ワルディーの京都案内

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2021/07/22
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テーマ: 京都。(6327)
カテゴリ: 若冲と応挙
【2021年7月22日(木・祝)】

 今日はもともとから在宅のみの予定で、静養の為、散歩も出かけずです。

 「若冲と応挙」の第23回、応挙の円満院時代と呼ばれる時期です。


◆第3章 円山応挙(続き)

3-3 円満院時代

 前回で玩具商 尾張屋 への奉公がその後の応挙に大きな影響を与えたことを述べました。その一つが 「眼鏡絵」 を描くことで、西洋の遠近法や細密に描く画技を会得したこということでした。もう一つが 円満院祐常 の知遇を得たことです。この円満院祐常というパトロンを得て活躍した応挙34歳から41歳にかけての時期は 「円満院時代」 と呼ばれています。その円満院時代のお話しの前に、応挙が 石田幽汀 に学ぶ以外にどのように絵を学んでいったかについて述べます。

渡辺始興( しこう)の絵を学んだことがあげられますが、円満院時代との関わりが深いので、そのときに述べます。

 渡辺始興以外では、 沈南蘋 (しんなんぴん)があげられます。江戸時代の絵画史のところで、沈南蘋が清から招かれて3年間日本に滞在し、江戸、大坂、京都の三都の画家に大きな衝撃と影響を与え、上方では応挙、蕪村、若冲らが、その影響を受けたと述べました。南蘋の花鳥画には、当時の日本絵画にはなかった独特の写実性があったためです。そのときにも示した南蘋の 「枇杷寿帯」 をもう一度 図1 に示します。応挙が南蘋の画法をどこで学んだかはよく分かっていませんが、明和7年(1770)、応挙38歳の頃に描かれた 「青鸚哥図(あおいんこず)」 図2 )の桐箱の底には、大徳寺孤蓬庵(こほうあん)にあった南蘋の絵を模写したものだと記されています。その他にも南蘋の影響を受けたと思われる作品が多くあります。


図1 沈南蘋「枇杷寿帯」    図2 「青鸚哥図」群馬県立近代美術館
      三井記念美術館蔵         戸方庵井上コレクション


図3「花鳥図」
                                    (二幅中の左福)
                                    大英博物館蔵

銭舜挙 (せんしゅんきょ)の絵にも学んだといわれています。応挙は若い頃ある人の依頼で銭舜挙の花鳥画を模写したところ、本物と見まがうほど精巧な絵を描いて、それがきっかけで彼の名が世に知れるようになったとも伝わります。その片鱗をうかがわせるのが 図3 「花鳥図」 です。なお応挙という雅号は、この銭舜挙が由来だといわれています。これについては後の回で述べます。

 そして応挙は円満院時代へと繋がる1765年(明和2年)、33歳の頃、最初の大作といわれる 「淀川両岸図巻」 を描いています。 図4 図4 では左岸の淀城が逆立ちしているのがわかります。上下反転の絵は淀川を舟旅する人の視点で描いたためです。「眼鏡絵」は観察者をあたかもその場にいるような錯覚に陥らせます。この作品は細密な描写も含め「眼鏡絵」の経験が生み出した作品といえるでしょう。これぞ応挙という作品です。


図4「淀川両岸図巻」(部分)アルカンシエール美術財団蔵(下は部分拡大)





 では「円満院時代」のお話しに入っていきましょう。応挙は宝暦13年(1763)31歳のときに、尾張屋に出入りしていた京都 宝鏡寺 蓮池院尼公 (れんちいんにこう)の知遇を得ます。宝鏡寺は皇女や王女が入寺した尼門跡寺院で、蓮池院尼公は入寺した皇女や王女のための人形など玩具の買い入れのために尾張屋に出入りしていたものと思われます。宝鏡寺には、そういった人形などが今も残されていて 「人形の寺」 とも呼ばれ、毎年春と秋には特別公開が行われています。

 この蓮池院尼公は 桜町天皇 とその皇后・ 青綺門院 (せいきもんいん)に仕えました。この青綺門院の弟が 円満院祐常 です。この姉弟の父は、関白を務めた二 条吉忠 で、祖父が 二条綱平 です。綱平も関白を務め、 尾形光琳 乾山 のパトロンでもありました。 図5 に、これらの人々の関係を示します(後に登場する 渡辺始興 との関係も含めています)。このような環境に育った祐常は12歳のときに得度して、門跡寺院(皇族・公家出身者が住職を務める寺院)である 円満院 に入寺しました。円満院は今も滋賀県大津市園城寺町に天台宗系の単立寺院として残っています。祐常は当時流行した 本草学 (薬用に重点をおいて、植物やその他の自然物を研究した、中国古来の学問)を学び、動植物の写生を行うことで、写実の重要性を身をもって知ることになります。そこに写実を得意とする応挙という画家が尾張屋にいるという情報が、蓮池院尼公、青綺門院のルートで祐常にもたらされたのでしょう。応挙は明和2年(1765)に10歳年上のこの祐常の知遇を得ることになり、祐常は安永2年(1773)に51歳で他界するまで10年近くパトロンとして応挙を支えました。この時代を 「円満院時代」 と呼んでいます。


図5 応挙と円満院祐常の関係




 次回は円満院時代の続きです。


前回はこちら 次回はこちら


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最終更新日  2021/07/23 07:26:22 PM
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