ワルディーの京都案内

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2015/08/19
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テーマ: 京都。(6100)
 第10回1級 問題5の問題です。


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【問題5】【公開テーマ間‐】「京都と映画」
   次の文章を読んで、(  )に入れる最も適当な語句を書きなさい。
                                 (2点×10問=20点)

 映画の都と称された京都と映画の関係は、映画が日本に紹介された明治期に端を発している。
それは、京都府費留学生出身の稲畑勝太郎が、学友でああったリュミェールからシネマトグラフ
(映画)を購人し、現在の元(41)小学校(当時は京都電燈株式会社)の敷地で日本初とな
る映写を明治30年(1897)に成功させたことにはじまる。明治41年(1908)には千本通の芝居小

り開いた。同境内には、「京都・映画誕生の碑」が立つ。翌年には日本初の映画スターといわれ、
目玉の松ちゃんと親しまれた(44)を生み出した。彼らの映画の人気が原動力となり、京都
初の撮影所も(45)の西南隅櫓の向かい側に開設された。

 大正期には、彼らの活動と人気は日活を拠点にますます拡がり、撮影所も広い敷地を求めて北
野地域へ移動した。この地にあった(46)道具店(後の(46)商会)も小道具の協力を
始め、その歴史は、今も(46)古文化会館で確認できる。さらに日活から(42)が独立
して(47)の境内に撮影所を開き、阪東妻三郎や月形龍之介といったあらたなスターを輩出
した。今もその境内には(42)像が立ち、墓地には日活の社名を刻んだ(44)の墓もあ
る。

 昭和期には、阪東妻三郎が開いた撮影所を皮切りに、撮影所が北野地域から太秦地域へと移
り、1930年代には太秦地峨だけで7社もの撮影所が軒を並べ、映画人の家々も立ち並んだ。阪

(49)線の鳴滝駅界隈も、住人であった監督の山中貞雄や稲垣浩らが「鳴滝組」と称される
など、映画人の町として知られた。戦時期には太秦の多くの撮影所が(50)に統合されてス
タッフや技術か継承され、1950年代には、ベネチア国際映画祭グランプリを受賞した『羅生門』
をはじめ、数々の名作が発表された。同社はすでに解散したが、その名は、(50)通り商店
街という名前に残されている。


昭和50年(1975)から映画村として公開されている。



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最終更新日  2018/07/29 02:57:22 AM
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