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外壁から幅20センチほど張り出した庇のような場所にオレは立っている。 見おろすと高さは15メートルぐらいだろうか。と言っても正確な話ではない。高いところが苦手なオレは、高いということは認識できても、それが何メートルかなどと判断できるだけの経験を持ち合わせていない。 なぜ、こんなところに立っているのか。ことの発端はわからない。ただ、さっきまでは2メートルほど下にある張り出しの上にいたのだ。下を見ることが怖かったオレはちょっとした気の迷いで上の張り出しに手を掛けて懸垂した。すると思ったより軽くここに上がることができたのだ。 上がることができたのだから、下りることもできそうなものだが、足下の張り出しに手を掛けようと屈んだら尻が壁に押されて空中に飛び出しそうになる。 恐る恐る見まわすとヨーロッパの古いの街のような風情で、こんな状況でなければゆっくり眺めていたいような景色だと思う。 下を人が通っているのが見える。 「おーい、助けてくれ」と声を張り上げる。 人はまったく反応しない。景色の一部であるかのようだ。 いつからオレはこんなことをしているのか。いつまでここにいなければならないのか。
2018.04.16
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「ひげ男」 月曜の朝、二日酔いからくる頭の鈍痛を何とか宥め、修二はコーヒーカップに口をつけた。コーヒーの香りに吹き払われた不快感が、次の瞬間には二割増しで吹き返してくる。無理をして口に含んでみたが何の味もしない。 テレビの情報番組が占いのコーナーに変わった。そろそろ出勤時間だ。修二はコーヒーを飲み干すことをあきらめ、半分以上残ったままのカップをテーブルに置いた。 「射手座のあなた。今日の運勢は……」 女性アナウンサーの声が無意味に弾んでいる。占いはあまり信じないが、少しは気になる。 「今日、一番ラッキーなのは乙女座のあなた。すてきな異性との出会いがあります。チャンスを逃さないように心と体の準備を」 自分は乙女座ではないが、「すてきな異性との出会い」という言葉に気持ちが反応してしまう。しかし乙女座のやつをうらやましいなどとは思わない。良い占いが当たったためしがないからだ。そのくせ悪い方は時々当たるような気がする。 「今日、最悪なのは……」 朝の占いで最悪というのは穏当ではない。いつもこんな言い方をしていたのだろうかと思うと同時にアナウンサーはさらに意外なことを言った。 「双子座でO型、三十四歳の男性です」 まるで自分のことをピンポイントで言っているみたいだ。こんな占いがあるのだろうか。もっとも日本全国で見れば「双子座でO型、三十四歳の男性」というのは相当な人数がいるのだろうから、必ずしも自分のことではないのだと思い直す。 「今日は、ひげの男に注意しましょう」 やはり今日の占いはおかしい。しかしそんなことに構っている時間はない。修二は立ち上がった。 アパートのドアを開けて出る。春間近と言える季節だが風は冷たい。三軒隣の部屋のドアが開いて男が出てくる。この部屋の住人とは今まで顔を合わせたことがない。男が振り返る。口ひげを蓄えた芸術家風の顔が、修二を見て怪訝な表情に変わる。男は急ぎ足で立ち去った。 駅に向かって急いだ。先ほどの男が見知らぬ男と立ち話をしている。通り過ぎる瞬間、修二は二人の視線を感じて不快になった。あの男はオレについて何事か良からぬことを言っているのかも知れない。注意すべきひげの男とはあいつのことか。 駅で一人、電車の中で二人、ひげの男と目が合った。三人とも目が合った後、まるで何かをたくらんでいるかのように目を逸らした。占いを信じるわけではないが、とりあえず今日だけはひげの男には注意した方が良さそうだ。 会社に着いた。 「ちょっと」 受付の杏子が、通り過ぎようとする修二を呼びとめた。 「なんだい」 修二が受付のカウンターに近づくと、杏子はカウンターの下で何かを探していた。 「これ、見なさい」 杏子が突き出したのは化粧用の鏡だった。 修二が覗き込むと、そこには髪の毛がぼさぼさで目やにだらけの、無精ひげの男が映っていた。
2014.02.28
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変身 寝る前にカフカを読んだのがまずかったのだろうか。大輔は不気味な夢にうなされた。 気がつくと冷たいフローリングの上に腹ばいになっていた。目を上げると、目の前にゴキブリがいた。ゴキブリの目を見ると、向こうもこちらを見ていた。つまり目が合ったのだ。少し右に視線を動かしてみると、ゴキブリも同じ方向に目を動かすのがわかる。上へ、そして左へと視線を動かすとゴキブリの目も同じように動く。もっと大きく視線を動かした時に気がついた。目の前にあるのは鏡だ。床に立てられた姿見。三ヶ月前から仕事に出始めた妻が通販で買ったものだ。専業主婦だった頃はまったく無頓着だった容姿をえらく気にするようになり、最近は買ったばかりの服を着て、鏡に向かって科を作ったりしている。二三日前にはタイトなミニスカートをはいて、鏡の前に立っていた。三十二歳でミニでもなかろうと大輔は言ったのだが、実のところ短いスカートから伸びた足は十分美しく、刺激的だった。そう言えば最近、顔もきれいになった。妻はもともと美人の部類ではある。ただ、結婚して五年、子どもはいないが専業主婦として、改まった場に出ることもなく過ごしているうちに、容姿に気を使わなくなっていたのだ。それが毎日仕事に出るようになり、人目にも触れる。容姿を気にするようになるのも当然だろう。 いや、そんなことはどうでもいい。今、目の前にある現実。その方が問題だ。右手を上げてみるとゴキブリのトゲだらけの腕が上がる。腹の辺りにある筋肉に力を入れてみると真ん中の脚がぎこちなく持ち上がる。それならと本来の脚を動かしてみると、思った通り後ろ脚が動く。やはり目の前のゴキブリは自分なのだ。少しおもしろいかも知れないという気持ちがおきる。しかし次の瞬間、慌ててそれを打ち消す。冗談ではない。よりによってゴキブリはないだろう。多くの人間が嫌悪の対象としか見ないものに変身するなんて、悪夢だ。あっ、そうだ。これは悪い夢に違いない。だとしたら、嘆いていても仕方ない。ひと時、この悪夢を楽しんでやろう。 滑るフローリングに足を取られながら移動する。廊下に通じるドアの下の隙間に頭を入れてみる。通れそうだ。背中がドアの下端にこすれるが、滑るようにうまく通り抜けることができた。廊下を足を滑らせながらぎこちなく移動する。寝室のドアを見上げる。そうだ。昨夜は妻が早々に寝室に入ってしまい、明らかに機嫌が悪かったので、大輔はリビングのソファで寝たのだった。さっきと同じようにドアの下を潜って行く。 妻は妙に色っぽい表情を浮かべ、ベッドに座っていた。携帯電話を耳に当てている。「ずっとあなたのことを考えてたの」 甘えた声を聞いて、大輔は頭に血が上るのを感じた。妻は浮気をしていたのか。「ねえ、今日、仕事が終わってから……」 終わってから何をしようというのだ。頭に上った血が熱くなったまま全身に回る。「大丈夫。今日は職場の歓送迎会があると言ってあるから」 確かにそう聞いた覚えがある。こんな時期に異動があるのかと尋ねたら、不定期の異動が時々あるのだと妻は応えたのだった。「それじゃあね」 妻は電話に向かってキスをした。 電話を切った妻と目が合った。「きゃあ」 そうだ。妻はゴキブリが大嫌いなのだ。妻は手近にあった雑誌を投げつけてきた。大輔は慌てて避ける。次に飛んできたボックスティッシュを余裕を持って避けた瞬間、妻の泣きそうな表情が見える。浮気女を懲らしめている感覚に、大輔の気分は高揚してくる。そうだ、ゴキブリは飛べるはずだ。目の前でゴキブリが飛んだら、妻は恐怖で気を失うかも知れない。その思いつきが大輔を興奮させた。肩甲骨の辺りに確かな筋肉を感じる。気合とともに力を入れると羽が広がり、身体が浮き上がる。バランスを取るのが思いのほか難しい。テレビで見たオスプレイの墜落シーンみたいだ。それでも何とかバランスを取り、恐怖に歪む妻の顔に向かって飛ぶ。「ぎゃあ」 いい気味だ。もっと苦しめ。その瞬間、妻が倒れこんで避ける。大輔は目の前に現れた壁に取りつく。 攻撃の手を緩めてはいけない。大輔は標的の位置を確認するために振り返ろうとした。その時、冷たく白い霧が大輔を包んだ。身体が痺れる。壁から落ちながら、ぼやけた視界に入ったのは、殺虫スプレーを構えた妻だった。大輔は床に落ち、気を失う直前、妻の声を聞いた。「ダイスケー、ゴキブリ死んでるから、早く片づけてよ」
2013.10.19
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警察を呼べ「やめて下さい」 突然若い女の声が響いた。電車を埋め尽くす乗客の視線が一カ所に集まった。声の主と思われる女子高生が恰幅のいい中年男を睨んでいた。その目がしだいに潤んでくる。「痴漢! この人、痴漢です」 中年男の手を誰かがつかみ、持っていたカバンが落ちた。「違う。誤解だ」 電車が駅に止まると中年男は二人の若い男によってホームへ引きずり出された。一人はサラリーマン風で、もう一人の茶髪は大学生だろうか。茶髪が中年男のカバンをぶら下げている。泣き顔の女子高生が後についてくる。「誤解だ。私は何もしてない」「この人です。間違いありません」 女子高生のヒステリックな声が響き、周囲の視線が集まった。「ここで騒がない方が身のためだぞ」 サラリーマン風が低い声で言った。「警察を呼んでください。痴漢です」 事務所に着くと茶髪が言った。事務所には若い駅員が一人しかいなかった。「待て。そもそも君たちには私を拘束する権限はない」 中年男が高飛車に言った。「はあ? 何言ってんだ。おっさん」 茶髪が馬鹿にしたように笑った。「君たちは知らんだろうが、民間人が人を拘束するためにはそれなりの理屈が必要なんだぞ。まず現行犯であること。そして逃亡の可能性があることだ」「それがどうした」 サラリーマン風が戸惑いながら言った。「まず現行犯かどうか。これは百歩譲って、見解が違うということにしておこう。しかし逃亡の可能性だが、これはまったくないと断言できる」「断言って何だよ?」 茶髪が気負って言った。「私は自分の名前も身分もここで明かすことができる。逃げも隠れもしない証拠だ」「それでは名刺をいただけますか?」 駅員が丁重に言った。「よかろう」 中年男はもったいぶって名刺入れを出した。突然、茶髪が手を伸ばしてそれを奪った。「何をするんだ」「ごまかされないためだよ」「そんな小賢しいマネはせんよ」 中年男は鷹揚に言った。 茶髪は名刺入れを開き、指を入れた。サラリーマン風がそれを覗き込んだ。女子高生は予想外の展開に戸惑っているようだ。「D社総務部長、太田吾郎……」 茶髪が名刺を読んで、サラリーマンに手渡した。その後、名刺は駅員の手に渡り、女子高生にまわされた。「わかっただろう。私は大企業の幹部だ。電車で痴漢を働くようなケチな人間ではない」 太田吾郎が言い放った瞬間、茶髪があからさまな舌打ちをした。「オレの親父の工場はお前のところの下請けだった。つぶされたんだよ。単価を切り下げられたあげくに、突然取引を止められて……」 茶髪は拳を握り締めた。「いや、落ち着いてくれ。事業をやっている以上、止むを得ないこともあるんだ。会社も生き残っていかなければならない……」「何言ってやがる」 サラリーマン風が怒鳴った。「会社も生き残っていかなければならないってセリフ、オレも言われたよ。あんたの会社に派遣で入っていた去年のことだ。そう言われて首切られたオレの気持ちがわかるか。あれから失業者だ。今日も面接を受けに行くところだ」「待ってくれ。それは申し訳ないことをした。もし仕事がないのなら私が口を利いてやってもいい。それだけの力は持っている」「それだけの力があるからって、痴漢したことをもみ消そうとしてるのよ、この人は」 女子高生が叫んだことを言いがかりだと指摘する者はいなかった。「みなさん、落ちついてください」 駅員が割って入ろうとした。「あんた、このおっさんの味方か?」 茶髪が怒鳴った。「いえ……、実は十年前、D社の入社試験を受けたんですが、試験官がとても横柄で」「それなら、手っ取り早く、こいつを痛めつけてやろうぜ」 サラリーマン風の手にはこん棒が握られていた。 茶髪と女子高生が頷いた。駅員がカーテンを引いた。部屋が薄暗くなった。「待て、警察を呼んでくれ」 太田吾郎の叫び声は電車の轟音にかき消された。
2013.10.17
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徳正の懸念 徳正は気がかりだった。最近、つれあいの痴呆がかなり進んできているようなのだ。話しかけても、徳正の言っていることが理解できないのか、とんちんかんな反応をする。先日は、つれあいがふらりと家を出て行って行方不明になった、徳正は何時間もかけて探し、ようやく見つけることができた。「ずいぶん探したぞ。何をしてたんだ?」「お父さんがいないから探してたんですよ」「おれはここにいるだろう」「どうしてですか?」「どうしてって、お前を探してたんだ」「そうですか」 つれあいは諦めたようにつくり笑顔を見せ、手を差し出した。今さら手をつないで歩く歳でもないが、徳正はその手を取って歩いた。困ったことになった。このままではつれあいのことを四六時中監視していなくてはならなくなる。頼りになる一人娘は遠方に嫁いでいて、めったに帰ってこない。 今日ももう昼飯時をとうに過ぎているのに、つれあいは飯の仕度をしようとしない。困ったことに徳正は家事というものが全くできないのだ。こんなことなら飯の炊き方ぐらい教わっておけば良かったと思うが、今のつれあいの状態ではまともに教えてはくれまい。「おい、昼飯は」 とうとう我慢できなくなって、徳正はつれあいの背中に怒鳴った。つれあいは呆けたように振り返り、「さっき食べたじゃないですか」 などと言う。「もういい」 徳正は静かに言って立ち上がった。これ以上何を言っても無駄だろうと思い、外に出ることにする。「どこへ行くんです?」 つれあいの声が聞こえる。「加部のところへ行く」 徳正は近くでそば屋をやっている幼馴染の名を告げた。 そば屋の暖簾をくぐると幼馴染が、「徳ちゃん、待ってたよ」 と声かけてきた。「待ってたってのはおかしいな。お前は予知能力でもあるのか」「おカミさんが電話してきてさ、あんたが行くからよろしくってな」「そうか……」 徳正はつれあいが何を思って電話をかけたのか、と考え込んだ。「それで何の用だ?」「何の用もないもんだ。そば屋に焼肉食いに来るやつがあるか。あったかいヤツを頼むよ」「おお、そうか……わかった」 加部は手際良くそばを茹で、出汁をはった丼に入れ、葱と鳴門を乗せて出した。「いやあ、美味そうだ。もう腹が減って死にそうだったんだ」 しかし、徳正の箸の動きはすぐに鈍った。やはりつれあいの状態が気になって、食が進まないのだ。 それから数日経った。娘が珍しく訪ねてきた。「病院へ連れて行ってあげようと思って」 娘はタクシーを呼び、二人を乗せて病院の名を告げた。 精神科のようだった。待合室は空いていた。痴呆の治療はこういうところが担当するのか、と考えていると、予約をしてあるためかすぐに声を掛けられた。 診察室へは徳正と娘もついていった。「徳正さん」 医者に名前を呼ばれた。「今日が何月何日かわかりますか?」「ええと……、一月……」 そう言いかけて自分が半袖シャツを着ていることに気がついた。「あっ、いや違った」「いえいえ、いいんですよ。ちょっとした検査ですからね。徳正さん」 医者は満面の笑みを浮かべていたが、徳正を凝視する目は笑っていなかった。徳正は思わずつれあいと娘を見まわした。二人とも心配そうな目で徳正を見つめていた。「えっ?」 徳正は思わず立ち上がった。その勢いで丸椅子が転んだ。椅子が床を打つ音が診察室に響いた。「オレじゃない」 徳正は大声を上げた。「大丈夫ですから、落ちついてください」 医者はいっそうの作り笑顔で言った。しかし、射すくめるような目は徳正を冷静に観察している。
2013.10.15
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雨 コンビナートは灰色の雨に覆われていた。煙突から空の中ほどに吐き出される煙は雲が描くグラデーションに溶けている。 夜勤を終えた一団が通用口から出てくる。せめて晴れていてくれれば、生体リズムを侵食するような労働からの開放感を得ることができるかも知れない。しかしもう何日も雨が降り続いている。駐車場までのわずかな距離だが、傘をさしていても霧のような雨が体にまとわりつき、服が重く湿ってくる。車に乗りこめば、空調が湿気を払ってくれるだろう。そんな期待が足を急かせる。「兄ちゃん。これからデートか?」 太田のオヤジが後から声を掛けてきた。三十過ぎて「兄ちゃん」でもねえだろ、と亮一は思うが、もう六十に近いオヤジからすればそんなものなのかも知れない。そう言えば、オヤジには亮一と同い年の息子がいるらしい。息子は仕事もせずにブラブラしている。だからオレはいつまでも働かんとしょうがない。オヤジはそう言っていた。「いや、帰って寝ます。疲れたんで」「何を言ってやがる。オレがお前ぐらいの頃は夜勤明けでもぶっ倒れるまで遊んだもんだ」 実は彼女に振られたんです。そう言えばオヤジは同情してくれるだろうか。顔にも態度にも表さないけれど、実はとても落ち込んでいる。オレの心は今日のこの天気みたいなんだ。 車のエンジン音が近づいて来る。かなり飛ばしている音だ。構内は二十キロ制限で、会社が抜き打ちで速度取締りを行なっている。つかまれば訓告では済まない。ねちっこい責任追及の末、二十キロ以上オーバーしていれば軽くて減給、下手をすれば退職勧奨が待っている。それでも時々首を賭けたギャンブルに挑むやつがいる。またそんなやつが現れたのだろう。「兄ちゃん、逃げろ」 オヤジが叫びながら亮一の腕を取った。傘が手から落ち、地面で跳ねる。振り向くと黒いセドリックが何人もの人を跳ね飛ばしながら猛烈なスピードで走っていた。事故だ。運転ミスか車の不具合が原因で起きた事故だ。頭の一部がそう思い込もうとしている。「早くしろ。こっちだ」 オヤジに腕を引っ張られているうちにようやく事態を飲み込んだ。慌てて全速力で走り始めるとオヤジはようやく手を離し並んで走る。 セドリックが迫ってきているのがわかる。エンジン音に加えてタイヤが路面を踏みつける音までもがしだいに大きく聞こえてくる。「兄ちゃん左へ行け」 オヤジは突然右に曲がった。その意図はすぐにわかった。二手に分かれればどちらかが助かる。しかも左手には逃げ込むことができそうな倉庫が並んでいる。セドリックがオヤジの走る方向に曲がったのがわかる。亮一は倉庫の前で足を緩め、振り返る。セドリックがオヤジに迫っていた。「やめろー」 亮一が叫んだ瞬間、セドリックが弾けとんだ。大型トラックが前方から突っ込んだのだった。セドリックは激しくスピンして止まった。 亮一はボンネットが潰れたセドリックを横目にオヤジの方へ走った。大型トラックは巨大な肉食動物のように低い唸り声を響かせている。 オヤジは膝に手をついて、肩で息をしていた。「オヤジさん」 亮一が走り寄ると、オヤジは、大丈夫だというように小さく右手を上げた。 セドリックの方から怒号が響いた。亮一が目を向けると、数人の男が取り囲んでいた。一人が運転席のドアをこじ開けた。ドアが開いて小柄な男が引きずり出された。地面に転がされた男の頭を一人が蹴り上げた。仰向けに倒れた男の横腹を数人が次々に蹴った。「あんなことしたら死にますよ」 亮一がオヤジに言った。「死ぬかも知れんな」 オヤジが諦めたように応えた。まだ息が荒い。「どうして、こんなことが……」 亮一はそう言ったが、自分が何を問うているのかわからなかった。「雨のせいだろう」 オヤジが言った。それが正しいような気がして、亮一は頷いた。 雨は風景を灰色に染め続けていた。
2013.10.14
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KUMA0504さんのリクエストにお応えします。いただいたお題は「長澤まさみ」「藤沢周平」「加藤周一」です。カトーを待ちながら 僕はもうすぐ45才になろうとしている。偶然だが女優の長澤まさみと同じ誕生日であり、僕が45才になる日、彼女は20才になる。「だからどうした」ということもないのだが、そこには25年という時間の差があるわけである。たかが25年とも言える。これぐらいの差なら恋愛関係が成立する可能性はある、というのは希望的に過ぎるだろうか。しかし25年は相当長い時間でもある。戦争どころか戦後すらろくに知らない僕が生まれた年の25年前と言えば、盧溝橋事件が起き、日中戦争が本格化した頃である。 僕は大学を卒業してすぐに今の会社に入った。会社員が切磋琢磨して出世争いをするのは30代半ばまでで、転職するならそれまでにするのが賢明だ。その後若干の調整期間があっても40代半ばには敷かれたレールが見えるようになる。今僕はその時期にあたり、もはや出世など望めないことは明白になっている。同じような境遇にある友人の中には新しい可能性を求めて辞めていった者もいるが、現実的にはすでに好機を逸しているのではないかと思ったりする。 僕は初夏の爽やかな風に誘われて久しぶりに街に出た。最新のファッションに飾られた街、そこはまさに25年ぐらい年下の若者たちが中心の世界になっているように見えた。自分に寿命があることなんて一顧だにしない、人生で手に入らないものがあるなんて気にも留めないように見える若者たち。 そんな若者たちが行き交う街路で、いくらかくたびれたように見える中年男が佇んでいる。初夏の原色だらけの風景にそこだけが灰色にくすんで見えるような気がしながらその前を通り過ぎようとした時、男に呼びとめられた。「すみません。今何時ですかな?」 僕は立ち止まり、左腕を見ようとして腕時計をしてこなかったことに気がついた。「あっ、時計を持ってないのでわからないんですが」「いやいや、だいたいの時間で良いのです。何しろまったく時間がわからないもので」 確か、電車をおりたのが1時半ごろのはずだが、と考え始めてすぐに携帯電話を持っていることに気がついた。携帯のディスプレーは2時少し過ぎの時間を示していた。「2時過ぎですね。携帯を持っていることをわすれていました」 男はにっこり笑って「ありがとう」と言った。 僕はこの男がなぜここに立っているのか興味を持った。他人に時間を尋ねたわりに時間を気にしている様子もない。それにここはバス停でもタクシー乗り場でもないし、普通の人が待ち合わせをするような目印がある場所でもない。近頃ははっきり待ち合わせ場所を決めなくても、携帯電話を持っていれば何とかなるものだが、時間を尋ねたということはその可能性も低い・・・でもひょっとしたら携帯に時計がついていることを知らないのかも。「さわやかな陽気ですね」 話しかけてきたのは男の方だった。 僕は「そうですね」と応え、しばらくの間を置いて尋ねた。「何かをお待ちですか?」 男は空を見上げしばらく考えるようなそぶりを見せた後、答えた。「カトーを待っております」「カトーですか?」「ずっと待っておられるんですか?」「ずっと待っております」「いつまでも待つんですか?」「いつまでも待ちます」 要領を得ないやり取りをしながら、僕はこの男に25年という時間について尋ねてみたくなった。「25年でも待ちますか?」「25年ですかな?」「はい」 男はしばらく考えた後、僕の目を見て答えた。「時間は重要ではありません」 僕はその言葉が深い思慮に基づくものなのか、単に他人を煙に巻くために用意されたものなのか、判断に迷った。そしてそれを確かめたくなった。「僕はもうすぐ45才になります」「そうですか。もっとお若いのかと思いました」という男の言葉は聞き流した。「普通に考えれば45才といえば人生の半ばを過ぎていますよね。そこで人生の意味というか、価値というか、そんなことを最近は考えてしまいます」「ほほぉ」 男は興味を持ったようだった。 僕は男にわかりやすい言い方を考えた。「45才で藤沢周平は直木賞を受賞して、本格的に作家生活に入りました」「そうですか。ずいぶん遅い出発だったわけですな。しかも早くに亡くなられた」「亡くなったのは69才です。僕の今の年から25年後です」「そうすると45才は人生の半ば過ぎどころか、すでに終盤かも知れないと・・・」 僕は男が真剣に僕の話を聞いていると感じた。「そうです。あと25年かも知れません」 男は深く頷いた。僕は続けて言った。「今、そのあたりを歩いている若者たちは僕より25才ぐらい年下かも知れませんね。そうすると彼らが僕の年になった時、僕は藤沢周平が亡くなった年になるわけです」「計算上ではそうなりますな」 僕は自分が言いたいことを整理するのに数秒の時間を要した。「今、僕は焦っています。このままの人生で良いのだろうか。すぐに何かを始めないと間に合わないのではないか・・・そんなことです」 男は僕に向けていた視線をはずして、遠くを探すような目つきをした。「人生の長さなんてものは終わってみなければわからんものです」 それはその通りだと思って僕は同意した。「そう言えばそうです」「わかりますかな。何かを始めるのが遅いかそうでないかと考えても意味はありませんのじゃ」 男の言葉に僕は頷いた。「だから私はいつまでも待ちますのじゃ」「カトーをですか?」「加藤周一をご存知かな?」 そう言われるまで僕は「カトー」が「加藤」であることに気がつかなかった。僕は少し混乱しながら頷いた。「何しろ87才ですからなぁ。気長に待ちます」「87才って、加藤周一さんがですか?」「そうです。ご存知ですかな。加藤周一さんが9条の会の呼びかけ人になったのは84才の時です。その呼びかけ人のうち鶴見俊輔さんは3才下、三木睦子さんは2才上ですじゃ。何かを始めるのに遅すぎるなんてことはありません」 僕は男の言いたいことがわかったような気がした。「僕もいっしょに待っていいですか?」「好きにしなされ。待つのも良し、飽きたら止めるのも良し・・・」「少し待ってみることにします」 僕は男の隣に並んだ。そのことに意味があるかどうかわからないが、とりあえず焦る必要はないのだ、と自分に言い聞かせながら。(了)
2007.05.28
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