PR

プロフィール

さえママ1107

さえママ1107

サイド自由欄

さえママへのメッセージはこちらから


PVアクセスランキング にほんブログ村

お気に入りブログ

親友と女子旅その2… New! hana131127さん

今日も労働( ̄ー ̄) New! かずまる@さん

詰め込んでくれました New! masatosdjさん

友達 New! 朗らか429さん

体の通信場 New! こ うさん

マツケンさん、歌が… New! ぐーちゃんこさん

鉢植えイチゴに実が… New! reo soraさん

源氏物語〔7帖紅葉賀… New! Photo USMさん

家族と夫婦について… New! ハピハピハートさん

稲刈り3日目 New! 案山子1014さん

コメント新着

こ う @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! こんばんは 秋の交通安全週間の啓発活動 …
reo sora @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! 配布活動お疲れ様でした。 用意した啓発品…
こたつねこ01 @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! コメント有難うございました(^‐^) 踏切事…
いわどん0193 @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! >昨日の配布活動は「踏切事故を無くそう…
ハピハピハート @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! ケーキを3つも食べるなら、わたしはケーキ…
tckyn3707 @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! こんにちは、 コメントありがとうござい…
chiichan60 @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! こんにちは。 秋の交通安全運動の日に名…
エンスト新 @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! こんにちは お疲れ様です。 気持ちいい汗…
nik-o @ Re:秋の交通安全配布活動・ささやかな誕生日(09/25) New! お疲れさまでした。 最後には美味しいケ…
teapotto @ Re:今日は主人の誕生日☘・あらためて家族の関係性を考える(09/24) New! おはようございます(*´∇`*)ノ さえパパさ…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2022年03月15日
XML
カテゴリ: 被害者遺族の声
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ ​昨日3月14日は、東京葛飾区の波多野耀子さんの2年目の祥月命日でした。​
何も出来ませんが昨年、耀子さんと紗愛理を想って植えた沈丁花を眺めて優しい香りに包まれながら、 ​刑事裁判が行われ闘ってみえるご両親に思いを馳せました。​

​​(昨日、咲いた我が家の桜と沈丁花 耀子さんと紗愛理へ祈りを込めて)​​



 ​​​昨日夜、毎日新聞ネット記事でご両親それぞれの意見陳述が載っているのを見つけ読んでいたら涙が止まらなくなりました。どうしても皆様にも読んでいただきたくて誠に勝手ながら私のブログにも引用させていただきました。

(毎日新聞ネット記事より引用)

​「無差別殺人と変わりない」小5死亡事故、母が命日に意見陳述​
​​​
東京都葛飾区四つ木5の国道6号(水戸街道)で2020年3月14日、近くに住む小学5年の波多野耀子(ようこ)さん(当時11歳)が軽ワゴン車にはねられて死亡した事故で、赤信号を無視したとして自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)に問われた元配送業、高久浩二被告(69)=埼玉県三郷市=の裁判員裁判が14日、東京地裁(西野吾一裁判長)であり、検察側が懲役7年6月を求刑して結審した。判決は22日。
​​ ​14日の公判では両親が意見陳述した。母親の主な発言内容は以下の通り。​​
◇娘も気に入った名前
 私は、この事故で亡くなった耀子の母です。夫は重傷を負い、私の人生はあの日から全く違うものになりました。今日は皆さんに、耀子がどれほど私にとって大事な娘だったのか、知っていただきたいと思います。
 耀子がおなかにいる間、私はつわりがひどく、切迫早産もありました。子宮を縛る手術をして、何カ月も安静にしてやっと生まれた赤ちゃんでした。小柄でしたが、髪はふさふさして肌がとてもきれいな赤ちゃんでした。
夫婦ともに、「子」の付く名前を考えていました。主人の母がいろいろと案を出してくれて、その中から「耀子」という名前に決めました。私の母の名前の「光」も入っていますし、奇麗な字だと思いました。耀子本人もとても気に入っていました。
 ◇毎朝作ったお弁当
 夫婦共働きで、耀子が生後8カ月の時から私の母に預けて働き、1歳4カ月で保育園に入りました。小学校に入るまでは、よく熱を出して耳鼻科に毎日通いながらも、会社員と同じような時間帯で月曜から金曜まで頑張って保育園で過ごしてくれました。スイミングスクールにも入り、ピアノを習い始め、夏のお泊まりキャンプにもお友達と参加したり、幼いうちからたくさんの経験をしました。
 小学校に入ると、英語や町内会のおはやしも始めました。学童保育は3年生までしか利用できないため、その代わりに3年生の終わりから、中学受験向けの塾に通わせました。できるだけ、1人でのお留守番を少なくしたかったからです。本人が嫌がらなければ、そのまま受験を目指してもいいと、柔軟に考えてのことでした。
 塾へはとても楽しく通っていました。お弁当もみんなで楽しく食べていたようですが、私はお弁当のリクエストに応えるのが大変でした。「おかずをたくさん何種類も入れてほしい」「きちんと2段弁当にして」とのことでした。
朝の出勤前の忙しい時間帯ではありましたが、「耀ちゃんが喜ぶなら」と、私は頑張って作りました。冷凍食品は1種類だけ入れていい約束でした。耀子は私の手作りを好みました。5年生からは、週に3回お弁当を持って塾に行き、頑張りました。
 ◇目標達成を伝えたい
 勉強は、算数が苦手だったので、ストップウオッチを片手にたくさん勉強しました。私はイライラして怒ったことも数多くあり、今では可哀そうなことをしたと悔いています。自ら、個別タイプの塾も併用したいと言い、理科も頑張っていました。
 先生とのやり取りが楽しかったようで、亡くなった後にうちに来てくださった学生の先生から、塾での耀子の話をたくさん伺いました。休憩時間に目が合うとにこっと先生に笑いかけて、ドラマの話なども楽しく話していたようです。
 先生ご自身も同じ塾のOBだったので、昔のノートをコピーさせていただき、耀子ちゃんの理科の成績を上げるぞ!と頑張ってくださいました。最後のテストは人体の分野で、目標点を掲げて頑張っていました。亡くなった2日後に楽しみにしていた成績が発表されました。目標を達成することができました。耀子に知らせてあげたい気持ちでいっぱいでした。
◇とにかく優しい子
 また、耀子は、リカちゃん人形が大好きでした。ジオラマのような小物も大好きで、それらを使ってリカちゃん人形で遊んでいました。それは5年生になっても変わることはなく、リカちゃんやその他のお人形と一緒によく湯船につかっていました。七五三は、みこさんの格好をした非売品のリカちゃんがもらえることを目当てに、赤坂の日枝神社で2度ともご祈とうしました。東京オリンピックとパラリンピックのリカちゃんも購入し大切にしていました。それらのお人形は全て棺に入れました。
 私の作る料理は、ハンバーグやミートソース、ショウガ焼きなどなんでもよく食べてくれました。セロリスープなど香味野菜も好きでした。外食はなんといってもウナギが好きで、祖父母の家にお泊まりに行くたびにウナギ屋さんに出掛けていたようです。
耀子はとにかく優しい子でした。そして明るく前向きです。親である私たちが一番感心していたのは、何事もあきらめずコツコツと続けるすごさです。そんなに負けず嫌いでもなくてひょうひょうとしていましたが、練習を続け、スロースターターでありますが、いつの間にか上達していました。人に気を使わせないところもあり、保護者の方からは「耀子ならいつ遊びに来てもいいよ。どんなに部屋が汚くても耀子なら見せてもいいわ」とよく言ってもらいました。
 1年生の頃から親友もできて、今でも親友です。その子はお骨あげもしてくれて、私のことを現在も助けてくれます。耀子は、男女年齢問わず、みんなと仲良くしていたと思います。不器用なところもあり、図工や家庭科などの専科の先生には特にお世話になりました。学校も大好きで、行きたくないと言ったことは一度もありません。そして、どの習い事もやめたがらないので、忙しくなり過ぎてしまい、整理するのが大変でした。
◇娘がいない世界
 耀子がいる時は、全て耀子を中心に、朝から寝る前まで、毎日バタバタと生活をしていました。朝のNHKの連ドラを見ながらご飯を食べて、急いで出かけます。私はベランダから水戸街道へ曲がる道まで、毎朝赤いランドセル姿の耀子を見送っていました。
 学校から帰宅したら、私が作り置きをしたお弁当を自分で温めて、それを持ち塾へ行きます。夜は駅までお迎えに行き、小腹をすかせた耀子に、軽食やスープを食べさせて寝かせる毎日でした。
 塾の無い日は、いつもお友達と遊ぶ約束をしていました。私は仕事中もキッズケータイのメールでやり取りをして、場所を把握していました。そんな毎日が明日もあさっても当たり前に続くと信じていました。
 事故の後、まず目が覚めたら、毎朝耀子がいない世界を感じます。夢を見て、自分の泣き声で目覚めることもあります。子供がいない生活になりました。作る料理も洗濯物の数も、何もかもが変わってしまい毎日が苦しくなります。朝早いお弁当作りも、ベランダからの見送りも、塾のお迎えも、夜の軽食作りも、耀子とのメールのやり取りも、全て無くなってしまいました。
 ◇生きていたら……
 小学校を卒業した後は、本人が望む学校へ進ませてあげたかったです。11歳の時点で、スキーやスイミングなど、親の私たちよりもできることが多く、成長がとても楽しみでした。いろいろな困難にぶつかっても、耀子ならあきらめずに乗り越えてくれるだろうと頼もしく思っていました。
 子供は4人欲しいと言っていて、保育園に預けてママのように働くのだと話していました。私は、なるべく近くに住んでサポートができればいいな、など漠然と考えていました。毎年の主人の両親との年越し旅行や、夏休みや大型連休の家族旅行をとても楽しみにしていて、これからは外国にも連れていきたいと思っていました。
 もし、今耀子が生きていたら、もっと話をたくさん聞いてあげたいです。時間をせかすこともなく、耀子の話をたくさん聞いて、いろいろな希望をかなえてあげたいです。そして以前のように、暖かいベッドで一緒に寝てほおをなで、抱きしめたいです。
 耀子の部屋はあの日のままです。今も以前と同じように掃除をしています。耀子の誕生日は、命日よりもきついです。小さなケーキを用意して耀子が喜ぶであろう料理を用意し、私たちが食べます。歌などは歌いません。ただ静かに過ごします。
 私は、不十分な母親だったと思います。もっともっと穏やかにおおらかに構えて育てるべきでした。ただ、こんなママですが、耀子はとても素直でいい子に育ってくれていました。いつも家族3人で一緒でした。
 耀子との最後のメールのやり取りは「今日はどうしても3人でご飯を食べたいの」だったと思います。遅いからパパと2人で食べてきたら?との私の問いかけへの答えでした。耀子が欠けた今も、私たちは耀子の気持ちを想像して、耀子が嫌がることはしないようになんとか頑張って過ごしています。
 ◇「14日」がつらい日に
 今日は耀子の命日です。2年前の3月14日から耀子に会えていません。あんなにも毎日一緒だったのに突然の別れとなりました。私は2月14日が誕生日で、主人の誕生日は10月14日です。それなのに、14日という日がとてもつらい日となりました。
 耀子は「正義の子」だからと言われたことがあります。悪いことは悪いと言える子、それは違うとはっきり言える子だと言われました。ルールを破ることに抵抗があり、いじめや陰口を最も嫌っていたと思います。事故当日のニュースに、歩行者が青信号で渡っていたとはっきり書かれていたと聞き、耀子の正義が証明されたと、そこだけはほっとしました。
 いつも慎重に道路を渡る子でした。踏切も音が鳴り始めたら、絶対に渡りません。前日も事故と同じ横断歩道をピアノのレッスンへ向かうために通りました。心配性の私は、帰りも水戸街道まで耀子を迎えに行きました。自転車に乗り信号待ちをしていた耀子は、青になると首を大きくふり左右を確認し、ニコニコ顔で私のもとに駆け寄りました。
 このように大変慎重な子でも、命を奪われました。たまたま耀子たちがひかれてしまいましたが、誰がひかれてもおかしくありません。無差別殺人と何ら変わりないと思っています。
 耀子は身長152センチ、体重35キロのきゃしゃな体でした。なぜ少しでもブレーキを踏んでくれなかったのか。大けがで済んだかもしれないのに。毎日そう思い、悔しいです。耀子は、私たち夫婦のたった一人の娘で両祖父母にとってもたった一人の孫でした。最愛の宝物です。耀子を身勝手な運転でひき殺し、私たちの人生も心も殺しました。


​「娘は理不尽に命を奪われた」父が意見陳述 小5死亡事故

東京都葛飾区四つ木5の国道6号(水戸街道)で2020年3月14日、近くに住む小学5年の波多野耀子(ようこ)さん(当時11歳)が軽ワゴン車にはねられて死亡した事故で、赤信号を無視したとして自動車運転処罰法違反(危険運転致死傷)に問われた元配送業、高久浩二被告(69)=埼玉県三郷市=の裁判員裁判が14日、東京地裁(西野吾一裁判長)であり、検察側が懲役7年6月を求刑して結審した。判決は22日。
​14日の公判では両親が意見陳述した。父暁生さん(44)の主な発言内容は以下の通り。​
 ◇受験勉強を楽しみに
 私たち夫婦にとって、この世で最も大切に思い、愛していたのが、一人娘の耀子でした。耀子も私たち両親のことをとても愛してくれていたと思います。
 耀子は幼い頃から、のんびり屋でマイペースな子でしたが、「継続は力なり」を地でいく子で、何事にも根気強く取り組む子でした。
 水泳、ピアノ、お囃子(はやし)、英語といろいろな習い事をしました。どれもできるようになるまでには時間がかかりましたが、出来る様になるまで、諦めることを嫌う子でした。
 その、ひたむきな姿と、持ち前のマイペース屋さんからくるほんわかした様子が相まってか、習い事の先生方にもとても可愛がっていただきました。親の欲目かもしれませんが、多くの人から愛されるキャラクターを持った子でした。
 小学3年生から中学受験のための塾に通い始め、夜の8時または9時まで塾で勉強をしていました。当初は慣れるまでに少し時間がかかりましたが、習い事で培ってきた継続する力を発揮して、徐々に学力を付けていきました。
 そのかいあって塾でも最上位のクラスに所属していました。私に似て国語が得意だったので、やっぱり親子なのだなとうれしく思ったことをよく覚えています。小学5年生になってからは受験勉強を楽しみにするまでに成長し、志望校を決めるためにいろいろな学校の見学会にも行きました。
 見学の際は在校生から声をかけられると照れくさそうにしていましたが、後でこっそり、「この学校は気に入った」とか「この学校はイマイチだった」などと感想を教えてくれて、志望校を真剣に考えている姿に大きな成長を感じ、ほほ笑ましく思いました。
 耀子の部屋には、勉強のメモや私たち両親が作った勉強のスケジュール表などが至る所に張ってありました。正にこれから6年生になって、いよいよ受験勉強本番となる矢先に、今回の事件に遭いました。
 ◇ホワイトデーのお返しできず
 事件当日は19時から私の美容室の予約が入っていました。当初は耀子を連れて行く予定はありませんでしたが、ちょうど、妻が外出しており、耀子を一人で留守番にさせておくのも可哀そうに思い、「美容室についてくるか?」と聞くと、彼女は「ついてくる」と言いました。
 私は、耀子と2人で近所のスーパーに出かけたり、ちょっとした散歩がてらの外出をするのが、プチデートのようで楽しみでした。ですから、その日の美容室もそんな気持ちで一緒に出掛けることにしました。
 この時に、一緒に連れて行かずにおけば、耀子は事件に巻き込まれなかったのだと、今は悔やんでも悔やみきれない思いです。
 美容室に着くと耀子は持ってきたゲーム機でゲームをしながら、私を待っていました。私の前の予約のお客さんの立ち話が長引いて、19時からの予約でしたが、私が髪を切り始めたのは19時15分くらいでした。それでも、耀子はおとなしく待ちながら、時々妻とメールで状況報告のやり取りをしているようでした。
 美容室の鏡越しに耀子の様子を見ていましたが、お店の方に話しかけられて世間話をする様子などは、もはや幼児ではなく、しっかりとした少女になっていました。なじみがない大人ともにこやかに話せるようになり、随分と成長したものだなと、思ったのを覚えています。
 美容室は予定より遅くに終わり、20時30分ごろに店を出発しました。どこかで妻も合流して外食でもしようかという話にもなりましたが、耀子と妻は携帯電話のメールで連絡を取り合っており、妻が家で夕食を用意して待っているとのことだったので、家に帰ることにしました。
 その日はホワイトデーだったので、まだお返しを渡していなかった私は、帰りにコンビニで何でも好きなものを買ってあげようかなどと、のんきに考えながら、耀子とたわいもない会話をし、歩いて家に向かいました。雨は降っていなかったと思います。
 あともう少しで家に着く場所にある、事件現場の四つ木5丁目交差点に差し掛かりました。歩行者の信号は赤だったので、青に変わるのを2人で待ちました。
 水戸街道は車が結構な速度を出して走っていました。金町方面から向島方面への上り車線を走る車が、信号待ちをしている私たちからみて右から左へと走り抜けるので、私はあえて、私の体が盾になるように耀子の右側に立って信号が青になるのを待ちました。後でこのことが耀子を左側からの車の衝突から守る上であだになるとは、この時は思いもしませんでした。
 程なくして、信号は青に変わりました。しかし私は耀子に「まだ渡るな」と言いました。向島方面から金町方面への下り車線を暴走族風のバイクが信号を無視してわざとエンジン音をうならせながら低速で横断歩道を横切って行ったのです。私たちはそのバイクが走り去るのを待ち、横断歩道から離れて行ったのを確認して、耀子に「どうしようもないやつらだな、渡ろう」と一言言ってから、青になった横断歩道を渡り始めました。それが、耀子と私との最後の会話になりました。
 耀子は私と並んで、私の左側を歩いていました。横断歩道中ほどの中央分離帯を越えたあたりで、私は我々の右側を走り抜けて、同じく横断歩道を渡る自転車を目視しました。
 そこで、私の記憶はぷつりと飛んでいます。気が付いた時は、救急車に乗せられているらしいことが分かりました。車にひかれた衝撃で気を失ったようで、ひかれた瞬間のことは全く覚えていません。
 訳が分からなかった私は、何か言葉を発しようとしたと思いますが、会話をする力がありませんでした。救急隊員が大声で「車にひかれたんだ」と叫ぶようにして教えてくれました。私は状況がよくのみ込めませんでしたが、何とか力を振り絞って、「娘は?」と救急隊員に尋ねました。
 救急隊員は「別の救急車で運ばれている。それ以上の状況は分からない」と言いました。そして、サイレンを鳴らしながら激しく揺れる救急車の中で、私は酸素マスクをつけられ、自力では全く体を動かすことができず、左足に激痛を感じながら意識が途切れ途切れになっていきました。
 次に覚えているのは、病院らしきところで、強いライトの下でたくさんの医者に囲まれている光景でした。私は「娘は?」と聞きました。医者は、「娘さんの状況は分からない。手術することを了解してほしい」と言いました。
 意識がもうろうとするなか、耀子はきっと別の病院で処置を受けているのだ、多分軽傷だろうと思い、医者に手術を了解する旨を伝えました。この時私は、なぜ車にひかれたのか全く見当もつきませんでした。このまま自分は死ぬのかもしれないと思いました。麻酔をされて、また記憶はそこでぷつりと飛びました。
 ◇「ごめんな耀子」
 次に気が付いた時には、私は集中治療室にいました。恐らく事件当日の2日後だったと思います。体は相変わらずほとんど動かず、意識ももうろうとしていました。左足には手術した形跡がありましたが、足の感覚はありませんでした。
 徐々に意識がはっきりとしてくる中、病院の看護師や医者に耀子のことを聞いても、みな一様に、娘さんは別の病院に運ばれていて状況は分からないと言いました。
 病室には妻と私の両親も来ていました。妻に耀子の様子を聞きましたが、妻は苦しそうに口ごもるだけで何も言いませんでした。私は何か皆が隠していると思い、父に「耀子はどうした」と聞きました。すると、父から「耀ちゃんはダメだったよ」と伝えられました。
 にわかには信じられませんでした。あの耀子が死んでしまった? なんで?
 状況が理解できず混乱した私は、妻を呼びました。妻も当然取り乱していて「一緒に私たちも耀子の後を追おう」と涙ながらに言いました。何をばかなことを言っているんだと思いましたが、憔悴(しょうすい)しきっている妻にかける言葉は見つかりませんでした。
 その瞬間を境に、私の人生は終わったも同然になりました。
 耀子の死を伝えられても、私は依然としてそのことが信じられませんでした。なぜこんなことになってしまったのか? そのことばかりを頭の中でグルグルと考えていました。
 その後、病院の計らいで耀子の遺体を、墨東病院から私が入院している日本医科大学付属病院に移送してもらい、私が耀子と対面する機会を作ってもらいました。
 耀子の遺体が安置されている場所に車いすで行きました。そして、横たわる耀子を見た瞬間私は、「ごめんな耀子」と声をあげてしまいました。あまりのショックに号泣することもできませんでした。耀子の体は信じられないほど冷たく、硬くなっていました。大事な大事な一人娘がこんなことになるなんて、私は冷たい耀子の体をなでながら、二度と元気な耀子に会うことができなくなってしまったことに、底知れぬ絶望を感じました。
 耀子との対面を終え病室に戻ると、医師から今後のことについて説明がありました。できる限りのことはするが、今の容体では通夜と葬儀に参列するのは難しいという説明でした。私は、参列しないことはあり得ないと伝え、何とか葬儀だけは参列することを許してもらいました。
 葬儀の前日、病室で喪主のあいさつを考え、メモにしたためました。
 車椅子で介護タクシーに乗って、葬儀場に着くと、耀子は棺の中にいました。私は改めて耀子の冷たく硬い体に触れ、号泣しました。棺の中で花に埋もれる我が子の姿を見て、一体これは何なのだ、なぜこんな光景を目にしなくてはいけないのかと、悲しみと怒りと絶望が入り交じった気持ちになりました。
 葬儀には300人を超す方々が参列してくださいました。
 ◇地獄のような日々
 葬儀を終えた翌週に、病室に警察の方が来ました。私は、明らかに青信号を横断していたのに、こんなことになるのは全く意味が分からないと話しました。警察の方は、車が赤信号を無視していて、我々に全く落ち度はない、極めて悪質な事件だと言っていました。後々聞いた話では、耀子は車と私の体に挟まれる形になってしまったため、ダメージが大きかったそうです。私はそれを聞いて、なぜ耀子を救うことができなかったのか、私と耀子が左右逆に並んでいれば耀子は助かったかもしれないと思いました。今でもそれが苦しくて仕方がありません。
 令和2(2020)年4月10日に退院しました。自宅に戻り、耀子の部屋で、彼女がもうこの世にいないことを改めて突き付けられ号泣しました。
 それからは、地獄のような日々でした。なぜこんなことに巻き込まれてしまったのか、なぜ耀子は死んでしまったのか、毎日、毎日、考えても考えても、救いは無く、また今日も耀子がいない一日が始まるのかと苦しくなるばかりでした。
 当時、唯一の外出はリハビリでした。松葉づえでの歩行訓練のために自宅近くの整形外科に通いました。病院では、耀子と同じ年ごろの女の子がリハビリに励む姿を目にする機会がありました。耀子も骨折程度で済めばせめてもの救いだったのに、なぜ死んでしまうほどの事件に巻き込まれたのかと、ここでも苦しくてたまらなくなりました。
 リハビリを続け、松葉づえからつえ1本で歩けるようになったので、6月から仕事に復帰しました。復帰後は、事件で暗転してしまった自分の人生と、今まで通り何も変わることなく回っていく職場との落差に大変苦しみました。同僚の変わらぬ日常の話題や、お子さんのイベントの話が耳に入ってくる度に涙があふれ、トイレなどでこっそり泣きました。それでも、顧客の前では何事もなかったかのように笑顔で話さなくてはなりませんでした。
 そんな毎日を過ごす中で、明らかに精神的に異常をきたしていると感じたので、被害者支援都民センターのカウンセリングの際に相談すると、重い抑うつ状態にあると思われるので直ちに精神科へ行くように勧められ、紹介状を書いてもらいました。心療内科での診断は抑うつとPTSD(心的外傷後ストレス障害)でした。私は、睡眠導入剤や抗うつ剤を服用しながら何とか仕事を続けましたが、その年の年末ごろから限界を感じ、令和3(2021)年4月末で会社を退職しました。本当に人生がめちゃくちゃになりました。
 ◇初公判前日に娘のビデオ
 私たち親子は慎重に青信号を横断していただけで何の落ち度もありません。
 娘の耀子は、6年生に進級することを楽しみに、中学受験に向けて正に本腰を入れようとしている真っ最中でした。
 「大学生になったらピアスをしてもいい?」
 「テレビが大好きだから将来はテレビ関係の仕事をしてみたいな」
 「なるべく早く結婚して、子供は4人ぐらい産みたいな」
 そんなことをよく話していました。さまざまな可能性を持った未来がたくさんある娘でした。私たち夫婦にとって、ただ一人の子供であり、両祖父母にとってもただ一人の孫でした。そんな大事な娘が、このように理不尽な形で大切な命を奪われました。
 初公判の前日、妻が検察官との打ち合わせで不在の時に、私一人で過去に撮った耀子のビデオを見ました。
 事件以来、耀子が映ったビデオをきちんと見るのは初めてでした。それまでは、つらすぎて映像を見ることが難しかったのです。しかし、裁判に臨むにあたって、きちんと耀子の動く姿と声を目と耳に焼き付けなくてはいけないと思い、意を決して見ました。動く耀子の姿を目にし、声を耳にして、ただただ、失ったものの大きさに、一人で震えながら大声で泣きました。
 当たり前ですが、耀子は生きたかったと思います。本当に悔しがっていると思います。一番怖かったのは耀子です。青信号を守っていたのに、赤信号無視の大きな車に時速57キロで衝突され、どれほど怖かったか、痛かったか。
​愚かな運転により、命を奪われた娘の無念さ、苦しさ、そして我々遺族の悲しみと絶望をご想像いただき、今後、このような事件を再発させてはならない、という予防的な意味も込めて、過去の判例や量刑相場にとらわれることなく、現行法上の最大限の刑罰、すなわち懲役20年に処していただきますようにお願いいたします。​



​​波多野耀子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。​​


​(さえりん14歳の時 中学校の校外学習電車でお出かけpart8)​








​​​ 最後までお読みいただきありがとうございます!!

いつも温かいコメントありがとうございます 星


さえママへのメールはこちらから
​​
​​​​​
​​​​​​​
​​​
にほんブログ村、応援おねがいします!!
この 「さえりんの部屋」 一人でも多くの方に読んでいただき、
交通死亡事故で悲しむ人がもう増えませんようにと心から願っています!!
さえりんをクリックしてください!!

にほんブログ村 家族ブログ 死別へ
にほんブログ村


​人気ブログランキング

よろしければこちらも応援おねが いします。

​​​
さえパパの 「可愛いさえりん1分間動画💛」 ぜひ見にきてね!!
​​ さえりん動画はこちら ​​


​​



​​


会の活動内容をお知らせするのにあたり、LINEの公式アカウントを作りました。

よろしければ以下のリンクから友達登録してね❗

​​​​​​​​ https://lit.link/aichinijiirokai




​​ ​​ ​​ ​​ ​​ ​​​​​​ ​​ ​​ ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022年03月15日 07時28分45秒
コメント(13) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: