もののふMono

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2009.02.14
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関ヶ原の戦いのおり、西軍についた 長宗我部盛親

当初は東軍に付くつもりだったのだ。
東軍に付く旨の使者を出したところ、西軍の関所に引っかかり已む無く西軍に付くことになった。

父の 長宗我部元親 は武力、知力に長けた実力者だった。
その4男として生まれた盛親。嫡男の 長宗我部信親 が本来は後継者であった。信親は元親の寵愛が高く、才能もある人だった。しかし、1586年(天正14年) 豊臣秀吉 の九州征伐の際に戸次川の戦いで死んでしまったために、元親の悲しみは相当なものだったという。

その後の後継者に選ばれたのが盛親だったのだ。

元親は信親に対する愛情を盛親に注いだ。
しかし、時代は秀吉によって太平の世となっていたために、盛親は武勇の士としてよりも、太平の世を渡る者として教育されていった。
先の戸次川の戦いで長宗我部軍は重臣の7割を失っており、盛親が長宗我部家を継いだときには歴戦の猛者はほとんどいなくなっていたのが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に使者を捕らえられ、止むを得ず与する形となってしまったのだろう。

関ヶ原の本戦でも、毛利軍の後ろにいたために、参戦することができず、気がつけば戦わずして戦は負けており、敗者になってしまっていた。
その時の動員兵力は6000だったのだ。
もし長宗我部が参戦していれば、関ヶ原の結末は完全に西軍勝利で終っていただろう。

長宗我部軍は関ヶ原から退却を開始する。
無事に退却できるはずも無く、東軍の兵に追撃され、伊賀を越えるころには6000いた兵も僅か500足らずとなっており、結局、 長宗我部盛親 は領地没収となり、京都において寺子屋の先生として細々として生きていくのだ。

そして14年後の1614年(慶長19年) 大坂の陣 豊臣秀頼 の要請に馳せ参じ、一軍の将として帰り咲く。
盛親は関ヶ原で一矢も報いぬまま牢人となった恨みをここで晴らす。
華々しく戦うものの、大坂方には勝利の見込みは無く、参戦した諸将が次々に討ち取られていく中、盛親はこの時点で徳川に抗うことの無謀さに逃亡をするが、山城の国で捕らえられてしまう。

縛に付いた盛親に警護の者が出した食事が無造作に飯を高く盛ったものだった。
それがあまりにもぞんざいで屈辱的だった。
長宗我部盛親 「昔より名将のからめ捕らわれるためしは多く、少しも恥とは思わぬ。だがこのような卑しき食物をさし置く礼儀がどこにある。早く首を刎ねるが良い」 と言い放った。

この様子をみていた 井伊直孝 は警護の者を呼び「無法の振る舞い」として叱り、台所衆に命じ料理を調えさせ、盛親を呼び縄を解き無礼を詫びて「疲れを癒されよ」といい丁寧に声をかけたという。

これに対し盛親も 「さすがは井伊殿、これぞ礼儀を知ったる武士の道よ」 と感謝した。
最後に盛親にどうして自害しなかったと訊ねた徳川の側近に、盛親は 「一方の大将たる者が、葉武者の如く軽々と討ち死にすべきではない」 といい、再び好機あらば兵を起こし世に出る気持ちを語ったというのだ。

父 元親に太平の世に生きるように教育はされはしたが、長宗我部家の武門の意地は消えてはいなかった。







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最終更新日  2009.02.14 18:12:22 コメント(1) | コメントを書く


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