灯台

灯台

2021年05月26日
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ここは七階である。
いつもなら空いっぱいに星があふれて銀貨を鳴らすような響きを、
眺めた頃だろう―――ただ、洗濯物を取り込むだけなんだが。
ベランダのカーテンを開けて、さあクレセントを開けようかという瞬間に、
灯かりの付いたリビングの窓の向こうの暗がりに、
白い手が、ピクピクと気持ち悪く動いていた。

それが蜘蛛か天麩羅のように見えたのは別として、
うやむやにできそうにはないということは、すぐにわかった。

  *

酸蝕され、欠けこぼれてゆく日常。
靴の裏と、ズボンの折り返し。
後ろ暗さとふてぶてしさと、へんになれなれしく、
くぐりこんできてこちらの暮らしに住みつく油断のならなさ。

  *

気温の下がり始めた夕方―――。
すぐに、シャッとカーテンを閉じてしまった。
それは想像の力でもなく、叡智の働きでもなく、
動物的な嗅覚のようなもの。


  *

でも異常な体験をすると、本当に色んなことを、
人間というのは瞬時に感じ取っているのだな、と思う。
生理的なものは周囲におしひろげたい誘惑の前兆だろうか。
来る日も来る日も同じところに引っ掛かっている、
生殺しにぬくめているから、どっちつかずで、思いあがっているけど、
たとえば靴音、どこかで鍵をまわす音、ドアの蝶番の軋み、
水のポタポタと滴る音まで瞬時に感得した。

でも空中ブランコの曲芸ではない。
この上ない引っ掛かりの正体は、特殊であり、不自然でありながらも、
満たされない欲求の代償、精神的な欠陥を示す証拠―――、
その行先を見届けたいという好奇心・・・・・・。

  *

幽霊マンションという噂も聞いたことがなかった。
仮定と実際というのがある。
空気ざわりが粗いとか、墓場が近いとか、踏切の音が聞こえるとか、
そういうことだ。
高い火の見やぐらに板葺きの屋根がむらがって見えるみたいに。
じゃあ、自分が何かしたのかというと、冷ややかな流し目しながら、
考えてはみたけれど、高地から低地をくだってゆくようなありさま。
これはもうさっぱり見当がつかない。
その部分だけが、平面のまま取り残されているようだ。
幽霊をお持ち帰りした?
理屈の通った推理や現実的な判断は、くぼみの中へ、
次から次に解きほぐれてくる。
なだめ、説得する手法というのは、心のゆるみをうかがっている。

しかしどうして手だけなんだろう?
それは案外、重要な手掛かりなのかもしれない。

  *

塩を撒いたり、線香をしたりする、という地味な手法をその日以後、
それとなく試してみたが、
まったく効果はない。
分厚い鞘でもかぶせたような適応能力。
そんなわけで甲乙ともきめがたい、ずるずるとした月日を続けた。
この気難しいゆきがかりは、
観念の上では肯定しながらも噛みあわない話、
黄河にある日浮かんでいた死体のようなものかもしれない。

  *

時間の経過とともに、
手には少しずつ、手首が見えてくるという一筋縄ではいかない事態になった。
しかし手首も肘の関節もぐらぐらで、ねじくれた妙な具合で、
酸素溶接でもやらかしたのか。
それとも、霊能力というのは、やくざっぽい調子の能力のことなのか。
やがて肘や肩まで見えるようになっていって、
死に伝染された格好だ。
それは青味を帯びた影になり、それと比例して、
重さがなくなっていくように思えるのは何故だろう―――。

慣れれば慣れるもので、窓のカーテンを開ける儀式。
いくぶん早めにサッと視線で辿りながら、確認する。
他人に迷惑をかける邪魔者に対して、友好的な態度はいけない。
いずれが是、いずれが非とも判別しかねながら、
さりとて、夜中に洗濯物の取り込みができないという事以外は、
問題がなかったし、朝には消えておいてくれるという杓子定規ぶり。
無視してさしつかえない、というのはコペルニクスすぎるだろうか。
部屋に入ってくるとか、金縛りになる、部屋にシミができる、
などということならもうちょっと、
真面目に考えたかも知れない。
でもなにぶん、この手のやつも、指図をうけぬという感じだ。
けりをつけねばならぬというのにふんぞり返って、甘えている。
なりゆきのはてを思うと太い溜息が出てくる。

  *

でも、ある日、窓を開けると、
髪が貼り付いた、頬骨のはった、やや下ぶくれの唇、
面長の顔の、敵性を持った、双翅目の、蠅の仲間のように、
しかも尿意さえもとりまぎれて忘れてしまう類のインパクトを持った、
血を流した女性がこちらを見ていた―――。

  *

気温の下がり始めた夕方―――。
すぐに、シャッとカーテンを閉じる。
盛り場を外れた泥のような暗さ、
気の滅入るような暗さ。

  *

こういうことになって、過ちの繰り返し、
まことに愚にもつかないことしか興味を持てない、
自分が一番の問題だろうと思う。
空くじばかりの福引ではいけない。
それでも恐怖というのは一向に活性化しなかった。
確実に薬品は振りかけられた、
そしてあるかなしかの血痕は、
たちまち青く蛍光を発した。
だのに、陥れられることもなく、纏わりつくこともない。
花粉にまぎれてゆく、付着してゆく、
人間の臭いがどんどん消えてゆく。

  *

次の日、窓を開けると、どういう経緯かは不明だが、
皮膚が剥がれはじめていた。叫び声も聞こえていた。
一躍、珍獣である。
僕はひょっとしたら拍手しそうな表情をしていたかもしれない。
夏らしくなった太陽の灼熱光線の作用だろうか。
しかし耳栓をすれば事足りる。
夢見の時に現れる暇人でもないのも助かる。

  *

そのうちに消滅してしまうのだろうか。
盤面の死に石のように。

しかし忙しくなって窓を見ている暇がなくなり、
ついに二か月も経ったある日、ふと思い出してカーテンを開けると、
掌だけの生き物が痺れ鱏のように震えていた。
千代紙のようにも見えた。あるいは、水に浸した海綿かもしれない。
それとも、石鹸とインク消しと呼んでやろうか。
それはもう現実的な警告と奥床しさの中でうちひしがれた、
憐れな生き物だった。

頭の中で何かが爆ぜる音がして、ふんぎりのわるい、
むら気な性質のいまいましさを知りながら、
間抜けた代物を写真に撮ってやった。
希望も、目算もない浮き草めいた幽霊のなれのはて。

  *

次の日、カーテンを開けると、どこからやってきたのか、
蛍が止まっていた。









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最終更新日  2021年05月26日 22時23分40秒


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