1

<第118代後桃園天皇での皇統断絶>第117代後桜町天皇は女帝です。第116代桃園天皇が1762年に崩御した際、皇子は2人で、第一皇子でもまだ5歳でした。このため、桃園天皇の異母姉が中継ぎとして天皇に即位されたのです。これが第117代後桜町天皇です。そして、1771年に桃園天皇の第一皇子に皇位を譲ったのです。第118代後桃園天皇の誕生です。第118代後桃園天皇は皇子をなさず(皇女がお一人)、1779年、21歳の若さで崩御されます。父である第116代桃園天皇には、他にも皇子が一人いて伏見宮へ養子へ行っていますが、彼も既に1779年の時点では亡くなっておりました。皇統の危機が起こったのです。<閑院宮家から第119代光格天皇が誕生>この時、天皇の候補として挙がったのが、①閑院宮家から、美仁親王(後の第3代伏見宮家当主)②同じく閑院宮家から、祐宮③第18代伏見宮家の皇子(後の第19代伏見宮家当主)の3名でした。この時、新天皇の条件として、第118代後桃園天皇の皇女が嫁ぐことがありました。これは第25代武烈天皇で皇統が途切れた時と同じですね。武烈天皇の父である第24代仁賢天皇の皇女(武烈天皇の姉)が、第26代継体天皇に嫁ぐことで、なるべく血を近くしています。継体天皇は、第15代応神天皇の5世孫と云いますから、仁賢・武烈天皇からは遠かったわけです。それと同じで、閑院宮家は第113代東山天皇の皇子を起点としていて、第118代後桃園天皇から遠くなってしまっているので、後桃園天皇の皇女が嫁ぐことで、血を近くしたわけですね。さて、そうなりますと①美仁親王は既婚で却下③の伏見宮家は起点が北朝三代目の崇光天皇の子供になります。あくまで北朝の天皇なので、正式な天皇まで辿るとなると、崇光天皇の祖父:第93代後伏見天皇になってしまいます。これは遠すぎます。そういうわけで、閑院宮家出身の②の祐宮が選ばれたのです。第119代光格天皇の誕生です。約70年も前の新井白石の建白が、この時に活きたのです!<第119代光格天皇も復古へ向けて尽力>1782年天明の大火が起こり、御所が焼けてしまいました。光格天皇は内裏再建にあたり、幕府に対して平安時代様式に新築させました。更には、1787年天明の大飢饉が起きた時、民衆は幕府に対してではなく、御所に助けを求め、御所千度参りが行われたのです。禁中並公家諸法度では、朝廷は幕府に口出しをしないと決められていましたが、光格天皇は幕府に民衆救済を申し入れ、これを実現させました。民衆もいよいよ、日本の中心は幕府ではなく天皇であると気付きだしてきたのです。閑院宮家から出た光格天皇ですが、朝廷の権威復興に大きな役割を果たされたのです。○1788年~1793年尊一号事件更に、幕府の権威を落とす事件が起こります。それが尊一号事件です。閑院宮家から出た光格天皇は、父:典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたいと幕府に申し入れをします。過去、天皇の父が天皇ではなかった場合、天皇即位後に父には太上天皇の尊号を与えられていました。具体的には、第49代光仁天皇の父、第86代後堀河天皇の父、第102代後小松天皇の父(3代伏見宮)、第107代後陽成天皇の父。いずれも天皇が即位してから「太上天皇」の尊号を父に与えられています。(正確には光仁天皇の父は春日宮御宇天皇の追尊)これと同様、光格天皇は幕府に対して太上天皇の尊号を贈りたいと希望したわけです。ところが幕府はこれを拒否。もしかすると、朝廷の権威が復活してきていることに、過敏になっていたのかもしれません。ちょうどタイミング悪く、徳川将軍も途切れてしまい、同じ徳川一門の一橋家から第11代将軍家斉が迎えられていました。家斉も父が将軍ではなかったので、父に大御所の尊号を与えようとしました。しかし、先の一件があったので、老中松平定信はこれを却下せざるを得ませんでした。家斉はこれに怒り、松平定信を失脚させました。※光格天皇の父には、その後、徳川幕府が滅び、明治の時代になって太上天皇の尊号が贈られました尊一号事件は、幕府の権威を下げ、尊王思想の人たちの怒りに火をつける出来事となりました。そして、欧米列強が日本に開国を迫るようになり、いよいよ幕末大動乱の時代を迎えるのです。
2023年11月27日
閲覧総数 73
2

戦国時代の突入は、時代の主役を大きく変えました。日本全国がバラバラになる中で、衰退した天皇を支えることで自らの地位を高める動きをした人物がいます。まずは毛利元就です。第106代正親町天皇も、先代同様、お金がないため即位後に即位式ができないでいました。毛利元就が献金するこで、即位から3年後に即位式をすることができたのです。そのため、21年後の第104代後柏原天皇、11年後の第105代後奈良天皇と比べると大変早い段階ですることができました。そして全国統一に大きく貢献したのが織田信長です。織田信長も天下布武を進めるにあたり、天皇を担ぎました。天皇家を援助して、再び権威を高め、正親町天皇の元、再び日本を一つにしようとしたのです。※他にも本願寺の顕如なども多額の献金をおこなっており、力をつけてきたものが、自身の立場を更に上げるために(官位を得るなど)、天皇の権威を高めようとしました。信長が危機に陥った時には、天皇の力を借りて和睦に持ち込み、何度も危機を脱しています。天皇や足利将軍の権威を借り、そして堺や京をおさえて経済力を伸ばし、周囲の大名を倒していきます。強大な権力を持つにつれ、横暴になった織田信長。■天皇同様、担いできた第15代将軍:足利義昭とは、途中仲違いし、1573年に追放して足利幕府を滅亡させます。■1576年には安土城の築城を開始し、1579年に完成します。安土城の天守から見下ろせる位置に天皇を迎える清涼殿が作られており、「伺うのではなく、呼ぶ」という考えを持っていたようです。■1581年の京都の馬揃えは、正親町天皇に譲位をさせて、皇子である誠仁親王を天皇に即位させようという軍事的圧力であるという説があります。 ⇒譲位に関しては、正親町天皇自身がむしろ希望をしていたという説もあります。第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇は、貧困のため譲位したくても出来ませんでした。正親町天皇は、先祖3代の念願であった、古くから続いていた院政の政治体制を希望していたというものです。ただ、信長の後半期には譲位を援助できるだけのお金はあったでしょうから、信長が譲位を迫っていた、或いは譲位をさせなかった、どちらの姿勢かは分かりませんが、正親町天皇の思い通りにはさせないという横柄な姿勢であったのは確かなのだろうと思います。■1582年には天皇の大権である暦の変更を要請します。朝廷も官位を信長に与え、懐柔しようとしますが、これを拒否。こうした中での1582年、天下統一を目前にして、最も信頼していた腹心:明智光秀に裏切られて本能寺で殺されるのです。この背景から、朝廷黒幕説が云われています。信長の後継者:織田信忠もこの時に二条御所で討たれています。御所には誠仁親王もいたので、面白い説ですが、考えにくいかなと思われます。本能寺の変からわずか11日後、同じ信長の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)により明智光秀は破れます。この間の準備の無さからしても、光秀の突発的な犯行かなとは思いますが、足利義満にしろ信長にしろ、絶頂となり天皇にとって代わろうとする疑いが感じられる途端、死亡しているところが、歴史の不思議さ、面白さでもあります。信長は結局、譲位をさせたかったのか?させたくなかったのか?今となっては分かりませんが、誠仁親王は1586年、皇位を譲られる前に崩御。失意の正親町天皇は、誠仁親王の子:和仁親王に譲位をしたのです。(第107代後陽成天皇)全国統一を成し遂げなかった信長に代わり、豊臣秀吉が1590年ついに全国を統一します。秀吉も天皇家に献金して支えていき、ようやく戦国時代の終わりと天皇家の復権がなされ、第88代後嵯峨天皇に南北朝動乱の種がまかれて以来、やっと皇統も安定していったのです。
2023年10月17日
閲覧総数 28
3

<公武合体派の孝明天皇が崩御 → 倒幕の流れへ>薩摩藩は1863年の薩英戦争を機に、公武合体の考えを見直します。1864年には長州藩が列強と戦い敗北します。前年の外国船砲撃事件の報復を受けたものです。列強の力を目の当たりにした者同士、このまま幕府に日本の舵取りを任せていてはまずいと手を結びます。薩長同盟の締結です。一度は幕府にも敗北した長州ですが、二度目は薩摩からの裏援助を受け幕府を跳ね除けます。14代将軍家茂は戦時中に病死、代わりに指揮を取った徳川慶喜は、朝廷に働きかけて休戦に持ち込みました。幕府に陰りが見える中、朝廷内の攘夷派が巻き返しを計るも、第121代孝明天皇はこれを拒否。天皇は、攘夷はもはや不可能と思いながらも、幕府との公武合体により日本を一つにまとめようとしていました。開国やむなしの方向になりますが、それを幕府と共に舵取りしていくのか、新しい政府を打ち立てて日本を舵取りしていくのか?孝明天皇は前者、薩長は後者でした。そんな折、孝明天皇は突然崩御されたのです。(1866年12月)そして流れは一気に討幕へ進んでいきます。<最後の将軍慶喜の抵抗 → 下級藩士・下級貴族のクーデター → 倒幕>~大政奉還から王政復古の大号令、これを形骸化させようとして戊辰戦争へ~しかし最後の15代将軍慶喜も負けてはいません。日本を守るため、列強から強く迫られていた兵庫の開港の勅許を得られるよう粘ります。朝廷は幕府と違い、列強から詰められていないので攘夷派が多いのでしょう。二度までも却下されています。(1867年3月)慶喜は諦めず、5月に勅許を得ることに成功しますが、薩長は慶喜(幕府)が政治の主導権を握るのが気に入りません。9月に薩長に安芸も加えた三藩による武力討幕同盟を結びます。土佐の山内容堂はこの動きを受け、慶喜に大政奉還を建白。慶喜はこれを受け入れて、1867年10月、朝廷に政権を返上する大政奉還を行います。幕府を潰したい薩長に対し、『政権返上したから幕府を潰す必要はありませんよ』としたのです。しかも今まで幕府が政権運営していたので、政権返上したとしても、結局は幕府に頼らざるを得ないだろうと慶喜は踏んでいたのです。名を捨て実を取ろうとしたのですね。これに対し薩摩軍を率いる西郷隆盛・大久保利通(両名とも下級藩士出身)は、朝廷内の下級公家:岩倉具視と結託し、クーデターを起こします。慶喜のいない新政府会議を開き、まだ15歳と若い第122代明治天皇のご臨席の元、王政復古の大号令を発します。・幕府の廃止・京都守護職、京都所司代(幕府の朝廷監視機関)の廃止・摂政関白の廃止(豊臣秀吉を除き、長年藤原氏で独占していた役職)また、辞官納地も決まります。(官職の辞任、領地の返納)幕府を完全に潰して、慶喜が取ろうとした「実」までも奪ったのです。慶喜はここにおいても武力ではない形で、抵抗を続けます。●諸外国(米・英・仏・蘭・露・伊)の大使を呼び、内政不干渉と幕府の外交権保持を認めさせます●これを受け、朝廷には政権委任の継続を認めさせます●諸大名との話し合いの上で、朝廷への領地の返納割合を決める(薩長だけでなく、他藩を巻き込む)などで、辞官納地の形骸化を図ります。追い詰められた西郷は部下を使って幕府軍へ挑発をおこないます。慶喜は自重していましたが、幕府軍が薩摩藩邸に砲撃し、戦いが始まったのです。戊辰戦争の始まりです。ここで薩長軍は、天皇家の御旗【錦の御旗】を使うことで幕府軍を破り、これで本当に江戸幕府は滅亡し、薩長を中心とした明治新政府が誕生します。慶喜自身は錦の御旗が出てから、徹底して恭順姿勢を示しましたが、さぞ無念であったことでしょう。<役者の大きな入れ替わりと変わらない者>~倒されたのは幕府だけでなく、朝廷で天皇に次ぐ地位の藤原家まで~第56代清和天皇の御代に、人臣で初めて藤原良房が摂政になり、以来、摂政関白はこの藤原家の系統が就任していました。866年以来途切れたことはありましたが、およそ1000年に渡り世襲されていたのです。王政復古のクーデターは、薩摩の下級藩士:西郷隆盛や大久保利通だけでなく、朝廷の下級貴族も暗躍していました(岩倉具視など)。そのため、上級貴族と下級貴族の立場もひっくり返り(ガラガラポンが起こる)、日本史の役者が大きく変わったと言えます。しかし、それでも日本史の中で一貫して変わらない主役がいるのです。それが天皇なのです。
2023年12月31日
閲覧総数 87
![]()

