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September 7, 2013
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  • チェット晩年の名作7タイトルが、24bit 96Khzマスター使用/E式紙ジャケットのローソンHMV限定盤で復刻! 完全限定プレスとなります!!

     チェット・ベイカーは70年代の中頃から演奏の拠点をヨーロッパに移した。
    イタリア、フランス、ドイツ、そして悲劇の終焉を迎えたオランダ。その中でもデンマークのジャズ・レーベル「スティープル・チェイス」に残された作品たちは、彼が全てを失いながら生きた晩年の名作として、今もなお儚くも切ない香りを漂わせている。

     喪失と退廃、まるで悲しみの底からわきでるようなトランペットの音には、彼が最後まで貫いた美学が宿っている。
    ダグ・レイニーの繊細なギターと、ニールス・ペデルセンの柔らかなベースのサポートを受けてつぶやく危ういアドリブにも、それを感じとることができる。

     「But Not For Me」の再演に心震える『Touch Of Your Lips』。
    ピアニストのデューク・ジョーダンを迎えたクァルテット作品『No Problem』。
    名演「Broken Wing」を収めた『Daybreak』。
    モンマルトル・ライヴ・シリーズの中でも最もアグレッシヴな『This Is Always』。
    タイトル曲にロマンティシズムの境地をみる『Someday My Prince Will Come』。
    ポール・ブレイとの親密な対話を生む『Diane』。
    すすり泣く枯れたトランペットに哀愁をこめた『When Sunny Gets Blue』。

     今回クワイエット・コーナーのシリーズで、これらの作品を紙ジャケ化(世界初)にして再発することが決定した。
    確かにすりこまれた青く透明な記録。今年は没後25年。
    今宵は遠い西の夜空を眺めながら彼の音に酔いしれたい。



    ☆危険な関係のブルース /
    チェット・ベイカー・カルテット!


    Quiet Corner Series ~SteepleChase 紙ジャケットコレクション~
    [仕様]
    ・24bit 96Khzマスター使用
    ・E式紙ジャケット
    ・帯付き・輸入盤国内仕様
    ・紙ジャケットのデザインはオリジナルLP時のものです。曲目・曲順等に違いがあります。

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チェット・ベイカー  チェット・ベイカーことチェスニー・ヘンリー・ベイカー・ジュニアは、1929年12月23日オクラホマ州、イエールに生まれている。
1940年には一家はLA近郊のグレンデールに移住した。チェットにとってこのころアコーディオンやタップダンスでアマチュア・コンテストに出演したのがはじめての音楽の経験だった。当時チェットは聖歌隊で歌っていて、13歳になった時父はトランペットを与えたという。こうしてトランペッター、チェット・ベイカーが誕生した。

 高校に入るとマーチング・バンドで演奏していたが、中退して陸軍に入隊する。
チェットはドイツのベルリンに派遣され、ここでVディスクなどで初めて本格的にジャズに触れることになる。
ディジー・ギレスピーこそがはじめてのアイドルであり、やがてハリー・ジェームスが加わった。
ハリー・ジェームスを好むあたりにも、ビバップの香りだけでない、オシャレな音楽家チェットの面影が浮かんでくる。

 1948年に除隊したチェットはLAへ戻り、エル・カミーロ大学に通いながらシッティンを繰り返したが、1950年チェットは再び徴兵され従軍、一日中プレイし夕方に眠り、夜中に起きて明け方までプレするという生活が続いた。

やがて除隊、1952年、西海岸に到来してトランペッターを探していたチャーリー・パーカーのオーディションに参加し採用さ、一流ミュージシャンとの交流が始まった。


西海岸の主だったクラブを総なめにするマリガンのツアーにチェットは参加、名声は次第に確立されていった。
1954年チェットは自分のグループでツアーを行い、55年夏にはリック・ツワージックを擁する幻のカルテットで欧州に出掛ける。
10月21日ツアーの途中でツワーディックは死亡した。

 1956年4月、チェットは新しいグループでパシフィック・ジャズ・レーベルに録音を開始する。
この当時からチェットは麻薬に手を染め何回かの入院の後キャバレー・カードを没収された。

 1959年夏、チェットはアメリカを離れイタリアに行き、4年半滞在した。
ここでも麻薬禍は治らなかった。1964年アメリカに戻ったチェットは音楽の変化に愕然としたが、マリアッチやその他の時流に乗った作品をワールド・パシフィックなどに吹き込んだ。1970年から3年はジャズをあきらめていたが、1973年カムバックしたチェットはCTIレーベルからマリガン・グループのメンバーとしてや、自己のアルバムを発表した。

 1975年頃から活動拠点を主にヨーロッパに移し、ドイツのenjaや、デンマークのSteeple Chase、イタリアのPhilology、IRDといったレーベルに数多くの作品を残した。

1986年3月に初来日、翌1987年にも再来日を果たした。
そのときの模様は『Chet Baker in Tokyo』というライヴ・アルバムとして作品化されている。
1988年5月13日、オランダのホテルで謎の転落死を遂げた。享年58歳。






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Last updated  September 7, 2013 02:09:02 PM
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