルの写真とともに、簡単な紹介文を読むことができます。実は、今週は例の認知症の母が一週間我が家に滞在しています。Rokku の日記がまたしても少々遅れ気味なのも、もちろん、そのことと無関係ではありません。いずれそれについても触れたいと思っていますが、今日は、ワインの話です。そんな初日であるからこそ、景気づけに Rokku とケイトは、届いたばかりのワインを飲もうということになったのですが、ダンの送り迎えがあって、ケイトは夕方飲むわけにいきません。そこで、用が終わって、母も寝てから、飲むことにしたわけです。このほうがくつろぐんです。母には悪いけど。つまみも何にもなしで、ただワインだけ飲みます。マリアージュはこの際考えません。それなら、やはり白がいいだろうと、トレッビアーノから開けました。トレッビアーノ・ダブルッツォというのは、前にお話しましたように、アブルッツォという州で採れた白ワイン用ブドウ、トレッビアーノで作られたワインという意味です。このブドウのワインは軽めのものが多く、ジョンソン先生も、水っぽい(thin)とか凡庸(mediocre)と、およそ誉め言葉とは考えられない形容をしていらっしゃいます。まあ、日常遣いにこそ本領のあるワインということですね。しかし、このトレッビアーノ2003グラン・サッソは、意外に健闘していますよ。普通水っぽいと形容されるワインは、ひょっとして水で割ってある?と思えるほど薄いものですが、これは辛目のコクがしっかりとあって、要するにボディを感じるのです。飲んでいるだけでは辛いので、料理にはよく合うでしょうね。さすがに値段が値段(定価はもう少し高いですが、うまく特価品に当たったりすると千円以下で買えるかも)ですから、高級ワインの代用とまでは行きませんが、コスト・パフォーマンスは、かなり高いですね。2003年がいいのかも、とヴィンテージ・チャートを覗いてみましたが、パーカー先生はまだイタリアの2003年をテイスティングしていないとみえて、NTとなっていました。Wine Advocate のHPも覗いてみましたが、Rokku が持っているのと同じ表でした。というわけで、お墨付きがありませんので、Rokku の推測の域を出ませんが、2003年のイタリアは出来がいいのかも知れませんね。というか、「アブルッツォはいい」と言うべきでしょうか。何度も言いますが、まだ推測の域は出ませんよ。2003年はフランスが記録的な暑さとなった年ですから、ヨーロッパ全土がそうだったのかもしれません。さあれば、イタリアも同じ傾向だったと推測することはできそうですので、どうせアフィリエイトでご紹介するのなら、ここは一つ、2003年にこだわったほうがよさそうです。そこで、ちょっと値段は高めになって申し訳ありませんが、有名な醸造業者のものをここにご紹介します。ここの赤(モンテプルチアーノ)はとても美味しいですから、おそらく白も大丈夫と思います。↓ここをクリックバローネ・コルナッキア・トレッビアーノ・ダブルッツォ 2003年 価格 1,226円 (税込) 送料別 残り本数はわかりません 「コルクの気持ち」さん残念ながら、売り切れになっていて楽天内にはありませんが、ファルネーゼ(これも有名な醸造業社です)のトレッビアーノ2003 も、どこかで見つけられたら逃す手はありません。お買い求めになったほうがいいと思います。さて、Rokku とケイトは、あまりにトレッビアーノがいけるので、モンテプルチアーノのほうも開けることにしました。このブドウ、安いわりには、香りもアロマもかなりイイ線行ってます。お値打ちなモンテプルチアーノ・ダブルッツォを見つけたら、買ったほうがいいと思いますが、このグラン・サッソはメチャクチャおいしいです。きっと、2003年のブドウの出来もあるのでしょうね。何度でも言います、あくまで推測ではありますが。しかも、有名どころのモンテプルチアーノって結構高めに推移していて、こんなに安いのはそんなにない。絶対のお買い得です。ありましたよ、楽天に。ズバリの千円以下。↓ここをクリック首都圏中心に大ブレイク!モンテプルチアーノ・ダブルッツォ/グラン・サッソ 価格 980円 (税込1,029円) 送料別 残念ながら、残りあと 6 本しかありません。お急ぎください。キタザワさん
Sep 19, 2005
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昨日の続きです。ナニワイバラの片付けですが、ホントに二の足を踏んでしまうと、後が大変なので、思いきって、今日玄関のポーチ上の作業をしました。午前8時45分ごろから始めて、午後1時30分ぐらいまで。ほぼ五時間かけて、やっとポーチが終わりました。今、Rokku は一階の部屋でワープロを使って、この日記を書いていますが、目の前には、もうひとつの難波イバラの山が見えます。イヤになるほど乱雑に、四方八方ところ構わず枝が伸びています。明日にでもやることになるかな。さて、今日の作業ですが、終わりごろには、枝を園芸用はさみで切ろうにも、手のひらが痛くて切れない。両手を使って切らないといけないし、はさみでダメなときにはのこぎりを持ち出すほどなのですよ。ポーチの上の作業はとりわけ時間がかかるんです。枝を払っておしまいとはならない。今度は燃えるごみとして出せるように、長い枝を細かく切って、袋に詰めなければなりません。これが結構疲れて汗をかいた体にはこたえるのですね。今日はこの作業に2時間以上かかりました。一人でやると、ホントに進みませんね。そして、ですね。こういう園芸仕事にも面白いところが多々あって、そのひとつが、思いがけない生き物に出会うことです。今年はスズメバチが多いとか新聞で読みましたが、確かに今年は台風が来ないと知っているのか、家の生垣にも五月にスズメバチが巣を作りました。途中で気がついたので、急いで壊しましたが、ビックリしましたね。いつも軒先に作りに来るのですが、初めてですよ、低いところに作り始めたのは。今年は台風は来ません。Rokku はそう確信しています。岐阜県には、という意味ですけど。小さな庭ですが、それでも、図鑑に載っていない生き物も結構いるのですね。それは、園芸をするようになってから分かったことの一つですが、今日はまた、思いがけず、敬愛するマイクさんの見つけた「ケムンパス」を見ました。あ、これマイクさんの毛虫だと思うと、疲れも一瞬消えてなくなりましたよ。小さすぎるので、Rokku のカメラでは難しそうです。最近は失敗してばかりですから。そこで、写真はマイクさんから借りました。マイクさん、ごめんなさい。↓マイクさんの日記はこちらです。http://plaza.rakuten.co.jp/seiran2mike/diary/200509130002/
Sep 18, 2005
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Rokku の家の庭は、全然手入れが行き届いていなくて、「ガーデニングが好き」なんて言うと、笑われてしまいそうな「雑然」です。で、信じられないでしょうが、Rokku は本当にガーデニングが嫌いではありません。あまり性格が粘着的でないというか、辛抱強く、我慢強くはあるのですが、徹底的にきれい好きではないんです。詰めが甘いといいましょうかね。書く論文もそういう傾向が否めないのですが、「まあこんなもんでいいか」と、結果をネガティブに考えられない。出てきた結果を評価してしまうんです。いい性格と言えば、いい性格なんですが。それがガーデニングにも遺憾なく発揮されてしまい、以前の姿よりきれいになっていると、それを過分に評価して、一人悦に入ってしまうのですね。でも、心に理想の姿をきちんと持っている人(いわゆるきれい好き)から見ると、今のうちの庭なんて、やはり雑然そのものなのでしょうね。夏の暑い間、何もしませんからねえ。で、既にもって、今言ったことがまさに Rokku の家の庭が雑然としてしまう根本原因なのですが、それはいわば精神論です。それ以外に、技術的にも、二つほど大きな原因があります。一つはなかなか芝生を刈らないこと。これは刈りさえすればいいので、敵は Rokku の怠惰だけです。今言ったばかりの精神論です。これについては、最近心を入れ替えているので、意外にそちらはきれい。目下の問題はもうひとつのほうで、それこそが我が家の、夏から秋にかけての頭痛の種なんですね。それは、ナニワイバラ(難波茨)という名前のバラなんです。自然百科事典によると、中国中南部原産。つる性で常緑、茎は長く伸び、曲がった茶色の強い棘がある。小葉は3枚で光沢のある深緑色、長楕円形で先はとがる。花期は5月初旬。花径は6~8センチ、花弁数5枚の大輪で平開する[平べったく開くということです。一重のバラと思えば分かり易いかな]。花色は白で、かすかな香りがある。果実は洋ナシ形[こう聞くと食べられそうですが、ものすごく堅いです。漢方に用いられるとか聞きました]。わずかに棘がある。大阪(難波)の商人によって輸入され、江戸時代には金櫻子(きんおうし)の中国名で呼ばれた。変種に桃色のハトヤバラがある。となっています。なんでナニワイバラと呼ばれるかも、これでお分かりと思います。写真は来年の春にでもお見せしましょう。今年は、開花の時点で、我が家にデジカメがなかったものですから、お見せできませんでした。その5月初旬が、我が家の庭の一番絢爛豪華なときです。それほど咲くときは見事です。辞典にあるとおり、江戸時代に輸入されたのなら、もっと盛んに園芸用に広がってもよさそうなのですが、意外に、あまり広まってはいません。どうしてかというと、これは Rokku の先輩の言なのですが、枝がとにかく伸びるのですよ、乱雑に。3~4メートルぐらい伸びます。しかも四方八方に伸びるので、手入れが大変なのです。我が家では、5月の花が終わってから12月ぐらいまで、ただひたすら、庭の手入れというと、ほとんどがこのナニワイバラの伸びた枝の処理に終始しています。もともと Rokku は怠惰です。だから、毎日こまめに少しずつ枝を切って備えるということができない。どうしてもまとめてやることになってしまいます。そうすると、枝が幹のようになって、すごく切るのに難儀するんです。その大変さが、つい Rokku に二の足を踏ませる。
Sep 17, 2005
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Rokku は日本のTVドラマをまったく見なくなりました。特段の理由があるわけでもありませんが、まあ、言ってしまえば、つまらなくなったからです。どうして面白くなくなってしまったのか、さほど深く考えたことはありませんが、感性だけを頼りに率直に言い切ってしまえば、情に訴えて終わってしまうからなのでしょうね。Rokku は、別に情が嫌いなわけではありません。人情大好き人間ですから、落語の人情噺はもうたまりません。落語で思い出しましたが、ドラゴンの何とかという落語ネタを斬新に解釈したドラマがあったでしょう。あれを見られなかったのは心残りです、実を言うと。あれは面白そうだっただけに、ホントに残念!このことは、ほとんどの日本のドラマが情に解決を見てしまう、そういうつまらなさを露呈してしまっていることと、実は通底しています。最近のドラマって、結構、海外ドラマに目が行っていて、そのトレンドに敏感なんですね。だから、少し面白そうな話が海外ドラマに出てくると、その概要だけいただいて、ドラマ作りというか脚本作りに精を出す。それ自体はもちろん、決して悪いことでありません。むしろ、目配りがよく利いていて、誉められるべき傾向のはずです。にもかかわらず、何がつまらないのか? 海外ドラマは、ちっとも情に解決を見ていない、優れて論理的なドラマ構成となっているのに、それを真似た日本のドラマは、その構成はとらずに、形だけ今風にしておいて、中味はあいかわらずの人情ものに終始してしまうからなのです。その違和感が Rokku には耐えられないんです。だから、もともと人情噺と同心円上にある落語に元ネタを探ったドラゴンのドラマは、当然、違和感があるはずがありません。見ていないけれど、きっと面白かったと思うんです。その点、海外ドラマはすこぶる面白い! NHKの衛星放送でも、最近終わってしまいましたが、「モンクの事件簿」(ホントにこのタイトルかどうか、実は知りません。面白いと思ったら終わってしまった。めちゃくちゃショック!)は仰天ものの面白さだったし、8月に放送された名探偵ポワロの新シリーズ(イギリスでは2003年から2004年に放送されたもののようです)も、大変興味深かった。Rokku は、「ナイルに死す」を除く、「五匹の子豚」「杉の柩」「ホロー荘の殺人」を見ました。特に、すごく暗くなったという印象が、それこそ印象的でした。これも、9・11の余波なのでしょうかね。アメリカのドラマにはその徴候が濃厚ですし。さらに言うと、アメリカのドラマの充実ぶりには瞠目すべきものがあります。もちろん、この海外ドラマ優秀説には、弱点があって、もともと優れたものだけが日本で放映されているはずですから、これらをもって海外ドラマの水準と考えるのは危険です。もっと普通の、ごくつまらないものもたくさんあるに決まってますからね。でも、それでもなおかつ、日本のドラマは分が悪いのではないかと思います。見ないで言うのもなんですが。というのも、先ほど指摘したような日本のドラマの海外になびく傾向が、やはり水準を悪くする結果を招いていると言えるように思うからです。あくまで一般論ですが。今日は細かいことを言うのはやめておいて、面白いドラマのタイトルだけお知らせしましょう。まずはダントツのCSIを挙げなければなりません。幾つかのシリーズがあるので、どれもいいとは行きませんが、それでも圧倒的に他作品を凌駕しています。詳しいことは後日。それから、今気になっているのは「コールド・ケース」という名前の、未解決事件を担当する女性刑事の物語。これらはWOWWOWのドラマなんだけど、ドラマに関してこのテレビ局が果たした役割は特筆モノですね。というのも、もう少し前にやっていた、単発のシリーズもののグレードが極端に高かったからなのです。一つはトリアーの「キングダム」。そしてもうひとつが、これに触発されてスティーブン・キングが作った「キングダム・ホスピタル」。もう、映画なんかメじゃない! 素晴らしく今日的。この話も、これから不定期にしていきたいので、ヨロシクおつきあいください。
Sep 16, 2005
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今日、ケイトが名古屋にお買い物に出かけるついでに、例の、高島屋のペックでワイン食材を買ってくると言ってくれました。習字(ケイトが習っているんです)の稽古や、ダンの塾やテニスの予定に合わせる都合などで、普段は夜出かけなければいけないのでワインを飲む日が極端に減っていますが、今日はその予定もなく、絶好のワイン日なのですよ、久しぶりに。Rokku は会議があって、少し帰宅が遅くなりました。といっても7時ごろのことで、とても普通のお勤めとは比較になりませんが……。着替えてさっそく、どのワインを開けるか、品定めすることにしました。もう夕方には気温が24度ぐらいになっています。残暑も峠を越え、そろそろ床下収納庫にワインを入れておいても、問題はなさそうですね。そういえば、夏の盛りに河内ワインをいただいて、セラーに入らないものですから、しばらく放っておきました(くださった方に申し訳ない!)。セラーに空きができたところで早速入れましたから、数日のことだと思いますが、意外に平気なものですね、少しぐらいなら。で、その河内ワインを飲んだ感想ですが、日本のワインって変わってきましたね。昔なら、リープフラウミルヒ並みに甘くて、ちょっと食事には向かないタイプが普通でしたが、飲んだ河内ワインは、シルヴァナーを思わせるもので日常の食卓にはちょうどいい感じです。特に白ワインはよかったですよ。赤も、最初はそこそこ飲めましたが、赤を飲もうとすると、どうしても食事がそれなりに濃い目の肉中心になりますから、料理にあわせるには少し役不足な感じがしました。ちょっと軽すぎる印象。でも、いずれにせよ、日本のワインがかなり変化しつつあることを実感させる出来事でした。注目です、日本のワイン。安かったら、バリバリに試す価値ありです。というところで、話は元に戻ります。そうそう、どのワインを開けるかでしたね。ケイトが何を買ってきたか聞くと、カプレーゼ(モッツァレラとトマト、黒オリーブのサラダ)、アボカドと甘エビのサラダ、ドライ・トマトとブロッコリのサラダ、それに、ローストビーフのバゲットだと言います。地下にお店があった昔と違って、今、ペックは軽食ものが中心で、夕飯にワインとともに食べるお惣菜の印象は薄れてしまいました。たとえば、ここの子牛のカツレツなんか、とてもよかったです。子牛のカツレツって、定番のわりには美味しさを実感したことがなかったので、ここのカツレツにはビックリしたものです。そういうものが今は手に入らない。それがケイトの不満ではあるのですが、味は変わりありません。ホントに混むようにもなりましたが。昔はすいててよかった。また脱線してしまいましたが、惣菜からすると今晩も白ワインかなと思いながら、セラーの冷蔵庫を開けて物色してみると、ロゼがありました。ドメーヌ・ドゥ・ラ・モルドレ(Domaine de la Mordorée)のコート・デュ・ローヌ・ロゼ(Côtes-du-Rhône Rosé)2004です。買い求めたお店の案内によると、日本では珍しいロゼということでした。だから、楽天内にないかもと思いましたが、いえいえ、ちゃんとありましたよ。しかも値段も良心的で、Rokku が買ったのとほとんど変わりません。ご紹介します。↓ここをクリックコート・デュ・ローヌ・ロゼ[2004] 価格 1,680円 (税込1,764円) 送料別 残りあと 11 本です 銘酒しらい屋さんしらい屋さんのHPによると、ブドウは、グルナッシュ、シラー、サンソー、カリニャン、ムールヴェードルを混ぜてあるようです。グルナッシュはロゼを造るのに用いられているブドウですから、これを中心に、赤ワイン用のブドウを全部一緒くたにしたのかもしれませんね。そのせいでしょうか、色はいわゆるロゼより赤みが強い感じで、ブラッシュと言った方がよさそうな色です。でも、それは決して悪い結果とはなっておらず、HPにもあるとおり、値段のわりには、果実味たっぷりのロゼに仕上がっています。オススメできる一本です。飲んだ瞬間少し甘みを感じるので、食事には強すぎるかと思ったら、さすがローヌのワインですね。食事には見事に合います。ペックのサラダはまったく甘くありません。そのあたりはさすがでして、いくら昔のお惣菜屋の雰囲気がなくなったとはいえ、餅屋は餅屋なのですね。砂糖の感触がまったくない分、それに合わせるように作られたワインとは実にシックリくるんです。サラダに白ワインは当然としても、ロゼはさらにそのうえ、果実味を感じながらも、食事の時には辛くなって、料理に理解を示しつつバランスを保ってくれる。その傾向は、ローストビーフのバゲットを口に運んだときも変わりませんでした。ところで、ペックのバゲット、すごく美味しいです。Rokku は思わず、あ、オリーブを思い出すと言ってしまいました。それはプリンストンにある美味しいサンドイッチ屋さんで、バゲットのサンドイッチを食べるたびに、ああ、あそこのサンドイッチは美味しかったなあと思い出すんです。どこかのA店で、たとえばサンドイッチを食べている客が、Rokku が普段感じているように、B店のサンドイッチは美味しかったなあと述懐しようものなら、それはA店にとって最大の屈辱なのでしょうが、個人の客としては、そういう感慨をとめることもできません。そういうサンドイッチの美味しかったお店が、もう一軒、エディンバラにありますが、名前は忘れました。大学のすぐ近くにある店です。そういうお店に共通するものが、ここペックにはあるのですよ。そういう、Rokku にとって超オイシイ、ローストビーフのサンドイッチにも、モルドレのロゼは、自らの果実味を主張しつつも、ちゃんと近寄ってくるのです。素晴らしい。さすがに重さはありません。HPにあるとおり、ライトボディです。むしろライトボディであるがゆえなのでしょうね、食事への付き合い方は素晴らしいものがありました。次に食べたパエリアにもピッタリでした。89+点。いい意味で融通無碍のワインですが、ただし、砂糖の入った料理は難しいと思います。果実味たっぷりの甘みと砂糖は似て非なるものですから、合いそうで合いません。砂糖には、もっと甘々のワインにしないと違和感が残るでしょう。砂糖さえ控えれば、軽い料理なら何でも合うと思います。果実味にあわせるのなら、果実入りが手っ取り早いです。アボカドとかね。トマトも合います。お嫌いなら仕方ありませんが、オリーブオイルは必須ですよ。ワインは、もちろん冷やしてください。それが必要な程度には、まだ暑いですから。グラスに注いでから次に注ぐ間も、コルクをして、冷蔵庫に一時避難させたほうが美味しく飲めます。
Sep 15, 2005
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先日も面白い四コマ・マンガが朝日の夕刊に掲載されましたので、ご紹介しましょう。朝日の夕刊は、昨日もお話しましたように、しりあがり寿の「地球防衛家のヒトビト」です。ウルトラマンから着想を借りた表題なのでしょうが、服装以外にはウルトラマンの話とは何の関係もありません。「地球防衛家」と名づけられてはいるものの、普通の家庭の話です。服装が変なことと、お父さんがサラリーマンではなさそうなこと、娘はOLなのに、息子は小学生、お母さんはごく普通そうな、そうでもなさそうな、という風に、よくわからないけど、普通の家庭なのでしょうね。しりあがり寿の家なのかもしれません。出来上がりとしては、千差万別です。面白いときは、昨日も申し上げましたように、メチャクチャ面白い。一時期、しりあがりが冴えまくりの時があって、その頃は朝刊よりも夕刊のほうが楽しみなほどでした。いしいひさいちは焦ってるだろうな、と真剣に邪推したほどです。でも、いつもそういうわけではありません。毎日の締め切りに困ってるだろうなと思うこともしばしばです。そんな中、久々にヒットと思われたのが、12日付の四コマでした。例によって、絵はお見せできないので、セリフだけをご紹介します。一コマ目 母「何見てんだい?」 父「DVD借りてきたんだよ」二コマ目 母「コドモがこれで音楽聞いてたね…」 父「そりゃCDだろ」三コマ目 母「DVDとCDって どこがちがうの?」 父「そんなことも知らないのかー」四コマ目 父「ほーら よく見ると ビミョーに光り方がちがうだろ」 母「そういえば そうだね.」お父さんは、オトボケぶりがカワイイ人ですが、いつもは、普通にとぼけているだけなので、笑うところまではいきません。でも、今日の四コマ目は、絶品のズッコケぶりでした。DVDとCDって、確かに見た目に違いがはっきりしませんし、しかし、微妙な違いがあるのもまた事実です。そのあたりをうまく突いて、オチにしているところに、しりあがりのセンスが遺憾なく発揮されているのです。というか、このお父さんって、しりあがりの実像だったりして。いしいひさいちのように、四コマを様々に構造化していく多芸はありませんが、ストレートなオチの技巧に他を凌駕するものがあります。チャンスがあったら、ぜひ見てください。お父さんのボケぶりは、絵を見ないとわからないかもしれません。
Sep 14, 2005
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新しい不定期のシリーズです。次がいつになるかはわかりませんが、面白くて、「これは傑作!」とか、「これは解説せねば!」と意気込んだときにだけ、お知らせします。いつとは言えないのが、残念ですが。Rokku の家は朝日新聞をとっています。さほど深い理由はありません。前は中日新聞だったのですが、中日の読書案内が今ひとつ不満だったこともあって、朝日に変えました。朝日にしてみると、中日の特集が結構よかったりして、時々迷うのですが、いしいひさいち作の「ののちゃん」と、夕刊のしりあがり寿の「地球防衛家のヒトビト」が面白いので救われます。しりあがりは必ずしもいつも面白いとは言えませんが、なかなか捨てがたい魅力もありまして、時々出てくる傑作は何にも換えがたい面白さがあります。いしいひさいちの四コママンガは、決して四コマで終わらないところが面白いです。もちろんコマは四つしかないのですが、五コマ目相当、あるいは六コマ目相当と、コマが分割されて使われていることが多々あるし、三コマ目が五コマ目にも相当したりと、融通無碍な展開があるのです。だから、とても四コママンガとは思えない複雑な物語がときに展開されていて、目が離せません。版権の問題があるので、写真にとってお見せすることはできません。セリフだけをここにお知らせしますから、絵は想像してください。どうしても気になる方は、ご自分でお探しくださいね。9月5日付けの朝日新聞朝刊です。今日お知らせするのは、二学期が始まった小学生「ののちゃん」こと「のの子」とお母さんの「松子さん」のやりとりです。場所は玄関先。言い忘れそうになりますが、松子さんは大阪弁で読んでください。一コマ目 松子「雲行きがあやしい。カサいるで。」 のの子「学校に置きガサがあるよ。」二コマ目 松子「夏休みに入る時みんな持って帰ったやろ。」 のの子「あっ そーか。」三コマ目 松子「あれ? 知らんカサが。」四コマ目 のの子「ななちゃん、みみちゃんと久保くん、スズキくんの置きガサだ。」この四コマ目が説明しにくいのですが、ののちゃんの説明を聞きながら、松子さんはおぞましいことを思い出したような顔をして、絶句しています。その頭の中が四コマ目の絵の中に噴出しで描かれていて、このように説明されています。「よみがえる学校プール帰りの悪夢」そう書かれた噴出しの中には、松子さんのおぞましい記憶がいくらか雑なタッチで描かれています。その中で松子さんは、目を吊り上げて「ハイハイどうぞ」と言いながら、何かをトレーに乗せて運んでいて、すぐ横では子どもたちが「わあ わあ わあ わあ」と叫んでいて、どうもとんでもない喧騒のようです。トレーの上のものは判然としませんが、ジュースか何かのようですね。そう、このマンガは悪夢のような小学生のいる夏休みの残像に関する一家庭の光景なのですね。子どもが夏休みに家にいると、母たるもの、完膚なきまでにペースを乱されます。ケイトもそうです。だからでしょうか、この難解なマンガをケイトはすぐに説明してくれました。実は、Rokku はよくわからなかったのです、この四コマ・マンガの意味が。でも、ケイトに説明されてわかりました。そういえば、夏休みの時期に、ののちゃんは学校のプールに行っては、友達を家に連れて帰ってきたのでした。おかげで松子さんは、ななちゃん、みみちゃん以下、大勢の友達のためにジュースを運んだり、おもてなしに大忙しで目が吊り上っていたのでした。その喧騒を思い出させるに十分な置きガサの群れなのでした。で、ここからが奥の深い、いしいひさいち傑作選の世界です。この四コマ目の悪夢は、言うまでもなく、文学批評で言うところの作品内引用(英語で言うと internal quotation)で、実際に夏休みの頃に発表した自らの過去の作品に言及することで、目の前にある作品の意味に重層的な世界を積み重ねようとしているわけです。しかし、いしいひさいちの面白さは、そこにとどまりませんよ。前の作品では、雷雨のことが言及されていたかどうか、記憶は定かではありませんが、それにしても、ここで置きガサと子どもたちのプール帰りの喧騒を重ね合わせることで、松子さんにとってのプール後のうろたえぶりがよみがえるだけでなく、ののちゃんの友達のしたたかぶりがまた引き立つように、マンガが構築されているのです。だって、本来なら、松子さんが言うとおり、置きガサはみんな家に持ち帰るべきものです。ののちゃんは、そうしていますから、ちゃんと家にあるはずです。でも、彼女の友達はみんな彼女の家に置いている。なぜか? プール帰りには必ずののちゃんの家に寄って、夕方までたっぷり遊んで帰るからです。そのときに夕立が降る。だから置きガサはののちゃんの家にこそ置いておく必要がある、ということですね。素晴らしい!これらのことを、実は Rokku はケイトに教えてもらいました。感心しましたね。彼女の慧眼に。でも、それから、どうしていしいひさいちはこんな構想のマンガを描いたのか、ちょっと気になっていたので、それを、今こうして、皆さんにお話しながら、考えてみました。愛読者ならご存知でしょうが、松子さんって「ぐうたら主婦」です。こんないい加減でいいのか?というほど「ぐうたら」です。夏休み中の昼ごはんも徹底的な手抜きで、確か、カレー、チャーハン、ともう一品、それを繰り返すだけだと豪語するのですよ(細かい料理名は間違えているかも)。全体に、子どもにとって至れりつくせりの母ではない。ののちゃんもどこにも連れて行ってもらえず(昔、そんなことは当たり前でしたが)、プールへ行くだけが楽しみという夏休み生活です。で、午後になると友達と家で大騒ぎするのですが、さすがに友達が来るとなると、松子さんもいつものような態度で接するわけにもいかず、一生懸命接待にあい努める。そうなるだろうことを、子どもたちはすでにわかっていたのですね、きっと。自分たちに何もしてくれようとしない親たちへの意趣返し。そういう視点がここにはあって、それは、作者いしいひさいちの子供の頃の気持ちを今こうして戯画的に表現しているのではないのか、そう思ったのですよ。時々、よくわからない「ののちゃん」や面白い「地球防衛家のヒトビト」など、これからも気がついたものは、こうやってブログ・ネタにすることにしますね。
Sep 13, 2005
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ずっと Rokku は、聴く・話すを中心に英語の勉強について話してきましたが、では、読む・書くについてはどうよ、と思われる方もいるでしょうね。今日はそのことについて。これも実は、実践方法としては簡単です。要は、慣れればいいのですから、よく読めるようになるにはよく読むことですし、よく書けるようになるにはよく書けばいいのです。他に方法はありません。そうやって、自然にボキャブラリーの力をつけるしかないと思います。単語って、覚えようと思っても覚えられないでしょう? 少なくとも Rokku はそうでしたし、今でもそうです。覚わるのを待つしかないです。焦ってもしょうがないですよ。まさに、習うより慣れろですね。以前に釈迦楽さんがブログで書かれ、マイクさんがそれに反応していらしたように、ベイシック・イングリッシュに賭けるのも一つの方法ですが、困るのは、簡単な動詞の後に続く副詞や前置詞が結構厄介で、最初のうちはどれがどれだったか、こんがらかるところです。それぐらいなら、違う動詞を覚えたほうが場合によっては覚え易いかも知れませんよ。どうせ、違う場面で使うのですから、いっそ似ていないほうが弁別的でよくはありませんかね。面倒な、綴りを忘れてしまうような難しい単語を使わなくても表現できる、ということなのですから、ベイシック・イングリッシュの効用は。でも、ベイシック・イングリッシュの効用は、それだけではありません。読み・書きの勉強で私たちが何に気をつけなければいけないかに関して、それはとても大事なことを教えてもくれるからです。それは何かと言うと、ベイシック・イングリッシュが動詞句中心に構成されていることなのです。すでにお気づきかもしれませんが、英語というのは、動詞が豊富なんですね。形容詞も豊富ですし、副詞もそうですから、一概には言えないとお叱りを受けるかもしれませんが、Rokku の印象では動詞的な描写が豊かなんです。もちろん、だからといって名詞が少ないということではないし、あくまで、どちらかというと、という程度のことなのですが、世界を名詞的に感じるのではなくて、動詞的に捉えようとする言語のように思えるのです。これは、むしろ、日本語との対照で考えたほうが納得し易いかも知れませんから、そちらから考えてみましょう。たとえば、日本語の体言止め。つまり俳句的世界ですが、あの世界は明らかに名詞でしょ。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」「古池や 蛙飛び込む 水の音」。俳句の世界がそうだという言い方には、語弊があるかもしれません。「墓の 裏に まわる」という尾崎放哉の句もありますからね。でも、この放哉の句が新鮮なのは、動詞で唐突に終わっている感じがあるからではないでしょうか。雨に関する表現が多いのも、やはり、私たちは名詞的に世界を捉えようとすることと関係があるかもしれません。もちろん、農作業を中心にした伝統的な私たちの生活が自然と関わりが深く、だから雨の表現が多いのだとする、よくなされる理由説明は、それはそれでよく納得できるのですが、それらが世界観として名詞的に捉えられていることは、日本語の特徴としてもっと考えられていいのではないかと思います。だからこその「……する」でしょ? たとえば「お茶する」というのは、名詞の「お茶」にするが加わって、お茶を飲んで一服することになりますよね。面白いことに、この場合、あんまり緑茶を飲んでいる光景は思いつきません。やはり紅茶かなんかなんです。気どった、異化する感じが、少しだけだけど、ある。「お茶にする」とは少しニュアンスが違う。さらに面白いことに、この「する」の前に何か外来語が入ってくると、それはみんな名詞として日本語は認識しているのではないでしょうか。それが英語の認識の仕方と少し違うような気がする。たとえば、「ドライブする」の「ドライブ」。オリジナルの英語 drive には名詞も動詞もあるのでどちらかと簡単には言えないけど、単体で drive という単語を聞くと、Rokku の感触としては動詞的に感じているような気がします。だから、運転免許証のときは driving license と動名詞を使いますよね。運転のためのライセンスだからですが、日本語の感覚だと、ドライブするときのライセンスだから、 “drive license” でいいような気がするんではないでしょうか。これがいい例なのかどうかは、自信がありませんが、でも、その気になってみると、英語の動詞は本当に表情が豊かなんです。動詞に気をつけて英語の文を読んだり書いたりすると、いい勉強になると思うけどなあ。たとえば、最近までやっていた全米オープン・テニスですが、このサーヴでこの試合が終わりとなるときに、日本のアナウンサーは「サービス・フォー・マッチ」と言うんですが、アメリカ・キー放送局の画面には “serving for Match” と書いてあるのですね。この場合、この “serving” が動名詞なのか現在分詞なのかはちょっと即座には判断がつかないですが(Rokku は分詞に感じるけど)、名詞の “service” にはしないように思います。あ、それから、どうせカタカナで言うのなら、「サーヴィング・フォー・ザ・マッチ」と「ザ」はつけるべきではないですかね。そんなのは煩わしいと言うのなら、英語風に言わずに、日本語で「マッチ・ポイント」と言うべきでしょう。いかがでしょうか?
Sep 12, 2005
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衆議院議員の選挙があり、テレビは今開票速報一色ですね。今回はとりわけ面白い選挙ではありました。きっと判り易い行動、主張で一貫していた自民党が勝つとは思っていましたが、ここまで小泉自民党へのなだれ現象が起こるとは思いませんでした。衆愚政治でなければいいのですが。何を言いたいのかというと、選挙って、問われているのはいつも有権者ですよね。議員を選ぶということは、選挙によって有権者の主張を国勢に反映させることです。それはそうに違いはないのですが、それって言い換えれば、選挙民の資質が奈辺にあるかを、誰を選ぶかによってたえず試されているということでもありますよね。Rokku が言いたいのはそのことです。その意味において、なだれをうつ現象というのは、あまりいいバランス感覚ではないと思うからです。もちろん、改革という旗印の心地よさに気づかない民主党の愚かさは、度し難いものがあります。それは、たぶん社会党譲りのものなのだろうから、民主党にとってこの大敗は、ある意味で、悪いものを全部払い落とすいい機会なのかもしれませんけれどね。でも、Rokku が何よりも今回の選挙で感じたのは、立候補した被選挙民の質の高さです。郵政民営化なんて、たぶん、たいした問題ではないと思う、本当は。でも、そのことを争点にするというのは、選択軸としてはとても判り易くて、判断がし易い。そのことを基準に、立候補者を選んで、土地に根ざさない人でもどんどん送り出してくる自民党のやり方は、たぶん、共感を覚えた人が多いのではないでしょうか。その人たちが、昔のタレント候補とはまったく質が違っていて、Rokku はかなり楽しむことができました。こういう人たちが増えれば、政治の世界も変わるかもしれません。県連なんかに多いのだけど、すぐに政治に熟達していると思っている人は言います。政治はプロに任せればいいんだ! 素人が手を出すものではない、と。今回の落下傘候補といわれた人々を、こういう昔のタレント候補と同列に論じている人が結構いた。Rokku は呆れましたね。だいたい、政治のプロって何ですか? そんなものにプロが欲しいなんて、いったいどこの有権者が頼んだのですか? いい加減、地元に利益をもたらすことしか考えない便利屋としての政治家のあり方は、考え直すべきではないですか? 国政という主義主張こそがまず第一、と思う政治家がたくさん出てきても罰は当たらないのではないですか?今回、Rokku は、そういう落下傘候補の質にこそ、これからの政治家のあり方を見た思いがして、かすかな希望を抱きましたよ。これからがちょっと楽しみ。それにしても、民主党は悲惨でしたね。自民党をぶっ壊すと言ったのは小泉さんですが、解党的な変革を必要としているのは、むしろ民主党かもしれません。イヤ、そうに違いないと確信した今日一日でした。
Sep 11, 2005
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ホンの数秒訪れる成功のために、一時間何をやっているかといえば、あいかわらずのアー……ウー……です。そのうちだんだん単語が出てくるようになる。単語が連続するようになるまでには、かなりの時間が必要で、ほとんど文になり、文のカタマリになる頃には、疲れておしまい。言い忘れましたが、もちろん、目で見るテクストは、なしですよ。音で理解し、口に出す体操ですからね、シャドウイングは。ダンがアメリカの小学校でやったことの疑似体験なのですから。もっとも、Rokku がそれをした頃にダンはまだいませんでしたが。それから、もうひとつ重要なこと。同じテープを繰り返す必要はありません。一回で十分。だって、実際の会話でもう一回ということはないのですから。練習も一回性の中に埋没させてしまって構いません。この練習で禁物なのは、一つの課題を完璧にこなそうとする心です。どうせコミュニケーションは失敗が原則なのですから。ましてや練習において完璧を求めることなんて、愚かの極致です。明日成功すればいいのです。さて、そうこうするうちに、たぶん半年から一年ぐらいの月日が流れました。だいたい土曜日のシャドウイングの練習時間、ケイトは掃除機をかけて部屋の掃除をしていました。だから、聞くとはなしに、Rokku のアーアーウーウーを聞いていたらしい。それがあるとき、最近英語に聞こえるね、ってケイトに言われたんですよ。あの時は嬉しかった! 自分でもだいぶ言えるようになったな、と思っていたので、やっぱりそうなんだ、言えてるんだと確認できて、躍り上がらんばかりの喜びようでした。時には、キャスターのダン・ラザーと同じように喋っている気がするんです。やっぱりそう聞こえているんだと思うと、そりゃ嬉しいですよ。ところで、映画を練習台にするという手もありますね。そうしてもいいのですが、その場合はスラングの練習にならないように、気をつけないといけません。そうでないと、知的な場面ではおよそ使えない英語の習得になりかねませんから。そういう意味でも、スタンダードなニュースが本当はオススメです。このニュース・テープ、あるいはニュース放送をシャドウイングに使う効用は、目の前に喋っている人がいることです。だから、まるで物まねの練習をするみたいに英語の勉強ができるんです。ほとんどゲーム感覚。しかも、目の前で喋っているキャスターは発音するときにどこの筋肉を動かせばいいのか、いわば実地に見せてくれているわけですから、眉の上げ方から、どこで単語を切ればいいかも、およそ学校では教えてくれないプレゼンテーションとしての英語の学習ができるのです。だから、意外にも疲れるのは筋肉なんです、終わった後で。頭ではない。前にも言いましたが、頬のところの筋肉がすごく疲れる。それで分かったこと。英語はとてもよく口を動かす言語であること。そして、頬の筋肉を緊張させて喋る言語であることも体験的に分かりました。だから、頬の筋肉をあげ気味にしておいて(軽く微笑んでいるような顔にする)、英語を聞くと理解し易いんですよ。ホントです。試してみてください。で、効果は? そりゃ絶大です。まずはリスニングの力。これはついているに決まっている。だって、いつもはリスニングの上に繰り返すことまで作業としてしているわけでしょ。そこから繰り返しの仕事をやめたらどうなる? 百パーセント注意をリスニングに向けられるわけですから、英語のひとつひとつの単語を吟味しながら聞けるほどになります。パルパブル(palpable)という単語をご存知でしょうか? 「手に触れるほど分かる、明白な」という意味ですが、シャドウイングがある程度できるようになってから、テープをただ聞くだけにすると、ほとんど分かり方はパルパブルです。ひとつひとつ単語を触りながら聞いている感じがあった。だから喋るときも余裕がありますよ。その上、自分が聞いて耳に残っている音が速いものだから、それとおんなじように喋ろうとするのでしょうか、それが当たり前になってしまうからなんでしょうか。当然自分の喋る英語がものすごく速くなる。自分が喋ろうと思っている英語の速さに自分でビックリしたことがあるほどです。ある同僚の先生が、Rokku のことを、最近英語が飛躍的にうまくなったと言ってくださったことがあります。直接 Rokku に対してではありませんが、それもとても嬉しかったですね。この英語の勉強の仕方は、ほとんど外国へ留学したぐらいの効果があるようです。あるとき、普段は一緒にならない他の大学のアメリカ人の先生と歓談する機会がありました。何の話をしたかはまったく覚えていませんが、しばらく話をした後で、その先生が Rokku に聞くんです。留学にはどこの大学に行ったのか?と。いいえ、留学していません。行きたかったんですけどね、と言ったら、その先生、すごく驚いて、信じられない、あなたぐらいの英語を喋る人はみな外国への留学経験がある人だった。留学したことがない人で、こんなに喋ることのできる人はあなたが初めてだ、と言ってくださったのです。驚いたのは Rokku のほうです。そこまで誉めて下さるなんて、恥ずかしい限りですよ。だって、ホンの一、二年ほど前までは「アーアー、ウーウー」だったんですから。それを一番よく知っているのが Rokku とケイトです。確かに、あの頃の Rokku は本当に単語がたくさん出てきました。もちろんシャドウイングのおかげです。だって、頭の中に勝手に文章というか、次に言うべき単語が浮かんでくるんですから。今でもそう思いますが、英語の文なんて、並べていくだけですからね、次の単語を。面白くなってきた Rokku は、調子に乗って、次の練習と称して、仕事への行き帰りのクルマを運転中に、ラジオを聴きながら、アナウンサーが言う日本語を全部英語に直す遊びをしていました。同時通訳みたいなものですね。いいんです、いい加減で。誰も点数をつけたりしないし、間違えても問題になることもないのですから。ただのお遊び。忙しいけど、結構面白かった。でも、今はあのときのようには行きません。やっぱり英語も体育だなと思うゆえんです。やっぱり若いときのほうがいい。30代半ばまでですね。それから先は、たぶん言葉の吟味なのでしょう、必要なのは。喋る言葉の数やスピードではなくて、中味が問題。だから、今の Rokku の英語は大したことありません。普通です。まあ、年だからいいか、と思ってますが。あんなアクロバティックなことは若い人がすべきことです。でも、あんまり気の利いた単語も知らないので、今の自分は、年だけとって、困りものですが。だまされたと思ってやってみてください。特にお若い方々、やる気のある方々、絶対のオススメです。お年を召していても、効果は抜群ですので、一度やってみてください。ただし、最初難しいからといって、すぐにあきらめないでくださいね。効果が出るまでには、相応の時間がかかりますよ。
Sep 10, 2005
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今日は、Rokku のシャドウイング体験談です。その効果のほど、どれぐらいの時間が必要かなど、目安がわかって便利だと思いますから、それをお話ししましょう。あれは30代の前半かちょうど真ん中ぐらいだったか、はっきり覚えてはいませんが、今から15年から18年ほど前のことです。その頃はまだ衛星放送なるものがなかったか、あったとしてもとても珍しくて、生のアメリカのニュース放送は大変貴重でした。そこに目をつけた紀伊国屋が、アメリカのCBSイブニング・ニューズをダイジェスト版でビデオテープに録音して、毎週送ってくる有料のサービスを始めたのです。大学がその予算をつけてくれたので、係の人にお願いしてそれをダビングしてもらいました。この有料サービス、テープは返さなければならないという、エラクご大層なもので、じっくりと聴こうと思ったらダビングして残しておくほかないからです。そのダビングされたテープをよく家に持ち帰っては、ニュースを聴いたものですが、やはりナマの英語に触れる機会が今と比べると圧倒的に少ない時代でしたから、あまりの早口に閉口したものです。そういう時、人間はどうなるかというと、無意識のうちに雑音を消したいと思うのでしょうね、気がつくと寝てしまっている、そんな体たらくでした。Rokku は留学経験がないので、実際の英語がどれぐらい分かりにくいものか、そういう経験に乏しかったのです。そして当時、それを補う何かいい方法はないかと試行錯誤を繰り返していたのでした。ケイトとイギリス旅行に行ったのもいいきっかけになりました。というか、その旅行自体も、やはり、英語を教えるに当たって実地の英語の分かりにくさを実体験しておかなくては話にならないな、と思ったからなのです。事実、本と文学作品からだけ英語の世界を見てきた Rokku にとって、上空から初めてロンドン市街地を見たときは、ああ、これがあの本でだけ読んで知っているロンドンの本当の姿なのだと思うと、言葉では言い表しにくい、何か不思議な感慨が胸にこみ上げてきたものです。(ニューヨークのJFK空港に降りる時にも、また別の感慨がありましたが、この二つは実に対照的なものでした。)そういう感慨をこうやって改めて言葉にしてみると、少し気恥ずかしくはありますが、本当に時代は変わりましたね。昔、吉永小百合・浜田光夫(この人のこと、名前を知っている人すら少なくなりました。吉永小百合の名の残り方を考えると、これまた感慨深いものがあります)主演、中平康監督の、『泥だらけの純情』という名作がありました。外交官令嬢と、いわゆる札つきの悪(わる)の純愛悲劇物語ですが、中味は大変濃く、素晴らしいものです。ご覧になってない方はぜひ見て欲しい作品の一つです(韓国映画にパクられたのだそうですね)が、その中で、失踪した令嬢を探して歩く刑事が、ちょうど東京上空を通る飛行機を見ながら、お嬢さんも、本当ならあの飛行機に乗っているはずだが、とか何とか、そのようなことを言った後で、「何十年たっても、俺たちが乗ることはまずないがな……」というような述懐を述べるのです。この映画の基調低音となって全体に響いているテーマが、貧富・階級・身分の越えがたい差であることは、見ていただければすぐに分かるところですが、それにしても、本当に時代は変わったのです。いまどき、飛行機に乗ったことがない日本人は、何か別な事情で乗らないことを選択している人だけでしょう。その意味では、Rokku のロンドン上空での感慨とは、結構、夏目漱石の留学経験と地続きの話ではありますね。それはまあ、ともかくとして、ニュースで話される英語の速さに驚いた Rokku ですが、ただ驚いているわけにもいかないので、せっかくのこの資料を何とかうまく利用する方法はないかな、と漠然と考えていました。そして、ドイツ語の先生にそのことをボロッと喋ったことがあります。何かいい方法はないかいな、と。そうするとその人が、何でも言ったことをそのまま繰り返すとリスニングにはとてもいいそうじゃない、そんなこと聞いたけどね、とおっしゃいました。実は、これがきっかけだったんです。そうか、言われてる通り繰り返せばいいんだった。そういえば、大学のときLLでそういう訓練をやらされたのでした。そのとき、前もってテープで流される英語の文を覚えておいても全然繰り返せなかったな。この年になって一念発起、あれをもう一度やってみればいいんだ。そう思ったんです。さっそく、ダビングしてもらったニュースのテープを家へ持ち帰ってはビデオの前に坐り、ヘッドセットをつけて繰り返すことが日課になりました。日課とは言っても、毎日はとてもできないので、一週間に一回、一時間以上、できれば二時間、まとめてやりました。結果? そりゃ悲惨です。まったく繰り返せない。第一、自分が何かを言うとテープの音が聞こえない。こんなもん、無理だ。最初はそう思いました。とてもできそうになかった。繰り返すことといえば、ウー……アー……ばっかり! その連続ですから、イヤになります。耳では聴き取れたと思っても、口に出すまでに次の音が耳に入ってきて邪魔をするものだから、繰り返すべき単語を、すでにその時点で忘れてしまっている。なるほど英語の口になっていないはずです。でもね、そんな事態は悔しくて、あまりに情けないから、一時間以上続けるじゃないですか。そうすると、一瞬なんだけど、ほとんどニュース・キャスターとほとんど同じように、言えることがあるんですよ、ホンの数秒。でも、一時間以上やっていると、口の周り(特に頬)がだるくなって、もう限界、続けられない。泣く泣くやめるのですが、でも、できたときの感触がとても心地よく、楽しくて、ただひたすら、その瞬間がまた来ないかと、それだけを励みに練習するんです。
Sep 9, 2005
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じゃあ、日本では「やる気」を持った英語の勉強は無理か? そんなことはありません。大変ですけど。そのヒントはダンのサバイバル・イングリッシュの獲得の仕方にあります。彼は文字として英語をまったくやっていなかった。音だけの世界を音だけとして仕入れ、その音世界を現実世界と対応させて、次第に意味として弁別できるようになっていった、ということです。これと同じことをやれば、誰だって(たぶん)英語はできるようになるはずです。少なくとも聞き取れるようにはなる。英語で言われていることがよく分かるかどうかは別にして、ね。特に、難しい話をよく分かるためには、知性が要ります。つまり、本を読む力が必要になります。要するにボキャブラリーです。これをつけるには本を読まなければなりませんから、それは別途に考えるしかありません。それはそれでまたお話しましょう。とにかく、まず耳と口です。いわゆる英語耳と言われるようになったもののことですが、たぶん、それを言うのなら、英語口も要るでしょうね。要するに、英語の体育です。だって、発音というのは、口の周りの筋肉を動かして、ある特定の音を出すことですから。その空気の出し方、つまりは筋肉の動かし方を日本語型から英語型に変えてしまえばいい、ってだけの話ですからね。Rokku より年配の方の聴解力を考えると、リスニングだけ分けて訓練する方法はあるのでしょうが、それならいっそ英語の言い方もついでに、というのが、Rokku の推奨する日本でのサバイバル・イングリッシュ習得方法です。やり方は簡単で、いわゆる「シャドウイング(Shadowing)」と呼ばれている訓練方法です。その名の通り、言われた英語をそのまま繰り返して再生するだけの訓練です。もともと同時通訳の訓練として使われてきたと聞いていますが、Rokku 自身、これで訓練したので、この効果がどれほど絶大なのかをとてもよく知っています。もちろん、授業でもいろいろ試してきましたが、残念ながら、Rokku の勤める大学に来る学生はどちらかというと高校時代まで英語が苦手、という人が多くて、基本的な語学の力がどちらかというと不足している(特に読む力)ので、どうしても伸び方に偏りがあり、Rokku ほど劇的に変化した人はいなかったですが、もしやる気があるのなら、こんなに効果的な方法はおそらく他にないでしょうね。ただし、誤解しないでくださいね。リスニングと会話、つまり喋ることだけですよ。これでうまくなるのは。理解力をつけるにはやはり読む力が必須ですので、そのことを誤解しないでくださいね。だから、本当言うと、ある程度の力が既にある人(英検準二級、TOEICなら450~500点ぐらいか。この点については、統計をとったわけではないので、ただの推量です)にこそ役に立つやり方だと思います。少なくとも、ある程度のボキャブラリーがないと闇雲にやったダンとあまり変わりないかも……。ということは、幼稚園から小学校一年生に戻ったつもりでやらなければいけない、そういう覚悟が必要かもしれません。ま、とにかく、ゴタクばっかり言っていても始まりませんので、やり方をお教えしましょう。まず、何か衛星放送のテレビ・ニュースが見られる環境を作ります。イギリス英語ならBBCかオーストラリアのABC(だったと思う)。もちろんカナダでも構わないけど、それが日本で放送されているかどうかは知りません。一番手っ取り早いのはNHKの衛星放送。あれならアメリカやイギリスやあちこちの英語ニュースが手に入るでしょ。ダビングしても、しなくても構いません。リアルタイムが一番いいと思いますが、うまく練習時間と放送時間が合わなければ、ビデオにダビングでもいいです。後は、イヤホンを用意してください。両耳にしたほうがいいです。イヤホンが嫌いな人はなしでやっても構いませんが、残念ながら、効果は半減します。イヤでも、できたらイヤホンでしたほうがいいでしょう。これだけのものが用意できたら、後は聞いたとおりに繰り返せばいいです。それだけ! え? ポーズはないの? もちろん、ありません。アナウンサーが言ったとおりの英語をそのまま、すぐに繰り返すだけです。まるで早口言葉の練習をしているみたいに思うかもしれませんがね。そんなの、何にも言えませんよ、ですって? 当たり前じゃないですか、だってあなたはリスニングが苦手なんですから。今までそれなりに聞き取れると思っていたのは、単に推量しているだけです、相手が言っているだろうなと思われることを! そんなあやふやな理解で、言われたことを繰り返せるはずがないじゃありませんか。言ったでしょ、英語の体育だって。
Sep 8, 2005
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じゃあ、さぞかし、ダンの英語の力は伸びたでしょうって? いやあ、それが、そうでもないんです。なぜか? これまた理由は簡単で、夏休みまでは日本人の子どもが近所にいませんでしたし、小学校にも昔からいるずっと年上の子がいるだけで、同学年にはいなかったのです。それが、9月の新学期になると、同じアパートに同い年の子が引っ越してきました。これで話はだいぶ変わりました。だって、小学校でもアパートでも、その子と一緒にいれば日本語で済みますからね。わざわざ英語を喋る必要がない。それまでは学校での7時間は全部英語の世界ですし、帰ってきても私たちと喋る以外は英語に囲まれています。ところが、日本人の友達ができてからは、遊んでいる間もうまくすれば全部日本語で済ませられます。さすがにクラスは違いますから、授業のときは英語を使わざるを得ませんが、でも、それだけ我慢しさえすれば、後は全部日本語でいいことになります。確かめたことはありませんが、きっと「楽になったあ」と、ヤツは感じたと思います。これって、ほら、エディンバラの語学講座の日本人学生と一緒でしょ。そうです、ダンは日本人同士で群れることの楽(らく)さを知ってしまったんですね。こうなると、もう飛躍的な伸び方は示さないです。もちろん、それなりに英語は使うわけですし、授業では必要なのですから、ケイトに本を読んでもらう日課は続いていましたよ。それなりに、サバイバル・イングリッシュの必要性は彼自身十分に認識していました。だから、ある程度の真剣さは確かにそこにあったのです。それはそうには違いないのですが、もう夏休み前のようなことはなくなりました。その方が楽ですからね。そして決定的なことが起きます。いよいよ Rokku も一年の在外研究が終わりを告げそうな一月か二月。三月には日本に帰れるんだよ、幼稚園のみんなにまた会えるよ、と言ったとき、ダンは、「えっ?日本に帰るの?」とすごく驚いたように言ったのです。彼は知らなかったらしいんですね、帰れることを。未来永劫アメリカで住むんだと思っていたらしい。言ってないはずはないんですが……。帰ると分かった途端、彼の英語熱はすっかり冷めました。もう必要ないからです。なんという現金なヤツだろう、と思ったけど、サバイバル・イングリッシュとはそういうものかもしれません。使う必要がなければ無用の長物には違いない。子どもにとって、英語が分かることのありがたさというか、重要性は、そりゃ分かるわけがないですから。で、ダンはどうなったか?親はせっかく身についた英語だから勿体ないと思うけど、当人はそんな必要を全然感じていない。だから、リスニングにはあいかわらず役に立っているみたいだけど、もう昔みたいな理解の仕方はしていないみたいです。日本でやる英語の勉強はまったく違いますから。英会話のスクールもひどいですしね。もう一度ブラッシュアップする必要が生じたときに、長い間忘れている何かが顔を出すことはあるかもしれませんが。今のところはほとんどありません。ことほどさように、「やる気」を持続させるのは大変です。よしんば、「やる気」が芽生えたとしても、そんな英語が役に立つのは、英語を使っている世界だけですからね。日本では普通要らないんです。
Sep 7, 2005
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結局、Rokku が言いたい「やる気」満開の英語の勉強って、生き残るための英語の勉強ということになるのでしょうね。別の言い方をすると。英会話のクラスでカッコよく英語を使いこなして見せる、とか、外国人と楽しく語らうグループの中に入っているところを誰かに見てもらう、などといった、カルセン(カルチャー・センター)気分の英語の勉強では、絶対に太刀打ちできない本格的な英語の勉強と言ってもいいかもしれません。お茶・生け花・英会話というラインでの連想から、英語の勉強を考えることをまずやめること、これが第一歩でしょう。じゃあ、「やる気」を出すにはどうしたらいいか。もう、そういうところに否応なしに自分を追い込むしかありません。日本で英語をみんながうまくなる方法は何か? そりゃ簡単です、英語植民地にしてしまえばいい。否応なしに英語が公用語になってしまうという、コロニアルな(植民地のようなという意味)状況になってしまえばいいのです。言うまでもありませんが、そんな状況を誰も望んでいないのは明らかですから、現実がそうなることはないでしょう。では、次の方法は? 個人的にコロニアルな状況を作り出せばいいんです。ここに不退転の「やる気」が必要なことは言うまでもない。いい例をお見せしましょう。前にお話したかもしれませんが、ダンは、幼稚園の年長さんのときにアメリカに行く羽目になりました。彼はアメリカがどんなところか、何も知りませんでしたし、私たちのほうから教えることもしていませんでした。言って分かるようなものでもありませんしね。おんなじ理由で、英語も一切教えてませんでしたし、習いにも行かせませんでした。そんな程度のことで通用しないことは、分かりきっていましたし。ですから、アメリカに着いたとき、ダンはそこが英語を話す場所であることも分かっていませんでした。もう小学校へ行くようになってからのことかどうか記憶がはっきりしませんが、何か慰めになるものが必要だろうからと、ショッピングモールに行ったときにビデオ・ゲーム(テレビゲームのこと)の機械を買うことに決めました。ダンは大喜びで何かを聞きに、一目散に店員の人のところへ駆け寄って、何やらを聞きました。彼の聞きたいことが何だったか、まったく覚えていませんが、そのとき彼は日本語でそこの店員に聞いたんです! 彼の頭の中では、自分が使う言葉と違う言葉を喋る人がいる、ということが理解できなかったのでしょうね。どこでも日本語が通じると思っている。アメリカ人って、楽だろうな。どこでも英語が通じると思っていられるから。で、話はダンに戻りますが、やはりそれからすぐに、ダンはアメリカの小学校に入ることになりました。アメリカの小学校は実に簡単に子供を入れてくれるので、大変助かりました。でも、その頃には、どうもここで使われている言葉が自分のとは違って、誰も自分の言葉を理解しないということは分かっていたようです。あの日のことは忘れられません。だいたいにおいてエラそうな、ふてぶてしい態度のダンなのですが、決められたクラスに初めて足を踏み入れるときのあいつのあの寂しそうな、自信のなさそうな肩の落とし方……。今でも、あの後ろ姿を思い出すと、涙が出そうになってきます。Rokku の勝手な都合で、悪いことしたなあ、ゴメンな、とアメリカに来たことを後悔しそうになったほどです。それほどに肩を落として、トボトボと彼は教室に入っていったのです。その小またの足の運び方が、できれば入りたくないと言っていることは明らかでした。無理もありません。ダンはひとつの英語も知らなかったのですから。発音ももちろんのこと、単語も何も知らずに、いきなり小学校のキンダーガーテン(幼稚園のこと)クラスです。普通Kグレードと言ってますが。でも、子どもってすごいですね。嫌なことは多々あったと思うのですが、それを乗り越えて、休むこともなく行ってくれました。少しでも英語に慣れた方がいいと思ったので、寝る前にはケイトが英語の絵本を読んでやりました。普通なら嫌がりそうなダンですが、さすがにここで生き残るためには英語が必要と身にしみたのでしょうね。まったく嫌がらずに、むしろ喜んでケイトが読んでくれる英語を、熱心に聞いていました。ケイトは日本語でだいたいの意味も説明してあげたようです。何が功を奏したのかはまったく分かりませんが、あるときから、時々ダンは学校のことを言うようになりました。今日学校で先生がピーナッツバターをあんまり食べたらダメだよと言ったとか、私たちに教えてくれるようになったのです。へえ、ちゃんと先生の英語が分かるようになってるんだ、すごいねえ、と私たちは言い合いながらも、本当に先生はそうおっしゃったのかねえと、半分ぐらい、ダンの聞いた内容を疑っていました。でも、ある日のこと、確かに先生はそうおっしゃったことが分かって、おお、コイツはちゃんと英語が理解できてるんだと、自分で学校に無理やり入れておいて無責任なようですが、すごく感心したことがあります。ホントに、子どもがその程度に英語を理解するようになるのに、必死ささえあれば、そんなに時間はかからないのですね。子どもって大したもんです。マックで注文するぐらい簡単にできるようになりましたし、日常の簡単なやりとりなら、ほぼ分かっていましたね。字も読めるようになりましたよ。その代わり、せっかく書けるようになっていたひらがなはまた元に戻ってしまいましたが。
Sep 6, 2005
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日本人で群れたがるのは、安逸な道であることを昨日言いました。それに関して、Rokku は、あるナイジェリア人の日本人学生観を聞いたことがあります。まずはそれをご紹介して、今日の話の始まりとしましょう。ナイジェリア人って英語がうまいです。エディンバラの語学講座に付き合う前に、Rokku が出会ったことのあるナイジェリア人も英語がうまかったです。英語が公用語かどうかは知らないけれど、英語が飯の糧になるのでしょうね、ナイジェリアでは。おそらく。だからでしょう、とても流暢な英語を使います。その彼は、確か、Rokku が連れて行った学生の一人が所属した英語クラスにたまたまいた人で、仕事のために英語を勉強しなければならない、そう言っていました。偶然、学校から寮までの帰り道、一緒に帰ることになって、Rokku と歩きながら20分ほどでしょうか、話をしました。私たちの前には、彼がいるのと同じクラスにいる学生がいて、やはり他の日本人学生と一緒に楽しそうに話をしながら寮まで歩いて帰っていきます。彼は Rokku に質問するんです。どうして日本人の学生は一生懸命に勉強しようとしないんだ。あんなに日本人の友達とばかりいて、日本語ばかり喋っていたって英語はうまくならないだろう。彼女らは英語を勉強しに来たのではないのか。私には分からない、彼女らの考えていることが、とね。Rokku は答えに困りました。一応、彼女らが使われる英語の速さにビックリしていること、外国で英語を勉強する仕方が日本とは違うこと、生活習慣も考え方も違うことなど、できる限りの説明はしましたが、この説明で彼が腑に落ちていないことは明らかでした。だって、短期間の語学の勉強です。必死であるのならガンバルのは当然なのですから。違っていることぐらい乗り越えるだけの覚悟をして、高いお金を払って、わざわざこの遠い地までやってきたと思うほうがよほど自然なのです。観光気分で、ついでに英語のお勉強、ぐらいの軽いノリでやってくる日本人学生の「カルチャーセンターでお勉強体質」は、他の国の人々の必死さからはあまりに遠い。Rokku は、必ずしも、彼女・彼らがそんな浮かれた気分でないことは知っています。当人は結構一生懸命に勉強するつもりで来ていることも知っています。授業でも精一杯発言して、参加して、やるぞ!という気で臨んでいることも重々承知しています。だからこそ、これ弁護に努めるのですが、いかんせん、客観的に見ると、そこまで必死になっているようにはとても見えない。要するに甘えているのです。私たちは歓迎してくれるもの、と思っている。つまり、最初から社会は自分を受け入れてくれるものと、素直に思い込んでいる。ある社会に入るには、そのための努力が、受け入れてもらうための努力が必要、ということに気づいていない。そこに、ムラ社会から逸脱したことがないがゆえの「甘さ」があるのですねRokku は日本人ですから、その心理過程はよく分かります。クラスはひとつのムラです。そのムラに自分が入ることは、先生というムラ長(おさ)の意思によって決められました。ということは、そのムラの中に自分のあるべき位置が与えられたことになります。最初から位置づけがはっきりしているのだから、同じムラ社会の構成員はその人間を歓迎するはずです。だって、仲間なのですから。でも、ヨーロッパの人々はそんな風には考えません。クラスはたまたまの便法に過ぎません。何らかの都合によって、たまたまできた集合です。自分が考えるべきは、如何にしたらその場を一番有効に使えるか、です。そこにいる日本人は笑ってはいるけど、何も喋ろうとしない。ペアで会話の練習をしようというときには、こちらの言うことは分からないし、何も喋らない。これでは練習にならない。要するに、ペアになるメリットが何もない。だから、コイツは避けよう、ということになる。こうして、先生が「さあ、こういうシチュエーションでペアになって会話の練習をしましょう」と言ったとき、日本人の学生だけが取り残されるというお馴染みの事態が出来するわけですよ。これが日本人の学生の目には「いじめ」に見える。そう、小学校のときに意地悪な子がやっていた仲間はずれにするゲームみたいなもの。つまり、ムラ社会の論理でこの事態を理解しようとしてしまう。お互いが、一つの事態に対してまったく違う解釈をしている。そういう両者が一つのクラスにいるわけですから、うまく行くわけがありません。少し譬えが違いますが、一種の呉越同舟の関係です。どうしたらいいか? 郷に入っては郷に従うしかないんではないですか。彼らの必死さ、真剣さに合わせて、自分も彼ら流の真剣さを経験してみる。Rokku が言う「やる気」とはこういう意味なのです。
Sep 5, 2005
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昨日の話がまだ続きますが、それでは、ヨーロッパの人々と一緒に勉強できた学生は、大変有益だったか? 今日はそのことについて触れ、問題の根の深さを見たいと思います。ある程度は有益でした。それは間違いありません。最初の一週間は、彼女ら(普通のクラスに行ったのは、偶然ですが、ほとんど女の子でした)の愚痴を聞いてあげることが、Rokku の一番大事な仕事の一つでした。クラスの先生の言っていることが全然分からない。先生は親切なんだけど、フランス人が私のことをすごく嫌っている。毛嫌いする。全然喋ってくれない、などなどです。要するに、異文化衝突です。初めて自分の知っているのとはまったく違う、露骨な拒否反応(異文化では当たり前のことですが)にビックリするんですね。世の中、差別は当たり前なんですが、日本では表面上はそういうものはない、あるいはしてはならないかのように振舞います。こういうところは、結構、アメリカ人と似たところがあって、それはそれで、志やよし、なんですが、だがしかあし、それはグローバル・スタンダードではない。アメリカ人はそのことをちゃんと承知しているので、知らない人にそれを教えようとする。図々しいんです、奥ゆかしくない。そこがアメリカ人と日本人の違い。世界は異民族が往来する場なのですから、どこにいても差別の現実ばかりなのですがね。それに初めて遭遇した学生たちは、Rokku に、その不運を、その理不尽を言葉の限りに説明しようとするわけですね。それが現実であることを言い、慰め、やっと彼女らは明日の戦場に向かう気になれる。毎日がそれの連続でした。でも、そのうち何も言ってこなくなります。自分で処理できるようになるからです。だったらいいのではないか? そう思えるでしょ? でも必ずしも、Rokku が望む方向ではないんですね、解決の仕方が。彼女らは、休み時間や授業後に日本人の仲間と群れることによってバランスをとろうとするんです。これは Rokku にも覚えがあります。在外研究に行っているとき、大学院の授業にいくつも参加しました。コメントつけようとして大失敗したこともあります。落ち込みました。もう授業に出るのはやめようかとすら思うのですが、落ち込んでいても仕方ない、また頑張ればいいと自らを奮い立たせながら20分ぐらいの帰路を歩いて帰ったことが、今でも生々しく思い出されます。でも、一学期が過ぎようという頃にはだいぶ慣れてきて、それなりに意味のある発言もできるようになりました。そして、二学期目に入ると、アメリカの学生気質もだいぶ分かってきて、かなり余裕が出てきました。そういう頃に、ある映画の授業で知り合いになった学生とキャンパスで偶然出会って、立ち話をしました。そこで彼が日本に行ったことがあると言い出して、温泉は気持ちよかったという話をしてくれました。そのときのことです。涙が出そうになるほど懐かしい気持ちになったんです。そうか、日本には温泉というものがあって、自分を包んでくれるようにお湯が暖めてくれるんだった。そして、それはアメリカにあっては絶対に(かどうかは知りませんが)手に入れられないものなんだと思ったのでした。もちろんバスタブに湯を張れば、それらしいことはできますが、でも、あのあったかい湯にどっぷりと浸かった気分を味わうことはできません。似て非なるものです。そのことを思ったときの懐かしさ。これが故郷です。今はなきものへの郷愁です。今ないから、なおさらありがたい。日本を恋うる心はこれです、たぶん。それは絶対にない世界なんです。もうひとつ、思い当たる節があるので、ご紹介します。Rokku は、あるとき(それはアメリカの大学院の授業にだいぶ慣れてきたときのことです)から、たえず自分が、「そう、そのあなたの言ったこと、もう一度日本語で説明してみてよ、自分の分かったことが正しいかどうか確認したいから」と、叫んでいることに気づいたのです。言うまでもありませんが、母国語という故郷を心が希求しているんです。でもね、言っておきますが、帰りたいと思っているわけではないんですよ。結構やっていけるかも、と自信も芽生えつつあるのです。アメリカの大学院生も、思ったほど大したことないな、などと大それたことを思いつつあるんです。もうじき帰らなければいけない自分を恨めしくさえ思っているのです。自分は必ずここで生きていけると、自信を深めると同時に、心は反対に、故郷を希求するのです。こういうのがデラシネ、根無し草と呼ばれるコスモポリタンの心なのかもしれません。だから、群れたい心はよく分かる。でも、いるところは母国語を喋るところでないことは明らかなのだから、そこでそういう群れ方をする、つまり、日本語の世界を希求してみたところで、そんなものが一時的なまぼろし、意地悪に言えば唯の逃避の場でしかないことは、明らかではありませんか。一週間や二週間で、そんな安易な道を選ぶなよ、と Rokku は言いたくなってくるのです。
Sep 4, 2005
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続いているのは、伝達しようとする意志の話でした。これについては、Rokku に忘れられない想い出があります。場所はロンドンのヴィクトリア駅。学生が二人、シベリア鉄道に乗ってユーラシア大陸を横断。それからどのように乗り継いで来るのかは知りませんが、鉄道でロンドンまで来ることになっていました。Rokkuは、たまたまそのときロンドンに来ていましたので、時間を示しあわせて(どうやって連絡をとったかは覚えがないけど、たぶんB&Bの住所を伝えておいたんだと思う)、ヴィクトリア駅までお出迎えに行ったというわけです。お話している夏の語学講座に行く前のことでした。まだ少し時間があったので、ファースト・フードの店でコーヒーだったかな、ソフトドリンクを飲んで時間でも過ごそうと思ったときに、実に印象的な場面に遭遇したのです。ある女性がカウンターまだやってきて、自分の国の言葉で説明します、自分の欲しいものを。カウンターのなかでサーブしてくれた男の人はブラックで、とても親切そうな人でした。丁寧に話を聞いて(もちろん何を言っているかは分かりませんが)、欲しいと思われるものを想像し、これか?あれか?と聞くのです。女性もまったくあきらめることなく、何とか伝えようと身ぶり手振りを交え、しかし、言葉だけはあいかわらず自国語を喋るだけでした。見ている Rokku がじれったくなるほどのやりとりでしたが、とうとうそれが「水」に関わっているらしいことが分かりました。でも、水ではないらしいのです。彼女はそこから、自分が本当に欲しいもの、すなわち「氷」だけを手に入れて、満足そうに帰って行きました。もちろんタダですね。これは、すごいものを見た、Rokku はそう思いました。だって、コミュニケーションの本質ですものね、これは。女性は要するに氷が欲しいのだから、もし私たち日本人だったらどうするでしょうか。その前のやりとりで、サーブしてくれた男の人が持って来てくれた水で我慢してしまうでしょう。だって、その水には氷が入っているのですから。水は捨てるか、飲むかすればいい。どちらにせよ、氷は手に入るのだから、という理屈です。でも、彼女はそうしなかった。最後まで自らの(私たちから見ると頑固とまで思えるほどの)強い意志を貫き通して、氷を手に入れたのでした。彼女が何人であったのか、ちょっと見当がつきませんが、北欧・東欧の可能性はあるものの、西洋人だったと思います。そして、もちろん、西洋の人々がみな彼女ほど意志を貫くとは言えません。私たちのように水の段階でコミュニケーションをあきらめて、ゴミ箱か何かに水を捨てる選択をする人もいるでしょう。Rokku が印象に残ったのは、彼女が、その氷を手に入れるための手段としてのコミュニケーションに関して、まったく妥協しなかったことなんです。これをコミュニケーションの立場から考えてみると、つまりエコノミーではなく、コミュニケーションの原則論から考えてみると、彼女は意思疎通に関して誠実であったと言えるでしょうね。たとえば、彼女が氷を手に入れるために水を貰って、その水を捨てたとしましょう。もしそれをサーブした男の人が見ていたなら、彼は彼女に対して不信感を持つでしょう。だって、せっかくの好意が捨てるという行為で、無に帰されるのですから。コミュニケーションの観点からすると、彼女の頑固な意志の発露は誠実な行為と言わざるを得ないのです。これは、おそらく、外国語がたえず耳に入ってくる場での(すなわちマーケットでの)コミュニケーションの鉄則なのでしょう。コミュニケーションの相手に、きっちり正確に、自らの意志を伝えること、あるいはそのための努力を最大限すること。これが私たちには欠けているのではないか、Rokku は、その頑固なおばさんを見ながら思った次第です。なぜ私たちには、そういうコミュニケーションにおける誠実が欠けているのか。この答えは簡単です。異言語の人々と日常的に遭遇することがないからです。ほとんど日本語で足りてしまう。だから、厳密に意志の疎通を成功させないと、身に危険がかかってくるとか、まずい事態になるという経験が、普段ないからでしょうね。みんな日本語を理解するという、そのコミュニケーションが比較的容易な状況が甘えを生むのでしょう。伝えようとする「意志」は一応の表向きだけでよくて、表面を取り繕っておけば、それで誰もが納得してくれる。そういう状況に慣れ親しんでいるために、真の意味でのボランティアという精神がよく理解できない。ボランティアとは意志そのものですから。Rokku はPTAの会長をやったことがあります。学校や子ども会など、ダンがお世話になっていたわけですから、自分でできることがあれば何でもやらせていただきます、と二つ返事で受けました。一年目は副会長、二年目に会長となるわけですから、都合二年のご奉公ですが、なければない方がいいのは当然としても、望まれるのならやってもいいという意志はありましたが、別に嫌ではありませんでした。でも、結構時間をとられるんですね。その一つが「資源回収」と呼ばれる廃品回収です。事前の打ち合わせの会議、当日朝早くからの準備、会場の整理、他会場の視察等々、やることが多くて大変なのですが、やれることをしようと積極的に動いていると、どこからともなく聞こえてくるんですね、「好きでやってるんだから……」という声が。ムラ社会のなかでは、積極的な自発の意志というものは、おそらくあってはならないものなのでしょう。たえず強制されて、仕方なく、でも、表向きは自らの意志であるかのように作業に集まってくる。本当は村八分が怖いからなのですが、表面上は自由参加。ムラ社会では、そういうつきあいがほとんどです。ほとんど誰も気づいていませんが。こういう社会で育っている日本の学生ですから、当然、西洋の人々が自然に身につけている「コミュニケーションにおける意志」が理解できていません。いつものように、表面上の事柄として「やる気」を示しますから、西洋人であるところのエディンバラの先生たち(と言っても、エディンバラの人ではなくあちこちから応募して集まってきている人々なんですが)には、「やる気」があるようには見えないんです。だから、インタビューのときにその意思を見せながらも、他の事情(それについては昨日の日記を見てください)もあいまって、選ばれないという結果になってしまう。その学生にしてみたら、わざわざこんな日本の裏側までやって来て、試験に落ちたような気分(実際はそうではありませんが、「やる気」を内申点と考えているとそう見えてしまう)なわけです。落ち込んでいるのだから、そりゃ当然、自己嫌悪にもなります。だから、よけい、少々の激励を受けても、なかなかその気になれない。こんなに英語、英語って、どうして私をいじめる?とばかりに、社会をうらむ気持ちにすらなってきます。もうそうなれば、一応のこころの整理がつくまでには、それなりの時間がかかってしまい、3週間の語学講座も半分ぐらい過ぎてしまうでしょうね。それから楽しさが分かってきても、かなり損したように Rokku には思えます。もっと事前に準備してくれば、目一杯楽しめたのに、と。
Sep 3, 2005
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Rokku がエディンバラの語学講座に学生たちを連れて行くために現地を訪れたのは、もう15年ぐらい前のことです。Rokku もまだ若かった! ダンもまだ一歳になっていなかった。当時は学暦が今とは違って、夏休みが7月から8月まで、それが終わってから9月に試験でした。だから、夏休みが終わるとすぐに飛行機でエディンバラに出発したと思います。当時、ヨーロッパに行くのは結構不便で、だいたい直行便がなかった。あったのかもしれないけど、そんなにポピュラーではなかった。ソ連上空を飛べないものだから、アンカレッジ経由と言って、わざわざアラスカを通ってアンカレッジで給油、それから、たとえばパリやロンドンでエディンバラ行きにトランジットする、というルートだったと思います。この遠路については、それより3年ほど前にケイトとイギリスからスコットランドを旅行したときに、経験していましたので、だいたいのことは分かっていました。でも、学生のように初めての場合だと、これだけでもう疲労困憊。ロンドンでも、だいたい20時間ぐらい、エディンバラの場合はさらに3~4時間ぐらい延びるので、結局一日がかりで現地に着く感情になります。しかも現地はだいたいの場合真昼間ですから、初めて経験するジェット・ラグの辛さもあって、憧れの地であるわりには、みんな状態は最低なんですね。そこへもってきて、着いた途端、そこは英語の世界なわけですから、そりゃあ、意気も消沈しようというモンです。それはよく分かる。しかも、その延長線で、スケジュールはどんどん進んで、開講式、プレースメント・テスト、授業、市内バスツアーと、どんどん用事が追いかけるようにして迫ってきます。よっぽど気持ちを奮い立たせないと、気分がどんどんふさがり、なかなか積極的に行こう!となりません。気持ちはどんどん後ろ向きになり、英語なんてイヤ! もう帰りたい!とか言い出して、やる気どころの騒ぎではありません。勢い日本語の世界に(つまり、友達同士のおしゃべりに)逃げ込みます。しかも、問題なのは、前にも Rokku が言ったことのある、他人の評価への過剰な反応が事態に輪をかけます。どういうことかというと、ホラ、開講式の後にあると言ったでしょ、プレースメント・テストが。コイツです。これはもちろん、クラスを分けるために使うのですが、実は、その前の年から、学生たちのやる気に応えるために、普通のヨーロッパ各国から英語の勉強に来ている一般社会人向けのクラスに、うちの学生を入れてくれないかと交渉してあったんです。これは、同僚の先生の功績なのですが、それを Rokku も踏襲、8人ほどがそれぞれのレベルに応じて、ヨーロッパの人々で構成されているクラス(つまり日本人がいないクラス)で授業を受けられるようにしました。おかげで、そこに入った学生は、さっそく世間の荒波みたいなところで孤軍奮闘せねばならず、大騒ぎになるのですが、問題なのは、日本にいるときにはちゃんと「やる気」があって、来たときにもその積りだったのに、そのクラスに送られなかった学生なんです。一般社会人クラスに送られなかった学生には、「成績だけで選んでいるわけではない。ちゃんとレベルに合わせたクラスに学生を送っているのだから、いろいろな理由で、選ばれなかっただけなのだ」と、Rokku から言ってあります。でも、選別されることに、日本の学生は異様に反応してしまう。横に並ぶことができなかった、即、評価されなかった、となるのでしょうね。でも、ホントにいろいろな事情で送られなかっただけなんです。まず第一、それはヨーロッパの人々があまり日本人が教室に入ってくることを喜ばないこと。どうしてか? あまり喋らないからです。というか、気後れのせいだと思うけど、積極的に参加しようとしない。だから練習にならない、と言うんですね。だから、あまりたくさんの日本人学生をクラスに送るわけにはいかない、そういう事情がまずあります。次に、そのことをよく知っている担当の先生も、あまり日本人学生の気質が分かっていない。つまり、クラスのヨーロッパの人たちと同じように、なぜ日本人はあんなに黙ってばかりいて、積極的にやろうとしないのか、と思っているんですね、実は。だから、プレースメント・テストの後におこなわれるインタビューのとき、それを重点的に見て、この子は積極的に言おうとするか、伝達しようとする意思があるかどうかを、重く見ます。だって、コミュニケーションなんだから、うまく言えたかどうかの技術じゃないんです(それはこれから勉強すればいい)。問題なのは、意志なんです。これですよ、Rokku の言う「やる気」って。誰かに評価されたいから見せる「やる気」(これって、内申書のためにやるボランティアだ!)ではなくて、自己の内部からどうしても伝えないではおかないという気迫ですね、それが希薄なんだ。と、地口が出たとこで、明日に続く。
Sep 2, 2005
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Rokku は英語を教えています。そいでもって、よく質問されました、今までに。一番英語の勉強に必要なものは何か?と。で、この答えが正しいかどうかは分からない(つまり、他にも解答はありうるという意味)けど、Rokku は「やる気じゃないの?」と答えます。だって、必要に迫られなければ、人は必死にはなれませんし、そういう風でなければ、真剣に勉強することなんか不可能だからです。Rokku は二度ほど、大学の命で、海外語学研修につきあったことがあります。場所は二度ともスコットランドのエディンバラ。スコットランドと言えば、訛りで有名ですね。スコットランド方言は、日本で言えば東北地方の方言と同じで、それがしばしば揶揄の対象になるように、スコットランドも長い間馬鹿にされ続けてきました。ましてや、英語の勉強となると、そんなところは真正の英語を学ぶ場ではない、方言だらけなのだから、と言われてきました。しかし、いまどき、そんなことを言う人はありません。だって、英語といえども、イギリス語としての英語、アメリカ語としての米語を代表格に、全部土地の人が喋る方言ですから。それが標準語と言われるようになったのは、単に、放送用の言葉からですね。BBC 放送が始まって、初めて標準語の意識が芽生える。それは近代的な意味での国家の発生をさらに進展させる「全国津々浦々」の意識です。西洋化とか、近代化とは、そういう国家の境界を画定する動きなのです。日本の明治維新だって、まさにその流れでの歴史の必然ですよね。つまり、何が言いたいかというと、標準語って土地に根ざしていない、ということなんです。だから、標準語をさぞかし喋っているだろうと思われるロンドンは、ホラ、有名なコックニーという方言の宝庫でしかない。要するに、ロンドンっ子はロンドンの方言を喋っているということ! それが一般庶民というものです。で、英語の勉強というのは、当然のこと、標準的な英語の習得をめざしてするものですから、いきおい標準語の勉強ということになる。そして、それがどれほど役に立たないかは、しばしば大阪に居ついた外国人によって述懐されていますね。それが参考になります。これまた有名な話ですが、大阪に来た外国人は、一様に標準語の日本語が如何に役に立たないかを指摘します。そりゃそうでしょ、大阪人は標準語としての江戸弁を喋りませんから。同じことがロンドンにも言える。では、それこそ昔は、なぜエディンバラでは英語の勉強にならず、ロンドンならそれができると言われたのでしょうか。それには様々な理由があるようですが、一番大きいのは、標準語として採用されたのが知的階級が喋っていた言葉だからです。では、大卒あるいはそれに準ずる知的階級が一番多く住んでいるのは? 言うまでもなくロンドンでしょうね。だから、その昔、英語の勉強をグレート・ブリテン(イギリスのこと)で考えるのなら、ロンドンやオックスブリッジということになるでしょう。そこにはたくさんの標準語を喋る人々がいたのですから。理の当然です。でも、いまや、それが如何に日常の英語から遠いかは、明らかです。そして、知的階級の言葉と一般大衆が使う言葉と、どちらが多いかは、これまた火を見るよりも明らかですが、しかし、次第に労働者階級の知的レベルが高くなります。つまり地方都市にも大卒の人が次第に増えていくわけですね。大学も増えましたし。そうして、どういう変化が起こったかというと、地方の大学が英語を教えるようになったのです。その直接的な原因はサッチャーの政治改革です。グレート・ブリテンにあるすべての大学は、サッチャーの政策により補助金を打ち切られ、研究費や維持費などを自前で生み出さなければならなくなりました。そうして、様々な検討がなされた末、一番お金になるのが英語教育であることに気づきます。だって、ヨーロッパはもとより、世界中から英語の勉強をしにグレート・ブリテンに来るわけですから、それを一部の大学や専門学校の専売事項にしておく手はありません。そして、どこの大学でも英語を教えるインスティテュートなるものを組織するわけです。考えてみれば、こういうシステムがあれば、そのシステムの中では標準英語が喋られているわけですから、外の訛りの英語とは隔絶された、いわば純粋培養の標準英語世界が出来上がります。そして、よその国から英語を学びに来る人は、その純粋培養の英語こそが本国に帰ってからの就職の武器になるわけですから、外の訛りなどはお呼びでない。ここに地方の大学と外国語学習者の利害が一致します。そして世界中から人々が大挙して、英語を勉強しに、たとえば夏休みにグレート・ブリテンに集中します。この人たちは、同時に、旅行者でもありますから、グレート・ブリテンは大きな観光地としても再生することになります。だからこその、ハロッズの夏の大バーゲンでもあるのですよ。あれはものすごく外貨が稼げるでしょうね。で、困ったことが起きます。人が集まりすぎるのです。特に英語を勉強しようと思う人は、困り者です。たとえば日本人が集まりすぎると、語学クラスは日本人ばかりということになってしまう。これではわざわざグレート・ブリテンまで来た意味がない。そういう事態がまさにロンドンで起こるわけです。Rokku の大学が夏季英語講座をエディンバラに持っていけたのは、もっと別の理由で、今 Rokku が述べた経緯とはまったく無関係の偶然なのですが、実は、それはものすごくラッキーなことだったのです。だって、ここには日本人がほとんどいなかったからです。自信がないから日本語で済ませたいと思っても、日本語がまったく使えない。何とかして英語を使わなければならない環境が、そこに行きさえすればあったからです。明日に続く
Sep 1, 2005
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Rokku は、ブログの楽しみを釈迦楽さんという、研究会の若いお仲間のお一方に教えていただきました。別に、ブログの純粋な楽しみを披瀝していただいた、などというような、浮き世離れした話題としてではなく、むしろブログを通じたアフィリエイトという、一種ホリエモン的な現実のあり方の一端をご紹介いただいたのでした。思い起こせば、その話を聞いたばかりの頃(と言っても今年のことですが)、どちらかというと純粋な青年の心の持ち主ばかりが集う研究会において、Rokku に一脈通ずる釈迦楽さんの考えは異端そのもので、そのホリエモン的興味のほどを少し開陳するだけで、仲間内からはすごい拒否反応をいただいたのでした。そういう仲間内の拒否反応のすごさにビックリしつつも、どれほどの楽しみなのかはさすがに半信半疑であった Rokku に、釈迦楽さんは、ブログそのものよりも、自分のブログの世界に様々な自分らしさを表現する小物たちを集める楽しさを聞かせていただき、その都会的な楽しみ方のありように、社会学者ジンメルが100年前に指摘したことの正しさに驚き、舌を巻いたのもつい昨日のような気がします。それから、私はすぐにブログを始めて、ワインのことについて種々考えてきたことを思いつくまま書きました。当然のこと、ワインの話はすぐにネタが尽きてしまいましたが、何よりも好きなことを好きなように書くことの楽しさ(続けることはまた別の苦しさであるといずれ知ることになったのですが、それはまた別の話)は、人に伝えないわけにはいかなくなり、Mike23 さん、通称マイクさんにお知らせしたのです。以来、彼はブログの楽しみを得て、実に楽しい日記を書き続けていますが、最近になってやっと気がついたことがあります。他人のブログって、進化するのですね。基本形から発展形に進化するなんて、まるでポケモンではないか、と気づいたのは、実はつい二、三日前のことなんです。考えてみると、Rokku ってあんまり他人に興味がない。昔からよく言われました。そんなに他人のことを気にすると疲れるよ、って。でも、Rokku は疲れた覚えがない。人間って、他人との距離を測りつつ生きるのは当たり前のことですよね。もちろんそんな程度には他人のことを気にします。というか、気づかいます。でも、別に他人に百パーセント合わせているわけではない。人の言うことが聞けるだけなんです。別に、他人に興味があるわけではない。というか、興味がない。別に他人は他人なんだから、私には関係がない。その意味では、兄弟だって、親だって、おんなじ。過度の感情移入ということが、実は、分かるようで分からない。自分に関わりのありそうな、そういう他人の事柄、たとえば境遇が似ている他人の話にはもちろん、並々ならぬ関心を示すし、もちろん涙も流れる。でも、それって、自分に関わりがあることだからです。他人に興味はない。だから人の話は聞ける、ただそれだけのことなんですが、そんなに他人のことを気にすると疲れるよって言われて、悩みましたよ、人並みに。そうか、Rokku はそんなに他人のことを気にしているのか、って。別に興味ないんだけど。そりゃ、他人が自分をどう評価しているかは気になりましたよ。今でも全然気にならないというわけではない。でも、若いときとは全然違う気がする。そんなもの、処世でしょ? 単なる自他の区別でしょ? 自と他は違うのだから、そんな程度に他人に気を配るのは当たり前じゃないですか。だって自分じゃないんだから。で、何が言いたいかというと、あるとき、Rokku はそういう他人が自分のことについて語る評価にも興味を示さないことに決めたんです。どうせ、自分は自分でしかない。いくら他人の評価を気にしてみても、自分が変わるわけではない。だって、自分は自分でできることのせい一杯を生きているわけですから、他人の評価を気にしてもこれ以上はできない。どうせ、自分は頑張るのだったら、他人の評価を糧にする必要などはない。身の丈ですよ。そう思ったとたん、他人のことは、自分の評価も含めて、気にはならなくなりました。いいです、馬鹿で結構です、私はこれ以上できません。今あなたが見ているのは、私が精一杯頑張ったすべてです。これ以上はできないのですから、そういう私を見てあなたが馬鹿と思うのなら、それはそれで仕方ない。私はその評価を変えられない。甘んじて受け入れます。そう思ったら、もう怖いものなんてありません。そういう風にここ十五年ぐらい生きてきたものですから、他人には興味ないんです。自分の関心以外には。そういうわけですから、ブログをやっていても、他所のブログは見たことがありません。だって、他人に興味ありませんもの。自分が知りたいことは調べますよ。そのために方便として他人のブログに行くことはあります。でも、知りたいことを知ってしまったら、後は関係ありません。ところが、こういう生き方は、自らに変革の可能性がなくなってきたときにはマズイかも、と思うようになりました、つい最近。そう、久しぶりにホームから釈迦楽さんとマイクさんのブログを見て、Rokku はビックリしたのです。その進化ぶりに。その充実ぶりに。Rokku は努力不足だとつくづく感じ入ったのです。でも、よくそんな時間ありますねえ。Rokku は日々の日記で精一杯だけど。
Aug 31, 2005
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