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歴史に名高い毛利三兄弟。長兄 毛利隆元、次兄 吉川元春、三男 小早川隆景。みな優秀な人物であった。その中で次兄の吉川元春は名将言行録に次のように記されている。「人となりは俊爽剛直であって、風骨は人より勝り、令を出せば行き届き、禁ずれば止んで、法令は凜然として犯す者がなかった」と記す。また、毛利三兄弟を花木に例えた話では、兄の毛利隆元を良将として花王の桜とし、弟の小早川隆景をどの木よりも早く緑を発する柳とした。そして吉川元春は氷雪をしのいで春を告げる梅の花と例えたのだ。なぜ、元春が梅の花だったのか。それは智仁勇を兼備し、向かう敵を必ずくじき、城を落とさないことはなかった。それは厳しい局面を常に切り開いて春をもたらす先鋒ということである。元春は確かに毛利軍の先鋒を常に務めてきた。毛利元就は孫の輝元に「攻戦の道は、大小なく、これを元春に任せよ。いかなる敵に出会うとも危ういことはない。もし元春の意見を用いなければ、戦い遅れ、武威は衰えるであろう」とした。元春は毛利家の槍先であり、常に毛利の道を切り開いてきたのだ。そんな元春の考える大将感とは。元春は弟 小早川隆景とのやり取りの中でこう述べている。「律儀を旨とし、智少なく勇のみある者は単騎の役にはよいが、大将の器ではない。」「数千の将たる者は、自分の小勇を事とせず、智計において、人より勝る士でなければだめである。知勇あわせ持たずしてどうして百先の軍兵を指揮できようか」と語った。まさにその通りなのだろう。そして元春はその自身のもつ大将感をちゃんと履行し、そのような大将だった。良将は良将を育てるだ。元春の下で働いた者達はやはり皆、優れた将となり毛利家の礎となっていくのである。
2009.04.03
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岩屋城にて島津義弘の大軍を相手に戦った高橋紹運。岩屋城に立て籠もった紹運のもとに立花宗茂から使者が来る。「立花山城にてともに戦いましょう」という内容だった。しかし、紹運はこれを拒否、同じく大友軍を援助すべく駆けつけつつある豊臣秀吉軍の先陣 黒田如水からも使者が来るのだが、紹運は「我が墓はこの城と思い討ち死にする覚悟である。それがしは地下で太閤殿下の御厚意に報いましょう」と使者を帰したのだ。こうして1586年(天正14年)島津5万の大軍は、紹運率いる763人が立て籠もる岩屋城を包囲し、激戦が始まった。一両日に勝敗がつくと思われたこの戦いであったが、城方、紹運たちの激しい抵抗により、島津勢は苦戦を強いられ、攻める島津勢に的確に浴びせられる鉄砲、頭上から落ちてくる大石など紹運の指揮のもと城方は優勢に戦をしていたのだ。島津勢はあまりの被害に降伏を促し、使者を送る。これに城方では麻生外記なる者が応対する。麻生外記曰く「主人の盛んなときに忠に励み、功名を現す者は多いが、主人が衰えたときに一命を捨てる者は稀である。士たる者の仁義を守らざるは鳥獣に異ならず」と降伏をはねのけたのだ。実はこの麻生外記なる者こそ、身分を偽って交渉に応じた高橋紹運だったのだ。紹運は討ち死にが免れない戦の中で、逃げ出す者がいない自軍の兵卒に誉れを感じていたし、志を捨て敵に下ることが多くなった時代に、武士としての生き様を示そうとしていたのだろう。交渉の決裂により島津勢は攻撃を再開、紹運勢もよく戦い、半月を経っても城は落ちることがなかった。その間にも豊臣の援軍はどんどん近づきつつあり、島津勢は焦りを感じ始めていた。しかし、5万対763人である。ものには限界があり、紹運のもと戦っていた勇士たちも一人、また一人と討たれていき、残るものはあとわずかとなってしまった。ここに至って家臣が城に火を放ち自刃を提案したが、紹運はおどろく答えを出す。「首を取らせてこそ、義を守って討ち死にしたことがわかる。死体が見えなければ逃げたと思われるであろう。武士は屍を晒さぬものというが、それは死ぬ場所による。あえて首を取らせよ!」と。そうして岩屋城に残る紹運はじめ、全員が自刃し果てた。このときの紹運の辞世の句がそれを物語っている。かばねをば岩屋の苔に埋めてぞ、雲井の空に名をとどむべき死の間際まで、武人としての生き様を貫いた高橋紹運の武は後世の見本ともなった。
2009.03.14
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またまた戦国モノがでる。バンダイが戦国時代の武将を題材にしたオリジナルイラストカード付きウエハースチョコ「戦国絢爛チョコ」を発売する。「戦国絢爛チョコ」は、ウエハースチョコ1枚に戦国武将のイラストカード1枚が同根されるお菓子。また、シリーズ化が予定されているらしく、第1弾は「関ヶ原の戦い」をテーマに直江兼続や石田三成といった武将たちがイラスト化される。イラストには、あの「機動戦士ガンダム」のキャラクタデザイナーである安彦良和氏や、「超時空要塞マクロス」のキャラクタデザインで知られる美樹本晴彦氏といった、総勢9名のイラストレーターが担当している。またカードは、ノーマルカード27種類とホロカードが7種類、箔押しが施されたシークレットカード1枚の全31種類がある。さらに、カード裏には戦国武将のパーソナルデータが掲載され、コレクション性の高いものとなっているこれは絶対に流行りそうだ。すでに大人買いの予約が入っているようで、発売前に問い合わせも多いらしい。◆「戦国絢爛チョコ」発売日:2009年3月16日(月)価格:105円(税込)内容:ウエハースチョコ1枚+イラストカード1枚戦国絢爛チョコ 激突!関ヶ原編 BOX[バンダイ食玩]Price1,905 円直江兼続 ARMOR SERIES フィギュア 本格的な造りです!Price2,300 円真田幸村 ARMOR SERIES フィギュア 本格的な造りです!Price2,300 円毘沙門天 上杉謙信 ARMOR SERIES フィギュア Price2,300 円
2009.03.11
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本能寺で主君 織田信長を斬ったことで裏切り者の代名詞的存在にされてしまった明智光秀。戦国時代だからそんなことは当たり前なのに、何故に光秀だけがそんないわれ方をするのだろうか。世は下克上である。信長に油断があっただけではないのか?明智光秀だって男です。天下を窺う野心があったかもしれないし、何か理由があったに違いない。元来、明智光秀という人は温厚な心の広い人だったようだ。それを物語るのが光秀のこの言葉である。仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という。百姓は可愛いものである。仏における嘘は衆生を教化・救済するために用いられ、武士の嘘は敵を騙すために用いる。それに比べれば農民がつく嘘などは可愛いものであるというのだ。如何なる嘘でも、嘘は良くないことだろう。それが百姓だろうと本来は許されるべきものではない。仏や武士と違い、そこに目的がないからだ。しかし、光秀はその百姓の嘘を可愛いと言って見逃すことをしている。この辺りに光秀の懐の深さと、慈悲深い心が窺える。明智光秀という人は誠実な人だったようだ。ゆえに織田信長のやり方に憤りを感じるようになったのではないだろうか。これは、竹中半兵衛も同じで、信長の家臣にはなりたくないが、秀吉の家臣ならばなってもよいと承諾している。当時、信長と秀吉とでは地位は雲泥の差。それを半兵衛に言わしめたのは、織田信長という人のやり方や人格を信用しなかったからであろう。光秀も誠心誠意、信長に尽くしていたのだが、信長の信用できないやり方に堪え切れず謀反に走ったのだろう。それを代表する話として、光秀の丹波攻略がある。明智光秀は信長の命で丹波攻略を行っていた。そこに大きく立ちはだかったのが、波多野秀治である。光秀は損害を出すこと、無益な犠牲者を出すことを嫌い、和議や懐柔などを用いて犠牲を最小限にする戦法を使っていた。波多野氏攻略にも、兵糧攻めを用いていた。包囲して1年と2ヶ月が過ぎたあたりから波多野氏の居城八上城の兵糧がなくなり、牛馬を食べるようになっていた。光秀は頃合を見計り、和議による開城を申し入れた。しかし、波多野秀治は信長という人物を信用していなかった。それは過去における反信長勢力の結末を知っていたからであろう。光秀はそんな波多野氏のために、信長から和議と引き換えに波多野秀治達を許すという約束を取り付けた。光秀は波多野氏を信用させるために自身の母親を人質として八上城に送りることで、ようやく波多野秀治は納得し和議が成立したのである。和議が成ったことで波多野秀治らは信長のいる安土城へ挨拶に赴くのだが、信長は秀治らを捕らえ、城下にて磔にし、殺してしまった。これに怒った波多野家の家臣達は光秀の母親を同じように磔にして殺してしまうのだった。光秀はこれで堪忍袋の尾が切れたのだろう。約束を違えられたこと、武士としての面目を潰されたこと、そのことが光秀を謀反に走らせたのではないかと言われている。誠実ゆえに、裏切られたときの憤りが激しかったのである。明智光秀 Price760 円明智光秀本能寺への道(1)Price630 円明智光秀本能寺への道(2)Price630 円明智光秀 Price756 円
2009.03.09
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今気のなるのがこれ!正子公也モノだ。いろんな戦国本などの表紙を飾っている絵巻作家さん。正子公也&森下 翠 オフィシャルサイト 幻想的でなおかつ、繊細な絵がとても綺麗だ。最近ではそんな正子公也さんのフィギュアやジグソーパズルなどが出ており興味をかなり引かれている。直江兼続のフィギュアだが、カッコよくないですか?飾っていても恥ずかしくないつくりとデザイン。武将ブームだけに売り切れる可能性も強いが、是非そろえておきたい一つです。戦国武将モノに限らず、三国志モノも多く手掛けてみえるので「レッドクリフ」で三国志ブームも盛り上がりつつある今、おススメのアイテムかもしれない。天地人 直江兼続のフィギュア Price8,400 円天下一の傾奇者 前田慶次郎のフィギュア Price8,400 円 「直江兼続」のフィギュア!至高のフィギュア正子公也 Price39,900 円正子公也 軍神 上杉謙信 1000ピース Price2,430 円正子公也 直江兼続(愛と義の武将) 2000スモールピースPrice2,210 円正子公也 独眼竜 伊達政宗 2000スモールピースPrice2,430 円【三国志フィギュア】劉備 Price18,900 円【三国志フィギュア】関羽 Price18,900 円【三国志フィギュア】張飛 Price18,900 円
2009.03.07
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佐賀の勇、鍋島直茂。龍造寺家から将来を託され九州の勇として豊臣時代を生き抜いた人だ。その鍋島直茂の子、鍋島勝茂は父の後を継ぎ藩主となった際に心掛けていたことが父の遺訓である。その遺訓は21ヶ条におよび『直茂公御壁書』として残っている。その中の一文に「人間の一生は若きに極まる。一座の人もあかれない様に」とある。これは、人間の一生は若い時分の思慮分別や嗜みで決まる。それゆえ、若いときには周囲の人々からもあきられ、見落とされないようによく嗜むべきである。と云う意味だ。直茂は分別について、人を上中下の3つに分けて説いた。上とは人の良い所作の分別を見て取って、我が分別にする者で、良いことを胸のうちより腹に飲み込んで、必要な時に引き出せることとする。中の分別とは、人から言われてこれを自分の分別とする人だ。この人は良き事を胸では受け止められるが、腹に入れて落ち着かせることが出来ない。また腹に入れられても、自分の分別として活用できない。下は人から良いこと言い聞かせられても笑うだけで、耳に入らない人である。また人の分別を取り入れて、自分のものにすることが大切で、分別のない武辺は取るに足りないと述べている。そうしたところから、鍋島直茂は木曾義仲、源義経、弁慶などを批判している。木曾義仲は平家を討って京に入ったが、豪奢を極め、源義経に滅ぼされた。義経は平家を滅ぼし、京都に入ったが、義仲以上の栄華を誇り、有頂天になり兄の源頼朝の許可も無く官位をいただき、最後は滅んでいる。もし義経に分別があれば、このようなことにはならなかったであろう。こうしたことからも、人は分別を弁え、それを自身に取り入れ、行うことが出来れば決して滅んだりはしないのである。現世においても同じ事で、遺産相続や、親族間でのトラブルは大概がこの分別の無さである。鍋島直茂の遺訓を守り、分別有る行動をした佐賀藩は改易されることなく明治を迎えるのだ。
2009.03.06
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歴史に名高い毛利三兄弟。長兄 毛利隆元、次兄 吉川元春、三男 小早川隆景。みな優秀な人物であった。その中で次兄の吉川元春は名将言行録に次のように記されている。「人となりは俊爽剛直であって、風骨は人より勝り、令を出せば行き届き、禁ずれば止んで、法令は凜然として犯す者がなかった」と記す。また、毛利三兄弟を花木に例えた話では、兄の毛利隆元を良将として花王の桜とし、弟の小早川隆景をどの木よりも早く緑を発する柳とした。そして吉川元春は氷雪をしのいで春を告げる梅の花と例えたのだ。なぜ、元春が梅の花だったのか。それは智仁勇を兼備し、向かう敵を必ずくじき、城を落とさないことはなかった。それは厳しい局面を常に切り開いて春をもたらす先鋒ということである。元春は確かに毛利軍の先鋒を常に務めてきた。毛利元就は孫の輝元に「攻戦の道は、大小なく、これを元春に任せよ。いかなる敵に出会うとも危ういことはない。もし元春の意見を用いなければ、戦い遅れ、武威は衰えるであろう」とした。元春は毛利家の槍先であり、常に毛利の道を切り開いてきたのだ。そんな元春の考える大将感とは。元春は弟 小早川隆景とのやり取りの中でこう述べている。「律儀を旨とし、智少なく勇のみある者は単騎の役にはよいが、大将の器ではない。」「数千の将たる者は、自分の小勇を事とせず、智計において、人より勝る士でなければだめである。知勇あわせ持たずしてどうして百先の軍兵を指揮できようか」と語った。まさにその通りなのだろう。そして元春はその自身のもつ大将感をちゃんと履行し、そのような大将だった。良将は良将を育てるだ。元春の下で働いた者達はやはり皆、優れた将となり毛利家の礎となっていくのである。★戦国武将★家紋Silverプレート【毛利元就-青】毛利元就と地域社会知将・毛利元就
2009.03.05
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毛利元就の居城 郡山城跡には元就の墓があり、その墓と向かい合って『百万一心』という石碑が建っている。これは元就が郡山城を堅固にしようとしたときに、本丸の石垣の内側に長さ6尺、幅2尺の石に『百万一心』を刻んで埋めたと言う。元就はなぜこのようなものを埋めたのか。当時、城造りや、自然災害をなだめたりするのに、人柱を良く用いたのだ。元就が城を堅固にするときも、人柱が必要ではないかと言うことになり、巡礼の少女が選らばれた。しかし、元就はこれを認めなかったのだ。毛利元就の信条として、生きた人間を人柱として使うことは、理不尽だったのだろう。その代わりとして『百万一心』の石を埋めるようにしたのだ。これの意味は『百万』を分解すると、「一日一力」となる。『百万一心』を分解すると、「一日一力一心」となり、毎日小さな力でいいので、皆が心を1つに合わせ、事にあたれば小さな力も大きくなり不可能はなくなる。人柱を立てるよりも、皆が協力しあう力のほうがはるかに大きく、その力を持ってすれば城は堅固になると言いたかったのだ。人の和の力、団結力を『百万一心』に現したのだ。毛利元就は『3本の矢』の話といい、常に人の和を大切にする人だったのだ。毛利元就と地域社会 Price1,680 円中国の覇者・毛利元就の有名な「三矢の訓」のTシャツ Price5,460 円毛利元就 Price840 円毛利元就 誓いの三矢/シミュレーション Price1,110 円
2009.03.04
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MSM産経ニュースに気にある記事があったので紹介したい。【次代への名言】上杉謙信自らを護法戦勝の善神・毘沙門天(びしゃもんてん)の生まれ変わりと信じた「越後(現・新潟県)の軍神」。名著『武士道』のなかで戦前きっての国際人、新渡戸稲造は「その気高い勇は(儒教最高の徳である)仁に近し」とたたえている。戦国時代のただなかである1530(享禄3)年のきょう(旧暦)、その上杉謙信は越後守護代の老将の末子として誕生した。 乱暴な私訳で恐縮だが、冒頭は、1564年、出兵を前に必勝を祈願した奉納文のなかにある。「私利」の時代に義を実現しようとした謙信にほれた、ということだろう。作家、海音寺潮五郎は名作『天と地と』で謙信の半生を描き、評伝『武将列伝』では宿敵、武田信玄の「計算高さ」に対して謙信を「ストイックで、男性的爽快(そうかい)さをもって生涯をつらぬこうとし、また最も積極的な活動家であった」とたたえている。 こうした謙信評をささえているのは敵(信玄)に塩を送る逸話や川中島の戦いでの単騎駆けだが、史実か否かは定かではない。しかし、新渡戸や海音寺をはじめ、多くの先人たちは信じた。それは、ひとは義と善の心をもっていると信じることでもある。時代は変わっても「謙信」は永遠-であってほしい。と云う記事内容だった。ボクも同感である。確かに史実に基づく正確な歴史を認識する必要はある。が、しかしだ、その史料がどこまで性格は分からない以上、ある意味信じることも大事というか、そう思いたいという心がある。それが歴史の楽しいところでもあり、魅力の一つなのではないだろうか。過去のことを正しく知る楽しみもあるし、それを解明していく楽しみもある。歴史は色んな角度から個人個人で楽しんでいけばいいと思うのだ。最近はブログなどが多くなり、当然ながら歴史のブログや戦国時代のブログも数多くある。当、武ログ『武士の如く』もその一つだ。完全に独断と偏見の塊の武ログです。贔屓目で見てます。好きな人じゃないと記事にしてません。( ̄▽ ̄;)中には史実は違うんじゃない?といったコメントもらう時もある。でも良いんです。そう信じているから。「義こそ、我が願い」だから。「義」に篤き人が好きだし、「義」に篤い武ログにしたいから。人それぞれの捉え方もあるし、信じ方もある。真田幸村を好きな人は、徳川家康に否定的だろうし、織田信長を好きな人もいれば、武田信玄が好きな人もいる。色んな人がいて、色んな考えがあって、色んな見方があるのだ。それが歴史の醍醐味じゃないですか。これからも独断と偏見で楽しく記事を書いていきたい。潤うミスト、香るアロマ。 竹のフォルムをかたどった超音波加湿器アクアPrice16,800 円香炉「パゴダ」ブラック-モダンオリエンタル Price609 円トゥシェ リードディフューザー 200ml(アロマスティック) Price2,500 円
2009.03.02
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毛利元就の嫡男 毛利隆元。かの有名な毛利の「三本の矢」の長男である。毛利隆元は毛利家長男として、大内義隆に人質として15歳から5年間取られている。そして24歳のとき毛利家に戻り、元就から家督を譲られ毛利の当主となったのだ。しかし、大内義隆のもとで生ぬるい生活を過ごした5年間のせいもあったのか、隆元はあまりにも正直すぎ、ためらいがちであり、分別にもやや欠ける所があった。心配した元就は、隆元に重臣 志道広良を付け、毛利一門として恥ずかしくない武将となるよう、そして当主として威厳のあるように叩き込ませたという。裏表が無く、嘘を吐けない隆元の性格を心配した元就は「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要に候。謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と書状で訓戒し、また当主としての自覚に欠ける一面もあったようで、宿老の志道広良からは「水あっての船、船あっての水。君臣の関係も同じ」と厳しく諭されたのだ。また元就の「三本の矢」の教えのように、吉川元春、小早川隆景らの弟も兄の毛利隆元をしっかり補佐し、心を一つに合わせていた。そのような状況の中で隆元は非常に孝行心の強い武将となっていった。その例として、毛利元就が尼子征伐で出雲に出陣した際に、隆元は元就の体を心配し、厳島神社に2度も願文を奉納している。父 元就の長寿を願い、病魔が襲うことがあれば自分が身代わりになるようなことまで言っている。これを鵜呑みにすることはできないが、隆元が父を尊敬していることは間違いなく、その父の存在が隆元を謙虚で自嘲的な性格の持ち主にしてしまったのかもしれない。1563年(永禄6年)毛利元就は尼子征伐で出雲におり、隆元は九州で大友軍と戦っていた。大友軍との講和が成立すると、隆元は取って返して出雲に向かったのだ。このとき自城である郡山城の横を通過するのだが、隆元は立ち寄ることをせず、素通りしていく。これは67歳の父 元就が粗末な帷幕で過ごしているのに、自分だけが城で休むわけにはいかないという隆元の孝の心だった。そして隆元は出雲を目指して進むのだが、途中で地元武将から饗応を受けた際に、激しい腹痛に見舞われそのまま死んでしまったのだ。毒殺説も浮かぶような急な死であった。そんな隆元は常に「文をもって治め、武をもって守る。功あるを賞すれば、すなわち忠ある者が増える。罪を罰すれば、すなわち咎ある者は減る。賞を行うに躊躇せず」を心情としていたという。隆元の亡き後は、嫡子毛利輝元が叔父達の補佐を受けながら父の遺訓を守り毛利家を統括していくのである。毛利隆元 Price2,700 円隆元解脱 Price1,575 円毛利元就 Price840 円元就と毛利両川 Price1,680 円相続プロデューサーが教える戦国武将に学んだ社長が成功する!Price1,260 円
2009.02.28
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大酒飲みで有名な上杉謙信。辞世の句でも「四十九年一睡夢、一期栄花一盃酒、嗚呼柳緑花紅」と詠うほどだ。謙信はいつも酒宴のあとはお気に入りの家臣2~3名とともに飲みなおし、梅干を肴に飲む酒が好きだったといわれている。そんな酒豪の謙信が1559年(永禄2年)将軍足利義輝に会いに上洛したときにも酒を飲み明かしている。それも、足利義輝や近衛前嗣を相手に痛飲したのだ。そのとき謙信が鯨飲した酒は何だったのだろうか。夜毎酒を飲み明かすくらいに謙信が気に入った酒があったのだろう。そのときの事を『上杉家文書』はこう記している。「華文字なる若衆数多集めて候て、大酒までににて、度々夜を明かし申し候。小弼は若文字数寄のよし」とある。謙信が若い男性を相手に夜通し酒を飲み続けたことを綴っている。おそらくだがその時の銘柄は「柳」ではないかと言われている。この「柳」当時の京都の酒造業者の中で最も有名だったといわれ、あまりにも有名すぎて「柳」で酒と通じるほどで、現在でも結納や祝儀に使われている「柳樽」の語源でもある。柳屋は室町時代から有名な酒屋で、その人気は戦国時代になってからも衰えてない無かった。そう考えると謙信はこの柳屋の酒を飲んでいた可能性が強いのではないかと思う。しかし、その人気さ故に金額も半端じゃなかっただろう。謙信の酒豪ぶりに柳屋はますます繁盛したに違いない。参考関連記事→ 「京」は日本一の酒どころだった室町時代の酒屋跡、京都で発見
2009.02.26
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久々に真田幸村モノの小説を読んだ。PHP文庫 阿見宏介著 『智将 真田幸村』だ。話の内容的にはよくある普通の真田幸村モノとあまり変わらず、大坂の陣での奮戦を描いている。しかしちょっと違うのは他の小説に比べて、幸村が爽やかに描かれているところかもしれない。多くの牢人衆が大坂に入城してきた。ほとんどの者は御家再興や自信の栄華のため、あわよくば豊臣の世になれば一国一城も夢ではないと言う野望をもって大坂にきている。しかし、幸村は違った。義のため、己の死に場所を求めるため、そして何よりもう二度と九度山での無二の生活を送らないために最後の華を咲かせにきたのだ。幸村の死を覚悟した戦いに家臣一同も心を一つにし戦うのである。物語の最初から幸村の傍にいるのは高梨内記である。この内記が最後、家康の本陣に突撃する際、幸村に一言いうのだ。「殿、お別れでございまするな」幸村はこれを受け「すぐに会えるぞ、三途の渡し場で落ち合おう」と答え、ともに残された多くの兵と突撃していくのだ。この場面にはジーンときてしまう。史実にもある高梨内記と幸村の主従関係が心地よく心に残る。真田幸村一党の壮絶な戦いと、幸村に対する義を貫く者たちの心意気が男心をくすぐる一冊であった。是非、おススメしたい。もののふ 真田幸村半袖Tシャツ Price3,990 円『復刻刀剣真田幸村拵え』 Price27,300 円真田幸村 「六文銭」 シルバーアクセサリーPrice19,500 円
2009.02.25
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豊臣秀吉のもと天下人の夫人となるねね(寧々)。豊臣家においてねねの存在は大きなものだった。そんなねねを仲間由紀恵が演ずる『寧々 おんな太閤記』が今日テレビ東京で放送ですね。どんな風になるのか楽しみです。前田利家をネプチューンの原田泰造が演ずるのもちょっと見物。ねねは尾張国の杉原定利の次女として生まれている。叔母の嫁ぎ先である尾張国海東郡津島の浅野長勝の養女となり、1561年(永禄4年)に木下藤吉郎に嫁ぐのだが、このとき実母・朝日の反対を押し切って嫁いでいるのだ。その後は秀吉の立身出世を糟糠の妻として支えていくのだが、2人の間には子供が無かった。そのために秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していき、ねねも自身の子供がいないこともあり、その者達を我が子のように可愛がったのだ。その中でも加藤清正、福島正則は特に有名であり、清正達もねねを母として慕っていた。1574年(天正2年)秀吉が初めて長浜12万石の城持ち武将となると、長浜に呼び寄せられ秀吉の生母・なかと共に転居することになる。この後は遠征で長浜城をあけることの多い秀吉に変わり、城主代行のような立場にあなる。秀吉の運命を変えることになった1582年(天正10年)本能寺の変の際、ねねは近江長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せる。幸い、山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破ったことで長浜城に戻り秀吉と再会を果たすのだ。その後、秀吉の天下人への道を支え、大坂城が出来上がると、共に大坂城に移り、1585年(天正13年)秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所と称するようになった。1598年(慶長3年)秀吉が没すると落飾し、高台院湖月尼と称する。その後も秀吉子飼の武将達のよき相談役として頼られ、1599年(慶長4年)大坂城西の丸を退去し古くから仕えてきた孝蔵主をはじめとするわずかな女中達を連れ京都三本木の屋敷に隠棲した。おそらくは淀君との確執などもあったのだろう。そんな中、起きた関ヶ原の戦いでは、加藤清正や福島正則、加藤嘉明などの武将に家康に付くことを進め、関ヶ原の戦い後は徳川家より、化粧料として大名並みの1万5000石にものぼる広大な領地を認められた。1605年(慶長10年)秀吉の冥福を祈るために家康に諮り京都東山に高台寺を建立、ここを終焉の地と定め、それ以後は静かに余生を過ごすことになる。1615年(慶長20年)に大坂の陣で豊臣家が滅亡したものの、その後も変わらず江戸幕府の保護を受けていた。おそらくは秀吉が亡くなったことにより、ねねの豊臣家は終っていたのであろう。それもこれも自身の子供がいないことが根本的な原因であろう。滅ぶ往く豊臣家をどんなまなざしでみていたのだろうか。
2009.02.23
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直江兼続が奉納したとされる「天神像」が新潟県で見つかったそうだ。天神像が発見されたのは、新潟県の長岡市逆谷集落内の「日吉神社」。宮司が本殿のさらに奥にある「内陣」の扉を開けて見つけたそうだ。今まで何故に見つけていなかったのかが疑問だが・・・この日吉神社の宮司は星野家。星野家は1300年代の南北朝のころから、この神社の宮司を務めているといい由緒ある家柄だそうだ。その星野家には代々の言い伝えで、兼続が奉納した木像が存在すると言われていたという。ならば何故にもっと早く見つけれなかったのだろう。ますます疑問だ。発見に至った経緯は大河ドラマ「天地人」ブームの高まりを受け、宮司が「開かずの扉」を開けたところ、なんと高さ26センチの天神像がほぼ無傷で見つかった。そして脇には、直江兼続が奉納したことを示す、江戸時代末期の木札が立てかけられていたというのだ。逆谷集落は、兼続が城主を務めた与板から約3キロの場所。神社の隣には上杉謙信が祈願寺とした「寛益寺」もある。その様な場所だから、上杉家の重臣で文武両道に通じた兼続が、学問の神である『天神像』を奉納したことも十分理解できる話だ。今後この「天神像」が我々の眼にお目にかかれるかどうかは未定だが、今年の大河ドラマのブームもあるので、是非拝見してみたいと思う。直江兼続プラモデル半袖Tシャツ■新品■上杉家の智将・直江兼続の長袖Tシャツ!戦国武将「直江兼続」長袖Tシャツ直江兼続ロングスリーブTシャツ第二弾!直江兼続直江兼続と妻お船直江兼続82の謎
2009.02.22
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昨日本屋で悩んだ新刊があった。歴史群像シリーズ『前田慶次』だ。おそらく直江兼続がらみで発行されたのだろうか。かなり購買意欲を誘う表紙に心をグラグラと揺さぶられたが、とりあえずはガマンした。以前も武将名言で『前田慶次 たとえ大大名たりとも』紹介もしたことがある。今年最後の記事は、2008年の不景気と不安定な世の中を閉じ、2009年来る年が前田慶次のように傾奇ながらもプラス思考で過ごせることを願い、前田慶次のことを記したい。前田慶次生まれは1533年・1541年と諸説があり定かではない。もともと前田慶次は通称で、本来は前田利益というのだが、この武ログ内では通称の前田慶次で通したい。前田慶次=前田利家の甥がみなさんの常識的な知識となっているが、実は血は繋がっていないのだ。慶次の実父は不明で、滝川一益の一族の者であるとされるが、人物は確定する事は出来ていない。一説には滝川一益の従兄弟あるいは甥である滝川益氏、滝川益重とされるが、慶次自身が一益の弟だという説もあるのだ。慶次の養父は前田利久で、前田利家の兄である。慶次の実母が利久と再婚したため、子のなかった利久が弟の安勝の娘の婿として慶次を引き取り養子にした。利久のもとで育っていた慶次だったが、1567年(永禄10年)前田家当主だった利久は信長の命で、弟の利家に家督を譲ることになる。利久・慶次親子は行方がわからなくなる。一説では滝川一益の家臣となったという説もあるが定かではない。その後の慶次の行動はまったく史料がなくわからない。慶次が再び世に現れるのは、1581年(天正9年)頃、能登国一国を領する大名となった前田利家を頼り仕官する。前田利家のもとで小田原征伐や陸奥地方の検田などに随行している。この小田原征伐でひょっとしたら真田幸村などと面識をあわせているのかも知れないし、奥州での検地で直江兼続などとも面識を重ねたのかもしれない。1590年(天正18年)前田慶次は利家と仲違いし、前田家を出奔してしまう。ひゃっとすると利家のケチが気に入らなかったのかもしれない。(なお出奔時期については1587年天正15年養父 前田利久の死の直後だったする説もあり)。このときの有名な話が、利家をだまして水風呂に入れ、名馬松風を奪って出奔したという話だ。なおこのとき慶次の妻子は出奔には随行しなかったようである。浪人となった慶次は方々を渡り歩き、京都で浪人生活を送ることになる。この京都での生活が後の慶次の傾奇者としての基盤を作っていく。慶次は京都で、里村紹巴・昌叱父子や九条稙道・古田織部ら多数の文人と交流をし、風情風流を好むようになったようだ。その後に上杉家宰相 直江兼続との縁を得て、上杉家に仕官することになる。兼続との関係はどこでどのように親しくなったのか史料は残っていないが、上杉景勝が越後から会津120万石に移封され、激動の1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いから、兼続の与力として参陣し、長谷堂城の戦いにて功を立てている。関ヶ原の敗戦後も『前田慶次 たとえ大大名たりとも』のと通りに上杉家に忠義を尽くし、1612年(慶長17年)に没したとされる。前田慶次=どうしても「花の慶次 ―雲のかなたに―」の影響が強く、豪腕な武人・超一級の戦人のように印象づけられたと思われがちだが、その実は不明なところが多く、本当にそうだったのかどうかが微妙である。だがその微妙さが、歴史マニアにはたまらなく、真田幸村同様に歴史作家の創作意欲を刺激してやまない魅力的な人物なのであろう。前田慶次 Price1,575 円前田慶次 Price1,890 円前田慶次 Price500 円前田慶次の謎 Price690 円【新刊】 花の慶次 [完全版] (1-15巻 全巻)Price14,695 円花の慶次 完全版 単品だと Price979 円
2009.02.20
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上杉謙信の謎の最大は何と言っても女性説だろう。なぜ謙信公には女性説が付きまとうのか。正子公也氏・・・謙信公その壱 スペインの修道院で発見された古文書に佐渡金山に関する記述がある。それには「上杉景勝は金を会津へ隠し持っている。その金は景勝の叔母が、佐渡金山を開発をして得たものだ」とある。ここでいう景勝の叔母とは?景勝が金を継承したのは、謙信以外の誰でもなく、よって叔母とは謙信のことを指しているとみる。しかし、この史料は「会津の景勝」としていることから上杉家が会津に転封になってからの史料であり、しかも謙信公が在世中は佐渡金山はまだ本間氏の領地であり、景勝の代になってから上杉家が領有するようになったのだから、この話は疑わしいものだ。その弐謙信公の死因説が「大虫」という説があるからだ。これは松平忠明が著した『当代記』に謙信公の死因が「大虫」となっている。「大虫」とは更年期障害による婦人病を指しており、それがもとで亡くなったとあるならば、謙信公はまさしく女性であるというのだ。しかし、これも「大虫」が婦人病であるという確証がなく。「小虫」が小児の「ひきつけ、かんむし」を指しており、それの大きいもの?だから大人の癪みたいなものではなかったのだろうか。上杉景勝が残した書状の中に「去る十三日、謙信不慮之虫気、取直られずして遠行」とある。虫気とは中気と解釈し、中気とは脳卒中だとしている。ということは、謙信は脳卒中で亡くなったのだ。よって、大虫は婦人病ではなく、癪の大きなもの=脳卒中だったのだろう。その参謙信公は毎月十日前後に腹痛を患い、合戦中でも兵を引き籠居することがあったという。これが女性特有の生理現象ではないかというのだ。しかしこれも、1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いでは、ひと月近くにわたって行軍と滞陣、戦闘を行っており、その間に十日前後が2回あったが、謙信公は指揮を取っている。そして謙信公が女性ではないという決定的なものは、謙信公は女人禁制の高野山へ上がった事があるのだ。これは決定的なものではなかろうか。ましてや、越後の動乱の中を長尾晴景が治められなかったものを、謙信公が見事治めている。当時の時代は男尊女卑だった。そのことからも、越後の豪傑が割拠する中を女性が統治できたとは思えない。やはり、上杉謙信は紛れもなく男性だったと思うのだ。新潟の地酒【長尾景虎(上杉謙信)5本セット】 Price2,415 円上杉謙信「軍旗」 戦国武将 シルバーアクセサリーPrice19,500 円もののふ 謙信・直江半袖Tシャツ Price3,990 円我は毘沙門天の化身ナリ!上杉謙信Tシャツ Price4,095 円
2009.02.19
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上杉謙信には謎が多い。基本的に謎だらけ。その中の一つに「生涯不犯」がある。謙信公は生涯妻を娶らなかったのだ。そのせいもあってか後世は「不犯の名将」などとされ神格化されているところもある。それは何故?男である以上、女性は気になるはずだ。何故に謙信公は不犯となったのか。その理由として考えられるものが3つある。壱 不能説 性的な不全だ。弐 男色説 女性に興味がなかった。参 戦勝祈願による色欲断ち説 戦勝祈願の代償として自身の欲の一つを断絶した。などがある。不能説は、『松隣夜話』で謙信は千葉采女佐の娘・伊勢と恋仲になったものの重臣達に諫められ、恋を引き裂かれているのだ。ということは、不能説も男色説もここで否定されてしまう。確かに当時は衆道は当たり前で、謙信公もその道には通じていたらしい。足利義輝と関白近衛前嗣を訪れるために上洛した際も、近江の坂本で美しい童子を召抱えている。(のちの河田長親)またこのときに、京において華奢な若い男性を集め、夜遅くまで酒を飲み交わし、度々夜を明かしたとも記された史料もある。と云うことは、謙信公は性的には不能ではなったということだ。謙信公は女性にも興味があり、衆道を楽しんでいることから、不能でもなく、男色専門でもなかったのだ。そうなると参の『戦勝祈願による色欲断ち説』か?謙信公の戦勝祈願として思い浮かぶのは当然、毘沙門天であろう。しかし、毘沙門天への戦勝祈願かというと、そうではないようだ。謙信は幼い頃は林泉寺で育てられており、この寺は曹洞宗のお寺で、謙信は幼い頃より曹洞禅に親しむ生活をしてきたのだ。そのこともあり、謙信公は信仰心深い人として成長したのだ。謙信公が家督を継いでからも越後の動乱は消えることが無かった。次から次に起こる内乱や謀反、謙信公の胸を悩ませ、戦に明け暮れる日々に嫌気も差しており、そうした事から一時、出奔し仏門に入ろうともした。しかし、長尾政景などの説得により、出家を思いとどまった謙信公は在家のままながら厳しい禅宗の中に自身を置くことになる。その結果が、「生涯不犯」に繋がったのではないか。現に禅僧は女性を断ち、その代わりに「渇食」という名の稚児を愛する衆道の道がある。謙信公も自身の身の回りに起こる様々な問題を解決するために、禅の道を極め、自らを神格化させることにより、家臣団の統率と、常勝上杉軍団を作りたかったのではないだろうか。決して、謙信公が女性嫌いであったとか、女性だったとかいうことではなく、深く絡み合う諸問題が謙信公をそうさせたと思うのだ。上杉謙信南蛮胴具足写し Price290,850 円当世小札 上杉謙信写 稚児鎧 Price316,050 円ジグソーパズル 正子公也 [軍神 上杉謙信] 1000ピース Price2,772 円
2009.02.18
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関ヶ原の戦いのおり、西軍についた長宗我部盛親。当初は東軍に付くつもりだったのだ。東軍に付く旨の使者を出したところ、西軍の関所に引っかかり已む無く西軍に付くことになった。父の長宗我部元親は武力、知力に長けた実力者だった。その4男として生まれた盛親。嫡男の長宗我部信親が本来は後継者であった。信親は元親の寵愛が高く、才能もある人だった。しかし、1586年(天正14年)豊臣秀吉の九州征伐の際に戸次川の戦いで死んでしまったために、元親の悲しみは相当なものだったという。これより後、戦死した家臣団の再建における、家臣間の諍いや後継者騒動によって長宗我部氏は段々と衰弱していくことになり、信親の死は長宗我部氏滅亡の遠因になった。その後の後継者に選ばれたのが盛親だったのだ。元親は信親に対する愛情を盛親に注いだ。しかし、時代は秀吉によって太平の世となっていたために、盛親は武勇の士としてよりも、太平の世を渡る者として教育されていった。先の戸次川の戦いで長宗我部軍は重臣の7割を失っており、盛親が長宗我部家を継いだときには歴戦の猛者はほとんどいなくなっていたのが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に使者を捕らえられ、止むを得ず与する形となってしまったのだろう。関ヶ原の本戦でも、毛利軍の後ろにいたために、参戦することができず、気がつけば戦わずして戦は負けており、敗者になってしまっていた。その時の動員兵力は6000だったのだ。もし長宗我部が参戦していれば、関ヶ原の結末は完全に西軍勝利で終っていただろう。長宗我部軍は関ヶ原から退却を開始する。無事に退却できるはずも無く、東軍の兵に追撃され、伊賀を越えるころには6000いた兵も僅か500足らずとなっており、結局、長宗我部盛親は領地没収となり、京都において寺子屋の先生として細々として生きていくのだ。そして14年後の1614年(慶長19年)大坂の陣が始まると豊臣秀頼の要請に馳せ参じ、一軍の将として帰り咲く。盛親は関ヶ原で一矢も報いぬまま牢人となった恨みをここで晴らす。華々しく戦うものの、大坂方には勝利の見込みは無く、参戦した諸将が次々に討ち取られていく中、盛親はこの時点で徳川に抗うことの無謀さに逃亡をするが、山城の国で捕らえられてしまう。縛に付いた盛親に警護の者が出した食事が無造作に飯を高く盛ったものだった。それがあまりにもぞんざいで屈辱的だった。これに対し長宗我部盛親は「昔より名将のからめ捕らわれるためしは多く、少しも恥とは思わぬ。だがこのような卑しき食物をさし置く礼儀がどこにある。早く首を刎ねるが良い」と言い放った。この様子をみていた井伊直孝は警護の者を呼び「無法の振る舞い」として叱り、台所衆に命じ料理を調えさせ、盛親を呼び縄を解き無礼を詫びて「疲れを癒されよ」といい丁寧に声をかけたという。これに対し盛親も「さすがは井伊殿、これぞ礼儀を知ったる武士の道よ」と感謝した。最後に盛親にどうして自害しなかったと訊ねた徳川の側近に、盛親は「一方の大将たる者が、葉武者の如く軽々と討ち死にすべきではない」といい、再び好機あらば兵を起こし世に出る気持ちを語ったというのだ。父 元親に太平の世に生きるように教育はされはしたが、長宗我部家の武門の意地は消えてはいなかった。
2009.02.14
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[真田幸村] ブログ村キーワード大坂の陣で獅子奮迅の活躍をした真田幸村。ではその幸村に付き添い戦った真田軍団にはどのような人達がいたのだろうか。当然ながら大坂に入城する前の真田幸村は九度山で長い配流生活をしていた。父の真田昌幸が無くなったあとは、付き添ってきた家臣たちも多くが信州に戻ってしまい、九度山に残っていたのは僅かばかりの者たちだった。九度山に着いて来た真田家家臣は16名おり、そのうち昌幸の死後2~3名を残し、皆信州に帰っている。残ったのは高梨内記、青柳清庵、三井豊前だとしている。大坂での真田幸村軍団の構成は1・譜代衆(信州上田の旧臣)、2・九度山衆、3・寄騎牢人衆の大きく分けて3部隊であろう。このうちの1・譜代衆は『真武内伝』には「手勢百三十人」とあり、その他の史料にも「手勢百五十人」「百八十人」といった数字が見えている。この譜代衆には九度山に付き従った高梨内記、青柳清庵以外にも信州上田から幸村を慕い馳せ参じた者がいたと言うことだ。この譜代の家臣衆をもとに大坂の寄騎牢人衆を入れ真田軍団を構成していったのだ。ではそれらの譜代衆にはどのような面々がいたのだろうか。そこには真田十勇士らしき名前も見え隠れしているので、興味深い。『銕醤塵芥抄』という史料には、大坂の夏の陣、最後の決戦で戦った譜代衆の名前が記載されている。真田勘解由大塚清兵衛高階主膳(高梨主膳?)海野小平太望月善太夫禰津小六山岡軍平柏田玄仲角輪佐吉利光久兵衛沼田清次郎真田権太夫森川隼人瀧川平太夫丹生弥二郎星田勘平馬渕六郎太夫とある。この中の海野小平太、望月善太夫、禰津小六が海野六郎、望月六郎、根津甚八のもとではないだろうか。また、『真武内伝』には幸村が越前松平勢に追い詰められたとき、幸村を守るために討死した者の名前があり真田与左衛門江原左平太福岡平三郎青柳清庵本郷左近早川平左衛門真田勘解由高梨主膳とある。これらの史料から見えることは、九度山以外からも大坂の幸村のもとに多くの家臣が来ていたことがわかる。当時の信州真田家は微妙な立場で動き難い状況のだったにも関わらず、旧家臣が集まってきている。この史料の中にある真田性もの者達は、親族衆には名前が見られないことから、大坂において冬の陣などで功績があった者に褒賞と云う意味で幸村が、真田性を授与したのではないだろうか。このような深い絆のもとに真田軍団は成り立っていた。この中に大坂の牢人衆、渡辺内蔵介、大谷大学や、大坂城からの軍監・伊木七朗などを入れ一丸の塊となって家康本陣を急襲していくのである。これらの者達は皆、心から幸村を慕い、尊敬していたのだろう。そうでもなければ、わざわざ負ける戦に出向きはしないし、先のない戦いに望みはしないだろう。皆、幸村の最後の死華をともに咲かせるために集まった義の人達だ。その多くの義の上に真田幸村は起っているのである。真田幸村巾着!京都伝統工房製作Price6,090 円天下人シリーズ甲冑コレクション真田幸村「天地人」限定Ver.Price8,400 円サムライシルバー 真田幸村 Price37,800 円
2009.02.06
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時間がなかなかないながらも、暇を見つけてちょこちょこ本を読んでいる。今回読んだのは『竹中半兵衛』 三宅孝太郎著である。日本の諸葛亮孔明と言われた大軍師竹中半兵衛。器量は抜群なのだが、その儚い人生ゆえにあまりメジャーでない人だった。(当然歴史マニアのみなさんは知ってると思うが・・・)ボクの住んでいる大垣の隣まち垂井町の人で、今でこそ戦国BASARAの影響で半兵衛の屋敷跡には多くの人が訪れているが、その昔は人などめったに来ないところだった。来るのは歴史マニアだけ。その半兵衛の生涯を綴った小説だ。物語は秀吉を劉備とし、蜂須賀小六を関羽、前野長泰を張飛とした感じで進んでいく。半兵衛を迎え入れるところは、当然「三顧の礼」に準えてるし、読んでいて読みやすい本だった。竹中半兵衛の欲のない真っ直ぐな心が気持ちよく、読み勧めるにしたがってドンドン感情移入がすすむ内容だった。軍略の才能に富みながら、立身栄達を好まず、権力権勢に興味を示さなかった竹中半兵衛。その半兵衛が唯一この男に賭けてみたいと思ったのが、羽柴秀吉だった。秀吉と半兵衛の阿吽の呼吸と、その秀吉を少しづつ天下に近づけていく半兵衛の策が見事。竹中半兵衛 Price924 円竹中半兵衛と黒田官兵衛 Price780 円軍師の門(上) Price2,100 円竹中半兵衛 Price662 円
2009.02.05
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直江兼続には大国実頼という弟がいた。兼続のことは当然よく知られているが、弟の存在はあまり気にしている人は少ないようです。大国実頼は樋口兼豊の次男として生まれ、幼名は、与七。兼続とは2歳違いの兄弟だった。御館の乱では上杉景勝方として戦い、1582年(天正10年)小国重頼の養子となり小国氏の家督を相続し、このとき、景勝の命により、苗字を大国と改め大国実頼と名乗るようになった。1586年(天正14年)新発田重家の乱では新発田重家討伐に参陣し新潟城を焼打ちする。豊臣秀吉の聚楽第新築のときには、上杉家の使者を務め、この頃は頻繁に上洛し、木戸寿三と共に連歌会に多く参加したようだ。歌の才能に溢れていた様で、1591年(天正19年)連歌師里村紹巴の催す連歌会に度々参加し、実頼は『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評されている。兄の兼続とは非常に仲が良かったようで、常に行動を共にし共に功を上げていった。しかし、関ヶ原の合戦後、減封となった上杉家を守る策として兼続が本多政重と養子縁組することに大きく反対し、政重の迎えに上京した使者を伏見宿にて殺害し高野山に逃れてしまったのだ。これによって兼続とは疎遠になってしまい、高野山に隠遁することになる。兼続の死後には米沢北郊の中小松村に戻り秘かに生活をしたと言うことだ。ちなみに大河ドラマ「天地人」で樋口与七(大国実頼)は小泉孝太郎が演ずる。直江兼続特集
2009.02.04
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[真田幸村] ブログ村キーワード大坂の陣で「日の本一の強者」と言われた真田幸村。その幸村が九度山では実際どんな生活で、どのような気持ちで過ごしていたのかを書状からみてみたい。ボクたち幸村ファンは史実とはかけ離れた幸村像を描いている。これは願望であり、そうであったらいいのになぁ~的な要素がある。当然ながら史実的に違っていることも承知のうえで、真田幸村という人の魅力に取り付かれていることは間違いない。九度山での幸村の生活は、真田十勇士と共に全国に飛び散り、情報を集め、徳川の忍びとの凌ぎ合いや、家康の暗殺計画など、いつか起こるであろう豊臣と徳川の戦いに備え、策を練っていたというものに憧れている。これが事実でない事は十分に分かっている。あくまでも願望で、憧れの粋だ。実際の状態は先の『真田昌幸 九度山からの手紙』の項でも少し書いたが、その様なものは無かった。あの「表裏比興者」の真田昌幸でさえ、いつか放免してもらえるものと思っており、徳川に反抗する気概はなくなっていた。では、幸村はどうだったのか。その様な反骨精神は薄れていたのだろうか。1611年(慶長16年)6月4日真田昌幸が死去すると、幸村は赦免に望みを抱かせた。2度にわたり家康に苦渋を舐めさせたのは父・昌幸であり、自分はその息子に過ぎない。兄の真田信之は家康の覚えめでたく確固たる地位を築いているのだ。昌幸の死を境に九度山での生活から解放されるのではないだろうかと期待していたのかもしれない。父の死への追悼の意味で名前を好白と称するようになったのもこの頃だ。昌幸の死後、一年経ち、昌幸の家臣たちは一周忌を終えると、次々に信州上田に帰って行ってしまった。九度山の真田屋敷は前にも増し、一層淋しくなった。その頃に真田家の重臣 木村綱成から歳暮の鮭が届いた。これに対する幸村の書状が残っている。さりながら、当冬は万不自由にて一入うそさぶく御座候。ここもとの為躰、御察し有るべく候。そこもと連歌しうしんと承り及び候。このほうにても徒然なぐさみに仕り候へとすすめられ候かた候へども、はやはや老いのがくもんにて成り難く候。御推量有るべく候。(当冬は何事も不自由で、一段と寂しい状態です。こちらの情けない様子をお察し下さい。貴方は連歌に熱心だそうですね。私も退屈しのぎにやってみたらいかがですか、と勧める方がおりますが、老いの学問で、うまくゆきません。お察しください)とある。老いの学問で思うようにならないと言うところに侘しさが伝わってくる。また、幸村の姉、村松の婿 小山田茂誠から鮭を贈られたときの礼状にはこのほうにおいても無事に御座候。うそかぢけたる躰、市石(使者の名)物語申さるべく候間、くわしく申し入れ候にも及ばず候。もはや御目にかかり候事、あるまじく候哉。とかくとかく、年のより申し候事、口惜しく候。我々なども去年より俄かにとしより、事の外病者に成り申し候。はなどもぬけ申し候。ひげなどもくろきはあまりこれ無く候。(私の方も無事に過ごしております。私のうらぶれた様子は市石が話すでしょうから、詳しくは申しません。もはや御目にかかることもありますまい。とにかく年老いたことが残念です。去年から急に老け込んで、病身になってしまいました。歯は抜け落ちますし、髭もほとんど白くなってしまいました。)とある。このとき幸村はまだ40代半ばくらいであろう。まだまだ老け込むには早い年であるが、九度山での張りのない生活、侘しさが幸村を老いへと向かわせたのかもしれない。そこには昌幸同様、かつての気魄は無く、「御目にかかることもありますまい」などという文からも、絶望感に近いものが感じられるのだ。それ程までに九度山の生活は厳しく、徳川に刃向った代償は大きかった。そんな絶望感の中、1614年(慶長19年)一人の死者が訪れる。大坂の豊臣秀頼からの招聘であった。このまま、朽ちていく自身を憂いていた幸村にとってこの上ない誘いだった。その瞬間に、幸村の心の中にもう一度、真田の反骨精神が呼び覚まされたのだろう。真田幸村は迷う事無く大坂に入場するのである。
2009.02.03
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板垣信方の推薦で見事武田信玄のもとで登用され、その力量を発揮し始めた山本勘助。1560年(永禄3年)に信玄の命で千曲川河畔に海津城を築城する。この海津城の目的は、越後の上杉謙信の侵攻に備えるためのもので、勘助の縄張りにより甲州流築城術の特徴を強く持った当時の重要拠点となった。城主になった高坂昌信は「武略の粋が極められている」と語っており、勘助の並々ならぬ意気込みが感じられる。そしてこの海津城を中心に川中島の激闘が繰り広げられることになるのだ。1561年(永禄4年)上杉謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣、そして妻女山に陣を取る。謙信の狙いは邪魔な存在の海津城を奪い拠点とすることだったのだろうか。片や信玄も2万の兵を率いて海津城に入城し、両軍はその状態で数日間対峙することになる。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するのが、信玄はいたって慎重で、信玄は山本勘助と馬場信春に上杉軍を打ち破る策を立てるようを命じるのだ。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた戦法である。信玄はこの策を用いて、高坂昌信、馬場信春に1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自らは8000の兵で八幡原に鶴翼の陣で布陣し、逃げ出してくる上杉軍を待ち伏せるのだった。だが、軍神上杉謙信はこの策を見破った。謙信は海津城から上がる炊煙がいつもより多いことに目をつけ、武田軍が動くことを察知したのだ。おそらくは物見か、間者を放ったのではないだろうか。武田の動きを知った謙信は夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡る。渡河した場所に甘粕景持に1000の兵を与えて、自らはそのまま八幡原に布陣した。信玄の目の前に陣取ったのだ。夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目することになる。そこにいるはずのない上杉軍勢1万3000が眼前に不陣しているのである。謙信は車懸りの陣で武田勢に猛攻をかけ、上杉軍先鋒 柿崎景家が襲いかかってくる。武田軍は完全に意表をつかれ押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち取られていく。武田信繁や諸角虎定、初鹿野源五郎らが討死する大損害だ。そして、その中に山本勘助もいた。『甲陽軍鑑』には「典厩殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」と書かれている。山本勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入したのだ。なんとしても体勢を立て直さねばならばならない、別働隊が気がつき戻ってこれば十分に反撃できると判断した勘助は奮戦する。勘助の家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られてしまうのだ。山本勘助 享年69歳。その後、昼くらいになりようやく妻女山へ向かっていた高坂昌信・馬場信春らが戻ってくるのだが、時すでに遅し。上杉軍は不利になる前に陣を引き、善光寺に向かっている。結果的に勝敗はつけられないが、損害から見れば、武田軍の惨敗であろう。現在は山本勘助の存在は大方実在人物であろうとされてはいるが、それを明確にする史料は乏しく、実在の武将を脚色した可能性も強いとして現在でも調査が続いている。山本勘助101の謎 Price600 円戦国一孤独な男ー山本勘助 Price1,575 円山本勘助(1) Price550 円ミニフィギュア付きストラップ 山本勘助 Price800 円
2009.02.02
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武田二十四将のひとでり、武田五名臣の一人でもあり、武田信玄の伝説的軍師として有名な山本勘助。もともとが架空の人物ではないかとの説もあったが、武田信玄の書状に「山本菅介」の名があることから実在した人物であるとの見かたが強くなってきている。出自は明確にはなっていないが、1493年(明応2年)くらいではないかと言われて、父は山本貞幸で母は大橋入道の娘・安。この安との間に生まれた四男が山本勘助と伝わっているのだ。幼少の頃の記述はなく全くの不明。どこで何をしてたのかも良くわかっていない。山本勘助は10年の間様々な国を渡り歩いていたと言う。諸国を遍歴して京流兵法を会得、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めていった。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就や大内義隆の将才について語っている。だからこそ、信玄は立花道雪に会いたいなどということも言っていたのだろう。情報源は勘助だったのだ。1536年(天文5年)勘助は今川義元に仕官しようと駿河の国に舞い戻る。今川家重臣朝比奈信置を通して仕官を申し出るのだが、勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。この異様な風袋に当時のお洒落者の今川義元は受け入れるはずもなく、ましてや、勘助には実績がない。実績もなければ小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたと言った所で信憑性がなく、牢人が仕官したが為の法螺だと思われたのだ。当たり前といえば当たり前な結果である。勘助はその後行く当てもなく9年間を駿河で過ごしたらしい。そんな勘助に仕官の話が持ち上がる。それが武田信玄だ。信玄の家臣、板垣信方が駿河に面白い男がいると聞き、勘助を推挙した。1543年(天文12年)信玄は知行100貫という破格の待遇で勘助を召抱えようとしたのだ。素性のわからない一牢人の勘助に、いくら信玄が築城技術者を必要とし、その技術をもった勘助に惚れ込んだといっても、いきなり100貫の大身で抱えるとは考えられない行為だ。やはり、その出自が駿河の吉野氏の一族であり、穴山氏などとの地縁・血縁もあったのではないか。または勘助の得意な才能に目を付けたのかもしれない。それは仮説ではあるが、勘助が「山師」だったのではないかというものである。「山師」とは山に入り金を発見する仕事を行う者たちのことである。勘助の山師としての力量と、それをつかさどる勘助の一門を雇ったのではないだろうか?「山師」は忍びの集団としての仕事も兼ね備えていたようで、そうなると勘助の忍び説も納得ができる。こうして勘助は武田信玄のもとで仕えるようになったのだ。勘助と対面した信玄は、勘助から感じる並々ならぬ雰囲気に知行を200貫に増やし厚遇をしたという。そしてその年信玄の信濃攻めに9つの城を落とし、その才能を示した。これに信玄は喜びさらに100貫増やし300貫の知行となった。1548年(天文17年)武田信玄は村上義清と上田原で激突する。世に言う上田原の戦いで、激戦で武田家は板垣信方や甘利虎泰を失うなどするものの山本勘助の策によりなんとか勝利する。1550年(天文19年)武田信玄は村上義清が留守している間に戸石城を攻める。しかし、村上義清が救援に現れ激しく攻め立て、武田勢は総崩れとなり、その間に追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥った。山本勘助は信玄に50騎を率いて村上勢を陽動を申し出て、勘助が囮になっている間に信玄は軍を建て直し、反撃に出る。武田家中は「破軍建返し」と呼ばれる勘助の策に「摩利支天」のようだと畏怖し、この功により勘助は大幅に加増され知行800貫の足軽大将となるのだ。この戦より、武田家の家臣の誰もが勘助の軍略を認めるようになったという。山本勘助と戦国24人の名軍師 Price1,890 円山本勘助はいなかった Price1,575 円図解武田信玄と山本勘助のことが面白いほどわかる本 Price1,470 円謀将山本勘助と武田軍団 Price1,890 円軍師山本勘助 Price2,100 円
2009.02.01
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立花宗茂が愛用した兜「大輪貫鳥毛頭形兜」のレプリカが限定30セット販売される。立花宗茂は出陣した数多くの合戦で一度も敗れなかったとされている勇将だ。制作は17代当主の立花宗鑑さんで、立花さん曰く「不敗の勝ち兜として縁起を担ぐ人も多い。全国の宗茂ファンや選挙関係者にも興味を持ってもらえるのではないか」と話している。んんん~~確かに欲しい! 来年1月から福岡市の県立美術館で始まる特別展「立花家の至宝」に向けた修復作業に合わせ、専門の千葉県の甲冑師に制作を依頼していた。正確に縮小して本物の形を忠実に再現し、可能な限り当時と同じ素材を使用したという。大きさは高さ約8.2センチ、左右の幅約10.0センチ。 御花が所蔵する本物は1600年から10年代の制作と推定される。質実剛健なデザインで実用性が高く、立花宗茂が西軍として参戦した関ケ原の合戦や、徳川軍についた大坂の陣などで使用された可能性があるという。気になる価格だが、送料含め14万1750円だという。微妙な金額だね、、、高くもなく、安くもなくだ。料亭「御花」の店頭やホームページで販売しているそうです。欲しい方は是非!御花=0944(73)2189。小説立花宗茂 Price1,050 円立花宗茂と立花道雪 Price945 円立花宗茂 Price780 円九州戦国志 Price720 円関ケ原・敗者たちの勝算と誤算 Price560 円
2009.01.31
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本能寺で主君 織田信長を斬ったことで裏切り者の代名詞的存在にされてしまった明智光秀。戦国時代だからそんなことは当たり前なのに、何故に光秀だけがそんないわれ方をするのだろうか。世は下克上である。信長に油断があっただけではないのか?明智光秀だって男です。天下を窺う野心があったかもしれないし、何か理由があったに違いない。元来、明智光秀という人は温厚な心の広い人だったようだ。それを物語るのが光秀のこの言葉である。仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という。百姓は可愛いものである。仏における嘘は衆生を教化・救済するために用いられ、武士の嘘は敵を騙すために用いる。それに比べれば農民がつく嘘などは可愛いものであるというのだ。如何なる嘘でも、嘘は良くないことだろう。それが百姓だろうと本来は許されるべきものではない。仏や武士と違い、そこに目的がないからだ。しかし、光秀はその百姓の嘘を可愛いと言って見逃すことをしている。この辺りに光秀の懐の深さと、慈悲深い心が窺える。明智光秀という人は誠実な人だったようだ。ゆえに織田信長のやり方に憤りを感じるようになったのではないだろうか。これは、竹中半兵衛も同じで、信長の家臣にはなりたくないが、秀吉の家臣ならばなってもよいと承諾している。当時、信長と秀吉とでは地位は雲泥の差。それを半兵衛に言わしめたのは、織田信長という人のやり方や人格を信用しなかったからであろう。光秀も誠心誠意、信長に尽くしていたのだが、信長の信用できないやり方に堪え切れず謀反に走ったのだろう。それを代表する話として、光秀の丹波攻略がある。明智光秀は信長の命で丹波攻略を行っていた。そこに大きく立ちはだかったのが、波多野秀治である。光秀は損害を出すこと、無益な犠牲者を出すことを嫌い、和議や懐柔などを用いて犠牲を最小限にする戦法を使っていた。波多野氏攻略にも、兵糧攻めを用いていた。包囲して1年と2ヶ月が過ぎたあたりから波多野氏の居城八上城の兵糧がなくなり、牛馬を食べるようになっていた。光秀は頃合を見計り、和議による開城を申し入れた。しかし、波多野秀治は信長という人物を信用していなかった。それは過去における反信長勢力の結末を知っていたからであろう。光秀はそんな波多野氏のために、信長から和議と引き換えに波多野秀治達を許すという約束を取り付けた。光秀は波多野氏を信用させるために自身の母親を人質として八上城に送りることで、ようやく波多野秀治は納得し和議が成立したのである。和議が成ったことで波多野秀治らは信長のいる安土城へ挨拶に赴くのだが、信長は秀治らを捕らえ、城下にて磔にし、殺してしまった。これに怒った波多野家の家臣達は光秀の母親を同じように磔にして殺してしまうのだった。光秀はこれで堪忍袋の尾が切れたのだろう。約束を違えられたこと、武士としての面目を潰されたこと、そのことが光秀を謀反に走らせたのではないかと言われている。誠実ゆえに、裏切られたときの憤りが激しかったのである。明智光秀 Price760 円明智光秀本能寺への道(1)Price630 円明智光秀本能寺への道(2)Price630 円明智光秀 Price756 円
2009.01.30
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戦国大名として真っ先に名前が上がってくるのは、織田信長、上杉謙信、そして武田信玄の3人ではないだろうか。日本を代表する3人であり、知らない人はおそらくいないだろう。特に武田信玄に関しては、その名言や家臣団も知れ渡っており有名です。武田信玄に仕えた武将のうち、特に評価の高いと位置付けられている武将達を武田二十四将という。これは江戸時代に「武田二十四将図」として絵画や浮世絵の題材となったもので、実際に信玄がいた時代に実在した職制や呼称ではないらしい。江戸時代に描かれた肖像画は掛幅の仏画の集合図像形式で、上部中央に法師武者姿の信玄が描かれ、周囲に親族衆・家臣団・国人衆が配列され、軍議を行っている様子が描かれている野が一般であり、人物の選定は当時の浄瑠璃や浮世絵の影響を色濃く受けている。具体的にどの武将をもって二十四将とするかは、描かれた絵によって異なっている。いずれの絵においても信玄を一将として数えているため、武将は23名しか描かれていない。また絵によっては、描かれている人物も様々で、裏切り者の汚名を着ている小山田信茂を外してあるものもあったり、武田勝頼・信廉を中心に据えたものも存在している。面白いのは裏切ったのは小山田信茂だけではないのに、穴山信君は描かれているんですよね。武田二十四将○ 秋山信友 悲運の忠将○ 穴山信君 裏切りの結末○ 甘利虎泰 友と共に死す!○ 板垣信方 信玄の傅役○ 一条信龍 知られざる猛将○ 小幡虎盛 比類なき猛将○ 小幡昌盛 鬼の子として○ 飯富虎昌 義なるが故の死○ 小山田信茂 弓矢の御談合七人衆○ 高坂昌信 逃げ弾正○ 三枝守友 若獅子の如く○ 真田信綱 勇将ゆえの死○ 真田幸隆 信玄の知恵袋 ○ 武田信繁 惜しみても尚惜しむべし○ 武田信廉 信玄の影武者○ 多田満頼 武田の夜襲部隊○ 土屋昌次 奥近習の筆頭○ 内藤昌豊 己は二の次○ 馬場信春 智勇常に諸将に冠たり○ 原虎胤 信に生きた将○ 原昌胤 影の戦人○ 山県昌景 武田軍団の中枢○ 山本勘助 信玄の伝説的軍師 巻壱・巻弐○ 横田高松 義を示し信玄を守る 家臣の組み合わせがそれぞれ違っているのは、末孫が自身の家系を誇示するためではないか。先祖を二十四将の一人に仕立てて描かせたものを、奉納したり子孫に伝え、自家の家名を由緒あるものにしたてていたのだろう。いずれにしても、それぞれの武将が信玄を援けたことは間違いはない。また、子孫にあたる者が信玄公に使えていたことを誇って画像として残したことも、日本における信玄人気の源であろうとおもわれる。では何故に上杉家ではなく武田家なのか?理由はおそらく武田家滅亡後に、残った遺臣の多くが徳川家に仕えたことが要因ではないか。同じ上杉家は外様として生き残っていたので、徳川の世においては表ざたに出来なかったと思う。それが江戸時代に甲州流軍学や、甲陽軍記が流行ったのにも影響していると思われる。何はともあれ最強を誇った武田軍団を学ぶことは良いことでしょうね。二十四将以外の人物○ 仁科盛信 武田の義を貫いた男○ 真田昌幸 表裏比興者
2009.01.29
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おおたににゃんぶ?なんだそりゃ?思ってみたら・・・・ゆるキャラだった。滋賀県の彦根にある戦国丸というところが作ったキャラですね。ひこにゃん以来彦根界隈はゆるキャラ全盛。あたりに当たっている。ちなみにおおたににゃんぶのプロフィールは・・・・大谷吉継(大谷刑部)の生まれ変わりのねこ。しょうぶの花を手に持っています。無二の親友「三成」と、自分を取り立ててくれた「秀吉様」の事が大好き。今は跡形も無い敦賀城に思いを馳せています。性格…感情を外には出さず、いつも冷静でクールな猫。誰からも信頼されやすい。略称…刑部、にゃんぶ出身地…近江の国・小谷(おおたに)現住所…彦根・花しょうぶ通り「しょうぶ屋」好きなもの…抹茶、濃茶、梅酒、三成とのお茶会、温泉(特に草津温泉)大切なもの…義の心、母親への恩嫌いなもの…裏切り行為、無粋な噂話特技…秀吉さまにも褒められた采配趣味…絵をかく夢…もう一度「石田三成」とともに「秀吉様」のもとで仕える事。ということだそうだ。おおたににゃんぶ。。。ネーミング良いですよね。ボクはけっこうお気に入りかな。グッズもかなり豊富なようで、ひこにゃん効果に与っているようです。詳しくはココから→ ひこね街の駅 戦国丸小説大谷吉継 Price798 円大谷吉継Tシャツ「義侠」 戦国武将 Price4,095 円関ケ原・敗者たちの勝算と誤算 Price560 円
2009.01.27
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span style="color:#0066cc">武田信玄のもとで奥近習六人衆として仕え、信玄公からの寵愛も受けていた真田昌幸。真田昌幸が初陣を果たすのが、あの有名な川中島の戦いである。それも数多い川中島の中でも、もっとも激戦だった第4次川中島の戦いなのだ。1561年(永禄4年)昌幸はこのとき奥近習として信玄公の側に侍り、本陣を守っていた。「啄木鳥戦法」を用いた武田軍だったが、上杉謙信はこれを読み、妻女山を夜陰に紛れて下山し武田軍本隊の前に布陣する。夜が明けると、武田軍の前にいるはずのない上杉軍がおり、これに驚いた武田軍は瓦解。上杉軍の車懸りの陣に多大な被害を出していく。武田信繁や山本勘助などをはじめとする武将が討ち取られ、信玄公本陣も乱戦状態となり、手薄となった信玄の本陣に謙信公が斬り込みをかけるのだ。このとき奥近習の初鹿野源五郎らが討死するなど被害は甚大であった。昌幸は決して信玄公の側を離れず、他の奥近習たちと共に戦い抜き、その後昌幸は同僚の中でも異例の出世を遂げていく。まず、信玄の生母 大井夫人の一族である武藤氏の養子になり、武藤喜兵衛尉昌幸となり、武田一門衆の端に加わるのだ。同じ奥近習衆の土屋昌続も元は金丸昌続だったのだが、武田譜代衆の土屋氏を継いでいるが、昌幸の他の奥近習衆は皆、甲斐国の出身であり、昌幸だけが信濃出身で、もとはといえば人質として信玄のもとに来たのであり、それが信玄の一族衆に養子に入るということは、並外れた信玄の寵愛だったことを裏付けている。ちなみに昌幸の弟 真田信伊も武田一族衆の加津野氏に養子に入っており、他国出身者でこのような遍歴で出世したのは真田兄弟だけである。それだけ、武田家の中でも真田家の位置が重要に成っており、信玄の真田幸隆に対する信頼、真田昌幸に対する寵愛度が窺える。事実『甲陽軍鑑』にも真田昌幸を高く評価する逸話は多く、特に取り上げたいのは、1570年(元亀元年)武田信玄が伊豆韮山城を攻め、韮山の援軍として北条氏政が箱根を越えて来た時に、信玄は北条氏政との決戦を行い、そのまま小田原に攻めようと諸将に提案した。これに対し、馬場信春らが敵味方の配置や、地形を見極めてから結論を出しましょうと諫めたのだ。すると信玄は「それならば皆々安心せよ。信玄の両眼の如き者たちを、物見に派遣しておる」と答えたのだ。信玄が言う「両眼の如き者」とは誰なのか。しばらくして戻ってきたのは、真田昌幸と曽根昌世だった。昌幸たち曰く、「地形は武田軍に有利」という。これを聞いた信玄は、決戦することを決め、三島まで軍を進めた。しかし明朝、北条氏政は自軍不利と悟ると小田原に撤収してしまい決戦には至らなかった。このとき以後、武田軍の中でも昌幸と曽根昌続は一目置かれる存在となっていき、諸将も羨むほどだったそうだ。真田昌幸は信玄の寵愛のもとに確実に実力を発揮していき、ただ単に贔屓されているだけでなく、真の実力者としての力をつけていったのだ。←前のページ 真田昌幸 Price740 円機略縦横!真田戦記 Price580 円真田の狼忍相克真田戦記(1)Price980 円
2009.01.26
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本屋に行くと出るわ出るわ、兼続絡みの本が山のようにある。そこでちょっと集めてみました。みなさんはどれだけ持ってますか?直江兼続特集
2009.01.25
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岩屋城にて島津義弘の大軍を相手に戦った高橋紹運。岩屋城に立て籠もった紹運のもとに立花宗茂から使者が来る。「立花山城にてともに戦いましょう」という内容だった。しかし、紹運はこれを拒否、同じく大友軍を援助すべく駆けつけつつある豊臣秀吉軍の先陣 黒田如水からも使者が来るのだが、紹運は「我が墓はこの城と思い討ち死にする覚悟である。それがしは地下で太閤殿下の御厚意に報いましょう」と使者を帰したのだ。こうして1586年(天正14年)島津5万の大軍は、紹運率いる763人が立て籠もる岩屋城を包囲し、激戦が始まった。一両日に勝敗がつくと思われたこの戦いであったが、城方、紹運たちの激しい抵抗により、島津勢は苦戦を強いられ、攻める島津勢に的確に浴びせられる鉄砲、頭上から落ちてくる大石など紹運の指揮のもと城方は優勢に戦をしていたのだ。島津勢はあまりの被害に降伏を促し、使者を送る。これに城方では麻生外記なる者が応対する。麻生外記曰く「主人の盛んなときに忠に励み、功名を現す者は多いが、主人が衰えたときに一命を捨てる者は稀である。士たる者の仁義を守らざるは鳥獣に異ならず」と降伏をはねのけたのだ。実はこの麻生外記なる者こそ、身分を偽って交渉に応じた高橋紹運だったのだ。紹運は討ち死にが免れない戦の中で、逃げ出す者がいない自軍の兵卒に誉れを感じていたし、志を捨て敵に下ることが多くなった時代に、武士としての生き様を示そうとしていたのだろう。交渉の決裂により島津勢は攻撃を再開、紹運勢もよく戦い、半月を経っても城は落ちることがなかった。その間にも豊臣の援軍はどんどん近づきつつあり、島津勢は焦りを感じ始めていた。しかし、5万対763人である。ものには限界があり、紹運のもと戦っていた勇士たちも一人、また一人と討たれていき、残るものはあとわずかとなってしまった。ここに至って家臣が城に火を放ち自刃を提案したが、紹運はおどろく答えを出す。「首を取らせてこそ、義を守って討ち死にしたことがわかる。死体が見えなければ逃げたと思われるであろう。武士は屍を晒さぬものというが、それは死ぬ場所による。あえて首を取らせよ!」と。そうして岩屋城に残る紹運はじめ、全員が自刃し果てた。このときの紹運の辞世の句がそれを物語っている。かばねをば岩屋の苔に埋めてぞ、雲井の空に名をとどむべき死の間際まで、武人としての生き様を貫いた高橋紹運の武は後世の見本ともなった。
2009.01.23
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戦国の美将、蒲生氏郷には様々な顔がある。勇猛で武人としての誉れを極め、義を貫く男気のある一面もあれば、街づくりに尽力し、優れた手腕を発揮した領主の顔もあり、歌をたしなみ、茶の道を極め「利休七哲」の筆頭にあげられる文化教養の人でもあった。そしてもう一面がある。それは切支丹ンだったことだ。蒲生氏郷は少年期に仏教・儒教を修める。日本は元々が儒の国であるから、武家の子として生まれたからには儒学を学ぶのは当然であった。ではいつから氏郷は切支丹になったのか。日本に初めてキリスト教が伝わったのは1549年(天文18年)のこと。氏郷が生まれるのはその7年後の1556年(弘治2年)のことである。十分にキリスト教の日本での布教の土台は出来上がっているとみていい。氏郷は幼くして織田信長のもとで人質生活を送っていた。南蛮文化に開明的な信長もと、様々なものを見て、触って感じてきたであろう氏郷は感受性豊かになっていたのではないか。その中の一つに茶道があった。信長は茶器を領土と同じくらいの値打ちに引き上げ、恩賞や褒美として家臣に与えたりし、また、織田信長は堺を直轄地としたときに茶頭として千利休を雇い、より茶道を高貴なものにしていった。必然的に氏郷もこの茶道に見せられていく。そんな信長のもとで生活する氏郷にある人物との出会いがあった。高槻城主 高山右近である。右近は茶道に優れ、のちに利休七哲と言われるほどの人であり、氏郷同様に利休の高弟として有名だった。次第に氏郷は右近と親交を深めていく、右近と親しくなればなるほど熱心な切支丹の右近からキリスト教の教えを聞き、氏郷の心の中に少しづつ信仰心が芽生えるようになっていた。30歳になったころ、右近に勧められてキリシタンに帰依することになる。洗礼名はレオン。改宗の理由については、会津の人びとの人心掌握のために利用したという説もあれば、茶の道では満たされなかった平和への想いからという説もある。長く続く戦国の世に、風流と風情を求める氏郷の心がそうさせたのだろう。氏郷は松坂から会津に転封になった際も、宣教師も会津に連れて行き、会津にキリスト教を布教しようとした。ローマにも度々使いを送り、時のローマ教皇から感謝の手紙を受けている。時代の中で氏郷は何を感じていたのだろうか。キリスト教に何を求めていたのだろう。勇ましい武人としての姿を持ちながらも、こよなく風流と平和を愛した氏郷。戦国大名として、自身の手によって多くの命を奪っていく自らの運命を皮肉に思っていたのかもしれない。氏郷は会津において積極的に布教活動をしていく。 城下には、教会が建てられ、重臣達にもキリスト教を勧める。早く平和な世が訪れることを願いながらも、天下を窺う器量と裁量を持ち合わせた蒲生氏郷。心半ばで病に倒れ亡くなってしまうのだ。信長の家臣団 Price680 円高山右近 Price2,310 円図説千利休 Price1,890 円蒲生氏郷 Price756 円
2009.01.20
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軍神と称される上杉謙信。軍神と言われるだけに謙信のまつわる名言は多く残されている。上杉謙信は7歳のときに父 長尾為景を失う。このとき越後はまだまだ混乱の最中であり、為景の葬儀の場も物々しい雰囲気だったと言う。そんな場の雰囲気を察した謙信は甲冑をまとい参列したという。幼くして武というものを読み取り、その場を空気を感じる能力を持っていた。そんな謙信が「武士は馬を我が足と思い、弓槍を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である」と言っている。武士と言う人間に生まれたからには、そのような意気込みがなければ武士道を全うできないと考えていた。また、「武士の子は、14、5歳の頃までは、わがままであっても勇気を育て、臆する気持ちを持たせぬようにせよ。勇気ある父を持つ子は臆する心を持たぬ。父は常々、この道を説き諭すことが大事である。少年時代の教育が一番大事である」ともいっている。自身の経験や、幼い頃の林泉寺の住職 天室光育の教えが大きいのだろう。この潔癖とした武に対する考えがあるがゆえに、軍神と崇められることになっていく。上杉謙信 Price725 円上杉謙信と直江兼続 Price882 円上杉謙信 Price1,890 円上杉謙信 Price1,575 円上杉謙信と宇佐美定満 Price500 円上杉謙信に学ぶ事業承継Price1,575 円上杉謙信・景勝・直江兼続軍神の系譜 Price790 円図解上杉謙信・景勝と直江兼続 Price1,050 円
2009.01.18
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[真田幸村] ブログ村キーワード大坂城の豊臣秀頼の要請により馳せ参じた真田幸村。父 真田昌幸の残した策を提案するも、大坂城と言う不落の城に身を委ねた豊臣家は意見を取り入れることもなく籠城策に決まる。仕方なしとした幸村は真田丸を築き、自身を激戦の中におく事で憤怒の怒りを抑えるのだ。奮戦する浪人衆に対し、暢気な豊臣譜代衆は勝手に和議を結んでしまうのだ。訪れることのない平和を夢見て、結ばれた和議。これを読んでいた幸村は、1割程度あった豊臣家の勝利もなくなったと判断し、妻 竹林院や娘達を城外に逃がすのだ。そして縁者に別れの手紙を送った。姉 村松の夫 小山田茂誠にあてた幸村の手紙の一節に下記の言葉がある。さだめなき浮世に候へば 一日さきは知れず候死を覚悟した幸村の男気が感じられる一言ですね。もはや後はない。武士として、男として、侘しく余生を過ごすより、最後の一華、見事に咲かせよう。という気持ちが伝わってくる。実際に幸村は何を思い、何を考え大坂に入城したのだろうか。我々は後世の話をもとに勝手に幸村像を作っているが、実際にそれが本当に幸村の深意だったのか。今となっては知る由もないが、残っている文献などからは、領土やお家再興ではなかったことは間違いない。ましてや、豊臣家のためということもなかっただろう。そこには真田幸村の男としての花道。武士としての、心意気があった。さきの言葉の後に続くのが我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候もうすでに、この世にいないものとお考え下さい。と綴っている。だからこそ、幸村は鬼になれたのだろう。本来が人優しい幸村。自身の武の為、悪鬼羅刹となり、家康本陣を目指すことを選んだ。後の幸村評が鬼を喩えるのはこの辺りなのかも知れない。花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて、のきものいたり鹿児島へ・・・真田幸村具足写し稚児鎧(鎧 兜) Price239,400 円機略縦横!真田戦記 Price580 円新釈 眞田十勇士 コンプリート DVD BOX Price31,319 円
2009.01.16
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岐阜市が「信長ブランド」確立をするそうです。はぁ?どういうこと?これだけじゃ意味分からないですよね?岐阜市が織田信長に関連する県内の商品を集めて「信長ブランド」なるものをつくり、確立するというのだ。信長にゆかりのある商品を総合的にアピールしていくのが狙いで、地域活性化のひとつだろう。今現在、岐阜市が考えているの商品が14品。岐阜城攻めにあやかった「起き上り最中」、当時の献立を再現した「信長御膳」、「信長弁当」、信長が好んだとされる「ささにごり酒」、升に信長のイラストを刻印した「天下とります」、新規開発された香のセット「信長かほり香」や、池田町を中心に栽培されている美濃いび茶を使った「信長ゆかり茶」などだそうです。信長ブランドを認定し、販売していくことで特化性を持たせて販路拡大を狙ってるんでしょうね。どうせやるなら、同じパッケージで洒落たデザインにしなきゃ売れないよね。。。。今後、長良川温泉旅館組合に加盟する旅館やホテルで販売する予定するという。岐阜市は今後も広く商品を募のり、信長関連商品の開発を積極的にサポートし、新たな信長商品展開していくという。学識経験者や旅行業関係者などをメンバーにした「えエとコたント選定委員会(仮称)」を年内に設立し、信長ブランドの確立を目指すそうだ。どんな人達が選考されるか知らないが、年配者がいくら集まってもダメだろうな~~若い発想が必要でしょうね。でも岐阜って信長よりも斉藤道三だと思うんだけどなぁ~~他の誰だってそう思ってない?信長のイメージは尾張、安土だよね?岐阜はやっぱ斉藤道三で行くべきショッ!しかし岐阜って名付けたのは信長だもんね。沢彦和尚は、中国の「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事と、孔子の生誕の地「曲阜」から太平と学問の街なるようにという願いから地名を岐阜にした。そうするとやっぱ信長なのか?目新しいものの考え方で、古いものと新しい考え方が融合すれば、MIKAWAブランドみたくになるのにね!MIKAWA KOKU---メッチャ斬新です!
2009.01.15
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面白いモノを見つけた。それは「甲冑パンツ」これはアパレル企業のログインというところが作った新作の男性用下着だ。「包帯パンツ」といわれるもののようで、包帯パンツとは、医療で使われる包帯の編み方をヒントに開発された新素材「ブレスバンテージ」で作られたパンツのこと。包帯は伸縮性と通気性が高いのが特徴。夏は涼しく、冬は暖かいため、衣服の素材としても優れており、フィット感も高いという。ちなみに今回出るのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、武田信玄、まぁここまではありきたりな布陣だ。そして森蘭丸、井伊直政、最後に真田昌幸!きましたね!昌幸。真田幸村じゃなくて昌幸というところはシブい!良いところついてるね。これら8つのコンセプトモデルのうち、4パターンが12月上旬をめどに発売されるらしいい。気になる御価格のほうだが、ちょっと高目の1着1万2000円程度になるという。気になる商品だが、ちょっと高くないか????欲しいところだが1万越えではなかなか手が出せません。戦国武将ペンダント・のぼり旗『真田・六文銭』 Price8,500 円戦国武将ペンダント・鎧 『直江・愛』 Price12,000 円戦国武将ペンダント・鎧 『武田・武田菱』 Price9,000 円孫子風林火山リング 武田信玄 Price29,400 円上杉謙信タグ・毘沙門 Price23,100 円
2009.01.14
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2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公で、妻夫木聡が演じることでも話題となっている直江兼続が連載マンガになるらしい。それは昔、週刊少年ジャンプで連載された人気歴史マンガ『花の慶次』のスピンオフ作品となる「義風堂々 直江兼続 -前田慶次 月語り」で、11月14日発売の「コミックバンチ」(毎週金曜日発売)から連載されるそうだ。歴史好きな人で『花の慶次』を読んでいない人はいないだろう。真田幸村も取り上げられており、違和感を感じながらも真田幸村が出ているからと読み続けた。少々デフォルメされた感が強いマンガではあるが、当時は楽しく読んだ記憶がある。連載開始に当たり原さんは、「『花の慶次』が終わって15年たった今でも描き足りなかったという思いが一人だけ残る。それが直江兼続という漢(おとこ)なんです」とのコメントをしている。昨日の関ヶ原合戦祭りでも、兼続モノはかなり出ていて、Tシャツやストラップなど商品は豊富になっていた。「天地人」が決まる前には有り得なかった状態だよ。「義風堂々 直江兼続 -前田慶次 月語り」楽しみなことがまた一つ増えた。【新刊】 花の慶次 [完全版] (1-15巻 全巻)Price14,695 円花の慶次 完全版 単品だと Price979 円
2009.01.13
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武勇の誉れ高い加藤清正。清正はただ単に武だけに明け暮れた人ではない。教養と武の双方を兼ね備えた素晴しい人物だったのだ。清正は自身の家臣たちにも学問を学ぶことを勧めている。それは武士道の何たるかをよく吟味するために必要だとしていた。清正曰く「学問に精を入れよ。兵書を読み、忠孝の心掛けをもっぱらにせよ。詩を作り、歌を詠んではならぬ。心に華の風流があっては、気弱になり、いかにも女のようになってしまう。武士の家に生まれたからには、太刀をとって死ぬことこそ本意である。普段から武士道についてよく熟慮していなければ、いさぎよく死ぬことが出来ぬから、心に武を刻んでおくことが肝要である。」と。武士というのは、ただ太刀をとって死ねば良いというわけではない。武士とはいかに生き、いかに死ぬか、一人ひとりが書物にあたってそれを知り、いつでも死ねる研ぎ澄まされた心を持つことを求めたのだ。清正らしい純粋な武ですよね。そんな清正だから兵法を学び戦術・用兵など戦いのすべてを理解することの大切さを説き、武士道に励み、忠孝を尽くすことが武士としての最大の勉めであるとした。加藤清正のその純粋な武に対する心は、朝鮮の役のおりの秀吉の勘気を受け、自宅にて謹慎を受けながらも、伏見を襲った大地震の際、誰よりも早く駆けつけ秀吉の身を案じ馳せ参じている。その姿を見た秀吉は、涙し罪をといたという。加藤清正の生き方そのものが、武であり、武士なのだろう。しかし、清正も晩年は太刀を振るって死ぬことばかりを考える時代は終わったと感じていた。関ヶ原の戦いにて石田三成ら文治派が、豊家の将来を思い反家康の兵を挙げたが、自身の感情のままに戦った、清正をはじめとする武闘派 福島正則、加藤嘉明らは三成を排除することは出来たが、自身の居場所をなくす結果となってしまった。今さら家康に反することも出来なくなり、家の保身のために考え、動く時代へとなっていることに気づいた清正はうまく世間を渡ることも必要と知る。死ぬ間際、清正は何を考えていたのだろう。もし、関ヶ原の折自分達が三成と共に家康に相対していたら、世の中はどう変わっていたのか。豊臣家も弱体化することはなったろうし、豊臣家が安泰なら、豊家第一の家臣、加藤清正も武も変わる事無く貫いたことだろう。直江兼続の長袖Tシャツ!戦国武将「直江兼続」長袖TシャツPrice6,300 円もののふ 武田信玄半袖TシャツPrice3,990 円上杉謙信遺訓 TシャツPrice2,100 円
2009.01.12
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[直江兼続] ブログ村キーワード1614年(慶長19年)直江兼続は上杉景勝と共に、徳川家康の命に従い大坂に向かっていた。関ヶ原の戦い にて石田三成との共同作戦のような形になり、西軍敗北で120万石から30万石に減封となった上杉家。ある意味改易に成らなかっただけありがたかったのかもしれない。そんな意味では若干ではあるだろうが、徳川家に恩義を感じていたのか、それとも、上杉家存続のため奔走してくれた本多正信に恩義を感じていたのだろうか。今回の家康の大坂攻めの要請には従っている。というより従わざるを得ない状態に世の中が成っていた。当然ながら豊臣秀頼からも参陣要請は届いていた。しかし、時勢をみれば、いかに「義」を重んじる上杉家でも今さら豊臣家に肩入れするのは無理な話だった。直江兼続は「先般の関ヶ原の折に、太閤殿下に受けた恩義は返させていただいた。」と、丁重に大坂からの使者を帰していたのだ。直江兼続も前回の関ヶ原の時には自分の想いで家康に反旗を翻した結果、上杉家存続の危機に陥れることになり、責任を感じていた。よって今回は、豊臣家に対する恩義よりも、自身が生きてきた上杉家に対する恩義のために、大坂に赴いていた。11月23日上杉景勝は5000の兵を繰り出し鴫野に進軍した。鴫野は湿地で軍を進めにくく、大坂方は堀を深く堀り、柵などを設け鉄砲を構えていたため、上杉家は砦を築くことにするのだが、大坂方も阿呆の集まりではない。後藤又兵衛率いる精鋭がそれをさせまいと鉄砲を撃ちかけてくるのだ。26日早朝から家康に命で上杉・佐竹両軍が攻撃を開始する。上杉勢の猛攻に押され、大坂方は西に流れていく、これを追撃する上杉勢は大和川までくると追撃をやめて、堤を壊し柵を設け、土塁を築いた。前線基地を築いたのだ。対岸で戦っていた佐竹義宣勢は優勢に押していたが、木村重成、後藤又兵衛が出てくると逆に押され始めていた。兼続は「あの黒半月の指物をした者を撃て、大将に違いない」と鉄砲隊に指示を出す。この黒半月の指物をした武者は、後藤又兵衛だった。上杉軍優勢に進めていた鴫野の戦いだったが、大坂城内から渡辺内蔵助ら12000の援軍が出てくると、さすがに兵の数で圧倒され、1陣、2陣が敗走を始める。しかし兼続は冷静に判断し、中備えを前に崩れてくる1陣を左右に逃げさせ、2陣を中備えの前で左右に展開させた。そこに大坂方が突っ込んでくると、中備えが鉄砲を撃ちかけると、大坂方は不意をつかれ浮き足立つ。次に左右に展開させていた2陣を槍にて突撃させると、大坂方は混乱に陥るのだ。その後、全軍にて反撃を開始、上杉軍は多くの首をあげたという。この上杉家の活躍は家康にも報告され「上杉家にも多くの死傷者が出たであろうし、皆もよく戦って疲れているだろうから、ここは堀尾忠晴の軍と入れ替わり休養するがよろしかろう」と家康は指示を出した。これに対し景勝が「武将が戦場においては、たとえ主君の命であっても従わない事もある。早朝より激しく戦って取り仕切る場所を。人に譲って退くことは出来ない」として命令を撥ね退けた。結果、上杉軍は鴫野の大坂方を退却させ、今福で戦っていた佐竹軍も助け形勢を逆転させることに成功している。このときの上杉家の戦いに「謙信公以来の弓矢の戦い、いまだ衰えず」と賞賛し、その家臣団にも賛辞がおくられた。大坂の陣で活躍した上杉家の鉄砲隊は、関ヶ原以降、兼続が密かに山中で製造させていた鉄砲である。いつかのまた起こるであろう大戦のためにと、作っていたものが役に立ったのだ。この戦いが直江兼続が参加した最後の戦いになる。この後、大坂夏の陣があるが、体調不良のため参陣していない。
2009.01.11
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[加藤清正] ブログ村キーワード羽柴秀吉のもと侍となった加藤清正。以後、以前にも増して勉学、剣術に精進をするようになるのだ。軍学を折野弥次郎右衛門頼広兵法剣術を塚原小才次に、そして槍術宝蔵院胤栄に学んだといわれている。加藤清正の家紋として有名なのは「蛇の目」の紋であろう。「蛇の目」の紋は、単純明快で印象がきわめて強い。分かりやすいということは戦場においても覚えられやすく、大将がみて誰だということが一目で分かるのだ。さらに、この印はひとつの霊示で単なる模様ではなく、いわば呪符の意味合いもあるようだ。意匠的にはヘビの目を紋にしたのだが、昔は弦巻といった時代もあった。これは戦場で弓の弦を巻く籐製の輪がこの形をしていたからだ。清正が何故「蛇の目」の紋を使うようになったのかは不明だが、父 加藤清忠が斉藤道三の影響で日蓮宗に信仰があり、父の代から「蛇の目」の紋を使っていたからだろうか。一説には加藤家は藤原北家道長流と称しており、故に「蛇の目」の紋を使用しているのだという。これは中村の農民だったが、藤原北家につながる系図を作り上げたからであろう。そして清正にはもう一つ家紋がある。「桔梗」の紋だ。加藤清正が「蛇の目」と「桔梗」との二つの紋を併用するようになったのは、1588年(天正16年)肥後半国に封ぜられてからである。太閤秀吉は清正を呼び、肥後半国と讃岐の両国のうちから一つを選ぶようにいった。肥後国の領主佐々成政は秀吉の怒りにふれて切腹させられており、また、讃岐の領主尾藤知定もまた秀吉の怒りを買い北条に逃げいずれも領主がいなかったからである。尾藤知定は秀吉に仕え功を重ねて讃岐の領主となったが、九州征伐の折、秀長の軍に加わったものの、秀長にそむき軍を動かさなかったのが原因といわれている。知定女婿の石田三成を頼ったが、三成が拒んだ為北条に逃げた。1590年(天正18年)秀吉が小田原討伐をした後、髪を剃って秀吉に降ったが許されず惨殺された。 清正は肥後半国を選び、肥後に向かうことになるのだが、清正それまでが3000石たらずの侍大将だったのである。そこからいきなり25万石の大大名になってしまたので、武具や調度など足りるわけがない。そこで秀吉は、清正が肥後に赴くに当たって、この尾藤の武具、調度一切を与えたのだ。このときから、清正公は「蛇の目」、「一重菊」の加藤の紋と、尾藤の「桔梗」、「折墨」の紋を併用することになったといわれている。加藤清正は、戦には「蛇の目」、慶事には「桔梗」、文化的な事には「折墨」というふうに、用途により3種類を使い分けをしていたそうだ。
2009.01.10
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[加藤清正] ブログ村キーワード虎の異名をもつ武将として真っ先に名が上がるのが加藤清正ではないだろうか。それは朝鮮の役での虎退治の話があるからだろう。しかし、それだけではなく清正の名が虎之助といことも、また虎のイメージを強くさせる要因の一つではないだろうか。加藤清正画像(江戸時代後期)加藤清正の父加藤清忠は、最初は斉藤道三に仕えていたらしい。しかし、道三に斉藤義龍が反乱したことにより、母とともに尾張の愛智郡中村に逃げ住むようになったという。と云うことは清正の父は道三の忠臣で、道三が自害したことで義龍仕える事も出来ずに逃げたということなんだろう。清忠は中村へ逃げる際に負傷したようで、中村村の鍛冶屋清兵衛について鍛冶職を習うことになった。この清兵衛に伊都女という娘があり、いつしか清忠と恋仲となり、結ばれることになる。そこに生まれたのが加藤清正である。時に1562年(永禄5年)6月24日のことである。 清正は幼名を夜叉若といった。、海部郡津島に鍛冶屋五郎助という者がおり、この五郎助の妻は木下籐吉朗(豊臣秀吉)の妻 寧々の姉であった。もとは杉原定利の娘だったが、清兵衛の養女となり、五郎助の妻となっていた。伊都女に取っては養妹にあたり、清正にとっては叔母である。そんな間柄であったので伊都女は五郎助宅に同居していたそうだ。伊都女は清正を近くの妙延寺に通わせて経書、仏法、書道を習わせた。この妙延寺住職 大徳が清正の人間形成に影響をあたえている。現に清正は秀吉の中国攻めの際に自身の馬印を「南無妙法蓮華経」の七文字を書いた旗を押し立てている。これは明らかに幼少のときの教えに基づいたものだろう。こうして妙延寺住職の薫陶を受けながら育った清正。清正の母と秀吉の母とが従姉妹どうしであったことで、清正は秀吉の下で働くようになるのだ。寧々の姉の家に出入りしていた秀吉と、そこで同居していた清正がよく顔を合わせる仲だったことは間違いだろう。清正にしてみても、織田信長の下出世し始めた秀吉は輝いて見えたに違いない。秀吉にしてみれば、もともとが高貴な身分ではないので家臣がいない。ましてや心を許せる身内的な家臣は欲しかったのだろう。幼い頃から知っている清正はまさに心許せる者だった。そして1575年(天正3年)清正は14才のとき、長篠の戦いに初陣し、その翌年1576年(天正4年)元服し、夜叉若から名を虎之助清正と改め、170石を与えられるようなる。こうして正式に秀吉旗下の侍になり、後世の加藤清正の活躍となっていく。加藤清正の出生のネタを使ったストーリです。 加藤清正甲冑フィギュア 真田勇軍記(1) 真田勇軍記(2) 真田勇軍記(3)
2009.01.09
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1582年(天正10年)備中高松城は羽柴秀吉によって水攻めにされる。城主 清水宗治は城内において兵達を鼓舞し、毛利本隊の到着を待っていた。毛利輝元は吉川元春、小早川隆景を伴い援軍に訪れるが、完全に水に浸かった城に手出しすることが出来なかった。秀吉は無益な殺生を嫌い、毛利家に和睦を持ちかけた。毛利家側の交渉人は安国寺恵瓊である。織田家側の条件は城主 清水宗治の切腹。しかし毛利家は忠義の将をみすみす切腹させるわけにはいかないと反対、家中の意見がまとまらなかった。そうこうしていると織田信長が本能寺で明智光秀に討たれるの報が秀吉にもたらされる。秀吉は焦る・・・もし、このことが毛利家に分かれば形勢は逆転し、自身の命さえ危うくなってしまう。焦った秀吉は和睦交渉の急がせた。何も知らない毛利家は信長本隊が着てからでは和睦も何もあったものではない、しかし宗治を切腹にはさせたくはなかった。安国寺恵瓊は秀吉に許可をもらい、直接高松城に赴き宗治にことの仔細を話す。毛利家の宗治に対する思いやり、そして秀吉からの言葉。宗治は恵瓊が訪れるよりも前に、城のこのような状態に、兵達を救うには己の命を差し出すしかないと決心していたようで、そこに恵瓊から聞かされた毛利家の自身に対する慈悲深い恩情ある言葉を聞き「仁の心ある主君に、義をもって報じるは臣下のとるべき道である。」と言い、続けて「われは百年も生きられぬ。いま天下泰平の基礎はただこの一事にある。宗治が急ぎ腹を切って和睦を調えたい」と恵瓊に伝えた。これを聞いた恵瓊も涙ながらに宗治に感謝し、毛利輝元に宗治の言葉を伝えた。恵瓊が帰った後、宗治は小姓を呼び髭を抜かせた。宗治は「それがしの首はやがて信長公にお目にかかるであろう。髭をそのままにしておけば、籠城で身だしなみ忘れた故であろうと侮られるのが悔しい。だから男を作っているのだ」と、死んだ後の自身のこと、そして毛利家に使える将として毛利家に恥をかかせないよう心をつかったようだ。宗治は高松城外に舟を出し、敵味方が見守る中、秀吉から贈られた酒と肴を食し、『宇治』を一曲謡い最後に「浮世をば、今こそ渡れ武士の 名を高松のこけに残して」と朗詠し、泰然と切腹して果てたのである。清水宗治、戦国の習いとはいえ、武士の武士たる生き様であり、義に溢れた勇将であった。戦国疾風録 Price840 円滅びの将 Price669 円サムライたちの遺した言葉 Price798 円
2009.01.08
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島津義弘の敵中突破は2度あった!1598年(慶長3年)太閤豊臣秀吉が身罷った。時に戦国諸将は秀吉の命令で朝鮮へ出兵している最中のことである。埒の明かない戦闘に苦しんでいた日本軍。明の援軍の情報もあり、秀吉の死後、遺言に基づき朝鮮からの撤退を決める。しかし、撤退と一言で言ってもそう簡単に出来るものではない。勝ち戦ならまだしも、勝敗の決しないどちらかといえば負けに等しい撤退である。秀吉死去の情報は朝鮮・明連合軍にも、もたらされ敵は活気付いている。そのとき泗川新城にいた島津義弘は困惑するのだ。なぜなら、島津軍は敵20万の大軍に包囲されており、最早絶体絶命の危機に陥っていたのである。そんな中での秀吉の死、そして撤退命令であった。この時のことを後年義弘は『惟新公御自記』に記している。この出だしに義弘はこう書いている。「多くの家が滅びるのは一士重代の臣がおらず、主人は心の向くままに任せて、古きを捨て、新しきを賞し、仏神を敬わず民を使うに時をもってせず、人を用いるに道をもってしなかったために、住古の政を失い天罰が当るのだ。」と書いているのだ。この一文からも義弘の仏神を敬う尊ぶ姿が強く感じられる。義弘は続けて綴っていく、「振り返って島津家をみれば、代々仏神を尊び、先を敬い、武略を修め、文教に努め、忠節を加えているから国は代々降盛を誇っているのだ」としている。義弘の仏神を敬う気持ちは、多分に祖父 忠良の影響が大きいと言われている。そんな義弘はどこにいても手を合わせることを忘れなかったし、素直な気持ちで仏神に祈った。絶体絶命の泗川新城においてもそれは変わる事無く義弘の気持ちを支えていたに違いない。そして撤退作戦を開始する間際、兵達を前に激を飛ばす。「そもそも日本は神国である。仏天の擁護がなければどうして道が開けよう。平生の信仰は、今このときにあり。」日頃島津家は手を合わせることを大事とし、常に信仰心を忘れずにた。だからこのような危機にこそ、神仏は我らのために道を開いてくれるはずである。己を信じて進むべし!と云うことだろう。島津義弘は泗川新城のギリギリまでに敵を引き付け、次の瞬間に鬨の声をあげ城門を開放。一斉に斬り出して行く。島津勢が一丸となり斬り進んでいく、義弘も息子の島津家久も粉骨砕身の戦いぶりを示す。これに連れて諸卒も勇み斬り込んで行ったそうだ。その時、不思議なるかな白狐、赤狐が現れ、走って敵軍のなかに入ったという。義弘は「稲荷大明神のお告げに相違ない。」としてさらに激しく進み見事撤退作戦を成し遂げたのだ。『惟新公御自記』には「哀れなことに、両狐は矢に当たって果ててしまった。このような神慮の深さによって、計りがたい猛勢を斬り崩した」とも書いている。この戦いで集めた敵首は3万8700あまりだったといい、一方、島津勢の死者は百数十人と軽微だったという。ここに出てくる狐。なぜ狐だったのだろうか。それは狐は島津の守り神として信仰されていたそうだ。島津初代の島津忠久が大坂の住吉神社で生まれたとき、闇世の中でのお産に困っていると狐が明かりを点してくれたというのだ。それ以後狐は島津の守り神となり、その狐が己を犠牲にして勝利をもたらしてくれたと義弘は信じていたようだ。現に今も鹿児島県は日本で一番祖先を大切にする県であり、お墓には常にお花が絶えることが無い。島津の関ヶ原敵中突破はそれから2年後のこと。神仏が宿りし島津勢の前に立ちはだかる敵はいなかった。先の朝鮮において20万の大軍の中を駆け向けてきた島津義弘にとって関ヶ原の東軍の数などは恐れるに足らぬものだっただろう。多くの犠牲を出しながらも義弘は敵中を突破していくのだ。島津義弘Tシャツ「武骨」 戦国武将 Price4,095 円コーエー 信長の野望 Online ~争覇の章~ Price6,380 円九州戦国の武将たち Price2,415 円
2009.01.07
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[浅井長政] ブログ村キーワード関ヶ原の西、中山道と北陸街道が交差する要地にある城、それが日本五大山城の一つに数えられる小谷城だ。城主は言わずと知れた浅井家である。城を築いたのは浅井亮政である。築城時期は諸説あるが、1524年(大永4年)というのが定説になっている。北近江守護の京極氏の家臣団を巻き込んだ跡目争いを利用して台頭した浅井亮政により築かれたとされる。浅井亮政は守護京極氏の名のもとで江北一帯を支配する有力戦国大名と成長していく。標高495mの小谷山にそびえる小谷城は、本丸、中之丸、京極丸、山王丸などがあり、険しい山城であった。京極丸はおそらく、先ほどの京極家の相続争いで、浅井亮政は最初京極高広を擁していたが、一旦京極高慶を追放すると、同じように京極高広を擁していた浅見貞則の専横が目立つようになり、面白くない浅井亮政は追放されていた京極高慶を招きいれ、近江を支配していくのだ。その京極高慶が居住していたのが京極丸になる。それを良しとしない六角定頼が浅井家を攻撃するようになり、浅井は越前の朝倉家を頼みとし、ここに浅井・朝倉の同盟がなりたったのだ。浅井亮政没後も浅井久政・浅井長政と代は変わっていく。大きな変化が訪れるのは浅井長政の代であろう。尾張の織田信長と同盟を結ぶことにより、宿敵六角氏を破り、ともに将軍を押し立てて京都に入るのだ。まさに浅井家も信長の影響で絶頂期を迎える。長政もお市と4人の子ども達に囲まれ幸せな日々を過ごしていただろう。しかしそんな時期も長くは続かなかった。織田信長が将軍 足利義昭と次第に不和になってくる。その隙を窺ったのが朝倉義景であった。義景は足利義昭と結んで反信長連盟を企てたのだ。怒った信長は朝倉攻めを開始、近江の浅井領を通過し越前に向かう。同盟の条件であった朝倉を攻めないということが反故にされた浅井長政は苦悩する。長きに渡り浅井家を援助してきてくれた朝倉家を裏切ることは出来ない、しかしお市の実家であり、時の勢いのある織田信長に反するのも苦悩であった。結果長政が出した答えは、長年の義理を取る事だった。浅井領を通過した織田軍の背後を突くために出陣をする。織田軍はまさか浅井が裏切りるとは思ってもいないので後方は無防備のはず、長政は信長さえ討ち取れば苦悩は消えると信じ、軍を挙げた。この浅井謀反の知らせはいち早く織田軍にもたらされた。知らせたのは、お市であった。。。信長は知らせを受けると脱兎の如く撤退を開始する。何とか逃げおおせた信長はすぐに浅井攻めを開始、1570年(元亀元年)6月29日、浅井長政8千、朝倉景健1万と織田信長2万5千、徳川家康6千が姉川を挟んで激戦を展開する。その後は信長包囲網のもと武田信玄や比叡山らと協力をするのだが、1573年(天正元年)信玄の死去、足利幕府の崩壊で形勢は信長に有利になっていく。そして浅井家の阿閉貞征が羽柴秀吉の勧告に従って寝返るのをきっかけに信長は再び小谷に攻め込む。朝倉家も2万の大軍を擁して来援するが、小谷に入ることが出来ず、朝倉方の援軍が陣取る大嶽城が陥落すると朝倉本隊も総崩れとなり、越前へ敗走、信長軍は朝倉の本拠一乗谷まで追撃し、朝倉義景を自刃に追い込み、朝倉家を滅亡させる。朝倉家を滅ぼした後、取って返す軍でふたたび虎御前山に陣取った信長は小谷城を攻撃。羽柴秀吉が本丸背後の京極丸を占拠し、本丸の長政と小丸の久政を分断。小丸の久政が自刃すると、信長は不破光治らを軍使に長政に開城を勧告したが拒否され、長政はお市と三人の娘を織田陣営に還した後、本丸下の赤尾美作守屋敷で自刃し、小谷城は落城したのです。今現在は遺構と石垣などが残るのみですが、さすがに日本五大山城に数えられるだけあって、規模はデカイです。まともに麓から本丸まで歩いていったら2時間はかかるのではないでしょうか?また本丸から全てをまわろうとすると1日はかかりそうです。山頂から見える小谷平野の眺望はかつての長政やお市が見たものと同じはず・・・同じ風景を見るにあたり感慨深くなってしまいます。番所跡までは来るまで上げれますのでココまでは車で行ったほうが無難でしょう。あとはひたすら山道を歩くのみ!お弁当や飲み物は必需品です。今なら紅葉が綺麗なはずですよ。戦国の凰お市の方 Price1,680 円浅井長政正伝 Price1,050 円戦国一の美女と謳われたお市 Tシャツ Price3,990 円浅井長政のすべて Price2,940 円
2009.01.06
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直江兼続は晩年に『軍法全』なるものを執筆している。これは戦術や軍法などを記したものだそうだ。この『軍法全』には兵としての心得や具体的な戦法、行軍の諸注意などが事細かに記載されているという。たとえば第1条「行軍は前後左右の列を定めて旌旗を乱さず、長兵横ならず、火縄滅せず、遠からず近からず、重からず軽からず、寂として聲なきごとく、行止めて鼓に応ず」とある。極めて細かく指示している。見るからに基本中の基本的なことを記載してますよね。戦に望む心得も「戦いに臨むときは、まず内を整えて前後左右の備えを固め、気を治めて心を静め、息を整えて目を開き、ひざまずいて待つべきである」としている。これを見るからに、直江兼続はかなり慎重な人だったのだろう。間違いなくA型っぽい人ですよね。兼続のそんな性格が1600年の関ヶ原の戦いの折の最上征伐に出ている。まず、最上義光の山形城を攻める前に、周りの諸城を落とし、後顧の憂いを経ってから山形城を落とそうとした。これには犠牲を最小限にするといったことも考慮されていたと思うが、上山城や畑谷城を攻め、その後に長谷堂城を攻めにかかっている。まさに負けない戦の仕方だ。『軍法全』の中には、上杉謙信のもと育って来た兼続らしい項もある。第21条「合討ちは敵動かば助け求救うといえども、首は初太刀の者に付与すべきものなり。死人を争って比興を構うるなかれ」とあり、人道に反する行為への戒めや、兼続の戦に対する意気込みが感じ取れる。まさに上杉家といった内容だ。兼続は常に敵の意表をつく心理戦を展開し、鉄砲攻撃を効果的に使いながら攻撃と防衛を施す戦法を使っていたという。このほか、第31条に「戦法は敵人気と心を奪うにしかず。気を奪うには旌旗、五色、鉄砲あり。心を奪うには奇計、智謀あり」とある。兼続は敵に心理的圧迫感を与え、戦いを有利に進めようとする作戦を取っていた。そして敵の気をそらすために鉄砲を有効に使い、幾多の戦を経験する中で鉄砲の重要性に気づき、その装備や生産にも力を入れていく。その証が、直江兼続 鉄砲製造政策という政策になっている。
2009.01.05
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仁の将 大谷吉継。その人となりは奇略は諸人を越え、決断力もまた群を抜いていた。盟友石田三成はそんな大谷吉継の力量を知っており、太閤 豊臣秀吉が認めた男を是非自軍に欲しいと思い、自らの計画を包み隠さず話、味方になってくれるように頼んだ。吉継も、三成から挙兵を打ち明けられ、驚いたことだろう。三成と吉継は共に秀吉が長浜に入ってからの家臣であり、小姓時代から仲がよかった。しかし、ただ単に仲が良いからと言うだけで加担するには勇気のいる決断だった。大谷吉継は歯に衣着せずに三成に言う。「おぬしは皆に対して、規則規則とうるさく、時候の挨拶や作法が横柄である。諸大名から日頃より快く思われていない。だから誰も着いては来ぬぞ、しかも相手は戦上手の内府じゃ、勝てる見込みはあるまい」と諭した。三成は吉継が再三に説得をしたが意志は変わらず、遂には吉継は秘策を隠さずに打ち明けられたことにより、年来の交誼に殉じようと決意をした。こうしたなかで吉継と三成は策を巡らすことになる。三成は佐和山城をさらに堅固な城として改築し、佐和山城を拠点に戦うことを提案したのだ。吉継はこれに反対した。「城を堅固にするなら、敵地に砦を構え、その後方の良き場所を縄張りをして要害にするべきである。しかるに貴殿は城を出て戦う大将なのだから、城普請など必要ない」「大将の要害は徳にあり。徳のあるところ天下これに帰す」と言い放った。大将としての要害は徳から生まれる人脈であり、人材である。人が集まれば、力が生まれ、人の要害が出来上がるのだ。まさに孟子の天の利は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずだ。吉継は三成に懇々と説明をするのだが、人脈などは一朝一夕で出来上がるものではなく、豊臣秀頼を担ぎ出すことが出来なかった時点で西軍は負けていたのだろう。大谷吉継の賭けは、三成の人徳の無さにより砕け散ってしまうのである。
2009.01.04
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竹中半兵衛重治、言わずと知れた羽柴秀吉の大軍師である。半兵衛は幼少の頃より体が弱く、病に伏せがちで痩せていたそうだ。そんな半兵衛だから、武勇に振るうということはなく、もっぱら書をたしなみ学を磨いていた。その甲斐あって、半兵衛は秀吉の下で軍略を施し、自軍を勝利に導いていったのだ。半兵衛の妻は美濃三人衆の一人、安藤守就の娘を迎えている。二人の間にはなかなか子どもに恵まれず、神社などに赴き願掛けなどをして、結婚して12年後ようやく授かったのが竹中重門である。半兵衛は喜びは大変なものだったであろう。自らが歩んできたような道はたどらせたくない、文武兼備の名将として育てたかったに違いない。半兵衛のその期待が必然的に英才教育へと繋がっていく。ある日のこと、半兵衛が重門を前に軍物語の講義中をしていると、重門が座を立った。半兵衛が「軍は国の大事である。どこへ行くのだ」と問うと。「厠へ行きます」と重門は答えた。そこで半兵衛は「ここに小便をたれるとも、軍物語をしている大事な席を立ってはならぬ!」と言い放った。厳しい一言だ。半兵衛にしてみれば、「竹中の子が噺に聞き入って、座敷を汚した」と言われれば、それは竹中家の面目であると考えたのだ。まさに軍略に生きる半兵衛らしい言葉だ。そして裏には、重門に「さすが竹中の子!小便よりも軍を取った」と思われれば他人の評価も上がると考えたのだろう。竹中半兵衛の重門に対する愛情、そして自身の味わった辛い思いを同じようにさせたくないという親心の表れだった。しかし、半兵衛の教育はそう長くは続かなかった。1578年(天正6年)秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。竹中半兵衛の軍略もあり順調に攻略をしていくのだが、1579年(天正7年)別所長治の播磨三木城の包囲中に病に倒れてしまう。半兵衛の体を心配した秀吉は、京都で療養させるのだが、半兵衛はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願し、最後は三木の戦場にて死去する。半兵衛のこの死に様は、まさに先ほどの「ここに小便をたれるとも・・・」であろう。軍を第一とする武士。体が弱く武勇に生きられなかった半兵衛は、執拗に武士としての生き様にこだわったのではないか。自らの命がなくなろうとも、最後まで戦場にて生きる。竹中半兵衛の男としての美学を見ることができる。
2009.01.03
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武田信玄ほど武将の中で、 『孫子』の兵法を徹底的に学んだ人はいないのではないだろうか。『孫子の兵法』とはただ単に、戦をするためのものではなく、組織経営、人材適用、経営戦略的なものも兼ね備え、現代においても経営者にとって必須の物として見られている。最早哲学に粋まで行っているのではないだろうか。そんな『孫子の兵法』を重んじた武田信玄。『孫子の兵法』の理想は「戦わずして勝つ」こと。無駄な血を流さず、敵を降していく。よって信玄の戦法は外交戦にあった。確かな情報をもとに、調略、策謀などを駆使し相手を味方につけ、利用し敵を降伏させていく。その信玄の用兵のもと活躍するのが、真田幸隆、山本勘助など調略を得意とする者たちだった。そうした信玄公だったからこそ、軍旗に孫子の有名な言葉。「早きこと風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」と書かれた旗を立て戦に望んだ。その武田信玄が、「戦いは五分の勝ちをもって上となし、七分を中とし、十を下とす」と言った。これは戦勝は五分が一番良い、なぜなら次への励みになるからだ。七分勝つと怠りを生み、完勝すると奢り高ぶりを生み味方が大敗する下地になるからだ。これらの事を意識して信玄公は戦に望んでいた。現に信玄公の戦は全戦全勝ではなく、上田原の戦いのようにあわや・・・という戦もあり、川中島のような戦もしている。しかしどれも、事前に敵情を視察し、情報を集め、調略をもって内通者を作り攻め込んでいる。戦をして領土が広がり喜ぶのは武士だけだ。その地域に生きる農民や商人たちは戦のたびに恐れ、命を晒される。領土を支配する以上、民の幸せを最優先に考えねば良き将とは言えず、領土を拡大していくことも出来ない。信玄は調略を持って領土を拡大し、治世をもって民を支配し、良将として家臣をまとめ、戦乱を生き抜いてきたのである。信玄と上杉謙信との違いは、人間味があるところかもしれない。神となろうとした謙信公に対し、常に人の上にあることを考え、人として生きてきた信玄公。それぞれに現代においても民に慕われる大いなる人物である。ブランド巨峰2キロ山梨県勝沼の献上ぶどう Price3,800 円[山梨土産]信玄武者ほうとう Price1,050 円かいや あわび煮貝殻詰 Price15,750 円【DS】国盗り頭脳バトル 信長の野望 Price4,420 円【DS】 采配のゆくえ 10月23日発売予定 予約Price4,280 円【DS】歴史群像 presents ものしり戦国王 Price3,380 円
2008.12.31
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上杉謙信が毘沙門天を崇拝していたことは有名だ。今さら知らない人はいないくらいだ。というよりなんで知らないヤツがいるんだ?というくらいに日本人の常識的なところじゃないか?そもそも毘沙門天とは、仏教界では世界の中心に須弥山があり、その宮殿には帝釈天がおり、四方を守護する四天王の一つが毘沙門天である。北を守る守護神だ。一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶらしい。毘沙門天は片手に仏塔、もう片方には矛を握り、甲冑を纏っている。では何故、謙信公は自身を毘沙門天に準えたのか?別に四天王の他の広目天や持国天、増長天でもよかったのではないか?疑問に思いませんか?答えは謙信公は先ほどの仏教界での宇宙観を、須弥山を京都と見立てて、帝釈天を天皇と将軍と信じ、北にいる自分を北の守護神である毘沙門天に仮託したのだ。それにより自分は天皇および将軍を守護する大将たらんとした。どうです?納得できるでしょ?『北越軍記』によると、謙信公は京都愛宕山にある勝軍地蔵を勧請して帰依し、春日山城のなかに一宇の堂舎を建立し、刀八毘沙門天の尊像を安置した。そして僧を招き、毎月3日に潔斎して参詣をしていた。謙信公の化身振りは凄まじく。「我が命ある限り、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に望みはなし。もし我が運拙く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし」と毘沙門に誓い、この願いを成就させるために鳥魚の肉を絶った。そして有名な話である女性との交誼も禁じたのである。徹底したものだある。毘沙門天に心を寄せてからの謙信公は戦場においてもその姿勢は変わらなかった。兜を用いず、おおかた具足も着ず、黒い木綿の胴衣を身に着け、鉄の笠をつけていた。謙信公曰く、「我は毘沙門天の化身である。矢玉は向こうから避けていく、恐れることない。」と家臣たちを鼓舞したのだ。軍神がついているから負けることはない。恐れずに進めということだった。そんな謙信公の姿を人々は武神そのものと信じ、謙信公自身も信じきっていた。謙信公は家臣に「我あってこそ毘沙門天も用いられる。我がなければ毘沙門天はありましない。我が百度、毘沙門天を拝めば、毘沙門天も我を五十度か三十度は拝むであろう。我を毘沙門天と思え」と言ったそうである。自身を神格化した謙信公、実際にその姿は完全に毘沙門天以外の何ものでもなかった。上杉謙信新装版 Price2,940 円鬼神伝承・弐 眷属二十八部衆・壱(彩色9種) Price6,300 円木彫仏像毘沙門天立像1.5尺楠木総高80cm彩色 Price69,900 円魔性が侵入するのを防ぐ!十二天(梵字)・水晶(12個セット)10mm丸玉・横通穴Price6,120 円
2008.12.30
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学研から出ている歴史群像新書伊藤浩士 著 『真田勇軍記』完結しましたね。すでに読み終えた人もいるでしょうが、少し感想を。(ネタバレしちゃうので読んでない人はパスしたほうがいいかも)真田昌幸の調略により、自身を豊臣秀吉の息子であると信じさせられることになる加藤清正。この清正に真田幸村の軍略が加わり九州にて挙兵することになる。昌幸の策略の一つ、清正の挙兵を援護する形で大坂の豊臣秀頼が徳川家康に兵を挙げる。というよりも挙げさせられることになる。大坂を率いるのは後藤又兵衛である。又兵衛のもと、塙団右衛門、大谷治吉などが徳川軍相手に奮戦しするも、大坂の譜代家臣たちは徳川との和睦に応じてしまい。後藤又兵衛ほか2万の軍勢が大坂を去っていく。そんな中、幸村の作戦により九州において加藤清正は黒田長政を討ち取り、田中忠政も支配下におく。そして宇喜多秀家、長宗我部盛親など旧大名を旧地に戻し、決起させるのだ。朋友 福島正則にも決起を促し、家康の対抗する勢力を確保、越前においても大坂から出て行った御宿勘兵衛が、同じく藤堂家を出奔した渡辺勘兵衛、小幡勘兵衛と共同し越前を乗っ取るのだ。徳川軍は連戦による連戦で外様大名たちは疲弊し、次第に徳川から心が離れていく。しかし、姫路の池田輝政は自身が徳川の縁者であるという自負からか、志願し広島城への中入りを提案。この作戦は幸村が予想しており、九州より船団にて大坂を出た後藤又兵衛率いる軍勢を広島に上陸させ、棚倉から逃げ合流した立花宗茂もこれに加わり、池田勢は大敗。主君である池田輝政も討ち取られてしまう。勢いに乗った加藤勢だったが、ここで家康の策謀が成功する。清正に今回の作戦は真田の陰謀だと耳打ちするのだ。清正は心の病に陥り、卒中で倒れてしまう。総大将の清正がよもや倒れると思っていなかった幸村。抵抗軍の総大将を決めねばならぬが、任せられる人物がいない。悩んだ幸村は父 昌幸が残した最後の知恵を開封する。そこに書かれてあった文字は・・・・・ここまでにしておきましょうか。あとは読んでのお楽しみで!途中まではいい感じで話が進んでおり、面白い作品だったが、なぜかいきなり話を急激に進めだしたような感がある。もっと複雑に絡み合っていくのかと思っていたのに残念だった。結局、宇喜多秀家も長宗我部盛親もそんなに関わらないし、福島正則もいても居なくてもどうでもいい存在になっていた。上杉や直江も全く絡まなかった。ちょっと残念。。。。 真田勇軍記(1) 真田勇軍記(2) 真田勇軍記(3)
2008.12.29
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