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第一次世界大戦の最中、ロシア帝国は崩壊し共産主義のソビエト連邦が誕生してしまいます。大戦よりも前に崩壊した帝国がありました。清朝です。1895年に日本に日清戦争で敗れて後、清朝は列強に領土を侵食されていきました。1898年にドイツが膠州湾を租借、ロシアが旅順・大連を租借、更にイギリスが九龍半島・威海衛を租借。1899年にはフランスが広州湾を租借します。1900年には義和団の乱が起き、国内で排外運動が盛んになります。当初は清はこれを抑えようとするも、結局は迎合し、北清事変を起こし列強に宣戦布告することになります。8か国の共同出兵により鎮圧されますが、ロシアが満州に駐留し続け、我が物顔で日本海を伺うことになり、日露戦争へと至るのです。日本はこれを撃退するわけですが、もはや清は国家の体を成しておりませんでした。ロシアに勝利した日本に学べと、日本に来ていた孫文は中国同盟会を1905年に結成します。それまで複数あった革命結社を統合して結成されたのですが、あちこちに反乱の芽があったのです。そして1911年10月、ついに武昌で蜂起、辛亥革命が勃発します。1912年1月、中華民国臨時政府が成立し、孫文は臨時大統領に就任します。しかし早くも2月、北洋軍閥のトップ:袁世凱に臨時大統領職を奪われます。臨時政府は孫文の下、まとまっていたわけではなく、力が正義の戦国時代のような状態でした。そんな折、第一次世界大戦が勃発するのです。【対華二十一か条の要求とは】対支二十一か条の要求とも云いますが、ロシアに勝利した日本が調子にのって、中国へ理不尽な要求をしたと言われますが、どういう内容のものでしょうか?これは第一次世界大戦の最中に出されます。<第1号・第2号について>イギリスは当初、日本の第一次世界大戦への参戦を望んでいませんでしたが、思わずドイツに苦戦を強いられ、助けを求めることになります。ただし、欧州への本格参戦ではなく、ドイツが中国に権益を持つ山東省(租借地である膠州湾含む)への出兵に限定を条件にしました。ところが欧州戦線の状況ははかばかしくなく、イギリスは太平洋にドイツが権益を持つ南洋諸島の攻略もお願いします。それで終わらず、攻略した南洋諸島の領有を見返りとして、更に欧州の地中海への海軍派遣(1917年2月)、欧州大陸への陸軍派遣と際限がなく要望が拡大していきます。さすがに陸軍の派遣はしませんでしたが、日本の活躍が第一次世界大戦の勝利に大きく貢献したのです。しかし、日本には懸念事項がありました。山東省と、日露戦争で権益を得た旅順・大連、これらは元は清朝の領土でした。まず旅順・大連を含む南満州は、日露戦争によりロシアから権益を認められました。これを受けて、今度は清朝と満州善後条約を締結します(1905年12月)。これはポーツマス条約の内容について清にも了解を得るものでした。加えて、●満州鉄道の吉林までの延伸●同鉄道守備のための日本軍常駐権●鉄道沿線の鉱山採掘権(鉄道走行に不可欠)●安奉鉄道の使用権継続と両国の共同事業化(この鉄道は日露戦争の時の補給路線として使用)●平行線設置の禁止●日本人居住地の設置許可などを清に認めてもらいました。まさに第2号の内容です。つまり、前の王朝清朝に認められたものなので、後継の中華民国さんも継続して守って下さいね という確認事項です。実際、この満州善後条約の後、清やその後の中華民国は、アメリカを巻き込んで平行線をバンバン建設しようとして、日本の南満州への権益妨害をしてきます。これらは条約違反です。だから守れ!と言ってるのです。そしてドイツから得た山東省は、この時は既に中華民国になっていたので、改めて獲得した山東省に関して、権益継承の確認と、鉄道の敷設権(南満州で得た権益と同じ内容です)獲得を求めると共に、他国に渡さないことを求めたものです。中華民国といっても国ではなく内乱の戦国時代の様相でしたから、各地域の豪族たちが勝手に外国とつるまないよう、他国に渡させないことを求めました。というか、こんなことを確認しないといけないくらい、中華民国はバラバラの状態でした。また、山東省の各都市を外国人に開放とあり、日本は山東省を一人占めして分捕るつもりがないのは明らかです。<第3号・第4号について>3号に関しては、資源に乏しい日本が1899年に、この公司と鉄鉱石の輸入契約を結んでいました。ところが1900年の義和団事件を機に、ドイツが日本のこの権益に妨害を加えてきたため、公司と300万円の借款契約を交わして、担保として公司の鉱山を60年間売却しないことにしました。辛亥革命により、この契約も危うくなり公司が没収を逃れようと200万元を日本に要求。その条件として日支合弁にするよう提案していました。つまり、これも前から決まっていた契約をきちんと履行して下さいね ということです。4号の沿岸・島嶼を他国に渡さない というのも、山東省の内容と同じです。特に日清戦争後、日本の領土となっていた台湾の向いにある福建省が他国に渡されたら緊張が走りますので、これを勝手に渡さないように というものです。これを見ても中華民国が国の体を成していないのがよく分かります。つまり、不当な要求ではなく、後継国家として「約束を守ってね」と言ってるにすぎないのです。<第五号(要求ではなく希望)について>これは要求ではなく希望です。つまり、対華二十一か条の要求ではなく、14条の要求+7条の希望事項 なのです。そして、この希望条項を見ると、日本過激だなって感じがしますが、そもそもこれは孫文がこうしようと提案してきたことなのです。中国は戦国時代の大混乱の様相を呈していました。そのため孫文としては、統一のためには日本の力が必要だと思っていたのです。これを袁世凱も「入れてくれ」 と希望し、入れたら、「日本にいじめられたよー」と騒ぎ出したのです。引っかかった日本政府も日本政府ですが、断じて日本が中国をいじめて突き付けたものではないのです。(そういう国だという教訓にしておく必要はあります。)袁世凱によるプロパガンダで【要求】とひとくくりにされているにすぎません。<対華二十一か条の要求のその後について>ただ、袁世凱によるプロパガンダは、日本を敵視していたアメリカには好都合でした。日露戦争後、満州参入が出来なかったアメリカは、第一次世界大戦後も日本封じに動きます。●日英同盟破棄(代わりに日英米仏の四か国同盟という共同責任は無責任の状態に)●中国の領土保全・門戸開放を掲げて、列国の抜け駆けを禁じる(九か国条約。実態は中国分捕り合戦の参入に遅れたアメリカが、きれいごとを並べて抜け駆けを禁じたものにすぎない)これにより山東省は放棄させられます。さらに南満州における権益に関する第2号でも、鉄道敷設の優先権などを放棄させられます。更には希望事項に関しても放棄させられ、結局は二十一か条ではなく十か条になっています。これが第一次世界大戦後のワシントン会議の結果です。(1922年)加えて海軍の軍縮条約も含み、これが日本国内で不穏な政治情勢を生むことになり、後の大東亜戦争への道に繋がっていく一つの要因となるのです。日本は第一次世界大戦では戦勝国でしたが、その後の外交で敗北したのです。そして、この妥協は中国から見くびられ、日本排斥運動の激化に繋がりやがて満州事変へと繋がっていくのです。第123代大正天皇の御代は、大正デモクラシーで自由な言論があったいい時代と云われますが、「英米との確執」「ロシア帝国の崩壊と共産主義の台頭」「清朝の崩壊と中国大陸の大混乱」と、不穏な時代になってきていたのです。1926年12月25日、大正天皇が崩御され、いよいよ大激動の時代、昭和時代へ突入するのです。
2024年06月25日
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第一次世界大戦を通じて、これまでの友好国であったイギリス・アメリカから警戒をされ、暗雲が立ち込めてきた日本。英米だけではありませんでした。日露戦争を経て日本はロシアと関係を深め、アメリカによる満州介入を阻止してきました(日露協約)。第一次世界大戦においても、日本は英だけでなく、ロシアに対しても武器支援をしていきました。(日露戦争における借金返済の目的もあり、英仏露などに支援をしていました)しかし、そんなロシアがなんと国ごと無くなってしまうことになるのです。ロシア革命の始まりでした。元々、ロシアはロマノフ王朝が支配する帝国でしたが、日露戦争時、明石元二郎の裏工作により労働者(プロレタリアート)による反乱が起きていました。この時点で庶民に大きな負担を強いていたわけですが、第一次世界大戦でこの不満が頂点に達します。1917年に二月革命が起き、臨時政府が作られます。(これはブルジョワジーによる反乱)同年七月革命では、プロレタリア-トの革命を臨時政府が鎮圧。レーニンが亡命。十月革命で、レーニンが盛り返して臨時政府を打倒。ロシア社会主義連邦ソビエト共和国が誕生します。当初は選挙をするのですが、レーニン率いるボリシェヴィキが負けると議会を閉鎖。一党独裁体制を敷きます。秘密警察、強制収容所も作られ、現在のどこかの国のような形に早くもなるのです。ポリシェヴィキは1918年3月に共産党へ改称。そして共産主義の革命思想が世界に吹き荒れるのです。【1918年3月:ブレスト=リトフスク条約の締結】共産党はまず足固め。ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ、ブルガリアの中央同盟国と、ブレスト=リトフスク条約を結びます。ロシアは当初、英仏日など連合国側として参加していましたが、共産党は敵国と講和することにして、第一次世界大戦からの離脱を宣言します。更には、現在のフィンランド・バルト三国、ウクライナ、ベラルーシ、カフカス地方を放棄したのです。そのくらいソビエトは追い詰められていましたが、まずはロシア帝国の残党など、内戦制圧へ注力することにしたのです。ただ、連合国もロシアの離脱阻止、更には共産化の波及を恐れ、干渉戦争をおこないます。(フランス革命後の対仏干渉戦争と同じ構図ですね)ポーランドが英仏の支援などを得て、西ウクライナへ侵攻。1918年11月に中央同盟国の敗北が決まり、第一次世界大戦が終了した後も、対ソ干渉戦争は続きます。ソビエトも、一旦は放棄の宣言をしたものの、やはり領土を取り戻そうとしていきます。〇ソビエトが取り戻した国、戻せなかった国ポイントとしては、欧州に接している国は、英仏らの干渉戦争により共産化を阻止。ウクライナも東は共産化するも、西は連合国側が介入、ベラルーシにとどめます。南側のウズベキスタン、カザフスタンなどは、元々、ソビエトもブレスト=リトフスク条約で放棄は宣言していないものの、欧州も接しないので、慌てることなく自治を認めつつ、ゆっくり連邦に組み込んでいます。ソビエトはロシア帝国の残党を葬り、足場を固めるため、まずは内側 → そして一度手放した領土を再び取り返そうとしています。のみならず、共産化の革命思想をどんどんバラ蒔いていき、世界中を混乱させていきます。天皇を頂く日本にとっては、労働者階級:ブルジョワジーの反乱は脅威でした。(日本の場合、欧州の絶対王政とは違い、天皇は民の安寧を祈り愛しむ存在なのですが、革命思想はやはり脅威でした)【シベリア出兵と尼港事件】この共産革命の阻止が、シベリア出兵です。日本はセミョーノフという、反革命のロシア人を支持してソビエトの防波堤にします。英仏はコルチャークという、反革命のロシア人を支持してソビエトの防波堤にしますが、第一次世界大戦の終了と、コルチャークが共産化の指導者:レーニンに敗北すると支援を縮小していきます。更にフィンランド・バルト三国をソビエトとの干渉国にしたら、手を引きます。アメリカはまた別の思惑があり、革命阻止というより、仮想敵国日本の影響力排除です。日本単独でシベリアに干渉されるのを嫌い、共同出兵を提案。日本と共同で動くことで逆に日本の足かせになります。英仏が手を引くと、アメリカも共同提案しておきながら勝手に手を引きます。日本も手を引く準備に取り掛かりますが、そうこうしているうちに、尼港事件が起こります。断じて、第一次世界大戦下でロシアが崩壊した混乱に乗じて領土侵略ということではないのです。尼港事件を受けて保障占領した北樺太も放棄、終始アメリカの都合に振り回されるのです。尼港事件は、日本に共産主義への恐怖を更に強めることとなりました。幕末以降、最も恐れたロシアを日露戦争で撃退し、ようやく協力できる関係になれたのに、そのロシアが崩壊し、ソビエトというまたも大きな脅威を隣国に抱えることになるのです。しかも、ロシアの時と違い、革命思想という日本にとっては受け入れられない思想が追加されて。。。そしてもう一方の隣国、中国も激動の戦国時代の様相を呈してくるのです。日露戦争に勝利して絶頂となった日本に早くも暗雲が垂れ込めてきたのです。
2024年06月11日
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