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超高齢の母は誤嚥性肺炎が治り元気に退院した。退院したと言ってもそのまま施設へ。ベットの生活から車椅子に座った生活がホッとしたみたい。食事も流動食から普通の食事代わって食べやすくなったようだ。病院ではお粥は嫌い、病院は嫌いと。そして時々思い出したかのように「スマナイネ。何も出来なくて申し訳ない」と。そして頭に浮かんでくるのは「兄さ~ん!お母さん!お父さん!私は〇〇よ、どこにいるの?」と大きな声で呼んでいる。握力、腹筋は若者と同じぐらい強い。ベットから仰向けのまま起き上がれるのにはびっくりした。60代でも出来ない人がいるのに・・・。母の良くないところは食が細い事。騙しながらおだてながら食事の介助をしているのが現状。大きな声で自分の発している言葉がスタッフにもまる聞こえ。時々笑われることもあるが・・・。施設の帰りにお気に入りの古宇利大橋に寄り道。夕景を眺めて帰って来た。見てd(^-^)ネ! 日中は海水浴客で賑わう砂浜は珍しく静かだった 古宇利大橋の上より撮った 人の少なくなった砂浜で恋人かな・・・。今の厚かましさ、今の歳の気持ちのまま、若い頃に戻れるなら青春をやり直しをしてみたい(*´σー`)エヘヘ。だって消極的なままのあの頃に戻ったってつまらないもんd(゜ー゜*)ネッ!
2016.06.28
昨日の事、気分転換にドライブでもしようかと、半分自分を元気づけるために車を走らせた。ちょっと強行かと思いながら、思い立ったらじっとしていられないので、何も考えることをやめて思いきって、さあ~ドライブ!!沖縄最北端の辺戸岬は復帰闘争運動に関わってきた岬である。海面からは約10メートルのサンゴ礁から出来た絶壁であるが、表面は広場になっている。復帰運動をしていた頃はその大勢の人たちが集った広場である。辺戸岬と鹿児島県の与論島の両方でノロシをあげたという。また北緯27度線上では海上集会も行われたということは知っている。中学高校時代は復帰闘争運動に燃えていた(-_-;)ホントカ・・オイ・・ホント。 祖国復帰闘争碑。全県民が燃えた復帰闘争運動だったように覚えている。 サンゴ礁から出来た岩の絶壁は約10メートルという。 シマアザミ クサトペラ:常緑低木である。茎の下の方は木質で上部が柔らかいのでクサトペラと言うのだそうだ。サンゴ礁の岩の上の広場はクサトペラが枝を伸ばしている。
2016.06.27
介護帰省が終わった。お正月の兄との嫌悪で里帰りしないと言っていた私に弟は心配していたようだ。今回から秘密に帰省することにした(^∇^)アハハハハ! 弟は私の帰省でホッとしたよう。私的には兄やお嫁さん二人の顔を見ない事で大変平和な帰省だった(*´σー`)エヘヘ。ホント。母はとても元気になっていた。昨日の夕飯後に一生懸命立ち上がる動作を繰り返した。そしてとうとう両足で立ち上がることが出来た。95歳になっても努力すれば結果が出るんだと。歩く練習をして自宅に帰ろうと思っている。だから一生懸命練習をしているつもりだと思う。「95まで頑張って来たんだから、もう頑張らなくても良いよ」と思っていたのに・・・。びっくりびっくり!ガンバレガンバレ!でも施設から実家に戻る時に介護士さんに「今晩は要注意なことがあります。立ち上がることが出来たので、ベッドから落ちる危険があります」と伝えた。「夜回りを多くします」と。そろそろ梅雨入りかなと思うこの時期だが、天気は良く、空も海も綺麗だった。飛行機の中からも素晴らしかった。今まで見た事のない天空の景色。雲間からのコバルトブルーの美しい海と建物に感動した。 今日の海は綺麗だった。伊芸PAから。 なんと表現したら良いのだろうかこの雲。(; ̄ー ̄)...ン?ポロポロ雲?? ポロポロ雲の間から青い海と市街地。飛行機(ANA)より。 窓から身を乗り出すように下を見たらコバルトブルーの綺麗な海。 よ~~く見るあの島が古宇利島だった。 私のお気に入りの島であるが、この頃は観光シーズンになると大渋滞を引き起こすのだろう。先だってのゴールデンウィークは砂浜も車も大渋滞だったから・・・。
2016.05.10
子どもの頃と言っても高校時代はこの島に橋はなく、今帰仁からボートに乗っていくのだった。島の水は天水で超へき地の島だった。近くて遠い島であった。恋島だとか神の伝説のある昔を感じるこの島は、なぜか私のお気に入りの島だった。橋が開通すると言うことで私はワクワクしていた。そして11年前に開通してからは里帰りの度に大橋を渡り古宇利島を一周するのが楽しみだった。実家で法事や兄弟たちが集まった時に、嫌な雰囲気になった時は、私の逃げ場であったり、息抜きスポットでもあった。約2キロある古宇利大橋からの眺めは素晴らしく澄み渡り、透明度も、七色に変わるコバルトブルーの青さはピカイチである。そんな素晴らしい海と素朴な島がお気に入りで、私が癒されたくて出向く古宇利島である。もう今から6年ほど前に開通したワルミ大橋、2年半前(2013年11月)に出来たオーシャンタワーの影響が大きいのは間違いない。ラジオやテレビの宣伝、口コミであっという間に広がってしまったようだ。今日のゴールデンウィークは快晴だったので、母の食事の介助が終わって帰る時に古宇利島へ寄り道した。(゜∇゜ ;)エッ!?と思うほど観光客で溢れて、古宇利島側の大橋の入口の砂浜や駐車場も増設された駐車場も超満杯だった(⌒▽⌒;) オッドロキー。以前は5月に泳ぐ人などいなかったのに・・・。いつものように私は古宇利島を一周して母のいる施設へ戻った。他に北側にある沿岸部にも宿泊施設やレストランなどがたくさんあるようだった。島民以外の車の乗り入れを禁止すると議論されたこともあったようだが、でもやっぱり豊かに生きていくためには個人の考えが考慮せざるを得ないんでしょうね・・・。余計なお節介かなあ・・・。環境が悪くならなければいいのだが。
2016.05.04
昨年の11月に兄が亡くなり、今年に入って母に急激な鬱と痴呆を感じるようになった。口数も少なくなり、歌を歌うこともなくなった。楽しいことを考えようと、よく歌を歌ったり、ハーモニカをふいたりしていたのが、すっかり鬱の世界に入ってしまった。それに不可思議な行動。難問は食事と排泄。食べたくない物は食べたふりして隠していると私は思っていたのだが、本人にしてみれば、隠しているのではなく片付けているのである(押し入れやタンスに)。そう理解ししているつもりでも、ついつい大きな声を出している私自身が反省したのだが・・・。『鬱と痴呆と上手に付き合う』と、いくら理解しているつもりでも難しい。本人は理解していないのだから・・・。他人が入るとシャキッとするところが見られる。この頃は週2回のデイサービスはスタッフに連れ去られるように車いすに乗せられて行くという。本人が言うのだから全くの痴呆でもなさそうだ('-'*)フフ。昨日一昨日と三女の家族が長崎から実家へ遊びに来た。4歳2歳0才を連れて。小さなひ孫を見て終始楽しそうな笑い顔を見せていた。「ばあちゃんはね、もう力が無いから抱っこしたくてもできないよ」と言っていたところを見ると、またまた完全な痴呆ではないと感じた。『老いの鬱と痴呆』少しずつ感じたことを描いていきたいと思う。今回の三女家族がおばあちゃんにひ孫を見せに行くと言ったことに感謝感謝!!昨日はその三女家族は古宇利島のビーチへ泳ぎに行った。綺麗な砂浜と透明度はピカイチ。3時過ぎまでお付き合いして、私は夜の飛行機で埼玉の自宅に戻ってきたのである。静かで良い。でも実家の母が気になる。自分が良い人なのか悪い人なのかわからなくなっている(-_-;)ホントカ・・・オイ・・ホント。まだまだ沖縄は真夏である。海水浴場は人であふれていた。
2014.09.17
短い里帰りでドライブしている暇は無し。母は急激に認知症が進んでいる。お皿に入っているおかずなどをタンスや押し入れに隠しいれるなど。バッグの中に隠しいれるなど。汚れた下着や服などもタンスの中やバッグの中に隠しいれる。見つけてチェックするのも大変なのである。耳も遠いので昼間はデッカイ声で話をしなければならない。まるで怒鳴り声。そろそろ自宅介護も限界かなあ・・・、心の準備をしなくちゃと感じているのである。唯一夜になると暇になる。そんな訳で昨晩は仲良しの同級生で、飲んでカラオケを楽しんだ。昔話と言っても中学時代の同級生の話、時効になった面白い話など笑いながらお喋りした。カラオケは酔いざましである。しっとり懐メロ特集。まだ生まれてもいない時の歌など、私には知りもしない歌だったので関心しきり・・・。心の広い大きい同級生に乾杯である。海のような広い心で皆と人生を楽しむのも大事かな・・と。 実家の近くの海。子ども時代良く遊んだ広い海である。チリ津波の後だいぶ様子が変わってしまったが、そこに立っていると故郷の色んな思い出がよみがえる。 旧小学校の近くのマングローブ生える海。チリ津波の2年後に小学校は高台へ引っ越しした。 海洋博記念公園のある本部半島より。サンセット。
2014.09.15
体調不良のままなんとか実家にたどり着いた私であるが、まだお腹あたりが不調だ!ここは亜熱帯沖縄。外は蒸し蒸しに暑さも特級、家の中は冷房つけっ放し。これじゃ体が混乱を起こすよネッ。なぜかこんな蒸し暑い外に居る方が体が落ち着く。昼下がりに母をドライブに誘うのは酷かなと思い夕方にドライブに誘った。行くと言うので(*^^)v v(^^*) ヤッタネッ!お気に入りの古宇利島へ車を走らせた。海の色と橋と砂浜を見るのが好きなのである。もう真夏!!砂浜では海水浴している人たちで賑わっていた。やっぱり家の中より飛び出してきてヨカッタヨカッタ!!母は気を使って私の話に合わせてくれる(¬¬)ホント?????(-_-;)ホントカ・・・オイ・・ホント。向こうに見える島が古宇利島。2005年にこの古宇利大橋が開通するまでは水道はなく天水(雨水)を使っていた。今は橋と一緒に水管も通り水の不自由はないようだ。観光客が民家に入ってこないように色々策をとっていたが、今では土地が売られ、大きな建物も出来ていいる。恋島として有名なこの島を住民はどう思っているのだろうか。 手前が古宇利島の砂浜で、向こうが屋我地島。古宇利島へは本島名護市から三つの橋を渡って行く。本部半島からは同村の今帰仁から二つの橋を渡って行く。
2013.06.22
昨晩沖縄に着き、寄り道寄り道しながらやっとヤンバルの実家へ到着。疲れてしばらくソファに横になった。私は年寄りと自分を甘やかしている(-_-;)ホントカ・・・オイ・・・。可哀そうに思ったのか92の母がお茶を入れてくれた(^∇^)アハハハハ! 介護されてしまった。昨日今日の沖縄は空は曇り空、風も頭がボサボサになるくらい強い。高速道をそのまま帰るのがもったいなくて、途中から国道一般道へ下りて西海岸へ向かい万座毛へ。風が強くてカメラが安定しない。ブレブレを承知しながらもシャッターを押したので紹介しよう。 赤信号だ!窓ガラスを開けてカメラを取り出しガシャン!那覇国際通り。 万座毛:風が強くカメラが揺れっぱなし。琉球王朝時代の王が万年が座する広場を有すると言われた自慢の万座毛。 お腹が空いたわけではないが、海を眺めながら休憩することにし、麩チャンプルーを食べた。 実家に到着して庭を一回り。オオベニゴウカンが咲いていた。
2012.12.23
一晩寝て目が覚めたら弟から電話。嫌な予感が的中。103才の伯母が亡くなったと。でも故郷沖縄まで出かける元気もお金も・・・、また多用でどうすることも出来ないので電報を打った。その叔母は糖尿病治療をしながら長生きをしていた模範的な人でもあった。伯母は教員を定年退職後糖尿病に気をつけて、人が集まる席では必ず「ゴメン、私は糖尿病だから少しだけ食べるよ。お行儀悪いけど食べ残すよ」と一言御断りをしていた。90才になったら「もう90過ぎたから何でも好きなだけ食べる」と宣言していた。そしてある時長男に「どうぞ好きなだけ腹いっぱい食べて早くあの世に行ってください」と嫌味を言われたそうだ。その後どうしたのかを聞いていないが・・・。最後に会ったのは97歳の時だった。103歳まで生きたことは嬉しいことでもある。2週間に4人の近い親戚が亡くなったことを思ってみると、皆長生き組で本当に世代交代と感じた。色々な事が昨今のように思い出されて懐かしんだのである。私の三女にもうすぐ赤ちゃんが生まれる。本当に世代交代と感じるのも当然だd(^-^)ネ! 丈夫で賢い子が生まれますようにと願う。明日からは三女の手伝いに追われそうだ。里帰りからの飛行機の中でず~~と寝ていた。【☆;:*:;☆オツカレサマ☆;:*:;☆ 】>c=( *^▽^)ゝ。目が覚めたら着陸体制に入りますとアナウンスがあった。電車の中でもず~~っと寝ていた。自宅に到着しても寝てしまった。朝になっても起きる気がしなくてお昼近くまで寝てしまっていた。(^∇^)アハハハハでも(¬¬)ホント。お昼を済ませて三女宅へお産の準備の手伝いと引っ越しの手伝い。那覇空港の蘭の花は疲れた心を癒してくれる 久し振りの青い空は雲の間から顔出した青空だった。向こう側に突き出しているのは本部半島と屋我地島かな。雲がかかっているが・・・。
2012.03.19
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