しろねこの足跡

しろねこの足跡

ひかりのいえ18・19


きっとその後もあったに違いないが、引きちぎられていた。
あとは英語の練習の綴り程度しかなかった。 

改めて読み返した手紙には、やはり警戒してか時候のあいさつやいつかまた会えるといった、励まし程度のものだった。

りつ子はナバノフについていかず、日本に残った。
その事実だけが重苦しく私にのしかかった。

私は、母に思い切って日記のことを尋ねた。
母は、詳細は本当に知らないようだった、いや知らないようにしていたのだろう。いつだって大事なことから目をそむけて生きていたのだから。
彼女が知っていた、重要なことは、りつ子のその後と私たちの関係だった。

りつ子は祖母スミ子の異母姉だった。つまり私の祖母は、日記で最後に出てきたりつ子の父の愛人に後にできた娘であることがわかった。
戦争が終わった頃にりつ子の父母は貧困と愛人問題から離婚をした。りつ子の母は直後に病死し、りつ子はしかたなく父とともに新しい一家で暮らしていたようだった。
りつ子は祖母には優しい姉だったようだ。

ただし、それから日ソ共同宣言が出てソ連と国交が復活した頃に突然失踪し、その後は行方不明となり、7年後失踪宣言により死亡したことになっていたのだった。

この日記と手紙だけを残して。

母は言った。
「きっと日記の引きちぎられた部分におばあちゃんへのメッセージがあったんだと思う。りつ子さんの失踪に関わる、何か。おばあちゃんはりつ子さんが見つからないようにしたかったんじゃないかな。」

あらゆる意味を込めて、祖母は祖父に密かにこの日記と手紙を託していったのだ。

私には祖母の思いが見えてきたような気がした。
時代に翻弄された異母姉の行き先を知っていて、口をつぐんだ。優しい姉の長くせつない思いの為に。

続けて母が小さな箱をもってきた。
「りつ子さんが頂いたと思う、琥珀のネックレスは、おばあちゃんが亡くなる時にお母さんに、ってわたされたわよ。とても思いのこもった大切なものだから無くしてはいけないって。いつか、時期がきたらあなたにあげてって。」

するりとわたされた琥珀のネックレスに私は怯えた。
琥珀は半世紀以上の歳月を経て、こっくりとした色に変化していた。

返しにいかなくちゃな、とぼんやり思った。
「パスポート、とりにいかなくちゃ。」

私の抱いた謎は、もうすぐ解けそうだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ユジノサハリンスク。
この街の存在は知っていた。
小樽とこの街は古くから貿易で繋がっていた。

そしてナバノフとりつ子は愛情で繋がっていた。

私は50年以上前、りつ子が身につけていた琥珀のペンダントを胸にこの地に立った。
函館から出たアエロフロート機は途中、間宮海峡で揺れたが無事についた。

私はロシア語が話せないので、いんちきな英語を使って空港から役場へとタクシーを飛ばした。

もっと廃れた街なのかと思っていた。
街はごく普通の欧米の中核都市といった感じだった。
人々のいでたちは日本と変わらない。ブルネットの髪の者もいれば、ナバノフのように漆黒の髪色にアメジスト色の瞳の者も居た。

役場でナバノフについて調べようとすると意外なことにすぐにわかった。もっと困難を極めると思っていた。もしくは不明のままかもしれないと思っていたのだ。

彼は帰国後、モスクワ大学へ教授としての招聘が決まっていたらしいが、それを断ってこの地に居続けた。
そして、戦争で身寄りのなくなった子供や老人や手の施しようのない病気の者の最後の場所として、福祉施設の開設者となっていた。
平和を求め続けた社会学者の彼らしい、人生だと勝手に思った。

その関連書類のりつ子とおぼしき名前は見つけられなかった。

私には読めないその施設の名前を、英語のわかる職員に翻訳してもらったとき、私はこの謎と向き合って初めて泣いた。

「ひかりのいえ」これが施設の名前だった。

私はナバノフのりつ子への愛情をいやでも感じずにはいられなかった。
私は、ひかりのいえにタクシーを走らせた。


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