もののふMono

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2009.01.20
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カテゴリ: 蒲生氏郷
戦国の美将、 蒲生氏郷
勇猛で武人としての誉れを極め、義を貫く男気のある一面もあれば、街づくりに尽力し、優れた手腕を発揮した領主の顔もあり、歌をたしなみ、茶の道を極め 「利休七哲」 の筆頭にあげられる文化教養の人でもあった。

そしてもう一面がある。
それは切支丹ンだったことだ。
蒲生氏郷 は少年期に仏教・儒教を修める。
日本は元々が儒の国であるから、武家の子として生まれたからには儒学を学ぶのは当然であった。
ではいつから氏郷は切支丹になったのか。


氏郷が生まれるのはその7年後の1556年(弘治2年)のことである。
十分にキリスト教の日本での布教の土台は出来上がっているとみていい。

氏郷は幼くして 織田信長 のもとで人質生活を送っていた。
南蛮文化に開明的な信長もと、様々なものを見て、触って感じてきたであろう氏郷は感受性豊かになっていたのではないか。
その中の一つに茶道があった。
信長は茶器を領土と同じくらいの値打ちに引き上げ、恩賞や褒美として家臣に与えたりし、また、 織田信長 は堺を直轄地としたときに茶頭として 千利休 を雇い、より茶道を高貴なものにしていった。
必然的に氏郷もこの茶道に見せられていく。

そんな信長のもとで生活する氏郷にある人物との出会いがあった。
高山右近 である。
右近は茶道に優れ、のちに 利休七哲 と言われるほどの人であり、氏郷同様に利休の高弟として有名だった。
次第に氏郷は右近と親交を深めていく、右近と親しくなればなるほど熱心な切支丹の右近からキリスト教の教えを聞き、氏郷の心の中に少しづつ信仰心が芽生えるようになっていた。

30歳になったころ、右近に勧められてキリシタンに帰依することになる。

改宗の理由については、会津の人びとの人心掌握のために利用したという説もあれば、茶の道では満たされなかった平和への想いからという説もある。

長く続く戦国の世に、風流と風情を求める氏郷の心がそうさせたのだろう。
氏郷は松坂から会津に転封になった際も、宣教師も会津に連れて行き、会津にキリスト教を布教しようとした。
ローマにも度々使いを送り、時のローマ教皇から感謝の手紙を受けている。

時代の中で氏郷は何を感じていたのだろうか。
キリスト教に何を求めていたのだろう。

勇ましい武人としての姿を持ちながらも、こよなく風流と平和を愛した氏郷。
戦国大名として、自身の手によって多くの命を奪っていく自らの運命を皮肉に思っていたのかもしれない。
氏郷は会津において積極的に布教活動をしていく。
城下には、教会が建てられ、重臣達にもキリスト教を勧める。

早く平和な世が訪れることを願いながらも、天下を窺う器量と裁量を持ち合わせた 蒲生氏郷
心半ばで病に倒れ亡くなってしまうのだ。


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最終更新日  2009.01.20 18:15:59 コメント(2) | コメントを書く
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