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2023年09月26日
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テーマ: 日本の歴史(1093)
カテゴリ: 日本史
室町幕府3代将軍、足利義満の急死により、天皇家乗っ取りという日本の国体の危機は免れました。

しかし、義満存命時に結ばれた南北朝合一に繋がる1392年の明徳の和約。
この時の和約: 両統迭立は守られませんでした。(そもそも両統いる時点で合一じゃないですが・・・)
1411年に、第100代後小松天皇の皇子:躬仁親王(後の第101代称光天皇)が立太子され、元南朝側から天皇を出すことにはならなかったのです。
(1410年に突如、第99代後亀山天皇が京を出奔し、吉野に移ります。もしかすると和約を守られない動きを察知しての抵抗だったのかもしれません)


【第101代称光天皇即位と後南朝の反乱①1414年~1415年】
この反故に対して南朝派の残存勢力が反発をします。
1412年、第101代称光天皇が即位すると、南朝の後亀山上皇(第99代)と、その皇子である小倉宮皇子が担がれて、北畠満雅(北畠親房のひ孫)が反乱を起こします。(1414年~15年)
これは幕府に討伐され、一旦和解することとなります。1416年には後亀山上皇が京へ戻ります。

その後、1422年に小倉宮皇子、1424年には後亀山上皇が崩御されております。



【第102代後花園天皇即位と後南朝の反乱②1428年~1429年】
1428年、男子を成さぬまま、第101代称光天皇は崩御します。
幕府により、やはり北朝系統の第102代後花園天皇が立てられます。
北朝系統の天皇が即位することで、再び後南朝勢力の反乱が起こります。

北畠満雅は再度挙兵。今度は、後亀山上皇の孫:小倉宮聖承を擁立して反乱を起こしますが、1429年討ち死にをし、この時も失敗に終わります。
小倉宮聖承は許されるものの、その後の暮らしは厳しいものだったようです。


反乱はこれだけでは終わりませんでした。

その後も断続的に反乱が起こっていたそうです。




​​【1443年禁闕の変:三種の神器の剣・勾玉強奪事件!】​​
そうした中の1443年、金蔵主が後花園天皇を暗殺するため、御所に乱入するという事件が起こります。
天皇は無事だったものの、剣と勾玉が盗まれてしまいます。
剣は取り返したものの、勾玉は奪われたままでした。
勾玉を使って即位の礼がおこなわれ、ここに ​後南朝初代が誕生​ することになります。

※初代が金蔵主ということになりますが、金蔵主はこの禁闕の変で撃たれたとも、逃れてその後吉野で崩御したとも伝えられます。

出自すらも、99代後亀山天皇の皇子であったり、孫、はたまた甥の子供などの説もあり、一定しません。
後南朝初代とされながら、謎の多い方のようです。

※1446年に第97代後村上天皇の孫:円胤が後南朝として反乱を起こし、1448年に鎮圧され殺害されます。しかし勾玉はこの時は奪還できず、後南朝2代目の尊秀王(自天王)即位に用いられたとされます。
 自天王の父は金蔵主とされますが、この辺りも父同様謎が多いようです。


​​​【1457-58年長禄の変:勾玉の奪還】​ ​​
奪取された勾玉を取り返すことができたのは、なんと十数年も経った時のことでした。
取り返したのは、6代足利将軍:義教により潰されていた赤松家の遺臣たちでした。
室町幕府の中で高位の家格である四職家の一つを占めた赤松家を再興するため、動いたのです。
1457年12月、2代目後南朝の尊秀王(自天王)、そしてその弟とされる忠義王を殺害しますが、 この時も勾玉の奪還は叶わず、翌1458年3月に取り返すことができたそうです。
これらの事件が長禄の変です。ようやく三種の神器が揃い、赤松家は再興されました。





終息したかに見えた南北朝騒乱。しかし明徳の和約で決めた両統迭立の反故をきっかけにして、南北朝動乱の時程の規模ではありませんが、対立が再燃したのです。
​​​​​不透明な時代は続き、やがて応仁の乱→戦国時代へと突入していくのです。



※<第102代後花園天皇の即位が、現代の我々日本人に示すもの>※ ​​ ​​
称光天皇には弟もいましたが、既に崩御されており、第102代後花園天皇が立てられますが、 ​​ 御花園天皇と称光天皇は、なんと四代前に遡りやっと先祖を同じくする関係です(北朝初代:光厳天皇を共通の祖とします)。 ​​

称光天皇には皇女もおりましたが、皇位を継ぐものは男系であることを鑑み、わざわざ4代遡って後花園天皇が即位されたのです。​

第25代武烈天皇で皇統が断絶した時に、5代前の第15代応神天皇に遡り、そこから5世孫の第26代継体天皇に皇位を継がせました。武烈天皇には姉がいたにも関わらずです。 これを思わせる皇位継承です。
​あくまで皇統は男系に継いでいくというのが、この室町時代にもきちんと継承されていることが重要です。 ​​

それは 男女差別とかそういう問題ではなく、日本が古代から継承してきた伝統なのです。
男系で皇統を繋いできた日本国たる所以なのです。





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最終更新日  2023年10月19日 21時51分21秒
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