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英語スペラが参加している活動に「地域の学び推進機構」の「学びのポイントラリー」がある。地域にはいろいろ勉強できる組織やボランティア活動があり、それを子どもたちの勉強の場として地域ごとに提供していこうという運動である。目指す最終目標は「人間力」をアップさせようというのである。 理屈としては立派なボランティア活動である。しかし、既存の「体験学習」的な豆腐作りだとか、環境保護体験だとか、面白実験だとかなどで「人間力」がアップするのだろうか。教室や家庭で付けられない「人間力」が、どうして並みのボランティア活動で可能なのだろう? 不可能なのに「可能」だとして社会にまかり通ってきた無責任発想の蔓延が日本をダメにしてきたのではないか。これは誰かがキチンとした言葉で正面きって論じなければならない問題だ。 「遊びのポイントラリー」活動で環境問題を扱うボランティアの人間が、カードにビニール・カバーを付けて子どもたちに配布している。それをおかしいと思わない神経も同じ無責任発想の延長である。環境悪化を招くビニールを、カードが汚れるからといって使っている。これでは環境問題は前進しない。. 人間力とは何か。地位も金も学歴も親も友だちも一切がなくなって最後に残るもの、それがその人の人間力ではないか。自分としては最後に残る意識、記憶、言葉:考える能力と行動力、そして愛の総和を、「人間力」と言いたいのだが。
April 1, 2006
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I have stayed three days(28 March~30) at the capital Taipei in Taiwan to negotiate with a client about our “Spella"'s copyright. I felt the city very clean more than in former days when I had visited often. The highest building in the world “101” is very beautiful and well equipped. The elevator goes to observatory(89th stairs) only in about 40 seconds. The manufacturer of this elevator is Toshiba. The other hannd, Mitsukoshi has three branches in Taipei and good reputation among the citizen in Taiwan.
March 31, 2006
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Once a month we have the meeting of “spella”. Yesterday, we talked about thepromotion of spella for the activities of new fiscal year from April to next March. All members positively proposed the ideas to increase the number of newcomers. One of them is to introduce the degree system which is very similar to Judo.
March 26, 2006
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I have not studied earnestly the English ; it is one of the most serious regrets in my life . I want to play in English “Spella” I will forget the French language.
March 26, 2006
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十年ほど前から人材にどんな資質を求めているか、と大企業のリクルート担当者に聞くと、もっとも多いのがコミュニケーション力である。これを裏返せば、如何にコミュニケーションの取りにくい時代になっているか、ということでもあろう。コミュニケートすべきテーマが曖昧だというケースもあろう。 国と国の関係になると,問題はさらに難しくなる。いろいろなレベルの情報が行き交い、時にはコミュニケーションなど取れては困る、といった複雑なテーマもある。例えば靖国問題がそれだ。 われわれ一般人の間ではコミュニケーションが取れないと感じるケースは、私的生活の範囲ではそれほど多くはない。ところが階層間のコミュニケーション不通感はすごく強い時代になっている。 高校や大学の教室で授業中に教師が話している時に、昨今メールを打ったり、ヘヤードライヤーを使う学生がいるのは、一方的な暴力的コミュニケーション遮断だ。
March 16, 2006
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囲碁が脳(右脳)を刺激し活性化させるので、経営能力がアップするという。そのため、若い経営者たちの間で囲碁をは始める人が増えているそうだ。 怖いロジックだ。囲碁をやると経営能力があがるというロジックが、成り立つだろうか。 囲碁をしている人の右脳が赤く活性化するのが目に見えるから説得性がある。しかし当事者以外は、あくまでも人間不在の盤上のゲームである。このゲームで人間性に対する洞察力や企業活動の中で必要とされる経営者の素質が育つだろうか。 人間不在のゲーム性をビジネスに持ち込めば、ホリエモンのような事を起こしかねない。ゲームの中には勝つためのルールしか存在しないのだ。合併会社がうまくいくケースは少ない。主導権争いの激しいゲームが展開されるからだ。 ほんとに人間尊重の会社経営をしたいなら、過去の名作や傑作をゆっくり読むことだ。例えば三国志演義を7回読んだが、「三顧の礼」だとか「泣いて馬しょくを斬る」など、日本人にも膾炙されたエピソードがあちこちに出てきて、経営者として考えさせられることが多かった。 人間不在の経営はないのである。
March 9, 2006
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もう四、五十年前のことになるが、フランスの社会学者の著書の中で、「現代人はギリシャ人に比べ、現代のポプラがギリシャ時代のポプラから変わってきているほどには、変わってはいない」という個所を読んだ記憶が鮮明に残っている。 当時はその社会学者の説に賛成だった。人間がか変わっていないからこそギリシャ悲劇が感動をもって現代に読み継がれてきたのだ、と。 しかし今その社会学者が生きていたら何と言うだろう。 十数年前から私はたまにしか芥川賞作品を読まなくなった。読んでも作家の名前を記憶していない。ボケてきて、忘れっぽくなったのではなく、作者と文章との一体感が希薄になってきたからだろう。 2005年の「新潮45」3月号を1年遅れで読む機会があった。その中の『セックス《しない》症候群』を読んで、「女たちがセックスしないで男と手だけつないで寝ること、男はセックスをしない女を受け入れてセックスを要求せずにいること」が何の不思議もない現代に生かされていることに、私はなぜか屈辱感に近いものを覚えた。
March 6, 2006
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毎月第一日曜日の午後例会を開いているスペラ教室に3人の新人が加わる。横浜でスクラブルを楽しんでいるグループに所属する人たちで、なかなか強い。 スクラブルをやっている人たちは大体中年以上で、新春スペラ大会を開くといつも優勝してしまう。大会は今年で第4回目になるが、いずれもスクラブル出身者なのだ。 スクラブル出身者には一つ弱味がある。それは意味を知らない単語を作ってしまうことだ。 その単語が英語にありさえすれば、許されてしまうが、スペラは意味を知らないで上がるとペナルティを取られる。 語彙、正確なスペル、文法、英作文などすべての学習につながるスペラは、確かにバランスの取れた英語ゲームだと思う。
March 5, 2006
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昨日の朝テレビを見ていたら、民主党の前原代表が、党の再建に努力したい、といっていた。 この言葉にむなしさを覚えた人は多いに違いない。党を崩壊に導いた本人が党を再建する、という。 JALの先の社長も同じことを言った。全力で社の再建をはかります、と。会社を危機的な状況に落とし入れた当の責任者が、再建をする、という。 正気なのだろうか。党をだめにしたのはお前ではないか。お前が社長としての仕事をしなかったから、会社がおかしくなったのではないか。 世間は本人の行動を切り離して、その人の言葉を信じることできない。
March 4, 2006
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もう一度、今回の民主党の問題。 党代表が全責任を取る、というとき、それは党全体に対して責任を取るのであり、同時に党支持者・国民に対してである。だから代表を辞任するという形以外に、具体的な責任の取り方はない。一議員なら除名される前に、離党することになろう。除名は処分であって、離党が自らの意思で責任を取ることになる。 党代表が党に対して申し訳なかった、というのでは、釈明や詫びの類でしかなく、全責任をとったことにはならない。であれば、党代表にとどまっても実質的には党代表としての資格と信頼を失ってゆく。 当然のことながら求心力がなくなり、党としてのパワーを失い、支持者は去って党は壊滅的な打撃を蒙る。 そして世間的には「全責任を取る」という言葉が、本来持っていた価値を失ってゆき、全責任を取るといいながら現職にとどまるトップが続出することになる。(日本では度々同様なことが起きたから、民主党の場合も、またか、と思う人が多いに違いない) もし、すぐに辞任して全責任を取ることができなければ、その理由を明らかにしなければならない。
March 2, 2006
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昨日、言葉が事実を表す「約束」ではなくなったことについて書いた。昔は、、というと若い世代は、もうそれだけで耳を傾けようとしないのだが、一度発した言葉に基づいて事実が遅れてやってくるほど、言葉の重みは計り知れないものがあった。 言葉は一つの約束だったのである。「行きます」といえば、万難を排してそこへ行った。いまは「ちょっと用事ができたので行けませんでした」で済まされてしまう。 残念ながら、「事故原因を徹底的に調査し、再発防止に全力を尽くします」と最高責任者が明言しながら、再び事故が起きても、最高責任者が辞任しない世の中になってしまった。 私はアンチ民主党ではない。だから言いたい。党を代表して発言した一議員が証拠のないメールのコピーで反対党の幹事長を侮辱的な言葉で弾劾し、それをサポートしてさらに圧力をかけた党代表が、そのコピーが事実無根であったことが明らかになったとき、党代表は代表を辞任しない理由は何もない。しかも全責任は自分にあると「両議員総会」でいいながらである。全責任を取って代表が辞任しないとき、「全責任は自分にある」という言葉は、言われなかったのことと同じになる。 今後、党代表は張子の虎の役も果たせまい。
March 1, 2006
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フランスのカトリック作家として有名なフランソワ・モーリヤックは、作中人物についての評論の中で、第一次大戦前に、すでに恋愛する人は別れることを前もって考えていた、と指摘した。 言葉を信頼しなくなった、ということである。 「愛する」というならば、その事実が伴わなければならない。が、別れることを予想している。 日本航空は「安全性の総点検をし、事故の再発防止に全力を尽くす」と公言しながら、また事故を起こす。事故再発防止に全力を尽くしていないから、事故はすぐにまた発生する。 するとまた「総点検をして再発防止に全力を尽くす」と言う。 談合も同じである。再発防止、再発防止と言葉だけがあって、防止につながる具体策が抜けてしまう。 世の中は、不祥事が発生すると必ず「全力をもって信頼回復に努めます」と詫びを入れるが、全力をもって信頼回復に努めた形跡が見られない。 言葉に信頼感がなくなると即人間不信になる。民主党議員のメール問題も同様で、同党がまったく信頼できなくなった。つまり、民主党は潰れてもよいのだ。
February 28, 2006
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日本頭脳スポーツ協会の競技委員会に出席。来年度の活動についての事前調整がテーマ。地域をさらに広げ、本年度は18地点で頭脳スポーツふれあい体験会を開くのに対し、来年度は44地点に開催地点を拡大するという。 日本スペラ協会としてはありがたいことである。一協会としては、とても全国を回ってスペラ体験会など開けるはずはない。それを日本頭脳スポーツ協会がやってくれるというわけである。 本年度もすでに10地点に協会から支援に出向いたが、来年度はもっと多くの地域に行かなければならないと思う。
February 4, 2006
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「記号を操ることによって、どうして実在をつくり出せようか」。これはベルクソンの『形而上学入門』に出てくる言葉だが、私たちは、ついそれを忘れて生きている。 ベルクソンが言っている記号とは、言葉の断片といっていいだろう。たとえば「改革」という言葉は記号に過ぎないのに、うかつにもついそれを忘れて、「改革」という言葉が改革ということの実体を約束してくれるように思い込んでしまう。 昨日今日の防衛庁の『官製談合』は記号ではない。官製談合が事実として先にあって、それに合わせて出てきた言葉なのだ。現職の官僚と天下りした官僚が「グル」になって談合したのでは、とても一般人はかなわない。 改革と呼ぼうが呼ぶまいが、あやまった事実を物理的に改めるところから始めないと、事実としての改革を期待することはできない。記号化した「改革」を振り回しても空しいだけである。小泉内閣はすでに死に体ではないのか。仏シラク体制とおなじように。 政治家として、近い引退の時期を事前に知らしめるのは、如何なる場合でも愚策である。本人が粋がっていても、近い将来に力を失う人間に誰が本気でついていくものか。まして人望がない場合には、なおさらである。
February 3, 2006
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また新書版の英語の参考書を買ってしまった。 この参考書は読者をなんとか英語の達人にしようとしたもの。題して「英語達人塾」。 こういう参考書を若いうちに読めば、英語をまじめに極めてみようという気になるにちがいない。 「文法を無視して度胸だけで英語をしゃべるような学生は、いつまでたってもおかしな英語を話す」 長年、英語教育に携わった著者の声である。会話派は文法を軽視するが、ほんとに英語を話したいと思うなら、やはり文法は大切なのだ。 買い物や旅行で意味が通じればいい程度の英語と自分の考えを述べて討論するような英語とは、それぞれ勉強の仕方がちがう。私の場合はまだ態度が曖昧だ。
January 31, 2006
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また新書判の英語の参考書を買ってしまった。 この参考書は読者をなんとか英語の達人にしようとしたものだ。題して「英語達人塾」。 こういう参考書を若いうちに読めば、英語をまじめに極めてみようという気になるにちがいない。 「文法を無視して度胸だけで英語をしゃべるような学生は、いつまでたってもおかしな英語を話す」 長年、英語教育に携わった著者の声である。会話派は文法を軽視するが、ほんとに英語を話したいと思うなら、やはり文法が大切なのだ。 買い物や旅行で意味が通じればいい程度の英語と自分の考えを述べて討論するような英語とは、それぞれ勉強の仕方がちがう。私の場合はまだ態度が曖昧だ。
January 31, 2006
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今日は日本頭脳スポーツ協会の競技委員会の会議がある日だ。うっかり忘れるところだった。 昨日、金田さんが来社。雑談で英語の話になる。ビジネスではいまメールがコミュニケーションの主流。ほとんど対の会話のチャンスがなくなってきた。そのため文法や読み書きがますます重要になってきた、という点で意見が一致。 まともな文章が書けなければ、今はビジネスがはじまらない。
January 30, 2006
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日本スペラ協会の第4回新春スペラ大会とハワイ・スペラ倶楽部の新年スペラ大会の写真を、先週ようやくアップ。素人の制作だからあまりいい画面ができないのだが、HPが結構コミュニケーション・ツールの役を果たしてくれている。 クイズの問題も解く手がかかりのある出題形式になったので、反応はいくらか改善されたようだ。反応がよくなったのは、優秀回答者1名に三越で賞品を買って送るようになったせいもあるにちがいない。
January 29, 2006
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英語、または外国語の難しさは、生活の中の言葉として捉えられないからだ。私たちはまず単語を山ほど覚え、それを言葉だと勘違いしてしまう。単語はどんなにたくさん覚えても言葉にはならない。単語は生きた言葉ではなく、記号にすぎない。 私の失敗にこういうことがあった―- フランスのシャルル・ドゴール空港を出ると、毎年のようにホームステイしていたフランス人夫妻が私たち夫婦を出迎えていた。出迎えの人だかりの中に彼らをすぐに見つけた。 1年会わないうちにムッシューの方が一回り大きく太っていた。思わず私は言った。「おおきくなりましたね!」(動詞grandirを使った) すると、夫妻がゲラゲラ笑い出した。あなたは大人が小さな子どもに「坊や、大きくなったね」という言葉を使っている。太ったのはgrossirだよ、と言うのだ。それを聞いて私もいっしょに大笑いしてしまった。小さな日本人が大きな太ったフランス人をつかまえて「坊や、大きくなたね!」と言い放ったのだから、自分でも可笑しくてふき出してしまったのだ。 Grandirもgrossirも生活の中で覚えていれば、いとも簡単に使いこなせるのだ。 その失敗の後はちゃんと使い分けている。単語としてではなく、生活の中で覚えた言葉として、である。
January 28, 2006
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ホリエモン事件の一番の問題は、本人の能力を超えた規模の金額を掻き集めることだけが、堀江個人の「企業目的」だった点にある。 企業は社会的に貢献する事業でない限り、必ず破綻をきたす。あるいは、社会に貢献する企業に見えても、その実態が反社会的であれば、破綻をきたす。 三菱自動車が20年を超える間、リコール問題を隠し、欠陥車を市場に出しつづけた挙句に、結局はつまずいた実例をすでに私たちは見てきた。 雪印問題も同様であった。有害食品を世に出すような食品会社は、社会的には受け入れられないのである。 ホリエモンは誰にも感謝されずに、多くの人の恨みをかって幕を閉じた。
January 28, 2006
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私たちはいくつかの方法で自己表現をしている。行動もそうであるし、音楽や絵画といった創作活動によっても自己を表現している。しかし行動を別とすれば、それらは言葉に比べ、はるかに不完全であることは否めない。 たとえば、音楽で悲しみを表すことはできるが、なにが悲しいのかを表すことはほとんど不可能といってよい。より完全に表現しようとすれば、言葉による補足がどうしても必要である。 絵画についても同じことがいえる。たとえば言葉による補足なしに、あるいは観る前に何ら情報を与えられずに、ピカソの「ゲルニカ」を鑑賞することは不可能に近い。 自己表現に有効な言葉は、自分の考えを述べることにかけては他の表現手段に比べ、抜群の強みを持っている。
January 26, 2006
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ずいぶん長い間、ブログの日記をやすんでしまった。しいて理由を挙げれば、2月末に出品予定の80号の油絵に没頭していたにすぎない。 きのう、久しぶりにNHK第2ラジオの英会話の冊子を買った。自分で英会話の本を買ったのは生まれて初めて。 ページをめくって見ると、90%は知っている単語ばかり。ところが話せない。10%も話せない。自分が活字世代の人間だということを改めて認識した。今となってはそれが情けない。 だったら、なんとかしゃべれるようになってみようじゃないか。と、開き直っても、ラジオ英会話程度で上達するはずはない。
January 25, 2006
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第4回新春スペラ大会はみんなに喜んでもらえたようだ。優勝者からはメールが入って、3月から例会に出席するという。 横川さんには賞品でずいぶんお世話になった。 協会の会長も、手術後だというのに自分で車を運転して、賞品授与に駆けつけてくれた。 さいわいに金田さんのシフトが日曜と火曜に休みが取れるようになって、今後の活動もしやすくなるだろう。 金田さんにからは英会話を習って、私もなんとしても英語が話せるようにならないといけない。
January 11, 2006
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フランスの数の数え方をめぐって、石原都知事がフランスは時代遅れもはなはだしい、と言い放って在日フランス人から抗議を受けたことがあった。 石原都知事は、フランスの数の数え方は十進法になっていない、というのである。確かにフランスでは、たとえば80は4×20(quatre-vingt)といい、90は4×20+10(quatre-vingt-dix)という。 しかし石原都知事は3つ間違いを犯している。一つは、フランスは十進法で数字を処理している。数字の読みが十進法を使っていないように聞こえるだけである。89を「はちじゅうきゅう」と日本語でいうのと、フランス語で「カトルバンヌーフ」というのでどれだけの差があろう。書くときはどちらも算用数字で89と書く。 二つ目。フランス語に比べ、いったい日本語がどれだけロジカルにできているだろう? 文法の決定版ができないほど日本語の文法は非合理的な構造になっているではないか。未成熟なのは日本語の方ではないか。 三つ目。石原都知事は2年ほど前に東京は外国からの観光客を増やす、と宣言した。フランスの文化を否定するような都市に、果たしてフランス人の観光客が来る気をおこすだろうか。放言ばかりでは戦略は機能しない。
January 6, 2006
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ブッシュ米大統領は1月5日、テロとの戦いに勝利するには米国民の外国語能力を向上させることが急務だとして、幼稚園からアラビア語や中国語などの教育に力を入れる「国家安全保障語学構想」の導入を発表した。 兵士や情報機関の工作員、外交官らが派遣先の国の言葉や文化を理解することが重要だとし、2007会計年度分として1億1400万ドル(約132億円)の予算を議会に要求すると表明した。 日本は従来から国家戦略がないと思うことがしばしばだが、さすがにアメリカは違う。相手国で何かをするには、ことばと相手国の文化に対する深い理解が欠かせないのだ。 アメリカを別として、相手国のことばで交渉ができる人材が日本にどれだけいるだろう。ことばは武器よりもっと利用価値が高いのではないだろうか。
January 6, 2006
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JR山手線に乗った。大学入試の広告に目が止まり、唖然とした。東京工科大学の入試は文系教科2科目または3科目の選択で可能なのだ。 学部はバイオニクス学部、コンピュータサイエンス学部、メディア学部の三学部である。 数年前、理工系の大学で、中学生レベルの数学ができないという学生が数十%もいる、という実態が明らかになって、問題になったことがある。文系の教科だけの受験科目で入学できるとすれば、その問題はまだ未解決のままだ。 メディア学部はまあいいとして、残る二学部の学生が数学や物理、生物の勉強もしないで入学し、そして卒業して果たして就職が可能であろうか?
December 28, 2005
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「改革」という掛け声に多くの人が共鳴した。「平和」という言葉に誰も反対しないのと同じである。 しかし「改革」の実像が見えてこないとき、あるいは予想された各論としての改革とは内容が違ってくると、「改革」という言葉と現実とは呼応しないものとなり、「改革」は記号化する。 「郵政の改革なくして小泉の改革はない」。この言葉はすでに記号化している。記号化した言葉に威力は無い。それを発した者の強権によってしか推進させることはできない。 そこで発言者も追従者も「改革」をしたという「形式」にこだわるようになる。そして「改革」は「形式」という二次汚染によって、実体の捉えにくい後遺症をよぎなくされる。
December 20, 2005
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企業でいえば、社長の心の中で考えられていたことが、言葉として表現され,具体的な指示となる。そして何かが指示どおりに実行される。 言葉の一番大切な機能は、実際の行動として実を結ぶことである。 政府の場合も同様である。が、言葉は扱い方次第で死語になることもある。 例えば「改革」という言葉はどういう結果を招いたであろうか。
December 19, 2005
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心の中で言葉が形作られていき、最後に表現(文章、話)に近いものとなるその過程は「考える」という行為と同じなのだ。 国語が重要であるというその意味するところは、国語の習得レベルにしたがって、考える力が左右されるからだ。国語力が低ければ、考える力も弱くなる。(旧文部省は義務教育で、考える力を身につけることを教育目標に掲げながら、国語の時間を削減した。文部省には考える力がなかったのである)
December 17, 2005
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たとえば、私たちはよく組織内で「あいつは問題意識がない」と非難めいた口をきく。そのとき、抱えていている問題を将来に向けて解決していこうという気持ちがないことを非難している。 「彼には悪いことをしたという意識がない」と言ったりもするが、この場合も「いずれ彼は謝らなければならない」という意味を含んでいる。 もちろん罪悪感が欠落しているという意味で「彼には悪いことをしたという意識がない」という使い方もするが、この場合は「罪悪感が欠落しているから、彼には(将来とも)謝る可能性がない」と認めている。 前者の場合は「悪いことをしてしまった。なんと言って謝ろうか、、、」といった具合に、心の中で将来の行動に関連して、言葉が形作られていく。それは彼が将来発するであろう、あるいは手紙に書くであろう言葉に近い、いわば下書きのようなものである。
December 16, 2005
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かりに、過去に記憶された断片的な単語や文章構造が意識や欲望に触発されて心の中でまず、一つのまとまった言葉になるのだとすれば、その意識そのものはどう説明すればいいのだろう? 意識については、ひとまず「未来に向けて、個人が何かを欲求する心的状況」と規定しておこう。
December 16, 2005
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中期的に言葉の構造的なことについて考えてみたい。これは長年の私自身の宿題である。とりあえずは断片的なことになろう。 言葉はどこから出てくるのか。意識からなのか、記憶からなのか、それとも? 意識と記憶が深くかかわっていることはたしかだが、それがどう絡み合っているのか? 過去に記憶された断片的な単語や文章構造が、意識に触発されて心の中でまず、一つのまとまった言葉になるのではないか?
December 14, 2005
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無料配布のCNNニュースのCDをここ一週間かけつづけている。虫食い状態に聞こえていた英語が少しづつつながってきた。うれしいではないか。
December 13, 2005
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ゲームとは何か? テレビ・ゲームだけがゲームではない。ボード・ゲームもあるし、株もゲームといえる。 戦争もゲームだ。 ゲームの第一の要素は、勝負だ。それをめぐって争う。 第二の要素は何だろう? 大逆転だろう。 個人対戦のゲームもチーム・プレーのゲームも、大逆転が興奮を呼ぶ。ゲームに興奮がなかったら、ゲームとは言い難い。だれも見てはくれない。野球しかり、サッカーしかり。 3番目にくるのは運。野球でもサッカーでも運が勝負をきめる。運に見放されたプレーヤーは惨めだ。 次ぎにくるのが駆け引き。戦略・戦術といってもいいだろう。 スペラだって2人づつが組んで戦う時は戦略・戦術がモノを言う。個人戦では頭の柔軟性だ。
December 12, 2005
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英語スペラの本来の在り方は英語教材だが、十分ゲーム性もある。だから大人たちの間にもスペラ愛好家が現れる。 しかし、同じ100枚のアルファベットを使って、徹底的にゲーム性を追求したもう一つ、別の遊び方があるにちがいない。 これは、スペラの原考案者が考えるより、別の頭脳で創り出した方が面白いゲームになるにちがいない。 前者はブランデーなど飲みながら、ゆったり優雅にゲームを楽しむスペラ。もう一つは挑戦的で、人間が貪欲なまでにエキサイティングになるゲームだ。スペラの仲間に提案してみよう。
December 11, 2005
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地域の学び推進機構の説明会に出席。同機構が推進する「学びのポイントラリー」活動の実態を掴むことができた。 小・中学生が真面目に教科外の勉強をするには、まだプログラムが不足している。地域の学び推進機構が動き出してまだ日が浅いので、やむをえないことだが。 英語スペラも「学びのポイントラリー」のプログラムとしては、もう少し肉付けが必要であろう。 いずれにしても、子どもたちの「人間として、社会の中で、自立して力強く生きていく力」を育もうという基本路線には、われわれも賛成である。
December 10, 2005
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英語スペラをするなら英会話がきっと必要になると思う。できなくとも、いっこう差し支えはないのだが、この際、挑戦する気になった。 英会話に挑戦する気になった理由は、ほかにもある。 第一に、もうフランスには行かないと思うので、仏会話を忘れてもいいと思うようになった。 第二に、5年、10年とカルチャースクールの英会話に通っても、依然として話せない人が多いという。それなら、スクールに通わないで、英会話を身につけることに挑戦してみよう、という気になった。 というと、いかにも自信がありそうだが、それはまったくなし。さてどうなるか。お楽しみに。 まず、自分を英語漬けにしてやろう。
December 9, 2005
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明日,6時半から東大の教育学部で説明会が開かれる。英語スペラもこの組織に参加し、スペラ協会の例会を子どもたちに開放した。 しかし第1回はいつもの例会のメンバ^-だけだった。まだ組織的な活動が効果を上げていないのかも知れぬ。説明会でその辺の事情をよく把握しておかねばならない。
December 8, 2005
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スペラはゲーム中すべて英語でプレーする。それが理想だ。 ところが、日本人の英語は「ちょっと席をはずしてくれませんか」と相手に頼むとき、「席」とか「はずす」という日本語に振りまわされてしまう。 したがって、発想的に英語にならないような文ができる。 こうした点につてはほとんどの会話参考書で指摘されているが、読み飛ばされてしまう。現実の英会話教室でも、聞き流されてしまう。 ここを何とかせねば、とスペラの仲間のひとりが新しいスタイルの英会話指南を始めるらしい。
December 7, 2005
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ビジネス発想法でいけば、なぜ改革が必要なのか、その問題点を明確にするところから始まる。 そこを問わずに、一本化や統合でごまかし、ごまかされるから、事態は少しもよくならない。いつもしり抜けだ。 全国すみずみまで談合で税金の垂れ流し。 天下りが予算の膨張を招いてきたことを、知っていて、知らない振りをするのか、ほんとに知らないのか、面倒だから知らん振りをするのか、、、ムッシュー小泉は人相もわるくなってきましたね。
December 5, 2005
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毎月第一日曜の午後、スペラの好きな連中が集まってスペラで遊んでいる。子どもが英語嫌いにならないように考案されたゲームが大人に取り上げられた格好だ。 もちろん子どもも参加しているが、子どもの数の方がすくない。今日も会員が一人増えたが、大人なのである。 興味のある方はこちらからどうぞ. http://www.spella.jp
December 4, 2005
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明日はスペラ・クラブの日だ。まえまえから気になっていた日本スペラ協会のホーム・ページを全面的に改装する。 アクセス・カウンターを見ると、様変わりにアクセスが多くなっている。学びのポイントラリーも明日から始まる。
December 3, 2005
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スペラの仲間と銀座で食事、これからの普及活動の展開の話で盛り上がる。 英語のゲームだけでは芸がない。その点では問題意識が一致している。ゲームの他に英語のどの部分を教えるのか。 子どもたちには英語に興味を持ってもらうために、まずモチベーションを与えることが大切なのだ。でも、どんな方法で? 早くそれを整理しないと「英語ゲーム教室」が始まってしまう。
December 2, 2005
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スペラのルールは最初の1970年代からすると、ずいぶん進化した。それでもまだ食い足りない。 ピリっとした面白さがもう一つほしい。17のアルファベットで完全な文章を作ったときには、特別の点数を与えてもいいと思う。
December 1, 2005
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よくミスをおかす年齢になった。納品書に11月30日と書くべきところを、10月30日と書いて取引先に出してしまった!! 羽生善治の「決断力」を読む。われわれは「継続こそ力なり」とよく言われたり、言ったりもした。羽生は同書の中でもっと相手にわかりやすく、次のようにくだいて言っている。 「才能とは、同じ情熱、気力、モチベーションを持続することである」
November 30, 2005
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株のオンライン取引が盛んである。個人の参加を求めていた証券業界だったはずだが、オンライン取引の隆盛を嘆く業界人の発言が目立つ。 株は買った会社の成長を楽しみながら長期保有し、配当と値上がりで利益を享受するのが本来の姿なのに、ちょっと上がれば直ぐに売って利ざやを稼ぐだけだ、というのである。 この話だけを聞いていると、もっともな意見だと思いがちだが、おかしな話である。株取引の大衆化を願っていたのだから、喜ぶべきではないか。 オンラインというシステムができたのだから、それを利用して大衆が儲けようとするのは、ごく自然な成行きである。前記の意見は、旧システムから早く脱しえなかった大手証券会社が、顧客をオンライン専業の証券会社に取られた嘆きに聞こえる。 新しいシステムができるなら、それを破壊できないかぎり、その新しいシステムを早く使いこなして新たな利益を追求していくしかない。大手証券会社はそれを怠ったのである。 オンライン専業証券会社の取引システムと大手証券会社が採用しているオンライン・システムとは、利用者側の使い勝手とコストの両面で天地ほどの差がある。大手の完敗なのだ。
November 29, 2005
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もう一度ムッシュー小泉純一郎の「改革」の問題に戻ろう。 ぼくたちは何かをしようとするとき、例えばビジネスであれば、目標が明確でないと具体策を立てることができない。槍ヶ岳に登るのか、高尾山に登るのかで、登るまでの準備・行動がまるで違うのと同じである。 それは政治でも同じだ。着地点が見えないマニフェストだけでだれが信頼するだろう。 売上を10%伸ばそうとするなら、新製品を投入するとか、取扱店を増やすとか、セールスマンを増やすとか、などなど、売上が確実に伸びる具体的な仕組みを作り、その上で関係する人間が目標に向けて動き出す。その結果、売上を10%アップという目標が達成されていく。 ところがムッシュー小泉純一郎の場合、企業の「売上の10%アップ」と比べ、改革という言葉自体が抽象的である。抽象的な言葉は、万人がその内容を同じようには描いてはいない。 したがって、多くの人が同じような具体的結果を期待できる、あるいは描くことができる補足が、どうしても必要になる。つまり具体的な目標とそれに辿り着くための具体的な手段が明確でなければならない。 ムッシュー小泉純一郎は、改革の結果が具体的に引き出せるような手段を明確にしていない、あるいは、手段を明確にすることができない。企業活動におけるような具体的な目標設定もなければ実行計画もない。掛け声だけの「改革」しかないのである。したがって「改革」したはずの道路公団が、「改革」された後も同じように公団自体が談合を継続してかかわっていても、それは少しも不思議ではない。つまり改革無き「改革」を形式的に「断行」していたにすぎないからだ。 結果が見えていない人間に任せると、ロスはさらに大きくなる。 ムッシュー・カルロス・ゴーンが日産自動車の改革に成功したのは、末端の現場まで下りていって、何をしなければいけないか、何をしてはいけないか、それを自分の目で確かめるところからスタートしたからだ。
November 28, 2005
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姉歯設計の崩壊マンションの問題も、ムッシュー小泉純一郎の「改革」問題と同じである。格好が整っていれば、結果の実体がどうあろうと構わない、、、 主客転倒している。実体の方が重要なのに、形式で糊塗されてしまうのだ。 偽装マンションを買う庶民が悲惨な苦しみに突き落とされる「実体」があるからこそ、「検査」という「形式」が幾重にも制度上は作られている。 ところが検査は、規定通りに事実が進行するか、あるいは進行したか、を問題にするのではなく、「形式」が規定通りに「整っているか」のチェックで終わる。 不祥事や事故の多くの原因がここにある。不祥事や事故は企業レベルだけではなく、自治体レベルでも、国家レベルでも起き、取返しのつかない重大な事態を引き起こしかねない。 言葉を軽く扱ってくれては困るのだ。
November 27, 2005
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いま問題になっている有識者が押し進めようとしている天皇性の換骨奪胎的結論は、各方面で反対の声が上がっている。 そもそも政治家は何か新しいことに手をつける度に、「有識者」に意見をまとめさせているが、それ自体がおかしい。 有識者とは何か。単なる世間知らずではないか。(1950年~60年代には有識者ではなく、「進歩的文化人」だった) 彼らの意見を今度は政治家が自分のやりたいことをするときに、「有識者の意見でも云々でして」という具合に、自分の意見支持者として、時には有識者の意見をまげてまで利用する。 その後を今度は官僚その他が寄ってたかって、利用する。 そういう構図の中で庶民の真実の意見はいつも蚊帳の外になるのだ。 「改革」を旗印に登場したムッシュー小泉純一郎は、そういう構図に手をつけずに、道路公団を「改革」し、郵政省を「改革」し、それが篭脱けでも得意顔をしている! ここにおいて「改革」の2字は、言葉だけが存在し、実体がうやむやになってもお構いなしという、庶民としては誠に悲しい風潮を助長させることになった。 政治家どもよ、もうちょっと日本人らしくしゃんとしなさい!
November 26, 2005
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日本人は伝統という言葉が好きだと思う。 その日本人が皇室問題では「伝統」を「制度」に変えてしまった。男子直系できた皇室において、女を天皇にすることで王位継承者を沢山つくり、「これで継承者に困るようなことは無くなり、皇室は安泰だ」と「有識者」は自画自賛の体だが、もともと伝統などというものは、外部からとやかくいわれる筋合いのものではない。 つまり皇室が自分で勝手にきめればいいことである。 外部から何をいわれようと、しきたりを継承していくうちにうまれる、あるいは基本を変えないところから生まれる価値、それが伝統だ。 伝統は変えるべきではなく、変えなければならないのは制度だ。 政府は皇室のことなど放っておいて、早く官僚の天下りという制度を変えるべきだ。
November 25, 2005
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