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肉団子弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、体罰当たり前の中学1年生時代授業のチャイムが鳴っても先生が来なければ、教室の後ろで騒ぐ子もいるわけでして、そんな所を技術の教師に見つかったなら、大声を張り上げて教室に入ってきて、騒いでいた生徒が女子であろうが平手打ちです。生易しいものではなく、バチーーーーーンと乾いた音を立てます。叩いた後は説教せず、生徒はおずおずと机に戻るのです。他に体罰と言えば、頬をつねる教師が二人ほどいました。英語の中年女性教師と、歴史のクマゴローというあだ名のある中年男性教師です。このクマゴロー先生のほっぺたをツネる体罰が教師間で有名だったのか、英語の女性教師がその体罰を採用させてもらっていると証言しており、クマゴローよりも強度は高く私などは涙目になって少し落ち込んだぐらいにツネられた事があります。
2017年03月31日
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鰹節弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、体罰当たり前の中学1年生時代月曜と木曜日にある朝礼には校庭に全校生徒が集合するんですが、だらだらと歩いていたり遅れたりすると朝礼が済んだ後に校庭に1学年生徒を全員残し、熱血的な教師から説教を受けるのです技術教師で当時30代ぐらいの男性教師でしたが、額に血管を浮き立たせて、真っ赤になりながら怒鳴ります。「何をやっとるーっ」「集合の曲が終わっても歩いてくるとは何事だーっ」「そんな事でこれからどうるんだーーーーーーっ」といったような怒号だったと思いますが、全員、真っ青になって気を引き締めていたと思います。授業でも技術教室への移動が少しでも遅れると、同じように怒号が飛び交い机の上の製図板が蹴り上げられて吹っ飛んでいきました。「室長、前に出てこいっ」と、代表の生徒が教壇前に呼びつけられて往復ビンタ。殴られた生徒の両頬は真っ赤です。でも、こうして教育を受けていた当時の私たちは、その教師を悪くいうものは皆無。ただただ、凄い、怖い、と、噂をしたのは最初だけ。その後はキッチリと遅れる事なく確実に移動する私達だったのです。
2017年03月30日
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卵焼き&かにもどき弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、習字を習っていた中学1年生時代そこは書道塾の看板も出していない普通の民家で、私が生徒第1号。しばらく一人で習っておりましたが、数か月後に親友H君を誘って生徒は二人となり、母親の知り合いの息子さんが新たに加わって3人となり、後は私の同級生が2人ほど加わって、中学2年で私が抜けた後は最終的に生徒が40人以上となったそうです。H君ら私の同級生は3年生まで続けたと思いますが、彼らは二段以上を取得したんではないかな。私は結局初段どまりでした。中学に上がる前までは習字の時間の後に先生の大学生の息子さんに算数などを中心に、H君と共に教えてもらっていた時期が半年くらいありましたが、習字の上達のようには成績はあがりませんでしたね。
2017年03月29日
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野菜炒め弁当(玉ねぎ・もやし・ウインナー)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、習字を習っていた中学1年生時代習字塾は普通の民家。その一室である和室が教室で、別の部屋には先生のご主人が趣味として設えたバーのカウンターのような部屋がありました。薄暗い部屋にはカラフルな照明が数個ぶら下がり、壁に接した棚には多くの洋酒やグラス類がズラリと並んでおり、酒に興味のない子供にも異次元に居るような錯覚を起こさせてくれました。カウンターはもちろんの事、喫茶店のようなテーブルもあったように記憶しております。おそらくそこで調理は出来なかったんじゃないかなと思いますが、台所で作ったであろう超大盛ハヤシライスを苦しみながらそこで食べたんです。
2017年03月28日
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焼うどん弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、習字を習っていた中学1年生時代本格的なる塾ではなかったんですが、先生は都道府県レベルの書道組織に関わる重鎮の人に師事していたらしく、「級位・段位」を取得する為の便宜を図ってくれました。毎月1回、課題の書を提出して結果を待つのです。一般の部と少年少女の部があり、合格者は小冊子に自分の名前と級位・段位が載るわけです。かなり上手いと評価された場合には飛び級で昇進する場合もあったと記憶しております。私も挑戦しまして、九級からの取得を目指しました。そして小冊子の九級のページに小さく小さく名前が載ったのは小学6年の頃であり、中学1年では初段目指して三級か二級の位置に居たと記憶しております
2017年03月27日
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板チョコ&牡丹餅さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、習字を習っていた中学1年生時代おやつと言えば、私が通っていた習字塾の先生が作ってくれた、白いお好み焼きですがこれはお好み焼きに対する印象を一変させました。その先生のご自宅だった所は某会社の社宅で、私が住んでいた六畳二間の長屋と見映えは殆ど同じ小さな家でしたが、ある一室などは先生のご主人が趣味で作ったバーのカウンターのような部屋があったのですそこで頂いたハヤシライスと大きなグラスに詰め込まれたアイスクリームソーダも思い出深いおやつのひとつです。実はハヤシライスのご飯の量が物凄く多くて、食べきるのに必死でしたのに、その後にアイスクリームソーダが出てきた時には複雑な心境でした。普通の腹具合であればお代わりするぐらいに喜んだんですけどね。そんな事なんで残念ながら味も良く分かりませんでした。
2017年03月26日
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ご飯にキムチさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、習字を習っていた中学1年生時代最初は5年生の私だけが生徒でした。母親の知人で40代のおばさんで、普通の民家の一室である畳の部屋が教室。「友達を連れてきても良いよ」と先生がおっしゃってくれたんで、すかさず親友H君を誘いました。先に習い始めたとはいえ習字の腕前は私の方が数段上、先生も母親の知人だから何かにつけ私の方を優先してくれるだろうと甘い考えをしておりました。先生はごく普通に平等に接していたのですが、少しでもH君の方を構うと、たちどころに私は嫉妬心を燃やすのです。先生が何か話しかけてきても私は無視したりして困らせ、何が不満なのか分からなかった先生は、後程に母親に相談したそうです。「何にも言ってくれなくなっちゃった」と。まったく、こうした性格は今も治っていません。
2017年03月26日
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先月のフェブラリーSは大外れの結果となりまして、大変悔しい思いをしております。 今回の高松宮記念は本腰を入れて占ってみた所・・・・天風姤の上爻の卦を得ました。これは女性一人に対して多くの男性が群がっているような卦であり、それを今回のレースに当てはめるのであれば、牝馬に焦点が当たると読めます。 上爻となると、そんな出会いは無い、と言う卦だそうなので、なんのこっちゃろう?としばし考えました。おそらく、そんな有力な牝馬はいないから、誰もマークしていないと。ところが2番人気と3番人気が牝馬の様子。やはり今回は牝馬がレースを掻き回すんでしょうね。そこで一押しはメラグラーナ牝馬としては人気がレッツゴードンキの背にしていますが、そこがマークを避けられる有利な点と言えます。 後は5枠の馬と馬番5を選択しました。それはどれも人気薄で期待薄なんですが、天風姤自体が何が起こるか分からない卦ですし、天風の「風」は5に関します。
2017年03月26日
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お好み焼き2枚(豚肉・卵)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、お好み焼きが嫌いだった中学1年生時代お好み焼きで思い出すのは、親友H君と通っていた習字塾の先生が作ってくれたお好み焼き。このお好み焼きを食べるまでは苦手だったので、それが出された時はあまり嬉しくなかったのです。小学生の頃にお好み焼きや焼きそばを焼いてくれる駄菓子屋に良く通ったことがあって、土曜の昼は近所の小学生が昼飯替わりに「お好み焼き」を食べていましたが、あんな小麦粉を水で練ってキャベツしか盛られていなくて、ソースと紅しょうがの味しかしない味気ない物がちっとも美味いとは思えませんでした今でこそ大好物の一つですが、おそらく当時のお好み焼きには出汁が入っていなかったんではと推測します。で、習字塾の先生が作って出してくれた白っぽいお好み焼き。見た目からして普通の物とはちょっと異質でした。期待せずにいつもの味を予想してパックとひとくち。「ん?」なんだこれは?てな感じでした。全然違うのです。滅茶苦茶美味かったのです。それから私は自分で焼いたりもしながら、段々とお好み焼きが好きになっていったんです。
2017年03月25日
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かにクリームコロッケ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、要領の良い中学1年生時代愛想を武器にやんちゃなクラスメイトからの攻撃を皆無にした私とは逆に親友H君は嫌がらせにはそれなりの反抗をする正統派の男でした。しかし、私には根拠不明の自信がありまして、本気で怒れば誰にでも喧嘩は勝てるなどと勝手に思いこんでいました。その根拠、よーく思い出してみると幼少の頃から周囲は年上ばかりで、遊ぶことの中に「相撲」がありまして、いつも年上相手に良い勝負をしていたという、そんな事が自信になっていたんでしょう。身長は整列する時に前から3~4番目に並ぶという、背は低く胸は肋骨が浮き出るようなガリガリ体質でしたが、同級生と相撲を取れば簡単には負けませんでした。ただ、外見はどうしても頼りなく見えるのでしょう。「おい」などとクラスメイトの中の強面に凄まれると、「弱い者イジメはやめなさいっ」と女子生徒に庇ってもらうという情けない結果に、少しづつ自信の塊は削られていきました。
2017年03月24日
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カレークリームコロッケ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、親友H君と同じクラスの中学1年生時代他の小学校出身の喧嘩好きのM君は、小学校時代の武勇伝を私に話します。「凄い」「んん~・・・・」と感心して聞く事がM君の気分を良くさせたし、M君と私は体操部の同輩ですから、それなりに仲良くなりました。しかし、親友H君は媚びる事なく、M君の背後からのちょっかいに「やめろよ」と反抗します。それだけの小競合いではあるのですが、入学してから1か月はそう言う事が続いたでしょうか。普段はH君と私が仲が良い事を知っていたのか、M君もそれ以上の事はしてこなかったと記憶しておりますが、3年生の頃にM君が1年の頃の事を回顧した時に、「これまでに鬱陶しかった奴はHだ」とポロッと私に言ったことがありまして、私もH君の親友としてここはM君にひとこと言っておくべきかなと思い、「H君は僕の親友なんで・・・・」と殴られるのを覚悟で言いましたが、意外にもM君は素直に、というか何も言わずに別の話題へと回顧は進んだのでした。本当なら1年の頃にハッキリと言うべきだったのでしょうけども、私の力量としてはそれは無理な事でした。
2017年03月23日
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チキンカツ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、親友H君は他人にぶっきら棒だった中学1年生時代同じように洋楽に興味を持った私たちは、休日にH君宅のステレオで当時人気絶頂のフランスポップス歌手・ミッシェル・ポルナレフやクラシックのヴィヴァルディ「四季」などを良く聴きました。特に「四季」は二人ともハマって、H君などは「四季」を演奏する有名楽団イ・ムジチのものが最高らしいというので、すでに別の演奏楽団のものを所持しているにもかかわらず、わざわざイ・ムジチの「四季」を探しにレコード店へ赴いて購入。私もその買い物に付き合いましたが、聴いてみると聴き慣れていたこれまでの楽団の演奏の方がしっくりしていた事は黙っておきました。
2017年03月22日
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チキンカツ&茄子とサツマイモの天ぷら&赤ワインさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、親友H君と同じクラスの中学1年生時代H君と私は喧嘩をした事がありません。口論もありませんでした。多少の意見の食い違いはありまして例えば、当時の清涼飲料水三矢サイダーだったかキリンレモンだったかはちょっと定かではありませんがそのCMソングに2種類ありまして、やや古めのものと当時の最新のものとがあって、私は古めのオリジナルのものが良く、H君は新CMソングが良いのだと言うのです。私が「新CMソングの何処が良いのか。バカみたいな曲だ」と言えば、H君も負けじと「古い曲の方が馬鹿みたいだ」と軽く反論します。しかし私たちはそれ以上の言い合いはせず、何のしこりも残さずに付き合えたのです。お互いに媚びる事もなかったと思います。引け目も負い目もない関係でした。
2017年03月21日
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しらす干し焼売弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、親友H君と同じクラスの中学1年生時代他人にはぶっきら棒なH君ですが、私たちは小学1年生で出会い、その後の2年生から4年生までの間はクラスが別となって疎遠でしたが、5年生で同クラスとなって中1までの3年間は、H君の姉妹や親戚の子を含めて良き交流を深める事が出来ました。大型トラックが5台くらいは楽に停められる広い敷地に教室3クラス分くらいの工場を経営していたH君宅で、小学1年の頃に初めて他家でご飯を頂くという経験をさせてもらいました。その献立はカレーライスだったことを今でもハッキリと覚えております。
2017年03月21日
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しらす干し弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、親友H君と同じクラスだった中学1年生時代普段は普通の態度でも、親しくない相手には不愛想なH君は、クラスの不良っぽい生徒の一人であるM君からは疎ましがられておりました。入学したての頃はあらゆる生徒にちょっかいを出していたM君。当然背の低い弱そうな私にもその洗礼はやってきましたが、正当に反論すればなんとかなるという信念のもと、「こっちは何もしていないのに何故そんな事をするの?」と無抵抗な私の静かな反論に、「そうだよな」とM君は意外にも素直に非を認め、それからは何もしてこなくなりましたが、親友H君はそうした遜った事が嫌いな性格なので、M君からの嫌がらせ一つ一つに対し反抗していましたので、その小さな小競合いはあらゆる場面で起こっていました。それ以上エスカレートする事はありませんでしたが、私とH君各々の周囲の評判は正反対だったと思います。
2017年03月20日
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たまごごはん(卵4個分)の朝食豚肉&玉葱、人参の野菜炒め&シュークリーム&赤ワインさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、教室で泣いてしまった中学1年生時代親友のH君には何の反応もなかったので、こちらも何事もなかったかの如く日々を過ごしました。H君と言えば割とぶっきらぼうな所があり、弁当の時間に牛乳が毎日出るのですが、牛乳の蓋を外す針の先の付いたスティックを親切な女子生徒がH君に渡そうとしただけで、「なんだそれ?、いらん」と愛想もなく突き返しました。H君の隣に座る私に女子生徒が困った顔をしてスティックを渡しに来ると、私はH君とは逆にニッコリと微笑んで「ありがと」と愛想よく受け取ります。ズルイと言えばズルいんですが、H君のその無作法なおかげで私が好かれやすくなってしまったのは事実です。こうした経緯から、何も用意してこない私に筆記用具などを揃えてくれる女子が居たわけです。
2017年03月19日
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本日の昼食(おにぎり屋のたらこ・シーチキンマヨ・しぐれ、その他)&ハムカツこの他にラーメン2袋分昨日の夕食(玉ねぎたっぷりの卵6個分オムレツ) 本日訪れた名古屋市南区・見晴台考古資料館、展示物の一部毎月第三土曜は無料映画上映があり、たいていその日には訪れます
2017年03月18日
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シュウマイ&ソーセージ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、教室で泣いてしまった中学1年生時代このような屈辱に日に、親友のH君はどう反応したか・・・・その記憶が全くありません。恥ずかしすぎて無意識のうちに早く忘れようとしていたのかも。そもそも我儘なK君が友人となってからは教室内でH君とどう接していたのか思い出せません。休日などはH君宅へ遊びに行っていただろうとは思いますし、習字の塾へも一緒に行っていたので良い関係は維持していたのでしょう。まぁ、あまりベッタリとした友人関係ではなかったということでしょうか。泣いた日以降にH君から「何かあったの?」という質問もされていないし、普段通りに日々は過ぎていったと記憶しております。お互いに干渉しすぎないH君との小学校からの付き合いは、今思うとこれが理想的なものだなと感じております。大人になってからでは色々と無理なことですから。
2017年03月17日
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おにぎり(焼きたらこ)&焼きそばさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、教室で泣いてしまった中学1年生時代泣いてしまった日は、ある女子生徒が運よく休んでいました。席が隣になったりと、割と縁があって仲が良くなり、友人とまではいかなくとも良く話す事のある女子生徒Mさんが休んだので、恥は少し薄まった感があります。「昨日こいつ泣いたんだぞ」などと言いふらす者もなく、昨日の出来事は無かったかの如く、平穏に日々は過ぎていきました。後を引かないのが子供の良いところで、K君との仲もそれまで通り。ただ、私が調子づいてふざけた事を言って周囲を笑わそうとすると、「泣いた○○がもうあの通り」などとからかわれる事はあっても、それに輪をかけて弄ることをしないのが、私にとっては良いクラスだった証拠で、増々気弱になることはありませんでした。
2017年03月16日
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餃子弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、教室で泣いてしまった中学1年生時代時系列的には鉄棒落下で入院する半月ほど前の11月初旬でした。入院は11月22日、退院は12月1日。ちょうど期末試験直前の時期であり、そのためにK君が授業のノートをこまめに書き写してくれていました。そのノートを退院後に貰いましたが特に勉強するわけでもありませんでした。ただ、今思うとK君はかなり凄い事をやってくれていたのだなと感心します。夏前ぐらいから夜になるとK君からよく電話がかかってきた事があります。何の用事もないのですが、「明日の時間割を教えてくれ」というのです。自分で調べればいいじゃないかと思いましたが、時間割表の表示を教えてやりました。こんな電話がしばらく毎日続きましたが、これもK君の思いやりだったのだなと。忘れ物をしないように、私に時間割を確認させようとしたのでしょう。しかし当時のK君の性格を考えると、こんな思いやりがあるとは想像できなかったのです。
2017年03月15日
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焼きそば弁当(たまねぎ)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、めそめそ泣いた中学1年生時代ひっくひっく、しゃくりあげながら泣きつつ、「なんでこんなに弱いのだろう・・・」と自分の情けなさが信じられない中、驚いた周囲が私の席の周りに集まり、喧嘩っ早いM君はK君に掴みかかって「何で泣かしたんだ?」と詰め寄り、その他の生徒も幼児を慰めるように私に対して気を使ってくれました。誰よりも自分は強いのだという、根拠の無い自信は小学生の頃からあったんですが、それを覆い隠すためにわざと弱く振る舞っていた部分はあります。そうした方が人間関係において上手く行っていたのです。しかし、本当にこんなに弱かったなんて・・・・と、愕然としました。それか、弱く振る舞っている事で自己暗示にかかっていったのかも知れないと、今は思っています。
2017年03月14日
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赤ウインナー&焼売弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、だらしのない中学1年生時代活発で我儘なK君に圧倒される毎日で、小学時代からの負けん気が影を潜めてしまった私はK君の仕打ちによって教室内で泣くことになります。外で、しかも学校で泣くなんて事は小学時代なら考えられなかった屈辱な事です。小学時代に女子でも男子でも泣く場面を見かけると、なんで人前で泣くかな・・・・と恥ずかしくないのかなと大いに疑問を持ち、そのような事に自分がなっても、泣くことだけは必死で避けてきましたし、それは幼稚園時代にイジメ続けられた時からの芯の強さなんで、中学1年で簡単に泣かされてしまったほど、諸々の自信を無くしていたんだなと思います。K君からは単に「もう話はしないからな」と除け者にする言葉を吐かれただけなんですが、それが神経に響いたんでしょうね、女子のようにメソメソと泣いて、周囲に慰められる始末でした。
2017年03月13日
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焼売サンド・ポテトサラダハムサンド・マカロニサラダハムサンドさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、だらしのない中学1年生時代ファッション、スケート等々、あまり興味のないものに通な友人・K君に圧倒されどおしである日、同クラスの女子生徒3人を連れだって、K君と私はボーリングへ。当時はボーリングの最盛期で、学区内にも次から次へとボーリング場が建設され、少し離れた地域ではローカル局放送のボーリング番組も毎週放送されたりしており、たしか「ターキーボウル」とかいう番組名だったと記憶しております。司会は元俳優の太田博之氏が担当しておりました。で、私たちは学区内のボーリング場へ女子とともに赴き、数ゲームを終えた後に併設された喫茶店へ。なぜ喫茶店へ入ったかというと、女子のひとりに13歳という年齢を感じさせないグラマーな美女がいたんです。仮にIさんとしますが、隣のレーンにいた中年のおじさんらに「後でおごるから喫茶店で待っていて」と言われたらしいのです。で、私と女子3人は喫茶店へ。しかしK君はなぜか店の入り口前で中年のおっさんと口論しているのです。どうやらおごるというのはシャレだったようで、まさか私たちが喫茶店で待っているとは知らず帰ろうとしたようだったので、K君は男気を発揮しておっさんを説得し、私らが飲んだコーヒー代を払わせたのです。私も良いところを見せようと席を立って何か言いに行こうとすると、女子の一人が「大丈夫よ、S君はここで大人しくしててね」と子ども扱いでした。
2017年03月12日
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赤ワイン&玉ねぎの煮物(7個分をうどんの出汁で煮込む)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、新しい友人に付いていけない中学1年生時代ジーパンの後ろポケットに貼りつけてあるメーカーの札のようなものに詳しいK君は、その他に上着などもあれこれと店内を見回って品定めをしますが、こちらは生あくびは出るわ話は合わないわで、退屈なもんでした。衣類だけでなく話題のネタがあまりない私は、K君からスケートに誘われても生返事して、結局本音は行きたくもないので用事が出来た事にして適当に当日断ると、物凄い嫌みを言われる始末。だいたいスケートなんか1回しか行った事がないし、興味もないのでどうでもいいと生返事したのがいけなかったんだけど、仕方ないので2度目の誘いには乗ってスケートへ。しかしそれが失敗のもとでして、もうひとりスケートの上手い同級生と3人で行く事になったわけですがK君ともう一人はスケートが物凄くうまく、二人で何やら技の見せ合いをして楽しんでおりましたが私はリンクの淵の手すりに縋り付き、ゆっくりトボトボと歩いているだけでした。
2017年03月12日
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ゆで卵&赤ワインさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、だらしのない中学生時代小学生からの親友・H君と同じクラスで大変良かったんですが、他の小学校からの友人は出来るだろうかと入学前は不安と期待が交錯しておりました。で、体操部の同輩として別の小学校出身者と少々仲良くなりまして、というよりも相手は相当な我儘者でして、付き合いにくい部分はありましたが、流れに任せて友人の部類となりました。そのK君とスーパーの「岡田屋」、現在のAEON、ちょっと前のジャスコの前身である総合スーパーへ買いものに行きました。K君がGパンを買うというので付き合ったのです。中学1年となるとファッションにも気を使うのか、K君はGパンのメーカーや履き心地などの説明をするのですが、私は母親が買ってくる服やおさがりを着ている身であり、K君の話には付いていけませんし、そもそも服を買えるほどの小遣いを貰ってないんです。
2017年03月11日
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ウインナー&肉巻きポテト弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、授業は上の空の中学1年生時代教科書はしょっちゅう忘れるので常に教室の机の中に全教科の教科書を保管しておく事にし同級生から揃えてもらった筆記具は大事に使う事で、少々ましな生活になっては来ましたが体操部の早朝練習があるために、体操服を学生服の下に着こんで着替えの手間を省き練習が終わった汗だくの体操服の上から学生服を着こんで授業を受けるという事を繰り返しておりました
2017年03月10日
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スパゲッティ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、ろくに教科書を持参しなかった中学1年生時代歴史の授業では教科書をいつも忘れてくる私を教室の前に立たせ、頬を両手で掴んで幾度か上下させるというバツを与える中年男性教師が居ました。熊のようにデカいので「クマゴロー」というあだ名が密かに付けられていた教師ですが、決して威圧感はなく、何度教科書を忘れようが罰が強化される事もなく説教もありません。それでもやはり全員の前で頬を抓られるのは屈辱なので、良く他のクラスに教科書を借りに行きました。そこでも何度も借りに来る私は、「また来たんか~・・・・」とどこからか声がかかるくらい毎度おなじみの人となっていました。
2017年03月09日
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牡丹餅&煎餅&赤ワインさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、勉強の仕方が全く分からなかった中学生時代特に1年生の時は教科書をまともに持参した事がなく、筆記具もろくに用意しておりませんでした。授業のノートを取る真似事はしておりましたが、何が書いてあるのか下手くそな字で滅茶苦茶なノートに、何でも齧る癖があってボロボロの鉛筆。そもそも授業のノートなんて取る必要があるのかと、あんなものは教科書に全部書いてある事じゃないかと思ったのかどうかは忘れましたが、成績の悪さに悩む癖に授業態度は楽天家、先生の話など上の空ですそれでも周囲のクラスメイトがそんな私を心配して、筆記具をそろえて持ってきてくれたり、入院して出席できなかった分の授業のノートを取ってくれたりしました。今の私なら何かお返しをしなければと思ってしまうのに、その頃はお礼もろくに言わなかったと思います。いい加減な奴だったんです。
2017年03月08日
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唐揚げ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、勉強の仕方が判らなかった中学生時代テストのたびに成績記録紙(順位表)を配布されて、その成績の悪さに焦るものの、なんら手立てのないまま周辺には賢く見せようと誤魔化し誤魔化しの生活をしておりました。幸い国語の授業であれば本を読むのは得意だったので、途切れずにすらすらと読み上げれば「賢い」と思われるだろうし、音楽ではリコーダーを上手く演奏すれば「やはり賢い」と認められるだろうからとそう言った部分でプライドは保っていたつもりでした。それでも1年も同じ教室で生活をしていれば、だいたいはどれくらいのレベルかは想像が付くものです。体育で目立ったのは小学校時代まで。中学1年からは私よりも運動神経の良い生徒が多く集まっておりどの分野で信頼を得るかを無意識に考える私は苦境に立たされたのであります。
2017年03月08日
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赤いウインナー&キャベツ、ハンバーグ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、テストのたびに偏差値や順位、10段階レベルが表示されている記録紙を配布される中学時代。全く勉強しなかった私はそれを見る毎に自信を失い、発言力も衰えていきました。勉強に関しては親も全く無頓着で、そんな記録紙があることなど知りませんし情報も得ることはありませんから、一切見せませんでしたが、その成績が悔しい割にはどうやって勉強をしたら良いのか分からず真似事で机に向かってやってみることはありましたが成績は変わらず、お手上げ状態でした。その記録紙、科目ごとのクラス内順位、学年順位、10段階レベルがすべて表示されており、そのほとんどがクラス40人中20番以下、英語に至っては33位とか37位にランク。科目ごとの10段階で最高が国語の「6」だったと記憶しております。総合で「4」これが5段階評価の通知表「4」であれば良かったんですが・・・・・
2017年03月07日
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おにぎり(焼きタラコ)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、体操部の練習に励み、ラジオや洋楽に興味を持ってレコード店通いが日常の中学1年生時代ですので、まったく勉強をしない生活であり、成績はとんでもない状況になっていきます。当時、「偏差値」なるものが持てはやされてきた時代で、中間テストや期末テストなどがあると、採点状況をコンピューターが整理して、総合点や科目ごとの点数の学年順位、クラス内順位が記され、そのレベルを10段階に分けたものが表示された細長い記録紙が、生徒各々に配布されまして、自分の成績の悪さに愕然としたものです。ああまでハッキリと示されると本当に自信を無くします。記憶を辿ってどんな成績だったか思い出してみますと、総合として10段階中「4」、学年順位は360人中「214位」、クラス40人中「27位」これでも勉強をしようとはしませんでした。どうやって勉強するのかまったく判らなかったからなのです
2017年03月06日
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厚揚げ&豚肉(270g)の野菜炒め(玉ねぎ・にんじん)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、当時人気絶頂のドリフターズのコント「ちょっとだけよ」のレコードとフランスポップスシンガー、ミッシェル・ポルナレフのレコードとをまんまと交換に成功させたズルイ私ですが、お気に入りのレコードを手に入れてもラジオ放送に同じ曲をリクエストしたりしておりました。まぁ、曲が聴きたいというよりも自分の名前をDJに読んでもらいたいってのが目的ではあります。「ちょっとだけよ」の原曲「タブー」と交換したミッシェル・ポルナレフの「忘れじのグローリア」もラジオにリクエストしまして、それが採用されて名前が読まれた時はクジが3連発で当たったような気分です。電話だけでなくハガキでもリクエストや面白い放送に投稿したりしてましたね。これも当時ぼちぼち人気が出始めていた萩本欽一氏の「欽ちゃんのドーンといってみよう」にお母さんと子供の会話とかいうコーナーに「おばあちゃんと孫の会話」などというネタで投稿して採用されました。しかし、司会の欽ちゃんやアシスタントの反応は「・・・・・・はい、次」てなもんでした。
2017年03月05日
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焼きそば(玉ねぎ、ソーセージ)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、レコード店通いが日常の中学1年生時代当時はドリフターズの「8時だヨ 全員集合」の最盛期で、まだ志村けん氏が登場していない時期に加藤茶氏が妖艶なラテンの曲に合わせて「ちょっとだけヨ」とストリッパーの真似をするコントが大受けしておりまして、そのレコードを見つけて買うと、同級生たちに「ちょっとだけよのレコードを買ったよ」と電話をかけまくって自慢をしたのです。しかし、なぜかアホらしくなって、もう一つ買いたかったフランスのポップス歌手、「シェリーに口づけ」で有名なミッシェル・ポルナレフの来日記念盤「忘れじのグローリア」と交換しに即日レコード店へ。まずは電話で交換理由を述べます。「間違えて他のレコードを買ってしまいました。交換できますか?」「良いですよ」で、店で交換レコードを渡し、目当ての「忘れじのグローリア」を探し出してレジへ。女子大生のような女店員は「全然曲名が違うねぇ・・・・・」私は笑ってごまかしました。それは上手く行きました。
2017年03月05日
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明太子丼さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、レコード店通いが日常だった中学1年生時代アメリカのスタジオミュージシャングループ、ホットバターが放った軽快なナンバー「ポップコーン」にハマり、第2弾、3弾、4弾と期待外れの連続でしたが、結局ホットバターは「ポップコーン」をヒットさせた後にアルバムを制作しております。ジャケット裏面の曲目を見て、もし「テキーラ」とか「カッパマキ」などがあったら買うのを止めようと思いましたが、まぁ、そう言った部類は無くて初見の曲名ばかりだったので買う事にしました。2弾、3弾、4弾のシングル盤に比べれば随分と満足しました。60年代にエレキバンドのベンチャーズなどが良く弾いていた「アパッチ」「パイプライン」などがシンセサイザーで演奏されており、なかなか聴きごたえはありました。その後、アルバム第二弾が出たようでしたが、その頃はホットバター熱も冷めており、それから30年ぐらい経った後にホットバターのCDが出まして、初アルバムと第2弾アルバムの混合のような曲構成でして、懐かしく聴かせてもらいました。
2017年03月04日
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焼うどん&ポテトマカロニサラダ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、レコード店通いが日常の中学1年生時代待望のホットバター第2弾「テキーラ」にガッカリしたんですが、2弾があれば第3弾もそのうち出るだろう、それに期待しようと過ごしておりましたところ、出ました出ました、第3弾。 「パーコレイター」です。これは1960年代のヒット曲をカバーしたもののようですまぁ、テキーラよりはポップコーンのような軽快さはあったものの、何だかコミカル調すぎて満足できませんでした。第4弾も期待しました。出た出た! ついに出た第4弾。その名も「カッパマキ」これにはもう唖然とするしかなく、ジャケットは寿司のかっぱ巻きにまたがるメンバーのイラスト。曲調はいかにも和風的な、高級すし店にでもBGMとして流れているような・・・・欧米人が日本をイメージして作成したという感が満載の曲でした。本当にガッカリしました。
2017年03月03日
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焼飯弁当(ハム、玉ねぎ)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、中学1年生時代にH君と街へと繰り出し放送局内を見学した後、自身が初めて買ったレコード「ポップコーン」の演奏グループの第二弾が出ていないかなと、街にある大きなレコード店なら期待できるかもと入店。ありました、ありました。流石に街のレコード店は品ぞろえ豊富。新譜は即入荷でしょうか。手に取ったポップコーン演奏者の第二弾。赤いレコードジャケットに「テキーラ」という曲名。帰宅して早速聴きます。・・・・・・「??????」・・・・・なんだこれは? そんな印象がありました。演奏者ホットバターの演奏するポップコーンは確かに世界的ヒットだった事は少年の私でも認知してましたが、今一つマイナーな感じがしており、第二弾が出る事も単なる私の希望であって、まさか本当に出るとは思ってもおらず、で、実際に聴いた曲「テキーラ」は、今でこそスタンダードナンバーの有名な曲であると知ってはいますが、当時の私の感覚では中南米の訳の分からないリズムだ、としか思えずポップコーンのような曲を期待していた分だけ、大変がっかりしました。
2017年03月02日
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サンマ蒲焼き缶弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、親友H君と街へ出かけた中学1年の時バスに酔ったH君と街に着く手前で降りた私たちですが、汚物で汚れた手と服を洗いたいとH君が言い、手頃な洗い場を探しにしばらくフラフラと歩き続け、途中に民家の庭に水道が設えてあるのを見つけちょっと拝借してそこで汚れたものを落として、さぁ街へと歩き始めます。街に到達すると、小学生の頃に社会見学で訪れた放送局(中部日本放送)が目につき、守衛の人に入って良いか聞くとアッサリOK。映画館程度の広さがあるスタジオ内に入ると公開収録を行っており、素人ののど自慢のようなものが催されていて、途中に録音放送で板東英二氏のコーナーが流れていたのを覚えております。
2017年03月01日
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