ひーちゃんのゼミナール 名古屋産業大学(現代ビジネス学科)・大学院環境マネジメント研究科)現代の社会・経済・環境・芸能・スポーツ・宇宙

ひーちゃんのゼミナール 名古屋産業大学(現代ビジネス学科)・大学院環境マネジメント研究科)現代の社会・経済・環境・芸能・スポーツ・宇宙

2022.02.18
XML
カテゴリ: 小説
母 青い空 西の空にも お月様

母は父が亡くなったあと、気持ちの整理が着いたのか、俳句を始めました。この本の題名は「続母 青い空 西の空にも お月様」となっているのですが、「続母」というメインタイトルは、以前に「母」というメインタイトルの続編です。続編ということは、もうお分かりかと思いますが、「母」を書いたのが 2016 年の秋、それから 6 年が経過し、残念ながら母は 93 歳で永眠しました。私は、いま悲しみの極みにいますが、この 6 年間のことを思い出しながら、筆を執っています。命日は 2022 2 17 日、朝早く私の両手の中のやせ衰えた温もりのある手で、わずかに握り返しながら、息を引き取りました。午前 9 45 分頃のことでした。病院の窓の外には、春まぢかの空から白いものがちらほらと舞い落ちていました。

 その日の夜、何気なしに空を見上げると、月あかりを遮った鉛色の雲が裂け、一匹の竜が現れたかと思うと、雲の合間を縫うようにかき分けて、体をくねらせ、天へ向かって登っていくではありませんか。あっけにとられてみていると、巨大な竜は雲の合間に消え、その間から月が現れ煌々と照り始めました。垂れこめていた暗雲も半分くらいは消え去り、安置された寺院の上を照らしました。目の錯覚かな? とは思いましたが、このことについてはまたあとで触れたいと思います。

2 20 日、私は母のお骨を抱き、供養をするために、静岡県藤枝市の自宅に戻ってきました。母は、 93 年間住み慣れた故郷を出て、私のもとへ引越ししたのでした。この本「続 母ーー青い空 西の空にも お月様」は、こういうエピローグから始まります。

 なぜ楽天ブログを使うというかというと、このブログは定置されたパソコンでも、タブレットでも、またスマホでも、気軽にアクセスして書き続けることができるからです。また、母のことを知っている人に見てもらえるかもしれません。スマホの google には音声認識入力装置があり、また youtube で文字起こし機能を使って文章に変換することもできます。

 私は、大学教授、今は愛知県の名古屋産業大学で経済学を教えています。別に、母と追悼の書を書くなどと約束したわけではありませんが、母は生前私の書いた本をよく読んでくれました。この本ももちろん母に読んでもらうために書きます。もちろん暇つぶしにです。いや、天国には父が待っているので、父と一緒に読んでくれるかもしれません。ですから、父の悪口は書けませんね。

2022 2 20 日 続く)

西の空にもお月様

さて、「青い空 西の空にも お月様」という句なのですが、これは母が詠んだ俳句です。確か、父がなくなってから間もないころ、まだ母が寺院にいた頃のことです。住職の父が亡くなったのは、平成二四年一月二十七日でした。その数年後でした。妹から、母が俳句を発表するので選んでやってくれないかという連絡があり、母のもとを訪れた時のことでした。
 色々見せてもらって、ふと目に留まったのがこの句でした。私は俳句や川柳は素養がないのですが、何とはなしにこの句に惹かれるものがありました。時々テレビで俳句や和歌の番組を見るのですが、そこで披露される「良し悪し」の評価ではなく、「直観」で「アッ」と思ったのがこの句でした。「月」といえばふつうは夜空に浮かぶ「まん丸お月様」「三日月」「下弦の月」などです。私も詞と曲の創作をやるので、月は素材によく使いました。色は黄色、青い、などをイメージします。白い月は使ったことがありません。

 母の句を見た時、ああ昼間に空が青いころ月は出ているんだと、まずハッとしました。昼間はふつう私たちは仕事や遊びで空は見上げません。中秋の名月のように月は夜空にあるものなのです。母はどこでこの月を見たのでしょうか? それはわかりませんが、普段お寺にいることが多い母ですから、境内か墓地かもしれません。でも、どこかへ出かけた時かもしれませんし、過去の記憶にある月かもしれません。母は農家の出身なので、畑でかもしれませんし、若いころの高校への通学・下校の途中かもしれません。

それはともあれ、私は「この句がいいね」と母に告げて、「西の空にもではなくて、空にはのほうがいいのではないか」といったところ。「ああそうか」となにか感心したようでした。私はその後、この句のことが気になっていて、つい最近のことですが、俳句をやっているという人に、「空にはと空にも」のどちらがいいのかと聞いたことがあります。そうしたら、句を詠んだ人の心の動きが「も」になったのだからそれでいい、というようなことを言っていました。なるほどと思いました。

 母は、きっと私たちと同じように、毎日忙しい思いで仕事をして、昼間に空を見上げる余裕などなかったに違いありません。いや、昼間にも月が空にあることは知っていたに違いありません。夫が亡くなり、花や、俳句、習字などの趣味に生きがいを見つけて暮らすようになって、このように月をめでる心のゆとりができたのでしょう。方言ですが、「ああ、お月様は昼間も出とるんじゃな、なんで白い色なんじゃろうか。変じゃなあ」などと感じ入ったのではないでしょうか。標準語では「ああ、お月様は昼間も出ているんですね。なぜ白い色なのだろう。変だね」となります。母は、この時、もう八十を過ぎていました。

 私は、 2 19 日に母の葬儀と骨拾いが終わり 20 日の日曜日に藤枝市へ帰ってきましたが、遺骨を居間に安置しました。 22 日の朝、何気なしに空を見上げると青い空の西のほうに、上ってきた太陽に照らされて浮かぶ月がありました。母はきっとこのような情景の月を見たのだと思います。時間は様々でしょうが、私も母を私の自宅に安置できた安ど感からしばし月を愛でました。

 こうした月を残月、残り月、有明の月というのだそうです。有明の月を読んだ和歌は多いのですが、私は百人一緒にも残されている「​ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の月ぞのこれる」という歌が好きです。有名な和歌なので解説は必要ないと思いますが、母もこのような情景で月を眺めたのでしょう。「青い空 西の空にも お月様」私は今、母の一周忌に母の本を出そうと思っていますが、その本の副題にこの和歌をつけようと思っています。
(二月二三日 続く)

 孫の弔辞
 母には「陽平」という孫がおり、もう四〇代のおじさんになるのですが、葬儀で弔辞を読み上げてくれました。まず、それを記しましょう。
「皆様、本日は大変寒い中、祖母、瀬川冨美子の葬儀に足をお運びいただき誠にありがとうございます。2月17日に亡くなり、通夜、葬儀とつつがなく執り行うことができ、故人も喜んでいると思います。
 祖母は二〇二一年の八月ころに体調が悪くなり、ほぼ半年にわたる入院生活の末に亡くなりました。
 最初は冗談も言えるくらいではありましたが、次第に全身が衰え、喋れなくなり、享年95歳、大往生かとは思いますが、半年の入院は恐らく本人も初めてであったろうし、何より喋れませんから、人知れず辛いこともあったのではないかと思います。皆様におかれましては、どうか故人の冥福を祈っていただきたいと思います。
 祖母は昭和3年生まれ、1928年、世界恐慌から日中戦争、大東亜戦争、そして終戦と大変厳しい時代に育った人間です。物資の不足は身に沁みついていたと思われますし、また農家の生まれであるため、私は幼いころから食べ物に関して非常に厳しく躾けられました。そして倹約家であり、料理に使う油も真っ黒になるまで再利用していました。それを使ってよく作ってくれた、黒ずんだコロッケが懐かしく思います。
 一方、祖父との仲は残念ながら、傍らから見てハラハラするものがあり、私が成人してからですが、祖父についての愚痴をよく聞かされました。祖父はねずみ年で、祖母は辰年だったのですが、干支を引き合いに出して「ひねりつぶしてやる」とおっしゃっていたのはおかしかった。ひょうきんな性格でもありました。
 しかし、祖父が亡くなるときは大変悲しんで、それからは良い夫であった、早く祖父に会いたいというのですからおかしなものです。祖父はやや偏屈な人間でしたが、あれで祖母に構って欲しかったのです。
 私は故人の孫で本年45歳になりますが、これほど長くお付き合いできるとは思いませんでした。大変寂しいですが、あの世で祖父と仲良く過ごしてください。また会いましょう。」

 私は、言葉の一つ一つに頷きながら聞きました。そして、葬儀が終わってから「一周忌の弔いに本を出すので原稿が欲しい」と言うと快く渡してくれました。上の引用文がそれです。私は、納骨の時に、この弔文を一緒に入れてやろうと思います。天国の父と一緒にきっと喜ぶと思います。陽平君のことは前著の『母』に詳しく書いているので、ここでは繰り返しませんが、とても面白い子です。母にとっては初孫と会って大変かわいがり、私もよくあちこちへ連れて行ったものです。おばあちゃんも、お棺の中でさぞかし嬉しかったでしょう。
(二月二五日 続く)

 母の臨終
 昔から臨終のとき、死に際、最後のときのことを「今際の際」といい、それに立ち会うことを「看取る」といって、残されたものへの勤めのように言い伝えてきました。母の臨終は2022年2月17日でしたが、15日の火曜日の昼ごろ、「血圧が低下しているので、家族に知らせなさい」というドクターの指示で、妹から電話がありました。
 即座に車で駆けつけることもできたのですが、翌日16日の火曜日に病院へ直行しました。母はベッドで大変息苦しく、「ハーハー」と大きな息をついて、唇をぬらしてやると、なめるようなしぐさを繰り返し、小康状態になるという繰り返しでしたが、だんだんと呼吸の力が落ちてきました。時折眉間にしわを寄せて苦しがるのが、かわいそうでした。
 翌日17日、私は朝早く病院へ行き、母の顔をベッドのそばから覗き込むと、昨日よりも呼吸の力が弱くなっているのがわかりました。昨晩は、母の手を握り締め「僕だよ、分かるか、がんばれ」と声をかけると、必死になって目を開けようとして、私のほうへ顔を傾けて「どこだ」と探しているようでしたが、9時45分ごろ、自然に呼吸が止まりました。それでもその後2,3回、かすかな呼吸をし、ついに吸う力が途絶えました。
 何の苦しみもなく、あとには穏やかな表情が残っていました。両目の目じりに小さな涙が浮かんでおり、私の人差し指で涙をぬぐうと、また後から小さな真珠のような涙がにじみました。また拭いてやりました。「いままでありがとう」と言っているようでした。私は「あとから行くからね」と言いました。母は、私が枕辺に来たことに安堵して旅立ったのでしょうか? それは母に聞かないとわからないのですが、母はもう口を利くことができません。母の臨終は、2022年2月17日午前9時51分、死因は老衰でした。母の最期を看取ることができたのが、何よりもの親孝行だったと思います。
(二月二八日 研究室にて)

 母が急に衰え始めたのは、三年くらい前からだ。 一週間ほど入院していた母が退院した。白血球が減少していたということで、生理食塩水の点滴で様子を見ていたが、どうやら風邪だったようだ。何月だったか、23日から26日まで津山駅前のアルファワンに滞在し、史跡の訪問の合間に病院へ行っては、話し相手になってやる。 「お寺に帰りたい」「○○は優しい」「○○はどうした?」「大学が忙しいのか?」等が口癖で、記憶が堂々巡りをする。思考に一貫性がなくまだら模様で堂々巡りをする。
 私の息子夫婦に子どもがいないことを気に掛けもする。私が二〇一九年度末で定年を迎えたことは知らせており、4月以降も出身校の東海学園大学と名古屋産業大学の非常勤で、たくさん授業を持っていることも母には話してある。それでも「小遣いはあるか?」などと気を使う。 本音を言うと、定年退職のあとは働くつもりはなかった。もううんざりというのが正直なところだ。しかし母親の手前、ぶらぶらして「小遣い」を貰う身にやつしたくはないから働いているのが本音だ。母親の前では、いつもかっこをつけていたいのだ。高倉健がやはり『あなたに褒められたくて』(集英社、一九九一年)という母親の追悼本を出版しているが、その中で、自分の俳優業は、母親から褒められるためにあったと述懐している。ただただ褒められたくて、一生懸命にやくざ映画で主演を演じたが、褒められるどころか「お前は切られる役ばかり、たまにいい格好としたかと思えば人を切る、そんな男に生んだ覚えはない。監督にもっといい役をもらうように言いなさい」とおしかりを受けたと、笑い話を載せている。でも、私の母親は息子の私のことを周りに自慢していたようで、デイサービスに入ったときも、車いすに座ってスタッフに「私の息子です。神戸大学に勤めているんです」と言っていました。これは何かの間違いで、私は静岡大学法経短期大学部から、愛知県の東海学園大学へ移り、今は名古屋産業大学にいるのですが、いつの間にか神戸大学になってしまい、思わず笑ってしまいました。私のキャリアは、母の頭の中でごちゃごちゃになっていたのでしょう。それで、ついよく知っている神戸大学になったのでしょうか、それとも、へぼ大学よりも一流大学教授として格上げしてくれたのでしょうか? 母にはこういうひょうきんなところがありました。
 二〇一九年のブログはこう綴っています。私の声も加齢でだんだんしわがれてだみ声になっていく。母には聴こえずらい低周波で、大声を出せば聞こえるというものではない。少しオクターブを上げると聞こえるようだ。だから大事なことは筆談にする。米とソーメンを送るというから、紙に米とうどんを送るように書いておいた。
(二〇一九年八月二七日、二〇二二年三月加筆)

 私と母に残る思い出の歌

 私が小学校の低学年のころ、春日八郎の「お富さん」という歌がはやっていて、母の冨美子のお富さんということで、私はラジオから流れてくるその歌声に合わせて歌っていました。そんな時、母も一緒に歌っていたように記憶しています。「久しぶりだなお富さん」という歌詞が途中にあります。それで、お客さんが玄関で母に「お久しぶり」とあいさつすると、私はよく「久しぶりじゃない、おばあやんぶりじゃ」と口答えしたそうです。なぜなら、私は「久志」という名前だからです。
 高学年のころには島倉千代子の「からたち日記」がはやっていて、台所のラジオから流れる歌声に合わせてよく歌っていたように思います。「 こころで好きと叫んでも・・・・・・」という歌詞です。小学生の私にはちょっと成熟な歌詞なので、これを歌う母が大人だという実感を持ったものです。私も、島倉千代子の歌の中には好きなナンバーがいくつかあるので、今も彼女のCDを車の中で聞いては、母のことを思い出します。
 私が高校一年生になったころ、橋幸夫、舟木一夫に続いて西郷輝彦が「君だけを」でデビューし、大ヒットしました。台所のラジオからよく流れていたので、母も覚えたらしく、私とよく歌ったものです。「いつでもいつでも君だけを・・・・・・」という曲です。すでにご存じかと思いますが、西郷輝彦さんは10年ほど前に前立腺がんを患い、長らく闘病生活を続けていましたが、母の死の三日後、二月二〇日に再発でなくなりました。何か因縁めいたものを感じるのですが、考えすぎでしょうか。私はこの世で最愛の人・母と好きだった西郷さんを同時に亡くしてしまいました。でもこれは致し方ないことですね。
 私も八年前前立腺がんと診断され、ダビンチによる全摘手術を受けました。病院では、抗がん剤や、放射線治療、重粒子線治療も提案されていて迷っていたのですが、たまたま母のもとへ帰ったときに、「悪いところは切ってしまいんちゃい=しまいなさい」と一刀両断のアドバイス。それで私は全摘手術を受けたのですが、甲斐あってか八年経過して再発は見られません。
 西郷輝彦さんの場合は、十年後に数値が急上昇、死に至りましたが、全摘手術を受けてよかったと思います。西郷さんの場合は、確か腹腔鏡手術だったと思いますが、私の場合はダビンチできれいに切除できたのがよかったのだと思います。腹腔鏡手術を受けた間寛平も旧天皇陛下もまだ健在です。西郷輝彦さんは本当に気の毒でした。ご冥福を祈りたいと思います。

(二〇二二年三月二日)

母が九一歳の時、今から三年前の時のことです。私はブログに次のように記しました。
私の母は九一才。私の年の七一を足すと一六二。昭和と平成を生き、令和の時代も悠々と生きている。血圧を下げるクスリを飲んでいるらしいが、それ以外はとくに健康不安はない。ただ、ちょっと足が悪いので、移動の時は車いすに頼っている。

 私の父は他界したので、足し算の仲間には入れない。私の妹の七十を足すと二三二。実は母には育ての娘がおり、彼女は私の従姉なのだが、その年七五才を足すと三〇七歳となる。西村正子といい、嫁いだ先の倉敷に住んでいる。
 私は母を題材にして二冊の本を書いた。『青空が輝くとき』と『母』の2冊だ。電子出版でも書いた。それらの本を書き終り、もう思い残すことはない、母について書いておかなければならないことはすべて書い、と自分に言い聞かせ、安心しきっていた。
 ところが。妹の延子が言うには、一年前に生まれたひ孫が「大学へ入るまで生きる」、と言っているそうだ。九一に大学入学の一九を足すと一一〇、私は九〇になっているー果たして私は生きているだろうか? でも九〇まで生きたとしたら、あと二〇年はゆうにある。二〇年は長い。
 将来のことは一寸先は闇、あれこれ思案してもしょうがない。ただ、はっきりしていることは、母については、もっともっと書いておかなければならないということだ。書いておかなければならないことが山ほどあるということだ。
 その母が、延子と延子の次女、その長男と一緒に、私の住む静岡県の藤枝へやってきた。母は何度か私の自宅へ来たことがある。それなりに思い出もある。その思い出のアルバムに、二〇一九年八月のことを記すことができてとてもうれしい。私の自宅は狭いので、駅前のホテルに泊まってもらった。翌日、静岡市の浅間神社を案内して、静岡駅から新幹線で、岡山県の津山市へ帰っていった。母親と、もう一緒に歩くことは無理だが、たとえ車いすでも、連れ添って歩けることに無上の喜びを感じた。
(2019年8月18日 二〇二二年三月三日追記)

 母の家柄は小庄屋
 母の葬儀は、二月十九日に妙勝寺で行われました。この妙勝寺が母が十九歳の若さで嫁いできた寺院です。宗派は日蓮宗です。母の出自や太平洋戦争のころの生活、そして嫁いでからの波乱万丈の生活ぶりと人生については前著『母』(ヴイツーソリューション)で詳しく述べました。ここでは、葬儀に来てくれた母の実家の後継の甥にあたる人・喜一君に聞いた話で紹介します。母は、寺院の至近距離にある農家・江見家に長女として生まれ、妙勝寺の次男で満州から帰って来たばかりの瀬川一行と、昭和二十二年六月に結婚しました。翌二十三年八月に生まれたのが私です。
 母の実家は太平洋戦争前、自作農でしたが、遡ると江戸時代津山松平藩の下級家臣だったようです。これは家計に詳しい江見喜一君の言葉です。津山藩の下級武士で名字帯刀を許され、農地を所有する自作農として、太平洋戦争後も営農を続けてきました。母親の祖父は、そういう家柄であったため太平洋戦争前は、市会議員に立候補、短期間ではありましたが、市会議員の身分であったようです。従って、妙勝寺は決して格の高い寺院ではなかったものの、仲人を介して嫁ぐに十分な家柄であったわけです。江見喜一君は自慢げに家柄を私に語ります。
 母には小庄屋としての家柄であり、その血が流れていました。私は、この話を母からよく聞かされており、母の実家が至近距離にあったため、子どものころからごく自然に受け入れて育ちました。母は先祖代々百姓としての血筋を引いていたのでした。この農家の出自ということが、私の人生の初期を彩る性格規定要因でした。それは、私にも農耕人の血が受け継がれているのではないかということです。
 このことはまた後で触れるとして、母はよく私に、「私は物心ついたころから、百姓家へ嫁に行くことに決めていた」と言っていました。妙勝寺へ見合い結婚というより政略結婚という形で嫁いだことが不本意であったのか、嫌だったのか、仕方なかったのか、そこまで具体的に教えてくれはしませんでしたが、太平洋戦争が終結して、男たちは戦地で死んで内地で女があふれていた時代に、もらってやると言うところがあったら、いやいやながらも行くのが得策であったようです。母は、たまたま妙勝寺の檀家から誘われたことがきっかけで、この需要と供給の不均衡の中で嫁ぐことを決めたわけです。私と妹は、そのような社会背景の中で生まれました。
(二〇二二年三月三日)

 父の時もそうでしたが、母が亡くなってから、残された子どもがしなければならないことは、母の遺産相続に関する法的手続きです。死亡届、住民票上の除籍、土地、預金、その他権利の相続・分割手続です。私の住んでいる土地には、母の名義が一部ありますので、相続人(者)の戸籍、住民票、印鑑証明、戸籍を取り寄せ、司法書士に依頼して手続きをしなければなりません。
 詳細は人それぞれに違うのでい一概には言えませんが、大変な作業が必要です。母が亡くなったのが、二月十七日、それから約三週間をかけて書類を取りそろえ、残務整理を行いました。母が亡くなって悲しいはずが、悲しみどころか煩雑な手続きに忙殺され、疲労困憊します。涙など流している暇はありません。しかし、人が一生を生きたということは多かれ少なかれ、そのような経済的な痕跡を残すわけで、故人に代わって、抹消・相続する手続きをしてあげる必要があります。でないと、故人は浮かばれません。 ですから、故人の供養のためと思って、打ちひしがれた思いを必死でこらえて頑張るのです。
 私は、妹が母が亡くなるまで面倒を見てくれたので、遠く離れた岡山県の津山市の寺院に納骨をすることは、ごく自然の成り行きなのですが、私が藤枝市に求めた墓地に分骨をして埋葬することにし、妹の同意のもとに、分骨証明書を作成してもらい、いま、私の部屋に祭壇を設けて、母の遺骨を安置しています。四十九日が来たら、寺院のほうへ出向いて納骨をする手はずになっています。
 この寺院は大樹寺と言いますが、四月六日に納骨をすることになっています。寺院の境内には日蓮上人お手植えの松の大木があり、天然記念物になっています。いま、母の遺骨(分骨)はこの寺院での納骨を待っています。私は、母には藤枝市の寺院に墓地を求めたことは知らせていますが、分骨することは一切知らせておりません。いつだったか、母には、私が「がん」の手術を終わったときに、「再発して死ぬようなことがあったら、藤枝の寺院の墓地に入る」と言いましたところ、「馬鹿を言うな」と怒られたことがあります。
 墓地を求めたのは、はっきり言って、大学に行くために母のもとを離れてから、母の人生の七十年間を離れ離れに暮らしたことの悔いを償うために、せめて死後は一緒に暮らそうと、私の自宅と生活の拠点である藤枝市に墓地を求めていたのです。それは、八年前のことでした。父の遺骨は、全部岡山県の津山市の寺院に安置されています。父は、僧侶でしたから、それでいいと考え、分骨はしませんでした。父母の遺骨を変則的に安置したことになりますが、このことに関しては、私の父、母に対する思いとともに、また後で述べたいと思います。
 母の子どもは、私と妹の二人ですが、前著『母 昭和と平成の残像』に書いたように、実はもう二人の「子ども」がいた(る)のです。一人は、私が中学校まで一緒に暮らした西村正子(旧姓瀬川)、もう一人は、小島稔(故人)です。四人は幼少時代を一緒に暮らした事実上の兄弟(姉妹)です。このことは追って触れたいと思っています。
(二〇二二年三月十三日 続く)

江見冨美子と命名
写真は母が生まれた岡山県津山市の昭和の初期のものと思われる市街地の写真です。向こうに見える山並みは中国山地、川は吉井川左(西)から右(東)へ流れます。写真中央部からやや東、こんもりとした山が津山(鶴山)城です。母が生まれた小田中は写真の左の方向、農村地帯です。


出典:https://www.city.tsuyama.lg.jp/common/photo/free/files/8233/742_27(1).JPG
津山郷土博物館

 ここで、初めて私の母親のことに触れる読者のために、母親の故郷と名前の由来を記しておきましょう。母親は昭和三年、昭和恐慌のさなかに、岡山県津山市の農家に生まれました。このことは前著『母 昭和・平成の残像』と『青空が輝くとき』に書いたのですが、江見角一という父と という母の長女としてこの世に生を受けました。助産婦(産婆)さんが元気な女の子を取り上げたのですが、それから母は九三年間という長い人生をこの地で送りました。父角一は津山市から北西方向の農山村に生まれた人で、男の子のいない江見家に養子としてやってきたのでした。こうして待望の長女ができました。これが私の母です。昭和三年六月一五日のことでした。満州事変が始まる前のことです。
 名前は冨美子(とみこ)とつけられて、市役所へ届けられました。ところで、私が小学生のころだったか、冨美子の「冨」に点がないことを不思議に思い、父親に聞いたことがあります。そうしたら、父親は役場に届けた時に、うっかりウ冠の点を忘れたのだろう、と言っていたのを覚えています。祖父は駒十郎、祖母はつると言います。この駒十郎さんは市会議員をしていた人で、地域でも有名な酒飲みだったと聞いています。外で飲んだ時に、飲み足りなくて、お寺(のちに母が嫁ぐことになる寺院の妙勝寺)に行けば酒があるということで、飲んでは大通りを闊歩していたと母から聞いています。
「わしは津山一の大酒のみの江見駒十郎じゃ」といって虚勢を張っていたそうです。母の実家は妙勝寺の檀家です。角一さんはお酒はやらなかったようです。ですから、駒十郎さんが酔って役場で届けたら、うっかり点を忘れたかもしれません。



 母は自分の名前のことについて「私には名前が良すぎる」とたびたび申しておりました。母は、自己主張することはめったになく、どちらかというと遜った物言いと、謙遜とまではいかないにしても、地味な性格でした。それでいて冗談はよく言いました。本人は冗談で言ったつもりはなくても、そう聞こえるような冗談です。
 私は、小学校から高校にかけて、母と二人で撮った写真を今もとっていて、時々眺めるのですが、顔や体つきがとてもよく似ています。当たり前のことですが、性格も似ていると思います。母は、親の言う通り旦那寺に嫁ぎ、親孝行をしたのに対し、私は親を顧みずに東京の大学から大学教師になり、親不孝を通してきました。ここを除けば、本当によく似ていると思います。自己を見せびらかすことを好まない、謙虚さと謙遜は、私が母から受け継いだ遺伝的形質だと思い、いつまでも謙虚に生きたいと思います。それが母に対する恩返しになると思います。
(二〇二二年三月一七日)

 私は、誰から聞かされたのか、記憶は定かではないのですが、母は、私を寺院の跡継ぎにしたくなかったそうです。確か、小学校の一年か二年の時だったと思います。正月になって「正月の棚経を始めるから一緒に行くか」と父に誘われて、正月で家でぶらぶらしていてもしょうがないと思い、三が、父親と一緒に、いや住職と一緒に、近くの檀家まわりをやったのです。お宅に上がり込んで仏壇にお経を唱えるのではなく、札を配って回るのです。
 私に小さなお年玉をくれるお宅もあり、それはそれで新鮮な正月には違いなかったのでしたが、お札と引き換えにおカネをいただきに回る棚経が、ある種の「物乞い」のように感じられて、複雑な気持ちになったものでした。私は、何か母親に不満か愚痴のようなことを言ったのかもしれません。正月の棚経はこの年限りでした。
 私は爾来、分別のつく年になるまで、自分がお寺の息子だということが苦痛に感じられるようになって、別にこのことが原因でいじめにあうとか、コンプレックスを抱くと言うところまでではなかったのですが、普通のサラリーマンや自営の家の生まれではないことに、何かいびつな感情を持つようになり、学校の友人に、父の職業を聞かれることに嫌悪感を抱くようになりました。
 私が寺院の跡を継ぐことに反対したのは、たぶん「まだ小さいので正月の檀家周りはさせないで」と母が父に言ったのでしょう。母の葬式に離れずに私と行動を共にしてくれた正子がこんなことを教えてくれました。
「お母ちゃんは、私が結婚して長男が生まれたころ、私のところを訪ねてきて、長男を寺院の跡継ぎに出来ないかと相談を持ち掛けられた」と。
「もちろん断ったけど」
と、懐かしそうに思い出して話してくれました。
 正子に子どもができて成長しているころというと、私が大学院に入学し研究の道を歩み始めたころだと思います。母が、私が後を継ぐのに反対したというのは、たぶん父から聞いたのだと思います。私このことを何十年もの間考え続けてきました。正子の長男に跡を継がせれば、私を自由にできると考えたのでしょうか。それとも、住職の意向だったのでしょうか。多分両方だったのでしょう。
「母は、なぜ私が住職になるのに反対したのだろうか?
「なぜ別の道を選ばせたかったのだろうか?」
「大学院に進んで、気持ちが吹っ切れたのかもしれない」
「半ば政略結婚のような形で嫁いだ自分の道の轍を踏ませたくなかった、せめて息子には自由な将来を与えたかったのかもしれない」
と、一方的なことを考えるようになったのはつい最近のことです。このことについては、まだまだ書かなければならないことがあるのですが、割と早い時期から、母は寺院の後継について心を痛めていたことがわかり、葬式が終わってから、あれやこれやと考えることが多くなりました。

 4月になって、四十九日が終わり大学の授業も始まりました。春学期も半分経過し、うっとうしい梅雨空のもと、私は毎日母のことを思いつづけています。週に一度、庭に咲いている花を持って、歩いて十分くらいのところにある日蓮宗の寺院に墓参りに行くのが仕事になりました。
(六月二十二日)

 西に向かう研究

 と言っても、私の研究テーマがもともと西にあったというわけではない。最初に教壇に立ったのが静岡大学、その次にわけあって代わった大学が、愛知県の三好町に新設された東海学園大学の経営学部。三好町はのちに「みよし市」になる。

この大学に移籍することが決まった年に、以前の本にも書いたことだが、島根県が浜田に新設する県立大学から、赴任以来があった。それまで私は島根県が行う中間管理職研修を一〇年間担当して、表彰もされていたことから依頼があったのだろう。東海学園大学に決まっていなかったら承諾したに違いない。

しかし、依頼があってどちらにしようか、天秤にかけるとなると迷うものだ。

海のあるところでのんびり釣りでもしながらと、迷いは募った。母のいる津山にも近い。中国自動車道を使えば至近距離だ。県立大なので自由度も高い。定年退職は六五歳、父もその頃になると住職の後継者が必要だ。ちょうど良いタイミングで寺院の跡を継ぎ、母親の孝行もできる。迷った。

アパートを用意するから、「週末には津山へ帰ってもよい」とまで条件を示してくれた。浜田一円の優秀な学生が集まって来るから、教えがいもある。新設が一段落して、大学への採用がなかなか難しくなってきているときに、贅沢な話ではあった。

東海学園大学には、辞退の届けを出し、島根県庁に電話を入れればよい。人生で一番迷ったのは、おそらくこの時だっただろう。まだ四〇代の半ばだった。

今になって思えば、島根県立大学に赴任していたら、おそらくずいぶん違った人生になっていただろう。しかし、私はやはり最初に誘ってくれた、愛知県の東海学園大学に勤めることにした。このことについてはまた触れることがあるだろうが、ここでは、東海学園大学が浄土宗の経営する大学だということだけを記しておこう。そして、このことが母のもとへたびたび帰らせる「縁」になったことを記しておこう。(二〇二二年六月二四日)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.07.02 20:58:32


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: