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徳川家康(とくがわいえやす)の時代に絶大(ぜつだい)な権力(けんりょく)を持っていた本多正純。しかし、家康の死後、突然失脚し、代わって土井利勝が江戸幕府(えどばくふ)の中心人物となりました。今回は、その理由を分かりやすく解説します。
本多正純の父は、本多正信(ほんだまさのぶ)という家康の有名な参謀(さんぼう)です。正信と正純の親子は、戦場(せんじょう)で活躍する武将(ぶしょう)というよりも、政治(せいじ)や行政(ぎょうせい)を得意とする官僚(かんりょう)タイプでした。家康は正純の能力(のうりょく)を高く評価し、大名(だいみょう)の統制(とうせい)、外交(がいこう)、幕府制度(ばくふせいど)の整備(せいび)などの重要な仕事を任せていました。当時の正純は、「家康の右腕」と呼ばれるほどの存在でした。
1616年、家康が亡くなると政治の中心は二代将軍(にだいしょうぐん)徳川秀忠(とくがわひでただ)へ移ります。家康は能力重視でしたが、秀忠は秩序(ちつじょ)や安定を重視する人物でした。本多正純は、発言力(はつげんりょく)が強く、自分の考えをはっきり言い、多くの仕事を仕切るという特徴がありました。そのため優秀ではありましたが、敵も多くなっていました。
一方の土井利勝は、本多正純とは対照的な人物でした。目立たず、将軍を立て、慎重(しんちょう)に行動し、敵を作らないという性格で、秀忠から厚い信頼を得ていました。政治家として派手さはありませんが、安定した政務(せいむ)を行う人物として評価されていました。
当時、三代将軍(さんだいしょうぐん)を誰にするかという問題がありました。秀忠の長男が徳川家光です。しかし幼いころの家光には吃音(きつおん:言葉がつかえること)がありました。家康は弟の徳川忠長(とくがわただなが)を気に入っていたとも伝えられています。そのため幕府内部では、家光派(いえみつは)と忠長派(ただながは)という対立が生まれました。本多正純は忠長派ではないかと疑われるようになります。反対に土井利勝は家光を支持する立場として将軍家から信頼されました。
1622年、本多正純は突然改易(かいえき:領地や役職を取り上げられること)されます。昔は「宇都宮釣天井事件(うつのみやつりてんじょうじけん)」が原因と考えられていました。しかし現在では、この事件そのものが後世(こうせい)の創作(そうさく)である可能性が高いとされています。実際には、秀忠から警戒(けいかい)されたこと、家光派と対立したこと、忠長派と見られたこと、多くの大名から反感(はんかん)を買ったことなどの政治的な理由が重なった結果と考えられています。
本多正純が失脚すると、土井利勝は幕府の中心人物となります。その後、老中(ろうじゅう)、老中筆頭(ろうじゅうひっとう)、大老(たいろう)として幕政(ばくせい)を支えました。さらに三代将軍家光からも厚い信頼を受け、江戸幕府の基礎(きそ)を固める重要な役割を果たしました。
本多正純は、「家康時代を支えた天才的な政治家」でした。しかし、その能力の高さゆえに敵も多く作ってしまいました。一方の土井利勝は、「秀忠・家光時代に求められた安定型の政治家」でした。その結果、能力で評価された本多正純よりも、信頼で評価された土井利勝が生き残ったと考えることができます。歴史には「能力の高さ」だけではなく、「誰から信頼されるか」が大きく影響することを示す興味深い事例と言えるでしょう。
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