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ほとんど日記を書いていないので、のんびりした夏を過ごしたと思われそうです。ですが、個人的には怒濤の8月が終わり、やはり怒濤の9月の中頃なのです。小津安二郎映画のように、かすかなさざ波が立っても、いろいろあって、そしていつものような穏やかな日常に戻るという、素晴らしい平穏に憧れる日々なのです。ですが、上を見たらきりがなく、下を見てもきりがなく、そこそこの幸せとほどほどのスリルとを味わえる今日この頃です。ともかくそこをよしとしなくてはなりません。わかってはいるのですが・・昨日は久しぶりの秋晴れです。早朝、スーパーにいきましたら(近くの西友は24時間営業なのです)、林檎や梨や葡萄がたくさんありました。ああ、いつのまにか秋真っ盛りなんだな~と感じ入った次第なのです。ふとみれば ススキしげりて 風の吹く思ってみれば不思議なのですが、今年は8月の終わり頃から秋が来たとわかっていました。なのに、自然の変化に疎かったのです。いつのまにか秋の花が咲き始めていました。そしてわが町は秋祭りになりました。空は高く澄んでいます。そういえば一月以上カメラを持って出かけていませんでした。そうだ写真を撮りに行こうと思い立ちました。赤い彼岸花が咲き初めていました。赤いヒガンバナと白のヒガンバナ、センニンソウ、ヒヨドリジョウゴ、コスモス、ツルボ、夏の花ですが、秋空に冴える向日葵、カンナ、地元の秋祭りの神輿です。ヒガンバナ秋空ツルボセンニンソウシロヒガンバナ名残の向日葵銃弾の墓コスモス最近は昼でも咲いている朝顔の種類が多いです。犬だって祭りディかわいい子供神輿いよいよ神輿巡行出発、先頭はお囃子
2009.09.14
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昭和の思いで 昭和の接客法有楽町のガード下の写真をよく撮ります。わざと古くしているのかもしれませんが、不思議に心地よい空間です。このような薄暗いゴミゴミした雰囲気を今の若い人はみたこともないでしょうに、案外若い人がお客さんになっています。まんぷく食堂http://www.cinema-st.com/food/shoku001.htmlネットで調べますと、朝食だけが安いようです。ランチや夜はファミレス程度の価格帯みたいですが、量はたっぷりあるようで、まんぷくになるみたいです。問題点は接客態度らしいです。それは昭和三〇年、四〇年代の再現らしいのです。それで思い出しました。昭和の買い物です当時の東京では買い物にいきますと、店内に誰もいません。性善説の時代だったのでしょう。レジもそのまま、商品も取り放題状態で誰もいません。客が信用されていた時代です。大きな声で「すみませ~ん~」と何回も大声で言います。いえ、「すみません」より「くださいな」だったかもしれません。大声で「くださいな~」とか、子供は「ちょうだいな~」とか、変なイントネーションで叫びます。何回も怒鳴らないと誰も来てくれません。やっとお店の人が出てきます。大抵、そんな大声で言わないでも聞こえるよ、というような雰囲気を表情に漂わせています。まず第一に「いらっしゃい」と言ってくれることは少ないのです。たまにはありますが・。下手をすると「なんですか!」という第一声です。ここでひるみますと、お使いが果たせません。「あ、あの醤油を一合ください(ここは酒屋さんです)」と、そっと空き瓶を出します。そして夏ですと、もう一つ買い物があります。「あの、冷えたビールありますか」「冷えたの、何!」怖いです。「あ、あの、いつものキリンビールを二本ください」「キリンビールは一本だけ! サッポロビールがよく冷えているからね」「あ、そ、それでいいです・・・」お店の人は怖かったです。「何を差し上げましょうか?」なんて聞いてくれたら、宝くじに小当たりしたようなものです。 そのうえ、昔はビールの冷やし代をとられました。幾らだったか? 五円かな? 井戸に吊せば只です。ですが共同井戸なので、西瓜を吊してたらなくなった、なんて裏のケチおばさんが叫んだこともあったので、井戸では冷やせません。 当時の買い物はお店屋さんが売ってやる! という時代でした。そう言う風潮はいつからだったのでしょう。江戸時代、大店の経営者はお金持ちで庶民より一段上だったのでしょう。貧しい庶民がやっと溜まった小銭をもって買い物に行くと、けんもほろろだったかもしれません。士農工商なんて嘘です。商士工農・・ですかね。昭和の終戦直後時代は品物を持っている人が威張っていて、欲しい人は頭を下げて言い値で買っていた時代がありました。そのときの感覚がまだ残っていたからかもしれません。昭和の買い物は、お客が「すみません」とか、「お願いします」とかいって品物を出して貰い、お金を払ってお釣りと品物を渡されると「どうもありがとうございます」と頭を下げて感謝いたします。運が良ければお店の人が会釈を返してくれるます。個人商店で買い物をすると、お店の人とのコミュニケーションが楽しいと言われますが、当時は楽しくなかった。友人関係のお店なら楽しいでしょうが・・。今、思い出してみますと、いつもドキドキして買い物していました。お釣りがたりないなどといいますと、こっちが悪いみたいに言われて、もめることもあります。幼い頃から暮らしている町で、買い物にいきますと、大きくなったわね! などと、普段愛想が悪いのに、突然言われることもあります。幼いときのあまりうれしくないエピソードを話してくれたりします。自分が年をとってくると、顔見知りの子供が成長するのを見て、つい懐かしくなって、あれやこれや話しかけてしまうことがあります。ですが、言われる方はうれしい話題ではないのです。やがて昭和四十年代ごろからスーパーが次々開店してました。人々がスーパーに流れていくのも、個人商店の接客法に問題があったからだと思われます。買い物依存症気味の私はこう思うのです。物を買うのは何が楽しいのか、それはお金を支払うときに、快感を感じるからではないでしょうか。財布の中の福沢諭吉が減っていくのは寂しいですが、支払う度に私は買い物したのよ。王侯貴族よ! ちょっと大袈裟です。でもたとえ十円でも支払うときにふっと快感を感じませんか?「すみません」とか、「どうも有り難う」とか、自分から言っていたら、この快感は感じられないのです。お金を払うときに、すまなさを感じるほどです。最近強く感じますのは、日本のメーカーの電話対応が悪すぎることです。とくに大メーカーは、お役所のように融通が利きません。そのうえ自社の商品知識がなさすぎます。PCの故障をメーカーに問い合わせた中で、対応が良いのはDELLだけでした。やはり顧客対応のよさが物を売る、買っていただくということに繋がっていくのでしょうね。
2009.07.18
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昭和の思いで 友人の渡った踏切人生を60年以上過ごしてきました。いつから幼児ではなくなり子供になったのか。いつから子供ではなくなり少女になったのか。私はそれが何歳の頃だったか覚えています。でも大人になったのは何時でしょうかね・・。細かく言えば、結婚したとき、子供が生まれたときなどかもしれません。そのような経験をしますと、今まで見えていなかった物が見えるようになりました。物の感じ方が変わったり、理解できなかった事が理解できるようになりました。しかし、大人になったのとは違う感覚です。目が悪いので眼鏡を掛けたような感覚です。それで、経験が人を大人にしていくのではないのだろうと思います。人が何かを超えたとき、変化を感じたときを、そこを人生の踏切と考えることもできます。踏切は渡ると景色が一変することがあります。商店街から住宅街へ入り込むこともあります。町から田園風景に変わることもあります。大きな団地の中に迷い込むこともあります。寂れた町から盛った町へと変貌することがあります。踏切は時に命を落とすこともあります。此岸から彼岸へ渡る橋のようです。昨日、昭島に行ってきました。何故出かけたかは月曜日以降に写真でお知らせするかもしれません。ちょっとした思い付きだったのです。ですが、私はまたあのことを思い出してしまいました。もうあれから40数年経っているのに、その思い出のために出かけたわけではないのに、やはり思い出してしまいました。昼頃、駅頭に降りたち、見た昭島の町は初めて訪れた町のようでした。北口駅前にはモリタウンという大きなショッピングモールができていました。この変貌ぶりは驚きました。実は忘れられない記憶がこの町にあったのです。それは40年以上も前のことです。高校三年生でした。私たちの仲良しグループに昭島に住む友人が参加しました。私たちの仲良しグループは5人になりました。1年の頃から仲良しだった私を含めた三人組に昭島の友人ともう一人が合流したのです。私たち五人はいつも仲良く群れている、そう言う関係でした。そのときまで、後から合流した二人は卒業して別の大学に進めば、自然に疎遠になっていくような関係だったはずです。そのような友人関係でも彼女は昭島で、私は国分寺に住んでいました。二人は同じ方角なのでいつも一緒に帰っていました。たわいない話をして笑いながら帰りました。時々みんなで昭島の彼女のお宅に遊びにも行きました。当時はまだ立川は米軍の飛行場でした。拝島駅近くには今でも横田基地があります。昭島は基地近くの町として有名でした。白ペンキの米軍住宅が建ち並んでいた頃のことです。その友人は卒業間際の3月のある日、踏切を渡りました。此岸から彼岸に渡ったのです。それは大学受験の最中でした。学校は卒業式まで休みに入っていました。1回だけ登校日がありました。卒業式のリハーサルがあったのです。登校しなくてはいけないのに、私はさぼって行きませんでした。誰もが受験勉強のためだろうと気遣い、何も言われませんでした。当時の私はクラス委員をしていました。昔で言う級長です。ですから級友を式場へ誘導する役目があったのです。が、さぼりました。私が登校しなかったその日に、友人は踏切を渡ったのです。日を待たずに葬式が執り行われ、出席できる友人は参列していました。私は葬式にも行っていなかったのです。それは、昔のことです。我が家には電話がありませんでした。私の家はそれほど裕福ではなかったのと電話をかける必要性も少なかったからです。急用の電話は隣の瓦屋さんが取り次いでくれました。急用ではなくとも取り次いでくれましたが・・・。緊急の時には電報が来ました。ですから私に知らせることはできたのです。でも、受験でナーバスなのだろうと担任の先生も友人も気遣ってくれ、知らせがきませんでした。 葬式の2日後、受験会場で隣のクラスの子に逢いました。その時、事件を教えられたのです。新聞にも載っているといわれました。昔は新聞記事になったのです。そのうえ当時は顔写真まで載っていたのです。しかし私は新聞も読んでいませんでした。なぜ新聞も読まなかったのか。今となっては悔やむだけです。帰ってから、教えられた日の新聞を開きました。記事と写真をみました私はパニックに陥り大泣きに泣きました。私もその日、何かの踏切を渡ったのです。その後、残された四人は初七日にいきました。それからも法事で何回かお線香を上げに行きました。3回忌の次の年の命日にも行きました。友人の母親は線香を上げに行った私たちに形見分けをしてから、もう来ないで欲しいと言いました。その頃の私たちは若すぎたのです。子を失った親の気持ちを理解することが出来ませんでした。友人の死を共に悲しみ、共に語り合うつもりだった私たちは、冷水を浴びた思いでその家を後にしました。もちろん、母親の気持ちはなんとなく判ってもいたのですが・・。 私達残された四人は生きているので、それから大いに青春を謳歌しました。それぞれ希望の大学に進み、勉強も恋もしました。お酒の味も覚え、よく遊びました。ディスコで踊ったりしました。後悔するようなこともありました。後悔も失敗も青春のスパイスです。苦い味、辛い味、どれもが生きている証です。 踏切を渡った友人はいまも18歳で、あの一瞬どのような痛みや苦しみがあったのか、誰も推し量ることはできません。その決意をする前に何があったのかどんな悩みがあったのか、誰も知らされていませんでした。 青春の甘さも苦さも辛さもしらないままに彼女は踏切を渡ったのです。 あの日、彼女が私と帰っていたら、踏切を渡らなかったと思います。彼女の渡った踏切は東小金井から武蔵小金井の間の無人踏切でした。 ちょうど東小金井駅が開通して数年ぐらいの頃です。線路の周囲は植木の畑が続き、家も何もない状態でした。開発のためなのでしょうか空き地も広がっていました。新駅ができて大きく発展するかと思っていましたが、何年も駅周辺も線路沿いも空き地ばかりが目立っていました。土地価格が高騰したからです。高級な空き地に中央線が東西に横切っていました。その空き地にほとんど人も車も通らない道が南北に線路を渡っていました。踏切に電車が近づくと赤の電球が上下に点滅しカンカンと音がします。いつまでもカンカンと警笛が鳴り響いています。友人はその警笛をききながら踏切へと入っていきました。両親は国鉄(当時)から悲報を聞かされます。飛んでいきますと係員の悼むような様子は形ばかりで、即バケツと石炭ハサミを渡されます。現場に連れて行かれ、悲惨な現場の後かたづけをするように言われます。遺体は形をとどめていなかったそうです。枕木の下の石や線路脇の草むらに張りついた遺体の小さな破片を石炭バサミで、はがしてはバケツに入れていきます。泣いている暇もありません。かがめた姿勢の腰は痛くなるし、その脇をひっきりなしに猛スピードの電車が走り抜けていくし、何時終わるともしれない辛く悲しい作業なのです。 このような思いをした母親の目に娘の友人達が青春を謳歌している姿が写って、どう感じていたでしょう。何回も娘を思い出し、何回も苦しみ、何回も自分自身への怒りの思いがこみあがったことでしょう。 気遣わなくてはいけないのは私たちだったのです。前にも一度同じことをブログか日記に書いていますが、もう一度書きます。死は自分だけの責任ではないのです。周囲の人も、ある意味での命の踏切を越えさせているのです。私はそれから10年以上も毎日現場の踏切を越えました。踏切の上を電車が通り過ぎるとき線路の境目なのでしょう。ガタンと体が揺れます。朝はまだいいのです。帰りの電車がガタンと揺れるとき、彼女の事を思い出すのです。なぜあの日一緒に帰らなかったのか・・。踏切に佇む彼女の姿を思ってしまいます。辛くなって反対側の窓外に視線をそらすと、暗くなりかけた外には、深い闇に沈む草むらがあります。あそこに拾いきれなかった彼女の破片がまだ残っているのではと、必ず思うのです。その草むらから目を離すことが出来ません。一瞬で通り過ぎる踏切ですが、いつまでたっても忘れることが出来ないのです。他の友人達も悔やんでいます。当日は卒業前の最後の日だからと、暫く教室に残り、みんなで馬鹿話をしたそうです。記念にと誰かがテープレコーダーにその馬鹿話を録音しました。馬鹿話の内容は楽して金儲けをする方法がないかと話したそうです。若い頃よく話すようなことです。たわいのない事を話して大笑いをして、まさかその帰りにそのようなことになるなんて、誰も思っていませんでした。なぜあの日そのようなつまらない話しをしてはエキセントリックに笑ったのだろう。なぜ、そのとき彼女の心に気付かなかったのか・・。私もその録音をあとで聞かせて貰いました。なんとも感想を言えませんでした。彼女に悩みがあるとは誰も思わなかったのです。進路も系列の短大に進む予定でした。入学は決まっていました。家庭も我が家と違って裕福でした。恋人がいたかどうかは知りません、憧れの彼はいたらしいですが・・。いつまでたっても、なぜ、なんで、と思います。誰にも、悩みを話せなかったのでしょう。私たちはそれぞれ高望みの受験先で頭がいっぱいだったのも事実なのです。何故悩みを聞いてやれなかったのか。何かしらサインは出ていなかったのか? どうしてサインに何故気付いてやれなかったのか? 友人も家族も一生背負う悔やみなのです。残された四人はトラウマを抱えたまま生きてきました。18歳のままの友人がいるので、いつまでも大人になりきれないのかもしれません。置き去りにした何かが、残された私たちを引き留めているのです。東小金井から武蔵小金井間は線路が2階に上がりました。踏切や草むらも見えなくなりました。ガタンを感じないまま通り過ぎました。私にとっては心の痛みをあまり感じずに故郷に帰れるようになったのでしょう。
2009.07.11
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金八先生で、全国区になったでしょう。堀切菖蒲園駅から徒歩10分ほどのところにある堀切菖蒲園に行ってきました。6月5日から菖蒲祭りが始まっています。昨日は好天に恵まれ、綺麗な菖蒲が見られました。ここは入場料無料です。無料大好き!堀切十二支(天祖神社にありました)
2009.06.08
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朋有り遠方より来たる。亦楽しからずや。マイミクさんが九州より上京されました。神保町をぶらつきたいとのことで、神保町駅前で待ちあわせをしました。いつもながら、おっちょこちょいの私は、一緒に逢うマイミクさんと打ち合わせの際、地下鉄神保町駅のA8番の岩波ホールね・・といいました。 10時前に九州からいらした方はご近所にお住まいで道に詳しい友人といっしょにやってきました。岩波ホールを目指してきたので私にあえました。ところがA8番と聞いた人は正直にA8番にずっと立っていたので逢えません。岩波ホールはA6番だったのです。 また、やってしまいました。私に道を聞いたり待ち合わせ場所をきいたりしてはいけません。と開き直る私なのです。えへ、御免ね。 やっと全員集合しまして、久しぶりの神保町散歩です。 でも女性ばかりの集まりですから、まずは、おしゃべりをしたいですよね。それで、喫茶さぼーるに入りました。さぼーるはいかにも学生街の喫茶店です。薄暗く狭い店内に小さめの机と椅子。体型に不自由のある私はなんとか転ばずぶつからず、その小さな椅子に座ることが出来ました。 この喫茶店では関西のようにコーヒーにピーナッツがつきます。ちょっと得した気分になれます。 レンガの壁には落書きがいっぱい。 学生時代に戻っておしゃべりをいたしました。 それからは水道橋まで歩き、後楽園ドームホテルの3階でバイキングをいただきました。http://www.tokyodome-hotels.co.jp/news/restaurants_fair/lalachina.shtml#0905_1一人2500円ですが、ソフトドリンク飲み放題でデザートもついていますし、なによりも感動しましたのは、ローストビーフを厚めに切ってくれることです。 中華のスペアリブも肉が軟らかく美味しかったです。 デザートのプリンがとくに美味しかった。ちょこっとビールをいただき、おしゃべりに花が咲いた半日でした。先の言葉は論語の一文でした。全文?子曰はく、「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。朋有り遠方より来たる。亦楽しからずや。人知らずして慍みず。亦君子ならずや。」と。この朋は友とはちがうのだそうです。どちらにしろ、一緒に楽しくおしゃべりをしてバイキングを食べれば、亦たのしからずや道路の騒音を計っているのだそうです古本屋さん運送やさん学生時代、教室よりよく通った路地教室より長く座った喫茶店跡ミロンガ 入ったことがない・・紫陽花世界のビールラドリオ。。シャンソンがいつもかかっていた。アンニュイだった私・・喫茶「さぼーる」
2009.06.04
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メル散歩 いきあたりばったり2 大森編「二つの貝塚」京浜東北線大森駅で降りました。なんとなく目的はあったのです。「馬込文士村」探訪・・ですが、さっそく方向音痴ですし、特に地図ももたず、あっちかな~と歩き出しました。駅前のゴミゴミした感じ・・後ろの山は「天祖神社」途中で見かけた木造住宅小学校か中学校のころ社会科の授業で、モース博士が品川を列車で通り過ぎたとき線路の脇に貝塚があるのを発見しました。と勉強しました。日本の貝塚発見の始めてです。貝塚は縄文時時代からそこにずっとあったのに、だれもが縄文期のゴミ捨て場とは気付かなかったのです。ゴミ捨て場だからかえりみられなかったのかな? モース博士は大森貝塚の住所をしっかり記録していなかったのです。それで、後世、どこが貝塚なのか正確な住所がわからなくなってしまいました。 大田区の大森駅近くのNTTビルの敷地に大森貝墟という大きな碑があります。そこから数百メートル離れた品川区に大森貝塚史跡公園があります。こちらは貝の層が見られますので、こちらが発掘された大森貝塚の場所というのが現在の通説です。ただし両方とも大森貝塚として国の史跡になっています。 どちらも線路がすぐ脇を走っています。 モース博士が列車の中から貝塚を見つけた話しを習って、私はモースおじさんも電車に乗ると外の景色ばかりみていたのだな~とちょっと親しみを感じました。ですが私が外を見ていても、世紀の発見は出来ないのです。残念。モース博士史跡公園内にある貝殻が見える土壌もう一つの貝塚の碑電車がすぐ目の前を猛スピードで!昨日は雨ですので、散歩はどうしようかと思いながら、電車に乗りました。大森駅で降りまして、思い付きでぶらぶらしたのです。 まず駅前の天祖神社に行ってみました。急な階段を上がり神社を撮影しようと思いましたら、怖そうなおじさんが煙草を吸いながら裏から出てきました。カメラを向けることができず、社殿は撮れませんでした。 うろうろするばかりで、なかなかいい被写体に巡り会えません。やっと花が咲いた可愛い紫陽花 アジサイが少しづつ色づき始めています。 街路樹の根方にも綺麗なアジサイがありました。写真を撮っていますと、そのアジサイ綺麗でしょう。と声がかかりました。「はい」と振り返りますと、前のお店から、ちょっと美人の奥さんが出てきました。「それね、鉢植えで景品でもらったの。そのときは咲いていたけれど、次の年から花がつかなくて、それでも一生懸命水をやったりして育てていたけれど、何年も葉っぱばかり立派で花がつかないのよ。そうしている打ちに大きくなったので、その街路樹の所に植え替えたの。そうしたら去年1つ花がついて、とてもうれしかったの。今年は4つもついて」「本当に綺麗な色ですね。来年はもっと咲くでしょう」「もう、うれしくて、うれしくて」誰かに喜びを話したかった野でしょうね。それからも延々花の話しが・・、仕舞には道路の向こう側に咲いている紫陽花よりこっちが綺麗だと言い出して。花も自分の家の方が可愛いのですね。散歩をしていますと時に一期一会の出会いがあります。 その他に訪れた場所は品川歴史館、日枝神社、大森不動尊(円能寺)、鹿島神社、と神社仏閣ばかり歩いてしまいました。貝塚を二つ。アジサイ。鹿島神社は品川区100景に選ばれています。緑が多く区の保護林となっています。鹿島立ちという言葉があるそうです。筑紫に派遣される防人が鹿島神社で祈願したことを現しています。そこから交通安全、旅行の安全に御利益があるといわれています。鹿島神宮でお宮参りをしている一家に出会いました。写真に入らないよう気をつけて神社を撮りました。本日はどうも人に出会います。昼ご飯を藍屋という和食のファミレスに入りました。すると、そのお宮参りの一家が後からやってきました。縁ですね。この一家は赤ちゃんをなぜか若いパパがずっと抱いていました。普通はお嫁さんのお母さん、もしくはママが抱えていますよね。まあパパが育児に参加するのはいいことですが、慣れない抱き方にハラハラしました。品川歴史館にもよりました。まあなんというかそれほどでもないかな・・という展示でした。建物は立派ですね。成田山大森不動尊ともよばれている円能寺はこの辺りの地名の元である(山王様)日枝神社の隣にあります。目的を定めず、曲がり角をみれば曲がりまた元に戻りと同じようなところをグルグル歩きました。雨でしたので、いまいち盛り上がりに欠けましたね。カメラも一眼レフは濡らしたくないので、雨用のカメラを持っていきました。こちらのカメラはシャープに撮れません。雨の日はこのぼんやりもいいかなと思います。
2009.05.25
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谷津駅京成谷津駅前谷津バラ園への道巨人軍発祥の碑メル散歩 行き当たりばったりの旅方角だけ決めて家を出ました。日暮里から京成線にのりました。何処に行こうか、市川の先まで行こうか・・八幡でおりました。先日来たところでした。また電車に乗り船橋競馬場でおりました。競馬を楽しみたい訳ではなく、快速の停車駅だったので降りたのです。昔は近くに谷津遊園があったはず。遊園地は無くなったが、バラ園があるはずだ、と思い、線路際を歩いて谷津駅まで行きました。谷津駅前からバラ園まで遊歩道になっていました。雰囲気は世田谷の私鉄駅前に似ています。緑したたる並木の遊歩道の両側には古着屋さんやカフェがあり、お洒落な雰囲気です。そして安い八百屋さんもありました。心引かれるお蕎麦屋さんもありました。でもここはぐっと我慢。はやく綺麗な薔薇をみたいのです。暫く歩きますと京葉道路の下をくぐります。そこから公園になっていました。公園をなおも行きますと谷津バラ園がありました。360円払って中に入りますと、意外に狭いです。入り口から、ぐるりとバラ園全体が見渡せるほどの狭さです。しかし薔薇は多いです。びっくりするほど沢山咲いていました。今が満開。見頃ですね。いろいろなバラ園に行きましたが、狭いがこれだけ見事なバラ園は初めてでした。次回は京成バラ園にも行ってみようと思います。もっと見事でなことしょう。正直、薔薇はもう結構というほどでした。沢山見まして写真も撮りました。バラ園の後方には谷津干潟が広がっています。時期が悪いのか、水鳥は少なく、水も少なく、厭な匂いがしていました。早々に駅に戻りました。もう帰ろうかと上野行きに乗りました。のってすぐ、大神宮下という駅につきました。大神宮というぐらいだから立派な神社があるのだろうと思い、思い付きで降りてみました。降りましたらすぐ近くに大きな鳥居が見えています。船橋大神宮(意富比神社(おおひじんじゃ)という神社でした。新緑が溢れるほど多くて静かな神社でした。日本一小さい大神宮とも言われているそうです。延喜は古く、日本武尊が東征の折、祈願をしたのが始まりといわれています。ゆきあたりばったりなので、境内には灯明台(灯台)があるそうなのですが、気付きませんでした。残念!そこから駅に戻り海側へと歩いて行きました。橋を渡り、なおも海へ海へといきました。そこは船橋港です。船橋港親水公園になっています。船橋港親水公園の左側は船橋ララポートです。以前は船橋ヘルスセンターといっていた所です。小学生の頃、谷津の浜辺で潮干狩りをして、帰りに船橋ヘルスセンターでお風呂に入った記憶があります。もしかしますと、さきほどみてきました、あの干潟が昔は遠浅の海岸だったのかもしれませんね。懐かしいですが、ララポートにはよりませんでした。船橋港から左側へ京葉線の線路にそって歩いていきますと船橋オートレース場が見えてきます。オートレース場の隣はIKEAです。IKEAに入ってみました。2階のレストランは楽しそうな所です、私は谷津バラ園でお弁当を使ってきたので、食事はしませんでした。フリードリンクの200円を支払い、たっぷりアイスティーやペプシコーラを飲んできました。南船橋駅から京葉線で帰りました。南船橋駅前の空き地にチガヤがいっぱい、風に揺れ光っていました。
2009.05.24
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荒川の河川敷で標題の駅伝大会が開催されました。私も出ました・・思いっきり嘘です!!見に行きました。応援するつもりでしたが、沢山の人が出場されて、わかりませんでした。写真を撮ってきました。10時出走ですが、会場のアナウンスでは、32℃は超えているとのことでした。日向はとっても暑かったです。コスプレランナーもいらして、ほとんど拷問じゃないかという衣装の人もいました。
2009.05.10
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物質文明から精神文明へ標題からみると少しオカルトっぽいかもしれません。いま、文明が大きく変化する時がやってきているのかもしれないのです。過去、人々は大きく文明の変革を遂げながら進化してきたといえます。大きな変革は樹上から地上に生活の場を替えたときでしょう。サルからヒトになった時です。ヒトは枝をつかんでいた両手が自由になったことから道具を使うようになりました。道具は、より使いやすく効果の高い物に変わっていきました。何もかも燃え尽くす怖い火も、ヒトは上手にコントロールするようになりました。道具を使い、自由に火を点けたり消したり、持ち運んだりできるようになったのは、ヒトの第二の進化、変革でしょう。火を使えるようになると、道具は木や石から鉄器に変わっていきます。また狩猟生活から農耕生活に変わったのも第三の変革です。農耕生活というと穏やかな人たちを想像させられますが、実際は戦闘に明け暮れる時代の始まりだったのです。食糧が安定供給されると人口が増えます。人口が増えると田畑を広げなくてはなりません。土地の争奪戦がはじまり、戦いがおきます。第三の変革はヒト同士が殺し合う戦いの時代になったことです。そこから文明は駆け足になりました。よりよい武器を開発することは生活の道具も同時に開発されていくのです。メソポタミアや中国に文明が花開いてから、せいぜい四、五千年です。地球の歴史からみるとほんの短い期間です。人間が初めて地上に降りて暮らし始めた頃は、氷河期だと言われています。寒いし、餌は乏しい、夜になると野獣に怯えながら眠ります。生活の質は最低です。動物と人間との大きな違いは現状に満足しないことだそうです。恒に不満を持つ性格なのだそうです。そう言われてみれば、満足ということがなかったかもしれません。どんなに素晴らしいことがあっても、つぎはもっと素晴らしいかもしれないと思うからです。話が大きく飛びますが、バブル時代の日本人は、刹那的な楽しみに熱中ていしました。欲しければ何でもローンで買い、いらなくなれば捨てる。新しい物、高い物、ブランド品が飛ぶように売れました。そんな素晴らしい毎日だったのに。ある日、その生活に不満を感じます。遊んでばかりでいいのか、借金まみれの生活でいいのか。これも現状への不満です。正しい道に戻ったというより、恒に満足しない性格からきているのです。バブル期はサラリーマンの一生の給与より家が高くなってしまいました。立ち止まったのはそのためです。家もなく年老いていいのか・・、不安がバブルに穴を開けてはじけてしまいました。今、100年の不況といわれ、経済界はバブルの再来を待ち望んでいます。思えばあのころは良かった。人は借金までして物を買いあさった。バブル期の生活は貸借対照表は債務超過なのに、生活の質は高かった。実質は貧しかったのに。今は、人々の財布の紐は堅いです。物を買いません。安ければ買うけれど~、という時代が長くつづいています。さて、もう一度振り返ってみましょう。原始時代の人の生活はどのようなものだったでしょうか?動物園のチンパンジーのような暮らし方でしょうか?もっとも動物園では餌の心配がないので、野生時代とは大きく隔たっているでしょう。人間が食べるものを与えるわけですから、栽培された野菜や果物、穀物などを食べています。野生なら木の葉や皮、実、酸っぱくて小さくて種の多い果物になります。その上、危険なことがありません。野獣に襲われる心配がないのです。夜も昼も安心して寝ることが出来ます人の目からみますと動物園の方が、野生よりも生活の質が高くなります。食事は豪華、掃除はしてくれる、セキュリティー万全、病気になれば医者が飛んできてくれる。ホテルのスィートで生活しているような物です。しかし、ヒトは至れり尽くせりの生活でも満足しません。いってみれば刑務所の暮らしです。刑務所は食事も寝るところも医療もあるのに、刑罰になるのは、その暮らしが辛いからです。ああ、だが、現代は刑務所志願の人が増えています。わざわざ大きな犯罪を起こして刑務所に入る人がいます。刑務所が刑罰にならなくなるというのは、浮き世の暮らしが物質的ばかりではなく心から貧しくなったからでしょう。心の貧しさとは、大きな不満が物質文明の中に起き始めているからかもしれません。浮き世の暮らしが不満になっているのでしょう。が、これは、ヒトの時代に大きな変革が起きかけているのかもしれません。いい方にいくのかは、わかりません。いま人々は不満の固まりです。物質文明への不満なのでしょうか?私たちは携帯やPCにお金をつぎ込み、形のない物に囲まれるようになりました。生活の質が変化しつつあります。物質文明の崩壊が来ているのなら、この苦しい過渡期を乗り越えれば、新しい時代がやってくるのかもしれません。人口は爆発的に増加し、地球上はヒトに覆い尽くされました。聖書などを読むと、ヒトは傲慢になり地に溢れ、そのたびに神の怒りを買って大洪水などがおきていました。大洪水の後、生き残った人々は今までの文明を捨て、また一から新しく始めていたのです。さあ、生活の質を高めながら、そこそこの幸福感を得るための文明を人類は求めるときにきました。変革をいい方に向けるのは私たちヒトの力なのです。またまた長くなりました。
2009.05.09
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昨日は5月4日みどりの日ということで入園は無料でした。只ほどうれしい物はない~♪子供連れがわんさかわんさか・・私たちも只に釣られて、やってきたのでした。いい大人が動物をみて楽しいか! という意見もあるかもしれません。しかし好奇心旺盛の精神年齢10歳の私は面白いです。ちょいと臭いことを我慢すればいいのです。もし町で出会えば、心臓ぱくぱく、腰抜け状態になるほど怖い野獣たちを間近に観ることが出来るからです。多摩動物園ではライオン園の中をサファリバスで巡るライオンバスがあります。私たちは柵の上から眺めることにしました。広いので始めはライオンたちが何処にいるのか見えません。目を懲らすと木陰の下に寝そべっているのが見えます。丸太の台のようなものがあり、そこで寝そべっているのもいます。そのうちあちらでごろごろ、魚河岸ののマグロ状態でゴロゴロいるのを発見しました。バスでライオンを観る楽しみはガラス一枚隔てたすぐ外でライオンが牙を剥いてみせることです。昨日は暑いためか、ほとんどのライオンが日陰でゴロゴロ・・一匹狼的に群れない奴がところどころにゴロゴロ・・丸太の台でバスのお客にせっせとサービスするのは、若い雌ライオン1頭だけでした。立派なたてがみの雄はちょっとサービスすると、日陰に入ってごろり・・だらだらゴロゴロ・・休日の午後ですね・・動物占いではないですが、種固有の性格というものを、動物園で諮り知ることが出来るようです。百獣の王、ライオンは怠けられるものなら、怠けて暮らしたいという性格みたいです。共感する人多いのではないですか? あ、かくいう私もですが・・狼の所に行きました。狼たちは互いに喧嘩することもなく行ったり来たり・・、寝ていたり。その中でボスなのでしょうか。一匹だけ、ほぼ中央で人間達をしっかりと見つめて居るやつがいます。目つきは睨んでいると言うより、人間を観察しているというのでしょうか。縄張りを侵してこないように見張っているのかもしれません。ですが、狼も人間に飼われる環境の中では、目つきが柔らかいような気がします。虎はライオンのように寝そべっていません。柵の中を割に素早くいったりきたり。人間を睨むことも忘れません。目が笑っていないのは虎だけかもしれません。繊細かもしれませんね。虎とライオンとでは狩りの仕方が違います。ライオンは犬に近く、数頭で協力して狩りをします。虎は猫に近く、一頭で狩りをします。獲物を見つけると、猫は体を低くして前足を伸ばしながら前進し、パッと飛びかかります。 虎も草の茂みに潜んで獲物の隙を狙っています。虎は目の前に美味しそうな獲物が一杯いるのに飛びかかることも出来ず、イライラしているように思えます。美しいのはユキヒョウです。白い豹です。ユキヒョウも柵の近くで見物の人たちにサービスしてくれます。金網一枚で隔てられています。注意書きに「手を出すとかじられるよ!」とあります。手をかじられる近さでみられます。オランウータンは午前11:30からスカイウォークをするそうです。その時間にはライオンを観察していたので、残念ながら観られませんでした。高い鉄塔に貼られたワイヤーをつたって移動する所が観られるのです。オランウータンの所に行ったときは、すでに終わって疲れていたところらしく、子供が一匹遊んでいるだけでした。アフリカ象は太い竹を牙や前足、鼻を器用に使って割ります。細く裂いて食べています。歯堅めなんでしょうか。バリっとかみ砕く音がします。遊んでいるようにも見えます。アジア象はアフリカ象より肌が綺麗なように見えました。大きな糞を運動場のヘリにしています。人間との境界にウンコをするのです。もしかしますと人が入ってこないようにバリアをしているのかもしれません・・想像ですが・・いま、写真の整理をしていたら、あまり撮っていませんでした。これは一人で行かなかった為だと思います。だから一人で散歩したいてぇ~の!動物園から高幡不動駅まで歩きました。これで8km以上は歩いたでしょう。高幡不動には時々行っています。それでお参りはせず、門前の蕎麦屋に入りました。ちょっと、入るのを躊躇したくなるような店構えです。小汚いというか、ごたごたしているというか・・。中に入りますと意外に広い・・それほど汚くはないです。濡れ落ち葉氏は三昧蕎麦(蕎麦、うどん、ヨモギうどんの盛り合わせ)、私は地蔵蕎麦です。蕎麦に大根おろしや貝割れなどがのっており、たれを掛け回して食べます。ここの蕎麦屋さんはネットでみますと味の評判はあまり良くないですね。でも、思ったより美味しかったです。うどんもツルツルシコシコ・・。たれも甘くなく、こんな感じかなと。ビールものみました。エビスビールです。これもよしといたしましょう。
2009.05.05
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私個人の考えですが、日本国憲法は素晴らしい物だと思っています。 たしかにアメリカから押しつけられたのかもしれません。 それだけに、理想論のみで制定された憲法といえます。 理想論だけではやっていけませんが、これが歯止めとなって急な坂を転がり落ちないで済んでいると思います。私が憲法改正に反対の本当の理由は、9条にこだわっていることもありますが、日本の政治家を誰一人として信じていないことです。そして憲法の条文を作成するだろう官僚も信じていません。自分たちにとって都合のいい憲法を作ることが考えられます。何度も言いますが、介護保険法は言葉ばかり美しい悪法でした。建前で条文を書き、その裏に本音の介護に国の金を出したくないといことが隠れていたのです。 そうなのです。私たちはついつい都合のいい考えに囚われがちです。 たとえば某政治家秘書は政治資金の虚偽記載で逮捕され、いまだ保釈されていませんよね。 虚偽記載で逮捕されるのなら、私なんか間違いの多い、オールミス女性ですから、うっかりミスとわかってくれなければ虚偽記載がごろごろあるはずです。 それに嘘と知りつつ書きました・・という場合もあるはずです。 どこかに理想論の法律が、憲法があるから、嘘と知りつつ書いても、歯止めが利いてやりすぎない。ほどほどという所で止められます。 水は低きに流れ、人は易きに流れるといいます。理想論の歯止めがないと、自分本意主義に流されていきます。さて、国民の法律違反ばかりではなく、国も自らを縛る憲法の違反をしています。がんじがらめに縛られて苦しいからモゾモゾしているうちに緩んでくるのでしょう。 極論、いえ正論でいえば、自衛隊は憲法違反です。 海外に自衛隊が派遣されていますが、これも憲法違反です。論拠第2章 戦争の放棄第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 派遣切りでホームレスになる若者もいます。これも国家の憲法違反です。 生活保護の独居老人を蛸部屋のような無許可施設に送り込み、火だるまにして殺す地方自治体も憲法違反を犯しています。論拠は・・ 第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない憲法は国民の権利だけを制定しているのではありません。義務も制定しています。その義務とは、教育を受ける義務、職業に就く義務です。そして税金を納付する義務です。教育を受ける権利と義務のお陰で日本国民の識字率は世界でも高いのです。憲法の理念が現代に合っていないと言うことは、現代が理想的な社会ではないからです。理想的な社会にしたいのに結局の所、たがが緩み、水漏れが起きているのです。たしかに時代に合わなくなったのかもしれません。私が生まれた年に制定されたのですから、確かにおばあさんです。 でも私は若いつもりです。 憲法を制定した時代背景はいろいろあったでしょうが、生まれた憲法には罪がないでしょうね。 きっと憲法君も言っています。「私は国民生活のガードレールの役割を果たしてきました。 でも、皆がいろいろいじったり、物をぶつけてきたからヘゴヘゴになってしまいました。これでも精一杯踏ん張ってきました。私はまだまだ働けるはずです。」 といっていると思います。 もっともっと一つ一つの条項を読み直し、様々な論議を尽くしたいと私自身は思っています。私は社会の時間に憲法の勉強をして、日本って良い国だなあ、と思いました。それは9条の戦争放棄に感動したからです。偉い!第一章第一条の天皇の所もいいなあと思いました。ですが、現代ではこの部分に、まだまだ論議を尽くすことになるでしょう。第三章の国民の権利と義務も良い法律だと思いました。ところで、いま読んで気付いたのですが、憲法が拡大解釈されたりするのは、国だけではなく国民にも責任があったのです。それは第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。前にも書いたかもしれませんが、理想の固まりですが、日本国憲法前文を掲載いたします。日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。日本国憲法http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM#s2
2009.05.03
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あっという間に60年余生きてきました。振り返ってみると、瞬く間であるような、不思議な気持ちに囚われます。人生の節目節目で正しい選択をしてきただろうか、と思い直すこともあります。日本も戦後60年余経ちました。国は節目節目で正しい選択をしてきたでしょうか。正しい選択をするのは政府です。政府は議員から選ばれて構成されています。議員を選ぶのは国民です。ということは国の方針を決めてきたのは国民と言うことになります。ですが自分で決めたという感触がありません。感触があるのは定額給付金ぐらいでしょうか? は、何か選択をしたっけ?私たちが、まず第一に自分で決めたいことは国民の生活の仕組みであろうと思います。税金の使い方が生活の仕組みとなります。いままで税金はただ国に搾取されていると思っていました。そこが私のアホな所です。スウェーデンのような高負担、高福祉の国では税金は富の再分配だと考えています。自由主義で富を増やし、共産主義のようにその富を再分配しているのです。そう考えると、高い税金もいずれは自分に戻ってくるということなのです。子供の教育費や老親の介護費用などを不安に思うことはありません。突然事故にあったり、大病になっても医療費の不安がありません。若いうちに結婚をして子供を持っても育児費用の心配もありません。学生結婚には手厚い保護があります。日本でも少子高齢化を危ぶむのなら、若い世代の出産を奨励すべきだと思います。それは結婚、非婚どちらでも差別のない法制が必要です。生んだらお金を上げるのではなく、育児、教育費にお金がかからないようにすればいいのではと思います。日本はどこから選択肢を間違えたのだろうか、と思います。以前、あるブログに、国は国民に幸せを保証して欲しいと書きました。ちょうど小泉政権が始まった頃のことです。市場原理主義が国中を席巻し始めた頃です。あのとき、働けば働くだけ収入が増える。官の仕事が民にくれば民の仕事が増えて、フリーターでも生活は安定するかのような幻想がありました。それは幻想、いえ妄想のようなものでした。その上、変革、改革の影に福祉の大幅後退が隠れていることを誰も気付かなかったようです。私が言う「幸せ」は、高齢になったときに、この国に生きていてよかった。私は幸せだと、縁側で居眠りしながら感じられる、ささやかなもので良かったのです。ところがアメリカ在住の方から、幸せは自分でつかむ物だと説教されてしまいました。そんなことを教えて貰わんでも知っているわい! と強く思いました。今不況の嵐が吹き荒れています。早くも市場原理主義の崩壊! 見せかけの好景気に私たちは踊らせれてきたのです。今そこにある「心の貧しさが原因の暗い闇」が私たちを覆い尽くそうとしています。収入のある人もお金持ちの人も、その闇に怯えています。ネバーエンディングストーリーの虚無の闇のような物です。この闇に呑み込まれると、心がすさみ犯罪に走ったり、自死したりします。今することは何か!誰かの救いの手を待つのか!座して救世主を持って居ても仕方がありません。悪くしているのは政府や官僚達ですが、彼らの横暴を許してきた私たち一人一人がいけないのです。その反省の上にたってどうしたらいいのかと考えます。心のあり方から変えていく必要もあるでしょう。まずあらゆることに感性を研ぎすましましょう。物事の裏に隠れている物を見つけ出すための観察眼も高めたいものです。幸せの道を選ぶのは私たちだったのです。もうすぐ、必ず9月までには総選挙があります。鉄は熱いうちに打てと言いますが、鉄は少し冷めてしまいました。もう一度私たちの心をたぎらせて、正しい選択はなんなのか考え直したい物です。
2009.04.26
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春の花々です。写真をご覧ください。藤石楠花八重桜クマガイソウバイカイカリソウシランメダカハナイカダツルジュウニヒトエハナミズキハナヤツデエビネミヤコワスレ
2009.04.25
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世田谷区にあります「芦花恒春園」に行ってきました。その前に花の写真をアメリカフウロソウニワゼキショウノハナボタン
2009.04.24
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2009.04.23
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よく、煙と何とかは高いところに登りたがるといわれています。古くはバベルの塔がございます。ドバイにはブルジュ・ドバイ818mが立ちますクウェートでは高さ1,001mの超々高層ビル「マディナ・アル=ハリール」(2012年竣工予定)がありましたが、この金融危機でどうなるでしょうか?もしかしますと、この世界同時不況は天の怒り?スカイツリー周辺の景色は大きく変わるでしょう。
2009.04.22
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初めて三渓園に行ってきました。とてもいいお庭です。京都が関東までやってきたという雰囲気です。そうだ、ちょっとだけ京都に行こう!三渓園http://www.sankeien.or.jp/
2009.04.20
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土曜日に中華街でランチミニオフ会が開かれました。出席者は5人です。中華でテーブルを囲むにはぴったりの人数かもしれませんね。横浜中華街 中国料理 接筵http://r.gnavi.co.jp/a204800/中国では莚(むしろ)を引いてお客様をもてなす。ということらしいです。料理は9品もあって3,150円安くて、量が多くて食べきれませんでした。その後、元町をぶらぶらしてから喫茶店にはいりました。その名も元町ブレンド・・さっぱりして苦みもほどほどあり美味しいコーヒーでした。ビスケット(小さくて薄いが甘い)が1枚ついてきました。東京ではおまけなどめったにありませんので、得した気分です。
2009.04.19
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小石川植物園には、ソメイヨシノを始めとした桜が何種類もあります。見事な桜の林があります。美しいです。中には売店がありますが、食べ物はあんパンのようなものしかありません。外のパン屋兼タバコ屋さんが入場券を売っていますが、そのお店でささやかにお弁当やパンがあります。そこで買ってください。なお、酒類持ち込み禁止です。ですから静かな花見です。桜を愛でるには最高の場所です。小石川植物館のとなりにあります簸川神社です。
2009.04.08
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うちから歩いて10分圏内は桜の宝庫です。何もいいません。写真を見てください。
2009.04.07
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昨日はテポドンが飛んでくるかな~と思いながら花見に行きました。駒沢公園から砧公園まで歩きました。本当は馬事公苑にいくつもりだったのですが、道を間違えたのです。天気はいまいちで、写真もぱっとしませんが・・駒沢公園の桜桜新道駅の近くの桜神社砧公園世田谷通り
2009.04.06
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毎年のことですが、飛鳥山では満開の桜に合わせて、桜祭りが行われます。昨日と今日です。昨日はエイサー祭り?沖縄の踊り、歌、パフォーマンス満載でした。
2009.04.05
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椿山荘は庭を開放しています。昨日も沢山の花見客がぶらぶらと中を散策していました。桜をご堪能ください。
2009.04.04
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いよいよ桜が咲いてきました。先月からじりじりと焦らせてきた桜ちゃん!いよいよ東京も咲いてきました。今日は暖かく、花見日和でした。江戸川橋(神田川)公園の桜です。
2009.04.03
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ちょっと古い事になりますが、小石川後楽園に桜を見に行きました。枝垂れ桜です。江戸彼岸桜なのでソメイヨシノより早く満開の時期を迎えます。私の家から見事なソメイヨシノが見られますがいまだ1分咲ぐらいなのです。枝が赤くなっています。早く満開の桜を見たいな~と思います。
2009.04.01
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六義園の垂れ桜は江戸彼岸系で早咲きです。今見頃を迎えています。
2009.03.27
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以前、長崎県のグループホームが火事になりました。この時の教訓は、何もいかされていなかったのです。群馬の老人ホームで火災、5人死亡、2人不明http://www.asahi.com/national/update/0320/TKY200903190380...静養ホーム たまゆらは、昨夜16人の入居者に一人の夜勤スタッフでした。施設のケアマネをしていた経験から申し上げます。日々、薄氷を踏む思いで過ごしていました。スタッフたちは触れればいつでも爆発する精神状態でした。突然泣き出すスタッフが何人もいました。些細なことで爆発するのです。火事の原因はわかっていませんが、どのような原因にしても、一人で16人を助けることはできません。寝たきりの人、認知症の進んだ人、車いすの人。入居者は東京からきた人が多いようです。2チャンネルでは、ホームレスの人に生活保護を受けさせて送り込む施設ではないか、という書き込みもありました。そのとおりでした。ちょっと調べましたが、生活保護法指定介護機関を取っていません。というより無認可宅老所とでもいうのでしょうか。介護保険以前は、生活保護者で認知症の高齢者は、どうしたでしょうかその頃は措置が発動し、軽費の養老院、もしくは特養に入所させました。介護保険制度施行後は、いわゆる養老院は廃止の方向へ、今ほとんどないでしょう。措置発動もなかなか困難です。特養は入所を待つ人が多く、また費用も格段に高くなっていますた。ということで、介護保険施行当初においては、福祉事務所は困ってしまいました。それで、困り果て、民間が経営する軽費老人ホームに入所させるようになったのです。また生活保護者をあてにして出来た施設も多いようです。とにかく、地獄です。つい最近有料老人ホームの指定をとったそうです。それまでは特定非営利活動法人(NPO法人)彩経会の経営でしたが、スタッフの給料をあげると良いという意見がありますが、1万円ぐらいのアップでは足りません。今の倍ぐらいの給与がいると思います。そうなれば、介護保険報酬を上げなければいけません。介護保険料の大幅アップになります。個人負担も上がるでしょう。全ての仕組みを替える所に来ています。
2009.03.25
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なんとなく気分が優れないのは、近頃のコムスン問題です。コムスンがいいとか悪いとかの前に、コムスンが今まで果たしてきた事を考えたいと思います。前にも言いましたが1999年にコムスンは介護事業のCMを8億円かけて打ったそうです。新聞、雑誌、テレビ、バスの車体、あらゆるメデイアに広告をしていました。それは介護保険の周知にも役立ちました。見渡す限りの緑に山の道を訪問入浴用のバスタブを抱えてあるくコムスンのヘルパーさんたち・・。国民は日本の津々浦々にまで、狸ぐらいしか住んでいないような山奥まで、必要とする人がいれば飛んできてくれるのだと理解いたしました。実際はあの山奥に訪問入浴にいくことはありえません。のちにあの写真は使わなくなりました。苦情の種でしょうから・・。私がケアマネをしていたころ、困ったらコムスンでした。事業所の所長と仲良くなると、お願い!! でなんとかしてくれました。無理なケアでも、ヘルパーさんの交代も引き受けてくれました。実際、よく受けると思うこともあります。事故が起きないかヒアヒアものかもしれません。要介護5の人は重介護になります。夜中までケアが必要です。24時間365日ケアを引き受けてくれるところが他にあるでしょうか?障害者ケアも介護事業所が受けることになりました。障害者支援法と介護保険が一緒になるからです。青年の障害者のケアは専門の教育を受けたヘルパーにやってもらいたいものです。痰の吸引、不随意運動など、昨日今日ヘルパーになった方には困難かもしれません。家族介護の応援と言って介護保険は始まりましたが、福祉の時代でも必要とあればヘルパーさんがきてくれました。ボランティアもありますし・・。介護保険になってからのほうが費用は高いし、サービスは少なくなっています。このコムスンの問題は去年から不正請求などボロボロでていましたが、ここに来て急とも思える厚労省の措置は不思議です。これは年金問題が選挙の足を引っ張りそうなので、国民の関心をそらそうという魂胆らしいと言う人さえいます。そういえばホリエモンの事件もアネハ関連における様々な暗部を知りたがる国民の目をそらすためだったという噂がありました。で、今度はNOVAです。これはもしかすると介護保険の不備から目をそらさせるため・・とにかく抜本的に介護保険や福祉の仕組みを考え直して欲しいものです。だって、小さな政府と言いながら税金は重税じゃないですか・・。介護保険も医療保険も国民年金もこれは税金です。税金と言わないから人は加入したがらない・・。ですから介護保険だけは天引きです・・。これもひどい話です。年金の目減りといってよい・・。どうして誰も、目先のことだけ考えるのでしょう。今、私たちが怒らなくてはならないのはジュリアナの折口氏ではありません。元を正せば政府や厚労省の金がなければ国民からいただけばよい・・という悪政です。保険料を国民から徴収しているのだから、措置の時代よりずっと税金を使うことが少なくなっているはず・・。それなのにサービスの上限をつけるとはなんと言うことだろうと思います。必要な量のサービスを賦課してください。24時間365日のケアサービスを障害者、高齢者に保証してください。1割負担は無しにしてください。ケアマネは行政から派遣されるようにしてほしい。といいますのも見なし公務員として罰則は厳しいのに、身分保障がないからです。公務員を増やすのは逆行していますが、企業にいれば、やむなく不正のかた棒を担ぐこともあるはずです。また今度思いついたら書きます。支離滅裂かもしれませんが、今日はここまで
2007.06.14
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今、テレビでコムスンの老人ホームの実態について放送しています。従業員がすぐやめる従業員の勤務実態がきつい・・介護の指導員がいない介護ビジネスは儲かりません・・。働く人はキツイです。志だけに頼っています。実際どこでも厳しく調査すればこのような事業所はコムスンだけではないでしょう。今、どうすればいいのだろうか・・と思います。
2007.06.08
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皆様お久しぶりです。久しぶりの日記なのに、長文ですみません。お暇なときにゆっくり読んでください。コムスンが事実上、介護事業がつづけられなくなるそうです。私のケアマネデビューはコムスンでした。なんと3ヶ月でやめたのですが、我慢のない小母さんだ・・。私の力足らずが大きな原因です。右も左も判らない主婦兼自営業手伝いの小母さんが資格を取れたからって、すぐに50人のクライアントを抱えることに無理があったからです。すぐに別の会社がみつかったので、そちらなら無理をせずできると思い、転職しました。しかしコムスンには思い入れもあります。そうやって資格を取ったばかりの人を重任するので、志は高いが技量がそこまで伴わないという方が多くなります。でも熱い心や高齢者に対する優しい眼差しは強い人が多かったと思います。他事業者に移っても、わたしはコムスンをよく利用しました。他の事業所なら断るような事例も受けてくれます。そこが大きな魅力です。技量はすこしずつ折に触れて指し示していけばよいと思うので・・。介護保険は見切り発車で施行されました。何故そのように急いだのか・・・。ケアマネとか、カタカナ言葉が多いですが、介護保険法の草案はカタカナ言葉だったのです。ところが施行前の小泉厚生大臣が、間際になってカタカナ言葉は駄目だ、もっとわかりやすい言葉にしろ・・とケアマネージャーを介護支援専門員などと、もっとわかりにくい言葉に替えてしまいました。そのような、どたばたがありながら、1999年度は介護保険制度を国民に周知する作業にとりくまなくてはなりませんでした。この費用はどこから出すのか・・。そこで思いついたのが、まず民間業者を募ることです。そこでコムスン登場です。コムスンはグッドウイルグループ傘下ですが、初めは北九州で夜間の巡回介護を多分最初に日本で始めた会社でした。GWGはこの会社を吸収合併し、本拠地を東京に持ってきました。そのころの夜間巡回介護は2人体勢で車で巡回していました。介護保険の蓋をあけてみると、報酬は低く設定されていますので、1人で廻るようになりました。そのことで、いろいろ問題は想定されましたが、今のところ大きな問題は起きていません。それが救いです。で、施行前の1年間はコムスンが全国展開でTVCMを流し、チラシを配り・・私たちに介護保険が始まればバラ色の老後と介護で苦しむ家庭がなくなるという幻想をまき散らしました。当時の厚生省の代わりにです。あれだけCMを打てば幾ら費用がかかったでしょうか。当初、介護事業は8兆円産業と言われていましたので、コムスンはそこに飛びついたのでしょうか。銀行も8兆円産業なのでお金を出してくれました。その資金力でコムスンは日本中に事業所を展開しました。事業所だけ借りて開業していないところもありましたが、事業所としての認可は受けていました。けっきょく開業できないまま閉鎖された事業所も多いです。現在はサテライト方式になっています。ケアプランセンターの下に訪問介護事業所を5ヶ所ぐらい起きます。事業所の数はもっとかもしれませんが・・。ヘルパーさんは異動が多いです。主婦のパートとして時給が高いので始めてみます。時給は高いですが実働時間ですし、毎日フルに仕事をいれるということはできません。ですから苦労が多い割に収入は少ないのです。コンビニなどで決まった時間にフルに働いた方が安定していると思います。それでは、ヘルパーの絶対数が少なくなっていくでしょう。しかしコムスンは介護事業の先駆者として事業所をそう簡単に閉鎖することはできなかったでしょう。介護事業を続けると言うことは意外と大変なことです。介護保険報酬は伸び悩みますし、費用の使いすぎだと厚労省も政府も思っています。もともと福祉の時代はすべて税金で賄い、国民は介護保険料を支払っていません。それでもやってこられたし、以前の方がサービスは充実していたのではと思います。では何故、このように介護保険事業が破綻したのでしょうか。福祉の時代は、サービスを受けたいという人が当該地区の窓口に頼みます。するとその人にあったサービスを検討して措置が行われます。措置というのはサービスをしてくれると言うことですが・・。措置という言葉は失礼な感じがします。私たちは人の世話にはならない、問題は自分で解決したいと思っているようです。家庭のことは家庭内で解決したい。他人に入って貰いたくない・・。また、この程度のことで人に頼んだら申し訳ないと思っています。ですから福祉の時代は窓口に行った人だけがサービスを受けられるわけです。そして必要なだけ受けられるので、至れり尽くせりとなります。介護保険の方は40歳以上の全ての人が保険料を支払っているので、サービスを受けるのは誰でも当然の権利となります。ですから自分でできることも人に気楽に頼めるようになりました。初めはなかなかこの考えは浸透しませんでしたが、隣の家もサービスを受けている。じゃあ家も、と権利を使い始め、簡単な掃除や買い物などに介護保険を使うようになりました。施設サービス(ショートステイ、デイサービスなど)や施設入所の希望者も増えました。それで介護保険がパンクしかかっていると言ってもいいかもしれません。福祉の時代なら多分頼まないサービスです。また介護事業所も簡単な作業をこなす方が収入も上がるということもありました。それで、見直しで介護訪問事業が厳しくなってきたのです。デイサービスなども締め付けが来ています。施設ケアも介護報酬が下げられています。しわ寄せは働いている人と利用者です。それでフィリピンからヘルパーを呼ぼうという政策も始まりそうですね。準介護士でしたっけ・・。身体介護は介護士に限るなんて締め付けておいて、それでは介護士の絶対量が足りなくなる・・。で、この泥縄式というか・・、正直私は恥ずかしいです。フィリピンの人は給料が安くても、キツイ仕事でもやってくれるという考えが下に流れているからです。国民自身が不必要なサービスを当然の権利として受けるために、自分の首を絞めているとも言えますが、こんな国民に誰がした・・と私は言いたい。介護保険は悪法です。言い切ります。故郷納税も何だろうと思いますが・・。コムスンは国の甘い言葉にのせられ、CMを流しました。国はこれで介護保険を周知させる広告料が少しですんだはずです。バブルがはじけて景気低迷していました。空きが目立つテナントビル、増える失業者・・。介護事業が始まり失業者の受け皿にもなると国は思ったはずです。テナントビルの秋も埋まるし・・。仕事がないなら介護事業にいけと言われました。収入が少なくて家族が養えないのに、仕事があるだけ良いだろう・・と言わんばかりです。さて、少し景気が上向いてくると介護事業はそれほど美味しくないことに気づきます。コムスンにしてみればちょうどよい時期だったかもしれません。事業の抜本的見直しがはかれるからです。これで人員整理もできるでしょう。収益のでない事業所を閉鎖できます。長くなってしまいました。言いたいことが判って貰えないかもしれません。介護保険は国民の懐から金を掴み持っていきながら、先読みを誤まった法律です。言ってしまえば詐欺に等しい・・。すなわち簡単なサービスに沢山の人が飛びつき、本来の介護の意味を失ってしまう仕組みだったのです。ここは新しく仕組みを考え直す時期に来ていると私は思います。
2007.06.07
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かなり、長く休んでしまいました。いろいろなことがありました。母の入院、死・・あっという間の出来事で、当時は大変でしたが、今はもとの日常に戻っています。といいましても、実はもう一つサイトに入っていまして、そちらはほぼ真日更新していましたので、こちらがお留守になってしまった理由にはなりません。ただ、2つはちょっと無理かなあという状態でした。また、すこしづつ復活したいと思います。こちらがご無沙汰になりましたのは、もう一つ理由が・・写真の容量がいっぱいになってしまって・・ちょっと困ったなあという状態です。
2007.05.30
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30分より時間は掛かります。地下鉄都営三田線で三田まで行き、都営浅草線に乗ります。京急が乗り入れていますから、隣の泉岳寺で各駅に乗り換え、西馬込駅(都営浅草線終点)で織ります。そこから徒歩8分です。所用時間は乗り換えも入れて50分はかかるでしょう。西馬込駅で太田文士村散歩というコースをみつけ、うろうろしましたが、結局どこにも行けずに、遠回りをして、池上本門寺に着きました。裏側の本門寺公園から入りました。自然の山の雰囲気で、中にはデイキャンプ場やグランド、花見の公園などもあり、空気のよいいいところでした。本門寺とは、日蓮聖人が弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上の郷主・池上宗仲の屋敷に逗留中、亡くなりました。弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳だったそうです。そのお屋敷がお寺となりました。96段ある石段は加藤清正が寄進したといわれています。この4月7日、8日は花祭りが行われていました。普段開かない、五重塔が開かれ、お経が上げられていました。この五重塔は関東でも古い物だそうです。関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔である。 本塔のそもそもの発願は、のちに徳川2代将軍となる秀忠公の病気平癒祈願にあった。文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまった。そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈った。その甲斐あって快癒し、将軍となった後、その御礼と、あわせて武運長久を祈り、慶長12年(1607)に建立〔露盤銘〕、翌13年に上棟式を厳修した。(池上本文寺HPより)しんりょくにけぶる五重塔五重塔祭り・・意外に参列者は少なく、きっと観光客は私たちぐらいだったのかも・・。ご近所の奥様(料亭などの女将さんかな)、まといをもった鳶の組の人たち・・。が目立っていました。展望台からみた五重塔・・。加藤清正の石段・・。
2007.04.07
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価値の重さの評価は誰がする? きっとあなた自身で評価できる価値をはかるのは難しいことかもしれません。私は毎日自分の足で歩き、一人でトイレに行き、家族のご飯を3度作ります。この中で私が評価してほしいと思うことは、3度食事作りに励んでいることでしょう。しかし、家族は妻が、母が、食事を作るのは当たり前と思っていますから、評価は低いでしょう。一人で歩けない人が自分の足で立ち上がり、数歩でも歩いたら、それは素晴らしく価値のあることです。おむつをしていた赤ん坊がトイレを教えるようになると、その評価は高いです。毎日歩けるようになったり、トイレに一人でいけるようになると、もう褒められません。価値の大きさ、評価の高さは相対的だということですね。ですから、誰も褒めてくれなくとも、ほんの少し前進すれば、継続できれば、自分で評価し、偉いと褒めましょう。毎日介護で誰もねぎらってくれなくとも、自分で褒めましょう。自分にご褒美・・パチパチ・・。
2007.04.06
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北区の飛鳥山公園にお花見に行きました。最近は毎年出かけています。いつも満開の頃に桜祭りが開かれます。今年は3月31日と4月1日でした。飛鳥山は江戸時代、将軍吉宗が、江戸庶民は飛鳥山で花見をするようにと推奨したとか・・で、花見の名所です。昨日は暑いぐらいの陽気になり、噴水では子供達がパンツ1枚で遊んでいました。
2007.04.02
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都電で15分ぐらいで早稲田の1つ手前、面影橋につきます。そこから神田川はすぐそこです。神田川の護岸は手入れされ、遊歩道になっています。今日を盛りと咲き誇る桜並木を往復しました。綺麗でした。
2007.04.01
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午後から晴れて来まして、青空がくっきり・・私の暮らしている町は桜がいっぱいです。最寄りの国鉄巣鴨駅は線路の土手に桜が植えられていて、憩いの場所になっています。今年の桜は地球温暖化のためか、早いようで、ちょっとでも時間が空いたら桜を撮りに行っています。それでは写真を青空が綺麗なので・・。土手の桜です。電車の向かう先は池袋方面です。都立染井霊園の桜・・。
2007.03.30
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今日は暖かくて、桜がどんどん咲いていきました。本日は王子駅前の音無川親水公園の桜を見に行きました。もう宴会をやっている人たちもいましたし、サラリーマン達はお弁当を桜の下で開いていました。花見もいいものですね。音無川親水公園の桜です。もう少し咲いているといいのですが・・。もう1枚・・。
2007.03.29
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今日は一言を初めに美味しい、美味しいと言って食べてくれてありがとう団塊世代が1月から続々社会からリタイアしています。フルタイムで引き続き働く方もいらっしゃるでしょうが、週2回とか3回とか働いて残りは家で・・という場合もありますね。少なくとも残業とかは減りマスでしょう。家庭にいる時間が長くなります。家族と会話が足りなかった方はいらっしゃいますか・・。今更顔を見て話すこともなし・・ではないでしょうね。いままで家族の作ってくれた料理を美味しい、美味しいと言って食べていらっしゃいますか?たまにはあれ・・?という料理もあるでしょう。そういうときもできるだけ、これは美味しいが、私はあまり好きではないです・・程度に意思表示を致しましょう。本当に美味しそうに食べてくれると嬉しいですよね。今日も美味しい料理をつくってくれてありがとうと言ってみてください。
2007.03.27
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六義園;元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。東京はお天気が悪いですが、桜がどこかに咲いていないかと散歩に出ました。病み上がり(大げさ)で、ふらふらしていましたが、帰り道で缶飲料を買って飲みましたら、突然復活です。ということで、六義園は雨だし、人出も少ないし、桜を見るチャンスと思い出かけましたが、人でも多く、花は5分咲きぐらいでぱっとしませんでした。江戸彼岸桜の変種になってしだれ桜になったものです。染井吉野より早く咲き始めます。雨に濡れる桜お庭です。
2007.03.25
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最近、更新していなくてごめんなさい。体調も優れませんでした。年に1,2回はひく風邪です。ちょっと胃にもきてしまいました。さて、暫く、有り難うシリーズです。昨日我が家では喧嘩になってしまいました。互いに有り難うと言い合わない夫婦なので喧嘩になります。醤油をとって・・有り難うご飯お代わり・・有り難う仕事お疲れ様・・有り難う簡単な言葉なのに身近にいると、これがなかなか出ません。以心伝心、口にしなくてもわかるのが日本人かもしれませんが、口にしなくては伝わらない気持ちもあります。では今日の言葉・・ありがとうとお互いに言ってみよう
2007.03.23
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止まない雨はなく、明けない夜もない、もがいても仕方がない。今日は寝てしまおうよく言われます。明けない夜はないと・・。眠れない夜・・もんもんとして過ごします。これでは明日、眠くなって仕事がうまくできない。眠れない・・、さりとて起きるには体が疲れすぎている・・。もがいても仕方がありません。大事な自分の体です。健康な体でないと、介護も看護も育児も出ません。ピリピリしていることが全てをおかしくします。ピリピリしない・・、朝は来る・・。ノゲシの花です。野草ですが暖かい光で渾身の力で春一番の花を咲かせます。
2007.03.20
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両国の横網町公園から横断歩道を隔てた近さに旧安田公園があります。旧安田庭園江戸時代の丹後宮津藩主本庄因幡守屋敷跡。明治になってから 旧安田財閥安田善次郎の所有となり大正11年(1922)に、東京市へ寄贈一般に無料で公開された。その後、 関東大震災で被害を受け昭和2年東京市により復旧再公開された。園内は心字池を中心に老樹が茂る。潮入り回遊式庭園。周辺には旧両国公会堂が隣接している。両国公会堂本所公会堂(現在の両国公会堂)は東京市長後藤新平男爵の起案する東京市政調査会創設に賛同した、安田財閥創立者である安田善次郎氏の意思を次いだ遺族が、安田庭園に隣接した地に講堂を建造し安田財閥より東京市へ寄附されたものです。戦時中には食糧配給所や倉庫として使われ、戦後は進駐軍の付属クラブだった。大正11年に出来た『両国公会堂』は、昭和43年に大改修工事しましたが、老朽化が進み平成13年4月老朽化のため使用停止となっています。なかなか雰囲気のある公会堂ですが、使用できないとのこと、もし取り壊しになったらおしいですね。両国は駅舎も古く雰囲気があります。こうやってみるとなかなかいい町です。両国公会堂安田庭園から望む両国公会堂池に映る公会堂旧安田庭園の池山茶花・・ピンクでかわいいです。
2007.03.19
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両国駅よりぶらぶらと歩いて横網町公園へ参りました。 JR「両国」下車 徒歩10分、地下鉄浅草線「蔵前」(A17)下車;徒歩10分、地下鉄大江戸線「両国」(E12)下車 徒歩7分 ここには関東大震災や東京大空襲の慰霊の施設があります。 大正11年(1922年)、東京市は陸軍被服廠の移転に伴い、跡地を買収し公園の造成を進めていました。その最中に発生したのが、翌12年9月1日の関東大震災。このとき、この界隈の人々が被服廠跡に避難しましたが、運び込まれた家財道具を伝って火が広がり、多数の焼死者が出ました。 東京市では、これらの遭難者の霊を供養し、さらに東京を復興させた大事業を記念するために、公園内に震災記念堂(現東京都慰霊堂)と復興記念館を建てました。東京都慰霊堂正面東京都慰霊堂裏側復興記念館コブシ寒緋桜寒桜
2007.03.18
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ちょっと久しぶりですか・・。実はMACにかえたのだけど。これも調子が悪くなりました。私はデストロイヤーかもしれません。さて今日の言葉です。私の生きてきた道がこうかもしれない。完璧はあり得ない。絶対もありえない。世の中、案外テキトー完璧にやろうとすると、そこにとらわれます。絶対にやってやろうというのも難しい。絶対はありません。そう思えば、注意してやれるようになるかもしれません。自分に間違いが無いと思い込むのが一番危険・・です。テキトー・・な事が多いです。介護は人の命がかかっているので、テキトーはいけませんが、自分自身の気持ちを軽くする必要があります。追い込まないで・・。もし、いっぱいいっぱいなら、誰か(プロ)に頼んで休みましょう。
2007.03.15
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連れ合いの自営業手伝いで、1年分の経理をして、税務署に出かけました。最近はスムーズにすみます。天気もいいので王子を散歩いたしました。王子は江戸時代からの観光地です。桜にはまだ早くて残念。新庚申塚駅・・都電が向こうからやってきます。これに乗って王子まで・・。王子に住んでいる方はご存知、ほりぶん・・安いスーパーマーケットです。ここを横目に見ながら税務署へ王子税務署・・、皆さん楽しそうではないですね。お昼は王子駅前北とぴあのキリンシティでいただきました。これは中華丼です。名主の滝公園に行きました。王子駅から徒歩8分程度です。平日で人は少なく、からすが多くてちょっと怖い。これは女滝です。こちらは男滝です。名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、 一般に人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、 名称もそれに由来しています。この時期はさだかでは ありませんが、嘉永3年(1850)の安藤広重による 「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝に あたると思われますので、それ以前のことと考えられます。 明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の 所有となり、氏は好んでいた塩原(栃木県)の景に模して 庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷のある 趣のある庭園として一般の利用に供しました。 現在は区立公園となっています。http://www.netcity.kita.tokyo.jp/kanko/data/a/5.html
2007.03.12
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お天気は肌寒く、風もありそうです。今日は散歩には出かけたいですが、写真はいいものがとれないでしょう。ということで、近所の草花をご紹介いたします。ハコベの花、直径1mmぐらいです。キュウリグサの花です。これも直径1mmぐらいです。もむとキュウリの匂いがするそうです。蕗の薹のアップの写真です。たんぽぽ、この花は大分大きく育っていました。菜の花も大きく育ってきました。
2007.03.11
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巣鴨からは1時間ぐらいかかりました。久米川までいってきました。連れ合いの取引先の方、もう30年ぐらいの付き合いになります。青年だったその方も、立派な中年・・。月日の経つのは早い物です。私も昔日の美しさは影も微塵も無く・・いやいやそう言うはなしではなく、蕎麦会です。その御得意さんの会社の方、友人たちと埼玉県児玉市に畑をかり、お蕎麦やら野菜やらを栽培されています。去年はおそばが15キロ収穫したそうです。粉に引くには業者に頼むそうですが、9キロの粉になったそうです。ご招待されましておそばをいただきに参りました。許可をいただき写真を撮影してきました。皆様ハンサムな方ばかりですが、肖像権もあるので顔はでておりません。手元で、すてきな方ばかりとわかっていただけると思います。蕎麦会が開かれたお宅の最寄り駅、久米川駅 これが手作りそば粉 そしてきちんと分量を量りましょう。そば粉を鉢へ・・水は慎重に・・、すこしづつはじめはさらさらすこしづつまとまってきます。いよいよまとまってきたぞ・・・。さあ、のばしましょう。伸ばして、伸ばして・・いよいよ細く切ります。蕎麦会では、粉をこねる人、伸ばす人、ゆでる人が分業化されています。いよいよ鍋奉行登場。沸騰したお湯へ、ぱらぱらと・・。蕎麦の茹で時間ははやいのよ・・。茹で上がりました。たれも自家製です。かえしも1週間寝かせて・・。美味しかったです。畑のまわりで取った、蕗の薹の天ぷらなど・・。美味しかったです。
2007.03.10
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この道はいつか来た道、通る道。あなたも私も年を取る今日は冒頭に言葉を置きました。高齢者と接するお仕事をしていますと、自分の未来の姿に重ね合わせてしまいます。自分はどのような生き方をしてきたか。これからどう生きようとしているかです。なぜ、脳が萎縮し、認知症になるのかわかっていません。だんだんに研究が進んできていますから、ワクチンのような物ができるでしょう。私たちは認知症にならないと言う保証はありません。いまそうでないなら、その幸運に感謝して、脳を感性化する事を考えましょう。なにごともまず考えるという癖をつけてください。勘で、ぱっと無意識に動くのは問題があるかもしれません。さあ、私たちは経験した事の無い高齢者へと、今日も1歩すすんでいます。この道は必ず通る道です。よりよく通りたいものです。木瓜の花・・
2007.03.09
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これは高齢者と接するときだけではありません。例えば子供・・話したい事はいっぱいある。でも言葉で表現できない。もどかしい・・。ゆっくりまって聞いてください。かわいい子供たちんの新しい発見は聞いてみたいでしょう。じっとまって微笑んで待ちましょう。吃音症の人と電話で話した事があります。正直言えばいらいらします。しかし、辛抱強くまちます。どれだけ吃音しようと、時間がかかろうと待ちます。それもいらいらしているように思われないよう。耐えます。その方は吃音が治ってきました。今日の言葉・・・。先輩の話はゆっくり聞きましょう。話したいことがあるなんて、素敵!写真は蘭です。
2007.03.07
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アルツハイマー症な脳の病気です。脳が変成し、萎縮して、記憶障害が起き、最後は死にいたる病です。CTやMRIを撮ると、前頭葉が萎縮し、脳全体がスカスカしてきます。この発症の原因ははっきりはわかっていません。性格、遺伝、食べ物の好み・・さくじつnewsでこのようなものを知りました。<アルツハイマー病>発症原因の一つ解明 佐賀女子短大教授??[ 03月05日 09時54分 ] ?? 佐賀女子短大(佐賀市)の長谷川亨教授(61)=公衆衛生学=が4日、アルツハイマー病が高齢者に多く発症するメカニズムの一つを解明したと明らかにした。老化によって神経細胞の働きが抑制されると、同病を引き起こす物質「ホモシステイン酸」が脳の神経細胞死を招く働きをすることを実験で示した。発症の仕組みが明確になっていない同病の治療に役立てたい考えで、研究成果は、6月に米国で開かれる認知症予防の国際会議で発表する。 長谷川教授は05年にホモシステイン酸の有害な働きを初めて特定。今回の実験では老化との関係を分析した。老化が進み、神経細胞の働きが弱くなると、ホモシステイン酸が細胞内に有害物質を蓄積させ、別の原因物質と組み合わされることで細胞死することが分かった。若い世代では、ホモシステイン酸があっても、有害物質が蓄積されていないので、神経細胞死までは起きないという。 長谷川教授によると、喪失体験やPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの強いストレスがアルツハイマー病の危険因子とされており、ホモシステイン酸はそのようなストレスが持続的に続いた際に増える。喪失体験が痴呆症状を引き起こす事は以前からいわれていました。おじいちゃん、おばあちゃん(どちらも配偶者のことです)に先立たれると、そこからぼんやりして認知症が始まる。この喪失体験は愛している存在とは限りません。DV傾向の配偶者でも、長く押さえられてきて、判断力を失っているときに、その配偶者をなくすと、ほっとするとおもいきや、認知症が始まる人がいます。強い相手に知らず知らず依存していたので、憎む相手でもいなくなると喪失感があります。なるほどと思わせる報告です。
2007.03.06
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