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皆さん、こんばんわ☆夜7時になっても、まだまだ明るい昨今・・・18日の夏至の夜に行われた、足助の「たんころりん」行ってきましたよ~!これは、環境省の省エネ啓蒙イベント「百万人のキャンドルナイト」っていう、夏至の夜8時から10時までは、電気の灯りを消して、スローな夜を過ごしましょう・・・ってことで、足助の町も、その一環として、「たんころりん」という昔ながらの灯りを灯す事にした訳ですね~。 この竹で編んだ筒のようなものに、和紙を被せたものが「たんころりん」です。この中に、ロウソクなどを置いて、灯りをとるのです。ゴーン・・・ゴーン・・・夕方6時半になると、この坂を登った処にある宗恩寺のお寺の鐘を合図に、道端のたんころりんに、徐々に明かりが燈り始めます。「たんころりん」は、別名を”ひょうそく”ともいいます。「ひょうそく」とは、主に、江戸時代、菜種油などを入れて灯した陶器を指していましたが、庶民は、安価で簡単に作れる「たんころりん」を使っていました。形がひょうたんに似ているので”ひょうたんころりん”、それが短縮されて”たんころりん”、単に”たんころ”とも言うそうです。その昔ながらの灯りを、足助の町の人々は、とても大切にされておられるのですね・・・。そして、この日は、「たんころりん」に合わせて、様々なイベントも行われていましたよ☆ 足助の昔話を朗読して下さった、葵真弓さん。あまりにも優雅で、美しい優しいお声で読んで下さっていたので、女性の私でも、思わず頭がボ~っとなってしまいました。 バイオリンとチェロの雅な音色も、たんころりんの灯りを、より一層、引き立てていましたよ!そのほかにも、虚無僧姿で尺八を演奏された人や、落語、三味線、ギター、一人芝居など、ありとあらゆるパフォーマンスが見れて、なかなか面白かったです!これらを楽しんでいるうちに・・・いよいよ、日が暮れて、たんころりんの灯りが暗闇の町に映えてきました。 この微妙な灯りを、カメラに収めるのは、至難の業だったのですが・・・(大概は、火の玉のように、ぴゅ~と光が延びてしまうんです・・・恐いよ~!)幸い、数枚の写真を上手く撮ることが出来ました・・・。実は、私・・・あすけのたかきさんから購入した、たんころりんのオリジナルTシャツを着ていたので・・・あちこちで、足助の町の方が、「いいTシャツ着てるね!」「何処で買ったの?」と、声を掛けて下さって、嬉しかった反面、ちょっぴり恥ずかしかったですね~♪でも、Tシャツのお陰で、町の方ともいいコミュニケーションがとれて、とても楽しい思い出になりました~☆また、たんころりんに合わせて、こんな楽しいお菓子も置いてありましたよ~! あわゆきのような、卵白で出来たお菓子に卵をまいたもので、ふわふわでとっても美味しかったです☆ 最後に・・・レストラン「参州楼」のライトアップも綺麗でした・・・。お盆の時期にも、また、たんころりんのイベントをやるそうですので、見逃してしまった方は、是非、足を運んでみてくださいね!幻想的な灯りと、気さくで優しい足助の人々に、きっと癒されるはずです・・・。
2005年06月21日
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6月が水無月なんて・・・誰が決めたのだろう?無常にも、雨は降り続く・・・ しかし・・・土砂降りの雨の中でも紫陽花の花びらは、決して、ぼろぼろに打ちひしがれることはないいや・・・むしろ、強い雨に打たれれば打たれるほど君は、その色を変えながら、より美しく咲こうとする・・・そんな紫陽花の花を、私は、こよなく愛している・・・形原温泉 あじさいの里にて・・・
2005年06月17日
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皆さん、こんにちわ☆またまた更新が遅くなってしまいまして、すみません・・・。万博レポにも、飽きてこられた方がおられるかと思いますが、これで最終回にします。今回は、ヨーロッパ、アフリカ、東南アジア編です。冷凍マンモスの感動も冷めやらぬうちに、次は、グローバルコモン3(ヨーロッパ)に向かいました。 わお!ユーロピアンモダンデザインが光る、グローバルコモン3・・・右がイタリア館で、左のバラがブルガリア、その奥の蜂の巣みたいなのがスペインでしょ?(だけど、このオッサン、どうにかならんかね・・・。) ブルガリア館の前で民族衣装を身に纏い、民族楽器を弾いている人・・・。しっかし・・・ブルガリア館のヨーグルトは、やっぱり本場なのかスゴイ人気だったけど、ブルガリアは、他にも、バラの栽培でも有名なのだそうな・・・。それと、あのボスニア・ヘルツェコビナもパビリオンを出していたのには、驚いたよ・・・。戦後最悪の紛争があったとされるあの国も、1995年、やっと戦闘が終了したそうだけど、やっぱり、痛々しいイメージからは抜けきれない。でも、本当は、スイスのような山河と高原の風景が美しい国なんだね・・・。あんまりにも綺麗だったから・・・絵はがきセットを買っていこう。(一日も早い復興を祈ってるよ!)はあ・・・万博会場は広すぎるから、歩きすぎて疲れたな・・・。このへんで、一休みするか~!と、入ったのは、グローバルコモン4(ヨーロッパ)「長寿と健康」がテーマのコーカサス共同館。コーカサスとは、元ソビエト連邦に属していたアゼルバイジャン共和国、アルメニア共和国、グルジアの地方を指すんだけど、中近東の文化と東ヨーロッパの文化が入り混じったような感じかな?世界でも有数の長寿国らしいけど、う~ん・・・ホントのところはどうなんだか・・・?でも、ここのレストランは、意外と空いてるし、ビーフケバブとか、ヨーグルトとかめっちゃ美味しい!ブルガリアで並ぶくらいなら、こっちのヨーグルト食べた方が絶対いいよ! (カキ氷ののれんが日本的?)あと、北欧共同館(アイスランド共和国、スウェーデン王国、デンマーク王国、ノルウェー王国、フィンランド共和国 )のレストランも美味しそうだった~♪ チーズセットとか、ちょっとしたお菓子とか、ディスプレーを見てるだけでも食欲そそられる~!うん・・・今度来た時は、ここで食べよ~っと!お次は、グローバルコモン5のアフリカ~!エジプトなんて、外観だけでもカッコよくないですか~? (でも、すごい人で、入れなかった~!!考古マニアの私としては、至極残念!!) アフリカ共同館の怪しげなアフリカンアートの店・・・。思わず、マンガ『動物のお医者さん』を思い出してしまったのは、私だけ・・・?ああ・・・残念だけど、もう時間が無い~!!バスの発車時刻が迫ってきている~!それにお土産も買わねばならんし・・・。(でも、時間の限り、頑張るぞ!)最後に、ざっと回ったのは、グローバルコモン6のオセアニア、東南アジアエリア。 このパビリオンは、世界一の超金持ち国、ブルネイ・ダルサラーム国ね!インドネシアのボルネオ島のほんの端っこにある、三重県くらいの小さな国なんだけど、石油資源が豊富で、税金も医療も学費も無料なんだって!(税金地獄の日本としては、羨ましい話っす・・・)でも、その割には、パビリオンはたいしたこと無かったな・・・。最後のおまけは・・・読んでくださった皆さんへ感謝の意味をこめて! ベトナム館の華、スタイル抜群アオザイ美女で締めくくり~!しっかし・・・その後が地獄だったなあ・・・公式グッズのお店で買い物をするだけで1時間だよ・・・いくら、姪っ子の為とはいえ・・・あやうく、バスに乗り遅れるところだったわ・・・ふ~!メチャクチャ疲れたけど、でも、まだ人気の韓国館、ロシア館、ギリシャも見てないし・・・それにシンガポールでスコールも浴びたかった~!(コレに懲りず、また行くじょ~!)BLOGランキング
2005年06月14日
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皆様、こんばんわ☆ ぷーたろです。今回も懲りずにやります!愛・地球博レポ第三弾、外国館世界一周の旅。お次は、北・中南米エリアのグローバルコモン2へ向かいました!アメリカのようなメキシコのような・・・ちょっとしたウェスタンな雰囲気が、何だか、ディズニーランドっぽくないですか~?まあ、そんなことよりも・・・おなか空いてきたなぁ・・・。せっかく万博に来たんだもん、外国の珍しい食べ物が食べたいよなあ・・・。とりあえずは、メキシコ館に入って探してみようか? おおっ!!すごいよ~!これは・・・。アジアの民族色溢れるパビリオンとは一味違って、暗闇の中に、色鮮やかな南国のムードが溢れてる!思わず、夢中になってシャッターを切ってると、メキシコ人のコンパニオンに英語で「撮影してもいいが、フラッシュは焚かないで!」と注意されてしまいました・・・。そうだよね・・・この雰囲気が台無しになってしまうもんね・・・ごめんなさい!(でも、このパビリオンはお勧めだよ~!素晴らしい!)でも、メキシコ館のレストランも、タコスとかチリっぽい料理が美味しそうだったけど、行列がすごくて・・・ダメだ・・・諦めよう・・・。次!キューバはどうだろう? わお!このバー、ブルーの壁に、この殺風景さがキューバっぽい!かっこいい~!カストロの写真も飾ってあったりして、ホントにキューバに来たみたいだ!・・・なんて、感心してる場合じゃなかった・・・。ここ、食べ物置いてなさそうだね・・・。何処もかしこも込んでいて、食べられるトコ・・・意外と少ないね・・・。これじゃ、食糧難民になりそうだよ。と、そこに見えたのが、ウェスタンカントリー風のファーストフード店。 仕方ない・・・ここまで来てアメリカの食べ物食べるなんて屈辱だけど、何処も満杯だし、この辺で手を打っておくか・・・。 で、食べたのがコレ!実を言うと、アメリカっぽい食べ物すら、あんまりなかったのよ・・・。ああ・・・万博でステーキカレーなんて・・・ちょっと悲しいかも?でも、おなか空いて疲れてるから、意外と美味しかったりして・・・。しかし・・・その後入ったドミニカ館で、なんと、400円でチリドックが売ってるじゃないの!え~!カレーの3分の一の値段だよ~!こういうのを、あちこちでチョこまかと、食べたかったのよ~!それに、皆が食べてるマンゴーアイスの美味しそうなこと・・・せめて・・・アルゼンチン館のカムカムジュースでも飲んで、アンデスの気分に浸ろう・・・。 ビタミンはアセロラの2倍!でも、全然酸っぱくないよ!(万博での日焼けも、これで大丈夫ね!)全体的に、中南米館で言える事は、外国人のスタッフのサービスのよさかな?とにかく、笑顔が一杯で、明るい!それだけで、こっちまで陽気な気分になっちゃうよね☆さてさて・・・そろそろマンモスの時間かな?グローバルハウスのブルーホールに向かうと、冷凍マンモスを見る前に、まず、ソニーが開発した縦10メートル横50メートルという巨大スクリーンの映像を見せてもらえるんだね~。でも、どっちかというと、映像の内容よりも、このスクリーンを開発したソニーの技術力を訴えたいみたいで・・・。確かに、この大きさで600万画素のクリアーな画像は、素晴らしかったよ・・・。でも・・・映像を専門にお仕事されているアーティストのぶんさださんがおっしゃるように、映像が細かく美しくなるほど、その映像を作っておられる方々の手間隙も、これまた、ものすごい大変なものになっていくんだろうね・・・。(ホント・・・お疲れ様でございます・・・)肝心の冷凍マンモスは・・・というと・・・残念な事に、撮影禁止だって・・・!!は~、ちょっとショック・・・ロシア館のマンモスの骨は撮影しても良いというのに・・・。でも、数億年の時を経て出会えた冷凍マンモス君・・・頭部だけだったけど・・・形もしっかりしていたし、何より、目がとっても優しかったね。たった一分程度の出会いだったけど、でも・・・君の事は、一生忘れないよ・・・。この目に、しっかりと焼き付けておくから・・・。さようなら・・・。Blogランキングと、いうわけで、次回はいよいよ最終回ヨーロッパ、アフリカ、東南アジアです。どうぞ、よろしく!
2005年06月08日
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皆さん、こんにちわ☆なんだか、最近、パッとしない天気が続きますね・・・。もう・・・入梅なのかな・・・?それに・・写真コンクールに落ちてしまったし・・・。(う~ん、分かってはいたんだけどね~。ちょっとショックかな?)でも、ま、いっか!その代わり、最近は、果物を戴くことが多いし、いいことも悪い事もプラスマイナスだ!(やっぱり、田舎は、差し入れが多くて、いいさ~!)みかんや瓜を食べて、また頑張ろう!ま、そんなことより・・・この間の万博レポの続きです~!ナンダカンダあったけど、とりあえず、冷凍マンモスが見られるグローバルハウスの整理券を入手することが出来たので、次は、外国館を見に行く事にしました~!まずは、グローバルコモン1(アジア)から見て回ろう~! うわ~!なんだか、若者が一杯で、カジュアルな感じだ~!まずは、一番手前にあったインド館に入ってみよう!建物の中に入る前から、なんだか、白檀のような・・・オリエンタルなお香の香りが漂ってくるよ~。ムード満点だ~!一階はインドの香辛料や服装など、インドの歴史・文化を表す物を展示してあるけど、それ以上に2階がすごい・・・!インドのシルクスカーフ1枚500円、宝石類、香辛料などが売っているバザールが何軒も軒を連ねていて、インドの人が呼び込みをしている・・・こりゃ、怪しげな異国情緒の雰囲気バッチリだ~!その次に入ったのが、ヒマラヤ山脈の麓にある国、ネパール館だ~! このネパール特有の木造彫刻の建物は、本当にスゴイよ!よく見ると、一つ一つの細工が、ものすご~く細かいんだ~!(写真をクリックすると拡大できるよ!)ネパールに行かなければ、とても見られないような素晴らしい彫刻が、まさかここで見られるなんて・・・!もう、むっちゃ感動ですわ~☆お次は、ブータン王国だよ!ブータン王国は、ネパールの隣にある、とても小さな平和な国で、最近まで鎖国政策を採っていた事でも知られているよ!人々の顔も、風景も・・・どことなく昔の日本を思わせる、とても親しみを感じる国だね・・・。ブータンのような小さな国が・・・ここまで素晴らしい展示品を持ってくるとは・・・なんだか、スゴイ意外だったよ・・・!ブータンの万博にかける意気込みが伝わってくるようだね・・・。それに、真面目な国民性が出てるんだろうな・・・。インド・ネパール・ブータンに共通するのは、オリエンタルなお香の匂い・・・かな?ああ・・・スリランカもそうだったね・・・。インドはヒンズー文化だけど、スリランカやネパール、ブータンは、やっぱり仏教国なんだね・・・。悟りを開いた仏陀の肖像が飾ってあるのも、印象的だったよ・・・。 モンゴル館では、ホーミーの実演をNHKが実況生中継していたよ。 うい~ん、うい~ん・・・と、まるで楽器のような不思議な喉笛・・・どうやって、こんな声出せるんだろうね?次は、中国館だよ!何となくシンプルだけど、よく見ると、壁に、秦の始皇帝のお墓を守ったという兵馬傭が描かれていたり、歴史的な名品が展示されていたり、結構、手が込んでいるんだよ! きっと、中国の古い歴史と、急激に発展する現代を象徴するようなデザインなのかもしれないね・・・。今日の最後は、中近東のカタール館だ~!やっぱり、石油産油国は違うね~!お金持ちだ~!!来館者一人一人に、モリゾーとキッコロ、そして、カタールの切手の2枚を配っていたよ!それに、民族衣装を身に纏った男性が、ウードという、リュートのような楽器を演奏していたよ・・・。 ウードは、ヨーロッパのリュートや中国や日本の琵琶の原型となった楽器とも言われているね・・・。でも、音色は琵琶とはちょっと違って、シルクロードを思わせるような音階が素敵だったよ♪(後の、会議のような映像は・・・一体なに!?)あ~、それにしても・・・おなか空いてきた・・・レストランはどこも一杯だし・・・ちゃんと、食べ物にありつけるんだろうか? BLOGランキング
2005年06月03日
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皆様、こんばんわ☆たまにしか書かなくて、いつもすみません・・・。この間、あるある探検隊・・・じゃなくて、TVの『あるある大辞典』を見て、肩こりの取れる体操をしていたら、逆に、背中の筋を痛めてしまいました・・・ぷーたろです・・・。いや・・・こんなことが書きたいんじゃなくて・・・実は、この間の土曜日、やっと、念願だった、愛知県で開催中の、万国博覧会『愛・地球博』に行ってきたんです~♪行く前から、もう浮き足立っちゃって・・・何着ていこうかな~?なんて、まるで、小学生が遠足に行く前みたいにワクワク・ドキドキ・・・。でも、その準備が結構大変だったんだな・・・これが・・・。何が大変かって・・・?まず、チケットを手に入れること!(当日でもいいんだけど、やっぱり、少しでも時間を無駄にしたくないもんね!それに、パビリオンの予約も、チケットの番号がないとダメなんだ・・・)愛知県内だったら、ジャスコなどのショッピングセンターでも手に入るけど、意外と、売れきれだったりして、普通で買おうと思ったら、結構、手間隙かかる・・・。インターネットのサイトからは、JTBなどのメジャーな旅行会社から入手する手があるけど、JTBや近畿日本も売れきれ・・・!結局、楽天トラベルから買う破目になってしまいました・・・。(でも、楽天トラベル・・・おすすめだよ~!チケット申し込みから発送までの状況が、チェックできるしね~!安心だった!)無事、チケットも到着し、さあ、企業パビリオンの予約じゃ~!!と意気込んで愛・地球博の公式サイトを見てみると・・・あらあら。。。もうお仕舞い?(なんでも・・・後から聞いた話によると、1か月前、一番にアクセスしても、タイミング一つ狂うとダメなんだってね・・・)まあしょうがないよ・・・当日、何とかなるべ・・・。っていうことで、28日、地元から出発しているシャトルバスで万博会場に向かいました! (これが、シャトルバスだ~!!この日は全国各地から900台が到着したとか?)話題のリニモには乗れないけど、乗り換え無しで会場直行してくれるし・・・ラクラクじゃ!(体力は温存しておかないとね!)バスは、9時ちょっとすぎ、東ターミナルに到着!幸い、東ゲートは空いてて、時間を待たずに、ラクラク入場! しっかし・・・手荷物検査の厳しさは空港並みだったね・・・。うん・・・ここまでは、スムーズに来られた!!しっかし・・・ここからが大変!会場まで、延々と続くループを歩いていかねばならないんだな・・・。 (ちょっと、長すぎ・・・っちゅーの・・・)ふと下を見ると・・・メインの北ゲートが見える・・・。 げっ!!すごい行列だよ・・・。これじゃ、入場も時間もかかるだろうな・・・。トヨタなどの人気パビリオンは・・・というと・・・こちらも既にものすごい行列!二時間待ちだって・・・。悪いけど、時間を有効に使いたいし、そんなに待っていられないよ!とりあえず、冷凍マンモスが展示してあるという、グローバルハウスに向かってみるか!しっかし・・・歩けど歩けど、迂回ばかりさせられて、グローバルハウスに着かないよ~! (こんな看板ばっかり・・・一体、どうなってるんじゃ?)あ~!あったあった・・・グローバルハウスだ!ようやく着いたよ~!500メートル以上は歩かされたよ・・・! やっと、12時40分からの整理券をもらうことが出来たけど・・・あれあれ?この整理券、ブルーホールの方・・・?(冷凍マンモスを見るには、ブルーとオレンジの2つのルートがあるのだ~!)私が欲しいのは、ブルーじゃなくてオレンジホールの方!!オレンジホールには、奈良時代、遣唐使として阿倍仲麻呂と共に中国に渡った「井真成」の石碑があるんだよ~!!これが見たかったんだよ~!!・・・と、係員に詰め寄ると、ブルーかオレンジかは選べないのだと言う・・・。整理券を配る時間帯で決まるのだとか・・・!?それならそうと、ちゃんと書いておいてくれよ~!!(あ~!やっぱり、こういう所が、お役所仕事なんだよな・・・。)Blogランキング万博見物は、すでに波乱の予感・・・?(・・・っていうことで、続きは次回へ!)
2005年05月31日
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皆さん、こんにちわ☆この間の、潮干狩り・・・果たして、これはリベンジ成功だったのかどうか・・・1,300円の元が取れず、やっぱりアサリに敗北してしまったのではないかと、自問自答の中でもんもんとしてましたが、皆様からの暖かいコメントに気を取り直し、まあ、今回は中身も入っていた事だし、楽しかったし、美味しかったし、記事のネタにもなったし・・・何より、自分で食糧を採るという、自分の中の縄文魂に火が付いた!ってことを認識できただけでも、大成功と言えるんじゃないかな~と・・・♪思えるようになりました☆ホント、感謝感謝です!そして、海鮮チゲも、割と好評みたいで・・・嬉しいですね♪実は、コレ・・・大阪のコリアタウン『鶴橋』のキムチ屋さんのおじさんから教わった、と~っても本格的はチゲだから、と~っても美味しいんだよ☆でも、作り方は簡単!!誰でも作れるから、よかったら試してみてね☆それでは、『本場のチゲのレシピ』です!1.暖めたグリルパンに、ごま油をひき、半分に輪切りにした玉ねぎを炒める。2.豚肉を加え、さらに炒める。3.水800ccくらいを加え、和風だしの素少量、キムチ300グラムくらい、韓味ジャン大さじ2(桃屋やエバラのキムチの素でもOK。その場合、瓶の半分くらい)で味付け。4.もやし、きのこ、アサリ、豆腐を加え、よく煮詰める。5.最後に、ネギを加えて、ひと煮立ちさせたら出来上がり~♪たった、これだけ~☆拍子抜けするくらい、めっちゃ、簡単でしょ?キムチはスーパーのものを使っても美味しく出来るけど、やっぱり、本場のものを使うと全然違うよ~!多分、韓国のチゲとひけを取らないくらい、すごく美味しくなると思うよ!至高の白菜キムチ 姿 1kgあと、味の決め手は、キムチの素の韓味ジャンキムチの素 [110g]やわらかペーストが使いやすいキムチ調味料これで、韓国のチゲがお家で再現できるよ!頑張って作ってみてね☆マメ知識・・・大阪のコリアタウン・鶴橋は、大阪市東部(河内方面)にある、 本場の食材と韓国用品が入ると人気の町なんだね! もともとは、『日本書紀』にも「鶴の橋」という地名が登場し、 聖徳太子の時代には、朝鮮半島の国・百済からの移民が 大勢住んでいたというから コリアタウンとしても、古くからの歴史があったんだ・・・。 今の商店街が出来たのは、戦後・・・50年以上前かな? 今でも、その頃の雰囲気を残す、ノスタルジーたっぷりの街だけど いろいろ大変な時期もあったと思う・・・。 でも、最近は、韓国ブームも手伝って、横浜の中華街のような 美味しい楽しい街になってきてるよ! Blogランキングプチ韓国旅行気分が味わえるよ♪
2005年05月27日
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皆さん、こんにちわ☆三河湾に面する愛知に移り住んだ私には、とある一つの目標がありました。それは、「アサリ採りの名人になること!!」なんです!なんだそれ・・・?と、思われた方もおいででしょうが、実は、15年ほど前に・・・アサリ採りに出かけた時の事です・・・喜び勇んで、一日中、アサリ採りに夢中になっていた私。しかし・・・採れたのは、なんと!中身が空っぽの砂だけしか入っていないアサリの死骸だったのです・・・あまりのショックに、それ以来、アサリ採りを止めていましたがしか~し!あの時の恨みを晴らさんが如く、もう一度、挑戦してやろうじゃん!・・・ということで、この間の日曜日は、潮干狩りに行ってきました!潮干狩りには、海の潮が引いた、干潮の時間を狙っていかなければなりません・・・。三河湾の潮干狩り情報こちらのHPを参考に、干潮の時間を調べました。潮干狩りに使うクマデや潮干狩り入場券は、三河湾沿いのサークルKで扱っているので、そこで揃えられます。(さすがは、地元密着型のコンビニだ~!)入場料は、大人一人1,300円!この日にお天気は、あいにく、どんよりした曇り空で、今にも雨が降りそう・・・、でも、強烈な太陽の光が苦手な「日光アレルギー」の私にとっては、絶好の潮干狩り日和!多少の雨には負けないぞ~と、張り切って行って見ると・・・いや~!スゴイ人だ・・・ 対岸のウサギ島まで潮が引いていて、そっち側まで人がびっしりだ~!アサリ・・・採り尽くされてないかな・・・? おおっ!このおじさん、すごい精力的にアサリ採ってるよ~!(入場料と引き換えにもらえるこの袋一杯まで、アサリを採っていいんだね!) カシカシ・・・とクマデを動かしていると・・・おおっ!あったよ!!でっかいアサリだ~!今度こそ、中身が入ってるといいね!こうなってくると、クマデを動かす手にも、俄然、力が入る・・・小雨が降ろうが、槍が降ろうが、そんなのも気にせず、夢中になってしまったけど周りの人みたいに、うまくは採れないなあ・・・だんだん、集中力もなくなってくるし、腰も痛くなってくる・・・そうこうしているうちに、どんどん海の水が迫ってくるし、雨も本降りになってきた。今日は、このへんにしといたるか・・・。 と・・・言うわけで、今日の収穫です!(入場料の元は、取れてへんやろな・・・)一晩かけて、アサリの砂を吐かせます。でも、砂だけじゃなくて、小さなカニさんも吐いてたよ・・・。 翌日のメニューは、アサリをたっぷり使った、海鮮チゲ!これが、スープも濃厚で、身がコリコリと弾力があって、むちゃくちゃ美味かったんだ~!しかし・・・忘れてたけど、今回のアサリ採り・・・果たして、リベンジになったんだろうか?中身が入ってると言う点は克復されたけど・・・なんか、釈然としないなあ・・・まあ、教訓としては「アサリは、採ってくるより、買った方が安い・・・!」コレは、間違いなく言えるね・・・Blogランキング(けど、やっぱ、楽しいし、すご~く美味しいわ~♪)
2005年05月25日
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皆さん、こんにちわ☆先日・・・奇妙な夢を見ました・・・。友人が、何故か、山陽新幹線のマイナーな駅、「相生(あいおい)」で待っている・・・と言うのです。(相生は、こちらの地図で!私は、何故か「いいよ~!それなら、姫路から車で迎えに行くよ!」と答えましたが、よく考えると、私は、今、姫路には住んでいません・・・今住んでいる愛知から、どうやって迎えに行こうか?やっぱり、新幹線で行ってから、レンタカーでも借りようか?などと、思い巡らしているうちに、猫に起こされて目が覚めました・・・。「何故・・・あんな駅で?何かの暗示?」と、しばらく不思議な感覚に包まれていましたが、姫路には、去年まで住んでいましたので・・・その頃の記憶が、ごちゃごちゃになって残っているのかもしれません・・・。実は、姫路を離れ、愛知に引っ越してくるちょっと前に、広島県の宮島に行ってきました。恐らく、もう・・・こんなに遠くまで来れる事はないだろう・・・という記念のつもりだったのかもしれません・・・。日本三景の一つと言われる安芸の宮島へは、山陽新幹線で広島まで行き、そこから在来線の山陽本線に乗り換え約20分・・・山口県の県境にも程近い場所に宮島口の駅があります。ここから、厳島神社のある宮島に渡るには、船で約10~15分程度でしょうか?値段も片道170円(往復340円)とバス並みの安さには、ビックリでした!うわ~!宮島が近づいてきました!山には、何だか、南国風の木が生えていて、まるでタヒチのようです・・・。いよいよ、赤い鳥居が見えてきました!これが、世界遺産として登録されている、厳島神社です。現在の厳島神社の社殿は、あの平清盛が建立したとされていますが、この場所に厳島神社が据えられたのは、推古天皇即位元年(593年)のこと・・・、佐伯鞍職によると伝えられています。きっと、太古の昔から、人々は、宮島に神聖な雰囲気を感じていたのでしょう・・・。平清盛が、厳島神社を信仰するようになったのも、京都から神戸の福原に遷都し、西国への進出の足がかりにしたかったからなのかもしれません。島に着くと、たくさんの鹿さんたちが、出迎えてくれます。ここの鹿さんは、とても懐っこくて、平和そうで・・・和みますね・・・。でっかいしゃもじです・・・。長さは、約7.7メートルあるそうです・・・。宮島に行かれた方なら、誰もがご存知でしょうが、ここの名物の一つは、しゃもじです。お土産屋さんの至る所に、「必勝」とか「努力」などと書かれたしゃもじが置いてあって、ちょっと引いてしまいますが、宮島杓子の由来というのが、 寛政の頃(1800年頃)、神泉寺の僧・誓真という人が、ある夜、弁財天の夢を見てその琵琶の形の美しい線から杓子を考察し、御山の神木を使って作ることを島の人々に教えたそうなんです。それで、宮島の人たちは、しゃもじの製作で生計が成り立つようになったのだと思いますが、このしゃもじは、ただの「しゃもじ」じゃなかったんですね・・・。山全体がご神体になっている厳島神社の、ありがた~い木を使った、ありがた~いおしゃもじなんですね・・・。また、宮島のもう一つの名産として、あなごめしがあります。ウナギみたいに、脂はのってないけど、さっぱりしていて、焼きたてはなかなか美味でしたよ!厳島神社の朱塗りの廊下です・・・。やっぱり美しいですね・・・。栄華を極めた平清盛の、高い美意識がよく表れています。また、ちょっとした展示品が飾ってある宝物殿には、平家納経のレプリカが収められていますが、金ぴかの用紙と、とてもゴージャスな絵の中にお経が描かれているのは、レプリカと言えど、一見の価値ありです!今思い出しても、とてもいい記念になりましたが、でも・・・もし、宮島にいかれる方は、日本三景や世界遺産だからといって、厳島神社に過度の期待をしてはいけないかもしれません・・・!Blogランキング(まあ・・・日本三景といわれる場所は、たいていそうですが・・・)
2005年05月20日
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皆さん、こんばんわ☆先日は、へんちくりんな日記を書いてしまったにもかかわらず数々の心温まるコメントを寄せてくださいまして、感謝の気持でいっぱいです♪ホントにありがとうございました!実を言うと、こんな事書いてしまったら・・・もしかして、嫌われちゃうんじゃないか・・・ってすごい不安もあったんですね。普段、あまり自分を出さない日記を書いているのでいきなり、心の奥底にある塊をぶつけてしまうのはとても勇気のいる事だったんですけどでも、今は、思い切って書いてみてよかったと思ってます。そして、戴いたアドバイスを読みながら、自分の中で消化していくうちに自分というものが、客観的に見えてきたような・・・そんな気がします。恐らく、私は、人から拒絶される事を極端に恐いと思う人間なのかもしれません。いつか皆が離れていくんじゃないか見放されるんじゃないか・・・そんな恐怖感がいつも付きまとっていてそれが、人を信じる心・・・ついては自分を信じる事に封をしていたのかもしれませんね・・・。でも・・・こんな不完全な自分をも、暖かく見守っていてくれて、心優しいメッセージを下さる人がいる・・・そのままでいいと言ってくれる人がいる・・・それだけで、もう、十分、癒されているのかもしれません。私の唯一の自慢は心優しい友人と仲間に恵まれていること!これだけは、自信を持って言える事が出来ます!ホントに、ありがとうね・・・☆今朝も、一週間の始まりを元気が出るように、朝ごはんをしっかり食べました!(でも、手抜きだけどね・・・野菜が足りないなあ・・・)今日、麩のみそ汁です・・・。(恐怖のみそ汁?)
2005年05月16日
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皆さん、こんばんわ☆真夜中に突然すみません・・・ウラぷーたろです・・・。一つ気になることが或って眠れない・・・それは・・・新聞によると、『中国の李肇星外相は歴史認識問題について、小泉純一郎首相が「おわびと反省」を表明したことを「評価したい」と言明。一方で「A級戦犯が祭られている靖国神社に参拝することは絶対ないようにしてほしい」と述べ、強い調子で首相の参拝中止を求めた。』ああ・・・誰か・・・ホントの事を教えてあげて・・・靖国神社にA級戦犯は、祀られてないってことを・・・A級戦犯が眠っているのは、愛知県幡豆郡三ヶ根山にある慰霊碑だってことを・・・はぁ・・・(ためいき)こんなこと言ったとしても、中国の態度は変わらないかな・・・。でも、ホント言うとね・・・そんな事よりも、一番気になるのは自分のこと・・・私は、自分という人間が一番嫌い・・・子供を生まないのも、多分・・・自分と同じような性質を受け継いだ人間に同じような思いをさせてしまうのが耐えられないからだと思う・・・こんなに辛い思いをするのは自分だけで十分だよ・・・Blogランキング
2005年05月12日
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皆さん、こんばんわ☆新緑の緑も目に眩しい今日この頃・・・私は、この間の土曜日、山登りに挑戦してきましたよ~!! さあ、この山に挑戦です!じつは、この山・・・私がこの間、車で登ってきた山なんですよ・・・。標高820メートルの山を、麓から登るのは大変そうだけど、でも、季節も良いし!今回は、あえて、自分の足で挑戦してみよういう気持ちになりました。 ここからが登山口(鳥居は本宮山の砥鹿神社奥宮)です!さあ、がんばるぞ!!標高820メートル程度の山だから・・・そんな大した事無いだろうと、ハイキング気分でペットボトルのお茶とカメラ、携帯程度しか持たずに登ったけれど・・・意外や意外!あまりのしんどさに息も絶え絶え・・・それに、何より・・・結構険しい岩が多いのにはビックリでした・・・!! ひえ~!!こんな崖っぷち、登れ・・・って言う訳~?帰りは大丈夫かなあ・・・? この辺の石畳は、和歌山県の熊野大社に通じる、熊野古道みたいな感じがするね!そういえば、熊野も本宮(ほんぐう)とかあるけれど・・・ここの本宮山と、何か関係あるのかな・・・?と、調べてみたところ、『砥鹿大菩薩縁起』によると、「奈良時代の、文武天皇大宝年中、天皇が御病気の時、「公宣」卿(社家草鹿砥氏の祖)が、参河國設楽郡煙巌山の勝岳仙人のもとに勅使として派遣されたが、道に迷い、本宮山に踏み入った。この時、砥鹿神が老翁の姿で出現し、助けたことにより、文武天皇の勅願により、本宮山麓に宮居を定めた。その時、清流に衣を流し、流れ着いた地に社殿を建てたという。」う~ん・・・あんまり関係ないか・・・。でも、他の文書で見てみましょう・・・。『足助八幡宮縁起』には、「当国寶飯郡大深山(本宮山)ト云山ニ、怪異者三ツ出来セリ、一ハ猿ノ形、一ハ鹿姿、一ハ鬼軆」つまり、猿は猿投大明神、鹿は砥鹿大菩薩、鬼は『熊野修験者』・・・ということなんだね・・・。やっぱり、熊野と少し関係があったんだ・・・!それに、修験者の山というだけあって、山の空気がとっても清浄な感じがする・・・。 とっても、いい眺めでしょう?よ~く目を凝らしてみると、雲の下あたりに、富士山が見えるんですよ!(お写真をクリックして、大写しにして見てみて!!)ここまで来ると、あとひと頑張り!!もうすぐ頂上です! やった~!!頂上の砥鹿神社奥宮に到着です♪ここまで来るのに、2時間半かかったよ! 砥鹿神社奥宮の御神木のクスノキです・・・。すごい神聖な雰囲気がします・・・。ここのマイナスイオンパワーをたくさん戴いて、帰ろう・・・。でも、日暮れまでに、たどり着くかな?途中の崖も、恐かったしな・・・足も、疲れてガクガクだ~!でも・・・不思議だね・・・山の不思議なパワーのお陰かな?鳥さんのさえずりを聴いたりして、のんびりと降りているうちに、足取りも軽くなってきて、なんと、2時間弱で麓までたどり着きいてしまいましたよ! さあ・・・最後のシメは、ここの温泉に浸かって、足の疲れを取って、さっぱりしていきましょう!この温泉は、町営の「本宮の湯」といいますが、600円の入湯料と格安で、とっても清潔できれいな施設ですよ!今は、まだまだ、筋肉痛が残っているけれど、でも、運動した後の心地よい疲労感が何とも言えず、気持いいんです!気持もスッキリして、ストレス解消にもってこいですよ~!!Blogランキング
2005年05月09日
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皆さん、こんばんわ☆ゴールデンウィークも、終盤になってきましたが、いかがおすごしでしたか~?先日は、わずか4日間の東京行きに対して、暖かいお言葉を戴きまして・・・ホントに感謝の気持でいっぱいです♪ありがとうございました~☆やっと昨日戻ってまいりましたが、東京では、ちょこっと友人と会っただけで、あとは何処にも遊びに行かず、学校で漢文学漬けの毎日でしたが、普段歴史ばかり勉強している私にとっては、やっぱり文学は縁遠いものでした・・・。(感受性がないんですわ~!)でも、授業では、テレサ・テンやフェイ・ウォンの歌を採り上げて下さったりして、とても楽しかったです。(中国では、昔の古典の詩も、現代風にアレンジして、ポップスっぽく歌われているんですよ~!日本ではありえないからね~。すごいビックリでしょ?)そして、皆さんの日記も、携帯のiモードから読ませて戴いていただいていましたよ~♪パソコンから読むのと違って、何だか、とても新鮮な感じがしちゃいました☆(アクセス履歴にiモードと書いてあったら、きっとそれは私かも・・・?)夜、寂しい時に・・・ふっと、楽天の仲間たちを思い出して開いてみると、皆さん、とてもいい文章を書かれていて・・・。とても人間性豊かな、心優しい人たちに囲まれている自分が、何だか嬉しくなって・・・明日も、勉強頑張ろう!!って、勇気が沸いてきました・・・。ホントに、ありがとうね・・・。ところで、せっかくですから、ここで、中国古い昔話の中でも、有名な逸話を一つ・・・。『邯鄲の夢(かんたんのゆめ)』紀元200年頃の中国の蜀(しょく)の国に盧生(ろせい)という青年がおりました。彼は、人生に迷いを感じ、楚の国羊飛山に住む賢者に人生とは何か、問うてみようと旅に出ます。途中、邯鄲(かんたん)の里へ着き、一見の宿屋に泊まります。その宿の女主人は、かつて仙人の法を使う人を泊めたときにそのお礼にと不思議な枕をもらいました。その枕を使って寝ると、夢によって悟りを開くというのです。女主人は盧生の素性や旅の目的などを聞くと、食事の用意が出来る間、しばしその枕を試してみるように勧めます。そこで盧生も、その枕を借りて一眠りすることにします。そこへ・・・楚の国の帝が位を盧生に譲るという勅使が、彼を起こしに来ました。盧生は勅使に促されて、天にも昇る心地で輿に乗って宮殿に赴き、王位につきます。そして、地位・名誉・財産を得て、美しい妻や5人の子供に囲まれ、大きな屋敷住み、50年にわたる波瀾万丈の人生を送ります・・・。と、その時、宿の女主人が粟の飯が炊けたと起こしに来ます。何と・・・これまでの彼の50年間過ごしてきた人生は、栗の飯が炊ける間のほんのわずかな時間に見た夢物語だったのです・・・。そして盧生は、人生何事も一炊の夢と悟り、不思議な枕に感謝しながら、自分の故郷である蜀の国へと帰っていくのでした。このお話は、能舞台でも演じられているので、ご存知の方も多いかもしれませんね・・・。実際、中国の人も、何故、日本人が、あんな小さな邯鄲の町を知っているのか?と不思議に思うほどなのだそうですから・・・特に、年配の方には馴染みのお話なのでしょう・・・。人生も、80年、100年という時代に入って来ましたが、晩年になって振り返ったとき・・・もしかしたら、この『邯鄲の夢』のように、自分の人生も、ほんの一瞬にしかすぎない、儚い夢のようなものだったな・・・と思えるようなものなのかもしれません・・・。もし・・・そうだったとしても、一歩一歩、積み重ねていく事を大切に・・・自分の人生を歩んでいきたいものですね・・・。
2005年05月06日
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皆さん、こんばんわ☆いよいよゴールデンウィークに入りましたが、いかがお過ごしですか?私の場合・・・せっかくだから、ちょっと遠出したいな・・・と思ってたけど高速道路は込んでるし・・・テーマパークなどの人の多いところは嫌なので本宮山という昔からの修験者の山に登って(・・・でも、車で登ったので修行してませんけど・・・)、温泉で汗を流して、さっぱりしてきました!私って、やっぱり・・・こういうふうに、のんびりと過ごすのが好きかも?でも、明日からは、東京に勉強しに行きます・・・と、言っても、怪しいセミナーとかそういう部類の勉強ではありませんから・・・!とりあえず、漢文学のお勉強・・・楽しんできます♪その間、コメントのお返事も、お休みになってしまって申し訳ないのですが、どうぞ、皆さんも、お体にお気をつけて、良いゴールデンウィークをお過ごしくださいね☆
2005年04月30日
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皆様、こんばんわ☆昨日の、尼崎の列車事故は、本当にすごかったですね・・・。時間が経ち、詳細が明らかになるにつれ、その衝撃のすさまじさが、心の中にじわじわと入り込んでくるような気がします。普通に電車に乗っているだけで、まさかこんな事故に遭うとは、夢にも思っていなかったでしょうに・・・本当に亡くなられた方には心からお悔み申し上げます。私も、関西に住んでいたことがあったので、この事故については、いろいろと思うところがありますが、それにしても、オーバーランのウソや、置石の言い訳には、あきれてしまいました・・・。(JR西日本は、事の重大さを実感しているのでしょうか?)このニュースに釘付けで、頭が思考停止状態にありますが、今日は、久々にデジカメについて書いてみようと思います。今回は、「ホワイトバランスを使いこなしてみよう!」というテーマでいきましょう。デジカメのモードを選択すると「ホワイトバランス」または「WB」という欄があるのを、デジカメユーザーの方々は、ご存知のことと思います。このホワイトバランスとは、『デジカメの基礎知識』によると「白い紙に晴天時の太陽があたっているとき、夕日があたっているとき、電球の灯りがあったっているときでは、それぞれの白が違うため、 白いものが白く写るように色の補正をおこなう機能」の事をいいます。太陽のマークは、晴天の日に屋外で自然な色に写ります・・・という意味で、曇りマークは、写真がグレーっぽく写ってしまいがちの曇りの日に使うと、少し明るい色合いが出ます。また、蛍光灯マークは、蛍光灯自体が青みが強いので、このモードでかなり温かみのある色合いになり、逆に、黄色っぽい電球が特徴の白熱灯(電球)では、青みをプラスして自然な色合いが出せるようになっています。このお写真は、室内を、フラッシュを焚かずに、温かみの出る蛍光灯モードで撮ってみました。(フラッシュを焚くと、真っ暗になってしまいますからね・・・私は、あまり使いませんが、焦点がボケやすいので、注意が必要です。)そして、その他にも、こんな面白い使い方も出来ます。 う~ん・・・ここはエーゲ海?思わず、「Wind is browing from the Asian~♪」と歌いたくなってしまいます。(これを知ってる人は、結構、年やな・・・)海を、白熱灯(電球)モードで撮ってみました!海の青さが強調されて、な~んかカッコいいでしょ?(プロが、沖縄とかの海を撮影する時は、たいがい、これを使ってるかもよ?)写真を撮ってみて、「あれ~?何か、イメージと違うな~?」と思ったら、このホワイトバランスを調節してみてくださいね☆今までとは、一味違う写真が撮れると思いますよ♪Blogランキング
2005年04月26日
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皆様、こんばんわ☆お元気でお過ごしでしょうか?私は、不甲斐無くも、風邪を引いてしまいました・・・!ここ数年、風邪と言う物に縁がなかったので、すっかり油断していたのかも・・・。ちょっと熱っぽいので、何かヘンなことを書いてしまうかもしれませんが、その時は、笑って受け流して下さいね!今回のテーマは、東海道五十三次を訪ねる旅!御油(ごゆ)~赤坂宿です。場所は、東名高速道路、音羽・蒲郡を降りて豊川方面に2キロ程向かったところ、電車でしたら、名古屋鉄道の名電赤坂駅か、もしくは御油駅になります。 詳しい地図は、ここをクリックしてくださいね!地図をご覧になるとお分かりかと思いますが、御油と赤坂は、松並木を挟んで、非常に近い位置にあります。その距離、16町(約1.7km)で、東海道で最も短い宿場町となっています。まず、御油(ごゆ)宿ですが、ここは、前回の日記でも書いた、桜並木のとても美しい場所でもありますが、地元の人以外、あまり知られていないような気がします・・・。(ホント・・・もったいないなあ・・・でも、人がいないほうが風情があっていいかも?)最初は、御油の、松並木資料館で、当時の宿場町の様子を調べる事にしましょう!今は、すっかり寂れてしまった御油ではありますが、当時は、大名行列のお殿様や後家来衆の宿泊所として使用された本陣・脇本陣や、一般の旅籠が63件もあったそうです。そこでは、飯盛女と呼ばれる女郎衆が大勢生活していたり、東海道の顔役でもあった「駿河屋源六」が、身寄りのない子供達を引き取って育て、体の弱い人に医者を世話するなど、人情味溢れる江戸の賑やかな宿場町の風情が漂っていたのだとか・・・。また、御油では、参勤交代のお殿様の荷物を運んだり、旅人達の駕籠や馬に乗せるために、人馬を無償で提供する、『助郷(すけごう)』の村にも指定されていました。農業で忙しい村の馬も、差し出さなくてはならなかったのですから、それはそれは、はた迷惑な制度だったと思いますね・・・。(それが、地域の農業を衰退させてしまった理由とも言われています・・・)資料館を出て、御油の宿場町をしばらく歩いていくと、松並木が現れます。う~ん・・・これこそ、東海道の風情満点です!この600メートルも続く松並木は、慶長9年(1604年)に植えられたもので、地元の人たちに大切に保存されてきたそうです。この「御油の松並木」にちなんだお話が、弥次さん、喜多さんでおなじみの、十辺舎一九著『東海道中膝栗毛』に出てきます。伊勢参りを目指した二人が、吉田宿(愛知県豊橋市)を通過し、夕闇も迫ってきた頃、喜多さんが、「夕べの宿は、中くらいだったから・・・今晩はあっしが先に赤坂まで行って、いい宿をとりやしょう!」と先に出かけていった。後を追いかけた弥次さんが、御油に差し掛かった頃、宿場の女に「この先の松並木には、悪いキツネが化かすから、ここにお泊りなされ。」と脅されるものの、喜多さんが待っているはずなのでと、誘いを断り、先を急いだ・・・。しかし、夕闇の松並木はさすがに恐く、キツネの話が頭を離れない・・・そして、喜多さんは、宿を取り、この松並木で弥次さんを待っていたところ、弥次さんは、恐さのあまり、喜多さんをキツネの化け物と間違えてしまった。そして、手拭いで喜多さんを縛りつけ、赤坂まで連れて行ったとか?(まあ、あんまり面白くもない話なんだけど・・・)そんな、逸話を思いながら歩くのも楽しいものです。この松並木を抜けると、赤坂宿です。御油に比べると、割と、昔ながらの建物が多く残っているような気がします。赤坂宿には、見張り番を置いた、見附がありました。東京の赤坂見附というと、銀座線と丸の内線の乗り換えが便利な場所ですが、ここも、もちろん、同じように見附があった場所だそうですよ。そして、お昼ごはんは、古い宿屋を改造した場所で、地元の主婦達が集って調理している、「愛燐(あいりん)」で、600円のたけのこ御飯定食を食べました~☆やっぱり、料理の鉄人も、家庭の主婦の味に負けた・・・というのが良くわかります。お惣菜ばっかりで、地味~だけど、一品一品に愛情がこもっていて、すご~く、おいしかったですよ♪また、赤坂宿には、江戸時代から続く旅籠「大橋屋」さんがあります。建物の内部は、昔ながらの風情そのままで・・・嬉しくなります。主に、東海道マニアの人たちが、泊まりに来られるとか?女将さんも、気さくな方で、地元の観光ポイントを親切に教えてくださいます。プチ江戸時代を味わいたい方に、ぜひお勧めの、御油・赤坂宿の旅・・・古刹も多く、しっとりと落ち着いて、いい風情ですよ!
2005年04月22日
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皆様、こんにちわ☆先日、大量の花が100円という超特価で売っていました。でも・・・それらは、ビニールの中にぎっちぎちに詰め込まれぺしゃんこに押しつぶされてしまっていました・・・。なんだか、可哀想になってしまったので、家に持ち帰ってあげると・・・花々たちは、すっかり、花としてのプライドを失ってしまったかのようにぐったりと萎れてしまっています・・・。彼らは、形が不ぞろいの・・・売り物にはならない、規格外の花でした・・・。「なんとか、頑張って持ってくれよ!」祈るような気持で、花を水揚げし、活けてあげると・・・次の日、自信を取り戻した花たちは、見事に、生き返ってくれました。 花も、人間と同じ・・・どんな規格外の、ぶっちゃいくな花でもちゃんと愛情をもって、活けてあげるとそれぞれが、自らの役割を発揮して、イキイキと輝き出すんです・・・そして、昨日、旧東海道・御油宿の桜並木で・・・散り行く桜を楽しんできました・・・。 普通でしたら、「ああ・・・見ごろを逃してしまった・・・」と思うところでしたが・・・昨日は、不思議と・・・散り行く桜に、満開とは、また別の味わいを見出し桜と気持を同調させるかのように夢中で、シャッターを切っていました・・・。すると、その時、一陣の風が吹き桜の枝が強く揺れ出しました・・・「こ・これは・・・ブレてしまったかも・・・」しかし・・・仕上がりは、意外なものでした・・・ 散り際の桜が、これほどの主張性を持っていたとは・・・これは、きっと・・・花の妖精のしわざに違いありません・・・。Blogランキング
2005年04月18日
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皆様、こんにちわ☆こちらでは、先週の土曜日あたりから桜の見ごろを迎え、もう葉桜になりつつありますが、皆様のところではいかがでしょうか? これからいよいよ、緑まぶしい、新緑の季節。今度は、どこに遊びに行こうかな・・・♪などと、悠長なことを考えながら、本や書類の山を整理していると、何やら下の方から、見覚えのある2冊が・・・「ん?これは・・・?図書館から借りた本?返却が9日?あ~っ!!期日がとっくに過ぎてる~!!」と、あわてて必要な箇所だけコピーして、図書館に謝りに・・・。(でも、全然、怒られなかったです・・・よかった・・・けど、ごめんなさい。)そんな感じで、春で、頭がボケっぱなし・・・ではありますが、先週は、名古屋城へ桜を見に行ってまいりました! う~ん!満開の桜とお城が、見事にマッチしています・・・が、あ・あれ?お城の上に、金のシャチホコが乗っていな~い!!(見えにくい方は、写真をクリックしてみてください。)「あり~?どこいったんだろ~?」と、あたりを探してみると、ありました~!! でも、これは、名古屋城の中に展示してあったレプリカ!ホンモノは、こちらの中に! 実は、今、名古屋城では、『新世紀・名古屋城博』なるものを開催しておりまして、この金のドームの中に、金シャチが納められておりました~。(残念ながら、撮影禁止でした・・・)この名古屋城博では、な~んと!金のシャチホコに直に触ることも出来るんですよ~!え?別に触りたくない?そんな失礼な!シャチホコは、名古屋人の心!魂!シンボルそのものなんですよ~!(現に、金シャチに触るのに、30分待ちの状態だったんですから~!)名古屋城は、1600年(関が原合戦の年ですね!)、当時、まだ勢力の強かった豊臣家の大阪城に対抗する前線基地として、徳川家康により、織田信長の生誕地・那古野城跡に建てられたものです。家康の権力で建てられたものですから、それはそれは、豪華絢爛!金のふすまに、見事な天井画の数々でありましたけど、せっかくですから、今回は、金シャチを中心にやっていきましょう!金のシャチホコは、今でこそ名古屋名物になっていますが、シャチホコがあるお城は、名古屋城だけではありません!大阪城もそうですし、その他、彦根城、会津城なども乗ってますね!でも、日本で一番最初に、シャチホコを乗せたのは、滋賀県にある、織田信長の安土城だと言われています。そして、そのシャチホコの原型とされるのは、中国の伝説上の海獣・鴟尾(シビ)であります。それは、お寺の屋根の両脇に、大きく反り返ったシッポのような形のもので、それが日本の飛鳥時代に伝わって、主に、飛鳥寺、法隆寺、唐招提寺、東大寺、薬師寺の屋根に使われていました。鴟尾は、火事がなによりも恐れられていた時代、水を現す守り神として、乗せられていたのでしょう。名古屋の金のシャチホコは、上質の金を使って作られ、金銭的には現代のお金に換算すると約4億円ですが、当時の生活レベルを考えると、それ以上の価値はあったものと思われます。そんな金シャチですから、江戸の享保の改革など、財政的に苦しい時代、シャチホコのウロコを売っては、藩の財政を助けていたとか・・・?(それで、「尾張名古屋は、城で持つ」って言われてたのね!)そして、そんな価値の高いものが、屋根の上に野ざらしになっているのですから、大凧に乗って、屋根まで登り、金のウロコを盗もうとした大バカ者もいたようです。(もちろん!大失敗!風にあおられ、凧の紐ごと金シャチに撒きつけられたらしいよ・・・。)その後、版籍奉還で時代は明治になり、城の取り壊し、金シャチは鋳つぶしにされ政府に献上・・・という危機に直面します!でも、名古屋城の文化的価値を認めてくれた、ドイツの公使・プラントさんの提言によって、かろうじて、名古屋城も金シャチも生き残ることが出来たのです。そして、ウイーン万博などに出品されるために海外を飛び回り・・・明治11年にようやく古巣の名古屋城の屋根に戻ってきました。しかし・・・ここまで人々に愛され、大事にされてきた金シャチも、昭和20年5月14日の大空襲で、城ごと炎上し、333年の歴史に幕を閉じる事になりました・・・。(くそ~!!アメリカのやつ~!!)その文化的損失は計り知れないものがあり、今残っていたら、間違いなく、姫路城と一緒に世界遺産に登録されたと思いますが、金の襖などは前もって非難させておいたので・・・それだけが救いだったかもしれません。現在の名古屋城は、昭和34年完成したもので、再び造られた金シャチは、名古屋の人々に、盛大なパレードをもって迎えられました・・・。如何に、金シャチが名古屋人の心そのものであったか・・・しみじみと感じさせられる出来事ですよね!名古屋城博に行くと、金シャチの波乱万丈の歴史が、詳しく説明されています。金シャチドームに一歩足を踏み入れると、あなたも、いつのまにか金シャチのとりこに・・・。元気ハツラツ名古屋人の仲間入りが出来るかも?Blogランキング
2005年04月15日
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皆様、こんにちわ☆先日、万博よりもはるかに賑わっている中部国際空港「セントレア」のお土産を頂きました。その名も・・・謎の旅人 フーおじゃる丸のような・・・ちちんぷいぷい(知ってる人は知っている)のような・・・なんとも言えない、不思議なキャラです・・・。ちなみに、携帯に付けてみました。・・・少々、大きすぎたようです・・・。彼は、どこへ旅立とうとしているのでしょうか・・・?そういえば、先日、某番組で、「自分探しの旅」というのを特集していましたね・・・。いわゆる、自分では気がつかない、深層心理に眠っている本当の姿をさぐるというものでしたが、どうも・・・あの番組の信憑性について、最近、疑わしいものばかりのような気がします。自分を知りたいのであれば、もっと手っ取り早い方法があると聞きます。それは、あなたの嫌いな人が・・・実は、あなたの最もいやな部分を反映している・・・ということらしいです。やたら男性に色目を使う女性が嫌い・・・と思う人お金や権力になびく人に、嫌悪感をもよおすという人は・・・もしかしたら、その人自身の中に、そういう部分があるのかもしれません・・・。そんなはずはない・・・と思いたいですが・・・本当の自分を認めるということは、かなり勇気がいることなのかもしれませんね・・・。ちなみに・・・私は、中野美奈子アナと、南野陽子さんが、あまり好きではありません・・・。(ああっ!、殴らないで下さい・・・)日記プログランキング
2005年04月12日
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皆様、こんにちわ☆この間、髪を切ったら、シャギーを入れられすぎて、髪がバリバリ・・・。ちょっとブルーになってましたけど・・・昨日、へナを塗ってみたら、見事、髪が復活!今日は、久々、気分がいいので、歴史日記でも書いてみよっかな~♪と思います。(愛知から、一足飛びに、東京だ~い!)********************************************東京にお住まいの皆様、お待たせしました。今回は、『江戸城』をテーマにお送りします☆現在、天皇・皇后両陛下が住んでおられる皇居・・・これ、昔は、江戸城として、将軍の住まい、兼、政治を行う場所に使われていたことは、説明するまでもないかと思います。あの江戸城・・・テレビ時代劇の『暴れん坊将軍』では、白亜のお城が大写しになってますけど、あれは、うそですから~。テレビで写っているのは、現在の姫路城でして・・・本物の江戸城は、熊本城や松本城のように真っ黒いお城だったそうですね~。明治初期に、本丸御殿などが壊されて、江戸城としての面影が薄れてしまいましたけど、それでも、所々に、昔の面影を見つけることが出来るんですよ☆これは、地下鉄東西線・竹橋駅近く、毎日新聞社前にそびえる平河門です。こういうのを見ると、ちょっとイメージすることが出来るでしょ?江戸にはじめてお城が造られたのは、長禄元年(1457)のこと、扇谷上杉持朝の命で同家の執事太田道灌(中国の諸葛孔明のような人です。)が建造したそうです。もちろん、今のようは立派な堀も石垣もありません。その頃の江戸は、家もまばらで、100件程度しかない、はっきり言って、ど田舎もいいとこでした・・・。家康が江戸に入ったのは1590年・・・当時、関東に拠点を置いていた北条氏を倒した豊臣秀吉は、家康に江戸城を譲り渡した訳です・・・ど田舎に追いやるという意味もあったかもしれません。しかし、家康が天下を治めるようになると、立派な江戸城を立てるべく、伊予(愛媛)の大名・藤堂高虎に設計を任命し、各地方の大名に、江戸城の工事を要請します。まずは、土台となる石垣です。。。これは、主に西日本の大名が担当しました。平河門の石を見てくださると分かると思いますが、これだけ大量の大きな石を、一体何処から?そして、それを当時の技術と輸送手段で、よくここまで運んできたな~と思いませんか?江戸城の石垣の中でも、大きな物は、伊豆の東海岸あたりから、船で運んできた物が多いのだそうです。大滝・七滝あたりの山中から切り出された石を、山の斜面をすべり落とすようにして運ぶ際、石につぶされて亡くなった人も大勢いたと聞きます・・・。あの江戸城の石垣には、そんな人たちの犠牲が礎になっていることを・・・当時の大名、又、将軍達は知っているのでしょうか・・・?それを思うと、何とも複雑な気持ちになりますね・・・。こうした民衆の血と汗と、外様大名の財産の上に成り立った江戸城は、1636年、ようやく、今現在の石垣・外堀の輪郭が出来上がりました。当時の江戸城天守閣は、現在の大阪城の倍の面積を誇る、五層6階建て、高さ60メートルという、日本最大の木造建築物でもあったそうです。その後・・・江戸の町も、莫大的に人口が増えましたが・・・その反面、火事も多く、明暦3年(1657年)の振袖火事で江戸城にも火が回り、天守閣が焼失してしまいました・・・。これは、本丸に残されている天守閣跡の石垣です。炎の熱によって石の角がとれ、所々、黒っぽくなってます。如何に、当時の大火が激しい物であったか・・・焼け跡がそれを雄弁に物語っています。その後、天守閣は再建されることはなかったそうです・・・。時代は流れ、260年続いた徳川政権も、1868年の明治維新により、終わりを告げることになりました。江戸城が明け渡された後、西の丸が皇居として使用されることになりましたが、本丸、二の丸、三の丸の方は皇居東御苑として、一般の方に無料で公開されています。今は、丸の内で働く人たちのオアシスともなっている本丸跡です。。。こんな広々とした緑豊かな環境が、都会のど真ん中にあるなんて、贅沢でしょ?これからの新緑の季節・・・お近くの方は是非、江戸城に行って森林浴と殿様気分を味わってみませんか~?お勧めの穴場スポットですよ~☆人気blogランキング
2005年04月08日
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皆さん、こんばんわ☆今回は、ウラぷーでも、歴史オタクのぷーでもありませんがな・・・。実は、前回の足助編で、お写真に対するお問い合わせが多かったものですから・・・つい、いい気になって、デジカメについての私の思い入れなどを、ちょっくら書いてみようかな・・・なんて、思っちゃったりしたんですね~。そんなわけで、ご迷惑でしょうが、ド素人による、デジカメウンチクなどを述べさせていただきまする。あ・・・私、素人なんで、くれぐれも、難しいツッコミなどは、止めてくださいね!(いじめないでね・・・)初回は、私の使っているカメラについて、お話したいと思います。現在のカメラは、去年買った、パナソニック製、LUMIXの12倍ズームのものです。LUMIXというと、あゆ(浜崎あゆみさん)のCM「あゆはブレない」でおなじみの、手ブレ防止機能が売りのカメラですね。この手ブレ防止機能は、かなり良いです!夜景や室内撮影などシャッタースピードが落ちる場合でも、ビックリするくらい綺麗に撮れます! 室内でフラッシュなしでも、ほ~ら、こんなにブレない!・・・ってB'zかよ!それと、LUMIXのもう一つの売りは、世界に名だたるライカレンズですね!もちろん、ホンモノのライカレンズではありません。そんなすごいものを使ったら、3~4万程度でデジカメが売れる訳ありませんから・・・ライカからライセンスを頂いて作ったものでしょう・・・。でも、それでも、すごく良いものには違いありません・・・。パナソニック 500万画素 光学12倍ズーム光学式手ブレ補正ジャイロ搭載デジタルカメラLUMIX DMC-...同タイプのカメラです。すごくレンズがでっかくて、カッコいいです!このカメラに行き着く前は、デジカメ初心者でしたので、光学レンズもズームもない、薄くてごくごく小さな、持ち運びに便利なカメラを買いました。それが、FUJIのFINEPIX A50です。これも、人肌がほんのりと綺麗に写ると評判の、女性にはもってこいの、お気に入りデジカメでした☆フジフイルム FinePix F450Silver(シルバー) ミニ 三脚つき♪ 【即納】こんなんよりも、ず~っとちゃっちいカメラでしたけど、A50は名機だったと思いますよ・・・。これが、FINEPIXで撮影したチューリップです。ピンク色が綺麗に発色するせいでしょうか?花の撮影には、最高でしたね!それに、単焦点レンズでしたけど、結構、良い感じで背景がボヤけてくれるんですよ。これが・・・。 これも、同じカメラですね・・・ちょっと画像が荒いですけど・・・。気に入ってるカメラだったけど・・・でも、城崎温泉に行ったとき、温泉の湯気でレンズがやられて、ダメになっちゃいました・・・。そこで、LUMIXを買ったわけです~。どうせ買うなら、もっと綺麗に花を撮りたい!ってことで、マニュアル操作が可能で、ズームもど~んと12倍のものにしちゃいました☆ うん!やっぱり、新しいカメラは仕上がりが違います・・・大満足です。あ、それと、カメラを買う時、デジカメドットコムを参考にしてみました!お店の最安値が書いてありますから、この値段を基準に考えて、カメラ屋さんで交渉するっていうのも、一つの手だと思いますね。それでは、また、気が向いたら・・・書かせていただきます。
2005年04月05日
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皆様、こんばんわ☆前回、3日前に花火を特集したばかりだけれど・・・また思い切っていっちゃいましょうか・・・!今回は、大好評シリーズ第三弾と題しまして、『足助、カタクリの花と三州足助屋敷』です。足助は、今、カタクリの花が満開に咲き誇っていますよ~! ってことで、もう、今回は、理屈ぬき!!へたっぴなお写真で申し訳ないけれど・・・足助ワールドを楽しんじゃって下さいな☆ 写真をクリックすると、大写しになります。 こんな小さな花が、山の斜面を薄紫色に染めているんです。 そして、カタクリの花だけではありません!まだご紹介していませんでしたが、足助には、『三州足助屋敷』という、昔ながらの田舎の生活を再現した、ユニークな施設があるんですよ。 これは、母屋です。昔、子供の頃訪れた、おばあちゃんのお家って、こんな感じじゃなかったですか~?軒下には、ゆべしが吊るされていましたよ。 母屋の中に入ると、囲炉裏の炭のいい香りが家の中にたち込めて、思わず「なつかし~!!」って言葉が出ちゃいそうになります。匂いっていうのは、奥深くに眠っている人間の記憶を呼び醒ますものなのですね・・・。そして、ここでは、牛やにわとり、犬などの動物達も飼われています。まさに、田舎ならではの風景ですよね~。 牛のはるこちゃんです。耳に、識別番号がついているのが・・・ちょっと哀愁をそそります・・・。また、ここでは、わら草履を編んだり、機織り、紙漉き、炭焼き、鍛冶、藍染めなども行われており、まさに、自給自足だった頃の生活を再現しています。これらのものは、今では、すっかり工芸品になって、職人芸そのものと言った感じでしたが、昔の農家の方々は、皆さん、きっと、普通に出来たんじゃないかと思いますね・・・。また、今の時期は、三州足助屋敷にて、『~昭和のまち~昭和30年代』と題した、レトロ感たっぷりの展示物が、たくさん並べられていました~!30年代の映画のポスターやオートバイ、たばこ、カキ氷屋さん、黄金バットの紙芝居・・・レトロファンには、たまらない一品が勢ぞろいでっせ~!もっと写真を見たい!!という方は、よろしかったら・・・ぷーたろ本舗の写真館へお越し下さいませ☆締めくくりは、ライブハウス「足助のかじやさん」でお昼ごはん。ママさんの優しい笑顔と、美味しい御飯を頂いて・・・いや~!今回も、命の洗濯になりました。 ありがと~!!足助の町!また来るよ!4月1日から豊田市と合併しちゃったけど、このままの素朴な足助でいられるよう、頑張って下さいね☆応援してます。人気blogランキング
2005年04月02日
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皆様、こんにちわ☆昨日のバーレーン戦見ました?あれ・・・なんでしょう?オウンゴール・・・?自殺点!?得点者の名前が、サルミーンだって・・・もう、彼は、日本に帰化するしかありませんね。ところで、デジカメが壊れる夢を見ました・・・。シャッターが切れないんです・・・かなり、うなされました・・・。・・・って、これじゃあウラぷーたろになっちゃうじゃないかぁ~!!と、つまらないことを書いてしまいましたが、まあ、そのくらい、今の私にとって、デジカメというのは、自分の一部というか、かなり大切な存在になってきているんですね~。出かける時も、もちろん欠かせません。これがなかったら、何の為に出かけているのか分からないくらいです。たまに、バッテリーが入ってなかったとか、SDカードを忘れた~!・・・って事もありますが、そんな時は、かなりテンションが下がります・・・。昔は、旅そのものを楽しんでいたけれど・・・今は、記憶でなく記録で残す・・・そんな時代なのでしょうね~。そんなデジカメ君の醍醐味を発揮する機会が、またまた訪れました。愛知県蒲郡市で開催された『春まつり』の目玉でもある、『東三河遠州 手筒花火競演』です。これはスゴイです!初めて見ましたけど、もう、度肝を抜かれました・・・。5~6人の若い男性達が一斉に並び、火薬の入った大きな筒を抱えているんです・・・。筒から吹き出る火柱は、高さ10メートル・・・いや、それ以上でしょうか?はっきり言って・・・命知らずな行為です。ただ炎が噴出するだけでも見ごたえがありますが、なんと言っても、手筒花火の醍醐味は最後に、轟音と共に、筒の下が爆裂することでしょう。この爆裂を、ハネと呼んでいます。ここまで来ると、ほとんどホラーです・・・。この手筒花火は、花火師が放揚者であり、自分の打ち上げる花火を自身で制作し、火薬も詰めるのだそうです。火薬を詰める竹を自分で切り取り、竹を火で炙って油分を抜き、縄を巻きます。そして、火薬をその中に詰め込みますが、隙間が開くと爆発しますので、それはそれは慎重に作業が行われます。自分自身の命が、この作業にかかっているといっても過言ではないでしょう。こんな命知らずな男達が、夜空の下競い合う三河手筒花火大会は、450年もの歴史を持つ、まさに花火の原点であります。もちろん!江戸発祥の「たまや~!かぎや~!」の打ち上げ花火よりも、100年以上前から存在している訳です!この手筒花火は、日本でも、愛知県東部の三河地方、もしくは、静岡県西部の遠州地方のみでしか行われていないそうです。三河地方は、徳川家康の生まれ故郷でもあるため、江戸時代以降も、家康の鉄砲隊の子孫に特別に火薬の使用が認められ、観賞用花火の生産が盛んに行われてきた場所でもあるのです。もし、皆さんの地域で、このようなお祭りがあるとしたら、それは、三河・遠州の方々が出張で行かれてるんだと思いますよ!その起源は、戦国時代の、のろしが大きくなった物が原点とも言われていますが、火薬自体は、鉄砲の伝来と同時に入ってきたものと思われます。愛知県豊橋市の吉田神社がその発祥の地と言われ、吉田神社に残る記録「三河国古老伝」に「永禄元年(1558)天王祭礼祀ノ花火ト云フ事始メル」又「吉田神社略記」に「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ永禄三申庚(1560)今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ムトアリ・・・つまり、1560年ごろに、あの家康を人質に囚えていた今川氏が花火を始めたということです。そして、現在のような巨大な火柱が立つ手筒花火になったのは、正徳元年(1711)と書いてあります。主に、五穀豊穣、無病息災 家運隆盛 武運長久を祈る物だったそうです。そして、若者の手造ということで、大人への門出、そして、勇気の証しを示す物として、子々孫々に連綿と伝えられてきました。これは、もはや、三河・遠州地方が誇る、独自の文化と言っていいでしょう。まさに、勇敢な三河武士発祥の地だけあります。これぞ、男の心意気!ですね。ほら・・・モリゾーとキッコロも応援しているよ!人気blogランキング
2005年03月31日
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皆様、こんにちわ☆またまた、大ひんしゅくなコーナー「ウラぷー」の登場です♪意味深なタイトルに、「どきっ☆」となさった方もいらっしゃるでしょうが・・・もちろん、これは私のことではありません。その昔、私の妹が、妊娠中一ヶ月間ほど入院していたときのことです。遠路はるばる、見舞いに駆けつけた私に・・・妹「あのさ~。頼みがあるんだけど・・・」私「何?」妹「・・・ホラーマンガ雑誌、買ってきてくれない?」私「ええっ?・・・それって、胎教に悪いんじゃないの?」妹「隣の人が貸してくれる少女マンガ、すんごいつまんなくって かったるいのよね~。」私「だからって・・・何もホラーマンガじゃなくても・・・」妹「いいのよ!! 胎教、胎教って!別に驚かなきゃいいんだから! 早く買ってきてよ!!」・・・と、青木さやか並みにブチ切れる妹・・・仕方がないので、一番ソフトなホラーマンガを買っていくと・・・妹「あのさ~。あのマンガ・・・全然、恐くも面白くもなかったわ!」あの時の子は、今、9歳・・・すっかり、おばけ好きに育ってしまいました・・・。人気blogランキング妊娠中のホラーマンガは止めましょう・・・
2005年03月28日
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皆さん、こんにちわ☆いよいよ、本日、愛知万博『愛・地球博』が開幕いたしました~!10年前は、万博会場となる長久手地区の森が切り開かれる事で、希少生物の危機などが囁かれてきたこともあり、ちょっと複雑な気持もしましたが、出来るだけ森を残し、環境に配慮する方向で決着したようですね・・・。せっかくですから、私も一度は行って来ようと思っておりますが、果たして、どのくらい混雑するのか・・・もう少し様子を伺ってから行くつもりです。万博レポートは、もう少々、お待ちくださいませ。他にも、今年は、セントレアの開港などで注目される愛知ですが、そんな愛知の強さの秘密は、戦国時代の三大武将(織田信長・豊富秀吉・徳川家康)の時代に隠されているような気がするのです・・・。そのヒミツを探るべく、今回は、家康の生まれ故郷である岡崎に乗り込んでいくぞ~!お~!!(っと、いきなり戦国モードに入ってきたぞ・・・)家康の本陣に乗り込む前に・・・まずは腹が減っては戦が出来ぬ!戦に勝つために、「名古屋名物、みそかつ」を食べに行くとするか。な、なんじゃ、このまろやかなソースは!誠に、び・・・美味じゃ!!これが、話に聞く、八丁味噌を使ったというみそかつか・・・!もしかすると、家康の強さの秘密は、この赤味噌にあるのかもしれん!それならば、この愛知独特の赤味噌「八丁味噌」工場を探ることにするのじゃ。八丁味噌というブランドは、実は、この岡崎市の八帖町にある、「まるや」と「カクキュー」の2件のみの特許となっておるのじゃぞ。八丁というのは、岡崎城から数えて八丁目にあたる場所という意味じゃ。この2件以外で、八丁味噌を名乗っているメーカーがあったとしたら、それは、ばったもんじゃ!おぬしらも、気をつけなされ・・・。(こちらは、カクキューさんの資料館にあった、むかしの味噌つくりの様子じゃ!)まずは、創業660年の歴史を持つという八丁味噌の元祖「まるや」さんに殴り込みじゃ!「は~い!いらっしゃいませ~!」工場見学の予約は入れていないが、「まるや」さん・・・親切じゃないか!マンツーマンで工場の説明をして下さっただけでなく、味噌のお土産と、田楽の試食まで頂いてしまったよ・・・。(ちょっと弱気)八丁味噌は、大豆100%の豆味噌じゃ!豆を煮るのではなく、蒸しておくことで、黒っぽい独特の色合いが出るのだそうじゃ。豆と塩以外、添加物は一切使用しておらず、色の濃さとは対照的に、塩分は以外にも低いのだそうじゃ。そうか・・・豆の豊富な栄養が、家康軍の強さの秘密じゃったのか!!だが、八丁味噌だけでは、どうしても、味に酸味を感じてしまうらしく、今では、信州味噌とブレンドしてまろやかさを出しているらしいぞよ。そういえば、大河ドラマの『利家とまつ』で、唐沢寿明演じる前田利家が、妻のまつに向かって「麦味噌よりも豆味噌の味噌汁が飲みたい。」と申した時、松嶋奈々子演じる「まつ」が、「男なら、文句言わずに、出された物何でも食わんかい!」と言う様なことを言ってたなあ~。その頃の豆味噌とは、ち~っと違うのかも知れんな~。この井戸は、その昔・・・豊富秀吉がまだ日吉丸と名乗っていた頃、この「まるや」さんの味噌蔵に忍び込んで、味噌を舐めていたのを蜂須賀小六に見つかって、逃げ回っていた時、この井戸に水を投げ込んで、井戸に飛び込んだように見せかけるという細工をした場所だったそうじゃ・・・子供の頃から悪知恵が働いていたのじゃの~。まあ、そのくらい歴史のある店だっていうこっちゃ!さて、味噌のヒミツも分かったことだし、次はいよいよ、家康の本陣!「岡崎城」に乗り込むとするか!と・・・思ったら、まるやさん・・・「車なら、ここに置いて、歩いてお城まで行ってきなよ!」と言ってくださった。う~ん・・・岡崎市民、あなどれん!どこまでも親切すぎる・・・。お~!!岡崎城じゃ!!5万石の城にしては、大きくて立派じゃの~!岡崎城は、1452年ごろの室町末期、三河の守護代・西郷弾正によって築城された城だと言われているのじゃ。やがて、西郷氏に婿入りした松平氏の勢力が大きくなると、歴代松平氏の中でも特に傑出した清康は急激に勢いをつけ、西郷氏に代わり、岡崎に入城することになる。以後、松平氏の本拠となったとのことじゃ。しかし、清康が尾張守山で殺されると急激に勢力が弱まり、織田氏と今川氏に挟まれ苦難の時期が来た。そんな中、1542年、岡崎城で、竹千代(徳川家康)は誕生したのじゃ。(家康が生まれた時、浸かったという産湯の跡じゃ!)つまり、竹千代こと徳川家康は、松平家の出身で、その9代目にあたるのじゃな・・・。しかし、可哀想なことに・・・竹千代が6歳になった時、織田信秀の下で2年間、その後、今川義元の人質として約12年間も駿府(静岡)で過ごす事になったのじゃそうな・・・。その今川氏の下で、十四歳の時(1555年)、竹千代は元服して、今川義元の元の字を賜り「松平元信」と名乗るようになったのじゃ。その時の、家康の気持はどんなものだったのだろうな~。しかし、その後、元信から元康へと名前を変更している・・・。恐らく、武将として高名だった祖父・松平清康にあやかったのだろうなあ。その後、1560年、桶狭間の合戦で今川義元が亡くなると、元康は、人質からも開放され、岡崎城に戻ることになる。そして、元康は、今川氏から独立したことを示すものとして、名前を松平家康と改名し、ここから家康の独自の活躍が始まるのことになるのじゃな。(二の丸跡に建てられた、三河武士の館・・・ここに来れば、複雑な戦国時代のことが一目瞭然じゃ!)でも・・・松平家康・・・って?じゃあ、「いつから、徳川家康になったの?」って思うじゃろ?それは、1566年、家康が24歳の時、三河の一向一揆をおさえた家康は正親町(おおぎまち)天皇から許可を頂いて三河守の任官を受けたんじゃけど、その時に、三河一国を支配下に治めた事を明確にする目的で、「徳川」という姓に変えたと言われているのじゃな・・・。その後の家康の活躍は、1575年の、武田軍との「長篠の戦い」や、豊臣軍と戦った、1583年の「長久手の戦い」(万博の会場付近じゃな!)日本諸国の武将が、東軍(徳川・加賀の前田など)と西軍に分かれて戦った「関が原の戦い」などでもお分かりのことじゃろう。この時、負けた西軍にいた、現・山口県の毛利氏、鹿児島県の島津氏は、外様大名として、その後、不遇な扱いを受けていた訳なのじゃが、それが幕末の戦いで逆転し、明治政府の要人となるのだから・・・歴史は面白いわけじゃ!そんなことで、天下の大将軍となった家康の聖地として、岡崎城は、その後も幕府から手厚い庇護を受け、岡崎の町も、独自の産業をいくつも生み出す豊かな文化都市となっていったということじゃ。さて!この辺で、引き上げるとするか!・・・と、八丁味噌のまるやさんにお礼のご挨拶・・・のつもりがあ~っ!!ここの売店・・・美味しそうな地酒がいっぱい置いてあるじゃないの!!愛知の銘酒「ほうらいせん」の誘惑に、ついふらふら~っと、酒呑みの私は3本も買ってしまったじゃないのよ!くわ~っ!!またしてもやられた~!!さすがは、家康の本拠地!わしの完敗じゃ!一斉に引き上げるぞよ~!
2005年03月25日
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皆様、こんにちわ・・・すみません・・・またまた、大不評のウラぷーたろです。最近、よく悪夢にうなされます・・・ヘンなオッサンが、家の中に入り込むんです・・・一体・・・これは、何者?悪霊・・・?それとも私の鬱屈された心理が作り出した幻か・・・?そんなくだらないことを考えているとHPのアクセス記録に、不穏な名前のプロバイダが一日に何度もアクセスしてくることに気がついた・・・ひどい時は、一日に10回以上・・・もしかして・・・私は、誰かに監視されているのではないか・・・?・・・・ストーカーか?その名は、inktomisearch.com ・・・不気味だ・・・そんなプロバイダ聞いたこと無い・・・落ち着け・・・!調べてみるんだ・・・・・・調査中・・・結果は、意外に早く出た・・・これは、単なる、Yahoo!の検索エンジンロボットだったのだ・・・心配して、損した・・・人気blogランキング暗くてすみません・・・これで許して・・・ Designed by unamama
2005年03月22日
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皆様こんばんわ・・・この度は、九州の皆様方にお見舞い申し上げます。九州に地震とのことで、大変驚きましたが街並みの復帰と、人々の心が少しでも癒されますようにと・・・心からお祈りいたしております。こんなときに、ウラぷーたろが出てきては不謹慎なヤツだ!!と、お叱りを受けてしまうかも?と思いましたが九州の皆様に、少しでも、お元気になっていただければとあえて、うらぷー劇場を登場させることに致しました。どうぞ、よろしくお願い致します。先日のこと・・・友人Tさんと電話でお話をしていたら彼女が、うちの猫の声が聞きたいと言ってきた・・・。じゃあ、それならばと、猫の口元に受話器を持っていくとうちの猫は、「にゃー・・・」とは鳴かずに一言、「ブヒッ」と鳴いた。豚飼ってるんじゃないっつーの・・・人気blogランキング関係ない話ですが、今日、うしろ姿だけが仲間由紀恵さんな人を見かけました Designed by unamama
2005年03月20日
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皆さん、こんばんわ☆今回はウラではなく表のぷーたろですので、ご安心ください。ここで、いきなりですが、11,111番をゲットされたのが、ココログのぼんやりさんでした~!ありがとうございます~。他のブログの方はお名前が普通はでないんですけど、丁度、書き込みをしてくださったので、気がつくことが出来ましたよ。この方は、『平家物語』に関する事については、関連書籍から、フルタのフィギュア、そして、大河ドラマで放映しているタッキー主演の『義経』の情報などなど、たくさ~んの情報をお持ちでいらっしゃる、とっても楽しいお方なんですよ~!是非、遊びに行ってみて~!ところで、最近は、柄にも無く漢文学に関することを調べておりまして~。漢文学っていうと、ちょっと印象が堅いけど、でも、ことわざの「五十歩百歩」とかは孟子の言葉だし、「青は藍より出でて藍よりも青く」は荀子(じゅんし)でしょ・・・例をあげたらキリがないくらい、日本人には馴染みの深い言葉が、い~っぱいあるんだよね~。でも、本を読んでて、一番ビックリした・・・っていうか、インパクト強かったのは、やっぱり「司馬遷(しばせん)」かなあ??司馬遷は、紀元前150年くらいの漢の時代の人なんだけど、『史記』って言う、中国で一番最初に歴史の本をまとめたことでも知られているんだね。司馬っていうと、小説家の司馬遼太郎を思い出す人も多いと思うけど、実は、司馬遼太郎は「司馬遷に遼(はる)かに及ばず」ってことで、自分のペンネームを付けたらしいんだよね~。まあ、それだけスゴイ歴史家だったんだよね~。実はね、司馬遷が、どれだけ『史記』の制作に命を賭けていたか・・・っていうことを物語る、ものすごいエピソードがあるんだよ!それは、司馬遷の友人でもある武将の李陵(りりょう)が、匈奴(きょうど=モンゴル人)との戦争に負けて責任を取らなきゃいけなくなった時、漢の武帝に対して、彼をかばった発言をしてしまった為に、死刑を命じられてしまうんだ・・・。でも、司馬遷は、お父さんから受け継いだ『史記』が、未完成のまま死ぬ事だけはどうしても避けたい!そこで、考えた挙句、司馬遷は「宮刑」という、死刑よりもむごく、人間として最も屈辱的な刑を受ける事を、自ら選び取ったんだね・・・。宮刑が、何かって?いや~!女性の私からは、とても口に出来ない刑でございますよ・・・ま、いわゆる去勢ってやつです。それはそれは・・・男性なら想像つくでしょうが、七転八倒の痛みは大変なものだったらしいですわ・・・。そして、この刑が、やがて、宦官(かんがん)という去勢済みの男性官吏に繋がっていくんでしょうね~。(これと纏足だけは、日本人もマネできなかったというから、納得~!)まあ、こんな屈辱的な思いまでしたんだから、宮廷に対しても、ものすご~く怨みがあったんだろうね~。『史記』の中には、当時の王族の人たちが、如何にメチャクチャな奴等か・・・っていうことを赤裸々に書いちゃったんだね。例えば、父親である皇帝の葬式の日に、息子が、父親の愛娼と関係を結んでしまうとか、男性が好きだったとか・・・普通、ここまで書いたら、殺されちまうわな・・・ってことまで、あからさまに書いてる・・・(確かに、歴史家っていうのは、ジャーナリストと一緒で、時には勇気をもって真実を書かなきゃならないことも多いけど・・・)多分、自分が死ぬまで、これを表ざたにするつもりはなかったのかもしれないね・・・。そんな『史記』の「刺客列伝」の中から、「聶政(じょうせい)」という面白いお話を一つ・・・「聶政は、斉(さい)の国で、食用犬の屠殺をしていた人で、年老いた母と未婚の姉と共に住んでいた。そこへ、厳仲子(げんちゅうし)という偉い大臣が、聶政に暗殺の依頼にやって来る。単なる犬殺しの彼を、篤く敬ってくれた厳仲子に対し心打たれるものの、母親と姉のことを思うと、それは出来ない・・・とお断りした。しかし、母が亡くなり、姉が嫁ぐと、もう思い残す事はないとして、厳仲子の依頼を引き受けるのである。そして、暗殺は成功・・・だが、聶政は、自分に礼儀を尽くしてくれた厳仲子と、最愛の姉に迷惑がかからないようにと、自分の顔の皮を剥ぎ取り、目を抉り出し、腹を裂いてはらわたを取り出して、自害し果てる。恐らく、自分の身元が分からないようにするためだったのだろう・・・。その噂を聞きつけた姉は、弟は私の為に、名も無い者として葬られようとしている・・・それでは、あまりに可哀想だ・・・と、弟の名を残す為に、姉も自らその場で命を絶つのだった。」司馬遷は、こういった日の当たらない刺客たちの話まで、歴史書に残してくれたんだね・・・。命がけで、後世に残る歴史書を完成させた司馬遷・・・司馬遼太郎が、「遼に及ばず・・・」と謙遜した理由が分かるような気がするな!人気blogランキング(司馬遷に遼か及ばないどころか、どん底に落ち込んでいる私に愛の手を・・・)
2005年03月18日
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皆様、こんにちわ・・・死して屍拾うもの無し・・・ウラぷーたろです。実は、昨日・・・とあるショッピングセンターで・・・私にしては珍しく、「たまには、ブランド品でも見てみるか・・・」とコーナーの敷地に、一歩足を踏み入れてみた。すると、その時!ピルルルルルル!!!!店のブザーがけたたましく鳴り響き店員が、慌てて駆け寄ってきた~!!私は、心臓がドキドキして「すみません!!何も盗んでいません!!」と、弁解しようと思っていたら・・・ただ単に、店の電話が鳴っていただけだった・・・人気blogランキングもう、あの店には、恐くて近寄れません・・・Designed by unamama
2005年03月16日
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皆様、こんばんわ・・・ウラぷーたろです。うちのでぶや猫たち・・・普段は不味そうな療養食を、「まいう~!まいう~!」って食べてる。そんな感じだから、ねこの缶詰、面倒だからあげないでいたら或る日突然・・・ストライキを起こした!!・・・と言っても、押入れから出てこなくなっただけ・・・ほっておくと、ず~っと出てこない・・・かなり粘っている・・・仕方ないので、労使交渉の結果一日、3匹に一缶ということで決着がついた・・・それにしても、一体、どこでこんな知恵をつけたのか・・・?まさか・・・?テレビ○日の、○○ステーション見てたか?まさかのミステリー!?人気blogランキングDesigned by unamama
2005年03月12日
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皆さん、こんにちわ☆やっと、まともな日記を書くことが出来ました。ウラぷーたろは、ねじが10本くらい外れて、漢字もめちゃくちゃですが、それは、そういうものとして、遊んであげてくださいね。ところで、本題です!この間は、愛知県の渥美半島先端部にある、伊良湖に行ってまいりました~☆強い日差しに青い海と空、そして、色とりどりのお花・・・伊良湖は、もう、すっかり春ですよ~♪ まずは・・・渥美郷土資料館で、地元の情報を仕入れに行きましょう! うは~!立派な建物です・・・。でも、無料で見られるなんて、嬉しいじゃないですか~。こういう町は、恵まれていますね・・・自動車輸出港がある田原も近いし・・・トヨタの恩恵かしら?それはともかく・・・この資料館では、主に、あの奈良の大仏さんで有名な、東大寺の鎌倉時代の再建に使われたという瓦が展示されています。ここ、渥美半島は、今ではすっかり廃れてしまったものの、その平安から鎌倉時代にかけて、良質な焼物の窯元があちこちにたくさんありました。今でも、残っていたら、間違いなく日本六古窯(にほんろっこよう:備前焼、信楽焼、常滑焼、瀬戸焼、丹波焼、越前焼)に加えられ、日本七古窯になっていたかもしれませんね。そこで、重源というお坊さんから、是非、東大寺の瓦を焼いてもらいたいとの依頼がありました。恐らく、それは、伊良湖と奈良の地理関係も、理由として、大いにあったことでしょう。伊良湖の地図この地図でもお分かりのように、伊良湖と三重県の鳥羽は、とても近い距離にあります。フェリーだと、だいたい1時間くらいでしょうか?昔は、物資を運ぶのは船が中心でしたから、伊良湖~鳥羽を経由して、川を登って奈良まで運んだとしても、そんなにかからなかったと思いますね。ちなみに、東大寺は奈良時代(710~794年)、聖武天皇の時代に、聖武天皇が皇太子(基王)の供養にと、728年に建立した金鐘寺が東大寺の始まりとされています。そして、741年、聖武天皇が護国信仰に基づいて、日本全国に国分寺の建立を命じられた際、金鐘寺を、国分寺の総本山である大和国分寺として「金光明寺」と名前を換えました。その後、743年に、聖武天皇が大仏造顕の詔(みことのり=天皇のお言葉)が発せられ、745年に金光明寺にて造営が開始された際に、「東大寺」と名称を変えたのだそうです・・・。大仏は752年に開眼供養が行なわれましたが、大仏殿や講堂などの伽藍が完成したのは789年とのこと・・・。出来あがりまでに、奈良時代のほとんどが費やされたのですね・・・。(まさに、奈良の大仏だね!!修学旅行では、東大寺の柱の穴をくぐり抜けて遊んだアホが、クラスに必ず3~4人はいたはず!!)その後、時代は平安時代後期、源氏と平家の戦いが激しさを増してきた最中、1180年に平重衝が放った火によって、残念な事に、伽藍が焼失してしまいました・・・。そこで、鎌倉時代になってから、東大寺再建をされた源頼朝によって、瓦が岡山県万富と、ここ渥美半島の伊良湖に発注されたのですね。(ちなみに・・・現在の伽藍は1709年に再建されたものだそうです・・・)東大寺の瓦が見たい人は、渥美郷土資料館のHPへ・・・(ちょっとだけ、公開されています。)そして、もちろん・・・その窯のあった場所にも行って来ましたよ! でも、何だか窯元っぽくないというか・・・実感が無かったです。その後、伊良湖フラワーパークへ!南国風の花々が咲く温室館と、屋外の菜の花やポピーなど、様々な花が咲く庭園があり、規模は小さいけれど、春らしい優しさが溢れ、心が和みました・・・。ちょいと小腹が空いたら、道の駅も兼ねている、伊良湖の旅客ターミナルでラーメンを食べたり、恋路が浜にある灯台茶屋っていうお土産屋さんで、三河名物、大アサリを食べるのもお勧め!!めっちゃでっかくてビックリだけど、美味しいよ~!ここに来たら、食べなきゃソンだよ~!! 他にも、苺狩り(1,500円)なども楽しめるし・・・春を先取りしたい人には、是非、お勧めの場所ですね~。きっと・・・そろそろ・・・海からの風も和んできたことでしょう・・・。春霞の中、菜の花が咲き乱れる伊良湖にサイクリングなんて・・・素敵ですよ! 人気blogランキング気に入ってくださったら、一回押すだけ!簡単よ!
2005年03月10日
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皆様、こんばんわ・・・今日の私は、ひどく落ち込んでいます・・・というのも・・・さっき、鏡で顔を見たら・・・バビル2世の黄泉様のようなクマが、目の下に出来ていました・・・明らかに寝不足です・・・人気blogランキングこんなん、どうでもいいですから~!誰か、黄泉の世界から救い出して~!歴史日記、近々、後悔予定!口語期待?・・・乞うご期待!とりあえず、写真だけ・・・
2005年03月08日
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皆さん、こんにちわ・・・突然ですいません。これから、時々、思いついたときに核?・・・間違えました・・・書く「ぷーたろウラ日記」を後悔・・・いえいえ公開していこうと思います。ところで・・・昨日の、アンジャッシュの言葉遊びのコント、面白かったですね・・・。「今月、大仏買っちゃって!」「今日奈良マニアいます。」「良い太鼓とは何ですか?」これ、何のことかわかります・・・?答えは・・・「今月、大分使っちゃって!」「今日なら間に合います。」「言いたい事は何ですか?」メール打ってると、時々ヘンな言葉が出てきますよね・・・。ごめんなさい・・・あんまり真剣に読まなくてもいいですから。人気blogランキングこんなものも・・・クリックなさらないで結構ですから・・・そ~っとしておいてください・・・。それでは、さようなら・・・あ・・・もしかして・・・奈良マニアって・・・多分、私のことかもしれません・・・奈良旅行地理検定試験、受けちゃいましたから・・・
2005年03月06日
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皆さん、こんにちは☆今日は、3月3日、ひなまつりですね~。さっき、お隣さんが、長崎に伝わるという、おひな祭り用のお菓子をおすそ分けしてくださいました。ほんとに、感謝感激!お陰様でいいお祝いが出来ました☆ところで、昨日のトリビア・・・見ていた人はご存知だと思うんだけど、3人官女の真ん中の座っている女性が既婚者で、両脇の立っている二人が未婚なんだってね・・・!?何でも、平安時代は、既婚者は眉を剃って、ひたいにマロのような丸いものを描いていたらしいね~。もう、そんなこと全然知らなかったから、目からうろこでしたわ~♪そして、お内裏様とお雛様は、実は結婚式を挙げているところで、初夜がすんだ次の日に眉を剃ってしまうんですって!!なんだか、そう思ってみてみると、おひなさまも感慨深い物があるよね~。でもね・・・最近の子供たちは、昔ながらのおひなさまの顔が恐いらしくて、顔の丸くて目の大きなマンガチックな顔のおひなさまに人気が集まっているとか?まあ、気持は分かるけど・・・『足助のおひなさん』を子供達が見たら恐がっちゃうかと思うと・・・ちょっぴり残念だよね~。なんて・・・前置きが長くなりましたが、今日は、歴史のお話はちょっとお休みして・・・前回好評だった天然素材100%のヘアカラー『へナ』の第二弾、究極の手作りシャンプー『ヘナシカシャンプー』を取り上げてみたいと思います。これは、カラーリングの材料でもあるヘナと、洗浄成分のあるシカカイという植物の粉末が主になってるからヘナシカシャンプーっていうんだけど、これも、めちゃくちゃ使用感が気持よくって、頭皮に塗った時のひんやり感が、これまたなんとも・・・。それも、髪の毛がサラサラになるだけじゃなくって、くせっ毛も、いい感じに真直ぐにしてくれるから、重宝してるんですよ~。雨の日なんて、今までくしゃくしゃになってたけど、その悩みからも解消されたみたい!ホントに・・・今まで使ってた市販のシャンプーはなんだったんだ~って感じだよ!お陰で、念願のロングヘアに挑戦できそう!松嶋奈々子ヘアも夢じゃないかも・・・(って顔が違うよ!)作り方を知りたい人のために、もしよかったら・・・レシピです☆ (左から、へナ、シカカイ、瓶がモッティアロッシャオイル、カチュールスガンディ、アムラ)材料は、お湯200~250ccに対して、へナ:大さじ2 シカカイ:大さじ4 アムラ:大さじ2 カチュ-ルスガンディ:大さじ1を、ダマにならないように良く混ぜます。そして、一晩寝かせた後、モティアロッシャオイルを数滴入れて、100円ショップで売っているようなドレッシング用の入れ物に移すだけ・・・。それだけ・・・たったそれだけのことなんだけど、それ、一体どこで手に入るんじゃい!って思うよね・・・。もし、ちょっと興味のある人は、こちらにどうぞ!アートビーングでもね・・・これ、出来上がりがヘンな色だし、泡が立たないし・・・なんじゃこれ?って思う人も多いかもしれないけど、しっかりと頭皮の汚れも落ちるし、リンスがいらないくらい髪がサラサラするから、全然大丈夫だよ!また、これも、へナと同様にインドに古くから伝わるもので、天然のハーブ100%だから、とっても安全だし、アトピーや化学物質過敏症の人なんかにもお勧め!(植物アレルギーのある人は、事前にパッチテストをしてから使ってね!)インドの人も、つい最近まではこれを使ってたみたいだけど、ここ10年ばかりは、アメリカの影響がすごいらしくて、合成シャンプーがのさばってきたとか・・・。でも、どんなに優れたシャンプーも、やっぱり、これには勝てないんじゃないかな・・・って思うよ。私は、特にエコロジストとか自然派主義って訳じゃないけど、ただ単に、髪の毛に気持いいものを選んでいたらこうなった!って感じかなあ?それに、シャンプー以外にも、肌が弱いってことで無添加の石鹸や洗剤を使っているけど、これが自然環境を守ることにも繋がるんだったら、一石二鳥で嬉しいよね~。歴史のお話を期待していた方には・・・ホントにごめんなさいね!でも、慌しい世の中に、こうやって・・・時間と手間隙をかけながら、ゆっくりのんびり、インドの世界に浸りながらっていうのも、リラックスできていいものだと思うよ。*********************************今日のネタ:インドといえば!細木数子さん特製カレー!作ってみたら、めっちゃ美味しかった~!にんにくを最初に炒めて、肉と大き目の野菜を入れた後、塩でしっかりと味付けして、仕上げに牛乳を入れるだけ!それだけで、まろやかで美味しいカレーになったよ!よかったら、試してみてね!(でも、上のシャンプー用のハーブと、カレーのルーをごちゃまぜにしちゃダメだからね~☆)よかったら、ここをクリックしてみてね~!人気blogランキング
2005年03月03日
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皆さん、こんにちわ☆先ほど・・・「久々の日記がやっと仕上がった~!」と思ったとたん・・・うちのパソコン君・・・何を血迷ったのか、今まで苦労して書き上げた日記を全部消してしまいました・・・。・・・非常にショックで・・・しばらく立ち上がれませんでしたが、そこは根が単純なぷーたろ!晩御飯を食べたら、元気になりました!もう一回、気を取り直して、書きます!*********************************この間の土曜日、「中馬のおひなさん」で取り上げました足助に、また、再び行ってまいりました~!どこがそんなにいいのかって~?そりゃあ、おひなさんはもちろんのこと、足助は、食べ物がめっちゃ美味しいんです♪足助の百年草という老人福祉施設にあるZIZI工房、バーバラはうすでは、とっても元気で素敵なおじいさん、おばあさんたちが、フランクフルトなどの肉製品や、焼きたてのパンを、心をこめながら、一つ一つ手作りで作っているんですけど、それが、もう、めちゃくちゃ美味しいんです。紅葉の時期には、行列が出来るほどなんですよ!これ食べたさに、足助に通っているといっても、過言ではないかもしれませんね!(おじいちゃんがやってるからZIZI工房で、おばあちゃんのパン屋がバーバラはうすなんて、ネーミングもかわいいよね!)その他にも、お肉屋さんのししコロッケや、橋本屋のお豆腐も美味しいかったですね~。それに、足助は明治時代まで、中馬街道の宿場町として栄えたと先ほどの日記でも書きましたが、昭和以降は、鉄道の路線から遠く離れてしまった為か、近代化が遅れてしまいました・・・。足助の地図(Yahoo!より)でも、逆にそれが、江戸時代の古い蔵の立つ家並みと、昭和のレトロさを残す、何ともいえない風情をかもし出すことになったのかもしれませんね・・・。 (ブロマイドの人・・・もしかして、アグネス・ラム?) (この看板のロープって・・・もしかしたら、馬で荷物を運んでいた頃の名残かも? それにしても・・・御茶屋さんにロープとは・・・) (ポスター・・・レトロマニアには、たまらんやろ?しかも、この看板、右から書いてあるし・・・)そして、足助は、南北朝の戦いで、後醍醐天皇側について楠木正成らと共に活躍した、足助次郎重範(あすけじろうしげのり)の出身地としても知られています。 (山の上に建つ、風雲!足助城!!)もともと、足助氏は清和源氏浦野氏の一族で、平安時代末期に山田重直の子・重長が、この足助の地に住んで足助氏を名乗ったのが始まりと言われています。 また、重範は、南朝の後醍醐天皇の挙兵に応じ、笠置山に最初に駆けつけて宮方の一角を担って六波羅軍(北条氏側)と奮戦したそうですが、残念ながら敗れ、1332年、京都の六条河原で斬首されたとか・・・!南北朝の争い・・・っていうのが、これまた複雑でして・・・鎌倉時代後期、1318年即位した後醍醐天皇が、もう一度、幕府の手から実権を取り戻そうとして倒幕計画を立てるのですが、それが幕府側の北条氏にバレて、島根県の隠岐に流されてしまいます・・・。でも、後醍醐天皇の息子の護良(もりなが)親王が、楠木正成らと共に兵を立ち上げ、倒幕へと立ち向かいます。苦戦して戦う中で、足助次郎重範も亡くなっていきますが、その後、後醍醐天皇も隠岐から戻り、足利尊氏らも討幕派に加わって、北条氏ら幕府側を倒しました。こうして、足利氏らのお陰で、後醍醐天皇が実権を握り、教科書でも出てきた『建武の新政』と言われる、奈良時代の律令国家のような国づくりを目指しますが、しかし・・・あれだけ尽くした武士の立場をないがしろにされたとして、今度は、足利尊氏が朝廷側に反旗を翻し、室町幕府を立ち上げるんですね~。(このとき、後醍醐天皇側を南朝、足利氏側が北朝となって1358年まで戦いが続いた時代が南北朝と言われています。)まあ、ちょっと説明が長くなってしまいましたが、こんな感じで・・・足助の人々は、後醍醐天皇側に貢献した足助次郎重範を、とても誇りに思っているのですね・・・。古くからの歴史を重んじるという文化度の高さと、人情あふれる土地柄が魅力の足助町・・・4月からは豊田市に合併されてしまいますが、この足助らしい魅力だけは、そのままに保ってもらいたいものです・・・。*****************************************************よかったら、ここをクリックしてみてね~!人気blogランキング
2005年02月24日
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皆さん、こんにちわ★昨日、常滑焼(とこなめやき)で有名な愛知県常滑市に、中部国際空港、通称セントレアが開港いたしました~!わ~い(^O^)/ パチパチ~!私も行って見たいけど、昨日は見物客を含めて9万人の人出があったそうで・・・レストランもエビフライで有名な「まるは食堂」が3時間待ちの状態だとか・・・?これじゃあ、肝心の利用者に迷惑がかかっちゃうよね~。週末は、更なる人出が予想されるとのことで、もしかしたらディズニーランドのように入場制限されるかもしれません・・・!(ホントにすごいですね・・・!)人ごみ嫌いな私としては・・・少し空いてきた頃にでも、行ってみようかと思います。ところで、今日の本題です。先日、くまくま15さんの日記で、聖徳太子の十七条憲法(あの、「和を以って貴しと為す」で有名なヤツよ!)が、採り上げられておりまして・・・「和」って言葉について、改めてしみじみと考えさせられた訳なのでありました。「和」っていうと、調和、和気藹々(わきあいあい)、和解など、人との関係を和ませる言葉と、あと・・・和風旅館とか、和菓子に和歌など、日本そのものを表す表現がありますけど、昔から、人との和を重んじてきた日本人を、「和」という表現で表すなんて、ホント、鋭いというか・・・面白いですよね~。それにしても・・・「和、ワ、わ、輪、環・・・!?・・・倭?」もしかして・・・日本を表す「和」という言葉は、あの卑弥呼が載っているという、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)でおなじみの「倭(日本の昔の呼び名)」から来ているんじゃないか?これが本当だったら、えらいこっちゃ!ろ、論文の準備しなきゃ!これは、日本の歴史的発見じゃあ~!歴史学会に殴りこみをかけるぞ~!・・・なんてことにはならない訳で・・・もう、既に、『逆説の日本史』でおなじみの井沢元彦さんを始め、いろんな学者さんが書かれていましたわ・・・。(どうせ、私が思いつくことなんて、そんな程度のもんだよ・・・)話は横道に逸れてしまいましたが、日本が倭と呼ばれだしたのは、中国の後漢の時代(紀元25年~220年)に書かれた『漢書』に「楽浪(現・北朝鮮の平壌付近)海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時を以て来たり、献見す」と、つまり・・・日本が100カ国以上に分かれていて、中国にお土産を持って挨拶に来ていた・・・と書かれているのが最初であります。この頃の日本は、ちょうど弥生時代にあたるんですけど、弥生時代といえば、集落同士での争いが始まった時期で、人々は、環濠集落という、いわば、堀を丸い輪のように廻らして、そこに柵を作るという・・・要塞の中に住んでいたんですね。う~ん・・・ここでも、「環」と「輪」が出てきますねえ~。縄文時代はどうでしょう・・・ここでは、広場を中心にして、その周りを丸く取り囲むように家を作って住むという、環状集落を形成していたそうです・・・。やっぱり、ここでも「環」か・・・。もちろん、環状集落とか環濠集落なんて言葉は、最近になってつけられた物ですけど・・・でも、もしかしたら、「ワ」という言葉自体は、縄文時代頃からあったのかもしれません・・・。北畠親房の「神皇正統記」によると、「ワ」は「我」ではないだろうかという説があるそうです。中国の人に、おまえ達はなんだ?と聞かれた日本人が、私達(の国)という意味で「我」と云ったのを、国名だと勘違いされて、日本は「ワ」となったという事らしいのですが・・・しかし、私が思うに・・・彼らが言った「ワ」とは、集落の意味を指す「輪」もしくは「環」だったのではないかと・・・。きっと、当時の日本人には、国という概念そのものが何だか分からなかったのかもしれません・・・。彼らの集落の仲間の世界しか知らないのですから・・・。集落で住む「ワ」の世界は、今でいう近所づきあいのコミュニティーがすべてですから、人との調和を重んじて暮らすという意味も、「ワ」の中には含まれていたかもしれませんね!中国から「倭」というバカにされたような当て字を付けられようが、文字の文化をもたない日本人には、漢字から来るイメージも何もなく、ただ単に音声のみの感覚で、「ワ」=集落のコミュニティー・・・ついては日本人そのものを表すものになっていったのでしょう。それは、「ワ=倭」が、大化の改新後「日本」という国号に改められてからも、一般庶民の間では、「ワ=日本」という概念は消えることなく、保ち続けられていたのかもしれません。(後の時代に出没する日本の海賊「倭寇」も、「倭」ですからね・・・。)そして、卑しい民族を意味する「倭」に、イメージを一新させる新たなる概念を与えてくれたのが「和」だったのではないでしょうか?これこそ、人との調和を重んじる日本人にぴったりの漢字ですよね!(そういえば、日本を意味する「大和(ヤマト)」も、「大きい和」と書きますからね~。)私達が、「和」という言葉を使うとき・・・もしかしたら、DNAにきざまれた私達の祖先の「ワ」のコミュニティーを、脳裏のどこかに思い描いているのかもしれません・・・。豪族同士の争いや、天皇暗殺などのいざこざがたえなかった頃に、「和を以って貴しと為せ!」と一喝してくれた聖徳太子・・・。「和」が「我」「吾」になりつつあり、日本人の和の美徳が失われつつある現代にも、大きな一喝を与えてもらいたいものです。人気blogランキングよかったら、クリックして下さいね~!
2005年02月18日
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皆さん、こんばんわ☆三連休はいかがお過ごしでしたか?もしかしたら、連休中もお仕事という人も多かったかもしれませんね・・・。私は、2月11日から始まった、愛知県足助町の『中馬(ちゅうま)のおひなさん』を見に行きました~♪ 足助町は、あの世界のトヨタ自動車本社がある豊田市と隣接する場所にあるんですけど、長野や岐阜の県境も近いからでしょうか・・・そんなことが想像できないほど自然豊かで・・・山間に流れる足助川沿いに、江戸時代からの古い家が立ち並ぶ、それはそれは、歴史豊かな風情のある町なんです。 そんな足助町で2月11日から3月6日まで開かれている『中馬のおひなさん』という、町をあげてのお祭りに行ってきた訳ですが、ここで疑問に思ったのが、「中馬って何だ?」って事です。そこで、足助観光協会から出版されている『新・三州足助』というガイドブックを見てみると・・・もともと、足助町は、古くから太平洋側と信州とを結ぶ交通の拠点として栄えた町だったそうです。名古屋から足助経由で、長野県の塩尻(諏訪湖畔)を結ぶ「伊那(伊奈)街道」は、縄文時代から諏訪湖周辺に出土する黒曜石を運んだり、戦国時代には、武田信玄を始めとする各地の戦国武将たちが通ったりして、中山道に次ぐ街道として重要な役割を果たしていたんですね。また、古くから、愛知県の吉良町周辺作られた塩を、この伊奈街道を通じて信州へ、信州からは年貢米・たばこ・山の産物などを馬などに積んで運んでいたのですが、足助は、これら運搬物資を積み替える、中継地点の場所でもありました。そして、一般的に、この街道で物資の運搬に関わる人たちを「中馬(ちゅうま)」と呼んだそうですが、その語源は、「賃馬」「中継馬」とも言われています。明治時代には、年間約2万俵を越える塩が、足助の塩問屋に入り、信州に運ばれていったそうで、これらの大量の塩を運ぶ馬の数も、年間、延べ5千頭だったということですから、いかに、この足助が物資を運ぶ宿場町として栄えていたかがわかりますよね~。(だから、中馬街道と言われていたんだね・・・)そのせいでしょうか・・・山間の田舎町であるにもかかわらず、足助には、非常に裕福な家が多いような気がするのは・・・。 (明治、昭和初期のおひなさん) (京都式のおひなさん、雄雛と雌雛の並び方が逆になっています。)こういった段飾りのお雛様は、元々、公家や武家の家にだけ飾られていたそうで、一般の庶民は、お人形さんから集めていったらしいんですね。 (今が旬の、牛若丸と弁慶です!)そして、明治以降は、一般の家庭でも、第一子が生まれると、男の子でも女の子でも、母親の実家から豪勢な雛人形が贈られてきたそうです。 しかし・・・現代では、雛人形を飾る家も少なくなり、これだけ大量の人形は家の中を圧迫する存在としてしか見られなくなりました・・・。そこで、平成8年ごろから、足助町の商店・一般家庭が一斉に、これらのお雛様を飾って、観光客の皆さんに見ていただこうというイベントが始められ、年々、その知名度は上がり、去年は100軒以上もの御宅で雛人形が飾られ、観光客も7万人を越えるまでになったとか? (賑わいを見せる、中馬のおひなさん) (花もちの手作り体験をする子供さん)また、足助をこよなく愛するアーティストの「からさわてるふみ」さんの手作りのおひなさんも、このお祭りに一層彩りを添えています。 (もう、めちゃくちゃ可愛いんです!) (からさわてるふみさんによる、お人形の制作実演!)あんまりにも可愛らしかったので、早速、からさわさんのおひなさんを購入させていただきました!「お写真、撮らせて頂いてもいいですか?」とお伺いすると、照れくさそうに、「どうぞ!」と言いながら色づけをしておられました・・・帰り際も、「帰り道はお気をつけてくださいね~!」との一言が!めっちゃ嬉しかったですね~。この方は、銀座の三越などでも個展を開かれたこともあるそうで、もしかしたら、そのうち偉大な「画伯」ってことになって、気軽にお声をかけることも出来なくなってしまうかもしれません・・・。******************************そんなこんなで、楽しんでまいりました~!あまりにも楽しかったので、また来週あたりにでも行って来ようと思ってます!(次回は、足助のグルメでも、書こうかしら?)人気blogランキングよかったら、クリックして下さいね~!
2005年02月13日
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皆さん、こんにちわ☆やっと、寒さも和らいできましたね~。このまま、この暖かさが続いて、春になってくれないかな・・・なんて思ったりして・・・。ところで、前回の「栃木の鬼ころし」について、ぶんさださんから、「鬼退治にまつわる話があるのかと思った・・・」というコメントと頂きました。・・・そうなんです。実は、あるんですよ。こわ~いお話が!その由来とは、なんでも・・・平安時代中頃、都では鬼による誘拐,略奪の被害が大きかったそうで・・・当代随一の陰陽師・安部清明の占いによると、丹波の国大江山(現在の京都府)にすむ酒呑童子を頭とする鬼一族のしわざとわかるんですね・・・。 そこで、天皇から源頼光(みなもとのらいこう)に鬼退治の命が下り、頼光は配下の四天王と呼ばれる渡辺綱・坂田金時(金太郎の童話のモデルになった人だね!)・碓井貞光・卜部季武、および友人の藤原保昌、彼らの家来数名を連れ、大江山に向かいました。途中、一行は三人の老翁に出会い、老人たちは頼光らに隠れ蓑と神酒を授けられたそうです。それは、人が飲めば力がつくが、鬼が飲むと神通力を失う不思議なお酒だったとか?(これが、鬼ころしの由来となるお酒なんだね!)頼光たちは、鬼の住処を訪れ、道に迷ったので一晩泊めて欲しいと頼みます。(いきなり「泊めて!」って、頼むなんて・・・まるで『田舎に泊まろう』みたいやね・・・)ここで頼光は泊めてくれるお礼にと酒を差しだし、鬼たちもそれを喜んで酒盛りが始まります。 やがて酒がまわり鬼たちが寝てしまったところを、頼光らは隠れ蓑をつけて酒呑童子のそばに近寄り、一気に首をはねました。 酒呑童子の首ははねられたまま頼光に飛びかかり、その兜にかみついたまま動かなくなったそうな・・・。せっかく好意で泊めてあげたのに・・・恩を仇で返されたみたいで、鬼たちがちょっとかわいそうな気がしなくもないですが、ここで疑問なのが、酒呑童子とは、そもそも何ぞや?ということです。他の鬼たちとどう違うのか?そして、鬼など存在したのか・・・?いろいろな疑問が浮かんできます。一説によると、酒呑童子とは「捨て童子」つまり、捨て子だったという解釈もあります。その出生にまつわる伝説として、平安初期、恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となって越後国に来た時、その従者の一人、石瀬俊網とその妻に子供がいなかったため、信濃にある戸隠山に参拝に行きました。そして、3年かかって、やっと子供が生まれることになります・・・。しかし、その子供があまりにも手のつけられない暴れん坊だったため、国上寺に稚児に出されてしまいました・・・。稚児というのは、皆さんご存知の方も多いと思いますが、お寺のお坊さんは、女性と関係を持ってはいけないため、その代わりに、可愛らしい少年たちを相手に性欲を満たしていたんです・・・。あんなに切望していた子供が授かったというのに・・・稚児に出してしまうなんて、ひっどい親だな~って思いますよね。また、二つ目の伝説として、奈良絵本に書かれているものですが、嵯峨天皇(809-823)のとき比叡山延暦寺に、酒呑童子という不思議な術を心得た稚児がいたそうです。人々が怪しんで素性をしらべたところ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫と、伊吹山の山の神=伊吹大明神という異類同士の結婚によって生まれた子供だったとか・・・?(ホントかどうか分からんけど、何か訳ありの子だったんだろうね・・・それだけでも悲劇!)それで、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名づけ、10才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りしたとか?両方の話ともお稚児さんで、親から見捨てられ、寺の坊主の慰み者という惨めで可哀想な子供時代を送ってきたのでしょう・・・。「しかし、そんな状況にめげるような彼らではなかったんですね~!第一の伝説にある酒呑童子は、あまりの美貌に、女性にモテてモテてどうしょうもなかったそうな・・・。でも、彼に関わった女性たちが皆、次から次へと死んでしまうという噂が立ったので、酒呑童子は女性にもらった恋文を全部焼き払ってしまったのです。ですが、その煙で気を失い、気がついたときには世にも恐ろしい鬼の形相に変わっていたとか?(女の怨念は恐いなぁ~”)第二の伝説の彼も、京都のお祭りで、自分で彫った鬼のお面を被って鬼踊りをしようと、すごいはりきっていて、お祭りでもすごいウケて人気者になったらしいけど・・・。でも、祭りの後、その鬼の面が顔から剥がれなくなって・・・比叡山の坊さんたちからも追い出されて、京都の大江山に移り住んだとか・・・。それで、京都の町で、強盗・略奪の限りを尽くしていたんだろうけど、当時、彼のほかにも、そういった連中すべてを「鬼」と呼んでいたフシがあるよね・・・。それにしても・・・こういう話を聞くと、酒呑童子にちょっと同情しちゃうかも・・・。源頼光に不意打ちを喰らい、最期に「鬼に横道なきものを・・・」と言い残して息絶えたといいう酒呑童子。鬼は約定を違える事は無い・・・鬼さんは約束は破らない・・・そんな酒呑童子と、鬼退治をしようとして、酒呑童子に付き合って人肉まで食べたという源頼光らと・・どちらが鬼だったのか・・・ホント、分からないよね・・・。人気blogランキングよかったら、クリックお願いします!
2005年02月10日
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皆さん、こんばんわ★節分を過ぎて、寒さも一段落した感がありますね~!でも、まだまだ油断は出来ませんが、こうやって、三寒四温を繰り返しながら、春になってゆくんでしょうね・・・。・・・なんて、そんな悠長なこと言ってる場合じゃなかったわ・・・。昨日、お昼御飯にうどんを作っていたら、家のバカ猫・チビ太がガスレンジの側をかすめ通ってきて・・・その瞬間!「ヒイィィィっ~!火があぁぁぁ~!バカバカバカ!!」もう、卒倒するくらい驚いてしまいました・・・。下手すりゃ、あわや大やけど・・・?ってトコだったけど、毛先が少し焦げた程度で済んで、ホント、ホッとしたよ~!(まったく人騒がせっていうか・・・普段から、台所に登っちゃダメだ!って言ってるんだけどね・・・猫に躾けをするのは難しいね・・・)話は変わって、この間スーパーで見つけた、栃木の北関酒造の「鬼ころし」・・・あれ、一升瓶(1.8リットル)で1,550円と、めっちゃくちゃ安い割には、れっきとした純米酒だし・・・キリッと辛口で、ホント、美味しかったわ~!「鬼ころし」っていうと、今は、値段の安い辛口のお酒の代名詞みたいになっちゃっているから、純米と米麹だけで作られているのなんて、ほんとに珍しいみたいね・・・。私、お酒はあんまり詳しくないし、そんなに飲む方でもないんだけど、でも、なんとなく醸造アルコールの混じったお酒だけは飲む気がしないのよ・・・。それに、今や、純米酒は、大吟醸でもない限り、2,000円前後で売っている物も多いし、全国各地の小規模な酒造でも、たくさん作られているからね~。水のキレイな場所で作られているような・・・知るひとぞ知る隠れたブランドを探すっていう楽しみもあるよね~。ところで、「鬼ころし」って、鬼が飲めないくらい辛口っていう意味と、鬼も飲まないくらい粗悪な酒っていう意味もあるんだって・・・。粗悪・・・って言っても、別に材料が悪いんじゃなくて、昔は、どちらかというと甘口で、とろっとした飲みあたりのお酒がもてはやされていたから、辛口のお酒は、不味いっていう評価しか受けてなかったんだろうね・・・。(お酒に、醸造アルコールが混じるようになったのは、太平洋戦争中に、米不足でもお酒が作れるように。。。ってことで始まったらしいから・・・。それが、戦後になっても、低価格で手間がかからないことに味をしめてしまった酒造メーカーが、醸造アルコール入りのお酒作りを止められなくなってしまったのね・・・)「鬼ころし」は、江戸時代頃から、全国各地で作られていたけど、辛口のお酒が人気がない為に、どんどん作られなくなっていって・・・とうとう、飛騨高山の蔵元・老田酒造店だけしか残らなくなっちゃったとか?それでも、その蔵元は頑張って「鬼ころし」を作り続けていって・・・ここ20~30年じゃないのかな?地酒ブームとか端麗辛口のお酒が評価されてきて、再び、日本各地で次々と「鬼ころし」が復活していったのは・・・。でも、そのお陰で、「鬼ころし」は、本当に粗悪で安価な「鬼も飲まないくらい不味い」ものまで沢山出回るようになってしまいましたから・・・(残念!!)人気blogランキング今日のネタ・・・ぷーたろです。「冷してお飲みください」と書いてあるけど・・・一升瓶はうちの冷蔵庫に入らないとです・・・。
2005年02月07日
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皆さん、こんにちわ★ 今日は立春ですが、寒波の影響でまだまだ寒い日が続きますね・・・。思えば、今くらいの時期が、一年で一番寒い時期だと思うんですけど、どうして立春なんて言うんでしょうね~?やっぱり、旧暦の方が、季節感がしっくりと来るような・・・そんな気がします。ところで、最近は、あのトロイ遺跡を発掘した事で有名になったシュリーマン(1822~1890)の書いた本を読んでいます。彼は、確かに歴史的大発見に貢献したらしいですが、でも、遺跡にあった目ぼしい遺物を、シュリーマンがほとんど持ち帰っちゃったらしくて・・・その挙句に、遺物のほとんどが、第二次世界大戦の爆撃で壊されちゃったと言うではないですか~!(あ~、まったく・・・余計な事してくれちゃって~!もうちょっと後の時代に発掘されていれば、こんなことにはならなかったのにさ~!)まあヤツは・・・もともと考古学者でも何でもなくて、ただの歴史オタクだったらしくて・・・なんと!40歳で商社の仕事を辞めて、悠悠自適にも・・・世界一周旅行を楽しんでいたらしいよ~。それで、日本や中国にも観光旅行に来ていたみたいで、そのときの書いたというのが、今、私が読んでいる『シュリーマン旅行記 清国・日本』という本なんだね・・・。ま~ね・・・確かに、西洋人から見た1800年代の中国や日本の生活の様子が、客観的に、事細かに書かれていて、当時の文化を知るには、とても貴重な本だと思うんだけど・・・どうして、当時の中国に外国の総督府があったのか・・・もちろんそれは、イギリスが勝手に戦争を仕掛けて(アヘン戦争のこと)、むりやり中国に貿易港を開かせたからなんだけど・・・その辺の事は、別に疑問に思ってなかったんだろうね・・・まぁ、奴ら、西洋の上流階級の人間にとっちゃ、西洋がアジアを支配することなんて、当たり前の感覚でしかなかったんだろうし・・・。シュリーマンは、日本の事は、清潔で美しい街並みと、気さくで礼儀正しい国民性に敬意をはらっていて、非常に褒めちぎっているけれど、中国の事はというと・・・「街行く人は皆、ゴミを道に捨てていくので、あちこちにゴミが山のように積もり悪臭が漂う不潔で不衛生な街並みに、おまけに、まともなホテルすらなく、仕方ないので、お寺さんに泊まらせてもらったところ、土間みたいな地面が剥き出しになっている部屋に通されて・・・地面が湿っていて、耐えられないくらい汚かった」とか・・・?これじゃ、中国の後に寄ったという日本が、あまりにも美しく見えるはずだわね・・・。中でも、彼が驚いたのは、女性の『纏足(てんそく)』らしいね・・・。纏足については、いろんな小説でも書かれているから、ご存知の方も多いと思うんだけど、これは、ホント・・・恐いよね・・・。2~3歳くらいの女の子の足の指(人差し指から小指まで)を、足の内側に折り曲げて、足の形を、まるでティアドロップ・・・先が尖って、踵が丸い・・・涙型の状態に作るんだって!しかも、それだけじゃ終わりじゃなくて、その後、足の甲の骨をくるぶしの部分を中心に、バキッと折り曲げて、そのまま包帯で固定させるらしいんだよ・・・。足の甲が直角に反り返って、縦のコの字変形するから、それはそれは・・・痛いなんてもんじゃなかったらしいよ~!包帯で固定された足は、赤く腫れ上がって、化膿したりして・・・女の子達は、悲鳴をあげて、気絶することもあったとか?纏足を作るのは母親の仕事だったけど、あまりにも痛がる娘が可哀想で・・・途中でやめちゃったりする人もいたみたいだね。それで、10年くらいかけて12センチ以下のサイズを作るそうだけど、昔の中国では、『三寸金蓮』とか言って、三寸(9.9センチ)くらいの足の女性は、地面に触れることもない為に、まるで赤ちゃんの足のようにふわふわとしていたそうで・・・それはそれは、何物にも換え難いくらい美しい、美の象徴だったんだね・・・。当時の男性達は、小さな足で、よろよろとよろめくように歩く纏足の女性に、なんとも言えない色気を感じたそうだし・・・これさえしていれば、上流階級の御曹司に目を留められて、玉の輿にも乗れたというから、まさに、セレブに憧れる、今の日本女性と同じような感じもしなくはないよね~。(娘が可哀想だからといって、纏足を止めたりすると、後で、娘に「何で、纏足してくれなかったのよ~!」と泣き付かれる羽目になるというから、どちらが娘思いになるのか・・・分かったもんじゃないよね~!)纏足の歴史は、長い中国の歴史からすると、それほど古いというものではないらしいんだ・・・。纏足が始まったのは、だいたい南宋時代・・・日本で言うと鎌倉時代くらいかな?宋(960~1279)の張邦基の随筆集『墨荘漫録』に、「南唐の宮廷で、(踊りを踊る)舞姫が帝の求めに応じて足を布で縛って小さくし、新月の形に曲げて黄金の蓮の花型の舞台で舞って見せた」 という記述があって、そうすると、真っ白な靴下をはいた足は雲の中を舞っている様で、体を旋回させる様はさながら雲を凌いで天に昇るように、それはそれは美しかったそうな・・・。(だから、『金蓮三寸』って言うのね~!納得!!) それ以前の、唐の時代に、玄宗皇帝のお后だった楊貴妃が自らの命を絶ったとき、残されていた靴がたったの三寸しかなかった・・・っていうネタがあるけど、そんなこと『トリビアの泉』に送ったら、ガセビアの沼に放り込まれますから~!(多分、楊貴妃は小さな足であってほしかったという願望が盛り込まれた、後の時代の作り話でしょう・・・)それ以降、宮中の女官の間で、足を小さく見せる為に白い布で縛ることが流行したみたいで、それが上流階級の子女の証しと言う風になっていくんだろうね・・・。そして、どんどん時代が過ぎるに従って、一般の階級にまで普及していって、纏足は、もはや中国の女性の間で、当たり前のようになった訳だけど、纏足の習慣があるのは、実は、中国の中でも、漢民族に限られた話なんだって!清王朝(1644年~1912年)を仕切っていた満州族(女真族)は、一切やらなかったというから、あの悪名高き西太后も、もちろん、纏足はしていなかったということになるね・・・。その纏足の習慣も、1912年、清朝が崩壊し、中華民国の建国と共に廃れていく訳だけど、1950年代頃まで雲南省の女性達に行われていたとのこと・・・。(恐らく、纏足をしたお婆ちゃんの姿を、今でも見ることが出来るでしょう・・・)海外の人からは、忌々しい悪習だの、女性の人権を無視した拷問と罵られていた纏足だけど、でも、当の中国女性からしてみたら、何も施さない、でっかい足をした女性の方が、ダサくてカッコ悪かったのかも・・・?まあ、今の女性達だって、爪先の尖ったピンヒールを履いている訳だし・・・ほっそりとした形の良い小さな足に魅力を感じる男性も多いはず!外部から、とやかく言われることなんて、中国の人からすれば、余計なお世話だったのかもしれないね・・・。人気blogランキング
2005年02月04日
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皆様・・・こんにちわ!今日は、寒波のせいか、風が強くてとても寒いですね・・・。皆様の住んでいらっしゃる地域は、雪など大丈夫でしょうか?ところで昨日は、知人が描かれたという絵を見に行くために、名古屋まで足を運んだのですが、久々に都会(?)に出たもんで、周りはビルばっかり・・・田舎もんの私はキョロキョロするばかりで、非常に疲れてしまいました~。(歩きすぎて、足にきましたわ~!)大阪に住んでいた頃は、毎週のように難波やら心斎橋やら梅田などを歩き回っていたというのになぁ~!!やっぱ、年なのかな・・・田舎の方が落ち着きますわ・・・ふ~。余談はそのくらいにして・・・と・・・ここだけの話!この間、すご~く面白いもの見つけたんですよ!それはね・・・インド人もびっくりのカラーリング剤、『ヘナ』!ご存知の人も多いと思うけど、これは、インドに5000年前から伝わっている方法なんですけど、『へナ』というオレンジ色の染料効果のあるハーブの木の葉っぱを粉末にして、それをお湯などで溶いた物を頭に塗りつけると、髪が染まるというものなんですよ~。私達が普段、(白髪染めも含めて)髪を染める時は、美容室や理容室を利用するか、または市販されているカラーリング剤を買ってきて家で染めていると思うんだけど、これらカラーリング剤のほとんどが、当たり前だけどケミカル(化学物質)な訳じゃないですか~?ナイスミドルteruさんのサイトにも書かれていたけど、カラーリング剤って、パーマ液よりもかなり毒性が強いらしいんですよね・・・。そういえば、私なんて、一番最初にカラーリングしたときは、もう頭がピリピリ痛くて、美容師さんに「すごく痛いです!」って訴えたけど、我慢してくださいって言われるだけで、何もしてくれなかったのね・・・。(「痛い時は言って下さいね!」って、あれは口先だけか・・・。もし、頭皮に何かあった時はどうするつもりじゃ~!!)それに、美容師さんたちの体にも良くないらしくて・・・液剤から出る臭気で気分が悪くなったり、手が荒れたり、挙句の果ては体にしみこんだ液剤で、肝臓壊したりして、美容師を辞めざるを得なくなった・・・ってことよく聞きますからね~。そんなこと言っても、もう10年近くカラーリングやってるからどうしようもないかもしれないけど・・・でも、この間、体調悪い時にシャンプーしたら、頭がチクチクしてきて・・・その時、シャンプーでさえこうなんだから、カラーリングなんてどうなっちゃうんだろ・・・?60歳くらいで薄毛になっちゃう女性とか最近多いけど・・・もしかしたら自分もそうなっちゃうかもしんない・・・って考えたら、「もう、カラーリングや~めた!」って思ったんですよね・・・。でも、そう思っても、髪は染めたいですからね・・・。そんな時、ハーブで髪を染めたって人の話聞いて、自分でも検索してみた所・・・あるじゃない!『へナ』っていう面白いものが!!早速、取り寄せて、試してみましたよ~!天然のへナは、まるで抹茶のような、くすんだ緑色の粉末・・・。これを、お湯で少しずつ・・・ダマにならないようにマヨネーズ状になるまで溶いていって、一晩寝かせます。こうすると、液体が落ち着いて、入りやすくなるんですね。そして、色味を調整するには、紅茶やコーヒーの煮出し汁を使うと少し落ち着いた感じになるし、レモン汁を混ぜてみると色の定着が良くなるらしいです。一晩置いた物を、もう一度、湯煎で暖めなおして・・・わくわくしながら、頭に塗りたくりました~!ヘナは、頭皮に塗ってもいいんですよ~。かえって、頭皮に溜まってしまった毒素などを排出してくれるし、なにより、とっても気持ちよくて、心底リラックスできる感じです・・・。頭皮から髪全体に塗りたくった後は、ラップを巻いて乾燥しないようにして、その上からタオルやヘアキャップを被って3時間ほど置きます。時間を置けばおくほど、染まりが良くなるらしいです。それに、ヘナは、髪を傷めないどころか、逆にトリートメントしてくれるので、一石二鳥なんですよ! (染め上がった髪です!)もともと、私の髪は、カラーリングで黄色がかっていたので、この上に色が入って、ワインレッドのようになりましたが、ヘナは、もともと白髪染め用なので、黒髪の人には、ちょっと染まりにくいかもしれません・・・。多分、光に当てると色が見えるヘアマニキュアのような感じになるかもしれませんね!****************************************************このように、何もかも便利になってしまった現代で、手間隙をかけて、昔ながらのやり方を経験するのも面白いものですよ~!なにより、体に優しくて、エコにもいい・・・というのが嬉しいところです。人気blogランキング
2005年01月30日
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皆さん、こんにちわ!すっかりご無沙汰してしまって、ホントに申し訳ありませんでした~!(10日ぶりの日記です・・・。)実は、先週、書こうと思っていた貴重なネタを、何となく気乗りしなくて、一つボツにしちゃったんですね・・・。(ちと、もったいなかったかな?また、機会があったら・・・ということで)今回は、愛知県の知多半島の真ん中にある、美浜町という所に行ってきました!ここは、あの源義経のお父さんである義朝さんのお墓があることで有名な野間大坊もあるし(また、あとでね~!)、そのほかにも知多四国88霊場があったりして、なかなか見どころの多い場所でもあるんですけど、今回の目玉は、『和訳聖書発祥の碑』を見に行く事だったんです!皆さん、日本で一番最初に聖書を和訳したのは、学者さんでも、牧師さんや神父さんでもなくて、実は、江戸時代の田舎町出身で、身分もない、唯の3人の船乗りさん達だとしたら・・・?ちょっとびっくりじゃないですか?私も、はじめ聞いた時は、びっくりでしたよ~!!その3人の方達の生まれ故郷が愛知県美浜町にあるというので、ちょっと尋ねてみました・・・。 (とても風が強く、波が荒いです・・・対岸に微かに見えるのは、鈴鹿山脈!)聖書を和訳した岩吉、久吉、音吉の3人の船乗りさんは、江戸時代後期の生まれで、伊勢湾に面した愛知県知多半島の小野浦という港を拠点に、宝順丸という、江戸や大阪に米や海産物など様々な物資を運ぶ千石船に乗り込んでいました。そして、運命の船は、1832年(天保3年)10月11日、三重県の鳥羽を出発し、江戸に向かう途中だったのでしょうか?静岡県沖の遠州灘で嵐に巻き込まれ、遭難してしまいます・・・。宝順丸の乗組員14人は、無事に嵐を乗り切ったものの、潮に流されるまま、見渡す限り海以外何も見えない太平洋を、1年もの間、さすらっていたんですね・・・。でも、千石船ですから、米もたくさんありますし・・・食料に困る事はありません・・・。でも、人間、新鮮な野菜や果物を食べないで居ると、ビタミンCの欠乏によって、壊血病という体中の血管がボロボロになって、ついには死に至る、恐ろしい病を引き起こしてしまうんですね。昔の長航路の船員さん、軍隊の人たちは、難破や爆撃でなく、この病気で亡くなる人のほうが多かったらしいです。宝順丸の乗組員の14人のうち、11人がこの壊血病で亡くなりました・・・。 (美浜町・小野浦の良参寺にある宝順丸乗組員のお墓)生き残ったのは、岩吉、久吉、音吉の3人・・・このうち、久吉と音吉はまだ14~5歳くらいの少年でした。この若さも、生き残った一つの理由だったのかもしれません・・・。1年ほど漂流を続けた後、やっと、カナダのバンクーバーから程近いフラッタリー岬に漂着します。これで、何とか助かった~!と安心するのもつかの間、彼らは、アメリカンインディアンに捕まり、奴隷にされてしまいます・・・。しかし、彼らのこの悲惨な事情を知ったイギリスの商社・ハドソン湾会社の援助によって、彼らは日本へ帰る道が開かれることになったのです!その後、イギリス軍艦イーグル号に乗り込んだ3人は、1834年11月バンクーバーを出発し、サンドイッチ諸島(ハワイ)に立ち寄り、南アメリカ最南端(南極の方ね!)のホープ岬を通って大西洋に抜け、イギリスに向かいます。1835年6月、イギリスに到着し8日間ほど滞在した後、今度は、大西洋を南に下り、南アフリカのケープタウン経由でインド洋に抜け、1835年12月、当時、中国最大の貿易港だったマカオに、ようやく到着するんですね!しかし・・・当時はスエズ運河も、パナマ運河もなかったから・・・すごい遠回りというか・・・まさに世界一周してしまった訳なんだけど、この間にも、彼らはすっかり英語をマスターしてしまっていたんでしょうね・・・。このマカオに1年半ほど滞在している時に、ギュツラフというプロテスタントの一派であるウェスレー派の牧師さんから、聖書の日本語訳の話を持ちかけられます。しかし、岩吉、久吉、音吉たちは、日本で、耶蘇教(キリスト教を)に関わる事がどんなに恐ろしいことになるかを良く知っていますから、最初は抵抗があったことと思います・・・。(戦国時代のキリシタンの悲劇や、お寺の檀家制などもそうですね・・・)でも、結果的に、この仕事に関わる事を選んだという事は、長い航海の間に、自然とキリスト教を受け入れていったという事なのでしょう・・・。彼らの翻訳は、今の聖書からすると、非常に面白い言葉に訳されています。例えば、新約聖書ヨハネ伝では、「始めに言葉ありき」という所を、「はじまりに賢きものござる」と訳しています・・・。ここで言う「言葉」というのは、単なる言葉ではなく、ギリシア語の『ロゴス』(神の真理のようなもの)ですから・・・きっと、彼らも、かなり頭をひねって考えた挙句出てきたものなんだと思います。そう考えると、なかなか鋭い言葉だな~と思いますね・・・。そして、いよいよ、彼らも日本へ戻れる日がやってきます!それは、1837年7月・・・あの宝順丸で遭難してから、約5年もの月日が流れていました・・・。いよいよ・・・ふるさとの小野浦も目の前だ・・・!ようやく生きて帰ってこれた!恐らく、彼らの胸の中は、父や母の顔・・・ふるさとの風景で一杯だったかもしれません・・・。しかし、当時の日本は、鎖国政策をとっており、外国の船はそう簡単には入れませんでした。彼らの乗った船は、沿岸で日本からの容赦ない砲撃を受けます・・・。ようやく日本に帰ってこれたというのに・・・目の前の港にたどり着けない悔しさが込み上げてきたことでしょう・・・船は、やむなくマカオへと引き返さざるをえませんでした。 ******************************その後の、3人はといえば・・・岩吉、久吉の二人はイギリス貿易監督庁(商務庁)で通訳として働いていました。そして、音吉は、アメリカに渡った後、上海に戻り、イギリスのテント商会の高級社員となって活躍し、1854年の日英和親条約の締結の際には、通訳として長崎に上陸したそうです。その時、幕府に捕まるのが恐く、身分を中国人として偽って入国した彼の目には、ふるさと日本がどう映ったのでしょうか・・・?そして、明治に入り、政府からの遣欧使節らが、ヨーロッパやアジアの情勢を聞くために音吉を訪ねたそうです。その中には、あの福沢諭吉も居ました・・・。しかし、諭吉は、情報収集には熱心だったようですが、音吉の事を「たかが漁村の息子じゃないか・・・」といった感じで、冷ややかな眼差しで見ていたとか?何だか、「天は人の上にも人の下にも人を作らず」などどほざいた諭吉の言葉が、ひじょ~に空しく響きます・・・。明治になっても、音吉ら3人は日本に帰ることなく、異国の地で亡くなりました・・・。しかし、通訳を務めるなど、彼らの国際的にも目覚しい活躍振りには、目を見張る物があります。苦しい中にも、自分自身の人生を輝かしいものに変えていった彼ら・・・恐らく、もともと頭の良かった人たちだったのかもしれませんが、日本に居る限りは、どんなに優秀であっても、ここまで出世する事は出来なかったでしょう・・・。余談ですが、音吉の息子は、故郷に帰りたい・・・という父親の思いを継ぐために日本に戻り、神戸の商社で働いていたそうです・・・。また、日本からの難破船の乗組員を助け、本国に帰れるように手配もしたという音吉・・・そこには、「故郷に帰りたい・・・」という気持が、痛いほど込められていたのかもしれません・・・。 (岩吉、久吉、音吉の記念碑です。この方達は、故郷の誇りなのでしょうね!)参照:三浦綾子『海嶺』人気blogランキング今日のネタ:昨日の『笑点』では、波田陽区のネタがたくさん見れて嬉しかったな~!来週はアンジャッシュだそうですよ~!あの笑点も若手お笑いブームに乗ったか?
2005年01月24日
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冬のソナタ・・・って、もう日本じゃタイムリーな話題じゃなくなっているかもしれないけど、本場・韓国じゃ、日本で爆発的な人気が出た事から、また再放送されて人気を呼んでいるらしいね・・・。日本で冬ソナファンっていうと、お年を召して、「更年期もとっくに終わっちゃったわ~!」っていうようなマダムを思い浮かべちゃうけど、でも、先入観とか取り除いてドラマを見てみると、これが、結構面白いのよ!特に、昨年の暮れにNHK-BSで放映していた韓国語版の方が、役者さんの声もそのままで面白かったね・・・。それに、すごく興味深かったのが、高校生時代の最初の2話かな?男子高校生の詰襟の服も、女子の制服も日本とほとんど変わらないし、学校の校章なんかつけてるトコとかも、授業が終わった後、先生に礼をして終わるトコなんかも日本と一緒だ~!っていうか、あまりにも違和感のない風景に、日本語版で見てた時なんて、これが韓国のドラマだってことを忘れちゃうとこだったよ・・・。多分ね・・・これ、戦前の日韓併合時代の名残だろうね・・・。でも、決して、日本は植民地支配していたわけじゃないのよ!(この辺が誤解されやすいんだけどね・・・)あくまでも日韓併合!・・・これは、明治時代、あの初代総理大臣の伊藤博文が「韓国が自立できるような国力を蓄えられるようになるまで、日本と合併して、教育・ライフラインを日本と同様に整えて、援助していこう。」という名目で日本の教育者や技術者をどんどん韓国に送り込んで行ったらしいね・・・。(でも、その真意が伝わらなかったのか、伊藤博文は安重根っていう運動家に暗殺されちゃったけどね・・・)それで、未だに、韓国の学校でも「起立・礼・着席」の号令も残っているみたいだし・・・冬のソナタに見るように、日韓併合時代の名残が至る所に残されているという訳なんだろうね・・・。教育事情だけでなく、言葉にも日本語との共通点が見出せるんだね・・・。例えば、高校生時代のチュンサン(ぺ・ヨンジュンが演じた人)が、アメリカに発つためにタクシーに乗っていた時、ユジン(チェ・ジウ)に借りた手袋を見て・・・いきなり「約束があるんだ!」と言って、タクシーを降りて行っちゃうシーンがあったんだけど、この「約束があるんだ!」というのは、韓国語で「ヤクソギ イッソヨ」って言うんだね・・・。厳密に言うと「ヤクソク イ イッソヨ」で、「ク」と「イ」がリエゾンされてヤクソギになっちゃうんだけど、要するに、ヤクソクは日本語と同じ約束から来ているものなんだね・・・。他にも、都市・市民など全く同じ発音で同じ意味のものから、写真(サジン)、主婦(チュブ)とか、同じ漢字から来ている単語もあったりして、結構、面白かったりするんだよね。多分、都市だの写真だのって言葉は新しいものだと思うから、これも日韓併合時代の名残かな・・・って思うんだけど、「約束」はどうかなぁ・・・?かなり古い言葉だったりする場合、逆に韓国から日本に入ってきた言葉ってこともありえるからね・・・。日本に最初に文字が伝えられたのは、4世紀から5世紀にかけてのこと・・・。百済(現在の韓国南部)の王仁(ワニ)博士によって漢字や儒教が伝えられたそうだ・・・。漢字や儒教は中国のものだけど、中国から直接伝わったものではないんだね・・・。その頃から、日本には、百済系の渡来人が多く移り住むようになって、大和(飛鳥地方)を中心に活躍していた東の漢氏(やまとのあやし)や、河内(大阪東部)に勢力を持っていた西の史氏(かわちのふみし)などに代表される豪族が登場して、その後、6世紀後半の聖徳太子の時代には、天皇家にも恐れられていた蘇我氏のような大豪族までも生み出すようになったんだ・・・。そんな感じだから・・・日本という国の文化や言葉の中に、如何に韓国からのものが入り込んでいるか・・・それはもう、数え切れないものがあると思うよ・・・。例えば、日本最古の木造建築で世界遺産の法隆寺にある、国宝の百済観音もそうだし・・・河内地方(藤井寺市)にある辛国(からくに)神社なんていうのもそうだろうね・・・。また、「奈良」という都市の「ナラ」は、韓国語で「国」を表す言葉だというね・・・。(今でも、韓国の人は「ウリナラ」という言葉を良く使うけど、これは、「ウリ」=「私達」「ナラ」=「国」・・・「私達の国」という意識を常にもつ愛国心の表れなんだろうね・・・。)これらのことを振り返ってみても、日本語と韓国語に共通の言葉が多いっていうのも、考えてみれば、不思議じゃないよね・・・。今、「冬のソナタ」のお陰で、日本と韓国の距離がグンと縮まってきたけど、これも、ただ単に、飛鳥時代以前の日本と韓国の本来の関係に戻りつつあるってことなのかもしれないね・・・。人気blogランキング参考資料:「日本古代史と朝鮮」 金達寿(キム・タルス)
2005年01月13日
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皆さん、こんにちわ!もう、すっかりお仕事にもなれて、お正月ボケからも醒め始めた頃でしょうか?(でも、また明日から三連休なんだよね・・・)そういえば、お正月にテレビ東京系で放映していた、「月10万円で暮らせる町」とかいう番組・・・あれ面白かったですね~!ただ単に、魚や野菜が安い!ってだけじゃ、田舎の方では、そんなの当たり前だから、別に驚かないけど・・・(だって、いつも市場で50円のほうれん草や200円で15個も入ったみかん買ってるし・・・魚は鯵10匹で200~300円だし・・・。)でも、兵庫県の温泉町(ホントにそういう地名があるのよ!あの『夢千代日記』の舞台になった湯村温泉のある所よ!)あそこは凄かったわ~!何つったって温泉湧き放題だから・・・!月1,600円の温泉使用料を払うだけで、蛇口から出る温泉使いたい放題よ!もちろん、水道料やガス代なんてかからないのよ~!奥さん!!それに、温泉で茹でた野菜は、色も瑞々しくて、栄養満点で美味しいらしいわよ~!おまけに、日本海側のカニもお安いんですって!セイゴカニが一匹10円ですって!!なんだか、私まで移住したくなっちゃったわ~!ちょっと喋り方が、KABAちゃん.風になっちゃったけど、狭い日本でも、いろんなところがあるのよね・・・。私も、今まで色んな所に住んでたことがあったけど、中でも、一番インパクトの強いのが大阪かしら・・・?なんっつったって、家を借りる時からがスゴイのよ・・・。関西では、礼金・敷金の代わりに、保証金っていうシステムがあるんだけど、その保証金がメチャクチャ高いのね・・・。今はそうでもないらしいんだけど、ちょっと前までは、およそ家賃の10倍が目安だったらしいわ・・・。(10万円の家賃だったら、100万円用意しなきゃならないのよ!もちろん、その半分くらいは出るときに返ってくるけど・・・でなきゃ、ぼったくりよ!)10倍っていうのは、おおよその目安だから、大阪でも環境の良い、豊中や千里あたりの住宅地ってなると、もっと高くなるわね・・・その上、ペットOKの物件っていったら、更に上乗せよ!あたし?え?もちろん、そんな所に住めるわけ無いじゃない!お金の用意できない人間は、大阪の中でも、それなり・・・の所に住むしかないのよ・・・その上、ペットOKの物件だったら、それなりの場所の・・・さらに条件が悪いところになるわけよ!あたしの借りた家っていうのが、これまたスゴイところで、目の前は片側3車線x2の大通沿いで、24時間、車の騒音がゴーゴー聞こえてくるわ、おまけに北西向きで日当たり悪いわ、ホームレスが、マンションのゴミ捨て場を見に来るわ・・・っていう感じだったんだけど、でも、商店街は安いし、人情味あるし・・・下町の風情を、それなりに楽しんで住んでたわけよ~!そんなあたしの日常は、新聞のローカル版をチェックする事から始まるの・・・。凄いわよ~!家の近くでオヤジ狩り(ちょっと古い言葉だったかしら?)、放火・・・そんな事は日常茶飯事で、これ以上のことは、大阪市民の名誉にも関わることなので、ちょっと言えないかしらね・・・。(はしご車を見て喜んでたのは、近所の子供とうちの猫くらいよ!!)中でも、一番ショックだったのは、年寄りが自分の住んでいる文化住宅に火をつけた・・・って事かしら?関東では、文化住宅って言い方あまりしないけど、関西では、木造のとってもふる~い、戦前に建てられたようなアパートを文化住宅って言うのね・・・。風呂なしで家賃も15,000円くらいだから、国民年金だけで生活しているお年寄りの方でも、無理なく払っていける金額だし、皆さん、きっと、昔から住んでいらして、楽しくご近所付き合いをしていたんじゃないかしら?でも、ある日突然、文化住宅の建て替えの話が市から持ち上がってしまったの・・・もちろん、鉄筋に建て替えれば、家賃は相場の10万円前後になってしまうわね・・・。そんな金額、文化住宅の住民の方々に、払えるわけ無いじゃない?そんな感じで、お年寄りの方々は窮地に追い込まれてしまったのね・・・。その中でも、ちょっとノイローゼ気味で、気持のやり場が無くなってしまった人が、自分の家に火をつけてしまったのかもしれないわね・・・。でもね・・・木造の古い文化住宅は、すぐに火の手が回って全焼しちゃうケースが多いから・・・焼け出されて家の無くなった他の住人の事も考えて欲しかったわね・・・。でも、そんな事が結構、多かったのよ・・・たとえ歴史バカでアホな私でも、その時ばかりは、世の中の無常を知ってしまったわね・・・。他にも、露骨な被部落差別・・・在日外国人への差別問題・・・増え続けるホームレス・・・様々な問題を抱える場所だったけど、でも、大阪・・・嫌いじゃなかったわ・・・むしろ大好きだった・・・。バスの運転手のオッチャンも、とっても親切に道を教えてくれたし、自転車屋のオッチャンも・・・いつも優しくて、無料でパンク見てくれたし・・・。人に迷惑をかける事を極端に恐れていた私に・・・「別に迷惑かけてもええやん!お互い様やないか!」と、大きな懐で優しく包んでくれた大阪の町を・・・最もエキサイティングな人生を送らせてくれた大阪・・・今でも大好きよ・・・。(でも、もう一度、あの家に住め!って言われたら、勘弁してほしいわ・・・)、人気blogランキングに投票よろしくね!PS:今日・・・13年あまり飼っていた金魚が亡くなりました・・・大阪でも姫路でも一緒だった金魚くん・・・お正月に死ぬのは申し訳ないとおもったのでしょうか?声を掛けると、前ひれを動かして、「大丈夫!」と言っていた金魚くん・・・死ぬまで義理堅くて、ホントに可愛かったです・・・また、天国で会おうね!
2005年01月07日
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皆様、遅くなりましたが新年、明けましておめでとうございます。本年も、お付き合いの程、どうぞよろしくお願い致しますね!それにしても、年が明けてから3日目を迎え、昨日あたりから帰宅ラッシュが始まっているそうですね・・・。そういう私は・・・今年もまた、お正月に帰ることが出来ませんでした・・・。でも、普通なら車で6時間の道のりも、この時期だと10時間以上もかかってしまいます・・・ましてや、3匹の猫連れの身としては、この距離と時間は、かなりしんどいものがありまして・・・実家に帰るのは、いつも、何も無い閑散とした時期を狙って帰っております・・・。もちろん、望郷の念が無いわけではないんです・・・。自分の家に帰ると落ち着きますし・・・いつも、がんじがらめに自分を縛っていたものから、暫しの間解き放たれて、本当に楽な気持になれますから・・・。そんな両親(良心?)への罪滅ぼしの意味合いも込めて、今回は、望郷の念・第二弾として遣唐使・阿倍仲麻呂を取り上げることに致しました。 *****************************「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山に出でし月かも」昨年の10月に、阿倍仲麻呂と同じくして奈良時代(717年)、唐(中国)へ入国した「井真成」という人物の墓誌が、中国の西安(昔の長安)で見つかったという記事が新聞に載っていた。その墓誌には、「姓は井、字は真成。国号は日本。開元22年(734年)正月、急病の為、36歳で死去。(中略)遺体は異国の土となったが、魂は故郷に帰る。」ということが漢文で記されていた・・・。36歳という若さで、しかも、異国の地で亡くなられたとは・・・どんなに無念な気持であっただろうか・・・彼の心の痛みが、1300年もの時を越えて、私達にようやく伝わった事で、やっと、彼も、天国で安堵していることだろう・・・。その井真成と、同じ船で同行した阿倍仲麻呂もまた、生きて日本に帰り着くことのなかった一人である。阿倍仲麻呂は、少年の頃から秀才の誉れ高く、16歳にして遣唐使のメンバーに選出された。そして19歳の時、唐(中国)の首都・長安に向けて出発!学問も文化も遅れた当時の発展途上国・日本から来たハンディも、言葉の壁をも物ともせず、がむしゃらに勉強を続け、ついには、唐の最難関の仕官試験(科挙)に合格し、日本人としては珍しく、唐で、高等官として国立図書館長など様々な役職を歴任し、玄宗皇帝の(あの絶世の美女!楊貴妃を愛人にしていたという超ラッキーなオッサンですわ・・・)厚い信頼を得るまでになったという・・・。しかし、優秀すぎるのも玉に瑕(きず)・・・阿倍仲麻呂は、何度か、帰国の申請を申し入れるものの・・・玄宗皇帝は、彼を気に入るあまり、なかなか日本に返そうとはしなかったそうな・・・。だが、唐に入国して36年あまり経った753年の冬、チャンスはやってきた!彼は、唐からの使節団として一時帰国が認められたのである!(う・・・これじゃ、北OOに拉致された某一時帰国者と変わらんような気も・・・)ようやく・・・一時的とはいえ日本に帰れる・・・大分中国に馴染んじゃったけど・・・でも、故郷の風景は今でも目に焼きついている・・・そんな気持が、出発する前に船の上で詠んだ、あの「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山に出でし月かも」(あの空に浮かんでいる月も、春日(奈良)の三笠山から出ている月と同じものなんだろうな・・・)という歌になって表れたのではないだろうか?しかし、不運な事に、彼の乗った船は、沖縄から奄美に向かう途中で嵐に巻き込まれ難破・・・命からがらたどり着いた場所が、なんと、ベトナムの安南(アンナン)だったそうな・・・。せっかく、日本が目の前という所に来て、またもや引き戻されてしまった・・・なんと言う運命だろう。だが、もしかしたら・・・その時、彼はこう思わなかったのだろうか?「中国では自分達は難破して亡くなってしまったと伝わっているだろう・・・このまま日本に、黙って帰ってしまおうか?」しかし、そんな冒険が出来るほど、彼は若くなかったのだろうか?それとも、長年の中国での生活に愛着が出てきてしまったのか?「自分の帰る場所はやっぱり、中国しかない・・・」阿倍仲麻呂は、56歳の老体にムチを打ちながら、かろうじて長安に戻ったのである。その後、長安で再び官僚生活に戻った阿倍仲麻呂は、難破で漂着したベトナムの安南に赴任した後、73歳の寿命を全うして、長安で亡くなった・・・。その時、彼の心に浮かんだのは、三笠の山の月だったのだろうか?それとも、50年以上も住み慣れた長安を愛しながら逝ってしまったのだろうか?そういえば、家の母なども、親のいなくなってしまった実家よりも、住み慣れた今の家の方がいい・・・と言っていたなあ・・・。望郷の念にも、複雑なものが入り混じっている事に気づき始めてしまった今日この頃だったりする・・・。(あ、これじゃ家に帰れない事への罪滅ぼしにならないか・・・?)よかったら、人気blogランキングにクリックお願いしますね!今日のネタ:「ぷーたろです・・・年賀状、68枚も書いたのに、元旦に到着したのは8通でした・・・ぷーたろです・・・。」(まあ、引越ししたばっかりだから、しょうがないか・・・)
2005年01月03日
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今日は大晦日・・・天気予報では、雪が降る・・・と言っていたのにこちらでは、予想に反して、かなり冷たい大雨になってしまいました・・・。そして、今年も、いよいよ・・・あとわずかとなってまいりました。今年は、皆さんにとって、どんな年でしたか?私は、今年の後半に、父の病気や自分の引越しなどが重なり、精神的にも、肉体的にも、かなり疲労度が大きかった年でもありましたが、そんななかでも、7月から始めた『楽天日記』で、様々な方に出会うことが出来たことは、自分の世界を広げる上で、とても大きな収穫となりました・・・。なかでも、自分の知らない職業の世界の方々が、いかに心を砕いて、その仕事に励んでおられるか・・・また、仕事をしながら、その合間を縫って勉強に励んでおられる方々のご苦労を、日記を通して読ませていただくことで、自分が如何に甘かったか・・・また、そのことで謙虚な姿勢で他の人に学ぶことの大切さを教えていただいたように思います。そして、自分の想いを文字にすることで、自分の心の中身を整理することが出来て、意外にもストレス解消に役立ったのは、思いもかけないことでした・・・。今では、長い期間、日記を書かないでいると、精神的にもかなりしんどくなってしまうほどです・・・。歴史のネタについても、ありがたいことに、詰まってしまうということは、ほとんどありませんでした・・・(詰まってしまったら、日記を止めていたかも知れませんね!)ストックは、常に2~3個確保してありますが、タイムリーな時期を見計らって出そうと思ったり、自分の中で熟成させる時間が欲しかったりして、溜め込んでおくものもあります。今は、書いてみたい人物や、訪れてみたい歴史遺産がたくさんあって・・・夢がどんどん膨らんできています。また、まだまだ拙い歴史日記を評価して下さった方が現れて頂いたことも、驚きと同時に、書く上で本当に励みになりました。(実は、子供の頃から、人に褒められることがあまり無かったので・・・ちょっと戸惑ってしまいましたよ!)書き込みをしていただいた方々には、本当に感謝しています。来年も、拙い日記は続きますが、ご迷惑でなかったらお付き合いの程、どうぞよろしくお願い致します。来年も皆様にとって、良い年でありますように・・・心からお祈りいたしております。
2004年12月31日
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先日、スマトラ島沖で、マグニチュード8とも9とも言われる大地震が発生し、その影響で、インド洋に面する沿岸をこれまでに聞いたことも無いような巨大な津波が襲った・・・。一番、被害が酷かったのはタイのプーケット島とのこと・・・。あの辺は、豪華なリゾートホテルも多く、日本からのツアー客も多い・・・恐らく、ビーチで遊んでいた観光客が真っ先に被害を受けたのだろうか・・・本当に心が痛む・・・。そして、インド洋に浮かぶ真珠と言われる、サンゴ礁(ラグーン)に囲まれた美しいモルディブ諸島も、今回、被害にあったという・・・。実は、以前、モルディブに行ったことがあるので分かるのだが、あの島々は、島の周囲が200メートルくらいのものから、1キロ程度の所など、本当に小さな島の集まりから形成される、海抜0メートル地帯である。あんな小さな島に津波が押し寄せてきたら、それこそ、逃げ場はないだろう・・・。モルディブに行った際、いろいろとお世話になったポンポン船の船長さんはご無事だろうか・・・?ふと・・・そんなことが頭をよぎる・・・。そんなことを考えていたら、モルディブの思い出があれこれと蘇ってきた。 (あまりにも綺麗過ぎるけど・・・一応、自分で撮った写真なんだよ~!)モルディブには、シンガポール空港経由で、丸一日がかりで空港の島に到着した。島の一つ一つがあまりにも小さいので、首都の島などあれこれ島ごとに役割がある。その空港の島は、細長く、まるで空母のようであったが、そのような島に、よくあんな大きな飛行機が着地出来たものだと、今思うと本当に恐くなってしまう・・・。空港に到着後も、まだ難関が残っていた・・・。モルディブ共和国は、厳格なイスラム教の国である・・・。日本から持ち込まれた雑誌・週刊誌の類に、もし女性の裸などが載っていたら、即刻、没収!私の持っていたファッション雑誌でさえも、女性が多く載っているということで、細かくチェックしていたくらいだ・・・。税関も無事に通り抜け、ホッと一息つくのもつかの間・・・空港を出ると、今度は、機関銃を持った兵隊が道の両脇をずら~っと並んでいる・・・。「普通、ハワイとかだったら、きれいなお姉さんが、観光客の首にレイをかけてくれるところだろうけど、モルディブは兵隊さんがお出迎えだったよ~!」などと、今だから冗談で済むが、その時は、あまりの張り詰めた空気に、「ここで、もし、スッ転んだりしたら、機関銃で蜂の巣にされるんじゃないか・・・」そんな緊張感が旅行者の間に漂っていた・・・。ホテルのある島は、空港から船で10分ほど・・・ここは、フランスのある有名なリゾートクラブが所有する島だが、どちらかというと、島の雰囲気を存分に生かした、カジュアルで気楽に過ごせるホテルである。話が遠回りしてしまったが、船長さんとは、ホテルの無人島ツアーに参加したことで知り合った。船長さんは、私達のために、海に潜って捕ってきたお魚を焼いて食べさせてくれたり(手で、焼けた魚をほぐすのには驚いたが、せっかく作ってくれたので、食べないわけにはいかなかった・・・)伊勢海老が泳いでいるところを見せてくれたり・・・本当にサービス精神旺盛で、笑顔の優しい方だった。船長さんは、現地人・モルディブの人である。首都の島マーレに家があるが、船長としての仕事があるため、週に一度しか家に帰れないという・・・。そして、イスラム教の人にありがちな一夫多妻を地で行く人で、なんと、彼には奥さんが5人もいると言う!?(誰だ~!羨ましいなんて言ってるのは・・・)多分、たくさんの奥さんや子供さんを養う為に、こうやって一生懸命に働いていたんだろうな・・・。そんなことを、お互い、たどたどしい英語で、楽しく話し合っていたが、一つ、気にかかったことがあった。それは、このホテルには、欧米人や日本人のスタッフの他に、ベッドメーキングや清掃、調理助手を務める現地人スタッフが多数働いているが、彼らには、食事としてカップラーメンしか与えられていないのだという・・・。こんな食事を続けていたら、栄養が片寄って体を壊してしまうだろう。船長さんの顔に、ふと、暗い影が横切る・・・。(そんな馬鹿なことが許されていいんだろうか?)それとなく、日本人スタッフに、「彼らの食事・・・もう少し、何とかならないのでしょうか?」と訪ねると、「自分達も気にはなっていたが、でも、上の連中が決めたことなので、どうすることも出来ない・・・」とのこと・・・。上の連中とは、欧米人のホテル幹部やマネージャーのことか・・・?彼らから見たら、現地のモルディブ人など、奴隷同然の存在なのだろうか・・・?そういえば、客として来ているフランス人やドイツ人も、何処と無く日本人を見る目が冷たい・・・。そういえば、ドイツ人のオヤジには、「ヨーロッパの歴史を、東洋人はもっと勉強すべきだ!」なんて説教されてしまったし・・・(こっちは、中国4千年の歴史だい!!)欧米人のアジア・アフリカに対する差別意識を、まざまざと見せ付けられたような気がした。皆が皆とは言わないが、確かに、こういう連中なら、植民地支配などしても、良心の呵責さえ覚えなかったことだろう・・・。それにしても・・・バイキングの食事がたくさん余るのに・・・せめて、これを、現地スタッフの皆さんに分けてあげられたら・・・なんか、理不尽な気持がする・・・。そんな時、首都の島マーレで、クーデターが起きたという!ホテルに居るお客さんたちも動揺していたが、ホテルの島には影響がないので大丈夫とのこと・・・。こんなに美しい海と空がある美しい国でクーデターが起きている・・・しかも、自分は、そのすぐ側の島で平和な時間を過ごしている・・・その事に、複雑な心境だった・・・。そんなもやもやを抱えたまま、船長さんともお別れの時を迎えた。もう会えないかもしれないけど、自分たちを覚えていて欲しい・・・そんな想いから、日本から持ってきた帽子を船長さんに手渡す・・・。船長さんも、私たちのことを決して忘れないと言ってくれた・・・。今回の津波で、様々な思い出が怒涛のごとく蘇ってきたが、あのとき30歳ちょっとだった船長さん・・・そして、大勢のご家族の皆さんの無事を、心から祈っていきたいと思っている。人気blogランキング モルディブ共和国(外務省のホームページ)
2004年12月28日
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つい先日、愛知県幡豆町にある三ヶ根山に登り、「殉国七士の墓」というのを見てきた。「殉国七士の墓」については、内田康夫氏の「三州三河殺人事件」という本で、ちらっと読んだことがあって、機会があれば一度は行ってみたいと思っていたのだが、その「行ってみたい」が、このところ急に「行かねばならない・・・」という使命感にも似た気持に駆り立てられてきた。この「殉国七士」とは、太平洋戦争(第二次世界大戦)の責務を問われ、アメリカ・中国・イギリスなどの11カ国による極東軍事裁判で、A級戦犯に指名され、処刑された東条英機、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、武藤章、木村兵太郎、広田弘毅の7人のことを指している。(このとき、刑務所と処刑場に使われたのが、あの池袋サンシャインシティが建っている場所にあった「巣鴨プリズン」だったりする!私も、内心、最初にサンシャインに行ったときは恐かった~!)三ヶ根山スカイラインという有料道路の、まるで日光いろは坂のような、くねくねとした山道を登ると、眼下には三河湾の美しい眺めを望むことが出来る・・・。その有料道路の主線から、奥に入り、ひっそりとした木立の中を分け入った中に、突然、巨大な七国七士の碑が姿を表し、その先には、公園のような整備された光景が広がっていた。 正直、A級戦犯の墓というのだから、藪の中にひっそりと小さな石碑が立っているだけだろうと思っていただけに、この立派さに驚いてしまった・・・。 石碑によると、昭和23年12月23日に処刑された7人のA級戦犯らの遺体、または遺骨の遺族への引き取りが、当時占領軍として来日していたマッカーサー指令部からの許可が降りなかった為、それを不憫に思った担当弁護士の発案で、火葬場長・火葬場そばの寺の住職らの協力を得て、遺骨を米軍の目を掻い潜りながら持ち出す作戦に出たらしい。しかし、遺骨の前で線香をあげてしまったことから、この匂いを不振に思った米軍により取り返されてしまった・・・。(ちょっと間がぬけてないか?)そこで、翌日の24日、クリスマスイブで米軍が浮かれまくっている最中、これ幸いとばかりに黒装束身を固めた弁護士ら(ここまでくると、はっきり言ってお笑いだ!)が、見張りの目を盗みながら、暗闇の中、7人の遺骨奪取に成功した。それからしばらくは、伊豆の山中にこれらの遺骨は隠されていたのだが、GHQも去り、ほとぼりが冷めた昭和35年8月16日、ここ愛知県の三ヶ根山に墓碑が建立されたとのこと・・・。この石碑を建てた人物が、黒装束の弁護士ということで、石碑の内容が「いかに自分達が苦労して遺骨を取り出したか」に終始していたので、ちょっと引いてしまったが、要するに、ここがA級戦犯の方々が眠る、本当のお墓というわけである。そのほかにも、ここには、海外の戦地で亡くなった兵隊達の慰霊碑が数多く建っている。 こういう場所に来ると、普通は霊が集まっているような空気のよどみを感じるところだが、ここは、不思議とそういうものは全くなく、清浄な雰囲気に包まれている・・・この清清しさは、もしかしたら、国のために立派に戦って、散っていった兵士達のプライドの表れなのかもしれない・・・。この方達にとって戦争とはなんだったのであろう?何故、日本はあの戦争に突入しなければならなかったのか・・・?A級戦犯は、本当に罪があったのだろうか・・・?中には、戦前の日本を、まるで今の北朝鮮のようであったかのように、「あの時、経済封鎖されたから、戦争ふっかけたんだろ?」なんて、思う人もいるかもしれない・・・しかし、それは大きな間違いである。戦争とは・・・太平洋戦争が日本の真珠湾攻撃から始まったとされているように、ひとつひとつ単体のものとして区切って語られるものではないと思っている。日本が戦争に関わらざるを得なくなったきっかけを語るには、1840年、中国(清国)で起こったアヘン戦争にまで遡らなければならない。このアヘン戦争とは、当時、中国から紅茶を輸入していたイギリスが、それにかわる輸出品がなかった為、国内で禁止されていたアヘンを中国に輸出し、中国の人民を退廃させてしまう。そして、そのアヘン輸入を禁じた中国に、イギリス側が自由貿易を口実に戦争をふっかけたものである。しかし、眠れる大国・中国は、近代化が遅れていたこともあって、イギリスにボロ負け・・・戦争の賠償金として、莫大な銀と香港の領土を取られてしまった・・・。「中国は弱い!」そのことに味をしめてしまった欧米諸国は、次々と難癖をつけては中国に戦争をふっかけ、その度に多額の賠償金と領土をせしめるようになる。それは、まるで中学生の不良が、金持ちだけどケンカの弱いボンボンを脅しては、際限なく金を巻き上げている構図と同じように思える・・・。やがて、日本にも、ペリーの艦隊がやってきて開国を迫まってきた・・・傍らで中国の悲惨な状況を目にしていた日本としては、戦争と言う圧力で迫ってくる馬鹿でかい奴らが、それはそれは恐ろしかったに違いない・・・日本も、それ相応の力を付けなければならない・・・開国後、明治維新を迎えた日本は富国強兵という対策をとって欧米列強に立ち向かわなければならなかった。そうしなければ、植民地化されてしまう・・・食うか食われるか・・・そんな瀬戸際だったに違いない。誰が好き好んで富国強兵や戦争などしたいと思うだろうか・・・?そして、日本は、太平洋戦争で、フィリピン・タイ・マレーシアなど植民地化されたアジアの国々を欧米から解放した。このことは、奴隷のように扱われプライドもずたずたになっていたアジアの人々を勇気付けた・・・。「あんな小さな国でさえ頑張っている・・・自分達も、やれば独立できるかも?」そんな希望を与えられたアジアの国々は、戦後、欧米に立ち向かい、次々と独立していったのである。(戦後、日本に帰らず、独立戦争に参加した日本兵もいたらしい・・・)しかし、日本は戦争に負けてしまった・・・。勝てば官軍・・・どちらが悪いのかはどうでもよく、戦争とは、結局は勝ったほうがすべてである。こうして、日本は、戦勝国から裁かれることとなってしまった・・・。日本は本当に悪かったのか?あの状態で戦争と言う道しか選ばざるを得なかった日本で、A級戦犯に、それほどの責任があったのだろうか?「殉国七士の墓」を見つめていると、そんなことが頭をよぎる・・・。奇しくも、明日は12月23日・・・A級戦犯の処刑日である・・・。もしかしたら、私は、彼らに呼ばれたのではないか・・・?おこがましくも、そんなことを思ってしまった・・・。戦争体験者が教師の中にも少なくなり、戦争を伝えられる教師が少なくなっている今(それでなくても、教師には左の人が多いし・・・)戦犯とされた方々、戦地で亡くなった兵隊の方々の無念の気持が伝わってくるような気がする・・・。「私は、戦争を語るには非力な者ですが、それでも、皆さんのお気持・・・伝えるつもりです。英霊の皆さん方、どうぞ力になって下さいね。」三ヶ根山を後にし、そう思いをこめながら、私は、日記に書くことを心に堅く誓っていた。
2004年12月22日
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今日は、12月14日・・・以前にも書きましたが、今日は忠臣蔵討ち入りの日ですね・・・。そして、その裏を返せば、赤穂浪士たちに討たれた吉良上野介義央(よしひさ)の命日にも当たるわけです。毎年、この日になると、吉良さんの地元・愛知県幡豆郡吉良町の、吉良家の菩提寺のある華蔵寺(けぞうじ)では、吉良さんの毎歳忌が行われています・・・。ドラマの『忠臣蔵』では、極悪人として描かれている彼も、地元の人からすれば、「おらが殿様」・・・まさしく地元に貢献してくださった英雄なのです。そんな訳で、この時期の吉良町に行ってみることにしました。・・・と、その前に、腹ごしらえ!というわけで吉良町のお隣にある一色町の一色さかな広場へ!ここの「むさし」というおすし屋さんは、市場の新鮮なお魚を使っているせいか、ネタはピチピチ、その上、めちゃくちゃ安くて美味しいんです。お勧めは「店長おまかせ握り」1,550円也! でも、土日はかなり混みます!お昼時は1時間は覚悟ですが、その価値は十分にあります。まぐろにアジ、鯛の昆布巻き、サバ、ひらめのエンガワ、イカ、はまち、卵焼き・・・そして、なんと言っても、特筆すべきは「うなぎ」でしょうか?ここ一色町は、なんと!浜名湖をしのぐ日本一のうなぎの産地なのです。「むさし」で使われているうなぎも、もちろん地元の物を使い、ふっくらと焼き上げていて、まるで穴子のような柔らかさ・・・ほっぺたが落ちてしまいそうな美味しさです。そんなことを言っている間に、本題を忘れそうになってしまいました・・・吉良家の菩提寺・華蔵寺です。 吉良町では、吉良上野介のことを親しみをこめて、「吉良さん」と呼んでいます。吉良家は、元々、足利家の出であり、そして、その足利家は清和源氏の嫡流です。(だから、吉良さんの義央という名前の「義」は、足利義政・義満、源氏の源義経、木曾義仲などから引き継いでいるのかもしれません。)北条政子の妹婿である足利治郎太輔義兼公は、政子から大変可愛がられ、源家の重宝・鬚切丸の短刀と白旗一流を賜って、彼を三河の守護(県知事みたいなものかな?)となりました。そして、その息子が西尾(現・西尾市)に居城を構えたことで、足利から吉良の姓を名乗るようになったというのです。地元の人によると、吉良さんは、赤馬(農業用の雑馬)に乗りながら、農民達に「作物の出来具合はどうだい?この辺の話をきかせてくれや!」と優しく声を掛けてくれるような、とっても温情あふれた、心温かい殿様だったのだそうです。その他、新田開発や堤の建設など、地元にも大変貢献されておられます。『忠臣蔵』に書かれているような極悪非道の殿様とは、全く同一人物とは思えないなあ・・・と思われる人もいるでしょう。そりゃそうです・・・もともと『忠臣蔵』のお話は、『仮名手本忠臣蔵』という江戸時代に書かれたお芝居の脚本だったのですから・・・「あだ討ち」が世間の人々のうっぷん晴らしになっていた時代、吉良さんを一方的に極悪人に仕立て、面白おかしく書き上げていたとしても不思議ではありません・・・。しかし、この『忠臣蔵』があまりにも大ヒットしてしまったことから、まるで事実であったかのように今の時代まで伝えられてしまいました・・・。吉良町の人々の肩身はますます狭くなり、吉良さんも、これではうかばれないことでしょう・・・。少しでも、吉良さんのお人柄を世間の人々に知っていただきたい・・・華蔵寺では、そんな意味もあって、毎歳忌を催しているのだそうです。 討ち入りに関する古文書も、ほとんど残っていない状態では、何が真実かを明らかにすることは難しいかもしれませんが、吉良上野介に、このような一面があったことは事実です・・・。面白かった?もし、面白いと思ったら人気blogランキングにクリックしてくださいね!
2004年12月14日
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田舎の朝は、すこぶる早い・・・。日が短い今の時期は、朝6時を過ぎないと夜が明けず、空は真っ暗・・・それでも、6時前から起きている人が多いのか、外を眺めると、所々、家の灯りが燈っているのが見える。きっと、子供達やお父さんのお弁当、朝食作りに励むお母さんたちが、こんな早くから起きているのかもしれないし、超高齢化社会となってしまった田舎では、5時ごろには目覚めてしまうお年寄りの方々も大勢おられるからなのかもしれない・・・そんなことを考えながら、まだ暗闇の中、車を走らせた・・・。実は、今朝、たまたま早朝から出かける用事があったので、こんなことを思ったのだが、よく考えてみると、この町の人々が早起きなのは、この理由だけではなさそうだ・・・。それというのも、ここは漁港があり、それに伴い、魚市場もある。魚屋さんや旅館・割烹・レストラン・スーパーなどの業者さんが買い付けに来るのはもちろん、この魚市場は、一般の人も出入り出来るよう、小売もやっているのである。そんなわけで、早朝に出かけたついでに、私も、以前から、かねがね行ってみたいと思っていた魚市場に行ってきた。そこは、朝早くから、犬の散歩がてら近所からやってきたオバちゃん方や、親子連れの人たちなど、皆、いつも来ておられるのか、とても慣れた様子で、魚の目利きをしている。それにしても、魚の安いこと・・・。アジなんて、10匹入って200円とか300円だし、イカやタコ、ニギスなども大量に入って300円、400円という破格!こんな値段に慣れてしまったら、スーパーでは買えなくなってしまうかもしれない・・・。魚市場のオバちゃんによると、「アジは刺身でもイケるし、酢で絞めても美味しいよ!この辺の人は、ホントに上手に料理してるよ~!」とのこと・・・。魚を料理できなければ、まだまだ半人前ということか・・・私も、もっと頑張らなければ・・・。結局、お気に入りのニギスを300円で購入!その他、メヒカリの干物14匹入りを600円で買った。市場を出る頃には、空も白々と空けてくる・・・淡いブルーの空に浮かび上がる明けの明星と下弦の月が美しかった・・・。家に帰える早々、なれない手つきで、ニギスを新鮮なうちにさばく。朝取れたてのニギスは、肝も白子もぴかぴかで新鮮!捨てるのがもったいない気がした・・・。ニギスを、さばきながら数えてみると、何と!17匹も入っていた。16匹は開きにして、小分けし冷蔵庫に保管。あとの一匹は、そのまま塩焼きにして朝食へ!焼きたてのニギスは、香ばしい焦げ目に湯気が立ち、ほこほことした白身が、しみじみと美味しい・・・。あまりにも美味しかったので、猫にも少し分けてやった。皆、夢中になって食べている・・・。「美味しかったかい?また、魚市場に行って、美味しいお魚、買ってきてやるからな!」人気blogランキング(もしよろしかったら、ここをクリックしてくださいね!)
2004年12月10日
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