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豆腐ハンバーグさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代S学区代表の秀才Sくんは、理科の授業中に私を怒鳴ったんですが・・・・とうとう私の学力の低い事がばれて、扱いが悪くなっていくのかと思ったんですがその後の秀才Sくんは以前と変わらず接してくれました。それにしても周囲のフォローがあった事は本当に救いでした。そんな小さな事件であっても、積み重なっていく日々の中で、ドンドンと自信を失って自分を小さくしてしまう危険性があるからです。
2019年10月31日
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お好み焼き(ジューサーよるニンジン・玉葱の搾りかす入り)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代S学区代表秀才Sくんは、学力では断然周囲との差があったのですが・・・・学力を鼻に掛けないとはいえ、奇抜で気障な発言は鼻持ちならないと受け取られがちだった秀才Sくん決してワガママKくんのように我儘ではなく、比較的落ち着いた雰囲気があったので、大人びた中での格好を付けた態度だったと言えましょう。中1時の話ですが、そんな秀才Sくんが理科室での授業中に顕微鏡を操作していた時に、私が正面に立っていたので影となって顕微鏡が上手く反応しなくなり、「邪魔だ!どけーっ!」と私に対して怒鳴ったのです。普段は感情を露わにしない秀才Sくんが人を見下したように吠えたので、周囲に居た喧嘩っ早いMくんやC学区出身のH田さんという女子が「偉そうに。○○くんにも見せてあげなよ、ひとりで見てないで」と咄嗟に私を庇ってくれたのです。
2019年10月30日
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削り節巻き弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代S学区代表・秀才Sくんはクラス内での信用を得ていったのですが・・・・中1時の話なのですが、前期の室長は影の番長Oくんでした。影番Oくんの悪童ぶり、というよりも頼りがいのある部分が認められての選出だったのでしょう。後期は秀才Sくんが室長に選出されました。Sくんの学力優秀さと影番Oくんとは趣の違う頼りがいがあったのでしょう。たしかに、秀才Sくんは「大人」になろうとして周囲との差を付けようとしていた節があったような気がします。
2019年10月29日
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自家製ハンバーグの材料準備から完成までジューサーによる玉葱や人参の搾りかすを捨てるのはもったいないので、ひき肉やパン粉などを混ぜてハンバーグを作ってみました。フライパン一面に広がる巨大ハンバーグは、繋ぎとなる卵などを入れなかったのと、野菜汁が多すぎたために、焼いても焼いても焼き固まらず、幾度か攪拌しつつ焼き続けて、ご覧の通りのブラックハンバーグになってしまいました。それでも味の方は結構なものでしたよ。
2019年10月29日
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玉ねぎを中心とした野菜、果物のジュースと茹でブロッコリー久しぶりの療養食事を始めた理由は、ちょっと心臓の状態に危険を感じたからです。たしかに炭水化物をガンガン摂りすぎている昨今であり、当然の結果なのでしょう。その後に一食抜いただけで体調は元に戻るのでハッキリしています。で、ジューサーを買いまして、早速血液サラサラにすると言われている玉ねぎをジューサーにかけにんじん・レモン・リンゴなどを加えて自家製野菜果物ジュースを作ったわけです。別としてブロッコリーを茹でました。この完璧な自家製ジュースを頻繁に摂っていれば、心臓も喜ぶだろうと思いますが・・・・玉葱の汁というのは物凄くキツイです。ジューサー初回は他の野菜果物類を混ぜたので感じなかったのですが、玉葱だけの汁を少し飲んだ時に腹の具合が即座におかしくなったのです。また、バナナジュースでスタミナを付けようとジューサーにかけたのですが、バナナは殆どが搾りかすとして排出されてしまい、果汁は絞られず大失敗。バナナはジューサーではなくミキサーでないと、バナナジュースは作れないのでした。
2019年10月29日
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玉葱と人参、ウインナーのケチャップ炒めさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代S学区代表の秀才Sくんは長身でナイスガイではあるのですが・・・・決してガリ勉タイプには見えなかったし、中1時の初期には私も無理をして秀才Sくんと肩を並べて弁当を食べたものでした。昼食時間に弁当を食べながら歌を唄ったりして陽気に騒いだわけですが、私の学力も最初だけ数学のテストの点数が良かっただけで、後は尻すぼみ。徐々に付いていけなくなってSくんから離れていったのですが、学力がある事を鼻に掛けるような人物ではなかったので、その後も普通に会話は出来ました。
2019年10月28日
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玉葱煮込み(にんにく入り)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代S学区代表の秀才Sくんは、周囲の反感を物ともしなかったのですが・・・・中1時のホームルームは活気に溢れておりましたが、中でも秀才Sくんの論ずる内容は理屈っぽいうえに議員立候補者のような演説ぶった発言なので、逆に周囲の熱を上げて議論の活性化に役立っていたのですその口調はこっちの頭に残り、なぜか他の場所で人と会話する時に、秀才Sくんの口調を真似てしまう事もあるほどでした。
2019年10月27日
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2019年10月27日
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おろしうどんさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代S学区出身の秀才Sくんは中2時は別のクラスだったんですが・・・・中1時に同級生として出会った秀才Sくんが当時に本人談として語った所によると、小学時代は親の転勤で幾度かの転校を経験したらしいのです。そうした経験は自分には無かったので、今思えば人よりも多くの孤独感や忍耐力を養い、そんな中で勉学に勤しんできた人物だったのだなと感心します。ホームルームで論議が盛んだった中1時のクラスでは、特に秀才Sくんの気障とも奇抜とも言える発言に賛否両論の嵐が巻き起こり、その存在感を示したのでした。
2019年10月26日
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シュウマイ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代NHK教育テレビ番組でも秀才Sくんは秀才Sくんでしたが・・・・なにかと目立つH学区出身の喧嘩っ早いMくんや番長Oくんらに比べると、おとなしめな我がC学区とS学区の面々の中で、秀才SくんはS学区出身。秀才Sくんとは中1時と中3時にクラスメイトでしたので、中2時の思い出は無いのですが、テニス部員でもありましたので校庭でラケットを振り回していたのを良く見かけましたし、かなり身長が伸びて180cmぐらいになっておりました。
2019年10月25日
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クリームシチューさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代NHK教育テレビに出演した我が同級生達は各々意見を述べていましたが・・・・
2019年10月24日
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削り節卵巻き弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代NHK教育テレビに出演した我が同級生達でしたが・・・・
2019年10月23日
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うどんナポリタン弁当(ソーセージ付)さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代在学中にテレビ出演してしまった我が校の同級生6人でしたが・・・・
2019年10月22日
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塩やきそば弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代ラジオ番組には本名で投稿するのがモットーでしたが・・・・ラジオよりも目立つ媒体である「テレビ」に出演した同級生が居ました。おそらく中2時ではなく中3時の春ごろかと記憶してますが、NHK教育テレビ放送の短時間番組だったと思います。非行に関するテーマで教師と生徒による実際の学校生活を語り合うといった内容だったと思います。我が校の生活指導のS先生と男子生徒4人、女子生徒2人が出演したのです。当時その番組は白黒放送でして、録画する機器はまだ普及していない時代です。見逃さないように気を付けておりました。
2019年10月21日
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2019年10月20日
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もやしあんかけ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代全国放送の「欽どん」でハガキが1通だけ読まれて嬉しかったのですが・・・・実際、「欽どん」に私のハガキが採用されて、わがままKくんがどんな心境だったのかは判りませんが自分だったら悔しくて電話もかけなかったと思います。そもそも「欽どん」に挑戦する前からあらゆるラジオ番組の電話リクエストやら、ハガキによるリクエストから詩やクイズの応募まで、殆ど本名で投稿するぐらいの目立ちたがり屋だったのです。ペンネームなどでハガキを読まれても誰も私だとは思ってくれないのですから、本名であれば「おや?」と気付いてくれて、あいつはこんな曲が好きなんだ・・・・とか思ってくれるわけでして、それが狙いなのです。
2019年10月20日
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2019年10月19日
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しぐれおにぎり弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代ラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう」に採用されたコントは受けなかったのですが・・・・その放送をわがままKくんが聴いていたのか、放送後すぐに電話がかかってきたのです。こっちから「今、ハガキが読まれたよ」といったのですが「ああ・・・そうだね」と気の無い返事をして他の他愛のない用事を一言二言喋って電話を切ったKくん。私のハガキが採用されたのを嫉妬しているのか・・・と思いましたが、その気持ちは良く分かります。人に先を越されれば悔しいですからね。わがままKくんとしては私が採用されたのを教えてやろうと思っての電話だったのかも知れませんが「凄いなぁ、良いなぁ」とKくんは言いませんでしたから、内心は察する事が出来ました。
2019年10月19日
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とんかつ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代ラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう」に応募し続けたんですが・・・・中1時の終わりごろか中2時か定かではありませんが、1通だけ採用されました。色んなシリーズの中で「あゝ勘違い」というのがあり、そのうちの「○○と○○の会話」が主流でして「母と子の会話」の応募が多かった中で、私は奇をてらって「おばぁちゃんと孫の会話」として応募したのです。その内容と司会者たちの反応は以下の通りです。(孫)「おばぁちゃん、その金入れ歯どうしたの?」(婆)「ふぁふぁふぁふぁ、黄金バットの形見じゃぁ」(欽ちゃん)「・・・・・・・」(アシスタント女性)「・・・・・・」(欽ちゃん)「次のハガキいきましょう」てな感じで、全然受けなかったのです。
2019年10月18日
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さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代「欽ちゃんのドンといってみよう」というラジオ番組が当時人気があったのですが・・・・その番組のコーナーに「○○と○○の会話」と題したショートコントがありました。例えば次のような「かぁちゃんと子供の会話」というのがありまして、「かぁちゃん!腹減ったよぅ 何か作って」「やだねこの子は。とうちゃんと頑張ってお前を作ったのに、まだ何か作るのかい?」てな感じの面白くも何ともないコントを、司会者の萩本欽一氏の口調で読まれると、なぜだか面白く変化して、アシスタントの女性も思わず笑ってしまうのです。あらゆるコーナーがあって、歌謡曲の一部分をコントの会話の中に引用するシリーズもありました。
2019年10月17日
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にんじん大根煮弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代ラジオ番組に参加したのに周囲の反応がイマイチでして・・・・自分の声が放送されるという貴重な体験はしましたが、録音する余裕がありませんでした。まぁ、録音した自分の声を聴くとなんだか恥ずかしい気分になるので、それがラジオ放送なら尚更でしょうけどね。当時人気のあったラジオ番組と言えば、コメディアンの萩本欽一氏の「欽ちゃんのドンといってみよう」という視聴者ハガキ参加番組がありまして、中1時の秋頃から放送されており、テーマに関するショートコントをハガキに書いて送れば、優秀な作品が読まれるわけです。必死でコントを考えてハガキを送り続けた事は言うまでもなく、これには他の同級生達の多くも参加したに違いありません。
2019年10月16日
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おでん弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代ラジオ放送で私の声が東海3県に流れたのですが・・・・その放送を洋裁教室で次姉が聴いていたとは驚きでしたが、他には「おい、聴いていたぞ」という人は現れず、親友Hくんやその家族と付き合いが続いていれば一緒に騒いでくれたんだろうけど、新友人MくんやIくんでは興味がなかったようで、今一つ盛り上がりませんでした。参加商品としてもらったパーカー社製の万年筆ですが、かなり高価な物だったようです。万年筆など使った事なかったので、わざわざインクを買ったりしたものの、殆ど使用する事なく単なる記念品として机の中で眠る宝物となりましたが、どこにやってしまったのか、捨ててしまったのか今現在、万年筆は行方不明です。
2019年10月15日
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ツナマヨ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代東海3県ローカルラジオ放送に私の声が流れたんですが・・・・平日の夕方からの放送で2時間枠の放送だったと思います。聴いていた同級生も居たんじゃないかと思ったんですが、次の日にクラス内での話題にはなりませんでした。誰も聴いていなかったか、本名を名乗ったのに聴き逃したか。普段は自慢は控えていた私ですが、この時は一部のクラスの人に事のあらましを話しました。まぁ、中学生が好んで聴く番組ではなかったのかな。ところが意外な視聴者が近くに居ました。次姉が洋裁教室で聴いていたというのです。まさか私だったとは知らず、良く似た声の子供が面白い事を言っていたので、ゲラゲラと笑って聴いていたというのです。
2019年10月14日
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ソーセージ巻き弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代民放ラジオ番組による「どんな癖を持っているか」に電話応募したのですが・・・・公衆電話から自宅に戻って十数分後にラジオ局から電話がかかってきました。中部日本放送局(CBC)からでして、受話器を取るなり思わず「やったっ」などとハシャいでしまい電話先の放送局の人にクスッと笑われてしまいました。司会者は誰だか覚えがありませんが、おそらくローカルタレントか落語家などの中年男性でした。「鉛筆や消しゴムはおいしんですか?」の問いに「うまいです」と答えた覚えがあります。司会者の質問にはたどたどしい返答しかできなかったのですが、応答の後に貰える商品としてパーカー社の万年筆を貰ったのです。
2019年10月13日
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2019年10月13日
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ご飯とみそ汁&冷や奴さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、新友人Mくんからの電話はワン切りコールが合図でしたが・・・・電話と言えば、中1時によくかけていたラジオのリクエスト番組です。中2ともなると回数は減ったのですが、電話やハガキでラジオ番組に参加しようという気持ちは残っており、ある放送で「どんな癖を持っているか」の募集があったので早速参加。咄嗟に思いついたのは中1時からなぜか鉛筆やノート、教科書の端っこを噛んでボロボロにする癖があったので、それで行こうとラジオ局の受付電話に猛烈に何度もかけたのです。そしてなんとか通じて、うまく説明できなかったのですが、鉛筆を噛む癖がある事をちょこちょこっと伝えたんです。かけた場所はなぜか近くの公園にあった公衆電話からでして、折り返しの電話があるといけないんですぐに自宅に戻って待機したのです。
2019年10月12日
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ハンバーグ&パスタ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代新友人Mくんとは意味のない電話が多かったんですが・・・・電話の呼び出しコールのワン切りが新友人Mくんからの電話だという合図でした。1回コールが鳴って切れて、直後に再度コールが鳴れば、家族より先に受話器を取るわけでして「○○ですが○○くんお願いします・・・・」などという家族への挨拶や面倒な応対が省けるアイデアは小狡いのですが新友人Mくんらしく、結構自分も同じような考えなので電話する時は気楽でした。自宅前に来る時も自転車の警報ブザーをビッ、ビッっと鳴らすMくん。ああ・・・・Mが来たなと思えるわけで、面倒な「○○くーん」と呼ぶ事が不要だったのです。ただ、家族からは「コソコソしている」などと不評でしたが。
2019年10月11日
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たらこ&ポテトサラダ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代新友人MくんやIくん宅にはよく行き来するようになったんですが・・・・友人宅でその家族とも接するような仲になれたのは小学生からの親友・Hくんだけです。しかし、中2時で別のクラスとなってからは疎遠となってしまい、ほとんどHくんの家に行く事はなくなりました。用事も無いのに家に遊びに行く仲だった親友・Hくんとは電話のやり取りも以前からほとんどなかったのですが、新友人Mくんとは用も無いのに電話が良くかかってきたりしたもので、どうでも良い内容の会話だった覚えがあります。
2019年10月10日
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2019年10月09日
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ふかしジャガイモ&にんじんさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代
2019年10月09日
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うどんキムチ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代インスタントラーメン・ソース味がお口に合わなかった祖母でしたが・・・・
2019年10月08日
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パスタ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代インスタントラーメンも好物になった祖母でしたが・・・・ラーメンが美味いと知ると祖母は度々私にインスタントラーメンを作ってくれと頼むようになりました。まぁ、いつもは面倒くさいと言って断るのですが、しつこく頼まれた時などは仕方なく作ってやりましたたまに隠し味としてソースを加える事のある私製のインスタントラーメンを出したところ、ひとくち食べてから中々箸が進まないので、あゝ・・・・ソース味が口に合わないのだなと思い、「不味い?」と聞いたんですが、「いんや、美味いよ・・・・」と引き攣った笑顔で応えたものの、それ以上食べようとせず「不味かったら無理に食べなくてもいいよ」と言ってやったんですが、「いんや」といって少し食べては箸を置き、ちょこっとずつ食べてやがて「もおいい・・・・」と、何とも言えない顔つきで食べるのをやめたのです。文句は一切言わなかった祖母ですが、意外と思いやりのある人だったんです。しかし、本音を言い合えない希薄な間柄であったとも言えるのです。
2019年10月07日
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2019年10月06日
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そうめん味噌汁&ご飯さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代奇声と悲鳴の凄かった明治生まれの祖母でしたが・・・・キュウリの酢揉みが好物だった祖母は、「なにか美味いもんが喰いたい」が口癖でした。「何かって何?」と私ら家族は聞くんですが、「なんでもええから美味いもんが喰いたい」と。美味いもんと言えば「天丼」とか「寿司」といった出前物が思い浮かびますが、それが食いたいのか訊ねても「ちがう。もっと美味いもんが喰いたい」と難しい注文をしたので、普段よく食べて居たインスタントラーメンを作ってやると、これは美味いと言って喜んで食べて居ました。
2019年10月06日
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めんたいこ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代深夜の悲鳴は祖母のドブネズミ退治だったのですが・・・・祖母の寝巻の袖から侵入したドブネズミは、81歳の老婆の握力に握りつぶされて圧死したわけでしてどっちが悲鳴を上げなきゃならないかという話ですね。明治生まれの女性の強さにはあっぱれです。その節くれだった握りこぶしで、幼少の頃に悪戯をして頭を小突かれた事があるんですが、物凄く効きました。涙目になった覚えがあります。
2019年10月05日
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鶏ごぼう弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代明治生まれの祖母はキュウリの酢揉みで腹痛を起こし奇声を上げたのですが・・・・キュウリの酢揉み事件より後なのか先だったのかは定かではありませんが、時期的には中2時だったと思います。事は深夜でした。深夜と言いましても寝付きの悪い私は布団の中で目は冴えていたと思います。突然、奥の祖母の部屋から裏返った「悲鳴」が上がったのです。「ギャー」なのか「グォー」なのかハッキリしない悲鳴に続いていつものように私の名前を呼ぶので心臓をバクバクさせながら布団を頭から被って悲鳴を聴き続けました。おそらく父親が怒りながら様子を観に行ったんだと思います。「何を寝ぼけてやがる、くそだぁーけ」くそだぁーけとは「糞、たわけ」の意味。「たわけ」は馬鹿とかアホという意味で、名古屋弁とは言えないかもしれませんが、この地方では良く使う言葉です。で、なぜ祖母が悲鳴を上げていたのかというと、その寝巻の袖を掴みながら叫んでいたそうで、何かが侵入してきたんだそうです。その何かとは何か?・・・・大きなドブネズミだったそうな。祖母に鷲掴みにされて、すでに息絶えていたそうです。
2019年10月04日
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2019年10月04日
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唐揚げ弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代キュウリの酢揉みで腹痛、嘔吐した祖母でしたが・・・・それが日曜の朝だった事はハッキリ覚えております。いつもより朝遅く起きる日曜は、ゆったりと寝床の中で朝のテレビ番組の音を聴いたり、いつもは食べない朝食の匂いにつられてトロトロと起き出すものでしたが、そんな感じで迎えた朝の出来事だったので一日中深刻な気分になってしまったのです。祖母は明治25年生まれで1981年に89歳で亡くなりましたが、その事件の時は81歳だったという事になります。父親との喧嘩による怒声は日常茶飯事だったので、慣れはありましたが、「奇声」となると免疫が無かったので、逃げ出したいくらいに怯えました。その「奇声」と比肩する「悲鳴」事件が、そんな時期に起きた事も思いだしました。
2019年10月03日
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あんかけ焼きそば弁当さて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代キュウリの酢揉みを食べて腹痛になった祖母でしたが・・・・祖母が自分の息子、つまり私の父親と喧嘩する時は、「誰かーっ、助けてぇーっ」「殺されるーっ」と隣近所に聴こえるように凄い奇声を上げていたのですが、それよりももっと恐怖の入り混じった、人間が断末魔などに出すような奇声を発していた腹痛の祖母。介抱したのはおそらく母親だったんじゃないかと思いますが、嘔吐物にはキュウリの輪切りがそのまま大量に在ったと聞いて、そりゃあかんわと思ったものでした。
2019年10月02日
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たまごごはんさて、私が少年だった昭和40年代後半の頃、子供から青年への過渡期だった中学二年生時代「温泉卵」のつもりが「半熟卵」を作っていた父親でしたが・・・・
2019年10月01日
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