もののふMono

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2009.01.03
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カテゴリ: 戦国軍師
竹中半兵衛重治 羽柴秀吉 の大軍師である。

半兵衛は幼少の頃より体が弱く、病に伏せがちで痩せていたそうだ。
そんな半兵衛だから、武勇に振るうということはなく、もっぱら書をたしなみ学を磨いていた。
その甲斐あって、半兵衛は秀吉の下で軍略を施し、自軍を勝利に導いていったのだ。

半兵衛の妻は 美濃三人衆 の一人、 安藤守就 の娘を迎えている。
二人の間にはなかなか子どもに恵まれず、神社などに赴き願掛けなどをして、結婚して12年後ようやく授かったのが竹中重門である。



自らが歩んできたような道はたどらせたくない、文武兼備の名将として育てたかったに違いない。
半兵衛のその期待が必然的に英才教育へと繋がっていく。

ある日のこと、半兵衛が重門を前に軍物語の講義中をしていると、重門が座を立った。
半兵衛が「軍は国の大事である。どこへ行くのだ」と問うと。
「厠へ行きます」と重門は答えた。
そこで半兵衛は
「ここに小便をたれるとも、軍物語をしている大事な席を立ってはならぬ!」
と言い放った。

厳しい一言だ。
半兵衛にしてみれば、 「竹中の子が噺に聞き入って、座敷を汚した」 と言われれば、それは竹中家の面目であると考えたのだ。
まさに軍略に生きる半兵衛らしい言葉だ。

竹中半兵衛 の重門に対する愛情、そして自身の味わった辛い思いを同じようにさせたくないという親心の表れだった。

しかし、半兵衛の教育はそう長くは続かなかった。
1578年(天正6年)秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。
竹中半兵衛 の軍略もあり順調に攻略をしていくのだが、1579年(天正7年) 別所長治 の播磨三木城の包囲中に病に倒れてしまう。


半兵衛のこの死に様は、まさに先ほどの「ここに小便をたれるとも・・・」であろう。
軍を第一とする武士。体が弱く武勇に生きられなかった半兵衛は、執拗に武士としての生き様にこだわったのではないか。
自らの命がなくなろうとも、最後まで戦場にて生きる。

竹中半兵衛 の男としての美学を見ることができる。







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最終更新日  2009.01.03 19:44:37 コメントを書く


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