母は父が亡くなったあと、気持ちの整理が着いたのか、俳句を始めました。この本の題名は「続母 青い空 西の空にも お月様」となっているのですが、「続母」というメインタイトルは、以前に「母」というメインタイトルの続編です。続編ということは、もうお分かりかと思いますが、「母」を書いたのが 2016 年の秋、それから 6 年が経過し、残念ながら母は 93 歳で永眠しました。私は、いま悲しみの極みにいますが、この 6 年間のことを思い出しながら、筆を執っています。命日は 2022 年 2 月 17 日、朝早く私の両手の中のやせ衰えた温もりのある手で、わずかに握り返しながら、息を引き取りました。午前 9 時 45 分頃のことでした。病院の窓の外には、春まぢかの空から白いものがちらほらと舞い落ちていました。
その日の夜、何気なしに空を見上げると、月あかりを遮った鉛色の雲が裂け、一匹の竜が現れたかと思うと、雲の合間を縫うようにかき分けて、体をくねらせ、天へ向かって登っていくではありませんか。あっけにとられてみていると、巨大な竜は雲の合間に消え、その間から月が現れ煌々と照り始めました。垂れこめていた暗雲も半分くらいは消え去り、安置された寺院の上を照らしました。目の錯覚かな? とは思いましたが、このことについてはまたあとで触れたいと思います。
2 月 20 日、私は母のお骨を抱き、供養をするために、静岡県藤枝市の自宅に戻ってきました。母は、 93 年間住み慣れた故郷を出て、私のもとへ引越ししたのでした。この本「続 母ーー青い空 西の空にも お月様」は、こういうエピローグから始まります。
なぜ楽天ブログを使うというかというと、このブログは定置されたパソコンでも、タブレットでも、またスマホでも、気軽にアクセスして書き続けることができるからです。また、母のことを知っている人に見てもらえるかもしれません。スマホの google には音声認識入力装置があり、また youtube で文字起こし機能を使って文章に変換することもできます。
私は、大学教授、今は愛知県の名古屋産業大学で経済学を教えています。別に、母と追悼の書を書くなどと約束したわけではありませんが、母は生前私の書いた本をよく読んでくれました。この本ももちろん母に読んでもらうために書きます。もちろん暇つぶしにです。いや、天国には父が待っているので、父と一緒に読んでくれるかもしれません。ですから、父の悪口は書けませんね。
( 2022 年 2 月 20 日 続く)
西の空にもお月様
さて、「青い空
西の空にも
お月様」という句なのですが、これは母が詠んだ俳句です。確か、父がなくなってから間もないころ、まだ母が寺院にいた頃のことです。住職の父が亡くなったのは、平成二四年一月二十七日でした。その数年後でした。妹から、母が俳句を発表するので選んでやってくれないかという連絡があり、母のもとを訪れた時のことでした。
色々見せてもらって、ふと目に留まったのがこの句でした。私は俳句や川柳は素養がないのですが、何とはなしにこの句に惹かれるものがありました。時々テレビで俳句や和歌の番組を見るのですが、そこで披露される「良し悪し」の評価ではなく、「直観」で「アッ」と思ったのがこの句でした。「月」といえばふつうは夜空に浮かぶ「まん丸お月様」「三日月」「下弦の月」などです。私も詞と曲の創作をやるので、月は素材によく使いました。色は黄色、青い、などをイメージします。白い月は使ったことがありません。
母の句を見た時、ああ昼間に空が青いころ月は出ているんだと、まずハッとしました。昼間はふつう私たちは仕事や遊びで空は見上げません。中秋の名月のように月は夜空にあるものなのです。母はどこでこの月を見たのでしょうか? それはわかりませんが、普段お寺にいることが多い母ですから、境内か墓地かもしれません。でも、どこかへ出かけた時かもしれませんし、過去の記憶にある月かもしれません。母は農家の出身なので、畑でかもしれませんし、若いころの高校への通学・下校の途中かもしれません。
それはともあれ、私は「この句がいいね」と母に告げて、「西の空にもではなくて、空にはのほうがいいのではないか」といったところ。「ああそうか」となにか感心したようでした。私はその後、この句のことが気になっていて、つい最近のことですが、俳句をやっているという人に、「空にはと空にも」のどちらがいいのかと聞いたことがあります。そうしたら、句を詠んだ人の心の動きが「も」になったのだからそれでいい、というようなことを言っていました。なるほどと思いました。
母は、きっと私たちと同じように、毎日忙しい思いで仕事をして、昼間に空を見上げる余裕などなかったに違いありません。いや、昼間にも月が空にあることは知っていたに違いありません。夫が亡くなり、花や、俳句、習字などの趣味に生きがいを見つけて暮らすようになって、このように月をめでる心のゆとりができたのでしょう。方言ですが、「ああ、お月様は昼間も出とるんじゃな、なんで白い色なんじゃろうか。変じゃなあ」などと感じ入ったのではないでしょうか。標準語では「ああ、お月様は昼間も出ているんですね。なぜ白い色なのだろう。変だね」となります。母は、この時、もう八十を過ぎていました。
私は、 2 月 19 日に母の葬儀と骨拾いが終わり 20 日の日曜日に藤枝市へ帰ってきましたが、遺骨を居間に安置しました。 22 日の朝、何気なしに空を見上げると青い空の西のほうに、上ってきた太陽に照らされて浮かぶ月がありました。母はきっとこのような情景の月を見たのだと思います。時間は様々でしょうが、私も母を私の自宅に安置できた安ど感からしばし月を愛でました。
こうした月を残月、残り月、有明の月というのだそうです。有明の月を読んだ和歌は多いのですが、私は百人一緒にも残されている「ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の月ぞのこれる」という歌が好きです。有名な和歌なので解説は必要ないと思いますが、母もこのような情景で月を眺めたのでしょう。「青い空 西の空にも お月様」私は今、母の一周忌に母の本を出そうと思っていますが、その本の副題にこの和歌をつけようと思っています。
母は自分の名前のことについて「私には名前が良すぎる」とたびたび申しておりました。母は、自己主張することはめったになく、どちらかというと遜った物言いと、謙遜とまではいかないにしても、地味な性格でした。それでいて冗談はよく言いました。本人は冗談で言ったつもりはなくても、そう聞こえるような冗談です。
私は、小学校から高校にかけて、母と二人で撮った写真を今もとっていて、時々眺めるのですが、顔や体つきがとてもよく似ています。当たり前のことですが、性格も似ていると思います。母は、親の言う通り旦那寺に嫁ぎ、親孝行をしたのに対し、私は親を顧みずに東京の大学から大学教師になり、親不孝を通してきました。ここを除けば、本当によく似ていると思います。自己を見せびらかすことを好まない、謙虚さと謙遜は、私が母から受け継いだ遺伝的形質だと思い、いつまでも謙虚に生きたいと思います。それが母に対する恩返しになると思います。
(二〇二二年三月一七日)
私は、誰から聞かされたのか、記憶は定かではないのですが、母は、私を寺院の跡継ぎにしたくなかったそうです。確か、小学校の一年か二年の時だったと思います。正月になって「正月の棚経を始めるから一緒に行くか」と父に誘われて、正月で家でぶらぶらしていてもしょうがないと思い、三が、父親と一緒に、いや住職と一緒に、近くの檀家まわりをやったのです。お宅に上がり込んで仏壇にお経を唱えるのではなく、札を配って回るのです。
私に小さなお年玉をくれるお宅もあり、それはそれで新鮮な正月には違いなかったのでしたが、お札と引き換えにおカネをいただきに回る棚経が、ある種の「物乞い」のように感じられて、複雑な気持ちになったものでした。私は、何か母親に不満か愚痴のようなことを言ったのかもしれません。正月の棚経はこの年限りでした。
私は爾来、分別のつく年になるまで、自分がお寺の息子だということが苦痛に感じられるようになって、別にこのことが原因でいじめにあうとか、コンプレックスを抱くと言うところまでではなかったのですが、普通のサラリーマンや自営の家の生まれではないことに、何かいびつな感情を持つようになり、学校の友人に、父の職業を聞かれることに嫌悪感を抱くようになりました。
私が寺院の跡を継ぐことに反対したのは、たぶん「まだ小さいので正月の檀家周りはさせないで」と母が父に言ったのでしょう。母の葬式に離れずに私と行動を共にしてくれた正子がこんなことを教えてくれました。
「お母ちゃんは、私が結婚して長男が生まれたころ、私のところを訪ねてきて、長男を寺院の跡継ぎに出来ないかと相談を持ち掛けられた」と。
「もちろん断ったけど」
と、懐かしそうに思い出して話してくれました。
正子に子どもができて成長しているころというと、私が大学院に入学し研究の道を歩み始めたころだと思います。母が、私が後を継ぐのに反対したというのは、たぶん父から聞いたのだと思います。私このことを何十年もの間考え続けてきました。正子の長男に跡を継がせれば、私を自由にできると考えたのでしょうか。それとも、住職の意向だったのでしょうか。多分両方だったのでしょう。
「母は、なぜ私が住職になるのに反対したのだろうか?
「なぜ別の道を選ばせたかったのだろうか?」
「大学院に進んで、気持ちが吹っ切れたのかもしれない」
「半ば政略結婚のような形で嫁いだ自分の道の轍を踏ませたくなかった、せめて息子には自由な将来を与えたかったのかもしれない」
と、一方的なことを考えるようになったのはつい最近のことです。このことについては、まだまだ書かなければならないことがあるのですが、割と早い時期から、母は寺院の後継について心を痛めていたことがわかり、葬式が終わってから、あれやこれやと考えることが多くなりました。
4月になって、四十九日が終わり大学の授業も始まりました。春学期も半分経過し、うっとうしい梅雨空のもと、私は毎日母のことを思いつづけています。週に一度、庭に咲いている花を持って、歩いて十分くらいのところにある日蓮宗の寺院に墓参りに行くのが仕事になりました。
(六月二十二日)
西に向かう研究
と言っても、私の研究テーマがもともと西にあったというわけではない。最初に教壇に立ったのが静岡大学、その次にわけあって代わった大学が、愛知県の三好町に新設された東海学園大学の経営学部。三好町はのちに「みよし市」になる。
この大学に移籍することが決まった年に、以前の本にも書いたことだが、島根県が浜田に新設する県立大学から、赴任以来があった。それまで私は島根県が行う中間管理職研修を一〇年間担当して、表彰もされていたことから依頼があったのだろう。東海学園大学に決まっていなかったら承諾したに違いない。
しかし、依頼があってどちらにしようか、天秤にかけるとなると迷うものだ。
海のあるところでのんびり釣りでもしながらと、迷いは募った。母のいる津山にも近い。中国自動車道を使えば至近距離だ。県立大なので自由度も高い。定年退職は六五歳、父もその頃になると住職の後継者が必要だ。ちょうど良いタイミングで寺院の跡を継ぎ、母親の孝行もできる。迷った。
アパートを用意するから、「週末には津山へ帰ってもよい」とまで条件を示してくれた。浜田一円の優秀な学生が集まって来るから、教えがいもある。新設が一段落して、大学への採用がなかなか難しくなってきているときに、贅沢な話ではあった。
東海学園大学には、辞退の届けを出し、島根県庁に電話を入れればよい。人生で一番迷ったのは、おそらくこの時だっただろう。まだ四〇代の半ばだった。
今になって思えば、島根県立大学に赴任していたら、おそらくずいぶん違った人生になっていただろう。しかし、私はやはり最初に誘ってくれた、愛知県の東海学園大学に勤めることにした。このことについてはまた触れることがあるだろうが、ここでは、東海学園大学が浄土宗の経営する大学だということだけを記しておこう。そして、このことが母のもとへたびたび帰らせる「縁」になったことを記しておこう。(二〇二二年六月二四日)